それは非常によかった

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 『神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記12931節)』

 週初めに家内が、ペルー産の何やらが体にいいと言っていました。〈いい物〉は数限りなくあります。なぜなら、神がお作りくださった物だからです。その地域に見合った植生があり、そこから採れる食物を、様々に調理して、人は食べつないで、それぞれに生きてきたのが私たちです。古来、わが国では、米に菜葉の味噌汁、野菜の煮しめ、漬物、納豆などが主要な食べ物でした。どこにでも発酵食品があって、それが健康維持に大切な役割を果たしてきています。

 ところが流通の拡大で、ペルー産、ハワイ産、アルゼンチン産、トルコ原産、カスピ海で作られたヨーグルトなど、世界中の食べ物が、船に積まれてやってきました。肝臓に良い、アルツハイマーに良い、高血圧症に良いなど、様々の健康食品が、宣伝され、売られ、心動かされて買わされています。

 病む前は、与えられる物を、感謝して食べて生きていたのに、病んでから、母を思う子どもたちや、友を気遣う友人たちが、『これって良いそうですから食べてください!』と持参したり、買う様に促してくれる様になりました。息子にスマホを買ってもらってから、家内は情報過多になり、「ペルー産」の何かを見つけてしまったわけです。

 それで、私は、「秦の始皇帝」が、不老不死の妙薬を探させるために、徐福を遣わした話をしたのです。日本に来た徐福は、始皇帝の元に帰らずに、日本に住み続けたのだそうです。そんな妙薬などなかったし、たくさんの資金を手にしていたからです。始皇帝は、長生きをしたかったのですが、部下に裏切られ、その薬を飲むことなく、五十になる前に死んでしまいます。その薬を飲まなかったからではなく、寿命で死んだのです。と言うよりは、不死不老の薬だとされる水銀の入った物を飲んでも中毒死だったと言う一説もあります。

 人は、その地その地が産する物で、「地産地消」が、神さまの理にかなったことであるわけです。季節によって違う産物を収穫し、貯蔵して、みんな生きてきたわけです。みんな欲で動いています。何年も前に、アロエがブームになっていたことがました。そんなブームは商人が作るのです。次々にブームが大波小波で押し寄せてきています。それをかぶっていたら、破産です。

 ペルー産の物がいいのは分かりますが、輸入ストップになったら、食べ続けられない物です。この国にだっていい物がたくさんあります。外国から輸入するのは、結局は〈金儲け〉なのです。それで生き、儲けている人の投げた捕獲網なのです。珍品にめざとい人に売って金儲けをするために、世界中を訪ねて探して、大宣伝をかけて売るのです。

 その宣伝文句に、家内の様に、誘いに動かされる夥しい人は、「カモ」なのです。家内は、maniac にはなっていないからご安心ください。それぞれの収入、生活レベル、身分に応じて得られる物で生きるが一番だ、そう言うことを家内に話したのです。健康を損なって、心動かされる様になってしまった家内に、ストップをかけたわけです。

 あまりにも情報が多く、過多、過多、過多と音がしています。いいものは僅かです。本物も少量です。造物主の神さまは、全てご存じで、最善を備えていてくださるお方なのです。「確かな情報」にだけ応答していきたいものです。人の動機を見抜くことです。そして、身の回りにあるものに、『いのちの息のあるもののために(創1:30)』お作りくださったものは、『それは非常によかった(創1:31)』のです。だから感謝することです。もちろん注意深く生きるのが好いのです。

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譲って新しい地に出て行くこと

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 『主はモーセとアロンに告げて仰せられた。 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。 それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。:ケハテ族の会見の天幕での奉仕は、最も聖なるものにかかわることであって次のとおりである。(民数記414節)』

 神さまは、ご自分の民とお会いになるために、特定の場所を定めました。それが「幕屋(会見の天幕)」でした。そのための精緻な設計図、奉仕者、奉仕の仕方、服装、器具などを定めました。そのことが、とても重要であるので、「出エジプト記」の2540章までに、神さまは、詳細をモーセに告げました。そのことばに従って作られ、大祭司アロンが、年に一度、幕屋の中心の「至聖所」に入って、神と謁見したのです。

