フェイス

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英語教師をしていたフェイスが、『ボクと一緒に行ってくれますか!』と言うので、禅宗のお寺に、その住職を訪ねたことがありました。フェイスは、東洋的な神秘さを求めて、この住職と出会って、指導を受けてきたのです。ところが、座禅をしても、彼の心の隙間が埋められることがなく、悶々としていたようです。そこで彼は、この交わりを断ることを決心したのです。どう瞑想しても、一向に邪念を追い払うことができなかったのです。それで、この住職からもらったプレゼントを返したかったのです。不安だったのでしょうか、私の同行を求めたのです。

一緒に行き、応接間で、和やかに話が始まったのです。しばらくすると、何かの言葉の行き違いがあったのでしょうか、まだ若い住職が、烈火の如く怒り始めたのです。フェイスは日本語ができると言っても、宗教的な難しいことを表現することなど、まだできる水準ではなかったのです。忍耐の緒を切ったのか、断られたことや、プレゼントの返却に不興を表し、激しい言葉をフェイスにぶっつけたのです。フェイスは驚いていました。彼が怒りをぶつけたことで、フェイスは、自分の決断が間違いでなかったことを得心したようでした。

同職の方、みなさんが、彼のようだとは思いません。立派な人格者もおいでです。 この方は、フェイスと同世代、まだ若かったのです。教えと自分の現実とに、まだギャップのある年代だったのです。心の大波や小波、さらには細波(さざなみ)を鎮めることができるのは、別のことなのだと感じたのです。

このことを思い出したのは、私たちの国の首長が、「禅」を組んだと、今朝のニュースで読んだからです。国会が一段落して、何か「しずまり」が欲しかったのでしょうか。それを終えた首相は、『何か、嵐が過ぎ去ったようだ。』と感想を語ったそうです。国政を司る、大きな責任を負う人でないと、こう言った境地にはならないのかも知れません。首相の顔とフェイスの顔がダブって見えてしまったのです。

盲腸の手術の時、一晩、彼のベッドの下に寝て、世話をしたことがありました。その後の消息をつかんでいません。こちらからも連絡をしていませんから、きっと帰国していることでしょう。可愛いお嬢さんがいました。もう、彼女も、あの頃のフェイスの年齢以上になっているのでしょう。フェイスの心の隙間は、今では、しっかりと埋まっているのだろうと思う、年の暮れであります。

(写真は、アメリカ合衆国の国花の「薔薇」です)

「インビクタス」

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“invictus”という言葉があります。ラテン語の「征服されない」、「屈服しない」という意味です。”morior invictus”は、「死ぬまで屈服しない」と日本語に訳されるようです。強い圧政のもとにいる民衆が、『いつか自由な時代が必ずやってくる!』との「不撓不屈の精神」を持って、自分の信念の上に、立ち続ける姿をいうのでしょうか。

今朝一番のニュースは、ネルソン・マンデラ氏が亡くなられたことでした。アフリカ大陸の最南端の国、南アフリカ共和国の身分差別制度の「アパルトヘイト」に反対しながら、27年間もの間、牢獄に入れられながら、屈服することなく立ち続けた政治家です。1991年、ついにこの悪法が撤廃され、1993年には、ネルソン氏は「ノーベル平和賞」を受賞しています。 1994年には、大統領に就任し、1999年に退いておいます。2009年には、クリント・イーストウッドの監督による、映画『インビクタス/負けざる者たち』が制作上映されました。この映画は、マンデラ氏が、決して屈服することなく、アフリカ人の自主独立を勝ち取った、その生涯を記念して描いた作品でした

久しぶりに帰国した時に、次男が、『とても好い映画があるんだけど、観る?』と言って、ビデオで観せてくれたのが、この映画でした。大統領に就任した時のことです。前大統領の警護要員たちを継続して雇用し続けるとの配慮が、彼らの信頼と忠実さを、新大統領が勝ち取って行く心理描写が 、とても好かったのです。また、南アのラグビーのナショナルチームが、貧困地域の子どもたちを訪問して、人種の垣根を超えて、子どもたちの心をつかんで行くくだりも見ものでした。演じたモーガン・フリーマンの演技がとても好かったのが印象に残っています。

