空の鳥の如くに

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長男の嫁、家内、長女、次男、この四人の誕生日が過ぎて、八月も終わろうとしています。次男の誕生日は、一昨日でしたが、近くにいないので、一緒に祝うことができなかったのは申し訳ないなと思っています。この四人に共通するのは、幼稚園からずっと、夏季休暇中に誕生日を迎えたので、級友たちに祝われることが少なかったようです。我が家では、自家製のハンバーグを焼いて、デコレーション・ケーキにロウソクを灯し、それを切って、祝ったものです。

私の父と母と上の兄が三月、すぐ上の兄が八月、弟が十一月、そして私が十二月でした。誕生日を祝ったかどうか、記憶がありませんので、しなかったのでしょう。もしかすると、食べて満腹したので忘れてしまったのかも知れません。人の一生を考えてみますと、両親と兄弟と一緒に過ごした年月は、結構短いことに気付くのです。四、五才の頃までの記憶は、さだかではありませんし、兄たちが大学に入り、就職をして、家を出て行きましたから、一緒に四六時中いた十四、五年ほどの間のことしか記憶がありません。

四人の子どもたちとの生活も同じでした。『あっ!』と言う間に、みんな羽ばたいて、親元から飛び立って行きました(実は最後に羽ばたいて出たのは私たちなのですが!)。今では時々しか会えないのは、ちょっと寂しいものですが、たまに会える喜びが大きいのも確かなことです。時々、自分の子どもたちを、両親の近くに住まわせている家族に会いますが、<ありがたさ>や<再会の喜び>から言うと、離れていても好いかなと感じます。

今が「戦国の世」ではないのは好いことだと思っています。親と子が対決したり、謀反があったり、反旗を上げたりした時代ではありませんから、親も子も枕を高くして寝ることができるのです。土地も家も財産も、全くない私たちを親に持った四人は、相続で争う必要もありませんから、彼らにとっては、私たちは<好い親>なのかな、と思ってしまうのです。

空の鳥は、藁や小枝の簡易宿舎を住処にし、木の実や畑にこぼれ落ちた穀粒を食べ、小川の水を飲んで養われています。今の私たちは仕事を与えられ、幾ばくかの収入で、住む家を借り、衣服を揃え、食料を買い、たまには書を求め、過不足なく生きております。明日への心配はありません。空の鳥が養われているのですから、『我もまた!』と安堵しております。

ちょっと遅い朝食を済ませ、葡萄とヨーグルトをデザートにし、紅茶を飲みながらブログを書き込んでいます。家内が部屋の壁に向かって、電子オルガンを弾いています。ゆったりした平和なひと時であります。来月は、次女の誕生月です。

(写真は、WMによる、渡り鳥の「カオジロガン」です)

ここに住みたい!

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週初めに、街中から出て、郊外に、家内と出かけてみました。海側ではなく、内陸部、山間地に行ったのです。空気が好いこと、水が綺麗なこと、緑が輝いていたこと、そして人が穏やかなことが印象的でした。自分が、山の中で生まれ、そこで七歳の夏まで過ごしていますので、<故郷回帰>になるでしょうか。

生まれた所は、山と山がせめぎ合った渓谷のようでしたし、育ったのも、沢違いの山村でした。そこに、市内に事務所と山奥の仕事場の他の、もう一つの父の仕事の事務所がありました。晴れてると、兄たちの後を追いかけて、山の中に分け入り、駆け回っていたのです。雨が降ると、家の近くに、大きな倉庫があって、その中で遊びました。

この町の周辺部へは、以前、何時間も何時間も山路をバスに揺られていたのに、高速道路網が拡大してからは、時間的に近くなって便利になって来ているようです。川沿いに鉄道が敷かれてあり、17輌もつないだ電車が汽笛を鳴らしながら走っているのが見えました。長閑(のどか)さが溢れていて、<原風景>を眺めているようでした。

高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「故郷(ふるさと)」を思い出しました。

1 兎(うさぎ)追いしかの山
小鮒(こぶな)釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷(ふるさと)

