年の瀬に思う(3)

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戦国の世を平定し、最後に天下を統一したのは徳川家康でした。江戸に幕府を置き、260年に及ぶ「徳川幕府」の支配を確立したのです。キリスト教を禁教とし、海外渡航の禁止、海外貿易の独占、武家御法度(参勤交代など)の諸政策を整えたことに、長きにわたる政権を確かにできた理由があります。鎖国の中で、長崎の出島のみを、海外と通じる唯一の場所として定めたのですが、もう一つ、「朝鮮通信使」の出入りを許可し、対馬藩を窓口として送迎していたのです。

この「通信使」は、室町時代に始まっており、150年ほどの中断の後に、豊臣秀吉の時に迎えております。再び1607年に、徳川秀忠の時に再開され、1811年まで、都合12回も来日しています。これは、徳川幕府の将軍の代替わりの祝賀のための表敬訪問でした。一回の使節団の数は、450人ほどの人が平均的にやって来ており、100人ほどの水夫は大阪に留まり、350人の大所帯で、江戸に入ったと言われております。文化や習慣習俗の違いによる軋轢があり、殺傷沙汰もあったそうです。朝鮮半島の南端の釜山から船出し、対馬、瀬戸内海を経て、大阪に入港し、そこから陸路を江戸にいたったのです。4ヶ月から半年ほどの時間を要する旅だったそうです。

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通信使のメンバーは、「正・副使」のほかに、「書記」、「通訳」、「画家」、「書家」、「医者」、「僧侶」、「楽隊」などが随行したのです。トラブルの記録が残っていますが、朝鮮側は、それらを『日本の故意による捏造だ!』としているようです。将軍への祝賀の反面、「倭人」と言って蔑みましたが、京都や大阪や江戸の整備された街の豪華な様子に驚嘆していたとの記録が残されております。また当時の日本から、多くのことを学んで帰国したのです。

生活習慣の違いによるトラブルがあったのですが、すぐに解決していたのです。ですから今のような険悪な関係はなかったのではないでしょうか。古くからの両国の歴史を振り返って 、好い国交の回復がなされることは可能なのではないでしょうか。前大統領は日本で生まれながら「嫌日」に終始し、現大統領は父君が親日家であったのに、日本嫌いを表明して止まないでいます。竹島や日本海や慰安婦の問題の解決の努力をしたいものです。いつも思い出すのは、「京城(ソウル)」で仕事をしたことのある父が、時々、その頃を懐かしんで歌っていた「アリラン(峠)」」の歌詞です。問題になっている「峠」を、こちら側から、あちら側から、共に越えて行きたいと願う年の瀬であります。

(写真上は、十二月に咲く「磯菊」、下は、「朝鮮通信使」の絵です)

年の瀬に思う(2)

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江戸の三百年間の鎖国の時代には、『日本人とは?』という問いかけを自らにする必要はなかったのでしょう。長崎の「出島」だけが、外の世界、中国やオランダとの接触の場でした。たまに、台風による難破船が漂着し、肌の白い、鼻の高いヨーロッパ人を救助した漁民たちが目撃した程度でした。一般人は、全く外の世界との接触を持たないまま過ごしていたわけです。ところが「大航海時代」がやって来て、スペインやポルトガルやイギリスなどが、海外交易に乗り出し、植民地をアジアやアフリカに求め始めたのです。

日本の近海にも、度々やって来るようになり、船の乗組員が、水や食料の供給を求め、やがて「開国」を迫るようになってきたわけです。もう「太平の世」のままではいられなくなってきました。その頃、長州藩の高杉晋作は、江戸幕府の派遣員として、清の時代の「上海」を訪ねます。そこで見たのは、イギリスによる植民支配の惨状でした。不公平な貿易による搾取、財政の混乱、人々の阿片中毒、「太平天国の乱」による混乱、そのような隣国の様子に、衝撃に覚えたのです。『このままだと日本も同じように植民地化してしまう!』という怖れを抱きます。時代の流れに抗うことができないで、日本も開国し、「明治維新」を経て近代化の道を突き進んで行きます。「遅れ」を取り戻そうとして、「欧化政策」に躍起とし、産業も軍事も教育も医学も、ヨーロッパ諸国から学び始めるのです。

