キラキラとして

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 わたしは、いわゆる「鉄ちゃん(鉄道趣味人の愛称で30ほどのグループ分けがあるそうですね!)」ではありませんが、だれもが、知らない街を訪ねたいと言う思いに駆られることがしばしばあるのです。車を運転してではなく、鉄路の上を走る電車や、峠道を越えて行くバスなど、できれば馬車や牛車に乗って、ぶらりと出歩きたい願いがあります。どうも放浪癖や逃亡癖があるのかも知れません。

 香港の九龍駅から北京までの列車に乗ったことありました。 国情が変わってしまい、今は昔と言ったところです。2006年の8月の終わりのことでした。ブラジルやイギリスやアメリカからの若者たちに混じって、天津で中国語を学ぶためにでした。車窓から見えたのは、ずっとコウリャン畑だったように感じたのです(夜半は寝ていましたが)。その広大さは、アメリカ合衆国のワシントン州からモンタナ州を訪ねた時と同じような感覚でした。

 いつかは、アメリカ大陸を東西に走る大陸横断列車に乗ってと思っていましたが、家内の二人の姉が帰天しおり、南東部の街を訪ねる機会がなくなってしまいましたので、さらに難しそうですね。” Pacific Rail way “ でロッキー山脈を越えたら、どんな気分になるか、想像を逞しくしていた時もありました。

 父の家の近くに、駅や踏切や貨物の受けおろしの引っ込み線があり、また、国鉄職員住宅、それに、一番楽しかったのは「保線区」があったことでした。主に夜間、列車運行のない時間帯に、鉄路の保守点検や修理、レールや枕木やバラスト(レールに台座の枕木と枕木の間に置かれた小石のことです)の交換などの仕事をしていた、縁の下の力持ち、影武者のような役割を果たす支所があったことでしょうか。

 その作業場には、キチンと整頓して置かれていた道具や工具や部品やカンテラなどがあって、それを触らせてくれたのです。駅でも保線区でも、当時は灯りには、カーバイトから出るガスを燃やしていたので、その残りカスをもらって、小川に入れると、モクモクと白い煙を出して、魚が浮いてしまうので、それを使って魚取りもしました。あの油っ臭い匂い、カーバイトの匂い、鉄の感触が、男の子の冒険心をくすぐってくれたのでしょう。

 乗ったり、見たり、撮ったり、集めたりするようなmania にはなりませんでしたが、陰で、列車の運行を支えている部門を知ったのは、何かすごい宝物体験のような気持ちにされています。仲のよかった、一緒に立たされ坊主になったのですが、立ったまま家に帰ってしまい、呼びに行ったことがあるM君は、国鉄職員のお父さんの転勤で、どこかに転校してしまったままでいます。きっと、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員をして、ひ孫の産まれるのを待っているかも知れません。

 栃木県下に、「真岡鐵道(もおか)」があるのです。JR水戸線の下館駅と茂木(もてぎ)駅間を繋ぐ鉄道です。下館駅からは、関東鉄道常総線でJR常磐線の取手駅まで行くことができます。「乗り鉄」ではありませんが、いつか栃木駅から両毛線で小山駅に行き、そこから水戸線に乗り換えて下館駅で降りて、真岡鐵道で茂木駅まで行って、帰りは、真岡駅まで戻って、そこからバスで宇都宮線の石橋駅に出て、そこから小山、栃木と帰って来る計画があります。来春、桜の季節が、沿線は綺麗なのだそうです。

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 そう言えば、駅員用に「diagramダイヤグラム」があって、複雑な線を読んで、駅と駅の間の運行が決められていたのです。それも見せていただいたことがありました。交通公社発刊の「時刻表」よりも100倍も面白くて、見入っていたこともあります。西武線の駅に停まってる電車の開閉スイッチに触れて、開閉器を動かしたら、ドアーが開いて、閉まったのです。『シマッタ!』と、驚き戸惑ったのですが遅かったのです。知らん顔をして済ませて、怒られませんでした。中学生の時だったのです。

 男っぽく動く機関車は、昔も今も、子どもの憧れの的なのでしょう。下今市の機関区から出た機関車に引かれる展望車に乗っている子どもたちの目が、保線区の工具や備品を眺めていたわたしと同じようにキラキラ輝いていました。

(「デゴイチD51」の機関車、「中央線のダイアグラム」です)

