image

「掰」と書く漢字が、中国にはあります。日本語では、この漢字が使われた文を読んだことがありませんが、焼いた「餅」を、両手を使って二分する行動を、この漢字を動詞として、「掰开」と用いるのです。解字は、「右手」と「左手」で「分ける」で「掰bai」になるのです。「开」は、「開」の簡体字です。

この漢字を初めて見た時に、何を意味するかがすぐに分かりました。中国語の漢字は興味津々、実に意味が深いと感じております。白川静といわれる漢字学者がおいででした。漢字は、どのように成り立かを長年研究して、多くの辞書を編纂されておいでです。ただ本の価格がべらぼうに高いので、買って手元に置きたいのですが、なかなか決心がつきません。この本が一冊あったら、深い林の中に分け入るような思いを持って、日柄調べるのではないでしょうか。

白川静には、「字書」と書くこだわりがありました。「字通」、「字訓」、「字統」という三部作を刊行していますが、「甲骨文字」を読み解くという地道な作業、研究をされたのです。国語に関わる研究は東京帝大が牙城(がじょう)でしたから、関西の私学に学び、大学教授として教壇にも立たれた、白川静の研究成果が脚光を浴びることは少なかったようです。しかし、その功績は実に大きなものがあります。私の父と同じ年に誕生していて、何となく身近に感じるのです。

白川静の先輩に当たる新村出が編集した「広辞苑」が発刊された時、その一冊を買ってきてくれ、『辞書を引け!』と言ってくれた父が懐かしいのです。そんなこんなで、その後、ひっきりなしに分厚い辞書を引いていました。帰国したら、白川三部作を買って、日柄ページをめくろうかと思っています。あ、そうか、図書館で閲覧する方が、外出もでき、季節の移り変わりも目にできますから、その方がよさそうです。そうそう、図書館まで行くのに、自転車も手に入れることにしましょう。エコのためにも、健康管理のためによいかも知れません。

(写真は、「甲骨文字」ですーWM)

「父の日」

image

「父の日」に、お祝いのメールをいただき、ありがとうございました。
K、N、M、Iの父親でいられて光栄です。
短気な親で十分なことがしてやれずに赦してください。
もう一度、父親を初めからできたら、
短気を起こしません。
山の中から海にでかける時、「イカの姿焼き」を一匹づつ、みんなに食べさせてあげたいと思っています。
財布を見ないで、そうします。
また、本を読んで上げます。
忙しすぎてしてあげられなかったので。
昨日、外国から電話がありました。
NYUに行った家族からもお祝いのメッセージをもらいました。
また、知っている方から、お祝いをしてもらいました。
「父の日」のお祝いということで、好物のビーフステーキをご馳走になり、カードももらいました。
お母さんも一緒でした。
四人の感謝が、身にしみて嬉しいです。
まだまだ元気でいようと願っています。
遠くからみんなの健康や守りや祝福を願っています。
ありがとう! 父

(写真は、WMの「ビフテキ」です)

天来の声

image

『自分のことをどう思ってるんだろうか?』、『日本のことを、この国の人はどう思ってるんだろうか?』、そして、『あなたは・・・・だ!』、『日本という国は・・・・だ!』と聞いては一喜一憂しています。多分、日本人は、他人からの評価や意見が気になって仕方のない民族なのだと思うのです。”アイデンティティ”という言葉がありますが、この確信に乏しいので、聞き耳を立てるのです。そして、悪評価を聞いて、怒ったり、反論したり、しまいには落胆してしまうのです。

<十人十色>で、人は思うことも考えることも喋ることも、それぞれに違うのです。朝と晩でも、季節によっても違います。そのことにばかり関心を向けているには、人生は短か過ぎるのではないでしょうか。私は、人の意見には<馬耳東風>にすることに決めています。もちろん、気遣って意見や忠告をしてくれる人の言葉は聞きます。好い動機だとわかる言葉を<取捨選択>することにしているのです。

<流言蜚(飛)語>という言葉もあります。根拠のない扇動的な悪意のこもった宣伝やデマのことです。デマを百回も言っているうちに、しまいには、「真実」になるのです。それで、「噂戦争」を仕掛けるのかもしれません。標的を心理的に混乱させ、慌てさせて、ついには自滅させる作戦です。これは功を奏することができる作戦なのです。よく「いじめ」で用いられる手法です。

