蕎麦恋し

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 母の故郷に行った時に、母の実家の隣の方が、私を、食事に連れ出してくれたのです。この方は、予科練帰りで、戦後、父を頼って、山奥の旧軍の軍需工場で使っていた索道で、木材業を始めた父の所に来た方でした。『準ちゃん!』と呼んでくれ、私も『シゲちゃん!』と慕ったのです。街から山奥の家までの山道を、泣きながら負ぶってくれた方でした。

 このシゲちゃんが、何を食べさせてくれるのかと思いましたら、出雲名物の「割子蕎麦」でした。三つの器に盛られた蕎麦を、「あご(飛魚)」で作った出汁の味付けをした蕎麦つゆに、薬味(青海苔やすった大根やにんじんや削り節など)で食べるのです。

 元は、信州の松本藩の城主であった松平公が国替えで、松江藩の城主になった時に、信州から蕎麦職人を連れて来たのだそうです。それほどの蕎麦通だったわけで、奥出雲などの地で蕎麦の栽培を奨励し、そこで収穫された蕎麦粉で、蕎麦が食べられ始めたのだそうです。

 宍道湖で獲れるシジミの味噌汁を、これに添えたら、まさに「出雲味覚逸品」でしょうか。母の養母の故郷は、現在の雲南市(旧大東村)で、一度だけ訪ねたことがあります。「五右衛門風呂」に入れてもらって、まさに大鉄鍋の湯に、すのこに乗って入浴したのです。薪でわかしたお湯でしたので、薪の匂い、燃える火の匂い、いい気分だったのを思い出します。

 長く過ごした県の山深い地に、キャンプ施設があって、そきが学校の林間学校やキャンプで利用しているのを聞いて、教会学校のキャンプで利用させていただいたことがありました。そこも〈落人伝説〉のある地で、平家の末裔だと、村の人が言っていました。今でこそ、林道が整備され、県道となっているので、車が利用できますが、かつては、他と交流のない、自給自足の社会だったのでしょう。

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 そこで、村のご婦人たちが蕎麦を打ってくださって、ご当地蕎麦を食べさせてもらったのです。出雲の割子に匹敵するように美味しかったのです。蕎麦のお話のついでで、昨年の秋にも、〈出流蕎麦〉を食べに、ここの自治会のみなさんに誘われて行ってきました。新蕎麦ということで、それを聞いただけで、もう美味しかったのです。

 その店主が、福島県下の尾瀬のパンフレットをくださって、『ぜひ訪ねてみてください!』と誘われたのです。写真がご趣味で、店内に掲出されていて、撮られた写真を、個人的に説明してくださったのです。檜枝岐村で、民宿も結構あって、観光村のようです。そこも、平家の落人部落だと言っておられ、蕎麦の名所なのだそうです。

 暖かくなったら出掛けてみたいものです。蕎麦が食べたくなるのは、歳のせいでしょうか。山奥の生活が懐かしいからでしょうか。

(出雲の割子蕎麦と檜枝岐村の春風景です)

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あれから3年なのです

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 寄席の噺に、「三年目」があります。願わない、もう忘れていた死んだ女房が、幽霊になって出て来るのが、この三年目だったのです。どうしてすぐ出てこなかったのかと言いますと、昔は、葬る前にでしょうか、死者を剃髪する習慣があったのだそうで、髪が生え揃うまで待って、愛想を尽かされない様に、出てきたという「落ち」なのです。

 「三年目」と言うと、中国・武漢で発生した新型肺炎について、世界保健機関(WHO)が、『新型のコロナウイルスが検出されました!」と認定され日が、2020年の114日でした。それが日本にも感染が広がって、国立感染症研究所が、日本国内初の感染者を確認したのが、翌日の15日でした。あれよあれよと言う間に、感染が日本中に、そして世界中に拡大してしまいました。

 その前年の暮れには、二人の娘たちが家族で、母親を励ますためにやって来て、正月には、息子たちもやって来て、アパートに溢れる様な子や孫の賑やかさがあったのです。日光市にあるキリスト教系の宿泊施設、オリーブの里に、全員で宿泊し、その日曜日には、全員で礼拝を守ったのです。実に素敵な家族での礼拝に、母親は大喜びでした。そして明治初年に開業した、栃木市の近所の老舗の写真館で、家族写真を撮ったのです。

 その1週間ほど経った頃(114日でした)に、隣国からご夫妻が、手にいっぱいの「山上の垂訓(登山宝訓)」の壁掛けや、漢方の身体によいお土産を抱えて、家内の見舞いにやって来てくれたのです。京都の若い友人も駆けつけてくれて、集会も持ったのです。このご夫妻は、多くの教会のお世話をしておいでの方で、彼の息子さんや婿殿の教会にも、在華中にお邪魔させていただいたこともあったのです。