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移住願望かドリアン願望か

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 今、「移住」を考えている最中です。こう考えることが、これまでしばしばありました。きっと逃亡癖や漂泊癖があるのかも知れません。どこへかと言いますと、ハワイでもモンタナでもハイデルベルクでもなく、「シンガポール」なのです。なぜだか分かりますか。美味しい小龍包があるからでも、実演麺作りの蘭州拉麺があるからでも、何百種と言う花の咲く蘭園があるからでも、波風を頬に感じながら食べる美味な伊勢海老があるからでもないのです。

 長女が10年も仕事で住んでいたシンガポールに、何度も呼ばれて訪ねたことがありました。仕事と任地を離れさせてくれたのです。わたしたちは、学期終了後の夏季休暇や正月休暇に、中国の華南の街から飛行機に乗って、意気揚々としてチャンギ空港に降り立つと、同じ中華文化圏であるのですが、明るさと清々しさ、そして自由を感じて、その違いに驚かされた訪問だったのです。

 もうバスに乗って、市内を動く回ることができるようになるほどでした。習い覚えた中国語が通じるのも、便利でした。お隣のジョホウルバール(マレーシア)に連れて行ってもらって、滞在期間の延長までしていた時もありました。赤道直下の街なのに、とても気に入っていたのですが、それが、移住の動機ではないのです。

 この街に、〈いないもの〉があるからなのです。〈いない〉のは「蚊」です。〈ある〉のは「蚊」を発生させない国の厳しい「蚊対策」なのです。10月に入って、気温が下がってきたので、テント式の蚊帳を畳んで仕舞ったら、先日、2日連続で隠れていた残留兵の「蚊」に刺され、ある晩は5箇所も刺されてしまいました。

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 刺すのはメスの蚊で、刺されるのはオスの人間なのだそうです。この蚊は、1ヶ月も長生きするものがあるようです。それで、10時近くになっていましたが、押入れから出してきて、簡易蚊帳(中華製なのです!)を開いて、セットしてしまったのです。ホット安心して横になったら、その「移住」を考えてしまったわけです。それには、シンガポールが一番最適だと、秋深くなってきた今頃に考え付いたわけです。

 寒さも暑さも、問題なく生活できるのですが、この「蚊」は、まさに天敵なのです。玄関に、買った蚊退治の新製品をかけてあってもだめ、蚊取り線香を焚いてもだめなのです。厚生労働省に、「蚊対策庁」を設けて、撲滅対策を国を挙げて講じて欲しいと思い続けているところです。

 国から、いえ納めた税金から戻ってくる10万円とか5万円の援助よりも、蚊撲滅対策を優先して欲しいのです。今度、ここから選出された国会議員に会いましたら、提言したいと思っているところなのでもあります。

 そのシンガポールでは、果物の王様の「ドリアン」が、隣のタイから輸入されて、「榴莲liulian市場」で安く売られていて、美味しくて、たくさんで、わたしを惹きけてやまなかったのです。もしかすると、蚊から逃れるためではなく、美味しくドリアンを思いっきり食べたくなったからかも知れません。ここには、果物の女王様もあるのです。
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夜汽車の向こうに

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 季節が秋だからでしょうか、夜汽車、しかも蒸気機関車の汽笛の音に、極め付けの郷愁を覚えてしまうのです。父が国鉄車輌のブレーキの部品を戦後になって作る会社にいたからか、鉄路の近くに住んだことがあるからか、国鉄勤務の級友のお父さんが勤めていたからか、近所で一緒に遊んでくれた兄の同級生が、中央線の車掌をしていたからでしょうか、この幾つもの「からか」は、よその世界の出来事ではなかったのです。

 都下の町の駅から新宿に出て、東京駅から、急行の「出雲(いずも)」に、母に連れられ、兄たちと弟とで乗ったのは、小学校に入って間もない頃でした。まだ福知山線や山陰線は電化してなかったので、蒸気機関車が牽引していた時代でしょう。その硬い座席で、その汽笛を聞いた記憶があるのかも知れません。

 先日、通院の診察が終わってから、車で送ってくれた息子に、日光の宿泊施設の「オリーブの里」に連れて行ってもらったのです。途中、東武線の踏切の遮断機が降りて、待っていましたら、蒸気機関車が汽笛を鳴らしてやって来たのです。あんな目前を走る汽車は久し振りでした。やはり、あの音も煙も蒸気も懐かしく、昭和ノスタルジーの世界を蘇らせてくれるのです。

