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 『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(詩篇4026節)』

 毎晩、ベランダに出て、夜空を見上げるのが習慣になってしまいました。大気が綺麗なのでしょうか、煌(きら)めく星が見られます。バス通りの車や人や店ではなく、天然の世界は、人の心を和ませ、はるか神秘の世界に誘(いざな)われるようです。春や夏によく出かけた、八ヶ岳の「少年の家」から見上げた星空が、驚くほど雄大であったのを思い出します。そこには、「プラネタリューム」があって、一緒に出かけた子どもたちが、見上げているうちに眠ってしまうほど静かで、幽玄で、まるで宇宙に引き込まれてしまうほどだったのでしょうか。

 福岡の大分との県境に、お茶の名産地で有名な八女市があります。そこに、「星野村」があって、友人に連れて行ってもらったことがありました。名前の様に、まさに「星の村」なのです。綺麗な星空が広がって、「星のふるさと」とか「日本で最も美しい村」の一つだと言っていて、小さいのですが、有能な天体望遠鏡を持った天文台もありました。

 小学生の頃だったでしょうか、父親にひどく叱られて、家に入れてもらえなくて、山の木の間に、藁や枯れ草を敷いて、泣きながら夜空を見上げて、一晩を過ごしたこともありました。涙が光っていたのか、星が光っていたのか、真っ暗闇に星が瞬(またた)いていたのが、今でも星を見上げると、懐かしく思い出されます引き込み線に停めてあった、貨物車の後尾にあった車掌室で寝た日もありましたが、そこでは星空の記憶はありませんが。

 何といっても、星空が一番大きかったのは、内モンゴルの省都フフホトの郊外に連れて行ってもらった時に、見上げた大パノラマの世界でした。本当に、<降る様な>と形容するほど、満天の星の煌めきに圧倒されたのです。あんな世界に生きていたら、この地上に起こることなど、本当にチッポケなものにしか思えなくなります。自分の存在が小さくも見え、何か、星の世界に吸い込まれるかの様だったのです。

 脳梗塞の後遺症で、リハビリをしていた方を、時々車に乗せて、病院に通ったことがありました。先年、亡くなられたのですが、この方が、釣りが好きで、カナダまで行くほどでした。その方を励まそうと、『元気になったら、オーロラを観に、アラスカに行きましょうね!』と誘ったことがありました。果たせなかった約束ですが、天然の世界は、人の作った世界にない「夢」があるのです。

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ball in the field

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 明治の少年たちが、base ball に魅せられて、ball を投げ、打ち、取り、ベースを走って、日暮れを忘れて興じた姿は、戦後の物のない時代、母親の手作りの道具で、横丁の空き地に線を引き、三角base で遊んだわれわれ世代と同じ楽しみや興奮があったのでしょう。

 一高に学んで、ball in the field base in the field  野球)を大いに楽しんだ松岡子規が、次のような句を詠んでいます。

久方のアメリカ人にはじめしベースボールを見れど飽かぬかも

今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな

九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり

 1902年、34歳の若さで、結核で亡くなった子規が、こよなく愛し、自らも元気な時には興じ、病をえて地元に帰って、母校の松山中学校で教えたのが、子規の野球でした。21世紀の日本人選手が、野球発祥のアメリカのリーグで、活躍するなどと、まさか予想もしなかったことでしょう。

 父も、次兄も、二人の孫たちも、彼らを熱狂させ、させている野球ですが、実に面白いsports ではないでしょうか。日本では、すでに camp in したプロ球団が、今年も戦うのですが、American League では、労使の紛争が未解決で、開催できるかが危ぶまれています。

 隣家のご婦人が、有名校の野球部顧問をされていて、東京六大学に進学した卒業生が送ってくれたと言って、野球の ball  の何倍もある、大きな梨を昨秋、いただきました。野球の味はしなかったのですが、とても美味しく食べたのです。

 スタルヒン、沢村、小鶴、青田、千葉、大下、与那嶺、稲尾、別所、藤尾、江夏、衣笠、吉田、落合、台湾の嘉義農工、カナダのバンクーバ朝日などなど、野球の話は尽きません。