ああ言う風に国が変わって行く様子を、スクリーンの中に見て、主義主張や腕力でもなく、一人の人の「人格の力」の力と影響の大きさを感じてなりませんでした。もちろん彼にも弱さがあったのですが。日本が封建社会から近代化して行く中で、 若者たちが、『この自分の国を変えて行くのだ!』と言った使命感を持って立ち上がったのを思い出すのです。時代そのものが、そして民衆自身が、新しい時代を求めようとしていた情熱を、上手にまとめ上げて行くことができたから、ああ言った変化があったのです。とくに「市民」の思いが、十二分に熟成し、機が熟していたことを忘れてはいけないようです。その力に、旧封建体制は、必ず崩壊していかざるをえなかったのです。

政治家には、何千万、何億、何十億人もの人たちの命、何世代にも及ぶ平和な生活の責任があります。自分の力ではなく、民衆の力でもなく、人の歴史を大きく動かしてやまない、「偉大な力」に押し出されて、その任に当たるのが、政治家なのではないでしょうか。国の命運と、国民の将来がかかっているのです。誤ることのない判断と決断が下されるにように、どの国の国民も、それぞれの首長のために願い求めていかなければなりません。二度と戦争の起こらないこと、銃弾に子や孫が倒れないことを願いつつ。

(写真は、南アメリカの「ケープタウン」を衛生写真から作り上げて描いた鳥瞰図です)

まだまだの今

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十二月になって、巡り来る季節は正直なのでしょう、学校に行くためにバス停で待つ間に、吐く息が、白くなってきています。さしもの華南の街にも、冬が忍び寄ってきたようです。それでも日中になって日の光が射してきますと、朝、出がけに着た冬用の防寒服を脱がなければならなくなり、気温の日較差の大きさに、注意を払わないと風邪を引いてしまいそうです。この時季、一日に、夏と冬が感じらるというのが、こちらの気候の特徴なのです。先週、『週末には寒くなりますので、着る服にご注意くださいね!』と、今年も学生さんから言われました。外国人で、気候の変化についていけないといけないのでと、そんな優しい気持ちをあらわしてくれるのです。

私を身ごもった母が、中部地方の山岳地帯にある「軍需工場 」に、父が着任したのを追って、険しい山路をやって来たのだそうです。山と山がせめぎ合った、狭い山あいの旅館の離れを借りて住まいとしたのです。冬場の日照時間が、きっと少ない、湿り気の多い寒々とした山村でした。山陰生まれの母には、そんなに苦にはならなかったのかも知れません。その年の暮れの十二月に、私を産んでくれたのです。村長夫人が出産のお世話の経験があったのでしょうか、私を受け取ってくださったのだそうです。弟も、そこ生まれております。

『この子は村長さんのお孫さんですか?』と、村長宅の玄関に置かれてあった私の写真を見て、訪ねてくるお客さんが尋ねたのだそうです。今は全く面影がないのですが、生まれたばかりの私は、『結構可愛かった!』と、母が言って、励ましてくれたのです。やはり、『バカな子ほど可愛い!』のでしょうか。そんな母が老いて、病んだ時に、一度だけ、病院の行き帰りに、おんぶしたことがありました。世代交代を演じたわけです。まだ元気ですが、長生きできたら、息子たちや婿殿は私を背負ってくれるのでしょうか。そんな経験ができるのは、ちょっと楽しみです。

今朝、バスに乗りましたら、すぐに女子高校生が席を譲ってくれました。いつもの『謝謝!』で座らせてもらったのです。まだ90分、立って授業をすることができるのですが、親切を受けるのも大切な生き方の一つのようです。「まだまだ」の今を喜んで生きています。ご安心を!