インターネットは、あらゆる情報の集積場です。どこから、誰から発信されているかを確かめないと、毒され害されてしまう<ゴミ情報>で満ちています。時間を持て余している人の憂さを晴らす領域にもなっているのではないでしょうか。日光東照宮に、「見猿聞か猿言わ猿(三猿)」の彫刻があります。小学校の修学旅行で見学に行きましたが、よく見えませんでした。そうです、「聞かざる」が一番良いのです。栄養にならない「噂話」に煩わされないですむからです。

ゴシップ、作られたスターの行動や生活などの言動は、一般庶民の堅実な生活には、何の参考にもならないのです。聞くべきは「天来の声」です。右か左か、どちらに進むかを、これは的確に教えてくれるのです。

(写真は、WMの日光東照宮の「三猿」です)

錦鯉のように!

image

日本の暦は、二通りの表記があって、今年は、「平成」26年で、「西暦」2014年と、カレンダーに併記されてあります。国際化の時代ですから、西洋暦に重点が置かれていますが、『今年は何年ですか?』と聞きますと、「平成」で答える方がまだいらっしゃるようです。パソコンの入力などは、全て西暦になっています。

日本の年号を、『神武、綏靖、安寧、懿德、考昭、孝安、孝霊・・・?』と、途中までしか覚えていませんが、父の御時世は、全て暗記させられていて、いつか、空で父が言っていたのを聞いて、『すげえー』と感心したことがありました。それを聞いて、自分も暗記してみたわけです。父が、旧制の県立中学校に入学する試験の面接で、「年号」を唱えたとか、「教育勅語」を唱えたとかで、『俺は合格できたんだぞ!』と言っていました。

「昭和」から「平成」に替わった時、小渕恵三首相が、墨書した和紙を、両手で提示していたニュースの場面を覚えています。この「平成」とは、中国の古代の書である「史記」の「内平らかに外成る」と、「書経」の「地平らかに天成る」から採られています。中国の皆さんにとって、日本の大切な年号を決めるのに、中国の古書に求めたということは、きっと驚かれることではないでしょうか。同じ漢字文化だからという理由ではなく、古代中華文化への多大な評価と敬意があるからに他なりません。

今や中国では年号を用いません。清朝で王政が終わってしまったからです。天皇制をとる日本ですが、皇族の「宮家」が少なくなっていると、ニュースが伝えています。ヨーロッパでは、イギリスやオランダやデンマークなど、アジアではブルネイやタイなどで、「王制」がとられていますが、「王位継承」は大きな課題のようです。

かつての日本には、「皇紀」と言った年号がありました。第一代の神武天皇の即位から数えたもので、敗戦とともに使われなくなりました。2014年も、もう半年が過ぎようとしています。東アジアに風雲の急が告げられるのでしょうか。それとも海が凪(な)ぐように静まってゆくのでしょうか、余談をゆるしません。「戦争のできる国」になることが、日本の最善の選び取りだとしたら、軍靴を履き、銃を握るのは、若者たちです。叔父を二戦でなくしている私としては、心配でなりません。「雄々しく猛々しい獅子」であるよりは、庭の池の中で悠然と泳ぐ「錦鯉」の方が好いのではないかと願う、華南の地の爽やかな夏の朝の私です。

(写真は、WM<ウイキメディア/今後の表記はこうします>の「錦鯉」です)

家内の小旅行?

image

中国版の新幹線を「動車」と言い、車体の先頭に「和谐号/hexiehao」と書かれています。発着時間は正確で、日本の電車のそれに匹敵しています。少しきしみ音がするのが気にかかりますが、快適です。フランスと日本から技術を導入し、今や全土を網の目のように結びつつあります。古老に聞きますと、昔は蒸気機関車で、上海まで大変な長旅だったそうです。

最後に蒸気機関車に乗ったのは、中学生の時に、中央線の立川から五日市まで走っていた、今はなき「五日市線」だったと記憶しています。『シュッシュッ、ポッポッ!!』 と黒煙や白煙、蒸気を吐き出しながら走る姿は力強かったのです。そういえば、母が四人の子どもを連れて帰郷 した時も、蒸気機関車でした。東海道線は電化されていたと思いますが、福知山線から山陰本線は、蒸気機関車だったのではないでしょうか。