 コロナ騒動は、その直後に起こったことでした。歯の治療に、日本橋にいた時にお世話になった歯医者に行けなくなったり、行動制限で、ずいぶん狭まった環境の中で過ごした3年だったのを思い出します。

 想いもよらなかった出来事は、買い物に行った時に、『クソジジイ、近づくな、クソジジイ!』と、五十代ほどのおばさんに連発されたことでした。よほど神経質になっていた時期なのでしょうか、呆気に取られていた私に、その店の店員の方に、『あんなこと言われても怒らないのはすごいですね!』と褒められたので、帳消しになったのでしょうか。

 ピリピリ感が、日本中、いえ世界中に張り詰めていた最中でした。それに引き換え、最近では、『コロナ感染症での死者数が最高だ!』と言われても、世の中が平然としてしまっているのが驚きです。〈喉元過ぎれば〉なのでしょうか、これもまたもう一方側の異常な社会心理の様に思えるのですが。

 この騒動の3年が過ぎて、感染症の怖さと、違った新型の感染症に、また怯えるのかと思うと、人の無力さを思い知らされてしまいます。しかし、聖書には次の様に約束が記されてあります。

  『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。(詩篇9113節)』

(訪ねてくださった友人が行って雪を楽しんだ「日光戦場ヶ原」です)

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旧軍隊の実像が

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 中学の時に、映画好きだった私の好きな俳優の一人は、木村功(いさお)でした。彼が演じた「真空地帯(野間宏作)」は、戦後文学の記念碑的な作品で、1952年に映画化されたのです。その映画が、先日、Youtube で、64年ぶりに観ることができたのです。

 この映画は、どこかの名画座で上映されてるのを、初めて観たものでした。戦争が終わる前の年の暮れに、私は生まれたのですが、戦争を知らない私には、戦場ではともかく、軍隊の内務班が、どんな所であったかを知らされた、衝撃的な映画でした。主人公を演じたのが、その木村功でした。

 『#お国のためと言いながら 人の嫌がる軍隊に 志願で出てくる・・・色で固めた遊女でも・・・  』という歌詞の歌を、中学三年の遠足のバスの中で、50人近い男ばかりの同級生、運転手さん、バスガイドさん、そして担任の中で、歌ったことがありました。なぜかと言うと、この映画の最後のところで、木谷一等兵が歌っていたのを、聞きかじりで覚えていたので、調子にのって歌ったのです。

 実に小生意気な中学生であったのを思い返して、穴の中に入りたい様な恥ずかしい思いに、今だにされます。三年間世話をしてくれた担任が、いやーな顔で振り返った視線を覚えています。そんなことを平気でするほど、調子がずれていたのです。クラブの先輩に聞いて、その歌の歌詞の全部を覚えたのです。

 今、ウクライナ戦争の終結を願っている私ですが、戦争を知らない、子や孫たちに、日本が大陸に「王道楽土」」を作ろうとした戦争の裏側を知って欲しく、この映画の解説をここに引いてみます。

 『週番士官の金入れを盗んだというかどで、二年間服役していた木谷一等兵は、敗戦の前年の冬に大坂の原隊に帰っていた。彼は入隊後二年目にすぐ入獄したのですでに四年兵だったが、中隊には同年兵は全くおらず、出むかえに来た立澤准尉も班長の吉田、大住軍曹も全く見覚えのない人々であった。部隊の様子はすっかり変わってた。木谷に対する班内の反応はさまざまであった。彼は名目上病院帰りとなっていたが、何もせず寝台の上に坐ったきりの彼は古年兵達の反感と疑惑をつのらせた。木谷が金入れをとったのは偶然であった。しかし被害者の林中尉は当時反対派の中堀中尉と経理委員の地位を争って居り、木谷は中堀派と思いこまれた事から林中尉の策動によって事件は拡大され、木谷の愛人山海樓の娼妓花枝のもとから押収された木谷の手紙の一寸した事も反軍的なものとして、一方的に審理は進められたのだった。兵隊達が唯一の楽しみにしている外出の日、外出の出来なかった木谷は班内でただ一人彼に好意をもっている曾田一等兵に軍隊のこうした出鱈目さを語るのだった。班内にはさまざまな人間がうごめいている。地野上等兵の獣性、補充兵達の猥褻な自慰、安西初年兵のエゴイズム。事務室要員の曾田は軍隊を「真空地帯」と呼んでいた。ここでは人間は強い圧力で人間らしさをふるいとられて一個の兵隊--真空管となるからだ。或日、野戦行十五名を出せという命令が出た。木谷は選外にあったが、曾田は陣営具倉庫で、金子班の千葉が隣室でしつこく木谷を野戦行きに廻す様に准尉に頼んでいるのを聞き驚いた。金子班長はあの事件の時中堀派の一人として木谷の面倒をみたのだが、今は木谷との関わり合いがうるさかったのだ。木谷が監獄帰りと聞こえがしに云う上等兵達の言葉に木谷は猛然と踊りかかっていった。木谷を監獄帰りにさせた真空地帯をぶちこわそうとする憎しみに燃えた鉄拳が彼等の頬に飛んだ。それから木谷は最後の力をふりしぼって林中尉を探しまわった。彼に不利な証言をした林中尉に野戦行きの前に会わねば死んでも死にきれなかった。ついに二中隊の舎前で彼を発見した。彼の必死の弁解に対し木谷の拳骨は頬にとんだ。やがて、転属者が戦地に行く日が来た。花枝の写真を懐に抱いて船上の人となった木谷に、ようやく自分をきりきり舞いをさせた軍隊の機構、その実態のいくらかがわかりかけてきた。見知らぬ死の戦場へとおもむく乗組員達の捨てばちな野卑な歌声が隣から流れてくる。しかし木谷の眼からはもはや涙も流れなかった。』