こう言ったヨーロッパ人との接触が多くなった時期に、『いったい、われわれ日本人とは何か、誰か、この時代をどう生きるか?』という問いかけを自らに課します。特に、日清戦争と日露戦争に勝利した時期に、次のような「日本人論」が論じられていきます。内村鑑三が「代表的日本人(1894年)」、志賀重昂の「日本風景論(1894年)」、新渡戸稲造が「武士道(1899年)」、岡倉天心が「日本の目覚め(1904年)」と「茶の本(1906年)」です。内村と新渡戸と岡倉の書いた四冊は、「英語」で書かれたのです。つまり読者は、欧米諸国の人たちで、彼らに向かって書かれたわけです。『俺たち日本人とは・・・』と言った、日本と日本人の認識を認めたことになります(岡倉以外は、「札幌農学校」に学んだ人だったのです)。

「アイデンティティ」という言葉があります。アグネス・チャンによると、この言葉の意味は、『私は誰?』、『どうして此処にいるの?』、『これから何をするの?』の答えを求めることだと言っています。この三つの問いに、『答えを持っているだろうか?』、明治の人々は、それを考え始めたのです。「平成」の御世(みよ)の私たちにも、この答えは必要です。ですが、この「全地球」規模で関わり、考えなければならない今、自分の国以上の広がりの中で、外の世界を見ないと、行く道を誤りそうでなりません。一国の繁栄や安定だけではなく、国境を越えた広がりでの中で考えていくべき時代なのではないでしょうか。「大気汚染」、「食糧と人口」、「領土や資源やエネルギー」、「青少年問題や犯罪」などは、すでに国境を越えた課題になってきているからです。そうしないと、明日の地球はなくなるかも知れません。

それ以上に、『人間とは何?』を、考える時ではないかな、と感じている年の瀬であります。

(写真は、メキシコ原産の「ポインセチア」です)

年の瀬に思う

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農耕民族の生活は、お天気任せで、蒔いた種や植えた苗の成長は、ただ手を合わせて祈りながら、水をやったり草を引いたりして、作物の生長を見守りながら世話をしてきたのです。冷害や、日照りの水不足、病害虫の異常発生、働き人の病気と、様々なことに見舞われながら、耐えて、そうし続けてきた営みなのです。ですから、豊作の秋を迎えた年の喜びは、言葉に言い尽くせないほどだったのでしょう。

わが家では、父が会社勤めをしていましたから、農家の生活ぶりを知らないで、私たち兄弟は育ちました。それでも、生活の中には、農耕民族の慣習や伝統が、多く残っていたのです。その際たるものが、「正月」の朝食でした。父は、明治の最後の生まれでしたから、大晦日には、「年越し蕎麦」を、きちんと食べて新年を迎える人でした。元旦の朝は、暮れに近所の米屋さんに注文しておいた「延べ平餅」を、物差しで測りながら切って、専用の木箱に収めて置いた餅を、父が焼き、母が、鳥肉と小松菜と三つ葉の入った醤油味で作られた「お雑煮(ぞうに)」を食べました。それに、母が何日もかけて作って「重箱」に、飾るようにして入れてあった「おせち料理」を、家族六人で炬燵に当たりながら食べたのです。当時は、どの家庭でもこう言った光景が見られたのでしょう。

紅白の蒲鉾、伊達巻、ごまめ、昆布巻、数の子、黒豆、栗きんとん、酢だこ、小魚の串さし佃煮、なます(大根と人参の酢の物)、煮里芋、煮ごぼう、それにハムなどが、重箱に詰められていました。今思い返しますと、彩りが鮮やかで、まるで「芸術品」のようでした。ある時、「お屠蘇(とそ)」の代わりにぶどう酒を、父が飲ませくれました。酒を飲まなかった父が、ほんのり赤ら顔になっていたことがあったのです。ああ言った家族の団欒があって、愛され、世話され、叱られ、褒められて成長できたのです。

