若さっていいなあ

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 『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12:1)』

 『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(同12:1)』

 父と母は、四人の子を産み育ててくれ、私は二人の兄と、一人の弟がいて、三男坊です。子どもの頃に、時々、父はいっしょにキャッチボールをしてくれたのです。みんな運動が好きでした。上の兄は、柔道もし、陸上部にいたのですが、大学ではアメリカンフットボールをしていました。次兄は、甲子園を目指した高校球児で、都のベスト16で終えました。弟は、アイスホッケーや少林寺拳法や登山や柔道をし、仕事も体育教師をしました。私は、バスケットボールやハンドボールをやりました。

 やはり、「若さ」っていいなと、思い返しています。未熟で、悔しいことも、恥ずかしいことも、多々あった時でしたが、無茶をしても、道を外しても許してもらえたと言うのが正直な思いです。若い期間は短いのですが、人生にとって大切な時期なので、その時期を虚しく過ごさないように聖書は勧めています(伝道者11:10)。その「若さ」を躍動させられるスポーツに、関心を向けていくのは創造の理に叶っているかなと思うのです。

 この年齢になっても、やはり血が騒ぐと言うのでしょうか、スポーツ競技の放映や放送、選手の活躍ぶりを見聞きすると、ムズムズじてくるのです。そのスポーツの中でも、陸上競技が圧巻でしょうか。今でこそ沿道に応援をする人たちが、声をかけ、旗を降る姿が実に素敵なのが「駅伝」です。ひたすら孤走する姿は詩人の様です。

 昨日今日と、「箱根駅伝」、第99回東京箱根間往復大学駅伝競走を、ラジオ放送で、大手町と箱根芦ノ湖の往路復路の駅伝の様子に、いつの間にか聞き入ってしまっていました。何時もそうなのですが、『この走者の中に、キリストを信じている若者がいるだろうか?』と思ってしまいます。このみなさんの「若い日」、そうあって欲しいと願うのは、「創造者を知ること」なのです。

 私たち四人の卒業校が、今回の競技会に参加していました。3人の兄弟たちの母校は学校のゼッケンを胸に走っていましたが、私の学んだ学校だけは、「関東学生連合」にentry して、復路のある区間を走っていました。

 それぞれが学ぶ学校の誇りを胸に〈襷を繋ぐ〉、この競技は、自分のためにだけではなく(今も、襷を繋げず、繰り上げ発走で、走った八区の選手が、号鳴して、詫びている声が聞こえて来ました)、母校の栄誉のために競うのです。また、そこには人格はないのですが、走った走路に向かって、頭を下げて感謝をする姿も感銘を与えてくれます。走り終えた走者の苦悶の表情は、眼界に挑戦できる気力や体力のある世代の若者の、美しい姿です。

 「第1回(192021415日)」から始まって、来年は、「第100回」になります。最初は、1917年「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」だったそうです。母の生まれた年でした。関東と関西の2チームが出場し、京都三条大橋-上野不忍池間、なんと516キロほどを走り継いだのです。その区間を23区間に分け、3日間、昼夜を貫いて走り継いだ競技でした。この大会の成功に終わったので、1920年開催の「箱根駅伝」の構想のきっかけとなったそうです。第一回大会は、4チームの参加でしたが、その後、21チームの参加で開催されています。

 どの競技をするにしろ、肉体の鍛錬は、少しは益だと聖書は言います。私を教えた宣教師さんは、『肉体の鍛練もいくらかは有益です(1テモテ4:8)』の「いくらか」を、「しばらくの間」つまり、「肉体に留まる間」でしょうか、「体がそれに耐えられる間」には有益だと言っていました。そうでしょう。7080年の生涯を、壮健で過ごすのはよいことです。たとえそうでなくても、精一杯生きることなのでしょう。