2 如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風につけても
思い出(い)ずる故郷

3 志(こころざし)をはたして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷

山青く、水清き私の故郷は、箱庭のようでしたが、ここは雄大でデンとしていて、やはり大陸的なのです。『ここが、私のふるさとなのです!』と言う方がおいででした。どうも私は都会が苦手な感じがします。『ここに住みたいな!』と言ったら、『また!!!』と言う顔を家内がしていました。ゆく夏休みの数日の出来事でした。

(写真は、”花鳥風月”より、「へちま」です)

秋風が立つ

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「立つ」、風が、波が、秋風が、涼風が、霞が、角が、弁が、義理が、筆が立つと言います。物事が進んで行く状態に、この「立つ」が使われるのでしょうか。日本語の面白さです。シンガポールに行っている間に、<秋が立って>、立秋を過ぎたのに気づきませんでした。コンクリートのアパートの十九階の娘の家の、何処かから虫の音が聞こえたのが、その頃だったのかと思い返しているところです。

季節にも「立つ(立春、立夏、立秋、立冬)」を用いるのですから、漢語の中に「立つ」と言う言葉を使う例があったことになります。汗かきに私にとって、この数年の暑さは格別で、少し動いただけで、大汗ですから、<秋立つ>季節の到来は、大歓迎です。信州や八ヶ岳の初秋しか知りませんが、高校野球が行われて、優勝校が決まった頃から、秋が感じられて、『あーあ、もう夏や積みが終わって、また学校か!』と、今頃は決まって思っていたのです。

毎年思い出す歌に、

秋はいいな 涼しくて
お米が実るよ 果物も
山からコロコロやってくる

があります。<涼しさ>を願い気持ちが込められ、秋そのものが、山から、<コロコロ>と転がってくるのでしょうか。古里の山や川はどうなっているのでしょうか。過疎で人が少なくなり、父や母を覚えている人もいなくなってしまったことでしょう。それでも、あの時の空の色、風や土の匂い、かじった栗や柿の実の味が、ジワリと感じられるかのようです。

そういえば、土曜日に買い物に行ったら、果物屋さんの店頭に、柿がならんでいました。小さかったのですが真っ赤で美味しそうでした。それでも買わずじまいで帰ってくてしまったのです。この暑さでは、ちょっと趣(おもむき)がなくて、食べる気を誘われませんでした。九月に入ったら、買ってみることにしましょう。はたして秋風の立つ頃の古里を思い出せるでしょうか。

(写真は、”tozan.net”から「甲武信岳(こぶしだけ)」の登山道です)

左の頬

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『隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。』と言う格言があります。その争いを優位にするために、個人的に知り得た争う相手の秘密を、公に言いふらすことは、人としてすることではないからです。争いは、口喧嘩よりも、<拳(こぶし)>で決着をつけるのが好いのではないでしょうか。どちらかが、『参った!』と言うか、誰かが止めに入るまでです。罵り合いながら、とんでもないことまで言い合うよりは、スッキリしていて好いのです。もちろん素手です。

こんな提言をすると、<暴力じじい>と言われそうですね。天津に住んでいた時、「菜市場(中国版の庶民のマーケット)」の出口で、若いご婦人が二人、コンクリートのタタキの上で、上になったり下になったりで、取っ組み合いの喧嘩をしてるのを、二度ほど見ました。男のように激しかったので、中国女性には驚かされたのです。仲裁が入って幕になりましたが、見ていて気持ちの好い物ではありませんでした。江戸の昔は、『喧嘩は江戸の華!』と言われていたそうですが、中国の街ではどうなのでしょうか。

やはり無言の内の決まりがあって、棒や道具をつかったりしないのです。実力と肝っ玉の勝負です。犬も出会いばしらに、火花を散らし始めることがありす。しかし、血統の好い犬は、堂々としていて威容があり、始まる前に決着が着いて、負け犬は、睨まれただけで、戦意喪失、尻尾を巻いて逃げてしまうのです。高知では「闘犬」、スペインなどでは「闘牛」、ある所では「闘鶏」が行われています。人間の賭け事のためにです。よろず世間は、争いや喧嘩が絶えません。