 市の北の運動公園があって、そこの野球場で、市内の中学校や県内の高校の大会が行われるのですが、この2年、野球関係者でないただの市民は、コロナ禍もあり、stand に座ることも許されず、外野のfence の隙間から覗き見しているおじさんの肩越しに眺めただけでした。

 試合を待っている選手たちから、『こんにちは!』と元気な声が掛けられて、何とも嬉しいのです。高知に行った時に、名門校に留学した青年の入学式に、親御さんの代理を買って、行った時も、grand の横を rent-a-car で通った時に、大きな ground で練習をしていた選手たちが、同じような声をかけてもらい、いい気持ちでした。それで応援せずにはいられなくなってしまったのです。

 母の故郷の島根県代表が、岩手の盛岡の高校と戦っている試合を、上海からの船が大阪南港に着いた私、〈上海帰りのジュン〉は、乗り換え駅で、応援に駆けつけるおばさん軍団に、ticket をもらったので、おばさんたちの後について甲子園に行って、三塁側の外野 stand  から応援したことだってあります。

 まだ catch ball ができるでしょうか。野球部の catcher の次に遠投記録を持っていたのですが、試してみたい思いで、暖かくなったらやってみようかなの「立春」です。

(Illust eakika によるイラストです)

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 聖歌に、「春をつくられた神」があります。

原に若草が青く萌え出すと

雪解け水が高く音立てる

私たちも春の喜びを歌おう

春をつくられた神さまを歌おう

 2週に一度ほど出かける、わが家のベランダから眺められる、今年の大平山は、雪の白景色を見せることがなく、春を迎えるのでしょうか。季節季節に山容を変化させてくれるのですが、流石、「立春」ともなると、枯れ木に蕾がついて、膨らんでくるさまが遠望できるのです。

 遠望だけでは満足できない私は、出かけて行って、その梢を見上げるのです。枯葉がカサカサと音が開いて、足元がにぎやかでしたが、何度か強い風の日があって、道の吹き溜まりにも、みう全く枯葉が見られなくなってしまいました。その代わりに蕾が出てきています。


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 参拝客は、階段を登って行きますが、 trekking   の私は、登山道はキツ過ぎて、車道を歩き、途中でコースを外れて、横道に行くのです。最近は、折り畳みの杖を買い込んで携行し、キツくなると背のリュックから下ろして使うのです。猪が出てきたらと、木こりの鉈(なた)も潜ませているのです。

 山がワクワクしている様に、私の心にもワクワクした、春への期待が高まってきています。もう「立春」ですね。山の中を歩き、巴波川の脇道を歩いていると、花や草木や鳥や魚を眺めていると、コロナを忘れられて、創造の天然を楽しめるのです。

 (三期目の胡蝶蘭が今朝開き、咲きました)

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質問

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 『しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。 (ルカ1228節)』

 よく質問されたことがありました。『神が愛なら、どうして?』と言われるのです。どうして人に不幸があるのか?、病人、障害者、孤児、悪党がいるのはどうしてか、なぜ悲惨な地震や津波や飢饉が起こるのか、などと言うものです。

 私の母は、生まれるとすぐに、養女に出され、養父母に育てられています。一度、小学校一年生の時に、母のふるさとを訪ねたことがありました。母にお小遣いをもらおうとした時に、『無駄遣いはいけない!』と、厳しくおばあさん(母の養母)に注意されたのを覚えているのです。それで、今思うに、母は放任ではなく、しっかりと躾を受けて育てられたのが分かります。

 ですから両親に捨てられたのですが、養父母に愛されたのだと思います。養父は早く亡くなって、養母の手で育てられたようです。でも、友だちには兄弟や姉妹がいるのに、自分は一人ぼっちだったのが寂しかったと、私に、母が言ったことがありました。

 母が幾つの時か聞きませんでしたが、自分が、この母の子ではなく、お母さんは奈良に、お父さんは下関にいる、と言うことを聞いたと話してくれました。そんな母を、教会学校に連れて行ってくれた幼馴染がいたのです。そこで、聖書に記される神さまが、「父」であると教えられ、〈父(てて)無し児〉の自分に、《本物の父親》のいることを知って、大変に慰められ、喜んだのだそうです。