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創作四字熟語

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 千代田生命が企画し、募集した「創作四字熟語」が、世相を四字で言い表す、漢字力が素晴らしいと思います。中国で生まれた漢字には、興味が尽きません。日本で生まれた漢字も熟語もあるのです。サイトにあった、30年間の最高傑作です。中学一年の国語の時間に、「呉越同舟」と言う四字熟語を学んだのを覚えています。2022年は「遠客再来」でした。旅行や宿泊の支援があって、遠くへの旅が再開したからです。

2019年(平成31年)
(令和元年)
「国祭令和」(こくさいれいわ)国際平和新元号「令和」に変わり、国中がお祭りムードに。社会
2018年(平成30年)
「台量発生」(たいりょうはっせい)大量発生台風が多発し、次々と日本列島に襲いかかった。社会
2017年(平成29年)
「棋聡天才」(きそうてんさい)奇想天外将棋の天才、藤井聡太棋士。文化スポーツ
2016年(平成28年)
「四士奮銀」(ししふんぎん)獅子奮迅五輪陸上男子400mリレーで、日本チームが銀メダルを獲得。文化スポーツ
2015年(平成27年)
「仮装狂騒」(かそうきょうそう)仮装競争年々盛んになるハロウィーンイベント。社会
2014年(平成26年)
「用意終活」(よういしゅうかつ)用意周到死後のことまで生前に準備する。社会
2013年(平成25年)
「凍庫写寝」(とうこしゃしん)投稿写真悪ふざけ写真のネット投稿が頻発。社会
2012年(平成24年)
「税途多難」(ぜいとたなん)前途多難消費増税や復興税の使途により政治混乱。政治経済
2011年(平成23年)
「帰路騒然」(きろそうぜん)理路整然大地震や台風で帰宅困難に。社会
2010年(平成22年)
「諸牛無情」(しょぎゅうむじょう)諸行無常口蹄疫の感染拡大防止のため、大量の牛を処分する非常な事態となった。社会
2009年(平成21年)
「遠奔千走」(とおほんせんそう)東奔西走土日休日の高速道路料金が遠くまで走っても千円に!!政治経済
2008年(平成20年)
「苦労長寿」(くろうちょうじゅ)不老長寿後期高齢者医療制度。長寿医療制度という愛称もむなしく何かと不評。政治経済
2007年(平成19年)
「医師薄寂」(いしはくじゃく)意志薄弱医師不足による急患問題。政治経済
2006年(平成18年)
「住人怒色」(じゅうにんどいろ)十人十色耐震強度を偽装した建物とは知らずに買った住人、怒りの色は隠せない。社会
2005年(平成17年)
「無職無習」(むしょくむしゅう)無色無臭ニートの増加は大きな社会問題に。社会
2004年(平成16年)
「様様様様」(よんさま)ヨン様ヨン様!流行芸能
2003年(平成15年)
「八方取税」(はっぽうしゅぜい)発泡酒税あらゆる所から税金を取ろうと、発泡酒も増税。庶民は泣きました。政治経済
2002年(平成14年)
「日本熱闘」(にっぽんねっとう)日本列島サッカーW杯では日本全国が熱くなった!文化スポーツ
2001年(平成13年)
「万国胸痛」(ばんこくきょうつう)万国共通米国でのテロ、それに対する報復。世界はどちらにも胸を痛めている。国際情勢
2000年(平成12年)
「圏外孤独」(けんがいこどく)天涯孤独いつも携帯電話でコミュニケーションをとっている人にとって、圏外になった時の孤独感はひとしお。社会
1999年(平成11年)
「着歌繚乱」(ちゃっかりょうらん)百花繚乱街にでるとあちらこちらからケータイの着メロが賑やかに乱れ飛んでくる。流行芸能
1998年(平成10年)
「倒行巨費」(とうこうきょひ)登校拒否倒れる金融機関に巨額な公的資金を投入すること。政治経済
1997年(平成9年)
「靴下象様」(かかぞうよう)隔靴掻痒ルーズソックス。流行芸能
1996年(平成8年)
「高官無恥」(こうかんむち)厚顔無恥官僚のスキャンダル。政治経済
1995年(平成7年)
「震傷膨大」(しんしょうぼうだい)針小棒大阪神・淡路大震災は人々の心にも大きな傷を残した。社会
1994年(平成6年)
「政転辟易」(せいてんへきえき)青天霹靂青天の霹靂で首相になった村山さん。国民を辟易させないよう宜しくお願いします。政治経済
1993年(平成5年)
「扇扇狂狂」(せんせんきょうきょう)戦戦兢兢扇子を持って踊り狂うお立ち台ギャル。流行芸能
1992年(平成4年)
「紫煙楚歌」(しえんそか)四面楚歌フランスで禁煙令が施行され、日本でも禁煙ムードが高まった。国際情勢
1991年(平成3年)
「台風逸果」(たいふういっか)台風一過度重なる台風により、出荷目前の果実が多数落下した。社会
1990年(平成2年)
「異旗統合」(いきとうごう)意気投合東西ドイツ統合。国際情勢
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雪を詠む