農家の女性が料理をしないで、作り置きの料理を食べて、年の初めを愛でて過ごして、雪が溶け、北風が止む春の到来を待ち望んだのです。だから、「正月」は特別で、独特な習俗や食文化を残したのでしょう。この辺に、「日本文化」の独自性があるように思われます。正月からスーパーが営業している現代では、「おせち料理」も出来合いが売られ、お肉も惣菜も豊富ですし、大所帯から核家族になっていますので、少々濃い味で作り置きをしておく必要がなくなってしまいました。一緒に「情緒」も消えてなくなってしまっているのは、ちょっと寂しいものがあります。家の中にも外にも、伝統宗教の飾りも用具もまったくない、スッキリしていた育った家が懐かしい年の瀬です。

(写真は、暮れに出回る「シクラメン」です)

感謝の思い

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『もう一度肺炎になったら死ぬことを覚悟し、十分に注意して生活して下さい!』と言われてから、何度目の誕生日でしょうか、異国の空の下で、昨日、迎えることができました。小学校入学前に、風邪をこじらせて肺炎にかかり、街の国立病院に入院しました。どのくらいの期間、入院したのか覚えていませんが、木造の古い建物で、人が歩きますと、床がギシギシと音を立てていたのです。この街にあった連隊の兵舎を利用した病舎だったのだと、父から聞きました。入院中の私を、母はつきっきりで献身的に世話をしてくれたのです。その甲斐があって、退院することができ、今日まで生き延びることができました。

入院中のベッドが寒かったので、父の祖父が、イギリス海軍に技官として遣わされて学んだ帰りに、お土産に買ってきた「純毛の毛布」を、実家から取り寄せて使わせてくれたのです。退屈していた私は、ハサミとか紙を家から持ってきてもらって、工作をしていたのですが、しまいにはシーツとか毛布まで切り刻んでしまったのだそうです。ある時、大勢の人が病室に入ってきました。後で聞いたら、この県の知事さんが、私を見舞ってくれたのだそうです。偉そうな人がいたのだけ覚えています。

すんでのところで落雷を避け、台風で荒れた海で溺れかけ、上の階のガス爆発で九死に一生を得たり、交通事故をすんでのとこで避けたり、自転車の転倒で車道に投げ出されないで歩道に倒れたり、まだまだ数え上げるますと多くの危険や死に直面したことがあるのです。こういう私のことを、「しぶとい奴」と言うのでしょうか、いつも思うのですが、『自分は<おまけ>を生きてるんだ!』と。母が生きてる時に、自分に誕生日が来るごとに、『産んでくれてありがとう!』と電話をかけて、産んで育て、死線をさまよった時にしてくれたお世話に、心から感謝をしてきました。母が召され、去年も今年も、もう、それが叶えられなくなった自分の誕生日になりました。でも四人の子どもたちが覚えていてくれて、『おめでとう!』と今年も言ってくれ、教え子も同僚の教師も言ってくれたことが、また嬉しかったのです。

今の時を、このように異国で過ごすことは、祖国に何も持っていない私にとって、最善の生き方に思えるのです。これは強がりではなく、自分の「生き始めたこと」の仕上げを、ここでしているつもりでいます。あ、訂正しなくてはなりません。祖国には、素晴らしい友人や父母を同じくする兄弟たち、息子たち、娘たちがいることを忘れてはなりませんね。健康で、満ち足りて、年が越せそうです。父が、『雅、死ぬなよ!』との思いで、欠かさないで買っておいてくれた「バター」を病後に食べていたのを思い出します。それででしょうか、今日も、近くのスーパーで、「黄油」と呼ばれるバターを買ってきました。

(写真は、「バター」です)

地産地消

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こんな「川柳」が、ある新聞に載っていました。

鎖国して地産地消でやれた江戸 

実に面白いと、感心してしまいました。「地産地消」というのは、住んでいる地域で生産した食料で、その地の人々の「食」を賄うことを言っています。つまり、江戸の街に住む人たちは、近郷近在のお百姓さんが作る米や野菜、漁民の獲る海産物、家内工場で作る味噌や醤油、油や豆腐や油揚げなど、薪や炭と言った燃料、生活の上下水、トイレの汲み取りに至るまで、生産と物流の都市機能が十分に発達していたことになります。