母に事情があっての母子旅行だったのです。詳しいわけは、ついぞ聞かず仕舞いでした。家内が、次女を妊娠中に、上の二人を連れて、私に内緒で小旅行をしたことがありました。実は、大人版の「家出」でした。何かで夫婦喧嘩をした後だったと思います。まだ若くて短気だった私と諍いをして、『プイ!』と出て行ってしまったのです。それが初めで最後のことでした。

母は実家に帰ったのですが、祖母に諭されて、一大決心をして父の元に帰りました。それ以来、母の家出はありませんでした。さて家内は、実家には帰らないで、小海線の「清里」に、二人の子の手を引いて、着替えなどを入れた風呂敷包みを持って、電車で出かけたのです。泊まったのが、以前、でかけたことのあった「自然の家」の付近にあった一軒の民宿でした。不審に思った民宿の夫妻は、玄関に家内たちを待たせたまま、結構長く相談をした結果、やっと泊めてくれたそうです。

よく朝、長男と長女が、お菓子の取りっこで喧嘩をしたそうです。夫婦の間が上手くないと子供も不安定になるよい例です。その鳴き声を聞きつけた夫妻が、階段を駆け上がってきたのだそうです。すわ「母子心中」かと思ってでした。事情がわかったお二人は、安心して階段の途中に座り込んだようです。

そんなこともあった43年間です。家内の友人から、『いつでも泊りに来てください!』と言われている<避難所>があるようです。でも、いまだ利用をしていないようです。『あなたはずいぶん変わったわ!』と、先日言っていました。さて異国に嫁いだ次女は、<実家!?>が中国に来てしまっているので、そんな場合は、どこに行く予定でしょうか。婿殿は、私と違って優しいから杞憂でしょうか。

(写真は、家内たちが泊まった民宿のある「清里」です)

メール

image

昨日、東京に留学している学生さんからメールがありました。『東京は梅雨の季節に入って雨がずっと降っています。』と知らせてくれました。それで、「雨」の歌を思い出したのです。作詞が北原白秋、作曲が弘田龍太郎で、1918年に発表されています。

1 雨がふります 雨がふる
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒(べにお)の木履(かっこ)も 緒が切れた

2 雨がふります 雨がふる
いやでもお家で遊びましょう
千代紙折りましょう 疊みましょう

3 雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

4 雨がふります 雨がふる
お人形寢かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

5 雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

「雨あがる」という映画を観たことがあります。大雨で、川止めになった旅人たちが、河畔の安旅籠(やすはたご)で過ごす数日を描いたものです。この「川止め」は、徳川幕府が、主要な河川に首都防衛のために、橋の架設を禁止していましたから、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と詠まれたように、ことに大雨の川は難所でした。

連日の雨降りで、旅を続けられない逗留客の間で、諍(いさか)いが起き始めるのです。『食べ物を盗んだ!』などと罵ったり、狭い空間に閉じ込められていますから、ある人は我慢の緒が切れてしまうのです。そんな遣る瀬無い状況の打開を願って、貧乏侍が、町の剣道場に行って、「賭け試合」をするのです。果し合いに勝った侍は、酒に魚に米など食材を買って、みんなの元に戻り、『さあ、みなさん、景気直しに一杯やりましょう!』と言って、宴を設けるのです。

その晩は、飲めや歌えで盛り上がり、雨降りの憂さを晴らすのです。『実に腰の低い、いいお侍さんだ!』と感謝されます。江戸期の庶民の、なんでもない数日の描写ですが、本当に、そんなことがあったに違いないと思わされる佳作でした。こちらは雨季が終わり、本格的な夏の到来です。今日も暑い一日かな!

(写真は、相模の国、神奈川県下を流れる「相模川」です)

珈琲館

image

時々見かける光景です。それも同じような光景なのです。若い男女が、喫茶店でテーブルのコーヒー・カップを前に座っている、どこの国の街でも見かける光景です。

そう言えば、最近、この街でも喫茶店が増えているのです。以前は、師範大学の正門の道路を挟んだ反対側の貸店舗にあっただけで、ほとんど見かけませんでした。その近くに住んでいましたので、たまに入って、外国人の教師仲間と話したり、誘われたりして利用していました。街中で人と会ったりする空間が少なかったので、最近は、あちこちに出店していて、とても便利に利用させてもらえるのです。日本やアメリカの大学生がノートやパソコンを開いたりして、日がな座り込んでいるのを見かけたのですが、ああ言った光景を目にすることができます。