 真岡鐵道も同じような “ SL蒸気機関車を週末に走らせ、観光の目玉にしているそうです。今の子どもたちの父親の世代には、そんな復古調のブームはなかったのですが、平成が終わり令和の世になったら、『昭和が輝いていた!』と懐かしく感じられ、脚光を浴びています。いえ、観光の仕掛けで、このなんとも言えないような閉塞社会を打ち破りたい、そんな思惑があって、どこもかしこも「懐かしさ」が叫ばれています。

 最近、YouTube で、「前面展望」と言う映像がアップされていて、わたらせ渓谷鉄道、東武鬼怒川線、JR只見線、野岩鉄道、会津鉄道、岡山から出雲を走る特急などが放映されています。模擬乗車ができて、振動さえも伝わってくるようですが、あたりを見回すことができませんし、途中下車も叶いませんから、架空空間にいるようで、やはり物足りません。

 旅に誘う秋の風が、頬を撫ぜて吹き過ぎていきます。晩秋を迎え、雪がチラつき、氷が張り、寒風が吹いてくる季節に、向かって季節は動きつつあります。楽しく意味のある交わりがあった若い日を思い出してしまいました。お兄さんのように慕って、彼の回りに、少壮の有志たちが、いろいろな背景の二十人近く集められて、語り合った日がありました。その「兄貴」が、八十数年の馳せ場を走り抜けて、帰天されたと、一緒の時を過ごした主の器から、昨晩いただいたお電話でお聞きしました。

 同世代、わたしたちよりも若いみなさんも、主からの召命に従って生き抜いた生涯を終えられ、そろそろ安息の中に帰られておられる知らせが届いています。そうですね、走馬灯にように、一コマ一コマのスライド映像のように、懐かしい場面が、まぶたの裏に映し出されてくるのです。あの兄貴の《はにかんだ笑顔》が浮かんでまいります。いっしょにオレゴンに教会視察に同行したことも、テニスの手合わせもしたりした方でした。

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アサギマダラの旅を羨む

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(桐生市梅田町四丁目に住む水野雅雄さん13日午前撮影)

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 今夏、去年の花の種が落ちた土を、再利用していましたら、時季が遅くなってでしたが、朝顔が芽を出してきたのです。ずいぶんたくさん、今季も咲いてくれました。綺麗に咲き始めた頃に、急に花の棚が明るくなったので、葉を見ると虫食いの跡が見えたのです。花を、まだ咲かせたいわたしは、肥え太った3センチほどのさなぎが2匹もいました、それを取って、眼下のツツジの生垣に落としてしまったのです。

 蝶々がたびたび飛来していましたから、それが、朝顔の葉の裏に産み落としたのが、成虫になっていたのでしょう。先週末、お隣の群馬県の桐生市で、南に帰って行くアサギマダラが、フジバカマの花で吸蜜をしている写真が撮られて、ニュースサイトに載っていたのです。

 蝶の種類はちがうのでしょうけど、花を取るか蝶を取るか、悩むところでしたが、蝶の蛹には他所に行ってもらいましたので、十月中旬まで、朝顔の花が咲き続けました。思い出すのは、華南の街のベランダでは、新年が明けても、朝顔が咲き続けていましたから、さすがの亜熱帯気候地だったわけです。

 昨日の news site で、桐生タイムスの記事に、アサギマダラが飛来してきて、南に飛んでいくための栄養補給でしょうか、吸蜜している写真がありました。どんな花からかと言いますと、「フジバカマ」なのです。散歩道で見かける野草です。自然界のサイクルと言うのでしょうか、南に飛び帰るためのアサギマダラへの創造のタイミングの良さに、造物主の知恵や恩寵が感じられて、神さまをほめたててしまいました。

 鶴がヒマラヤの高嶺を越えて行く姿を、映像で見たことがありますが、鶴の個体とアサギマダラの個体の違いを考えてみますと、アサギマダラが香港で見つかったと言うニュースを聞いて、どこに、それだけの距離を飛翔できるエネルギー、蝶力が蓄えられているのか、驚かされます。体重が軽いので、風に身を任せて飛ぶことができますが、逆風だってありそうですが、季節に応じて、向きを変える風を見つけ、それに身を預ける本性にも、さらなる驚きを覚えてしまいます。

