終身之計

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中国では、「一年之計、莫如樹穀、十年之計、莫如樹木、終身之計、莫如樹人」と言われています(「管子」から)。和訳しますと、「一年の計は穀を樹うるに如くは莫(な)く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、終身の計は人を樹うるに如くは莫し」になります。穀物や樹木はともかく、人を育てるには、一生涯を要すると言っているのでしょう。

そうしますと、「教師」は、良い職業ではないでしょうか。手工者の手にある柳の若枝や、陶器師の手にある粘土の様に、どのようにも思いのまま細工できるのが、教育だと言えます。その教えを受ける私たちの学齢期、学生時代は、自在に曲げたり伸ばしたり、叩いたり潰したりされる年代なのです。ですから、どんな教育を受けるか、誰に感化されるかは、とても重要なことになるわけです。

戦後の平和な時代に、民主教育を受けることができたのは、私にとっては素晴らしい恩恵だったと思い返しています。「うちやませんせい」、「さとう先生」、「こづくえ先生」、「あべ先生」、「けにさん」、これらのみなさんが、私の<五大恩師>であります。病弱で欠席ばかりの集団行動のできなかった小二の私に、忍耐深く激励してくれました。日本や外国の歴史、そして社会の仕組みや機能を教えて興味を引き出してくれました。<魔の中二>の只中にいた私を叱らないで見守り続け、『よく立ち直りました!』と、中学最後の成績簿に書いてくれました。『詩心をもって生きていきなさい!』と五百番教室で語ってくれました。そして、人間とは何で、どう生きるべきかを、懇切丁寧に教えてもらいました。

土中から掘り出され、振るいにかけられ、水が加えられ、こねられ、叩きつけられ、ロクロの上に置かれ、ヘラで切られ、整形され、日陰で乾され、着色され(そうされないものもあります)、焼かれて、粘土は「陶器」となります。造られた陶器は、様々な役割をになっています。日陰の冷暗所に置かれるものから、宮廷の謁見の間に置かれるものまであるのです。あの恩師のみなさんは、時々、『あの子は、どうしてるだろうか?』、『さて、どんな風に出来上がって行くだろうか?』と、思っていてくださったのでしょうか。

(イラストは、”yahoo”からのものです)

『先生、さようなら! 』 ☞転載記事

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☆ 山村の教育に尽くした教師 、教室で死

甘粛省蘭州市郊外にある楡中県定遠鎮の水岔溝小学校で2月26日午後、6年生の生徒10人が教卓に白い花を飾り、黙祷を捧げた。皆が目を赤らめている。同校の教務主任で、6年生の作文の授業を担当していた劉万芳先生(57歳)は前日の25日、授業中に心臓発作を起こし死去した。貧しい山村の同地で、生徒の家庭事情に配慮しながら、最後まで教育に尽くした人生だったという。中国新聞社が報じた。

☆まずしい山村での教育活動に、生涯を捧げる

劉先生は1977年に、代用教員(民弁教員)として採用された。農村部の教員不足が深刻だった当時の中国で、学歴などが基準に満たなくとも、初等教育に従事する意思があれば、比較的簡単な審査で「臨時教員」として認めた制度だった。劉先生は山村部の同学校での教育活動に情熱を燃やし、1997年には正規の教員の資格を取った。

劉先生が33年間にわたり勤務した岔溝小学校は山間部にあり、現在の生徒数は73人。うち6年生は1クラスで10人だ。教師数は7人で、授業以外のさまざまな仕事を担当する。劉先生は多方面にわたる才能の持ち主で、鼓笛隊の指導、壁新聞の制作、生徒の絵画作成の指導、さらには、学校食堂の食材の買出しまで担当したという。