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 あの正岡子規が、34歳で早逝していたことを知って、驚いてしまったことがありました。写真で、子規の容貌を見て、六十近い初老の顔を覚えていたからです。俳句を読んでも、老成した枯れた俳人の句だとばかり思っていたこともあって、意外だったのです。この時季を詠んだのでしょうか、次のような子規の俳句が残っています。

いくたびも 雪の深さを たずねけり

 「不如帰」と書いて、ホトトギスと読ませるのですが、この俳人は、自分の俳号を「子規」にしました。「hototogisu」と入力しますと、漢字の候補に「子規」が出てきます。「鳴いて血を吐く ホトトギス」と言われるように、このホトトギスは口の中が赤いので、鳴くと血を 吐いているように見えるわけです。このことについて、ウイキペディアに次のようにあります。

中国の故事「杜鵑の吐血」にちなむ。長江流域に(秦以前にあった)という傾いた国があり、そこに杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝のほうは山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。また後に蜀がによって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず/帰ることが出来ない)と鳴きながら血を吐いた、と言い、ホトトギスのくちばしが赤いのはそのためだ、と言われるようになった。」のだそうです。

 正岡子規は、「野球」を好んで、その普及に尽力したスポーツマンで、「打者」、「走者」、「四球」、「直球」などの野球用語を英語から翻訳した人でもありました。しかし、22歳の時に喀血し、結核に罹ってしまうのです。それで、「子規」と号しています。当時、結核は不治の病だったので、一旦罹ると、それは死を意味していたのです。

 上にあげました、俳句ですが、大雪が降った日のことです。床に伏せている子規は、外出することなどできませんでした。ただ思いの中で、降り積もった雪の深さを、何度も何度も確かめるように、思い続けていたに違いありません。それとも家人に、雪の量を尋ねたのかも知れません。

これがまあ ついの栖(すみか)か 雪五尺   一茶

 五尺も積もる雪深い地で、一茶は晩年を過ごし、死期を感じたのでしょうか。昨年末は、寒波襲来で、日本海側の北陸、東北、北海道の降雪は、記録的だとニュースが伝えていました。ここ栃木県も、奥日光や那須では、雪が深く積もっているのです。それに比べ、関東平野の奥に位置する栃木市のわが家では、日差しが差し込んで、陽が落ちるまで暖房なしで過ごせるのです。子どもの頃を過ごした街や村でよく雪が降って、雪合戦やソリなどの遊びを楽しんだのを思い出します。

(村田収の描いた雪の風景です)

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エルサレムの平和を祈る

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 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。  おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 (詩篇122篇6~7節)』