 被造物の内側に、自分の創造主を認めるものが、溢れるほどにあるのに、どうして人は、神に離反して、認められずにいるのでしょうか。木を切り刻んだ物、土や金属をこねた物、月や星や太陽を、人は拝むのを、「的外れ」と言うそうです。そう勘違いをしているのです。それこそが、「罪」だと、聖書は言っております。わが家の一坪半ほどのベランダで、命を輝かしている花や葉や種が、この自分の目を慰め、心を感動で溢れさせてくれるのは、造物主の恩寵なのです。

 桐生タイムズに、次のような記事がありました。

 『桐生市梅田町四丁目に住む水野雅雄さんは13日午前、自宅の庭に咲くフジバカマで蜜を吸うアサギマダラを見つけ、写真に収めた。アサギマダラはその名の通り「浅葱(あさぎ)色」の羽根をもつタテハチョウの仲間。旅するチョウとしても知られており、毎年春から初夏にかけ、南西諸島から海を渡って九州、さらに本州へと北上。群馬や長野、福島といった内陸の高地で繁殖し、秋になると九州、沖縄方面にまで旅をする。2000キロ近い長旅をする個体もいるという。桐生・みどり地域でも毎年、フジバカマやアザミなどに立ち寄る姿が目撃されている。「1時間ほど、花の周囲を飛んでいました」と水野さん。一休みして英気を養うと、風をつかんで南に旅立った。』

 アサギマダラとは違った使命を持って生きているわたしは、アルゼンチンやブラジルまで飛んで行ったことがあります。成田からトロント、サンパウロ、を経由して、ブエノスアイレスに運ばれたのです。それは大掛かりなガソリンエンジンで飛ぶ飛行機に乗ってでした。風に吹き飛びそうなアサギマダラが、あのような生を謳歌している姿を見て、神のいますことを、改めて感じて、神さまに感謝しているところです。

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褒められることなくとも

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 今まさに迎えている「秋」は、《褒賞の時》でもあります。父は、男の子を四人与えられて、その養育をしながら、この四人のだれか一人くらいは、プロのスポーツ選手になってか、学術部門で顕著な研究や功績を残してか、社会のために何がしか貢献してか、賞を取れる様な人になって欲しかったのかどうか、今頃、考えています。

 思い返してみますと、そう言ったプレッシャーを、子どもの頃に、掛けられたことはありませんでした。『学問だけはさせてやるが、金は残さない。後は自分で生きていけ!』、そんな育て方をしたのだと思います。上の兄が、大学受験を迎えた時、兄は、文学部に進学して、高校の国語の教員になりたかったようです。

 ところが足が早かったので、大学の運動部に入って活躍して欲しかったのか、別の道を兄に勧めたのです。その父の思いが叶ったのでしょうか、大学選手権をとったときのスタメンで、テレビにも映るほどになったのです。そして、上場一部の会社にも就職し、将来は取締役員にでもと期待したのかも知れません。父の期待の星でした。

 自分たちの老後を、兄に面倒を見て欲しい思いが、少しはあったのではないか、そんなことを今になって思い返しています。ところが、その会社を、兄は中途で辞めてしまって、アメリカ人宣教師の助手、伝道者になってしまったのです。それには、父が目に見えるほど落胆していたのが分かりました。

 そんなことがあったのですが、両親の面倒をみたのは、父の次男、すぐ上の兄でした。上の兄ほどの期待はかけられなかったのですが、この兄が、61歳で父が亡くなり、95歳で母が亡くなるまで面倒を見てくれたのです。人の計画や願いと、実際とには違いがあるのですね。

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 この兄は、父が長生きすることを願っていたので、『生きていたら温泉に連れて行って、背中を流して上げたかったな!』と、しみじみと言葉を漏らしていたことがありました。父は、この兄を、そうとう厳しく躾て育てていたのに、父に一番優しく接していたのは、4人の中で、この兄だったのです。

 四人兄弟も今や、兄たちは八十路、わたしも弟も七十路ですが、もうすぐ八十路に突入しそうです。みんな、父を年齢的に追い越してしまって、父が一番若くなってしまった様に思えるのです。四人が、仲良くできているのは感謝なことです。それこそが、父と母の切に願ったことだったに違いありません。何の褒賞を得ることはなくとも、一市民として、凡々と課せられた責務を誠実に務め上げたのではないかと思っています。