 組織、とくに軍隊という組織が持っていた大きな問題を露呈したことは、「戦争放棄」をかざした平和憲法の意味が伝わってきます。でも、このところ〈キナ臭い動き〉がしてきているのを感じてなりません。「国土防衛」、実に重い問題ですが、もうどうしようもなく動き始めています。この映画で、一兵卒を演じた木村功は、とても素晴らしい俳優でした。奥さんを愛した方だったそうです。惜しくもお病気で、58歳で亡くなられています。

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大寒

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 この写真は、「大寒(1月20日)」の前日の朝の三日月です。もちろん、この「二十四節気」は、中国の中原(ちゅうげん/河南省の黄河中下流域地帯)を中心とした地を元に、陰暦に従って定められていますから、日本で感じる季節感には合わないのですが、来週あたり、寒波襲来ですから、今冬の寒さの頂点な今としては、これを実感させられます。

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現代への語り掛けとして

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 下記の文章は、オランダのデジデリウス・エラスムス(14661027日〜1536712日)が、1517年に著した「平和の訴え(Querela pacis)」です。日本では群雄割拠の戦国の世、ヨーロッパの1500年代の初めに、こんな平和思想を主張する器がいたのです。

64 戦争というものがどれほど神を恐れぬものであるか、もっとはっきりと知りたいとお考えなら、戦争を繰るのがいったい何者であるかをよく注意してごらんになるとよろしい。敬虔な君主にとっては、その人民の安全を図ることがなによりも重要な義務だとしたら、まず戦争こそは何よりも憎むべきものとされねばなりませんね。

君主の幸福とは幸福な国民を統治することであるというのでしたら、君主は心から平和を大切に慈しむ義務があります。善良な君主にとっては、最良の国民を支配することこそ望ましいとするならば、戦争を心底から呪わねばなりません。

この戦争からあらゆる不信心の滓(かす)が吹き出してくるのですからね。またもし、国民の富が殖えれば殖えるほど、自分の富も増したことになるのだと考えるならば、君主たるものはあらゆる手段を尽くして戦争を避けねばなりません。

と申しますのは、たとえどれほどうまい結果に終わったにしても、戦争というものは、全国民の財産を消耗し、真面目な仕事によって生み出された財産から、法外な金額を首切りの悪党どもに払ってやることになるからです。

 ここで繰り返し皆さんに考えてほしいと思いますのは、君主たちが並べ立てる戦争のかずかずの理由はご自分の耳には実にもっともらしく聞こえるものであり、また、大勝利の希望はかれらに微笑みかけるのだということです。ところがあにはからんや、しばしばそれは最悪の事態となり、また、これほど正しいものはないと思える理由も的はずれ、ということが珍しくないのですからね。

65  けれども、まあ一歩譲って、まったく正当な開戦理由がある、この上なく上首尾な戦争の結末が得られる、と想像してみましょう。その上で、戦争が行われることによって、すべてのものに、どの位の損害を及ぼすことがあるか、また勝利のもたらす利益が、どれ程になるかを計ってみて、差し引き戦争に勝つということに、どれだけの価値があるかをお考えくださいな。

かつて、流血を見ずに勝利のおさめられた例しがありません。つまり、あなたの国民たちが血まみれになるということですよ。さらに加えて、公衆の風俗や規律の弛緩を計算に入れてごらんなさい。どんな利益もこの損害を埋め合わせることはできないのです。

そればかりか、戦争によって国庫を蕩尽(とうじん)し、民衆をまる裸にし、善人を苦しめ、悪者を乱暴狼藉に駆り立ててみたところで、結局何もかたづきません。いざ戦争が終わってみても、その名残は永く尾を引き、何もかもが、死に眠りに沈んでしまいます。学芸は衰微し、通商は妨げられるのです。

