目は心の窓

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 ある学校で、講座を履修したことがありました。社会人に開放した講座で、特急電車に乗っては、《知的刺激》を求めて一年間通いました。

 その時、相手と対座して、互いに言葉を交わしながら、相手の良い点を発見し合うゲームが行われたのです。カウンセリングの技術の実践でした。相手に何を言ったのかは忘れたのですが、このご婦人が、『歯が綺麗ですね!』、と他に良いところがなかったのか、普段は唇を詰むんでいて、見えない歯に関心を寄せてくれたのです。

 『俳優のWに似てますね!』、『歌手の誰それに似てます!』とかは言われたことはありましたが、歯を褒められたのは、一度きりでした。歯だって、大切な体の部分で、朝起き抜けの一番で、最近は歯磨きを励行しているのです。家内が、そう勧めてくれたからです。『睡眠中に、口内は雑菌だらけになっているから!』という理由でです。食後の歯磨きよりも、効果があるそうです。

 また、歯を褒められそうですが、前歯の一本は、若い時に、ビールの蓋を歯でこじ開けていた友人の真似をしたせいでしょうか、在華中に、高いお金を払って義歯一本を入れることになってしまいました。帰国後、それを入れ替えたのです。前歯は治療ではなく、美容になるっていうのもおかしなことですね。今度、歯を褒められたら、たいまい〇〇万円も払わされたのをほめてくれるのでしょうか。

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 上の兄が訪ねて来ていて、『銭湯に行こう!』と誘われて、近所の銭湯に行った時のことです。もう30年も前、もうなんでも昔話になって、新体験の少なくなった年齢になった証拠ですが、午後だったので、空いていたのです。一人のおじさん、自分たちも十分におじさんでしたが、湯に浸かりながら、ちょっと無遠慮にジロジロと、私たちを見ていたのです。

 この人が、何を言うかと思ったら、感心しながら『目が綺麗ですね!』と言ったのです。街の歴史を語ったのでも、世間話で会話をしたわけでもなかったのに、唐突な感じで、そう言われたわけです。目も褒められたことは、ついぞなかったので、これもちょっと驚いたのです。

 『目は心の窓!』とか、『心の鏡』と言うのを聞いていましたから、『心が綺麗ですね!』と言われたようで、これは嬉しかったのです。若気の至りで、お酒に酔って、濁ってトロンとした目つきの時もありました。憎しみを込めて睨みつけたことも、苛立った目も蔑みの目もありました。涙だって何度も流した目です。

 ほとんど使ったことはないのですが、「目力(めじから)」と言うそうです。人は、よっぽどの恥ずかしがり屋でない限り、相手の目を見ながら、言葉を交わして交わりを持ちます。目のギラギラしている人は、意思強固な感じがしますので、自分を奮起する時に、実際に目に力を集中させて、弱々しくならないように、敢えてそうすることもありました。

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police officer making a stop sign

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 初めての職場に、夜間の大学の法学部に通いながら、警視庁の巡査をしていた方がいました。いろいろな話を聞いた中で、犯罪性のある人は、目を逸らしたり、疾しそうな目配りをするのだそうで、〈目つきが悪い〉人は、要注意なのだそうです。そんなことを聞いてから、人の観察眼が冴えてきたようでした。

 それで、怪しまれないように堂々と街中を歩き、キョロキョロせずに、視線を泳がさないように、注意深く振る舞い、歩くように、私は努めて生きていました。でも、みうそんな振る舞いや見せかけの自分とはおさらばして、ありのまんまで生きています。この歳で、目力の強いジイさんなんて、気持ち悪がられるだけでしょうか。《涼しい目》が好いですね。

 

ぶつかり合いと関係回復が

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 [別れ]、これは悲しい出来事であります。どうしても避けられない父や母、親族、恩師たち、学校時代の友、仕事上であって知遇を得た方たちとの死別があります。『もう少し連絡を取ればよかったなあ!」と、遅きに失した思いで、悔やむことがあります。でも[再会]とか[回復(恢復のほうがいいですね!)]があるのは感謝です。