ここで前言を訂正しましょう。喧嘩はいけません。避けるべきです。そして先に謝ってしまうのが好いのです。強くても、何の役にも立たないからです。<男の面子>なんて、どうでも好いのです。『負けて泣いて帰って来たら家に入れない!』と言われて育ったので、どうも、そんな考えから抜け出せないのです。ごめんなさい。『右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい!』と言われていますが、これが到達したい 私の一つのゴールなのです。

(イラストは、”子供と動物のイラスト屋さん”から「けんか」です)

不測の事態に

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結婚をする前だったでしょうか、ニューヨークの学校で教師をしている方の講演会が何度かあって、聴講したことがありました。この方は、ギリシャ系のアラブ人だったと聞いていましたが、若い時にはボクサー(拳闘家)だったことがあったり、面白しろい経歴をお持ちでした。何時でしたか、親しくなった私に、『マサ、髪の毛を刈ってあげよう!』と言って、ハサミを取り出して刈ってもらったこともありました。結構上手だったのです。

この方の講演の中で、自動車製造の工程に関わる話をきいたことがありました。デトロイトは、アメリカ自動車産業のメッカで、かつては活況を呈していた街でした。生産工程の中に、製造ライン方式を取り入れており、作業ラインの中で、ポイントごとに組み立て個所が違っていて、分業をしているのです。人が関わっていますので、<不測の事態>が起きて、この流れ作業が滞ることがあるのだそうです。

そう言った事態の対策が取られているというのです。このラインを見下ろせる工場内のある所に、特別室が設けられています。そこには数人の人がいて、普段は、本や新聞を読んだりしていても好いのです。一日中、何もしないで終える日もあります。ところが、組み立てラインの中で、作業員が怪我をしたり、体調不良になったりして、そこを離れなければならなくなった時に、作業の穴が生じます。その時に、<すわ鎌倉!>で、待機中のこの人が、その現場に駆けつけ、作業を担当するのです。そうするならラインを止めることなく、作業を継続できるわけです。

この作業員のことを<ミニットマンminite man>と呼ぶのだと、この方が言いました。この特別職の人は、どの部署の作業でもこなすことのできる技術者なのです。これは40年以上前の自動車工場の一コマですが、こう言った特別技能者が、どの世界にもいて、<不測の事態>に対応していたわけです。今も、きっとこう言った方々がいて、流れ作業が行われているのでしょうか。この興味深い話を、今でも、よく覚えております。

(写真は、WMによる、ニューヨークにセントラル・パークです)

今のいまを生きて欲しかった!

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『お父さん、とても好い映画があるんだけど、観たらいいよ!』、と娘に言われて観たのが、「いまを生きる(1990年日本上映)」でした。

どんな内容だったかと言いますと、「1959年、バーモントの全寮制学院ウェルトン・アカデミーの新学期に、同校のOBという英語教師ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)が赴任してきた。ノーラン校長(ノーマン・ロイド)の下、厳格な規則に縛られている学生たちは、キーティングは「教科書なんか破り捨てろ」と言い、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさについて教えようとする。このキーティングの風変わりな授業に、最初はとまどうものの、次第に行動力を刺激され、新鮮な考え、規則や親の期待に縛られない、自由な生き方に目覚めてゆくのだった。キーティングは授業中に突然机の上に立って宣言する。「私はこの机の上に立ち、思い出す。つねに物事は別の視点で見なければならないことを! ほら、ここからは世界がまったく違って見える」。生徒も立たせ、降りようとした時に「待て、レミングみたいに降りるんじゃない! そこから周りをきちんと見渡してみろ!」と諭す。」と、ウイキペディアにあります。