 この幕屋の「最も聖なるものにかかわること」の奉仕にあたったのが、レビ族でした。その重要な任務を果たすために、年齢を定められました。「三十歳以上五十歳まで」の男子でした。どの様な基準でなのか、人間の側から判断することができそうですが、「もっとも聖なるものにかかわること」とは、 英欽定訳聖書によりますと、” all that enter into the host , to do the work in the tabenacle of the congtegation “ とあって、” the work “ とは一般的な仕事ではなく、「主なる神に仕えること」であるのが分かります。

 ですから、粗相、失敗があってならないのでしょう。二十歳に満たないのでは若過ぎるのかも知れません。六十歳を越えてしまうと老い過ぎてるのでしょう。その務めに選ばれ任じられ、その責務を重く受け止めている「レビ族」だけが関われたのです。モーセが、奴隷の家のエジプトから救出者として、また彼の兄のアロンが「大祭司」に召されたのが八十歳以上であったことは、例外だったのです。ここに定められた奉仕の期間は、「壮年期」に果たしうると言うことなのでしょう。

 『あなたがた経験のあるmature な人は、新しい人に、その務めの責任を譲って、あなたは新しい地に出て行きなさい!』と、アメリカから宣教に来て、長く異国の地で奉仕をし、日本人を愛し、そして病んで帰天した恩師が挑戦してくれたことがありました。自分の城を築いて、それを死守して、安泰な生活を送るという誘惑から出ていく様にとの勧めだったのです。

 若くて経験の少ない伝道者が、来る日も来る日もトラクト配布に明け暮れ、群れができずに、しかも貧しくて、意欲を削がれ、伝道に挫折するケースは多いのです。神学校を出て伝道を始めた若い伝道者が、5年以内に伝道戦線から離脱する比率が、80%と言う高さだと、アメリカのフラー神学校が調査した結果を報告しています。

 それで、一仕事をしてきた円熟した人が、新しい地に出かけて行って、教会の土台を据え、群れを形成する方がよいから、恩師は、私に勧めたのです。名誉牧師というタイトルがあるそうです。イエスさまにもパウロにも与えられていないタイトルをいただいている方がおいでです。兄弟姉妹との関係を続けて、新任の牧師の牧会の邪魔をしているケースは多いのです。

 任せてしまったら、余所に出ていくべきです。その方が福音は拡大していくからです。教会の敷地の奥に宣教師館があって、招かれて牧師になられた家族は、アパートに住んでいます。その教会の兄姉は、前から関係を持ってきた宣教師に相談に行きます。牧師を跳び越えてです。そんな牧師さんや若い伝道者の方に何度か相談されたことがありました。結局、彼らは去っていかれました。

 35年支えた群れを、母教会にお願いした私は、60になる前に出て行こうと決めました。恩師の勧めが、神からの促しだと理解したからです。怪我など諸事情があって、61で家内と出掛けたのです。やっと、あの挑戦を受けることができました。そこで13年間、教会形成のお手伝いをさせていただきました。そこから幾つかの群れが始まりました。自分に課せられた分を果たさせてもらっただけです。ほんの一時期でした。必要とされる間に、日本語を教えながら、させて頂いた奉仕でした。

 でも時が来て帰国したのです。これって、出ていったからできた奉仕だったのではないかと思います。小さな一国一城の主(あるじ)におさまっていたら、生活は安定していたかも知れませんが、かえって問題作りを繰り返したかも知れません。今あるをただ感謝しております。

(「幕屋」 で奉仕をする人たちの様子です)

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信仰の系譜

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 『けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(2テモテ31417節)』

 私の育った父の家には、仏壇も神棚も札と言った伝統的な宗教用具は、何もありませんでした。ただ父は経本と数珠を持ち、母は聖書と讃美歌(聖歌)を持ち、ペンダントやリングの十字架はありませんでした。母は、その聖書を読み、賛美し、祈り、日曜日には礼拝に行き、水曜日には聖書研究会に行き、家では家庭集会をし、近所の方に証しをし、私の学校に呼び出された時に、担任にも証しをし、パートに出て得たお金から献金をし、そんな日常生活をおくっていました。