 一緒に働くように、まだ若い日に誘ってくださった大先輩が、入院先で召されたとの知らせを受けたことがありました。脂身の肉を、神経質に除いたり、冷たい物は避けて、食生活に、あんなに注意深かったのに、六十代で帰天されたのです。いっしょにボールを追いかけあった同級生が、二十代で病気で亡くなりました。七十過ぎて、カバンを持って、校門で待っていてもらって、ずらかりを何度も頼んだ友が、『突然夫が亡くなりました!』と連絡がきたり、甥がオートバイレースの事故で亡くなった知らせも受けました。

 喧嘩別れだってあります。和解の機会が遠くなってしまい、心残りで、どうすることもできないこともありました。聖書が正直な書物だと言うことが判るようにでしょうか、「激しい反目」の様子が、使徒153640節に記されてあります。

 『幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。』

 そのパウロとバルナバの反目、離反は、若いマルコが原因でした。『一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい。』とのパウロのことばが、マルコのいとこに当たるバルナバには受け入れがたかったのです。

 それで、2チームの伝道隊ができて、それぞれに分かれて伝道がなされていったのです。パウロが厳し過ぎたのでしょうか。それともバルナバは血縁のつながりを大切にし過ぎたのでしょうか、似た事例がよくあることです。つまずきは避けられないのです。でも、この反目は、キプロス伝道がなされ、伝道の拡散を生み出しています。そして、『連れて行かない!』と言ったパウロは、後になって、

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 『ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 2テモテ411節)』

 《役立つ働き人》となって成長したマルコを名を上げて、認めたのです。関係の軋轢、不和、または喧嘩別れなどは、伝道の世界の中でもあり得るのでしょう。私は、問題児だったのでしょうか、私が従った伝道者としての訓練の時期に、兄ほどの年齢の宣教師さんとの間に軋轢がありました。態度が悪かったのでしょうか、彼にも感情があって、彼が、ある時期から日本語を使わなくなって、英語で聖書勉強をするようになりました。理由は言いませんでした。

 急にでしたが、一緒に学んでいたアメリカ人の school mate を中心に学びがなされ、その急激の変化に戸惑ったのです。柔和な方でしたが、感情が傷つくことを、私が言ったのか、したのか、ご家族が気を害されたのか、〈パウロとテモテ〉のような師弟関係から、〈パウロとマルコ〉の他者関係に移行するむね告げられたのです。

 前にも記しましたが、私には、「日本主義」の強固な残滓があって、聖霊に満たされ、聖さへの願望がありながら、任せない、砕かれない思いが残っていたのです。それが、宣教師さんを胃潰瘍にさせた理由と原因者の一人の過去であったのです。それが取り扱われるためには、そんな不面目な対決があったことになります。

 その頃、銀座の教文館で、大きな教団の著名な一人の方と会いました。『君、宣教師に雇われているのでしょう。それよりも、僕らの神学校に入りなさい。奥さんは、私が経営している保育園で働いたらいい!』と言ってくれました。私は、宣教師さんとの関係について、第三者には、どなたにも相談したり、同情を求めたことはないのです。私は、始めた道、導かれた方法にとどまることにしたのです。

 そんなことがあった8年間の後、教会堂建設が行われ、母教会の献金で、会堂用地を買い、母教会のメンバーの建築士の兄弟が、会社を退職して、14ヶ月かけて、逐次与えられる内外からの献金で資材を買い、自分たちの手で会堂を建て上げたのです。宣教師さんたち、近い交わりの教会の宣教師や兄弟姉妹、同じ街の教会の建築会社で働く信者さんたちの助けがありました。

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 竣工して、献堂式が行われる前に、宣教師さんの後の教会を引き受けるようにと言われたのです。それに先駆けて行われた五月聖会で、アメリカの教会から三人ほどの牧師、日本で働く宣教師さん方、日本人牧師などからの按手で、家内と二人の任職式が持たれたのです。

 宣教師さんとは、関係が修復されたのです。そのために、兄や、よく私を特別集会に招いてくださった宣教師さんの関係回復の執り成しがあったのです。人と人が関わる伝道にだって、感情の行き違いや、爆発や不和はあります。でも素晴らしいのは、[和解]と[恢復]がなされると言うことです。