 そんなことを思っていたら、福沢諭吉が、明治維新政府から、何かの褒賞を贈りたいとの話が起った時、屁理屈を言ったのを思い出したのです。『車屋は車を引き、豆腐屋は豆腐をこしらえ、書生は書を読む。人間当然の仕事をしているのだ。政府が褒めるというのなら、まず隣の豆腐屋から褒めてもらわなければならぬ!』と言って、それを辞退した話を思い出しました。

 『褒められることの少ない人生だったなあ!』と思う昨今、「収活(終活にしたくないので、こう言います)」を始めつつあるこの頃ですが、褒められずとも、もう少しすべき事が残っている、そう感じている「秋」の午後であります。

 

研ぎ手

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 箴言に、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる(2717節)」とあります。エッサイの8番目の子として生まれたダビデは、まさか自分が神に選ばれた民の王となることも、救い主の家系となることも、そのキリストであるイエスさまご自身が「ダビデの子」と認められたことも、まったく考えたことなどなかったに違いありません。

 ある人の人生は、自分が考え願ったように展開し、思いのままに生きられるかも知れません。みなさんはいかがでしょうか。『したい!』と願ったような仕事についておいででしょうか。結婚も、『この人』と願った通りだったでしょうか。老後だって、『あんな風に生きていこう!』と計画しておいででしょうか。ところが私たちの現実は、ほとんどの場合、願ったこととはかなりの差のある所にあります。その差を受け入れ認めて、私たちは今日まで生きて来ているわけです。

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 ダビデも、父の羊を分けてもらって、一家を成し、平凡に牧羊業を生業として、一生涯をベツレヘムの周辺で生きて行く以外の可能性を、考えることがなど出来なかったのでしょう。そんな彼が、牧場から連れて来られて、預言者サムエルの前に立ちますと、万物の創造者でいらっしゃる神である主が、「この者がそれだ(12節)」と言われたのです。

 としますと、主なる神さまには、ダビデの人生に特別で明確な計画をお持ちであったことになります。エレミヤ書に、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ~主のみ告げ~それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ(2911節)」とあります。

 これはバビロンに捕囚として引かれて行った民の残りの者たちへの主のことばです。主なる神さまは、一人の人の人生だけではなく、民族や国家にも計画をお持ちなのです。この「計画」とは、目的や意味のことであります。

 ダビデの71年余りの生涯にも、主は「計画」をお持ちだったのです。私はこれまでの年月、1つの願いを持って生きてまいりました。私が牧師として任職される直前に、アメリカからパスター・トムが訪ねて来られたのです。彼は、『私の牧会上の節目となったのは、一人の忠実な若い兄弟が救われてきて、彼と彼の家族が私と共に立ち、私を支えてくれたことだった!』と分かち合ってくれたのです。

 その日から、彼の言葉が私の心の中に1つの願いを生み出し、その願いを持ち続けて今日まで生きてまいりました。自分の弱さを知っても祈ってくれる友、他者の中傷や非難の言葉に同調しないで、共に立ってくれる友、互いに祈り合い、忠告し合い、赦し合える、《信仰の友》の出現を期待したのです。教会の外ではなく中にでした。

 私は、ダビデを語り続けてまいりまして、彼もまた一人の人として、弱さを持っていることを知って、大変に安心させられたのです。もちろん私が罪を犯すことの言い訳のためではありません。人の弱さや罪性が暴露されるのは、私たちの人生の計画書をお持ちの神さまが、私たちの安全と保護のためになさることだと分かったのです。その同じ罪を犯し続けることのないためにです。

 決して私たちを断ち滅ぼそうとされているのではありません。ダビデは、あのバテ・シェバとの破廉恥な罪の後、どのように生きたのでしょうか。それをうかがい知る事の出来る記事が、列王記第一にあります。「・・彼女を知ろうしなかった(1~4節)」と記されてあります。彼が老人であったから卓越し、達見していたからではありません。彼は、意思して、女に触れようとしなかったのです。
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 「人はその友によってとがれる」とありました。キング・ジェームス訳と原典とには、「・・友<の反対・怒り・顔つき・支持・賛成・受け入れetc..・・>によってとがれる」とあります。神さまはご自身の計画の実現のために、神さまの御心に適った者とするために、私たちを放っておかれません。生まれながらの感情や習慣のままに生きることの中から連れ出して、神さま好みの人造りをなさるためにです。そのために「友」を用いられます。一人の人を取り扱って、神の御心に適った人とするために「研ぐ(とぐ)」のです。