(写真は、冬の「朝」の風景です)

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「ひつぢ」という言葉があります。昔は「ひつち」と言われていたそうです。漢字で「穭」と書きます。「稲孫」とも書くようですから、もうお分かりでしょう。秋に稲を収穫した切り株から、生出てくる「二代目」の稲のことなのです。まだ私たちが小学校に通っていた頃の通学路の脇には、水田が広がっていました。都内に通勤している人のベッドタウンになる前の都下の街の「原風景」です。この時期、稲の切り株が、ちょっと邪魔でしたが、稲刈りを終えた田の中で、追いかけっこをしたり、遊びながら下校をしたのです。その枯れた切り株から、青々として出ているものを見て知っていましたが、「ひつぢ」という名だったのを知ったのは、大人になってからでした。

「草」にちがいないのですが、「ひつち」と呼んだことに、農耕民族の先人たちは、自分たちの命を支える、重要な食物としての「米」や「麦」などを、どんなにか愛でていたことかが分かります。そう言った先人たちの感性に、今更ながら驚かされるのです。悪戯小僧が、田の中に入るからでしょうか、いつの頃からか、耕耘機で田おこしをするようになって、遊べなくなってしまいました。「え、いじわるっ!」と思ったのは昨日のことのようです。

長く仕事をしていた中部地方の内陸の街から、郊外に抜けて行くと、茅などが生えた、かつての田んぼが散在していました。「減反政策」で米を作らなくなってしまったからです。「再び、米作りをするには、大変な苦労をして、田んぼ作りをしなければならないいのです!」と、お百姓さんが嘆いていました。

最近のニュースですと、休耕地で米作りを再開するようです。原野を切り開いて、並大抵ではない努力をして、新田の開墾をした時代がありました。そう言った田んぼには石ころ一つ見つけることができないほどに、米作りのために最適な環境を備え、整えててあったのです。知り合いの方の田植えをしたことがありました。雨降りでしたので、カッパを着て、腰を屈めながら、見よう見まねで手伝いをしたのです。やはり、大変な労働でした。その労を感謝されて、農家の食事をご馳走になったのですが、本当に美味しかったのです。

米で年貢を払っていたほどに、貴重な穀物の「米」には、農耕民族の末裔の私たちには、特別な肝入りがあるようです。春から夏にかけて、青田の苗が青々としている 風景が、日本の津々浦々に見られる日も近いのではないでしょうか。今、娘が買ってくれた「お米」を食べていますが、日本の高級銘柄と遜色がないほどに美味しいのです。第一次産業が脚光を浴びたら、日本は元気を取り戻すのではないでしょうか。

(写真は、盛夏の頃の「稲田」です)

ハイジャンプ

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古代イスラエル民族には、人の価値を「金銭」で量ることが、伝統的に読み継がれている書の中に記されてあります。この「人身評価」には、次のように書かれてあります。

「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。」とです。孫たちのうち、男の子たちは、もうすでに5歳を越えていますから、60歳をはるかに過ぎた私よりも、「5シェケル」も高価だということになります。女の子も、二十歳を過ぎますと、母親よりに評価が高くなるのです。

私たち男は、61歳になると、3分の1以下の価値に激減するわけです。日本の公務員や企業人の「定年」、つまり「退職年齢」は、2013年から、「65歳」に引き上げられたようです。私たちの時代は、「60歳定年」でしたが、労働人口が少なくなってきたからでしょうか、変えられてきています。ここ中国では、男性が60歳、女性が55歳が、「定年」ですが、引き上げが検討されているそうです。まあ、「後進に道を譲る」ことは、理にかなったことなのではないでしょうか。がっかりすることはやめにしましょう。

ところが、その書の中には、「老人の前では起立せよ」、「白髪は光栄の冠である」とも書かれてあるのです。深沢七郎の小説「楢山節考」に出てきます、「姥捨山(うばすてやま)」の伝説に比べて、老いた者に対する「敬意」がることに、何となくほっとさせられます。まだ溌剌としていた壮年期に、あるお婆さんにお会いしたー時に、彼女は、『こんな汚いばばあになってしまって・・・・』と言っていたのを聞いて、悲しかったのです。誰かに、そう言われたのでしょうか。または、才色が衰えてしまった悲しさでそう言ったのでしょうか。老人は、もっと輝いて好いし、感謝されて好いのではないでしょうか。その書の勧めは、「もっと誇らしく生きるように!」との激励に違いありません。