 66歳で、病気を得た宣教師さんは召されたのですが、召される前に、彼を訪ねた時に、彼も一言言いたかったのでしょうか。『準、自分の悪かった点を赦してほしい!』と言ってくれました。私も、自分の不従順や悪感情を詫びたのです。きっとふたりとも正直だからこそ、ぶつかり合うことがあったのでしょう。大切なのは、《和解》です。なぜかと言いますと、「和解の福音」を宣べ伝える者には、それが持ちめられ、しかもそれは必ずできるからです。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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サーカス

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 山の渓谷の中にあった家から、父が街中に連れ出してくれて、一度だけでしたが、兄弟たちと一緒に、「サーカス」を観たことがあります。大きなテントの中に階段状の客席が設えてあって、ちょっと高い席から、ピエロや空中ブランコや馬の曲芸があったのを観たのです。何か、パッ!と輝くように楽しかった記憶が残っています。

 ヨーロッパにナチスが台頭し、雲行きが怪しくなっていった1933年(昭和8年)3月22日に、「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツの「ハーゲンベック・サーカス」が、東京にやって来て、芝浦で催されたそうです。大所帯で、団員総勢約150人、動物が182頭の大きな一団だったのです。父が東京で23歳、母が山陰出雲で16歳の時でした。

 その公演の宣伝のために、西條八十が作詞、古賀政男が作曲し、松平晃が歌ったのが、「サーカスの歌」がありました。

1 旅のつばくら(燕) 淋しかない
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情

3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町

 郷愁を感じさせる懐メロです。ディズニー・ランドができてから、子どものためのイヴェントに変化があったのでしょうか、サーカスの公演の噂を聞かなくなったように感じます。街外れの空き地に大きなテントを張って、あのジンタッタ、ジンタッタというな鳴り物を聞かなくなってしまいました。

 井上良雄氏が著した、「神の国の証人 ブルームハルト父子」という著書が出た年に買って、三十代だった私は、一気に読んだのです。そこに「サーカス」の記事が載っていました。ドイツ南部のシュバーベン地方のメットリンゲンと言う村で、ドイツ敬虔主義派の牧師で、ヨハン・ブルームハルトと子のクリストフの物語です。

 この方の子どもたちは、その地方の大きな街に、国内留学をしていたのです。ある時、お父さんは、子どもたちの下宿先を突然訪ねるました。出張中だったのです。下宿の主人は、隠せなくて『息子さんたちは、サーカスを観に行かれています。』と正直に言って不在を告げたのです。それをお父さんが聞くと、『どれ私も行って観ることにしよう!』と出かけたのです。子どもたちを見下ろす特設の高いところの席に座ったお父さんは、みわたして見つけた子どもたちに、『お父さんも、ここで観てるからね!』と、大きな声をかけたのです。

 子どもたちは驚いたのです。父に叱られるとばかり思っていたのに、お父さんが、そんなことを言ったからです。当時、ドイツ敬虔主義というのは、この世の遊びなどを忌み嫌い、世俗から身を引いて生活していて、規律の厳しさが求められていたのに、父に内緒でサーカス見物をしていたから、自責があったのです。

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 ところが、後に、その弟の方のクリストフは、お父さんの後を継いで助手となり、牧師となるのです。どうも厳格なだけではない、一緒にサーカスを楽しんでくれた父親のあり方に、素敵な過去の体験があって、父の道を、自分も歩むようになった、そうクリストフは述懐しています。

 子どもの日々に、父親と共にした良い体験は、人の人生に良い影響力を与えるのでしょうか。私の父は厳格でしたので、悪さをすると拳骨をくらうことがありましたが、キャッチボールをしてくれたり、カルメ焼きを作ってくれたり、揚げ餅を作って、楽しませてくれたり、ドライアイスに入れたソフトクリームを買って帰っては、食べさせてくれました。遊びの体験を、よく父は与えてくれたのです。

 私は父に叱られて、父に悪態をついて、面と向かって責めたことがありました。父には父の過去がありました。その過去を責めたのです。それを聞いた父は黙っていました。そんなことが子どもの頃にあって、大人になったのです。ある本の中に、ある時、どなたが書いたのか記録しなかったのですが、一つの格言に出会ったのです。『父は父なるが故に、父として遇する。』でした。