 そのような使命を担って私たちのそばに送られる人を「友」と言うのではないでしょうか。きっとみなさんにも、多くの友人がおいででしょうね。神さまに遣わされた人が、罪を犯しているなら、あなたの言葉や顔つきや反抗的な態度で、彼を傷つけて、研ぎ上げて上げられるでしょうか。それとも盲目的に友人のままで、彼の過ちを黙認してしまうでしょうか。

 聖書に、「愚かな者の友となる者は害を受ける(箴言1320節)」とあります。害を受けないために、『知恵のある者と共に歩みなさい!』と言うのです。そうすれば、「知恵を得る」のです。

 ダビデにとって、ヨナタンもナタンもフシャイもイタイもバルジライも彼の友でした。彼らはみなダビデの<研ぎ手>でした。とくにナタンの言葉は、鋭く彼に迫りました。ダビデの犯した罪を認めさせ告白させ悔い改めさせているのです。またヨナタンからの「女にも勝る愛」は、親切で温かな言葉と応対とで、絶望や悲観と言ったマイナスな思いを、ダビデから削り落として、生き延びる明日への希望、エレミヤの言葉によりますと「将来と希望」を与えることができたのです。

 もう一人、ダビデの近くに、神さまが人を置かれました。母違いの姉ツエルヤの子ヨアブです。この二人は、オジ甥にあたります。 彼は3人兄弟の次男でした。この3兄弟をダビデは、「私にとっては手ごわすぎる」と言いました。それは、反抗的な問題児、「トラブル・メーカー」と言う意味なのです。多分、ヨアブはダビデの近くで育ったようで、年令も近かったのです。また互いの背景を熟知していて、弱さも強さも知り抜いていた間柄だったと思われます。そんな問題児で心配の種だったヨアブは、ダビデが死ぬまで終生離れないで、まったく反逆心を持たなかったのです。軍事的には有能な戦士として、ダビデよりも優れていただろうと言われてます。ただ政治的な手腕や才覚についてはダビデに劣っていたのですが、決定的な違いは、神からの「祝福」のあるなしでした。

 ヨアブについて次のような記事があります。「この知らせがヨアブところに伝わると~ヨアブはアドニヤにはついたが、アブシャロムにはつかなかった~(列王記第一228節)」、ダビデの軍の総指揮官だった彼は、ダビデの三男のアブシャロムが、父に反逆して謀反を起こしたとき、アブシャロムに加担しなかったと言うのです。もし彼がアブシャロムに加担していたら、ダビデは殺されて滅んでいた事でしょう。でも彼は落ち目のダビデを選び、日の昇る勢いのアブシャロムを切って捨てたのです。

 この記事を読むときに、どうしても思い出すのが、イエスさまを裏切ったイスカリオテ・ユダです。エルサレムの宗教界と政治界から律法の違反者で神を汚す者として大反対を受けたとき、ユダは、イエスさまを捨てたのです。そして銀貨30枚で売ってしまいます。イエスさまについて行けば、仲間として断罪されかねなかったからです。

 日本中が、天皇を選び、イエスを捨てた時期がありました。教会は天皇かイエスの二者択一の岐路に立たされたのです。日本人であり続けるか、イエスさまの共同体にとどまるかを迫られます。太平洋戦争の渦中の事でした。多くの教会が、天皇皇后の写真を講壇の上に掲げてしまいました。教団の指導者たちは、伊勢神宮に、戦勝祈願のために参拝もしてしまいました。多くの教会は天皇を選んでしまったわけです。

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 岐阜県下で伝道し、現在もいくつかの教会を持つ「美濃ミッション」というグループがあります。戦時下のこと、その教会の小学生が、修学旅行に伊勢神宮詣でをする事になっていたのですが、それを拒否して参加しなかったのです。教会の教えに従って、イエスを選んだわけです。『非国民!』との轟々の非難が湧き上がりました。戦争が終った時、現人神と祀り上げられた天皇は、「人間宣言」をしました。<恐れ>は誰にもあります。みんなの中からの孤立は命取りです。でもあの小学生たちは、みことばに従ったのです。小学生が、そのような信仰の立場を、教会と家庭とで学び継承していた事に、実に驚かされます。