 『終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。(2テモテ3:1)』と聖書にあります。今、世界を見回してみますと、「困難な時代」の到来に違いありません。強権を握った独裁者の新たな台頭、世界と主要国の内的分断、世界の国々の左傾化と他方で右傾化、ロシアによるウクライナ侵略戦争、人権の侵害、神の定めた秩序への反逆、男女の違いがボケてきたこととおかしな権利主張、さらには地震の頻発、原子炉や核爆弾の脅威、気象異常による風水害、地殻変動による地震、温暖化による氷河の溶解、食料の毒化、人の愛の冷化、人間不信、家庭崩壊、疫病の世界大の感染、医療に限界、などなどがあって、聖書が警告していることが起こっています。

 混迷の時代、不安の時代、恐怖の時代の真っ只中に、世界が置かれ、一人一人がいます。これからの時代、世界は、そして人はどうなっていくのでしょうか。イエスさまは、弟子たちの「終わりの日の前兆」、「主の再臨」についての質問に答えて、次の様に言われました。

 『イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ21:811)』

 「神の都」と呼ばれたエルサレムについて、イエスさまは、続けて次の様に言われました。

 『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ21:20)』

 2000年の時を経て、世界中に散らされたユダ人たちは、Zionism と言った、『エホバなる神が父祖に約束された地に帰ろう!』との願いが、散らされていた地のユダヤ人たちに、一様に起こったのです。族長のアブラハムと契約を結ばれた主なる神さまによって、イスラエルが復興させられて、1948年に、国として建国させられました。

 今やウクライナ戦争に向けられたロシアの銃口は、究極的には、イスラエルに向けて銃火を吹こうとする前触れなのでしょう。建国以降、イギリスやアメリカは、イスラエルを助けて、今日に至っています。やがて国力を弱めていくアメリカは、経済的にも軍事的にも助ける力を失くす時がきます。ところが、

 『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者(イザヤ41:14)』

 「わたし」とおっしゃる神さまが、天の万軍を率いて、直接、このイスラエルを助ける日が来ます。北からの連合軍は、その日一日で滅びてしまいます。これは、聖書に預言されたことなのです。

 「エルサレレムの平和」、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平安)」を求め祈れと、天に高く上げられた神さまが命じられて、2023年を迎えました。主の御名があがめられますように!

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この一年に

 


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 ペットボトルの水をもたずに散歩を始めて、途中で、美味しいコーヒーを飲みました。一杯120円で、20円値上げされていました。また両毛線の線路脇で、健気に咲くタンポポの姿に元気付けられたのです。無人野菜販売小屋をのぞいたのですが、小銭がなくて、手に取っただけでした。よく歩いた一年でした。

 三百六十五日が一日の様に、主に守られて、平穏に過ごすことができて、私たちは大晦日を迎えることができました。世界では、ウクライナへのロシアの侵略戦争、ミャンマーの政変後の混乱、物価高、人心の動揺、豊かな時代の貧困などで、よいことが少なかった一年でした。

 例年のことですが、新しさへの期待が、心ん中に膨らんできますが、それが年の暮れの慣わしなのでしょう。そんな気持ちで新年を迎えようとしています。ただ期待は、万物に創造者に、救い主に向けたいものです。このブログの一年のご講読に感謝します。

 こんな年の暮れは初めてですが、出かけようと思ったのですが、行き先が仕事じまいとのことで、時間を持て余してしまったので、桂三木助の「芝浜」を聞いているところです。聖書の言う「改心(回心)」と、話の筋が似ているので、呵責なしで聞いている年の瀬であります。ありがとうございました。

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太初に道(ことば)あり

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 人生に必要なものについて、チャップリンは、『人生は怖がりさえしなければ素晴らしいものになる。勇気と想像力と、ほんの少しのお金だ!』と言ったそうです。ラルフ・エマーソンは、『その日、その日が「一年で最高の一日である」と心に刻め。』と言いました。あなたの必要は、なんでしょうか。

 絵本の出版社として有名な「福音館」の社長をした松居直は、『空気と水とことばです。』と言っています。さすが児童文学者です。人は人格を持ち、「ことば」を語り聞くと言う交流のできる神の被造物ですから、「ことば」が必要だと言うのは至言ではないでしょうか。様々な語り手がいて、世は「ことば」で溢れています。大切なのは、《だれに聞くか》です。どんな動機で、どんな背景から語ったかに注意しなければなりません。