 26で結婚した一ヶ月後に、父は入院先の病院で、退院の日に、突然召されてしまったのです。老いて行く父と、ゆっくり温泉に一緒に入って、背中を流して上げたかったですし、父の好物をご馳走して上げたかったのですが、できないままの死別でした。そう「父として遇する」を実践したかったのにです。

 この書の著者の井上良雄氏に手紙を書いて、読後の感動の思いをお伝えしたのです。すると井上氏は、シュバーベン語というドイツ語の南部の方言で書かれた、たくさんの資料を送ってくださいました。『簡潔に記されていますから、読んでみてください。』と仰られたのです。そんなバルト神学者との出会いがあって、今日に至っています。

 十九世紀のドイツの地方の牧師の生き方に、強烈な影響を受けたのですが、ちょっと生き方の真似をしてみています。中古の折り畳み自転車が、駐輪場に置いてあります。『主がおいでになられました!」というニュースが届いたら、自転車に跨いで、駆けつけるつもりでいるのです。このクリストフ・ブルームハルトの家の前には、いつも馬車が置かれていて、いつでも、主にお会いする準備ができていたことを知ったからです。

 馬車や自転車で駆けつけることなどないのですが、《再臨待望の姿勢》としての真似なのです。一人一人、任された場と時があって、それぞれが生きて行くわけです。自分の人生も、もう晩期に至り、親しい友も、同じように述懐して、メールがきています。どうも《締めっくくり》を考えることが多くなってきています。少なくとも子たちに、自分の過去や考えを知らせたくて、書き始めたブログですが、明るい復活の望みのある未来があっての、私の過去と今とを記しているのです。

(「サーカスのテント」、「シュバーベン語の看板」です)

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散歩道に咲く花

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 台風の影響の大雨の後、ここ栃木の昨日は、青空が広がり、散歩日和でした。散歩道に咲いていた花々です。四月、五月には花盛りといった感じでしたが、今は紫陽花が、多くの家の庭先に咲き出しています。もう間もなく、大平山の登り口で、紫陽花が咲き誇ることでしょう。

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再びおいでになるイエスさま

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Jesus Christ is talking to you.

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 聖書の学び方、説教の仕方、パウロの宣教の動き、教会の誕生、終末の出来事などなど、さまざまな真理を、恩師が8年間教えてくれました。出来のよくない弟子でしたが、骨子を学ばせてくださったことには、今もなお感謝が溢れます。

 ある日の聖書の学びでした。コンピューターが、使われ始めてすぐの頃のことだそうです。聖書の記事を入力していた時に、ある発見をしたのだそうです。コンピューターがはじき出したのは、人類の歴史の中に、「太陽が動かなかった日」、「日時計が止まった日」のあることを知らせたのだそうです。それで、聖書が紐解かれたのです。

 『主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。 主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。(ヨシュア101214節)」

 ケンブリッジ大学のある学者は、『これは、日蝕だったのだろう。』と、科学的に結論しています。聖書が記す奇跡的な記述を受け入れない人たちは、神話、信仰の熱心さが高じて、非科学的なことが記されているのだ、とも言います。

 そして、もう一ヶ所、預言書の中に、次のような時事があります。

 『「行って、ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。 わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、この町を守る。』 これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたこのことを成就されます。 見よ。わたしは、アハズの日時計におりた時計の影を、十度あとに戻す。」すると、日時計におりた日が十度戻った。(イザヤ3858節)』

 聖書の記事によると、神さまが《時》を定め、それを動かし、変更するお方だと言っているのです。支配や統御の範囲が、時間にも及んでいることを知って、聖書を読み始めて驚かされたのが昨日のようです。

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 また、コンピュターが出始めた段階で、長く広く読み継がれた聖書の記述の内容にまで、コンピューターの追跡が及んだと言うことに驚かされたのです。聖書が神話や、人間によって編纂されたものではないことを、コンピューターが答えを出したと言うことでしょうか。

 溢れる情報の中で、真理も虚偽も人間の創作も、創造の神への疑いから起こりますが、聖書が、神の言葉であることを、もうコンピューターが出現して間もない頃に、失われた日や時のあったことを突き止めたと言うことなのです。人の常識を超えた、神さまの意図が判るなら、私たち人は、頭を垂れて、神ご自身を受け入れなければならなくなるのでしょう。

 やがて、「世界政府」が出現するだろうと、恩師は聖書から教えてくれました。定められた「時」、「出来事」があると言うのです。全人類の情報を集め、一人一人の個人情報を記録し、掌握し尽くす政府とは、どんな形で出現するのでしょうか。でも、神の子で、死から蘇られたイエスさまは、「万軍の主」、「栄光の王」として、再びおいでになります。主に会う備えをするのは、今の恵みの時であります。

(“ キリスト教クリップアート ” のイラストです)

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強い!