 さて時を読む人は、あのアヒトヘルのようにアブシャロムを選ぶのですが、ヨアブは、この大きな試練に勝ったのです。そう言った人物をダビデは近くに持っていたのです。ところがヨアブは、アブシャロムよりもはるかに小さな人物のアドニヤに加担してしまいます。アドニヤは、ダビデの子でしたが、ソロモンが王となることに反対して立ったのです。そんな人物に、このヨアブはついてしまったわけです。

 大きな試練に勝った彼が、小さな試練に負けてしまったことになります。そんなヨアブを、ダビデは嫌わないで、「研ぎ手」としてそばに置き続けたのです。でもソロモンが王位を継承する時には、息子には不用な人物だと決めていたのです。それでヨアブを、「・・安らかによみに下らせてはならない(2王2章6節)」と言い含めたのです。みなさんには、「研ぎ手」がおいででしょうか。

(「大垣城」です)

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倍の責任の顔

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 「顔」、自分の顔を、鏡に映してみて、『やっぱり、親爺の子なんだ!』と、若き日の写真の父の顔に似た自分を納得しています。母似だと言われてきた自分ですが、それに気付いて、ホッとたことがありました。その父が、『準は、髭をはやしたら、俺の親父にそっくりだよ!』と言っていた言葉を思い出したこともあります。

 誕生してから、娘が時々送ってくれた、今や16歳になった初孫の写真や動画を、彼の誕生以来見てきました。自分似の表情が見えて、歯痒いというのでしょうか、苦笑いをしてしまうことが幾度となくあったのです。

 上の兄に、『準はノーくんにそっくりだ!』と言われたことがありますが、「顔」は、性格もそうなのでしょうけど、爺に孫は似るのでしょう。祖父似、父似の自分、わたし似の孫、ちょっとした表情に、また性格も癖も、受け継ぐものがあるのでしょう。

 でも《実際の顔》だけではなく、人には《社会的な顔》があるようです。どう言った自分を見せるか、行動や態度や語る言葉で、本当の自分ではない《自分》を見せなけてばならないことが、どうもありそうです。顔と言うよりも《立場》と言った方がよさそうです。

 自分の子どもに見せる《顔》、妻に見せる《顔》、孫に見せる《顔》、職業上や立場上で見せてきた《顔》、責任を感じて見せようとした《顔》、でも誰もいない時に見せている《顔》、例えば、だれ一人知り合いのいない温泉に浸かっている時の緊張感の緩んだ《顔》は、まったく違うのかも知れません。


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 1998年11月に、中国の江沢民総主席が来日しました。その時に見せた《顔》が、二つほどありました。この方は、仙台を訪ねた時に、ある集いでの挨拶で、開口一番、『みなさん、おばんでございます!』と言いました。それを聞いたみなさんは驚き、そして親しみを覚えたと言われています。国で見せていたのは、日中関係の困難さの最中の総主席として、反日を掲げた時の《顔》で、わたしはその顔しか知らないのです。

 ところが、この方の尊敬する魯迅が日本留学をして、医学を学んだ仙台市を訪ねた時に、そんな挨拶をしたのです。まったく違った《顔》を見せたわけです。日中にある歴史問題について、公の席では、『(日本の侵略によって中国は)軍民3500万人が死傷し、6000億ドル以上に経済的な損失を被った。』と講演の中で、棘を見せて語りました。

 また別の所では、『今日、日本が経済大国に発展できたのは、まさに平和と発展の道を歩んだ結果であり、隣国と平和に付き合った結果だ。』と、戦前戦中の日本と戦後の日本を区別して語ったのです。語らなけれない国としての内容と、そうでない事事とを使い分けたのかも知れません。

 何よりも、仙台では、東北大学に残されいる、医学校時代の校舎の教室で、魯迅の座ったことのある席に着いたりもして、『おばんでやんす!』の《顔》も見せたわけです。個人的に尊敬する魯迅は、険悪さを緩和させることができたのです。
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 難しい顔をしないで、温和な表情で、いつも人に接せられるようにと願うのですが、時としては、嫌の顔をしてしまう時があったかも知れないことを、反省しながら、ちょっと鏡を見てくることにしましょう。リンカーンならずも、自分の《顔》に〈倍の責任〉を持って、もう少し生きていかねばなりません。