 母は、子どもの頃に出会った、救い主に従い続けて、聖書通りに、単純で堅実な信仰者として生きて、95歳で帰天したのです。クリスチャンとして生きる母を、父は認めていました。家で、聖書研究会をするのも許して、宣教師さんにも敬意を示して、家庭集会が行われていました。でも教会の礼拝には、父は行きませんでした。

 劇的な宗教体験はしませんでしたが、初代教会にあったような、聖霊にバプテスマされると言う経験をして、イエスさまの十字架の死が、自分の罪の身代わりであったことを、真に知ることが、私にはできたのです。母の祈りの賜物で、兄たちも弟も、そして父も、イエスさまをキリストと信じることができました。

 このイエスさまは、2000年ほど前に、ベツレヘムに生まれ、ナザレ人として育ち、30歳にして、バプテスマのヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受け、水から上がられる直前に、聖霊に満たされ、『これは、私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:17)』との声が天から告げられました。その後、悪魔の試誘を荒野で受けられ、それを旧約聖書のみことばで退けて、公けの伝道生涯に就かれたのです。3年半の後に、ご自身を信じる者の罪の身代わりに、十字架に死なれ、葬られましたが、墓と死を打ち破って、甦られたのです。そして父の神の右の座に着かれ、信じる者を父なる神に執り成し、助け主聖霊を送り、場所を備え、その場所の備えが終わったら、私たちを迎えに来てくださると約束されました。間もなくイエスさまは、王としておいでになって、王座にお着きになられます。

 そう聖書にある様に、単純に信じて、今もなお、同じ様に信じているのです。その私を育ててくれた母は、カナダ人宣教師が奉仕された街にあった教会に、級友に誘われて教会学校に行き、教会生活を始めています。夫の仕事の関係で、山奥にいましたので、教会には通えませんでした。そこに街からリュックザックを背負った伝道者がやって来て、讃美をし、聖書を読み、祈って、礼拝を守っていましたのです。街に出てからは、紹介された教会に参加していました。

 ところが牧師さんの子どもが亡くなられて、牧師館で仏壇に似た一角に線香が炊かれているのを見て、その教会を母は去りました。引っ越してからは、隣町の宣教師の教会で礼拝を守っていたのです。住み始めた町の路上で、将来、私の家内になるお母さんに会って、テキサスからの宣教師の始めた教会に誘われて、その群れに、自分の魂を委ねたのです。そこで、初めて旧約聖書からの礼拝説教や聖書研究で説教を聞いたと言っていました。私たち兄弟も、そこで教会生活を始めたのです。

 神学や教理は大切ですが、それを振りかざして、教理の争いをしたり、神学論争になったりして、優越感に浸ってしまうなら、聖書が示す神さまが、聖書が示す救い主が、助け主の聖霊が一番悲しまれるのです。天国には、改革派地区とか、ホーリネス派地区とか、聖霊派地区とかはあるはずがないからです。みんなが、讃美を歌い、溢れる様な感謝と喜びで満ち溢れることでしょう。

(「キリスト教クリップアート」からのイラストです)

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新旧交代

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 「新旧交代」、旧世代の英雄にとっては、悲哀を感じる出来事なのです。今、十六の孫が恋をして、親から、心理的に離れていく様子を遠くから見守っていますが、《親の保護と養育を受けている自分》をしっかり認めながら、その思春期の感情を堅実に持っているのを知らされて、二代前の私は、感謝するばかりなのです。

 3日ほど前に、次女家族からFaceTime があって、アケマシテオメデトウゴザイマス!と孫娘が新年の挨拶をしてくれました。最近は、日本語を勉強している様で、上手な発音でした。その上の孫息子は、『教会の仕事に出かけてるの!』と、そこにいない訳を話してくれました。婿殿もニコニコと話しかけてくれました。

 父母☞子☞孫、世代交代が進んでいるのです。旧約聖書に、レビ記271~7節に、「人身評価」の定めが出ています。

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 『「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。(レビ2728節)』