 主の弟子のヨハネが記した「ヨハネの福音書」と「ヨハネの手紙」には、次のようにあります。

 『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)』

 『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、--このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--(1ヨハネ1:12)』

 ここで「ことば」と日本語に訳されたのは、ギリシャ語の「ロゴス logos / λόγος 」で、アラム語では「メモラ」と言うそうです。アラム語と言うのは、イエスさまの時代の日常会話のことばで、父を「アバ(マルコ14:36)」と聖書に記されたのと同じ日常語のことばです。「メモラ」は、「神が人の目で見える形で顕れてくださったお方」、「神の契約の仲介者」、「救いをもたらすお方」などと言う意味を含んだことばだと言われています。深く細かな意味を含んだことばのようです。

 家内の母は、学生の頃、神田の古本屋街を、何度も「真理」を探し歩いたそうです。終戦後、上の娘が、駅前でもらった、「約翰傳(ヨハネの福音書の文語版)」を読み始めて、「太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道はすなわち神なり」の「ことば」が、義母に関心の的になりました。

 その頃、栄養事情が悪く、肋膜炎を起こして、東京の郊外の清瀬にあった「結核病院」に通っていました。病友に女子大生がいて、医師の不用意な〈ことば〉を聞いて、ショックを受けた女学生は、その晩に亡くなったそうです。権威や立場のある人の言葉の重さに、人の死期を早めるような〈ことば〉を使った、その医師を、義母は責めたのだそうです。

 そんな時期に読み、出会った「神の子イエス」を表す「ことば」を知ろうと、冊子を配ったアメリカ人宣教師を訪ねたのです。問答を重ねて、ついに、「ことば」である神、十字架で、信じる者の罪を負って身代わりに死んでくださった、イエスをキリストと信じたのです。101歳で召されるまで、信じ続けて、安息に入ったのです。

 私の母は、聖書が語る「ことば」を聞いて、神さまが「父」であることを知って、父なし子の欠けを、私生児の惨めさや孤独を埋め合わせて余りある「救い」に預かりました。95歳で召されるまで、信仰を持ち続けたのです。

 『ふたり(パウロとシラス)は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(使徒16:31)』

 義母も母も、イエスさまを、「主」と信じたことで、永遠のいのちに至る「救い」を自分のものにしました。そして子や孫やひ孫である、家族に、その「救い」が及んでいるのです。聖書には、神のことばが溢れていて、私たちに永遠のいのちを得させてくれます。

(聖所に置かれた「燭台」のイラストです)

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全世界に出ていきなさい

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Whale

 

 『他人から見て、ここが安全、現実的、可能、賢明だと思えること以上のことをしたい。私は、成功にではなく、従順に召されました。イエスを知り、イエスに従うことが最高の喜びです!』と、米国サウザーン・バプテストのイラン宣教師のカレン・ワトソンが言いました。彼女は、2004315日、母国に帰ることなく、イランから天の故郷に帰って行きました。殉教の死を遂げたのです。38才でした。

 二十世紀は、「福音宣教の世紀」だと言われて来ました。もっとも多くの宣教師が、世界中に出かけた世紀だと言うことになります。ハドソン・テイラーのように、多くの教会を建て上げ、おびただしい数の献身者を輩出し、何百と言う協力者を得て働きを拡大した方もおいです。でも、そのような成功的な働きの影で、『ただ一人の回心者を得るために!』と願って、灼熱の地に、酷寒の地に宣教された方が多くおられたことを忘れてはいけません。

 エスキモー伝道をされた宣教師は、長い間伝道をしましたが、誰一人救われませんでした。ある時、エスキモーの命の糧である、鯨が不漁で、一頭も捕れませんでした。切羽詰まったエスキモーたちは、その宣教師に、『鯨が取れたら、お前の言うキリストを信じる!』と言いました。それでも鯨は取れなく、怒ったエスキモーたちは、宣教師を断崖から突き落として殺してしまったのです。