たまたま夫人が両足を骨折してしまったことと、自分の高血圧が思わしくないため、劉先生は5月中旬から10日間ほど休んでいた。しかし、生徒の作文を取り寄せて添削するなど、指導に影響がでることを気にしていた。生徒も劉先生のことが心配になり、家の用事で都合がつかない1人を除き、6年生の9人が週末の22日に先生の家を訪れた。劉先生は大喜びして、貧しい山村の家庭ではあまり食べる機会のないバナナなどをふるまってくれたという。

☆「子どもに迷惑はかけられない」

無理おして出勤再開 劉先生は24日、出勤を再開した。校長は劉先生の体を心配して自宅で休養を続けるよう勧めた。他の教師も心配したが、「父母が都会で金を稼ぐため、家を離れている生徒も多い。そんな子らに迷惑はかけられない」と言って、劉先生は自分の意思を貫いた。

中国は6月1日に児童節(子どもの日)を迎える。劉先生は、学校行事のことも気にしていた。24日の午後も、鼓笛隊の練習を指導した。同僚だった蒋先生は、「劉先生は、本当によい人だった。子どもたちと一緒にいると、まるで本当の家族のようだった」と、その死を悼む。

25日午前、劉先生はいつも通りに6年生の授業を開始した。教科書の課題文の題名「作文上的紅双圏(作文に書かれた二重丸)」を板書してから、教卓に向かって座り、説明を始めた。ところが10分ほどたつと、様子がおかしくなった。顔面が紅潮し、うつむいてしまった。息が荒くなり、教卓に突っ伏して動かなくなった。驚いた生徒が声をかけたが、返事はなかった。 生徒らは教室を飛び出し、別の教師を呼んだ。村の診察所から駆けつけた医師が劉先生に強心剤を注射した。劉先生は県の病院に急送されたが、病院の医師は午後1時、病室の外で待っていた同僚の教師らに、劉先生の死を宣告した。

☆「いちばん好きな先生だった」

泣きじゃくる生徒 劉先生が10日間ほどの休暇を取っていた時、作文の授業を代行したのは校長だった。「私にとって、もっともすばらしい先生」の題を与えたところ、6年生全員が劉先生のことを書いたという。「具合が悪くてお休み中ですが、先生は毎日、ぼくに電話をかけて、勉強のことを気づかってくれます。劉先生には『本当にご苦労様です』と言ってあげたい」と記した生徒もいたという。

翌26日午前、校長が生徒10人に、劉先生の死を告げた。泣きじゃくる生徒を慰めながらも、校長は自分自身の涙を押さえることができなかった。女子生徒の金亜莉さんは、週末に自分だけが先生の家に行けなかったと、泣き続けた。「お父さんもお母さんも都会に行ってしまって家にはいない。いつも話し相手になってくれたのは劉先生だった。風邪をひいたときにも、お湯と薬を飲ませてくれた」という。 同日午後、生徒は教室に整列して、劉先生に黙祷を捧げた。黒板には、劉先生が書いた「作文上的紅双圏」の文字がくっきりと残されていた。(編集担当:如月隼人)

(写真は、甘粛省の山村の小学校の教室です)

『元気に暮らしてるか?』

 

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「キャッチボール」という題の歌があります。平井堅の作詞作曲です。

夕暮れの坂道を 大きな背中と歩く
グローブを抜いた左手 皮革(かわ)の匂いが残る

どんなに加減しても あなたの球は速くて
逃げ腰の僕を茶化して 永遠に微笑んだ

「元気で暮らしてるか?」と
書かれた手紙 受け取る度に
独りでこらえた涙たち 止まらなくなるよ

僕の年頃にはもう あなたは家庭を築き
守るものがある強さに 僕はとてもかなわない

ごめんね この口唇(くちびる)は 嘘で誰かを傷付けるけど
いつもの優しい瞳で僕を 叱ってください

「元気で暮らしてるか?」と
書かれた手紙 越えてゆくため
今度は「元気だよ」と強く 返事を書くから

これは父親とキャッチボールをした記憶の中から詠んだ歌なのでしょう。私にも同じ記憶があります。着物に下駄履きの父が、グローブを右手にはめて、軟球を放り投げている姿が、鮮明に思い出されてきます。もう何十年も何十年も前のことです。まだ未舗装 だった家の前の坂道の上で、時々キャッチボールを、父としたのです。父は、四十代の盛りでした。