66   敵を締め出そうとすると、まずご自分があちらこちらの国から締め出されれることになる、ということを知っておかれた方がよいでしょうね。君主よ、戦争を始める前は、近隣のすべての国があなたの国も同然だったのです。と申しますのも、物資の自由な交易によって、平和はすべてものを共有するからですよ。ところがごらんください、戦争によってどれだけ多くのものが無に帰することか! 普通ならばあなたを支える大きな力となるはずのものが、今やほとんどあなたの手を離れてしまっているのです。

ちょっとした町を攻略するために、どれほど多くの武器や軍幕が必要なことでしょうか? ほんとうの都市を破壊するには、都市とみまごうばかりの陣営をもうけなけねばなりますまい。それよりも少ない費用でも、立派な都市が新たに建設できるでしょうに。敵をその城塞に閉じ込めて逃すまいとすれば、あなたは遠く祖国を離れて、露営の夢を結ばなければならぬわけです。既にできあがっている町を兵器で破壊するより、新しい町を建設するほうが、その費用はずっと少なくて済むのです。(「平和の訴え」エラスムス著、箕輪三郎訳、岩波文庫版/抜粋)」

(エラスムスのイラストです)

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思い出したこと

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 『しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。(ルカ1228節)』

 田んぼの畦道に、散歩の途中に見つけた花です。真冬に吹く北風を避ける様にして、畦道の内側で、《じっと》咲いている姿は、素敵でした。その健気に、無言に咲く花を見ていて思い出したのは、『ああ、こういうことだったのか!』と言うことでした。

 先生の晩年のクラスに加えてもらって、指導していただいたことを思い出したのです。戦時中、再臨を説く伝道熱心なキリスト教会と、社会主義活動家は、社会の秩序を乱し騒乱に陥れて、国家を転覆する危険性があるとのことで、実に厳しく取り締まりを受けました。嫌疑をかけられて留置や拘置された人たちの中に、この恩師がいました。

 杖を使って足を引きずって歩き、時々神経が詰まるのでしょうか、首筋を伸ばそうとされて、引き攣るようにされておいででした。労働運動や社会の貧困の問題の原因を取り上げて研究や活動をしていたのです。それで思想取り締まりを受け、拘置され拷問で打たれたのでしょうか、弱々しく見えました。

 教えている恩師の目は澄んでいて、いつもにこやかでした。山口県の下関の出身で、戦前には、同じ学校で学んでいますし、在学中に結核になり、退学しています。戦後、そこで教壇にたたれたのですから、同窓の先輩にあたります。「野の花の如く」と色紙に、小さな絵と共に書き添えてくださって、記念にいただいたのです。

 『荒れ野でもいいから、炉に投げ込まれるようであってもいいから、導かれ、置かれた所で、精一杯生きよ!』と言って、社会に出る私たちを送り出してくださったのです。生活苦に苛まれる人々を捨て置くことができない「優しさ」が溢れていた方でした。若い頃に教会に導かれ、バプテスマを受け、教会学校の奉仕をしていたそうです。しかし教会に躓き、出たそうです。

 奥さまが、無教会の説教者の妹さんでしたから、そのグループに属していらっしゃったのでしょうか。ついぞ、信仰上のことを聞かずじまいでした。まさか、やがて私が献身するなど思いもよらない時期だったからです。踏みつけられても、懸命に、至高者で創造者の神さまに向かって咲いている、この野の花を見て、懐かしく思い出してしまいました。

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熊本県

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 伝道者として私を導き、育ててくださったアメリカ人の恩師が、熊本市の阿蘇に近い街で、一年ほど滞在していたことがありました。そこは熊本から阿蘇を通って、大分に至る街道沿いにある旧宿場町でした。今では熊本市のベッドタウンとしての機能を果たし、熊本空港も近くにあります。この方の友人の帰国中に、その教会の留守を申しつかっての滞在中でした。

 結婚したばかりの私は、家内と一緒に、この方を訪ねたのです。彼を慕う中学や高校生たちが、その留守宅に出入りしていていました。阿蘇の麓でキャンプをすると言うことで、私たちも参加しました。それは、私の人生を、大きく変える時だったのです。

 その青年キャンプで、私は初めて説教をしたのです。箴言をテキストにして、「蟻の生き方に学ぶ」と言うことで、小さな生き物の特質を上げて、話をしたのです。宣教師さんからの入門テストでもありました。やっとのことで合格したのでしょうか、次の年に長男が生まれ、この方の新規の開拓伝道の助手として、生きて行く決心をさせていただいた訪問でした。