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 『お転婆だった!』と、母の親族で、母の子ども時代を一緒に過ごした、同世代のおばさんから、そう聞いたのです。その母は、讃美歌を歌い、聖書のお話を聞くこと、何よりも、「父である神」に祈ることで、孤独が慰められていたのです。それで熱心に教会に通っていた母の信仰について、『耶蘇は親の面倒を見ない邪教だ!』と養父母に告げ口をしたのです。それで教会に出席するのを禁じたのです。

 そんな母を、『台湾に売り飛ばしてしまえ!』と言って、そうされかけた時に、教会に知らせてくれる人がいて、教会は地元の警察に話し、警察は母を保護したそうです。命からがら、人身売買の難を脱れることができたのです。

 「サンダカン八番娼館底辺女性史序章(山崎朋子著、1972年刊)」と言う本に、天草の貧しい家から、ボルネオに売られた「からゆきさん」が描かれています。映画では、母と同級の田中絹代が、サキを演じていました。母は、ボルネオではなく、台湾に売られるところだったのです。やがて父と出会って結婚し、父の子四人を産んで、育ててくれました。自分の人生の不幸を、創造者の所為にしたのではなく、不幸を転じて幸福に変えてくれた神を認め得たのです。

 神は、意地悪をされるような、冷酷な方ではないことを知ったので、母の95年の生涯は、素晴らしかったのではないでしょうか。

 草を装うように、いえそれ以上に、母は祝福された一生を生きることができたのです。それを聖書は、『神のわざが現れるため』であったと言います。人の周りに起こる不都合さの原因は、人にあります。そう人の「罪」によるのです。その罪を、人が認め、その罪を赦すために、イエスさまが十字架、代わって死んでくださったことを信じられて、母は基督者として生き、夫も子たちも、孫たちも、その信仰を継承し得たのです。まさに、「よくしてくださる神」と出会ったから、いえ、神に見つけ出されたからです。

(熊本の天草、キクを演じた田中絹代です)
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如月

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 作詞が相馬御風、作曲が廣田龍太郎の「春よこい」があります。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

 今日から二月、旧暦だと「如月(きさらぎ)」と言います。この月名は、まだまだ寒さが厳しい時季ですので、上着や下着をもう一、二枚と重ね着したいと、どなたも思うのでしょう。それで「衣更着(きさらぎ)」になったのだそうです。お隣の中国でも、「如月ruyue」と言ってきていますが、通常は「二月eryue」なのですが、月の呼び名も、大陸との関係があるわけです。

 寒い冬が終わり、春に向かって万物が動き始める時期という意味があります。つまり、同じ漢字を使っているものの、「きさらぎ」と「にょげつ」で表している意味は違っているということになります。

 英語ですと February と言います。Februaryは、ローマ神話の月と贖罪の神「フェブルウス(Februus)」が由来なのです。『古代ローマでは、戦争で亡くなった戦士の霊を弔うために、毎年2月に慰霊と浄化のお祭りである” Februa”を行っていました。フェブルウスはこのお祭りの主神とも見られ、お祭りの名称もフェブルウスから取られています・・・』(Kiminiブログから)

 私たちの家のベランダから、西に「大平山」がみえるのですが、山肌が、枯葉色から盛り上がるような薄ピンクのような感じがしてきているのです。実際に先週、この山に行ったのですが、芽がふくらんでいるのが確認できたのです。春到来の準備万端が整っているのでしょう。

 この歌に出てくる「みーちゃん」は、作詞者の御風のお嬢さんだそうで、1921年(大正10年)に生まれているとのことで、母より三歳年下だったのですから、想像がふくらんでしまいます。雪深い新潟県糸魚川生まれですから、なおのこと、春を待って、外を「じょじょ」を履いて歩きたい思いが強かったに違いありません。

 この歳になっても、春の到来は、コロナ終息の願いと共に、どなたの思いの中でも強いのでしょう。わが家のベランダでは、ペチュニア、ラベンダー、ガーベラ、カランコエ、金魚草の花が、今朝など零下4℃の寒さを耐えて咲いています。