 その死骸を見にいくと、その宣教師の横に、一頭の鯨がいたのです。それでエスキモーたちは回心していきました。何1つ励ましになることを見ないで、その宣教師は天の故郷に帰って行かれたわけです。ところが、この彼の死が、エスキモーの中に「リバイバル(信仰覚醒)」をもたらすことになったのは、神さまの方法だったのでしょう。

 この地上で数限りないほどの、主にある男女が、宣教の途上で召されて行きました。この地上で一番、宣教の難しい地域を上げるなら、アラブの国々だと言えます。「力の宗教」、「戦闘的な宗教」であるイスラム教は、イエスさまが宣べ伝えるように言われた「福音」を受け入れるのが、最も難しい宗教的背景を持っていると言われています。イスラム教徒が、回心してクリスチャンになるには、死の危険が伴います。

 私たちが日本の歴史で学んだ、キリシタンバテレンの「宗門改め」の行われた徳川幕府の時代に、日本人がキリシタンになることが、どんなにリスクの高いことであったかを知らされます。『日本人への伝道も実に難しい!』と思えます。みなさんや私が、救われてクリスチャンにされたことを考えますと、その難しい地で、主に遣わされて宣教に励まれた宣教師のみなさんに、心からの感謝を覚えるのです。

 中国宣教は、” China in land mission “ で宣教活動をしたハドソン・テーラーや海岸部を宣教したイギリスの聖公会の働きの実が、共産革命後も残り、どんなに迫害されても、クリスチャンを抹殺できませんでした。私たちが会った非合法の信仰者たちの中には、六代、七代のクリスチャンがおいででした。まさに、聖霊は無神論の国でも働いておいでなのです。

 カレンは、安全な株を買いませんでした。『成功することよりも、従順を!』と願ったのです。ですから、最も困難な道を選んだことになります。その困難さの中で、『イエスさまを、もっと知りたい!』と願ったわけです。こう言ったスピリットがアメリカの教会の中には、まだ脈々と残っています。

 『アメリカが崩壊しないのは、海外宣教にお金を費やしていることだ!』と、上院のチャプレンが言われましたが、目に見えるものを生み出すための拠出金ではなく、『一人の回心者を得て、主に栄光を帰す!』ために、アメリカの教会の良心が、今もなお動き、献身がなされているのであります。二十一世紀の福音宣教は、アジアの教会の出番だと期待されています。日本の青年たちよ、『全世界に出て行き・・・福音を宣伝えなさい」との主の声を聞きなさい!

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道すがら

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日光連山(男体山、女峰山、大真名子山、赤薙山、定釈山、太郎山などがあります)が冠雪して、実に綺麗です。これは、道の駅「にしかた」からながめた山貌です。住んでいるアパートからも、北の方に見えますが、季節の移り変わりによって違うのが、自然本来の姿なのでしょう。今度は、看板群の向こうから撮ってみたいなと思っています。

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夕方の南の空を仰ぐと、三日月が出ていました。見事な月蝕があった秋でしたが、年末の尖った月は、何か寂しそうです。月に託して、地球上に起きっている、戦争や災害や人の不正、多くの涙が流された一年であったでしょうか。

 

 

昨日の散歩で行った、市の総合運動公園の運動場から見上げた雲の動きです。雲が陽の光を遮るのですが、雲の切れ間から、また顔を出して、冷たい体を温めてくれました。遊具で、お母さんと三歳ほどの女の子が遊んでいる姿を見て、いつかウクライナの街の空の下でも、安心して母子で遊ぶ時がやってきて欲しいと願ったことです。

 

 

散歩の道筋にある家の玄関の様子です。North Carolina に、お嬢さんが留学されたのか、嫁いだのかなと想像してみました。散歩途上で、 ” I  ❤️ Jesus “ なんて、玄関を飾る家は、ここ一軒です。ご両親も、そんな告白をする人たちなのでしょうか。