 

 

 強い!

 たまには弱い

 泣くこともあって

 それでも忍耐

 超えた人の意地悪、妬み、ライバル意識、蔑み、羨望、誤解

 人は、やはり人

 いろいろ、さまざま、多種多様

 でも善い人がいた

 異国の地で病んだ

 敬意と愛で慕われ支えられおぶわれ

 そこで入院した

 帰国、即入院

 恵まれた善い医師、看護スタッフ、友、そして家族

 退院、通院、継続した治療

 そして今は3ヶ月ごとの検査通院

 副作用か後遺症かの症状

 でも耐えている

 人が好きだ

 近傍の独り身の知人を訪ねる

 何かを携えて

 一人の残された妹への気遣い

 本が好きだ

 図書館通い

 週一のデーケアー

 楽しかったと帰ってくる

 泣いても笑う

 健気に闘う

 耐えられない試練なし

 聖句と自撮りの写真で4人の子たちを激励する日々

 弾きに行く時々の駅中ピアノ

 この街に主への賛美が満ちるを願い

 ときどき拍手があるそう

 細かく日常を記す

 病んだ十代で受けた宣教師の愛への感謝

 師は師

 子や孫や妹や友への祈り

 ときどきのありがとう

 来週一緒に礼拝を守った若き友が見舞いに来るそう

 二度目の遠路の来訪

 友は友

 今の時を大切に生きる

 義の右の手でしっかり握られている

 幼い日に信じた神

 ずっと近くにいてくださった救い主

 どんな時にも支え、抱き、引かれてきた日々

 愛に満ち不変の神への信頼

 聖霊の喜び

 『恐れるな!』の静かなみ声

 神は神

 あなたの母、あなたの祖母、あなたの友、そして私の妻

 だから、負けない

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(近くの公園で蓮池の中、カラーの水滴です)

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[memory]遥かなる時を思い出して

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1963年の春に、こんな歌が、若者たちの人気を得ていました。映画の主題曲だったのです。

1 アカシアの 花の下で
あの娘(こ)がそっと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
怨みに濡れた 目がしらに
それでも涙は こぼれて落ちた

2 北国の 春も逝(ゆ)く日
俺たちだけが しょんぼり見てた
遠い浮雲よ
死ぬ気になれば ふたりとも
霞の彼方に 行かれたものを

3 アカシアの 花も散って
あの娘はどこか おもかげ匂う
赤いハンカチよ
背広の胸に この俺の
こころに遺(のこ)るよ 切ない影が

 その年の初夏、大手の乳業会社の製造工場で、アルバイト募集があり、履歴書を書いて応募しましたら、OKが出て、夜勤で一夏を過したのです。市乳部門で、45本の牛乳瓶の入った、けっこう重い木製のケースを、製造部からベルトコンベアーで送られてくるのを、冷蔵庫の床に種類に応じて積み上げていくのです。

 翌日の配送のために、8つくらいのレーンがあって、指定通りに、翌朝の出荷に合わせて、積んでいく作業でした。お手のものの肉体労働で、初めはぎこちなかったのですが、すぐに要領を覚えて、15段も16段も放り投げて、瓶を割らずに積むのです。『牛乳は、いくら飲んでもいいからね。ただ瓶は割らないで!』と言われたのですが、そんなに飲めませんでした。でも、あれで丈夫な体作りができたのかも知れません。

 法政、中央、横浜市立大、専修、明治学院などから来ていたアルバイトでした。仕事の合間、休憩時に、取り止めもない自慢話や、経験談を話し合ったりしていたでしょうか。流行歌を歌ったり、相撲をとったりしましたが。明日の雨の予報の夜は、製造量が少なかったのですが、暑い日には、明け方近くまで作業を続けていました。