そう、若者たちでした。彼らは、じっと見つめあったり、話し合ったりしていないのです。何をしてるのかと言うと、「手机(携帯電話のことです)」の画面を覗き込んでいるのです。あんなに話し上手の中国人ですのに、会話がないのです。いえ、ジロジロと羨ましそうに眺めているのではありません。通りすがりに目に飛び込んでくる光景なのです。とくに男性が、そうしていますし、たまに二人ともそうしています。せっかく一杯15〜20元のコーヒー代を、二人分払っても一緒にいたい好きな人なのに、『何をしてるんだ!』と言いたくなるほどです。

二人だけの世界にいるのに、別々なことをしているのが、とても気になるのです。数十年前の若者時代、駅のそばに「ルノアール」というチェーン店の喫茶店がありました。帰国時に、新宿と恵比寿で見つけましたから、どこにでも、今でもあるのですね。学校帰りに、映画を見た後とか、試験前にはノート写しとかで二人で、または7、8人で話し込んだりしていました。ケイタイのない時代ですから、目と目を合わせて、なんとか自己アピールをしなければならないわけです。懸命に薄っぺらな知識やニュースを話題に話していたのだと思います。

あれは<古き好き時代>だったのでしょうか。機械に振り回されなかったからです。今日日、ケイタイやPCが主人になってしまって、酷使されている奴隷のように感じてしまいますし、ケイタイが<恋人>になっているような雰囲気が漂っています。これって、世界中の傾向のようですね。『人生を共にしたいほど好きなら、生きている恋人を優先せよ!』 昔の若者より。

(写真は、美味しいコーヒーです)

昨日今日の中国

image

住んでいるアパートは七階建てで、一番下は貸店舗か駐車や駐輪スペースになっていて、一棟40所帯ほどです。それが40棟あります。大通りに面したものは27階建てが幾棟かありますから、単純計算をして見ますと、ざっと1800所帯ほどあるのです。それほどの規模のアパートは、「⚪️園」と名前がつけれれていて、私たちの区に、何十とあるのです。今も建築中で、小学校までもが九月の開校を期して建築中です。それだけの所帯の数ですから、人口の多さも相当なものになることでしょう。

そこに二年ほど前に、中国中に展開している「ショッピングモール」ができました。金曜日と土曜日の夜は、ものすごい人の波が、このモールに押し寄せ、押し出されています。世界中の有名ブランド名の店がひしめき、レストランも半端なくあるからです。その集客力、購買力を引き込もうと、その並びに、少なくとの二つの新しい「ショッピングモール」が、建築中で、一つは、九月開業だそうだそうです。

今や一大ショッピングエリアになってきています。全中国で二番目の売り上げがあったと聞いているモールです。でも、我が家は反対側の端にありますので、騒音はそれほどではありませんが。夕方になると大変なのが、車の渋滞です。片側三車線あるのに、モールができてからは、日に日に車が増えていることと、この大通りの先に、幾つものアパートができていますので、大変な状況です。交通規制や工夫がないと、どうにもならなくなってしまうのではと、外国人ながら憂慮しています。

それに、地下鉄の第一期工事が終わると、近くを通る第二期の地下鉄工事が始まるそうですし、市政府の庁舎も移転してくるとも聞いています。一体どうなることでしょうか。計画されてから、土地の持ち主との折衝と言った厄介ごとをしないで済むので、なんでも早いのです。日本では考えられないことです。

所用を済ませて、このモールで食事をしましたら、昨日の日曜日は、欧州の自動車メーカー(日本も含めて)の販売会社が、モールの催し場と一階のスペースで、モーター展示会を行っていました。家族連れが、乗り込んだり、説明を聞いていました。さながら日本の30年前のような光景です。でも人の多さからしますと、考えられないほどの数の車が、すぐにでも路上を走り始めることでしょう。豊かになってきているのを肌で、ひしと感じている昨日今日の中国です。

(写真は、大型のショッピングモールです)

喧喧諤諤

image

「長幼の序」という言葉があります。年少者は年長者に、一歩も二歩も譲ることなのでしょう。ただ一日でも日数が多い人は、それだけ経験したことも多くあると言った意味で、『<一日(いちじつ)之長>がある!』と言います。goo辞書によりますと、「《「孟子」滕文公上から》年長者と年少者との間にある秩序。子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方。」とありました。