 モーセの時代の「神からの人の評価」ですが、孫息子16歳ですから〈20シェケル〉、婿殿は〈50シェケル〉、そして私は七十代後半で〈15シェケル〉、家内は〈10シェケル〉なのです。年齢というのは厳然たる数値であって、どんなに若作りしても、鍛えた体を誇っていても、財産を数えても、生きてきた年月は、重く今の一人一人に加えらているのです。

 次期大統領選への出馬を、どうするか考慮中の米大統領も、もう80歳です。第三期目を延長させてしまった中国の主席も、来年は70歳、みなさん引退の時期を過ぎているのに、自己過信か、周りの煽(おだ)てにのせられているピエロなのか、この「人身評価」のご自分を、誤評価しているなら、身の程を弁えなければならないのではないでしょうか。

 今、将棋の世界は、「王将戦」が行われています。ハタチの藤井聡太氏と、52歳の羽生善治の戦いです。平成に台頭してきた羽生現九段は、昭和の名棋士たちを薙ぎ倒して、一人舞台を演じてきました。ところが、令和になって彗星の様に現れた藤井王将は、まさに「世代交代」の主人公で、破竹の勢いで棋界に君臨しています。

 若者の出現に拍手を送りたい思いと、老兵を懐かしくも惜しむ思いとが、心の中でせめぎ合っています。「栄枯盛衰」、英語ですと、“ rise and falls “ と言うそうです。「盛者必衰」とは世のならいなのでしょうか。

 我々世代の川上哲治、息子世代の桑田真澄、孫世代の大谷翔平、スター選手、実権者、親方は、必ず消えていき、新星が昇ってくるのです。貧乏人でも、名門家系の出でなくても、無教育でも、活躍できる分野がありそうです。ただ、次代を担う四人の孫たちが、主を怖れ、主の名を高く上げ、栄光を主に帰しながら、人を愛し、自分たちの人生の馳せ場を、無名で無冠でいい、謙遜に歩んで行って欲しいと願う、巴波川の辺りに住するジイジとバアバです。

(古代ユダヤの「シェケル」です)

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郷愁音

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 空気が澄んでいる、冬場だからでしょうか、東武日光線の踏切の音が、遠くから聞きえてきます。始発電車が走っていく様です。日の出はまだですが、踏切の近くに父の家があって、そこに住んでいた時の情景が思い出されて、それと重なってきます。この音は「郷愁」を呼び覚ます音の一つなのです。

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ことば

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 「子どもは言葉を食べて成長します。子どもの言葉が豊かになるのは、家庭での言葉が豊かであるかどうかにかかってきます。耳で聞く言葉が豊かであるというのは、何より大切なことです。(松居直)」

 一昨日、上の娘から FaceTime があって、 母娘の会話を聞いていました。お母さんの事情で、おばあちゃんが面倒をみている3歳の女の子の世話を、娘が頼まれてしているのだそうです。

 どうも生活習慣が身についていないそうで、自己表現を言葉ですることもできないで、排泄習慣もできていないそうです。きっとサリヴァン夫人が、ヘレンに初めて会った時の様な状況に似ているのかなと思ったのです。もちろんヘレンとは違って三重苦ではなく、言葉を教えられていない様です。

 人の語ることばを必要としているので、話しかけて上げる様に、私は口を挟んだのです。子どもたちは、様々な家庭環境に中で育っています。東京でもホホルルでも、戦時下のウクライナでも、子どもたちは自分の育っていく環境を選ぶことはできません。

 働かなければ食べていけないお母さんたちがいます。躾などする時間的な金銭的な余裕がないかも知れません。一緒にいることもままならず、やむなく母子分離の中で生きている、このお嬢さんが、必要としてるのは、機械を通して耳に届く金属音ではなく、人が口で舌で語る「ことばなのでしょう。

 よくテレビに子守役をまかして、つけっぱなしの中に置かれている子どもたちがいます。それでことばを覚えていくことはありません。お母さんの腕に抱かれ、お母さんの呼吸や胸の鼓動を感じ、語りかけることばで、子どもはことばを覚えるのです。