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同時代人の昭和(土門拳の写真を中心に)

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 敗戦後の路頭でタバコを吸ってる子たちは、自分よりもちょっと歳上の先輩たちですが、たくましく感じられるのですが。この先輩たちは、どう生きていったのかなと思ってしまいます。何もなかった頃、工夫しながら、みんなが遊んでいましたし、家の手伝いをしていたのです。

 ベーコマを回したり、メンコ遊びをし、紙芝居を見て、集団で遊んでいた時代です。取っ組み合いの喧嘩をしたり、肩を組んで歩いたり、みんな下駄履きだったのです。

 女の子たちは、ゴム跳びをしたり、石蹴りをしていたでしょうか。男の子の遊んでいるそばで、女の子なりに遊んでいたでしょうか。まさに「走馬灯」のように、あの頃の光景が思い出されてきます。

 nostalgie 、追憶の世界は、白黒灰の世界だったのです。みんなが貧しく、大人も子どもも懸命に生きていた時代です。物の豊かさは、必ずしも、幸せとは繋がらない時代でもあって、隣の家との心理的な距離が近かったようです。

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秋の陽を浴びての餌取りカモ

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 土曜日、10時になった頃でしょうか、久しぶりに太陽が出てきたので、ベランダに出てみました。曇ったり雨降りに比べたら、気持ちは高揚しますし、気分が朗らかになったのです。

 眼下を流れる巴波川の流れの水草の間を、すごい勢いで素潜りをしている物が見えたので、鯉かと思ったら、カモでした。観光舟の周りにいるカモは、餌の取りっこで突っつきあっていて、餌を取るために首を突っ込む姿は見ていたのですが、あんな勢いよく泳いでいる姿は初めて見たのです。

 首を上げると、嘴に小魚がキラリと光って見えました。食べると、また素潜りをして、スーッと勢いよく、つぎの餌を狙って泳いでいるのです。素早い狙撃兵のような動きで、新発見です。

 ネットで検索してみましたら、「キンクロハジロ」というカモの一種が、素潜りをして餌取りをするとありました。今見たカモは、本能で餌取りしていたのではないでしょうか。でもちょっと違っていそうです。カモにも、そんなに多くの種類があるのですね。人間だって、「十人十色」で、ゆっくり型もいれば、すばしっこい人もいたりですから、当然なのでしょう。

 流れを水中新幹線のように、瓦の上を逃げる鼠小僧次郎吉ようにスーッと動く姿に驚かされた、秋日和に変わって清々しい午前ですした。やっぱり秋っていいな、の季節到来です。

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主の平安を祈る

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 『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。0 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル111316節)』

1. 御国に住まいを 備えたまえる
主イエスの恵みを ほめよたたえよ
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

2. 浮世のさすらい やがて終えなば
輝く常世(とこよ)の 御国に移らん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

3. もろとも勤しみ 励み戦かえ
栄えの主イエスに まみゆる日まで
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

4. 目標(めあて)に向かいて 馳せ場を走り
輝く冠を 御殿(みとの)にて受けん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

(”Sing the Wonderous Love of Jesus”
“When we all get to Heaven”/Lyrics E.E.Hewitt 1898/MusicMrs.J.G.Wilson 1898)

 「やがて」、わたしたちを迎え入れてくださる、「永生の望み」があると、クリスチャンは信じています。そこは、「さらにすぐれた」世界で、こここそ、わたしたちを迎えてくださる「ふるさと」、《永遠の故郷》なのです。

 今朝一番、家内の姉が、人生の「馳せ場」を走り抜けて、『平安のうちに召された!』との知らせがありました。6人の兄弟姉妹の二番目の六つ違いの次姉です。病んで家で療養し、最近ホスピスに入院しているとの知らせを聞いていた姉です。家内には、死別は悲しいのですが、この知らせを聞いて、『また会えるわ!』と、家内は言っております。

天国への希望を持つ者たちは、その希望があるのです。八十五年の生涯を終えて、父なる神の元に帰っていったことになります。「永遠の御腕(申命記33章27節)」に抱かれて、安息の家であり、故郷であり、永遠の世界にいるのです。母を送る四人の子たちと、その孫たちの上に、主の平安を祈ります。

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