週末の土曜日になると、小学生から大学生たちが5~6人、我が家にやって来ます。家内が日本語を教えているからです。授業の合間や終わった後に、彼らの話を聞いていて、新発見をしたのです。こういった場面は、これまでなかったからです。小学生が、大人でも大学生でも、彼らを相手に話をする時に、怖じたり遠慮したりしないで、しっかりと自己主張をしているのです。

自分が小学生の頃、大人の話し合いは、ただ聞いているだけでした。その話に口出しをすると、ジロッとみんなに睨まれて、『子どもは黙っていなさい!』と牽制されるのが落ちでした。そう言った社会でしたから、新中国の社会は、思ったことや感じたことを、率直に言い表せる社会なのだということを知って、感心させられたのです。

これは何時か読んだ本に書いてあったことですが、かつての中国でも、経験の少ない若者が、意見を言う機会があったのだそうです。位の高い人や年長者は、それを制止しないで、じっと聞いたのだそうです。建設的な意見なら、それを汲み上げて、高く評価をしたようです。若いからと言った理由だけで、無視しなかったのが、中国の社会だったのです。

92歳の方が、87歳の人に、『君、まだ若いなあ!』と言うのを聞いたことがありました。二人とも相当な年齢、同世代なのに、一歳でも二歳でも年下の人には、そう言った物言いをするのが、日本の社会の序列、人間関係なのだと再確認したわけです。

だからでしょうか、自己主張と言った点で、日本人は中国のみなさんに叶わないのではないでしょうか。人の話を聞いている間、『何を話そうか?』と、中国人は考えているように見受けられます。だから喧喧諤諤(けんけんがくがく)、あちらでもこちらでも話が交わされ、賑やかなのです。同席している私たち日本人は、聞き役に徹してしまうのです。遠慮ばかりではいけないと感じた昨日の土曜日でした。

(写真は、”ウイキメディア”の「万里の長城/発達嶺」です)

初耳

image

中学校3年の国語の教科書に、「二つの悲しみ~戦争が残した出来事~」という一文が掲載されています(光村図書)。戦後、千葉市稲毛にあった「引き揚げ援護局」に勤務されていた、杉山竜丸氏が記したものです。昨年の7月に、その全文を、このブログに掲載しました。学校教育の中で、15歳になる中学生に、こう言った種類の「悲しみ」があることを伝えているのを知って、感じることが多くありました。

感じ入った私は、昨年度と今年度、二年に亘って、この文章を使って、日本語学科の学生のみなさんに作文をしてもらっているのです。息子をなくした父親の悲しみが、一つ目の悲しみです。肩を震わせて慟哭する父親の姿が印象的でした。また、食べ物が欠乏し、弱くなっていた祖父母に頼まれて、小学校3年生の少女が味わうのが、二つ目に悲しみです。メモを手に援護局にやって来ました。母親をなくした少女は、父の戦死の知らせを、この作者から聞くのです。『泣いてはいけない!』、二人の妹もいて、『しっかりしなくてはいけない!』と言われて来たのです。目に涙をいっぱいにしても、じっと我慢をして聞くのです。

戦後の日本で、こう言った経験をした人がいたことは、中国で教育を受けてきた学生にとっては初耳、新発見だったようです。「悲しみ」への共感を記していました。そういえば、私の小中高大のどのクラスには、「父なし子(ててなしご)」が何人もいました。<時代の子>なのです。彼らは、どのように戦後を生きてきたのでしょうか。お母さんが、八百屋の手伝いをしながら育てられていた「ターボー」はどうしてるのでしょうか。おじいさんとおばあさんに育てられていた「ショウチャン」、お父さんの遺品の帽子をかぶってチャンバラをしていた「ジュン」はどんな今を過ごしてるのでしょうか。

学生のみなさんは、「平和」、「和平」を希求しているのです。二度と再び、あのような「悲しみ」を味わうような時がこないように、切望しているのです。武力、軍事力を持つことによって、相手を威嚇し牽制することでしか保たれない「平和」なのでしょうか。刀をちらつかせる以外に、交渉できない外交なのでしょうか。驚くほどの科学的な思考をしている現代人もまた、愚かなのかも知れません。それでも、「地に平和を!」を願う<ハナキン>の夕べです。

(写真は、”ウイキメディア”、平和のシンボルの「ハト」です)