 今は、その熊本郊外での教会を、私の友人が受け継いでいて、何度も何度も訪ねているのです。隣国からの帰国中に、この友人を訪ね、旧交を温めることができ、2016年にあった、あの大きな熊本地震で崩壊した熊本城の城壁や震源の益城町の被害の惨状の様子を、案内してもらったことがありました。白川に架かっていた鉄橋が落ちたのには、驚かされました。

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 さて、幼い頃から聴き覚えて、意味が分からずに、遠い九州肥後の地で生まれた、「五木の子守唄」を歌った覚えがあります。

1 おどま盆ぎり盆ぎり
  盆から先ゃおらんと
  盆が早(はよ)くりゃ早もどる

2 おどまかんじんかんじん
  あん人たちゃよか衆(し)
  よか衆よか帯 よか着物(きもん)

3 おどんがうっ死(ち)んちゅうて
  誰(だい)が泣(に)ゃてくりゅか
  裏の松山蝉が鳴く

4 蝉じゃごんせぬ
  妹(いもと)でござる
  妹泣くなよ 気にかかる

5 おどんがうっ死んだら
  道ばちゃいけろ
  通る人ごち花あぎゅう

6 花はなんの花
  つんつん椿
  水は天からもらいみず

 悲しい旋律の歌で、ここに登場する子守りって、今なら「児童労働」にあたるとおっしゃる方もおいでです。貧しい農家の子どもには、大変な時代だったんだと分かったのです。聖書の「申命記」には、『貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。(24:14)』とあり、聖書の神さまは、「弱者」を、強い者たちの「虐げ」から守ろう、保護しようとされるお方なのです。

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 この二十一世紀になって、豊かな経済社会の陰に、「貧困」の問題があることが言われて随分と時が経っています。強者の社会で、弱者が取り残されているのは悲しいことです。それは熊本の球磨地方の五木村だけにあったことではなく、日本全体がそうだったわけで、今もそうなのは悲しいことです。

 熊本は、かつては「隈本」と言う表記だったのだそうですが、漢字が不評で変えられたのだそうです。ここは肥後国の中心で、熊本城の天守閣から眺めると、そのことを納得させられるのです。女の子たちの遊びで歌う「手毬唄」でも、「肥後」が歌詞に出てくるものがあります。

あんたがたどこさ 肥後(ひご)
肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それをりょうしが 鉄砲(てっぽ)で打ってさ
にてさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で チョッとかぶせ

 近所の女の子たちが〈マリつき〉をしながら歌って遊んでいたのを、よく見掛けたことがあります。狸が、鉄砲で打たれて、煮たり、焼かれたりして食べられてしまう歌詞は、童歌にしては、残酷な情景が思い浮かべられて、少々怖いのですが、遊びの中で、受け継がれてきたのでしょうか。

 ここには、「熊本バンド」と言われる、御雇外国人教師からキリスト教の感化を受け、多くの青年たちが信仰に導かれた源流の一つがあります。別に、「花岡バンド」とも言います。「バンド/ドイツ語の“ bund ” で、同盟、盟約などの意味を持っています」には、この他に横浜バンド、札幌バンド、弘前バンド、松江バンドなどもあったと言われています。多くの士族出の若者たちが、熊本洋学校の英語教師のジェーンズの信仰的感化を受け、後に新島襄の同志社に転校しています。

 自民党の幹事長などを歴任した、石破茂は、その頃の学生の一人、金森通倫の曾孫にあたります。他のバンドも、多くの若者たちに多大な感化を及ぼした点では似通っています。明治初期に、多くの有名無名の優秀な人材を教会、官吏、学問の分野に送り出した点で、素晴らしい時代だったのです。

 熊本といえば、三十歳の夏目漱石が、第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていた街で、その滞在期間の経験から、あの名作「草枕」が書き上げられています。漱石は、度々、熊本藩士で、剣道指南をしていて、維新後は民権運動をしていた前田案山子の別邸のある、「小天(こあま/現在の玉名市天水町にあります)」を訪ねています。

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 この前田案山子(かかし)のお嬢さんとの出会いが、その「草枕」の中に描かれているのです。漱石の手で、そのお嬢さんと主人公の画工(えかき)とのやり取りを、幽玄に記しています。文豪と言われる漱石の描写力には、息を飲まされてしまいますが、流石(さすが)に、「明治の文豪」とか、日本語を形作った文筆家とかで、千円札に描かれるに相応しく、筆を振るった漱石です。

 天草に船で渡る、台風時、一番安い旅館を紹介してもらって泊まった晩、台風の襲来で、旅館の窓ガラスが割れて、一晩中、襖を背にして過ごしたのです。台風渦中の体験は、やはり怖かったのを思い出します。