 事務所の女子職員の制服のポケットに、だれが書いたのか忘れましたが、ラブレターを入れたりしましたが、けしからん悪戯でしたから、恋は実りませんでした。恋も、春の北国に行く計画も、実現できずに来年こそはで、お預けの4年間だったのです。34年生の頃は、朝のバイトもあって、伝票に従っての出庫もしたのです。

 1963年夏、みんなで、だれ歌い出すともなく、この「赤いハンカチ」を歌い出すと、みんなが合唱したのです。大声の私たち『学生なんていい気なもんだ!』、奄美大島や秋田などからやって来て社員になっていた、同世代の社員が羨ましそうに聞いていました。

 そんな様子でも、みんな学生の自覚があり、自分の学校の看板を背負っていましたから、上手下手はあったのですが、プロに負けない仕事をしていました。主任さんにほめられたのが嬉しかったのです『来年も来てね!』と言われて4年の間、同じ工場で同じ仕事をしました。交替勤務でしたから、待機していた1年生の夏、よく裕次郎を歌いました。それが、この「赤いハンケチ」でした。

 計算に弱いのですが、もう60年も経って、記憶は薄れるのに、この季節の夜風が運んでくる空気の匂いがよみがえってきて、あの時の記憶を呼び醒ましてくれたのです。時は流れ、裕次郎も去り、工場への道も変わり、会社も無くなって、夢多き青年は、後期高齢者となってしまいましたが、懐かい思い出は格別なものです。それでもこれまでの間、北国には、数度出かけました。

(「赤いハンカチ」です)

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古き時代への思いが

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 日本には、一都一道二府四十三県があります。最後に県に編入されたのが、1972年に返還された沖縄県です。沖縄を主題にした歌に、作詞が吉川安一 、作曲が普久原恒勇「芭蕉布」があります。

海の青さに 空の青
南の風に 緑葉の
芭蕉は情に 手を招く
常夏の国 ()した島沖縄(うちなー)

首里の古城の 石だたみ
昔を偲ぶ かたほとり
実れる芭蕉 熟れていた
緑葉の下 ()した島沖縄(うちなー)

今は昔の 首里天(しゅいてぃん)ぢゃなし
(とう)ヲゥーつむぎ はたを織り
じょうのうささげた 芭蕉布
浅地紺地(あさじくんじ) ()した島沖縄(うちなー)
()した島沖縄(うちなー)
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 沖縄といえば、唯一の知り合いは、沖縄出身の福音歌手の新垣勉氏です。ずいぶん前になりますが、一度お招きをしたことがありました。実に明るい性格の方で、素敵な人でした。母親を捨てたアメリカ人の父親を、『アメリカに行って殺してやりたい!』という思いを、泣きながら聴いてくださった牧師さんと出会いが、感動的でした。今は赦せて、西南学院大学で学ばれて、牧師さんでもあります。

 家内は、一度訪ねたことがあり、同窓生が何人も沖縄の離島にもおいでだったようです。この沖縄は、日本でただ一つ、鉄道のない県なのだそうです。ところが、調べてみますと、戦争前には、軽便鉄道や馬車鉄道があったのです。30年もの間運行された歴史があるそうです。

 那覇港を中心に、この上の路線図のように鉄道があったのです。サトウキビを運ぶための運送目的でした。敗戦を機に、鉄路が払われてしまいます。その後道路整備が行われ、自動車による輸送に取って代わってしまいます。次のような歌を歌ったことがあります。

せんろは つづくよ どこまでも
のをこえ やまこえ たにこえて
はるかな まちまで ぼくたちの
たのしい たびのゆめ つないでる※

せんろは うたうよ いつまでも
れっしゃの ひびきを おいかけて
リズムに あわせて ぼくたちも
たのしい たびのうた うたおうよ

ランララララ ラランララララ
ラランララララララララ
ランララララ ラランララララ
ラランララララララ
ランラランララン ラン ラン
ランラランラランランラン
ランラランララン ラン ラン
ラン ラランランラン