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宮崎県

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 「鬼の洗濯板」と言われる、荒波に侵食された海岸線を見た時、江ノ島や九十九里浜の砂浜の海岸ばかり見てきた私でしたので、本当に驚いたのです。九州貧乏旅行で、宮崎市の青島を訪ねた時のことでした。実は、父から、自動車学校で、運転免許証を取るための受講料を、まとめてもらったお金で、九州に遊びに行ってしまったのです。父に、こっぴどく叱られてしまいました。

 古代日本を「蜻蜒洲(あきつしま/秋津島)」と呼んだのですが、宮崎県歌の中にこの表現が出てきます。日本神話に見られる日本誕生で、その地形が蜻(とんぼ)に似ていたので、そう言われた様です。

 日向宮崎と言えば、椎葉村の「ひえつき節」でしょうか。平家の落人伝説の中で生まれたもので、意味も分からずに、子どもの頃に、私も歌っていたのです。

庭の山椒(さんしゅう)の木
鳴る鈴かけてヨーホイ
鈴の鳴る時ゃ
出ておじゃれヨー

鈴の鳴る時ゃ
何と言うて出ましょヨーホイ
駒に水くりょと
言うて出ましょヨー

那須の大八
鶴富おいてヨーホイ
椎葉たつ時ゃ
目に涙ヨー

 全国に、「落武者伝説」があり、わが県の北、福島県の会津に近い、湯西川にも残されています。自分たちの祖先への想いというのは、どこでも強いのでしょう。京の都から遠ければ遠いほど、栄誉を誇った時と今の現実とを比べて、悲哀も感じながら、詩を読み歌ったのでしょうか。

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 律令制下、「日向国(当初は薩摩国・大隅国を含む領域でした)」と呼ばれ、徳川時代には、幕府直轄の天領が多くあったようです。高鍋藩、延岡藩、佐土原藩、飫肥(おび)藩(現在の日南市になります)、薩摩藩、その他に旗本領などもあったのです。

 歴史の中では、あまり知られていませんが、維新後に起こった西南の役の戦場は、宮崎県にまで及んでいて、薩摩藩とは敵対関係にあって、宮崎県が誕生した背景があるようです。

 現在、県都は宮崎市、人口は105万人、県花はハマユウ、県木はフェニクス、県鳥はコシジロヤマドリです。霧島連山が、火山の火口を見せて、得意な山貌があり、高千穂連山も含めて、天孫降臨の神話を生み出したのが、この日向国なのです。

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産業は、第一次の農林水産業が盛んで、比率からすると、農業は47都道府県のうち、その比率は第一位を占めています。県民所得は、東京都の半分近くなのだそうですが、物価は安いとされています。出始めの頃、売れ残った値引きした物でしたが、宮崎産のマンゴウは、形状も味も台湾のマンゴウに似ていて美味しかったのです。ただ原価は高かったのです。

 中学の同級に、「白鳥」と言う姓の同級生がいました。国語教師が、1年の国語の最初の授業の自己紹介の時に、彼の紹介後、

白鳥は 哀しからずや 水の青 空の青にも 染まずただよふ

を、彼への  ommage(敬意)なのか、からかいなのか、教えてくれたのを、鮮明に覚えています。若山牧水の短歌で、この教師の担任のクラスに、牧水の孫がいて、すぐ上の兄の親友にも、そのお兄さんがいました。若山牧水は、宮崎県の出身で、酒と旅を愛して、「漂白の歌人」と呼ばれ、酒量が過ぎたのでしょうか、肝硬変を患って、43歳で没しています。もっとも有名は短歌は、

幾山河 越えさり行かば 寂しさの 終てなむ国ぞ 今日も旅ゆく

 私が、酒をやめたのは、クリスチャンになった時に、聖霊に満たされた時に、その後、ピタッと飲めなくなったのと、12歳の時に知った牧水の生涯の最後を、教訓にしていたからなのです。そうですから、好きではなかった国語教師に感謝すべきかも知れません。