 私を育ててくれた母のことを思い出しています。私が、お腹にいた時、山形から中部山岳地帯の山奥に、汽車を乗り継いで、父の仕事で、長旅をして越して来たのです。母は27歳でした。戦時下の物資の乏しい中で、育ててくれたのです。イタズラ小僧で病弱でしたから、手を焼かした子であったのでしょう。頭をポカッツと叩かれたことなどありませんでした。弟は、つねられたことがあり、私がそれを一緒にやったと言っていますが、信じられないのです。

 人の悪口を言うことなどありませんでした。交通事故で大怪我をしても、卵巣がんになった時も、弱音を吐きませんでした。グッつと我慢していたのです。父にも四人の男の子にもそうだったのでしょう。

 「ことば」を覚えたのも、話しかけてくれたからでしょう。もちろん戦後の山奥では、絵本などの幼児書籍などなかったのです。高等教育など受けていなかったのに、漢字を知っていて、よく聞くと教えてくれました。聖書を読んでいた人だったのでしょう。『聖書にこう書いてある。』と言って「聖句」を教えてくれたのです。

 恵まれない環境の中で3歳になったお嬢さんに必要なのは、「ことば」です。欠けていることに注目するのではなく、これから学べる可能性を信じて上げることでしょう。自分は迷惑な存在ではなく、『あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)』、神が、どの様にご覧になっているかを知らせるのです。喜怒哀楽を表せる感情表現ができて欲しいのです。欠けたるを補うことにできる神がいるのです。

 聞き続けると、蓄積された「ことば」が、語り出されていくのです。だから子どもたちをhappy にさせられる「ことば」を親は、《語って上げること》です。特殊事情の場合は、母の代役として、語って上げることでしょう。一個の人格の尊厳を認めながらです。「キリストの大使」になるかも知れないからです。松居直氏は、「現在は言葉がやせ細っており、言葉を必要としない究極の状態が戦争だ!」とも言っています。ウクライナ戦時下、一方的に語るだけではダメです。「ことば」が引き出される必要があります。

(松居直氏の「福音館書店」が出版した「ぐりとぐら」の表紙です)

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山並みや街並み

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 ここ栃木市は、昨年11月に市立美術館が開館し、街並みが文化度を増してきました。栃木中学校(現栃木高校)や栃木小学校(現中央小学校)があった地域が、廃藩置県で「栃木県」の庁舎が置かれた街でしたが、宇都宮に移されるまでの十三年間だけ県都であったそうです。その庁舎が「栃木県町役場」」になって、今は改装されて、見学者が訪ねています。その脇には、「県庁堀」が残っているのです。入船町という地域です。やはり舟運の街だったから、湊町もあります。

 その近くを散歩中に、今では僅かに残る木造の古民家を見つけたのが、この写真です。戦後間もない頃に建ったのでしょう、モルタルや新建材の壁の家々の中に、ポツンと残されています。住み人がいなくなった空き家の様です。こう言った家が軒を連ねていた時代があっての今なのでしょう。

 朝明けが綺麗でした。茨城県の筑波山系の稜線がくっきりして見えます。距離的にはけっこうありそうです。五年目の栃木ですが、地方都市ですから、古い家が壊され、空き地が目立ち、栄枯盛衰、様々な歴史があった街なのです。

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神さまが許されることで

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 『あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(2テモテ1:1314)』

 代表的な日本文化で、最たるものは「落語」ではないでしょうか。浄瑠璃も文楽も歌舞伎も、日本文化なのですが、日本語の真髄を話芸で表現する「噺(はなし)」は、決して噺家が自重するような〈ばかばかしい〉ものではなさそうです。人生の機微に触れ、人情を大切にした世間のありがたさを語ってきています。

 あの屈託のない笑いは、疲れを癒し、自分の現状を肯定して生きられるようにと励ましでさえも感じるのです。何と言うか、《しみじみした思い》にされるのです。幕末から明治にかけて活躍した、三遊亭圓朝は、落語の先覚者でした。主に人情噺を得意としていて、創作落語家でもあったのです。

 江戸っ子で、長州や薩摩出身の役人たちが、江戸の町を、わがもの顔で闊歩するのが、悔しかったのか、江戸っ子の気風(きっぷ)を取り上げた「文七髪結(かみい)」を作っています。年末の高座で演じられる題目だとされているのです。噺のあらすじは、次の様です。