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 きっと沖縄のみなさんも、この歌を歌いながら、鉄道の旅をしてみたかったのではないでしょうか。私の住む栃木県にも、石灰石を運ぶ産業用の鍋山人力鉄道、馬車鉄道があって、大変活躍していた時代があったそうです。今、住む家の前を、石灰岩を運ぶ人力鉄道が走っていたのだと聞いて、はるかに想像してみたりしています。東北本線の氏家駅から、喜連川(きつれがわ)人車鉄道があって、1902年から1918年まで営業していたそうです。その他にも、三毳山(みかもさん)にもあったそうですが、今は、こんな写真の汽車型遊覧バスが運行されています。
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 蒸気機関車になど乗ったことのない世代が、お父さんお母さんやおじいちゃんおばあちゃんに連れられて、蒸気機関車が運行される週末に、東武鬼怒川線や真岡鐵道(もおか)で、乗車が楽しまれているそうです。nostalgie(ノスタルジー)、古き良き時代への思いが呼び覚まされるのでしょうか。

(沖縄の路線図、記念写真、鍋山人車鉄道線路、三毳山のバスです)

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[街]浜北市(浜松市浜北区)

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 遠江浜北、今では、浜松市に合併されていますが、結婚した頃から、何年か続けて正月を、そこで過ごした思い出の地なのです。回り道でしょうか、逃げていたのでしょうか、《捕まえられた》のです。それが一番的確に、そのことを表していると思われます。首根っこを摘み上げられて、この世から、「神の国」に移された経験、イエスが「キリスト」であることを、分からされた日から、教会の日曜ごとの礼拝や季節ごとの聖会に、忠実に集い始めたのです。

 それまでは、信仰告白をし、バプテスマを受けたのですが、back slide していた時期に、九州の久留米に、上の兄を訪ねた日から、まるで cage の中に、ニワトリが〈追い込まれる〉かのように、私は追い込まれた素敵な世界でした。私の日常が変わっていき、悪い生活習慣から離れさせていただき、嘘のように変えられて生き始めた epoch  (基点)、さらに通過点の街なのです。

 JR浜松駅から、遠州鉄道で、西鹿島駅で降りた辺りが、浜北でした。東名自動車道のバス停で下車して、行ったこともありました。その近くに結婚式場があって、そこを会場に開かれた「聖会」に出掛けたのです。元旦に母教会で礼拝があって、新しい年を始め、その流れで、宣教師仲間の諸教会が、九州、愛知、東京、地元の静岡から、やってきて、そこで三泊四日ほどの会期で行われた「聖会」でした。

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 あの遠州の正月の空の青さ、空気のにおい、宣教師夫人の声掛けで、女性陣が食事を作ってくださって、会場や脇部屋や廊下の床に、シートやゴザを敷き、貸布団で寝ながらでした。宣教師のみなさんの友人や、母教会からの牧師や兄弟たち日本人の牧師や伝道者たちが、聖書からお話をしてくれたのです。みんな若かった!

 休み時間には、芝生の上でバレーボールをしたり、近所を探検、散歩をしたのです。街の様子は、ほとんど知りませんでした。その会場の結婚式場が閉鎖されてから、訪ねることはありませんが、ああ言った交わりに、圧倒され、祝された街でした。思い出の中に色濃く、強烈の残っております。福岡県の久留米市、そしてこの浜北市は、記念的に、特別に記憶されているのです。

 あの聖会を主催してくださった宣教師さんは帰天され、切り盛りしてくださった奥さまは、今年100歳になられ、アメリカのお子さんの家で、今も創建で過ごしていらっしゃいます。

(「青い空」、お土産に買った「うなぎパイ」です)

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苺落とし

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 仙台の青葉城を訪ねたことがありました。耳鼻科の名医がいると紹介され、鼓膜の再生手術を受けるために、四日ほど、市内の病院に入院したのです。聞きしに勝る手術の上手なお医者さんでした。そこを退院後に、この城を見学したのです。城跡に、独眼竜と呼ばれた伊達政宗の銅像がありました。

 武士の世界には、「元服(げんぷく)」という節目の儀式がありました。これは、「成人式」で、中国伝来の大人となる儀式でした。この政宗は、十一歳で「元服」をし、焚天丸(ぼんてんまる)から、「伊達藤次郎政宗」(だてとうじろうまさむね)と改名したと伝えられています。当時、元服年齢には、決まりがなく、各家よって異なっていたそうです。