沢村栄治とかスタルヒンがプレイしていた時代のプロ野球のフアンだった父です。今のように様々な種類のスポーツのなかった父の時代で、メジャーだったのは野球だったのでしょう。きっと時間を見つけては試合観戦に行っていたに違いありません。『かっとばせ!』とか言って声援していたのかも知れません。

四人の男の子とキャッチボールをしてくれた時、ボールを投げるたびに、『大きくなれよ!』、『健康に育てよ!』、『愚れんなよ!』との思いが込められていたのでしょう。結構強い球を父が投げていたのです。そんな手の痛みの記憶が、ギリギリのところで、愚れきれなかった抑止力になっていたに違いありません。こちらにも<子煩悩なお父さん>がいて、一人っ子と遊んでいる光景を、よく見かけます。

あちこちで生活している息子たちや娘たちに、『元気に暮らしているか?』との思いを放っている6月18日の朝であります。

(イラストは、”ダカーポマガジン”からです)

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「掰」と書く漢字が、中国にはあります。日本語では、この漢字が使われた文を読んだことがありませんが、焼いた「餅」を、両手を使って二分する行動を、この漢字を動詞として、「掰开」と用いるのです。解字は、「右手」と「左手」で「分ける」で「掰bai」になるのです。「开」は、「開」の簡体字です。

この漢字を初めて見た時に、何を意味するかがすぐに分かりました。中国語の漢字は興味津々、実に意味が深いと感じております。白川静といわれる漢字学者がおいででした。漢字は、どのように成り立かを長年研究して、多くの辞書を編纂されておいでです。ただ本の価格がべらぼうに高いので、買って手元に置きたいのですが、なかなか決心がつきません。この本が一冊あったら、深い林の中に分け入るような思いを持って、日柄調べるのではないでしょうか。

白川静には、「字書」と書くこだわりがありました。「字通」、「字訓」、「字統」という三部作を刊行していますが、「甲骨文字」を読み解くという地道な作業、研究をされたのです。国語に関わる研究は東京帝大が牙城(がじょう)でしたから、関西の私学に学び、大学教授として教壇にも立たれた、白川静の研究成果が脚光を浴びることは少なかったようです。しかし、その功績は実に大きなものがあります。私の父と同じ年に誕生していて、何となく身近に感じるのです。

白川静の先輩に当たる新村出が編集した「広辞苑」が発刊された時、その一冊を買ってきてくれ、『辞書を引け!』と言ってくれた父が懐かしいのです。そんなこんなで、その後、ひっきりなしに分厚い辞書を引いていました。帰国したら、白川三部作を買って、日柄ページをめくろうかと思っています。あ、そうか、図書館で閲覧する方が、外出もでき、季節の移り変わりも目にできますから、その方がよさそうです。そうそう、図書館まで行くのに、自転車も手に入れることにしましょう。エコのためにも、健康管理のためによいかも知れません。

(写真は、「甲骨文字」ですーWM)

「父の日」

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「父の日」に、お祝いのメールをいただき、ありがとうございました。
K、N、M、Iの父親でいられて光栄です。
短気な親で十分なことがしてやれずに赦してください。
もう一度、父親を初めからできたら、
短気を起こしません。
山の中から海にでかける時、「イカの姿焼き」を一匹づつ、みんなに食べさせてあげたいと思っています。
財布を見ないで、そうします。
また、本を読んで上げます。
忙しすぎてしてあげられなかったので。
昨日、外国から電話がありました。
NYUに行った家族からもお祝いのメッセージをもらいました。
また、知っている方から、お祝いをしてもらいました。
「父の日」のお祝いということで、好物のビーフステーキをご馳走になり、カードももらいました。
お母さんも一緒でした。
四人の感謝が、身にしみて嬉しいです。
まだまだ元気でいようと願っています。
遠くからみんなの健康や守りや祝福を願っています。
ありがとう! 父