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まさか

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 栃木駅前から、目抜き通りだったと聞き、この3年ほど、散歩や買い物で通っている「みつわ通り」や「銀座通り」は、まるで休眠状態の商店や、住まなくなった民家が、ずっとそのままでした。一昨年の巴波川の氾濫があってから、一軒一軒と取り壊されて、さらに歯抜けのような状態になってきています。この辺りの住民は、栄えていた時代を知っていらっしゃるので、その寂しさは一入だろうと思ってしまいます。

 ところが、最近は、その更地で新築される工事が進んでいて、その槌音がよく聞こえるようなってきています。街というのは、何代も何代も住み続けるのかと思うと、どうもそうではなく、処分されて売られ、新しい人たちが住み始めて、新しい街になっていくのでしょうか。『この辺は、昔・・・』と言い出す人たちも、だんだんいらっしゃらなくなっているのです。

 ラジオ体操仲間で、昭和初期にでも建てられたのか、時代を感じさせる一軒の理容店の主人がおいでです。石灰石の産地の鍋山辺りの出身のお父様の代に、この街で開業されたのだとお聞きしました。多くの街の人の頭を刈り続けて、今日まできておいでなのです。先日、その前を通ったのですが、店から、なにやら色々な箱が運び出されて、店の脇に置かれていたのを見て、いよいよ廃業されるのかと思ったのです。ところが、一昨日、散歩で店の前を通りましたら、あの理容店の赤青白の広告塔( Barber’s pole /赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表しています)が回っていて、営業しておいででした。

 この地で知り合った方が、『亡くなった夫も義父も叔父も、みんな髪を刈ってもらった床屋さんなんです!』と言っておいででした。職業柄、街の人の動きなどの情報を持っていて、この街で生き続けてきた顔なのでしょうか。近くに明治期から続く旅館があってたそうで、そのお嬢さんが有名な女優さんの実家だったそうですが、今は、コンビニに変わってしまっているようです。

 そう言えば、ラジオ番組の担当者( personality )が、長い留守中に聞かなかったこともあって、いつの間にか代替わりしていて、ある方は、もう亡くなったと聞いて、時の移り変わり、街の移り変わり、人の移り変わりは、流れゆく川の流れのように、〈元の水、人、街にあらず〉なのだと、つくづく思ってしまいます。

 もう何年もすると、『ああ、この辺りに、ちょっと変わった老夫婦が住んでいましたね!』とか言われそうです。いつでしたか、子どもの頃に、キャッチボールや追いかけっこをし、父ともキャッチボールをしていた道を通ったことがあっのですが、全くの様変わりで、記憶と現実の差の大きさに、寂しくも感じたことがありました。

 生まれた家だって、50年前には、まだ建っていたのですが、その後に行った時には、傾いてしまっていました。最後に通った時には、跡形もなく片付けられていたのです。そんな同じ光景が、ここの街中に見られ、住む人も変わっていくのでしょう。『いたらしいですね。お嬢さんが近くに住んでおいでだそうです!』と、以前住んでいた人たちの様子が、朧げになっていってしまうのは、寂しくもあります。

 江戸や明治の世には、人も物も噂も、賑やかだったのでしょう。巴波の流れを眺めていると、そんな時代の人がそぞろ歩く下駄の音や、舟に棹さす水音が聞こえてきそうです。私にとっては、まさかの栃木、それなのに地元民のように生活しておられるのが不思議でなりません。栄えた下駄屋さんの看板だけが残って、空き家になっている前を、今日も通りました。
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ダシ

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 長田弘に、「ことばのダシのとりかた」と言う詩があります。

かつおぶしじゃない。
まず言葉をえらぶ。
太くてよく乾いた言葉をえらぶ。
はじめに言葉の表面の
カビをたわしでさっぱり落す。
血合いの黒い部分から、
言葉を 正しく削ってゆく。
言葉が透きとおってくるまで削る。
つぎに意味をえらぶ。
厚みのある意味をえらぶ。
鍋に水を入れて強火にかかて、
意味をゆっくり沈める。
意味を浮きあがらせないようにして
沸騰寸前サッと掬いとる。
それから削った言葉を入れる。
言葉が鍋で踊りだし、
言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら
掬ってすくって捨てる。
鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら
火を止めて、あとは
黙って言葉を漉しとるのだ。
言葉の澄んだ奥行きだけが残るだろう。
それが言葉の一番ダシだ。
言葉の本当の味だ。
だが、まちがてはいけない。
他人の言葉はダシにはつかえない。
いつでも自分の言葉をつかわねばならない。