この学校の卒業生で、教師のキーティングを演じたのが、ロビン・ウイリアムズでした。もう一度観たい映画の一つです。教室の机の上に立って、詩を吟じる姿が印象的でした。また、学生の間で起こった問題の責任をとって学校を退職することになり、学校を後にするキーティングを、在校生が、『Oh captian!My captiann!』と呼びかけて、見送る場面は、じつに感動的でした。

クラス担任をしていた時、問題を起こした生徒を退学させるか、残すかを決めなければならなくなったことがありました。私は、この学生を残すつもりでしたが、学年主任も教頭もは、<自主退学>にしようとし、そう処分が決まってしまいました。この学生の将来よりも、学校の対面を保つための体のいい<退学処分>になったのです。『これこそ天職だ!』と感じていた私でしたが、この一件で、教育への情熱がいっぺんに醒め、翌年春、年度終わりに、彼女に遅れましたが退職願を書いて学校を去りました。

問題の最中(さなか)に、アメリカ人実業家が、『一緒に働かないか!』と誘ってくれていたので、その決断に弾みがかかったことになったのです。それとともに、当時の学校の同僚の生き方や、教育の仕方への躓きもありました。ちょっと言えない内容ですが。時々、あんころ餅を作ってきて、作業員室でお茶を飲む席に、『先生、一緒に!』と誘ってくれた掃除のオバさんたちが、退職を惜しんでくれたのです。あの学生は、もう<おばあちゃん>をしているのでしょうね。

そんなことを思い出させてくれた、ロビンが数日前に亡くなりました。あの映画を観て、強い印象を持った方が多かったのに、病んでも自分の弱さに直面しても、年老いても、今のいまを生きて欲しかったと思っている、この週末です。

(写真は、”yahoo検索”より、「いまを生きる」の一場面のイラストです)

訪問旅行を終えて

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昨晩11時頃、二週間のシンガポールの長女の訪問旅行を終えて帰宅しました。飛行場まで三人の友人が出迎えてくださって、私たちとスーツケースを運んでくださり、大助かりでした。『これも持って行って使ってね!』と、娘に言われたCDプレーヤーを始め、乾燥牛蒡やシーツまで、インド街のショッピングセンターで買ってもらったスーツケースに入れたものを、運んでいただいたのです。田舎で、米俵を運んでいたと言う友人の奥様が、一番重いバッグを、ひょいと持って五階まで運び上げてくれたのには、驚きました。小柄なのに、ご主人よりも力持ちなのです。

家に帰りましたら、玄関の扉の下の三和土(たたき)の上に吹き込んだ雨が溜まっていたのにも、驚きました。今まで、そんなことがありませんでしたので、夕方に相当強い雨が降ったようです。飛行場に着いた時には、小降りになっていて、とても助かりました。普段、空港からはリムジンバスがあって、市の中心街まで行き、そこでタクシーを拾うのです。『50クワイア!』と、料金メーターでない料金で交渉をしかけて来て、三倍も取られますし、それに相乗りで、同じ方面の客を探すのです。同乗者からも同額を取る、あの大昔の<雲助>のようです。そんな目に合わないで、無事に帰宅できました。

今朝は,所轄の公安の派出所に,入国の手続きに,大家さんと一緒に行って,手続きを終えて帰って来ました。これで半年,来年の二月まで,こちらに滞在することができます。大家さんとは久しぶりにお会いして,好い話し合いの時をも持てました。好くしてくださる大家さんに,心のからの感謝をしたところです。

『暑い!』、赤道直下のシンガポールに比べて,格段に暑いのです。汗のかきどうしで,もう二度も着替えたところです。まあ覚悟して戻って来ているので,ここも<住めば都>であります。来週は,友人たちに誘われて,小旅行を予定しています。昨日の夕方,久しぶりに<虹>を,飛行機の中から見ました。一部が見えただけですが,神秘さを楽しむこともできた空の旅でした。今秋、別の勤務地に、長女が旅立ちますが、今後の祝福を祈って戻ることができた次第です。

(写真は、大空にかかる虹です)

祝!