 山の姿が、本州の山と違ってなだらかで美しいのです。その活火山の阿蘇山があることからでしょうか、熊本を「火の国」と呼んでいます。昨年、群馬に出掛けたおり、赤城連山の麓を行くローカル線に乗って見上げた山容は峻厳で、まだ秋だと言うのに、赤城颪が吹き降りて、上州名物の「カラッ風」の冷たさが予感できたのです。ここに掲げた阿蘇山の様子を写した写真が、私は大好きです。

 律令制下、「西海道(現在の福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎、熊本、鹿児島の九州7県の地域)」の「肥後国」でした。江戸時代には、細川家の熊本藩、八代と人吉と天草は幕府の勅領でした。熊本藩は、熊本城を築いた加藤清正の加藤家でしたが、出羽国庄内犯に配流された後に断絶しています。細川の殿様の加護で、肥後国のお百姓さんは豊かだったそうで、一揆などの起らなかった藩でした。県都は「熊本市」、県花は、「リンドウ」、県鳥は、「ヒバリ」、県木は「楠(くすのき)」です。

 標準語、ないしは多摩弁の私は、「肥後弁」が聴き心地がよくて、「おいどん」の薩摩弁も男っぽくていいのですが、熊本県人の話しっぷりは素敵だなと思っているのです。時々真似してみますが、ダメだなあと思ってしまいます。

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 熊本洋学校で学び、同志社で学び、そこで受洗した徳富蘇峰は、「国民之友」と言う月刊誌を発行しています。明治の言論界で用いられた人物でした。1887年の発刊から1898年の廃刊まで、11年間刊行されています。平民主義、自由主義、平等主義、平和主義を特徴にしたもので、執筆陣には、内村鑑三、新渡戸稲造、横山源之助、田中卯吉、中江兆民などの知識人がいました。また二葉亭四迷、森鴎外、山路愛山、樋口一葉、泉鏡花なども投稿していたのです。ドストエフスキー、トルストイ、ワーズワースなどの外国の文学も翻訳されて、上掲されていたそうです。富国強兵の国策の背後に、こう言った民間の動きが台頭したことは、特筆に値します。

    熊本の友人を訪ねた時に、「だご汁」と「馬刺し」をご馳走になりました。味噌仕立ての団子、野菜のうどんで、福岡や大分を含む、九州の名物なのでしょうか。とても美味しかったのです。甲州名物の「ほうとう」に似ていて、馬刺しもご馳走で食べられています。

 わが家は、春から秋にかけて、「朝顔」を育ててきています。お隣の国に行っても、ベランダいっぱいに咲かせていたのです。ここ熊本では、「肥後朝顔」の栽培と鑑賞が盛んなのだそうです。昨年あたりから、この朝顔に関心が向いていて、今春は、どうにか咲かせたいものだと思っていますが、世話が難しいのかも知れません。水前寺公園に、その愛好会の事務所が置かれているのは知っていますが、どうなることでしょうか。

(阿蘇山、熊本城、だご汁、肥後朝顔です)

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秋(加古里子)


 子どもの頃に、「絵本」をあまり読まなかったので、今になっての開眼で、図書館で借り出した絵本に夢中になっています。 

 旧制の高等学校の学生であった加古里子が、戦局厳しい時期、敗戦の前の年、私の生まれた年ですが、兵器を作る工場に勤労動員していました。すでに本土に米軍機が飛来し、都市爆撃が行われ始められている中、盲腸炎になります。「おでこ」とあだ名された医師たちによって無事手術が行われます。その病中の有様を、作者はクレヨンで描き残した「秋」と題した「紙芝居」があります。その原本が見付け出されまたのが、2008年のことでした。

 2020年になって、その紙芝居の「台詞(せりふ)」が見付かったのです。絵本出版のために、加古里子は、戦後、ずっと準備を重ねていたのです。2018年に亡くなってから、3年経った、2021727日に、講談社から発行されています。

 十八歳、高等学校二年生の戦時体験が、やはり平和を希求させたのでしょう。大学で応用科学を専攻し、昭和電工に就職しています。働きながら、川崎のドヤ街のsettlement で活動をし、子どもたちに人形劇や紙芝居などをしておいででした。絵本作家として、最初に手がけたのが、1959年に「だむのおじさんたち」で、それ を発刊しています。47歳で会社を退職して、フリーで、大学で教えながら、絵本作家を続けたのです。「秋」と題した絵本の最後の方にある「ことば」です。そして、いく枚かの絵です。

ああ、こんな戦争なんか、

一日も早く終わったほうがいい。

にっぽんだってあめりかだって、

勝っても負けても、戦争では人が死に、

傷つき、生活がめちゃめちゃになってゆく。

だれがいったい、戦争で得をするというのだろう。

どんな苦しみだって、

戦争の苦しさにくらべたら、

耐えられるだろうにー

戦争をするだけのお金や物を、

みんなの生活がよくなることに使ったら、

ほんとうにたのしい世の中がつくれるだろうにー

爆弾や戦車や落下傘や、カボチャをつくってまで、

なぜ戦争をしようとするのか。

青い空や澄んだ秋晴れは、

戦争のためにあるんじゃないんだ。

空腹や戦争のために、青く澄んでいるなら、

こんな秋なんかないほうがいいんだ。

はやくどこかへ行ってしまえ!