誰でしたか、正月になると腰に髑髏(しゃれこうべ)を下げて、「正月や 冥土の旅の 一里塚・・・」と詠んで出歩いた人がいたようです。私は、「15シェケル」を満額受け入れて、こう詠みましょう。「人生の 仕上げのための ハイジャンプ」と。

(写真は、「血圧計」です)

慈母と厳父

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明日から十二月、最後の月を迎えます。どなたも、この2013年を、感慨深く思い返しているのではないでしょうか。毎年、その年を、「漢字」の一字で表すのですが、「暑」が選ばれても好いほどの猛暑、酷暑の夏を思い出します。豪雨、ゲリラ豪雨などと呼ばれた、異常な降雨量の年でしたから、「豪」も好いかも知れません。ということは異常気象の年でしたから、「異」はどうでしょうか。

小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。日本のように、こんなに自然の恵みをいただく国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」のように、自然界が牙をむき襲ってもくる国でもあります。ビクビクしたと思ったら、満開の桜や山を萌えさせる紅葉に慰められたりされて、私たちは生きてきたのです。

二人の兄と一人の弟、四人兄弟の私たちも、母の「優しさ」と父の「厳しさ」とで育て上げてくれたことも思い出されます。そんな母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、あの父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたこともありました。剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。

不思議な思いがするのは、父が六十一の誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、年上の感じがしないのが、なんとなくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。

今月は、二人の孫と私の誕生月なのです。みんなバラバラに別れ住んでいますから、一緒に誕生祝いをしたいのにできないのが残念です。これからの孫たちと、年々老いていくジイジの私ですが、その年齢差に、人生の面白さがあるのに気づくのです。中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)のついた(値打ちがあって貫禄があると言ったことでしょうか)」との意味があるのです。それで、奥さんのことを「老婆(laopo)」と言います。これは、「老いてしまっておバアになってしまった妻」ではなく、「愛妻」のことです(夫のことは「老公(laogong」)。

としますと、「完成」に向かっているのでしょう。明日からの新しい月に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして「箔」をつけるために、輝いた「2014年」を迎えたいですね。

(写真の花は、「水仙」です)

知情意

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夏目漱石の「草枕」の初めに、「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」とあって、とても有名な一文です。これは、「道理を振りかざして、人と関わると、どうしても悶着や摩擦を起こしてしまう」、「情に動かされると自分を見失ってしまう」、「意地を張っていると諍(いさか)が起こってしまう」と言ってるのでしょうか。どうも漱石は、人間関係や社会生活で、だいぶ難儀したのではないのでしょうか。

近代日本が形成されて行く上で、「欧化政策」を忘れることはできませんが、「近代日本語」が作られて行く上で、漱石の果たした役割は大きかったのです。というのは、彼の作品が好まれて多くの人に読まれたからです。どうしてかというと、彼は、「江戸っ子(「江戸市民」と言えるでしょうか)」で、「落語」をこよなく愛した人で、庶民の言葉を駆使して、小説を書いたからです。三代目の「小さん」の高座を特愛したそうです。あの「坊っちゃん」の喋り言葉が歯切れがいいのは、そのせいです。

この漱石の作品から影響を受けた人に、あの魯迅もいたのではないでしょうか。魯迅の作品の中には、多くの「日本語表現」が見受けられるのです。彼は、中国の近代化に文学の面で寄与していますから、「近代中国語」に強く影響を残した人でもあるのです。先週、「馬尾」という街にある、「海軍博物館」を見学しました。そこには多くの写真が掲出されてあり、日本の初代の総理大臣・伊藤博文に写真も見つけたのです。その中に、将来の海軍軍人を養成するために選ばれたのでしょうか、百人以上の少年たちの集合写真がありました。イギリスに留学させて語学習得をさせたかったようです。やはり、中国もヨーロッパ諸国に学ぼうとしていたのです。