(写真は、WMの「ビフテキ」です)

天来の声

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『自分のことをどう思ってるんだろうか?』、『日本のことを、この国の人はどう思ってるんだろうか?』、そして、『あなたは・・・・だ!』、『日本という国は・・・・だ!』と聞いては一喜一憂しています。多分、日本人は、他人からの評価や意見が気になって仕方のない民族なのだと思うのです。”アイデンティティ”という言葉がありますが、この確信に乏しいので、聞き耳を立てるのです。そして、悪評価を聞いて、怒ったり、反論したり、しまいには落胆してしまうのです。

<十人十色>で、人は思うことも考えることも喋ることも、それぞれに違うのです。朝と晩でも、季節によっても違います。そのことにばかり関心を向けているには、人生は短か過ぎるのではないでしょうか。私は、人の意見には<馬耳東風>にすることに決めています。もちろん、気遣って意見や忠告をしてくれる人の言葉は聞きます。好い動機だとわかる言葉を<取捨選択>することにしているのです。

<流言蜚(飛)語>という言葉もあります。根拠のない扇動的な悪意のこもった宣伝やデマのことです。デマを百回も言っているうちに、しまいには、「真実」になるのです。それで、「噂戦争」を仕掛けるのかもしれません。標的を心理的に混乱させ、慌てさせて、ついには自滅させる作戦です。これは功を奏することができる作戦なのです。よく「いじめ」で用いられる手法です。

インターネットは、あらゆる情報の集積場です。どこから、誰から発信されているかを確かめないと、毒され害されてしまう<ゴミ情報>で満ちています。時間を持て余している人の憂さを晴らす領域にもなっているのではないでしょうか。日光東照宮に、「見猿聞か猿言わ猿(三猿)」の彫刻があります。小学校の修学旅行で見学に行きましたが、よく見えませんでした。そうです、「聞かざる」が一番良いのです。栄養にならない「噂話」に煩わされないですむからです。

ゴシップ、作られたスターの行動や生活などの言動は、一般庶民の堅実な生活には、何の参考にもならないのです。聞くべきは「天来の声」です。右か左か、どちらに進むかを、これは的確に教えてくれるのです。

(写真は、WMの日光東照宮の「三猿」です)

錦鯉のように!

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日本の暦は、二通りの表記があって、今年は、「平成」26年で、「西暦」2014年と、カレンダーに併記されてあります。国際化の時代ですから、西洋暦に重点が置かれていますが、『今年は何年ですか?』と聞きますと、「平成」で答える方がまだいらっしゃるようです。パソコンの入力などは、全て西暦になっています。

日本の年号を、『神武、綏靖、安寧、懿德、考昭、孝安、孝霊・・・?』と、途中までしか覚えていませんが、父の御時世は、全て暗記させられていて、いつか、空で父が言っていたのを聞いて、『すげえー』と感心したことがありました。それを聞いて、自分も暗記してみたわけです。父が、旧制の県立中学校に入学する試験の面接で、「年号」を唱えたとか、「教育勅語」を唱えたとかで、『俺は合格できたんだぞ!』と言っていました。

「昭和」から「平成」に替わった時、小渕恵三首相が、墨書した和紙を、両手で提示していたニュースの場面を覚えています。この「平成」とは、中国の古代の書である「史記」の「内平らかに外成る」と、「書経」の「地平らかに天成る」から採られています。中国の皆さんにとって、日本の大切な年号を決めるのに、中国の古書に求めたということは、きっと驚かれることではないでしょうか。同じ漢字文化だからという理由ではなく、古代中華文化への多大な評価と敬意があるからに他なりません。