そしてはやく、一日もはやく、

平和な春がきてほしいー

私は願いました。

切に私は思いました。

 手術で執刀してくださった医師は、徴兵されて行くのですが、無事に帰ってくることを願いつつ送り出したのですが、思いは届かず、戦死してしまいます。その報に、対する想いが、この家にある絵の、黒く塗られたご自分の顔なのでしょうか、また反戦の想いを込める青年の視線、そんなことを感じさせる画像ではないでしょうか。

 今もなお、ウクライナへの侵略戦争が続いています。終結を、世界が願っているのですが、いつまで、どこまで続く暴挙でしょうか。はやく戦いが終わるのを、どなたも願っているのですが。

テムジンの友塾

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 「Баяртайバヤルタイ」、『さようなら!』とか『また会いたいです!』と言った、モンゴル語の別れの挨拶のことです。そんな番組が、YouTube にあります。

 以前住んでいました街で、隣家のおじさんが、自慢話(?)を話して聞かせてくれたことがありました。戦時中に満州に遣わされ、終戦間際に、ソ連軍が宣戦布告して攻め入ったのです。物量の乏しい日本軍は、負けて、シベリヤに抑留され、強制労働を課せられます。12000人もいました。少ない食料配給で足りず、食べることに必死だったのだそうです。ソ連軍の手伝いをして、余計食べれたとの自慢でした。いいのかな?

 中京テレビの報道部に、モンゴル人のスタッフがおいでで、お名前がホンゴルズルさんと言います。この方が作られた番組があります。終戦で、シベリヤに抑留された他に、モンゴルにも強制連行されて、抑留した方と、彼女が出会います。その出会いから、ドキュメンタリー番組を制作されるのです。その方が、神戸在住の友引正雄さんでした。その足跡を追い、動画になっていて、それを観た次女が、YouTubeの動画を送信してくれたのです。

 友引さんは二十歳の時に、連行の途中に、極寒のモンゴルで凍傷となり、両足の膝下を、局所麻酔だけで、切断するという経験をされています。友引さんの抑留者仲間は、ウランバートルの市役所や図書館や証券取引所などの公共施設、30以上の建物の建設のために駆り出されて、粗末な食事で、過酷な労働を強いられ、それに従事したのです。

 2019年に、最後の墓参の訪問団が結成され、94歳の友弘さんら4人に、中京テレビのホンゴルズルさんも同行したのです。その建設した建物の一つがモンゴル国立大学で、そこで学ばれたのが、このホンゴルズルさんでした。日本兵が抑留されて、ウランバートルにいたことも、彼らが強制労働で、学んだ学舎を建てたことなどつゆ知らずでいたそうです。

 その時、抑留の事実を調べるために、公文書管理庁を訪ねています。皮革工場などで働いていた様子や、建設工事を撮影した写真や動画のフィルムも保管されていたのです。16000人の抑留者がいて、その13%が、現地で亡くなっておいでです。

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 この友引さんは、『お母ちゃんに会いてえなあ!』と願って窮状を乗り越えて、祖国に帰ろうと願ったのです。二年後に帰国が許され、復員後は、入隊前に、旧国鉄に勤務されていたので、その職場に復職されたのだそうです。抑留経験者や家族や遺族で、「モンゴル会」を建て上げて、これまで四十回も、亡くなった戦友の墓参のためにモンゴルを訪ねて来たのです。『生き残って申し訳ない思いでです。』と友引さんは言っています。誰かの犠牲があって生き残り、日本に帰国できたことに、「ありがとう」の気持ちで、帰国後を生きてきたそうです。

 日本とモンゴルの国交が回復したのは、1972年でした。友弘さんは、1975年に墓参のために戦後初めて訪問しています。28年振りだったそうです。強制労働、両足の切断、2年の抑留生活にあったモンゴルとの関わり方に、戦後の時間の中で、変化があったのだそうです。