和気藹々とした交流のあった時代があって、「今」があるのです。私たち日本は、かつて隋や唐の時代に、多くの留学生が東シナ海を渡って行き、旺盛な知識欲で、中華文化を学んだのです。明治期には、反対に、多くの中国の 青年たちが、日本にやって来て学んだのです。私も「一学徒」として、やって来ました。こちらの方に、学びたい思いは、まだまだ尽きません。今日は、冷たい北風が吹いていましたが、陽がさしてきたら、若者たちは半袖になっていた人もいました。やはり「華南の晩秋」です。

(写真は、「山茶花」です)

娘の来訪

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先週、シンガポールで働いている長女が遊びに来てくれました。両親が仲良く暮らしているか、その様子を見にきたのでしょう。清朝からの伝統的な街並みをそぞろ歩いて、お土産屋を覗いては買い物をしたり、コーヒーショップに入ったりして、久しぶりの休暇を楽しんでいたようです。また、家内と連れ立って、近くのスーパーのウインドウ・ショッピングにもでかけたようです。かつてこの街にいた外国人たちの別荘があった山里を、友人に案内していただきました。観光開発で整備された遊歩道を、秋の空気を思いっ切り吸いながら、森林浴を楽しむことができたようです。シンガポールには山がないとのことで、私の真似をして、向こうに見える山や谷間に向かって大きな声をあげていました。

山行きの昼には、地鶏のスープや地産の野菜を使った料理を、友人がご馳走してくれたのです。観光シーズンではない週日でしたから、人もまばらで、ゆったりした時を過ごせました。日本でも、軽井沢とか清里、さらには上高地などは、日本に滞在していた外国人によって見つけられ、開発された歴史があります。私たちが訪ねた山里も、欧米人、特にイギリス人たちが開発したそうです。山村には珍しかったプールやテニスコートも作っています。彼らの「休暇村」での様子を、掲出されてある古写真で知ることができました。仕事と休暇、公と私をはっきりとする欧米人の生き方は、東アジアの私たちのアイデアとは違い、なかなか真似ができません。

二つの家族に食事に招待され、家内と私と三人で一緒に預かることができました。珍しい物まで食べることができたのです。また、高級な外資系ホテルのレストランで韓国料理を、娘が私たちにご馳走してくれたりしました。今回で五度目の訪問だそうで、数えてみたことがありませんので、ちょっと驚いたりしました。ここが気に入っているからこそ、なんども訪問してくれるのでしょうか。いいえ本当は、だんだんと年を重ねている親を心配しての訪問だということが分かっていますから、とても嬉しかったのです。私の仕事机の椅子が、街の食堂のプラスチック製の簡易椅子と同じであり、私が腰痛で時々苦しむのを知っている彼女は、高級な事務用の椅子、そして腰部を保護するクッションまで買ってくれました。今も、座り心地よく、iPadに向かっています。

友人が、『空港まで送りましょう!』という言葉に甘えて、昨日の朝、私たちのアパートの門口で待っていました。やってきた車は、私が乗っていたカローラやマークⅡ級ではなく、ベンツの最高級のグレードでした。素晴らしい乗り心地に満足して、朝の便で、娘が帰って行きました。多くの若い友人たちに囲まれ、世話されている両親の様子を確認し終えて、安心したようです。こちらの名産の「お茶」を土産に持って行ったそうです。『来年は、新しい歩みを採りたいの!』と娘が言っていました。全てを委ねて、しっかりと最終決定をするように願って、手を振りました。

(写真は、70年以前に利用されていた「別荘」です)

「故郷」

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日本と関わりのある中国の文人は、何人もおいでです。児童文学者の「謝氷心」、日本語が堪能であった「周作人」、この周作人の兄で、中国では著名な作家の「魯迅」などの名を上げることができます。とくに魯迅は、「近代中国の文学の父」と呼ばれた逸材でした。この彼の作品に、「故郷」があります。短編ですが、彼の生まれ育った「紹興」についての思いを記しています。

その冒頭に、「わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中(さなか)で故郷に近づくに従って天気は小闇(おぐら)くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村(あれむら)があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。」とあるのは、「紹興」の街なのです。浙江省の古都で、そこは、長江のデルタ地帯に位置しているようです。まだ行ったことがありませんが、いつか訪ねて見たいと思っております。