今や中国では年号を用いません。清朝で王政が終わってしまったからです。天皇制をとる日本ですが、皇族の「宮家」が少なくなっていると、ニュースが伝えています。ヨーロッパでは、イギリスやオランダやデンマークなど、アジアではブルネイやタイなどで、「王制」がとられていますが、「王位継承」は大きな課題のようです。

かつての日本には、「皇紀」と言った年号がありました。第一代の神武天皇の即位から数えたもので、敗戦とともに使われなくなりました。2014年も、もう半年が過ぎようとしています。東アジアに風雲の急が告げられるのでしょうか。それとも海が凪(な)ぐように静まってゆくのでしょうか、余談をゆるしません。「戦争のできる国」になることが、日本の最善の選び取りだとしたら、軍靴を履き、銃を握るのは、若者たちです。叔父を二戦でなくしている私としては、心配でなりません。「雄々しく猛々しい獅子」であるよりは、庭の池の中で悠然と泳ぐ「錦鯉」の方が好いのではないかと願う、華南の地の爽やかな夏の朝の私です。

(写真は、WM<ウイキメディア/今後の表記はこうします>の「錦鯉」です)

家内の小旅行?

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中国版の新幹線を「動車」と言い、車体の先頭に「和谐号/hexiehao」と書かれています。発着時間は正確で、日本の電車のそれに匹敵しています。少しきしみ音がするのが気にかかりますが、快適です。フランスと日本から技術を導入し、今や全土を網の目のように結びつつあります。古老に聞きますと、昔は蒸気機関車で、上海まで大変な長旅だったそうです。

最後に蒸気機関車に乗ったのは、中学生の時に、中央線の立川から五日市まで走っていた、今はなき「五日市線」だったと記憶しています。『シュッシュッ、ポッポッ!!』 と黒煙や白煙、蒸気を吐き出しながら走る姿は力強かったのです。そういえば、母が四人の子どもを連れて帰郷 した時も、蒸気機関車でした。東海道線は電化されていたと思いますが、福知山線から山陰本線は、蒸気機関車だったのではないでしょうか。

母に事情があっての母子旅行だったのです。詳しいわけは、ついぞ聞かず仕舞いでした。家内が、次女を妊娠中に、上の二人を連れて、私に内緒で小旅行をしたことがありました。実は、大人版の「家出」でした。何かで夫婦喧嘩をした後だったと思います。まだ若くて短気だった私と諍いをして、『プイ!』と出て行ってしまったのです。それが初めで最後のことでした。

母は実家に帰ったのですが、祖母に諭されて、一大決心をして父の元に帰りました。それ以来、母の家出はありませんでした。さて家内は、実家には帰らないで、小海線の「清里」に、二人の子の手を引いて、着替えなどを入れた風呂敷包みを持って、電車で出かけたのです。泊まったのが、以前、でかけたことのあった「自然の家」の付近にあった一軒の民宿でした。不審に思った民宿の夫妻は、玄関に家内たちを待たせたまま、結構長く相談をした結果、やっと泊めてくれたそうです。

よく朝、長男と長女が、お菓子の取りっこで喧嘩をしたそうです。夫婦の間が上手くないと子供も不安定になるよい例です。その鳴き声を聞きつけた夫妻が、階段を駆け上がってきたのだそうです。すわ「母子心中」かと思ってでした。事情がわかったお二人は、安心して階段の途中に座り込んだようです。

そんなこともあった43年間です。家内の友人から、『いつでも泊りに来てください!』と言われている<避難所>があるようです。でも、いまだ利用をしていないようです。『あなたはずいぶん変わったわ!』と、先日言っていました。さて異国に嫁いだ次女は、<実家!?>が中国に来てしまっているので、そんな場合は、どこに行く予定でしょうか。婿殿は、私と違って優しいから杞憂でしょうか。

(写真は、家内たちが泊まった民宿のある「清里」です)