 「だるま横丁の左官の長兵衛。ウデのいい職人だが、博打にハマって借金を抱えている。冬の夜道、今日も博打に負けて、着物をとられてしまってはんてん一枚で貧乏長屋へ帰ってきた。娘のお久がいない、どこを探してもいないと女房。

そこへ、吉原の大店(おおみせ)、佐野槌(さのづち)から使いがやってきた。お久はそこにいると言う。長兵衛は着物がないので女房の着物を着て、佐野槌へ。逆に女房は、長兵衛のはんてん一枚。

佐野槌で長兵衛は、女将から話を聞かされる。お久は自分を売って金をつくろうとしたのだ。長兵衛の博打の借金を返し、また長兵衛が仕事に精を出すようにしたかった。

お久の真情に心を動かされた女将は、長兵衛に説教した上でを貸す。長兵衛が来年の大晦日までに五十両返さないと、お久は店に出されて、客をとる。

五十両を懐に抱えたその帰り道、長兵衛は吾妻橋で身投げしようとする若者、お店(たな)の奉公人、文七に出会う。文七は売掛を回収した五十両をすられてしまい、絶望のあまり大川へ身を投げようとしていた。文七は身寄りがなく、五十両を貸してくれる人などいないと言う。

文七は死のうとするこの若者を助けたいが、さりとて五十両を渡してしまえば、お久を返してもらうことが難しくなると悩むが、死を前にした男を救おうとハラを決め、文七に五十両を渡してしまう。

長兵衛は、この金は娘が吉原に行って必死の思いでこしらえたものであるということは、文七に話したが、自分のことは名乗らなかった。

鼈甲問屋・近江屋卯兵衛と番頭が店で待ちわびている。文七が帰ってきて、回収した五十両を差し出す。驚く卯兵衛と番頭。

五十両は、相手先の屋敷で碁に誘われ、それに夢中になった文七が碁盤の下に忘れてしまったのを、相手先の使いが届けてくれていたのだ。文七の打ち明け話を聴いてさらに驚く卯兵衛。

五十両を出してくれた吉原の大店は佐野槌に違いないと目星を付けた。翌朝早く、番頭は早速、佐野槌へ。卯兵衛は文七を連れて長兵衛の長屋を訪れた。卯兵衛は長兵衛に五十両を返そうとする。

いったん人にやったものは受け取れないと渋る長兵衛に、なんとしてもとあたまを下げ、受け取ってもらう。

さらに角樽と酒二升の切手を礼として差し出す。そして、肴としてお気に召していただければ、と言いながら外に声をかけると、そこに美しく着飾ったお久が姿を現した。

卯兵衛は佐野槌からお久を身請けしたのだ。はんてん一枚の女房も衝立の後ろから飛び出してきて、抱き合って喜ぶ親子三人。のちに文七とお久は結ばれ、麹町で元結の店を開いた。」(「落語亭」の記事です)

 江戸の人情、哀愁、細かな人間の心理描写などが盛り込まれている噺です。説教者になりたての頃、話術も大切と、以前好きだった落語を聞こうとしたのです。ただ「間」が大切だと感じたからです。それで落語だけではなく、中西龍と言うアナウンサーのラジオ番組の話し方にも耳を傾けたりしました。でも、教会の説教壇は、寄席ともラジオ番組とも違うのです。「神のことば」を取り継ぐのですから、話術以上のものの必要に気付いたわけです。

 パウロは、信仰者の母や祖母に育てられ、また自分から「健全なことば」を学んだテモテに、恐れずに語る様に勧めています。「神のことば」が、聖霊によって人の心の中に触れるからです。に東北弁の強い訛りの説経者が、その晩の特別集会の講壇に立った時、その教会に、東大を出て、政治組織に関わる弟が、兄の勧めで出席していました。『こりゃあ駄目だ!』と、お兄さんが思ったのとは裏腹に、弟さんは、その説教を聞いて救われてしまったのです。この方は、後に牧師となられています。