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昨日の夕方、シンガポールの建国49周年の記念式典が催され、その様子をテレビで観ることができました。歌や踊りがあり、儀仗兵の指揮の中を、軍楽隊が演奏をしながら入場して来ました。その演奏の中を、国会議員、閣僚、建国初期の長老、市民団体、会社、青少年団体などの入場が次々にあり、特設スタンドに陣取った観衆から猛烈な拍手が送られていたのです。とくに、障碍を持たれた方たちが、太鼓(和太鼓のような大型なもの)をリズミカルに叩いておられて、その演奏に歓声が上がっていました。

車(車種を見ましたらトヨタのレクサスでした!)に乗って、リ・シェンロン首相が会場に入り、歓迎の声の中を、観衆と握手を交わしながら閣僚席に着かれました。最後にタン大統領の入場でした。国の最高責任者がスタンド中央に座られました。国歌(マレー語だそうです)が斉唱されます。今度は、陸海空の軍隊の入場でした。新鋭のタンク、装甲車などが、猛烈なエンジン音を響かせていました。『私たちが国防の任に当たっています。ご安心ください!』と言った無言の声が聞こえるかのようで、とくに少年たちをテレビカメラが捉えていて、彼らの目がキラキラと光っていたのが印象的でした。

次には、警察の特殊部隊が入場してきました。テロ対策の車輌の中から、重装備の隊員が次々と、火器を手に出て来て、『治安や防犯、テロ対策を担当し、日夜励んでいます。540万の住民(永住にシンガポール人は384万人)の生活を守っています(統計は2013年9月)。ご安心ください!』と語りかけているようでした。その次は、消防隊です。都市の消防のための、最新の装備の消防車による、消火や救出活動の実演を見せていました。『都市消防のために四六時中待機しています。安心して家庭生活を送ってください!』とのパフォーマンスがあったのです。

昨日は、リ首相のステートメントが放映されていました。国政の実務に当たっている責任者の弁で、国政の全体にわたるビジョンを述べておいででした。ネクタイなしのカジュアルな服装が、爽やかに感じられて、とても好かったです。

昨晩の式典での圧巻は、「建国の父」であるリ・クワンユーが割れるような拍手を受けて席に着かれたことでした。91歳の高齢ながら、お元気な姿を見て、シンガポールの国民は笑顔を見せて、その貢献に対する栄誉を表わしていたのではないでしょうか。人間にするなら<49歳>、熟達する年齢です。東京都区内ほどの大きさながら、東南アジアの商業的な要の役割を果たしている重要な国なのです。

カトーンと言う地にある娘の家の海側の上空を、ヘリコプターが「国旗」を運ぶ様子が、すぐそこに見え、式典会場から上がる花火も見ることができたのです。みなさんの国を愛する心に触れられ、娘が9年生活した街、国の祝福を祈ることができた二時間ほどの記念式典でした。

(写真は、”百度”より、昨年の「建国記念式典」です)

頑張って!

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東日本大震災が起こった時、海外から寄せられた<激励のことば>が多くありました。その一つが、『がんばれ!ニッポン!』でした。そして日本人自らも、そう<檄(げき)>を飛ばしていたのです。地震と津波に見舞われた福島、宮城、岩手県の被災者のみなさんへの見舞いの言葉でもありました。厳しい現実に挫(くじ)けないで、立ち上が理、前に向かって進む勇気を奮い立たせようとしてくれたのです。

被災者のみなさんも,想像を絶するような現実の前に、『頑張らなくては!』と心に決めておられました。今年も日本から、台風の襲来、大雨、地滑り、孤立などの被害の様子を聞いています。古来、日本では、この自然災害との対決が繰り返されて来て、頑張った甲斐があって、それだけ多くのことを学び取ったのではないでしょうか。

そう言った戦いの中で、互いに、『頑張って!』と声を掛け合って生きて来た民族が、私たちだったに違いありません。ですから、ことあるごとに、このことばが繰り返され、日常会話の中で、頻繁に口にして来ております。とくに勉強やスポーツなどで、応援者がよく語って来たことばです。