 論理的でない言葉が横行している時代だと、この時代の言葉の問題点が指摘されています。言葉の正しい使い方を学んでいない、とくに若者が多くなっているそうです。学校では、習わないのです。ところで明治に活躍した文人の国語力には、驚かされてしまうのです。

 永井荷風が、「十六、七のころ」と言う文章を書いています。

 『・・・わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中(もなか)である。流行感冒に罹(かか)ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人(こうようさんじん)の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。

 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中(うち)またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史(はいし)小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝(すいこでん)』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣(こうかん)な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。・・・』

 病弱な中学生の荷風は、すでに漢書を読んでいたのでしょうか。「中年以後」に、それを読み返したかったようです。時代が下るに応じて、日本人の国語力が劣ってきているのです。父や祖父の時代の書物には、きれいな言葉遣いがあって、言葉が選ばれているのです。今は、スマホやパソコンやタブレットの操作で、字を書かない時代になってしまって、それで、自分でも漢字力が落ちているのを感じています。「推」にするか、「敲」にするか迷った作者の表情を思い浮かべてしまいます。

 ネットサイトに、「難読漢字」が見られますが、時々読めるものがありますが、不必要な言葉もありそうで、何か興味本意のように思えるのですが、読めないと悔しい思いもしてしまいます。美しい言葉を受け継いできたので、荷風の年齢に少し加えて、「老年以後」に、明治や大正の作品を、「青空文庫」を開いて読んでみたいなと思っています。

 「ダシ」の効いた文章には魅力を感じます。昆布や鰹節や椎茸でとったダシは、化学調味料を極力使わないで食事作りをしている私には、母の味を思い出させてくれるので、懐かしい味がしてくるのです。古典も、そうなのでしょう。

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浮動

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 この地球を、「不動の大地」、「盤石の基盤」と言われてきました。それで、しっかりと大地を踏みしめて、揺るぐことなく生きるように励まされて、私は両足をしっかりと、この大地の上に置いて、これまで生きて来ました。でも時々、この大地は揺らいでいたのです。中国にいた時、台湾の地震が起きた時に、私は八階ほどの知人の家で食事をいただいていた時でした。珍しく大きく揺れ、立ち上がるほどだったのです。滞華13年間で、たった一度だけの揺らぎでした。

 ところが、私の生まれ育った国は、「地震・雷・火事・親爺」ですから、帰国以来、何度地震を経験して来たことでしょうか。先週のニュースでは、日向灘の海底を震源とする、震度5強の地震が、九州や四国にあったと伝えていました。盤石だと言われ、そう信じてきた、この地球は大丈夫なのでしょうか。

 この球形の地球が、宇宙空間に浮いていること、しかも地球にはマグマが内蔵され、その活動が、噴火や爆発をさせています。時々、入浴に出かける「栃木温泉」は、『地下1000mまで掘削』して湧き出した源泉だと、表示されている温泉ですから、地下水を温める熱源が、地球内部にあると言う証拠です。また、南太平洋のトンガで、海底爆発があって、その爆発が津波を起こし、日本列島にも及んだと、先頃は伝えています。

 そればかりではなく、大気が汚れ、宇宙空間に打ち上げた宇宙船や、その機材の多くがゴミになって浮遊していますし、いつ降ってくるかわからない時代に、私たちの地球は囲まれています。そればかりではなく、星屑が地球に落ちる可能性だって大きそうです。地は揺れ、星は落下してくる、地球は、確かに安全性を失いつつあるのかも知れません。

 神の創造による世界は、初め、『それは非常に良かった。(創世記131節)』、『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。(創世記21節)』とあります。完成された、美しい世界が、今や均衡を崩し、問題を生じさせたのが、人の果てしない、飽くことのない欲望によったのだと、科学者は結論づけています。そう「罪」の結果なのだと、聖書は言うのです。預言者は次のように言っています。