 アメリカ原住民(インディアン)に伝道した、ブレイナードが説教していた時、通訳者が酒に酔っていたのですが、呂律の回らない舌で通訳された福音を聞いて、会衆者の中に、回心する者が起こったのです。神さまは、そんなことも許されるのです。

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私だけが豊かになることは

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  『お金は要りません!』、もう何年も何年も前に、初めて訪ねた隣国でお会いした、一人の伝道者のことばです。まだ、貧しい時でしたが、国は経済成長のために外貨が欲しく、外国人の観光客を呼ぼうとしていた時代だったのです。私の旅行当時は、外国人は、兌換紙幣を使っていて、その後、しばらくして訪ねた時には、残ったその紙幣は紙切れ同然でした。

 聖書や研究書やトラクトを、現地に要請もあって、秘密裏に持ち込もうとしての旅行だったのです。空港に着く最終便でしたから、税関吏も帰りを急ごうと、とてもソワソワしてるのが感じられ、簡単な検閲でした。反面、実に緊張していた私たちには、それは肩透かしだったのです。〈迷信書〉でカバンいっぱいでしたが、無事に持ち込めて、ただ主に感謝したのを思い出します。

 二つ目の訪問先の内陸部の街に着いた時、田舎の汽車の停車場のような空港でした。今は近代的な空港になっている様です。ちょっと目を鋭くした日本人ではと、見間違うほどの顔立ちの民族の方が、空港に溢れていました。ポプラの並木道が延々と続く道を、送迎バスに乗せて頂いて街中に着いたのです。そこで五十前後の方が、優しい目をして迎えてくれたのです。持参した物をお渡ししましたら、大変喜んでくださったのです。

 翌日郊外に連れ出してくださり、パオの中で、交わりをし、民族衣装に身を包んだ踊り手の舞まで観せてくださり、歓迎会を開いてくれました。草原で、馬に乗ったのですが、ちらりと私を見て、初心者だと見抜いた馬は、ソッポを向いて、知らん顔でした。馬丁さんに叩かれて、いやいや私を乗せて歩き始めたのです。

 翌日、その方の家に招かれて、奧さまが作って下さった大ごちそうで歓迎してくれたのです。5人も子どもさんがいて、上の子は二十歳ほどで、下は二歳ほどでした。下の子は、13年間の収容所から帰って来てから誕生したのだそうです。ご家族全員で、賛美を歌って聞かせてくれました。

 『日本人の私たちに、何ができますか?』と聞きましたら、『私だけが、私の働きだけが豊かになるのは願いませんので!』と言う理由で、そう答えられたのです。お子さんたちも大きく、10幾つもの群れをお世話している方で、必要は見えていたのに、そう言われたので驚いたのです。よその国では、献金要請をする人たちが多いのだそうですが、そういったことをしないでw伝道を続けておいででした。

 その代わり、『来てください!』と、この方が言ったのです。それから二つの街を訪ねて、帰国しました。その後、その街で語られた言葉が、何年もの間、時々思いの中に繰り返し、鸚鵡返しの様に聞こえていました。私は、六十になる前に、行こうとしたのですが、道は開きませんでした。『そんな年齢で出掛けても、働きはできないでしょう!』と、その伝道に携わってきた方に言われたこともありました。

 ところが、道が開かれたのです。英語圏の団体が、呼んでくれたのです。それで、13年間、その国に滞在したわけです。帰国する前の年、2018年の秋に、港町の高台にある養老院を、表敬訪問したのです。95歳だと言う、省の西の方の街の出身のご婦人が、ご両親が伝道者で、どんなことをなさっていたかを話してくれました。その方は医者をされて来たそうで、主のために医療で献身されてきた方でした。凛とした、素晴らしい信仰者でした。

 歳を重ねても、社会は変わってしまっても、蒔かれた福音の種は、しっかりと実を結び、輝いた老齢期を生きておいででした。その方と同室の方も、クリスチャンで、帰りに、『これで食事をして、帰ってください!』と、お金を渡されました。かつての軍港の街の食堂で、お連れくださったご婦人お二人と家内と4人で、主に感謝し、老信徒たちに感謝して昼食をとったのです。

(民族楽器の「馬頭琴」です)

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