別れの挨拶の『さようなら!』の代わりに、また手紙の文末などにも、『ガンバッテ!』が使われていました。このことばは、<頑張り精神>と言っても好いのかも知れません。狭い国土と貧しさを克服するために、頑張って来たことで、極めて高度な技術を身につけて来たのでしょう。<頑張り精神>で鼓舞し合いながら出来上がったのが、日本と日本人なのかも知れません。

ある方が、『頑張らなくていい。そのまんまの自分で、肩に力を入れないで生きた方がいいんだ!』と言ってくれたことがありました。そうする必要を見て取ったからなのでしょう。頑張りすぎて疲れ果ててしまうよりは、ちょっと怠けてみることの大切を学んだのです。戦後の教育の中に、<叱咤激励>があったでしょうか。廃墟の中から国を再建するために、頑張らなくてはならない父母の世代が、この<頑張り精神>を子どもたちにも求めたのです。

さらに国際競争や紛争が激しくなって行くと、また再び、この精神が求められるのかも知れません。自然体で生きた方が、かえって効率が上がり、新しいアイデアが湧き上がって来るに違いありません。生まれながらに、『頑張れ!』と言われて来た私に、『もう頑張らなくていい!』と言うことばは、<解放宣言>のように聞こえてまいります。

これまで、『頑張って!』と言った多くの人にも、『もう頑張らなくてもいいよ!』と言い直したい思いでいる、八月の私です。

(写真は、朝日新聞社より、大船渡市の被災の様子です)

マウント・フェーバーにて

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昨夕は、長女の友人のご婦人が、約束してくださったように、家の前まで迎えに来てくださったのです。40年以上の運転歴があり、今もご自分で車を運転されるのですが、日本に留学したことのあるご婦人もご一緒でしたので、この方が運転してくれました。シンガポールで、二番目の高さの丘の上にあるレストランにお連れくださったのです。セントーサ島と海岸線の街並み、海と島々が見下ろせ、シンガポールで最も夜景の綺麗な所だそうです。

『そこを左に曲がって、そう、まっすぐにね!』と道順を教えておられるのを聞いて、『あ、長年高校で校長をされてきた人なんだな!』と得心したのです。大勢の教え子さんがいて、この国で、様々な要職に就いておられるようです。それは、単なる自慢話ではなく、『ただ小さな私が・・・』と仰りながらでした。きっと街中を歩かれると、多くの教え子さんから声がかかることでしょう。

多くの兄弟姉妹のいた貧しい家庭で子供時代を送ったそうです。日本軍の侵攻も目の当たりにされたのですが、多くを語られませんでした。お兄様は、この国の建国に関わったお一人で、昨年召されたのだそうです。激動の時代を生きて、女手一つで育て上げた三人の息子さんも、それぞれの分野でご活躍で、10人のお孫さんがおいでで、ひ孫や姪や甥も大勢のようです。

旅の私たちにとっては、思いがけない出会いがあって、随分と盛りだくさんのご馳走を皿に取り分けては、『どうぞ!』と進めて下さったのです。『きっと、ご家族の中で、こうやって振舞っているんだろうな!』と思わされました。中華系の移民の背景の中でお育ちですが、大英帝国の淑女を感じさせてくださる素敵な老婦人なのです。娘が、『お母さん、こんなに綺麗に積極的に生きているおばあちゃんに倣ってね!』と言っていました。

『中国語を話せないのです!』と言われて、流暢なイギリス英語をお話しでした。人懐こくって、話題が豊かで、気配りがあって、素晴らしい81年を生きてきたことが分かりました。何と、お土産にガラス細工の<虫眼鏡>をもらってしまいました。なぜか、まだ老眼になっていないのですが、大事にしたいなと思っています。丘の上のレストランは、窓も壁もなく、麓から吹いてくる風も、実に頬に心地よい、満ち足りた夏の宵でした。このご婦人の健康を心から願って家路についた11時前でした。

(写真は、”百度”より、マウント・フェバーからの景色です)