当時のパリやロンドンに比べても、江戸の都市機能は、大変に発達していたのです。近在のお百姓さんが、荷車に野菜を積んでやって来ます。「厠(かわや)」のものと、その野菜を交換して帰って行きます。それで「堆肥(退避)」を作って、美味しい野菜生産のための「土作り」をするのです。この「循環機能」が、上手に働いていたことも、驚くべきことだったわけです。自然農法として普通のことだったわけです。少し臭い話をしましたので、今度は、「生活用水」のことに触れてみましょう。太宰治が入水して有名な「玉川上水」は、江戸市民の生活用水として、1653年に工事を開始し、人工的に作られたものでした。おどろくべき、「水道事業」だったのです。これは「江戸六上水」の一つで、多摩川から取水して、江戸市中に供給され、「飲料水」として使われていました。

江戸の街作りは、驚くべきもので、「百万都市」を機能させたわけです。幕末にこの江戸を訪れた外国人を感心させてやまなかったそうです。土木の技術も水準も、雲泥の違いの現在よりも、かえって優れていたのではないでしょうか。モッコに土を盛って、人力で担いで土砂を運んで、河川や上水道の掘削や埋め立てをして、あのような事業をしたのですから驚かされるのです。江戸幕府に、それほどの財力と人材があって、そのような首都機能を円滑にしたことは特筆すべきことです。

もちろん、長崎の出島から、ヨーロッパの近代工法などを学んだことは確かですが、「鎖国」という制限の中で、知恵を振り絞って国づくり、街作りをしたことは、私たち現代に生きる日本人の「国の誇り」であってよいと思うのです。きっと私利私欲に捉われない役人たちがいたからでしょう。東京は、「首都高」などの改修や改築の時期だと言われています。古い文献にある記録を見直し、江戸から学ぶことをお勧めします。

(写真は、現在の立川市砂川を流れる「玉川上水」です)

よき生き様

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不二を見て 通る人有(あり) 年の市 与謝蕪村

この夏、「スカイツリー」の展望台が、富士山をかすかに感じることができました。かつて江戸の街から、富士山が、よく見えたのでしょう。高いビルも、大気汚染の公害もない時代だったからです。「年の瀬」は、江戸の昔から、慌ただしく人が街中を行き来していたのでしょう。最近はどうなのでしょうか。あの年末の独特な雰囲気から遠ざかっていますので、『さあ、いらしゃーい!いらっしゃい!』の掛け声を聞いておりません。師が走り、主婦も学生もサラリーマンも、何かに追いかけられているように、せわしなく往来している、あの風情が懐かしく感じられます。

わが家の隣にある大型モールには、年末セールというよりは、「クリスマスセール」で、ジングルベルが建物中に流れている時季になっています。中国は、「旧暦(農暦)」の正月、「春節」を祝いますから、新暦の日本とは違って、「年の瀬」の賑わいはありません。来年は、一月三十日が、新年の始まりになっています。その時には、おじいちゃんやおばあちゃんが、孫に新しい服を買ってあげ、親は、おじいちゃんたちに服を買うのでしょう。みんなが新調の服装で、新年を迎えるのです。家族全員で、新しい年の始まりを祝い、特別な食事を共にとり、感謝し、祝福し合うのです。子どもたちは、「お年玉」をもらう習慣あり、日本と同じです。

『雅、お年玉!』と言って父からもらったことが思い出されます。ところが、自分の子供もたちに上げたことがあったのか、忘れてしまいました。我が家は、私がしていた、サイド・ビジネスで、元旦には、スーパーマーケットの床掃除をするのが恒例でした。みんなに手伝ってもらったことが、よくありました。それで、学校に行けたのですから、感謝な機会だったのです。仕事を終え、二階の休憩室のコタツに、みんなで入って、家内が持って来てくれた「おせち料理」を食べたのです。あゝ言う「団欒」のひと時は、もう二度と戻ってこないのでしょうね。でも、ああ言った経験が、子どもたちにあって、今の彼らがあるとすることで、好いのでしょう。何時でしたか、その時の店長さんが優しい方で、「福袋」を、子どもたちが貰ったことがありました。彼らは大喜びをしていました。あの頃の子どもたちの年齢に、孫たちが近づいてきています。