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 県民性について、『宮崎県の典型的男性を表す言葉として「いもがらぼくと」、女性を表す言葉として「日向かぼちゃ」がある。前者は「芋がらで作った木刀」の意であり、見掛けは立派だが芯のないお人よしであることを意味し、後者は、見た目は黒く小ぶりだが味はしっかりしているということを意味しており、民謡(但し、近年の作によるもの)にも歌われる。(ウイキペディア)』と言われています。

 台風が時々通過する県ですが、普段は、穏やかで、県民性も穏やかかも知れません。延岡から来ていた同級生が、そんな風貌でしたが、いつの間にかいなくなってしまいました。九州男児と言うよりは、延岡人だったのでしょう。

(鬼の洗濯板、コシシロヤマドリ、宮崎マンゴウです)

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失われた物と者

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 『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。(伝道31468節)』

 室町mystery “  の原因が、やっと解明されました。わが家の台所には、三本の「包丁」があったのです。この2年ほど前から、一本、一本と、二本の包丁が、次々に消えてしまってしまいました。一本が残っていましたので、『いつか出てくるからいいか!』でいたのです。

 考えられるのは、週二回、生ゴミ(可燃物)を出すのですが、そのゴミに紛れて、収集センターに行ってしまったのかも知れとも思っていました。おっちょこちょいの私でも、それでも包丁二本も出すことは考えられなかったのです。

 昨日は、長男家族がやってきたのです。来年受験で、その準備中の息抜きの孫娘も週末、両親に従って、高校生の兄と一緒に、四人で訪ねてくれたのです。まさに《良薬4錠》に、バアバは大喜びで、一変に happy になってしまいました。

 外食よりも、何か作ろうと、一昨日は、バスに乗って「道の駅」に、買い出しに行き、お土産用に「にっこり(大きな地場産の美味しい梨です)」と、この時期は珍しい、スチューベンという銘柄の葡萄、新鮮な野菜を買いました。昨日は、朝一番で、行きつけのスーパーに買い物に行ったのです。

 「タコ・ライス」を作ったのです。新鮮な野菜と、肉と卵とチーズ、それに自家製のソース(玉ねぎ、洋梨、キウイフルーツ、ニンジン、コンソメ、ケチャップなど)でした。結構良くできたのです。孫娘が25日が誕生日で、私が17日で、京都の友人が送ってくれたパウンドケーキと息子たちが買ってきてくれたケーキに、ローソクを立ててお祝いしてくれたのです。

 食事の片付けを、いつもの様に、嫁御と二人の孫が、きれいにしてくれました。夕方になって訪問チームは帰って行きました。みんなを送るのは寂しいもので、〈惜別の祖父母〉でした。

 今朝、朝食の用意をしたのです。ところが包丁が見当たらなないではありませんか。〈またか〉でした。定位置管理をしていて、刃物はケースにしまう様にしているのですが、戻っていないのです。また消えてしまったのです。そう言えば、流しのシンクの下の戸袋に、包丁入れがあったのを思い出して、開けてみたら、な、なんと包丁三本が、きれいに並んでいるではありませんか。嫁御は、そこで管理し、私は、プラスチックケースで管理していたのです。扉の陰が「死角」になっていたのです。

 謎が解けて、『なーんだ!』の今朝の台所でした。探しても、探しても、習慣化してない所には、目も心も行かないわけです。発想の転換のおかげで、さらに〈習慣〉の理解の違いが分かって、一件落着で、嬉しい朝です。見つかるのに「時」がありました。

 失われ、彷徨っていた私は、二十代中程で、やっと創造主に見つけられ、神の元に立ち帰ることができました。神さまの憐れみよってでした。今は、この地で寄留者の様にして、仮住まいで生かされていますが、やがて「天の故郷」に帰ることができるのを待ち望んでおります。

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