 ベルリンの壁が、198911月に崩壊したことから、共産圏諸国が次々に崩壊していきました。1988年から1991年にかけて、内部からソ連の体制が崩壊し、それに伴って、隣国のモンゴルも、国家体制が雪崩のように崩壊してしまいます。その結果、ソ連からの経済援助が絶たれ、経済的に破綻し、大きな問題を抱えていました。そこに、捨てられたり、家出したりした子どもたちは住む家がなくて、酷寒マイナス30℃の下、温水を送るパイプのマンホールに暖を求めて住み始めて、「マンホール・チルドレン」と呼ばれるようになります。

 NHKが、混乱と貧困のモンゴルの様子を、取り上げて番組が制作されました。「高層ビルが立ち並び、急激な経済成長を遂げるモンゴル・ウランバートル。その片隅で、貧困から這い上がろうともがき続ける2人の男がいる。ボルト33歳、ダシャ34歳。彼らは親友。20年前の1998年、ウランバートルには、親に見捨てられ、マンホールから地下にもぐって寒さをしのぎながら生きる「マンホールチルドレン」があふれていた。ボルト(当時13)とダシャ(当時14)もそこにいた。互いに助け合いながら懸命に生きていた。(番組のサイトから)」

 友引さんたちは、捨てられたり家を出た子どもたち、マンホールチルドレンの助けになるために、1997年に、ウランバートルに「テムジンの友塾(Тэмүжин)」を開設し、20年の間、運営してこられたのです。「テムジン」は、チンギス・ハーン(成吉思汗/ジンギス・カン))の本名です。その子どもたちに、衣食住を提供し、教育を施してきたそうです。元捕虜仲間で、軍医だった春日さんが園長を勤めてこられました。

 その最後の訪問の時に、卒園児が訪ねてきていました。今は結婚されお母さんになっている、ハグバスレンさんです。お二人の再会は感動的でした。そう言った日本人の生き方は、誇りに思えてなりません。加害者としての過去を償う意味でも、子どもたちを支え、励ましてきたことは、素晴らしいことでした。

(モンゴル国花の「セイヨウマツムシソウ」、「草原」です)

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この不思議さよ

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 『 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19:5~6)』

 新しい年を迎え、晴天続きで毎朝、東の空から、陽がの昇って参ります。これまで雲や嵐で見えない日はありましたが、私の78年の生涯で、一日も欠かさず、この地を輝かせ、暖かめ続けてくれています。それでも今朝方、雨が降ったようで、地面が濡れていました。

 これまで学んだ天体の有り様は、不思議でならなかったのです。驚くべき不思議さに圧倒され続けてきました。つっかえ棒も、フックもなしで、中天に浮いている事実は、信じることができませんでした。

 太陽は動かず、地球が動き、それでも天文学者は、太陽も公転して、宇宙空間を旅していると言うのには、この小さな頭では推し量ることができません。聖書は、「喜び走る」と言う、喜びの感情を太陽が持つ気とを言っています。のです。地球は、時速1600kmで自転しながら、その太陽の周りを10km/hで公転していることが分かっています。

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 まだ車を運転していた頃、無謀にも140km/hで運転記録を出した覚えがありますが、あの速度感覚の怖さを思い出して、それがどれほどの速度だったのかを思うと、地球の動く速度を感じられないことが不思議でなりません。

 物理では、物が動くには、「動力」が必要とされていますが、地球を動かしている機関が、南米に行っても、中国に行っても、シンガポールに行っても、地上のどこにもありません。太陽然りで、定まった「走路」を、ハンドルなしでまったくぶれないで動くのです。

 「果て」のない広大な宇宙なのだと言うこと、この詩編19篇は、ダビデの牧童の経験をもって、被造の世界を謳っています。ダビデは、陽の光が、冷えた自分の身体を温めてくれるのを思い返しているのでしょう。瞬間に過ぎない「今」の時を、「永遠」へと思いを広げていますし、創造者の目からも見ているのです。これほどの宇宙を、自分も含めて、存在しうるのは、神以外には考えられなかったのです。

『太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。  あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。 (イザヤ60:1920)』が

 この私の思いの中では、太陽系の規模だけでも、いえ地球が自転し、公転し、存在していること自体が、不思議でならないのです。ところが聖書は、太陽がもたらす恩恵以上、「永遠の光」、「光栄」である、創造主、神さまのおいでのことを謳うのです。この神さまの「恩寵」は、「あなたの嘆き悲しむ日が終わ」らせてくださるのだと言うのです。

 今朝は、太陽が昇ってきますと、−3℃の栃木の地をじょじょに温めてくれ、太陽の光の入り込む部屋は、もう暖房がいらないくらいになって来ています。この光とは比べられないほどの恩恵を、神さまが与えてくださると約束してくれています。あのヨブが、地球がフックなしに天空に書けられているのを驚き記しましたが(ヨブ記 26710節)、太陽も同じ、星々も同じで、フックなしなのが、私も不思議でなりません。

(車道を走るトラックの「エンジン」です)

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