 『山々は主の前に揺れ動き、丘々は溶け去る。大地は御前でくつがえり、世界とこれに住むすべての者もくつがえる。 (ナホム15節)』

 大地は、宇宙は、叫び声を上げています。だ地球を覆う大気圏も大気圏外も、まさか車の排気ガスで汚れようとは、フォードも豊田佐吉も思いもしなかったことでしょう。ここを生活の場としている人々は、恐れと不安で、心が満たされています。地球は、その機能や役割を回復させることができるのでしょうか。天気の冬の夕暮れ時の南に140kmある「富士山」が眺められます。『鳴動して、爆発があるのだろうか?』と、時々思うのです。今朝の富士は雲の中です。まさに浮動の地球です。

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ハンバーグ

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 暮れから正月にかけて、お邪魔した中国人のご家族の家で、夕食の用意を一度だけさせていただいたのです。中国でも、何度も作った招待料理で、《和風ハンバーグ》とネギと卵の片栗粉スープを私が作り、ポテトサラダを家内が作ったのです。

 けっこう上手にできて、五人で食卓を、和気藹々で囲んで、楽しく食事をしたのです。これは、母が作ってくれた物を真似て自分流に少し変えたり、加えたりして作っています。当時、お肉屋さんには、挽き肉は作り置きがなかったので、母は、わざわざ挽いてもらっていたのです。

 育ち盛りの4人の胃袋を満たすのは大変なことだったろうと、今になって思っています。どんな有名店と比べても、あの味も形状も匂いも、勝るとも劣らない、いえ母のが一番の美味で、まさに《お袋の味》だったのです。

 1959年から1965年の間、当時のNET(今のテレビ朝日の前身です)というテレビ局から、「ローハイド( Rawhide )」と言う、カーボーイの西部劇番組が放映されていました。当時の一番人気の番組で、一時代を画したと言えるでしょう。もう勉強はそっちのけで、夕食時に喰い入るように観たのです。

 舞台は、アメリカのサンアントニオ(Texas )からセデリア( Missouri  州)まで、3000頭もの牛を運ぶ物語でした。後に有名な俳優や映画監督となるクリント・イーストウッドが「ロディー」副隊長の役で、隊長の「フェーバーさん」をエリック・フレミングが演じていました。そのカウボーイたちの食事を作るコックの「ウイッシュボーン」が、腕を振るっていたのです。

 調理された肉や豆やグリーンやパンを、木株や地面に座って食べる場面が、きっと毎回あったのです。それほど豪華ではないにしろ、一日の牛追いの労働から解放されて摂る夕食が、野生味があって美味しそうでした。それと、母の作る洋食(アメリカ食ではなくドイツ食でしたが)の《ハンバーグ》の味が重なり合うのです。

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 普段は、箸で食べるのですが、ロディーたちの真似をして、fork に持ち替えて、ハンバーグを砕いて、ご飯と混ぜて口に運ぶのです。そうするとテキサスの砂っぽい草原の匂いや味がして、フェーバーさんやロディーになったかのように思えて、なんとも美味しかったのです。

 豊かなアメリカが、当時の私たちニッポン少年には、憧れだったのです。繁栄とは程遠い、テキサスに草原を行く男だけの社会は、高度成長期にあった日本では人気の絶頂だったのでしょう、少なくとも自分にとっては、ものすごい刺激となっていました。

 そのハンバーグを作ってくれた母が行っていた教会は、Texas    出身の宣教師さんが牧会をしていました。フェーバーさんとは雰囲気が違っていましたが、青い目の好男子でした。長く母を信仰的に養ってくださった方だったのです。我が家でも、家庭聖書研究会が持たれていたでしょうか。この方は、馬の代わりに車を持っていて、信者さんを送り迎えしておいででした。家内も、そうされた一人だったようです。

 ドイツが原点のハンバーグですが、母手作りの和風ハンバーグも、Texas の草原の夕飯も、ただただ懐かしの一言に尽きます。一度、Texas に、さまざまな思いを抱きながら行ってみたいものです。
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愛知県