前にも、魯迅の「藤野先生」について書きましたが、医者志望の彼が、魯迅は、医学の道を断念し、文筆の道に進路を転換していますが、そのきっかけとなったのが、藤野源九郎が見せた「幻燈(スライド)」でした。ある時、授業が早めに終わったのでしょうか、残りの時間に、日露戦争の様子を写したスライドが映写されたのです。魯迅は、この中で、スパイを働いたとして、日本軍に処刑される中国人と、それを、ぼんやりと見ている周囲の中国人の様子を見ました。魯迅は、この時の衝撃を、『愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料 と、その見物人になるだけはないか!』と、「吶喊(とっかん)」という作品の中で書き残しているのです。魯迅が感じたのは、医療よりも、まず同胞・中国人の「精神の改造」こそが最重要なことだと心に決めます。それで、医学校を退学し、帰国して文学の道に分け入るのです。

やはり、近代中国の文学界に綺羅星のように輝く魯迅の作品は、日本人の共感を得て、大変好まれています。この「故郷」は、中学三年の「国語」で取り上げられて、学ばれているほどの作品です。自分の故郷を思うのに、良い参考になるのではないでしょうか。魯迅の弟の周作人も優れた人物なのです。隣国中国の文学作品に触れるのも、友好の前進のために必要かと思う、「読書の秋」であります。

(写真は、「紹興」の一風景です)

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今朝、買い物当番で、無料送迎バスに乗って台湾系のスーパーマーケットに行ってきました。このバスは、店までの間の路肩で、手を上げて乗車の意思を示すと、止まって乗せてくれるのです。いつも満員なのですが、今朝は5人ほどしか乗客がいませんでいた。他のスーパーが特売でもしてるのでしょうか。この地域には、フランス系、イギリス系、アメリカ系と、国際色が豊かで、さながら激戦区の様相です。日系がないのが少々寂しいのですが。

買物を済ませて、外のベンチに座って、第二便の到着(このバスが帰りの便になるのです)を待っていました。朝の8時半過ぎでしたから、清掃をしている時間帯で、何人もの方がそれぞれに、担当の場所を掃除をしていました。若い男性が、コンクリートの三和土(たたき)になっているところに、掃除に使った汚水をまいていました。向こうの方では、五十前後の婦人従業員が、同じように汚水の入ったバケツを下げてきました。三和土に流すのかと思ったら、そうではなく、植木のところに行って、「水遣(みずや)り」をしたのです。さすが、若い男性と違って、水の再利用を賢くしていたわけです。

長女が幼稚園に行っていた時、五月頃だったでしょうか、農家の休耕地を借りて、サツマイモの苗を、お父さんやお母さんが助けながら、園児たちが植えたのです。田舎のおじいちゃんは農業をしているかも知れませんが、お父さんやお母さんは勤め人が多かったので、みんなは初めての経験だったようです。土をいじりたがらない子もいましたが、わが家は、家の近くに畑を借りて、「家庭菜園」をしてましたので、長女は慣れていたようです。あのような経験は好いことですね。人が、だんだん土に触れなくなってきているからです。

その時一人の若い先生が、側溝の流れから水をバケツに汲んで、鍬などの農具を洗っていました。そうしたら、その水を、先ほど植えたサツマイモの苗に、やさしく「水遣り」をしたのです。そうしましたら、一人の若いお父さんが、『さすが百姓の娘だ!』とからかい気味に言ったのです。それを聞いて、『そういうもんなのか!』と納得したのです。水を無駄に使ってきた私は、農家が、どんなに「水」を大切にするものなのだということを教えられたのです。

こちらでも、台所の水をバケツにとっておき、それをトイレに流したり、掃除に使ったりしておいでです。何となく、人の行動を眺めていて、昔のことを思い出した次第です。学問の中には、「行動学」というのがあるようですが、『人間って面白い、』と、つくづく思わされています。

(写真は、台湾系スーパーの店頭風景<台湾>です)