メール

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昨日、東京に留学している学生さんからメールがありました。『東京は梅雨の季節に入って雨がずっと降っています。』と知らせてくれました。それで、「雨」の歌を思い出したのです。作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎で、1918年に発表されています。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

「雨あがる」という映画を観たことがあります。大雨で、川止めになった旅人たちが、河畔の安旅籠(やすはたご)で過ごす数日を描いたものです。この「川止め」は、徳川幕府が、主要な河川に首都防衛のために、橋の架設を禁止していましたから、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、ことに大雨の川は難所でした。

連日の雨降りで、旅を続けられない逗留客の間で、諍(いさか)いが起き始めるのです。『食べ物を盗んだ!』などと罵ったり、狭い空間に閉じ込められていますから、ある人は我慢の緒が切れてしまうのです。そんな遣る瀬無い状況の打開を願って、貧乏侍が、町の剣道場に行って、「賭け試合」をするのです。果し合いに勝った侍は、酒に魚に米など食材を買って、みんなの元に戻り、『さあ、みなさん、景気直しに一杯やりましょう!』と言って、宴を設けるのです。

その晩は、飲めや歌えで盛り上がり、雨降りの憂さを晴らすのです。『実に腰の低い、いいお侍さんだ!』と感謝されます。江戸期の庶民の、なんでもない数日の描写ですが、本当に、そんなことがあったに違いないと思わされる佳作でした。こちらは雨季が終わり、本格的な夏の到来です。今日も暑い一日かな!

(写真は、相模の国、神奈川県下を流れる「相模川」です)

珈琲館

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時々見かける光景です。それも同じような光景なのです。若い男女が、喫茶店でテーブルのコーヒー・カップを前に座っている、どこの国の街でも見かける光景です。

そう言えば、最近、この街でも喫茶店が増えているのです。以前は、師範大学の正門の道路を挟んだ反対側の貸店舗にあっただけで、ほとんど見かけませんでした。その近くに住んでいましたので、たまに入って、外国人の教師仲間と話したり、誘われたりして利用していました。街中で人と会ったりする空間が少なかったので、最近は、あちこちに出店していて、とても便利に利用させてもらえるのです。日本やアメリカの大学生がノートやパソコンを開いたりして、日がな座り込んでいるのを見かけたのですが、ああ言った光景を目にすることができます。

そう、若者たちでした。彼らは、じっと見つめあったり、話し合ったりしていないのです。何をしてるのかと言うと、「手机(携帯電話のことです)」の画面を覗き込んでいるのです。あんなに話し上手の中国人ですのに、会話がないのです。いえ、ジロジロと羨ましそうに眺めているのではありません。通りすがりに目に飛び込んでくる光景なのです。とくに男性が、そうしていますし、たまに二人ともそうしています。せっかく一杯15〜20元のコーヒー代を、二人分払っても一緒にいたい好きな人なのに、『何をしてるんだ!』と言いたくなるほどです。

二人だけの世界にいるのに、別々なことをしているのが、とても気になるのです。数十年前の若者時代、駅のそばに「ルノアール」というチェーン店の喫茶店がありました。帰国時に、新宿と恵比寿で見つけましたから、どこにでも、今でもあるのですね。学校帰りに、映画を見た後とか、試験前にはノート写しとかで二人で、または7、8人で話し込んだりしていました。ケイタイのない時代ですから、目と目を合わせて、なんとか自己アピールをしなければならないわけです。懸命に薄っぺらな知識やニュースを話題に話していたのだと思います。

あれは<古き好き時代>だったのでしょうか。機械に振り回されなかったからです。今日日、ケイタイやPCが主人になってしまって、酷使されている奴隷のように感じてしまいますし、ケイタイが<恋人>になっているような雰囲気が漂っています。これって、世界中の傾向のようですね。『人生を共にしたいほど好きなら、生きている恋人を優先せよ!』 昔の若者より。

(写真は、美味しいコーヒーです)