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 テレビで聞こえて来たCM で面白く聞いたのが、南利明(脱線トリオの一人)が、『ハヤシもあるでヨー』でした。これが〈名古屋弁〉、遠江弁でも関西弁でもない、独特な語尾が印象的でした。そうしたら、「きしめん」や「八丁味噌」や「名古屋コーチン」が全国区になっていきました。

 長男の嫁御が、愛知県の人で、知多半島の出身です。三浦綾子の「海嶺」に出てくる、三吉(宝順丸の船員の岩吉・久吉・音吉のことです)が所属していた小野浦の近くに、この三吉の頌徳記念碑があり、お父さまに連れて行っていただいたことがありました。その時、伊勢海老まで、美味しくご馳走になってしまいました。

 その船が、鳥羽を出て江戸に向かう途中、遠州灘で遭難し、太平洋を漂流してしまうのです。1832年のことでした。14人の乗組員のうち、14、5歳の三人だけが生き残り、14ヶ月後に、アメリカ大陸の西海岸、カナダに漂着します。インディアンに助けられるのです。バンクーバーからハワイを経由し、イギリスに行き、マカオに着きます。

 そこで、この3人の世話をしてくれたのが、ドイツ生まれの宣教師カール・ギュツラフでした。語学に自信のあるギュツラフは、3人を相手にして聖書の日本語での翻訳の作業を開始するのです。1年がかりで「ヨハネ伝福音書」と「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成したのです。最初の日本語訳でした。私は胸を躍らせて、この三人の物語を本と映画で読み、そして観たのです。

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 少なからず個人的な関わりのある愛知県ですが、律令制の下では、尾張国と三河国とであって、517万の人口を擁し、名古屋市が県都です。伊勢湾の沿岸を中心に、中京工業地帯を、三重県にわたって形成している日本有数の経済圏です。県花はカキツバタ、県木はハナノキ、県鳥はコノハズクです。

 歴史的には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を産んだ地で、戦国期から安土桃山期、江戸期にわたっては、この地の指導者が日本を支配して来たことになります。とりわけ、群雄割拠の時代を最終的に終結し、征夷大将軍となったのが、三河国岡崎の出の家康でした。ついに支配264年の江戸幕府を開幕して、天下を治めことになります。

 北関東に住み始めた私は、家康が、江戸を都としたことは、実に賢い決断だったと、今更ながらに思うのです。この広大な関東平野から日本全土を支配しようとした先見の明には、家康が天下人となったのに納得がいきます。大平山の中腹から、南に大きく広がる関東平野を眺めた上杉謙信が、その広大さに感嘆したように、令和の余所者の私も、同じように感じるのです。

 トヨタに代表される、自動車産業は活発で、製造業としての中京工業地帯の「製造品出荷額等」は、44年もの間連続して全国第一位で、2位の神奈川県を大きく引き離しています。

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 そう言えば、伊勢湾台風がありました。「1959年(昭和34年)の9月27日、潮岬から上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風でした。伊勢湾沿岸の愛知、三重の両県での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられています。死者・行方不明者の数は5000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった(ウイキペデイア)」と告げています。災害の歴史は、繁栄の背後に隠れていますが、いつも覚えておくべきことではないでしょうか。

 戦争に敗れたり、何よりも地震や台風や冷害など、度々起こった災害や事件を乗り越えて、たくましく回復して来た日本の強さは、悲観することなく、頑固なほどに復興に専心しようとする思いを生み出す、逞しさもあったに違いありません。温暖な気候に恵まれてきた愛知県人は、その堅実さで逆境をも超えて来ているのでしょう。

 小学生だった次男と、犬山城を訪ねたことがありました。1537年に建てられ、その天守閣は、現存する最古のものです。小ぢんまりした城で、木曽川の河畔の小高い丘の上に建てられていて、風格があります。姫路城とか名古屋城は巨大なのですが。権勢や偉容を誇るために建てられた城としては、織田信康(織田信長の叔父)が建てたにしては、ずいぶん造りが謙虚なのです。天守閣に伸びる階段は狭かったのが印象的です。

 東京圏と関西圏の間にあって、日本の根幹、基幹産業を担って来た強い自負心が、『あるでよー!』の中京圏、愛知県なのでしょう。

(春の「犬山城」の遠望です)

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