こちらに来るまで住んでいた街の我が家の窓からも、山越しに、「富士山」の八号目付近から頂上にかけて、晴れた日には見え ました。やはり、春夏秋冬、いつ眺めても綺麗な山でした。江戸の街は、年末の市が立って、ごった返すような賑わいだったのに、悠然として富士山を眺めている人を、蕪村は見掛けたのでしょう。世の中の流れに巻き込まれないで、泰然自若として生きている人がいたのです。その人は、蕪村自身だったのかも知れません。『おい、俳句なんか読んでる時じゃあないぞ!』という声を聞いても、馬耳東風だったのでしょうか。この余裕、よき生き様ですね!

(写真は、横浜の「みなとみらい21」の向こうに見える「富士山」です)

面子

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映画全盛の頃、立川駅の南口の改札を抜けて、左に行きますと、東映の映画館があり、よく観に行きました。その映画というには、時代劇だったのです。その当時の私たちの遊びの一つは、林の中に入って行っては、適当な木を切って作った「刀」で、集団でやりあう「チャンバラ」でした。スクリーンに映っていたのと同じ動作の再現だったわけです。小学校の国語では教えてくれない、『おぬし』とか『せっしゃ』と言った台詞を覚えて、使うのです。それが、『おまえ』と『おれ』だと分かって使うのです。さらに、『めんぼくない』とか『かたじけない』も、よく真似たものです。

全神経を集中させて観て聞くのですから、何でも覚えてしまったわけです。漢字で捉えないで、耳で覚えるというのが、「ことばの学習」で、一番好いのではないでしょうか。『漢字でどう書くの?』と聞くと、『辞書を引け!』と言っていた父が買ってくれたのが、初版の「広辞苑」でした。それを手にしたのは、小学校の5年の時だったのです。ぶ厚い辞書を引いては、漢字の習得に心掛けたのです。意味を調べて、類似語を引くと言ったことを繰り返して、「ことば」を覚えたのです。ああ言うのを「知的遊戯」と言うのでしょうか。とても面白かったのです。

「めんぼくない」は、「面目ない」でした。その意味は、そう語る侍の表情や、相手とのやり取りで、『「めんぼく」っていうのは侍が持っていて、目には見えないけど、とても大切なものなんだ!』と、何となく分かったのです。町人や芸人やお百姓は、そんな言葉は決してしゃべらなかったからです。この日曜日に、私たちの住んでいる街の中心を流れる河の下流にある街に、車で行きました。車中で、「面子(めんつ)」が話題になったのです。これを類語辞典で調べてみますと、「面目 ・ 立前 ・ 点前 ・ 表 ・ 顔面 ・ 立て前 ・ 建て前 ・ 顔 ・ 建前」と出ています。中国人や日本人だけではなく、イギリスやフランスやどこの国でも、『誰でももっていて、人として保つべき大切なものだ!』と言う結論になりました。

その朝は、いつになく背広にネクタイの服装で、おめかしして出掛けたのです。『セーターとGパンでは失礼になるから!』、「礼儀」として、そうすべきだと思ったからでした。外国人の「点前(てまえ)」としてでした。これって、好い意味で「面子」とか「面目」を保つことなわけです。『面子があるから、こうしないわけにはいけない!』というよりも、「礼儀」だったのです。

映画の中で、侍が楊枝をくわえてる場面がありました。『あっ、「武士は喰わねど高楊枝」なんだ!』と、子どもの私は納得したのです。ひもじい侍は、絵になりませんし、「いざ鎌倉」の時に駆けつけられません。どうしても「型」や「格好」が重要とされてきたのです。それは『貧しくとも、身だしなみはきちんとして生きよう!』との生きる姿勢なのでしょう。さて、人としての「面目躍如」を期して、2013年の今年を終えたいものです。

(写真は、「面子」と書いて「めんこ」と読む、子ども頃に遊んだカードです)

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「今年の漢字」に選ばれたのが、「輪」だと報じらていました。「解字」で調べて見ますと、偏が「車」で、旁が「侖」になります。「車」は、二つの「くるま」が、何かを載せたり、腰を下ろしたりする部分の「田」の軸を挟んで対峙しています。「侖」は、「册」が順序よくならんだ様子を表しているようです。漢字を作った人が、どのように発想して作字したかは、推測するしかありませんが、漢字学者の白川静は、そのように論じています。