 嬉々として遊び回りたい年齢の十一歳で、大人扱いをされては、随分と、こども時代が短かかったのではないでしょうか。武家の家では、それだけ、家督を継いだり、父の職を継いでいくことが重んじられ、「家制度」、とくに嫡男の男の子には責任が課されていたのです。

 それは、「自立」への大きな一歩であったのです。自分一人の力で生きていくことを言っているのが、自立、独立でしょうか。親の援助なしで、結婚し、家を構えるなら、それこそが自立です。それまでの親の援助に感謝して、生き始めたのが、22才でした。26才で結婚しました。それまで、家に「食い扶持(くいぶち)」を入れたのですが、父は大変喜んで、それを受け取ってくれました。

 最初に母親に渡した翌日、自分は飲まないビールを買っ来て、食卓に置いてくれました。それを夕食に添え、一緒に飲んでくれたのです。嬉しかったのでしょう。精神的な自立というのは、経済的財政的な自立こそが、実際的なことのでしょう。

 熊の世界に、「またぎ(東北地方・北海道で厳しいしきたりを守りながら集団で狩猟を行う人を言います)」がいますが、この方が言われる「苺落とし」という儀式があるのだそうです。

 野生の熊が、生きていくのは厳しいことですから、母熊は、人生の厳しさを教えるのです。冬眠中に出産して子育てを終えると、山の中に子グマを連れて行き、餌取りを教えるのです。この熊の大好物は、「苺」だそうです。新潟県の「エコミュージアム」の会報に次のようにあります。

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 『新潟県魚沼地方の里山も初夏の装いとなり、アザミの花や美味しそうな桑の実で彩られています。また定点観察地点(エコミュージアム園内ではありません)のオニグルミの実も写真の通り順調に推移しています。オニグルミの青い(緑色の)実はツキノワグマの大好物ですが、里山や河川敷、農道、人家周辺にある「桑の実(クワイチゴ)」もまた子グマの大好物です。ツキノワグマの親子(母グマと子グマ)は出産から約1年半の間行動を共にしますが、子グマが1歳の初夏の頃に「親離れ・子離れ」を迎えます。子育てを終えたメスグマはこの直後にオスグマと交尾し、秋以降の摂食状況(餌資源の獲得量)に応じて子宮内へ受精卵が着床するかどうかが決定されるようです。

 野イチゴが実る初夏の時期は「親離れしたばかりで警戒心の少ない子グマが観察(発見)されやすい季節」でもあります。「野イチゴの盛期」と「ツキノワグマの親離れ・子離れ(ひとり立ち)」を関連付けて、東北のクマ猟師の方々は「母グマが子グマに野イチゴの場所と食べ方を教え」「子グマが野イチゴの美味しさに夢中になっている間に母グマはそっとその場を去り」「初夏にツキノワグマが親離れ、子離れの時期を迎える様子」を、「クマの苺落とし」として情感たっぷりに捉えています。』

 熊の出没が、私が時々行く大平山にもあったと、この冬にニュースが伝えていました。もともとは、熊の棲息域だったのに、そこに人間が入り込んだのだと考えると、熊にとっては迷惑なのでしょうか。大きな音が嫌いな習性がるそうで、人に方が彼らを遠ざける努力をしたらいいかなあって思っています。熊だって生きていくのは厳しいわけで、子熊に生きる術を教え、生きていくための母熊の突き放し、一才半ほどの独立の促し、子熊にとっての「自立」は、親心、やさしさかも知れません。

 次女は、十五才でハワイの高校に入学するために、出かけて行き、親元を離れて行きました。その長男が、今秋大学に入学すると知らせてきました。家を出て、教会の dormitory で生活を始めていくようです。home school で学び終えて、これから家を出ていく息子を見送るのですが、母親は、どんな思いなのでしょうか。川を挟んだ隣町にある学校と教会に行くのです。教会の dormitory は、次女も生活した所です。この自立への一歩を祝福する祖父母の私たちです。

(「オニグルミの実」、「月輪熊」です)

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