古来、人々は、一所に集まって、村落の必要などを話し合ったり、また、収穫を終えた喜びを、輪のようになって、語り合ったり、踊ったりしてきたのでしょう。「車座になる」のと似ています。私たちの国には、漢字が渡来する以前から、「わ」という言葉があったあったのです。漢字がやってきた時に、「和」、「倭」、「輪」というように表記したわけです。きっと「わ」という言葉は、それぞれに関係があったのかも知れません。これも、素人の推測なのですが。

今年は、2020年に開催されるオリンピックの開催国として、日本が選ばれた年ですから、「五輪」の「輪」に因んでの漢字の選考の理由の一つだったそうです。「輪」の入った言葉に、「内輪」があります。揉めたりしては困りますが、家族内、友人内、会社内など、親しい関係にある人たちの和やかな交わりのことをいうのでしょうか。「輪っか」の中に収められている状態なのでしょう。

この十年ほど、交通事故で亡くなる方が少なくなってきているのに驚きます。1万5千人もの方が事故死していたのに、年々減少傾向にあることは、喜ばしいことです。この交通事故のことを、「輪禍」と言っていますが、車の車輪のことを言うわけです。その他に「輪」のつく字には、「輪廻」、「輪番」、「輪郭」、「輪舞」などがあります。これらは、「輪」が軸の周りを回るように、丸くなって外縁を描く様子を表しています。そう言えば、市内の古い街並みを観光開発した地域に、人力車が走る光景を目にしたことがあります。ハッピは着ていませんが、車夫が観光客を乗せて、石畳の上を二輪の輪っかを回しながら走っていました。

今年は、「車軸を流すような豪雨」が、世界中でありましたが、過去の面倒なわだかまりや因縁などが流れてしまうのは歓迎ですが、人を怯えさせるような豪雨は遠慮したいものです。来年は、あのような被害のないことを願う十二月も中旬、『もう幾つ寝るとお正月・・・』と数えられほどの日数になって参りました。好い年の暮れでありますように!

(写真は、トヨタ博物館の「人力車」です)

『起きなさい!』

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「(財)日本青少年研究所」が、2012年4月に「意識調査」を行っています。その一つの項目に、『自分はダメな人間だと思うことがある。』 がありました。これについて、『よくあてはまる。』、『まあまああてはまる。』と答えた、アメリカ、中国、韓国、そして日本の高校生の割合は、次のようでした。

日本 83・7%
アメリカ 52・8%
中国 32・9%
韓国 31・9%

この数字を見ますと、日本の高校生たちの割合は、他の三国に比して突出していることが分かります。どうしたことでしょうか、日本の若者たちは、自分に対する確信や自信、肯定的な受け入れがなされていないのです。こんなに自然的にも精神的にも経済的にも祝福されているのに、それを享受していないのです。

日本語学科の学生に、「作文指導」をさせてもらって五年ほど経ちます。ある学生が、『私たち中国人は、胸を張って堂々と歩くのです。それは人にバカにされたくないからなのです。』と、ある主題の中に、そう書いていました。そういえば、街中で行き交う人を眺めていまして、建設工事現場などで働く「打工dagong(内陸部の農村からの出稼ぎの人をそう呼びます)」の人たちも、大学教授も商店主も学生も、堂々としているのです。

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日本に帰って来て、空港や港から上陸した途端、『中国の街中と違っている!』と感じる一つのことは、日本人が猫背のように、俯き加減に歩いている姿です。生きる問題に圧倒されているのか、大事な物をなくしてしまったのか、お腹が痛んでいるかのようにしか見えないのです。自信がなくて、うつろな雰囲気が日本人を満たしているのです。いつも思い出すのは、中学の時の担任が、『鎌倉時代の日本人は快活で闊達で溌溂といて生きていたのです!』と言った言葉です。

何が、その快活さや闊達さや溌溂さを奪ってしまったのでしょうか。どうしたら、それらを取り戻すことができるのでしょうか。<勤勉で律儀な日本人>なのですから、好い意味での<誇り>と<自信>を、若いみなさんに持っていただきたいものです。「山紫水明」の国土の中で生を受け、篤い両親の愛に育まれ、守られてきたのですから、感謝をし、期待に応えて生きて欲しいものです。そうですね、自分を<愛すること>です。ありのままの自分を受け入れて、感謝して、この自分で生きて行くことです。不満や不足を数えるより、「優点(優れて秀でたもの)」を数え上げて生きる方が、どんなにか素晴らしいに違いありません。

その確信を持って、近隣諸国に住む方々と、和して、友好を深めて生きて欲しいものです。『青年よ、あなたにいう。起きなさい!』

(写真は、”MSNの画像”から「城址の紅葉」、"JAPAN WEB MAGAGINE"の「桜」です)

豆腐

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我が家の上の階のご婦人のお母様が、時々、「豆腐」を作られて、そのおすそ分けに預かることがあります。「木綿ごし豆腐」と言うよりは、「生・高野豆腐」のような硬くてしっかりした感触で、とても美味しいのです。昨日も、頂いて、今夕の食卓にのって、食べたところです。こちらのスーパーの「豆腐売り場」には、「日本豆腐」と印字されたパックが売られていまして、黄色がかった「卵豆腐」のようなものです。買って食べたことがありませんが、これが日本の豆腐だと思われているのは、ちょっと残念なことですが。「絹ごし」もありますし、「豆乳」もパック入りで売られていて、これも時々買っては飲んでいます。ちなみに、豆腐の起源は、八、九世紀の中国(唐代中期)で、日本には鎌倉時代に伝わってきたそうです。

この豆腐を代表にして、日本食の中で、「大豆」を加工した食べ物が豊富なことが、一つの特徴だと言えるでしょうか。中国の「醤(jiang)」から、自然的に作られてきたのが(上澄みににじみ出てくる液体)、どうも「醤油」だと言れています。こちらの物は、千葉の野田あたりで作られて市販されている日本のものとは違って、ずいぶんと「濃厚」です。醤油コーナーには、「台湾産」や「韓国産」も輸入されていますし、こちらで製造している「キッコーマン醤油」も、わが家で使い続けてきた物とは、ちょっと 違うのです。調味料として、この「醤油」は欠かせないので、悲しいかな、日本育ちの私は、贅沢はしたいとは願いませんが、『美味しい醤油が欲しい!』と思ってしまいます。

この「醤油」は、<隠し味>に使われていて、何と、日本の「アイスクリーム」の中にも入っているのだと聞いたことがあります。私たちの味覚には、欠かせない物だということが分かります。その他にも、「味噌」があります。これも悲しいかな、若い時は、ほとんど飲まなかったのですが、昨今、『味噌汁が飲みたい!』との思いが、時々やってきて、根っからの日本人なんだと思わされています。先ほどの「醤」は、「びしお」と読み、味噌の源になります。スーパーの棚を探しても、日本の様な「味噌」は見つけることができません。日本の物は、発展的に改良されてきているのでしょうか。

もう一つは、「納豆」です。中国の友人に、日本食品店から買ってきた納豆を出したことがありますが、みなさん顔をしかめて口に入れておいでで、出したそうな顔をして飲み込んでいました。こちらには「臭豆腐」と言う食品がありますが、納豆以上の臭みのある物ですが。それでも、欧米人にように嫌っておられます。だいぶ値が高いので、たまにしか買うことができませんが、これも、時々、『 食べたい!』と思うことがあります。久保田万太郎が、次の様な俳句を詠んでいます。

湯豆腐や いのちのはての うすあかり

死期の迫った作者が、求めたものの一つが、「湯豆腐」だったのです。過ぎ去った日々を、思い返しながら、食しつつ詠んだのでしょうか。冬場、湯気の立った鍋から、熱くなった豆腐をすくい上げて、醤油に小葱や生姜などの薬味を入れてたタレにつけて食べると、『美味しい!』と言ってしまいます。そんな湯豆腐が食べたくなってくるほどの季節の到来のようです。まだ、万太郎の亡くなった年まで、大分ありますのでご心配なく。

(写真は、「絹ごし豆腐」です)