駿馬

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中学と高校の同級生や先輩たちの中に、中央競馬会の調教師の息子たちが、大勢いました。彼らは幼稚園からの持ち上がりで在学していたのです。いつでしたか、テレビのチャンネルを変えていたら、同級生が競馬中継の解説をしていて、<おじさん顏>になっていて驚きました。1941年に、サトウハチローの作詞、仁木他喜雄の作曲で、「めんこい仔馬」が世に出ました。

1 ぬれた仔馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝のつゆ
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
かけていこうかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
今じゃ毛なみも光ってる
おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
仔馬かえろう おうちには
おまえの母さん まっている オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
仔馬のおへやも明るいぞ
よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
あしたは朝からまたあそぼ
ハイド ハイドウ またあそぼ

甲府連隊の連隊長が、『ぜひ譲って欲しい!』と願ったほど、父が乗っていた馬は「駿馬(しゅんめ)」だったそうです。その街にあった父の事務所と軍需工場のあった山村との間を往来するために、父は馬を使っていたのです。ある時、馬の世話をする方の、子供さんが病気になって、滋養のある食べ物をたべさせなければならなかったのです。その人は、なんと父の馬を潰して、肉にしてしまい、子供に食べさせてしまいました。父は知らずに、その人の届けた「馬肉」を食べてしまったのです。せめてもの罪滅ぼしにと、そうした彼を、父は、我が子を思う彼の「父性愛」に免じて、不問に付したと、生まれる前の話を母に聞いたことがあります。

だからでしょうか、晩年の父が、ごろっと炬燵に横になりながら、「めんこい仔馬」を歌っていたことがありました。あの馬には、「⚪️⚪️号」とか「太郎」とか名前があって、呼びかけて大事にしていたことでしょう。ですから、きっと自分の愛馬やあの家族を思い出し、戦時中にはやっていたこの歌を口ずさんだのでしょう。その父も61で亡くなり、父の逝った年齢を八つも超えてしまっている今の私は、時々、アルバムに父の五十代の写真を見ることがあります。父より老けている自分の顔と見比べて、やはり似てきているので苦笑してしまいます。その父の数少ない愛唱歌の一つでした。

今、父が青年の日を過ごした瀋陽(父は「奉天」と言っていました)から、はるかに遠い華南の街で教師をしています。なんだか『雅!』と呼びかける声が聞こえてきそうです。この夏が来ますと、滞華満八年になります。父を思い出しながら、「めんこい仔馬」を、そっと口ずさんでいる、「労働節」の休みで週末であります。

(絵は、蒙古襲来を迎え撃つ兵士を乗せた「馬」です)

ブログを再開します!

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こんばんは。

お読み下さるみなさん、お元気にお過ごしでしょうか。

しばらく休んでいた、ブログの投稿を、今晩から再開したいと思います。

昨日から、「労働節」の三連休です。家のベランダから見下ろすバス通りの車も電動自転車も人も、せわしなさの感じられない休暇のなか日です。

ご挨拶だけにしておきます。

おやすみなさい。

結婚披露宴

先週の金曜日に、「动车」の「和谐号 」に乗って出掛けました。中国バージョンの新幹線です。家内は初めての乗車でした。まだ開業していなかった時には、遠距離バスを利用しましたが、今回は、その三分の一ほどの所要時間ですみましたから、ずいぶんと便利になったのです。鄧小平氏が、1978年10月に訪日された折に、東京から新大阪まで、東海道新幹線に乗られました。その時の印象を、『後ろから、だれかが鞭を持って、私を駆り立てているみたいだ!』と語られたそうです。35年ほど前のことになります。今や中国の科学技術は驚くべき速さで高められ、欧米や日本を凌ぐほどになってきているのです。私も背中を押されるようにして、一時間ほどで、目的駅に到着したのです。

それは教え子の「結婚披露宴」に招かれての日帰りの小旅行でした。たびたび、我が家に来てくれた学生の祝福の席でした。卒業して、市内の日系企業に就職して、語学力を買われて、通訳の仕事をされていました。ある時、高校時代から気の知れたボーイフレンドを、我が家に連れて来て、紹介してくれたことがありました。家内が帰国中でしたので、<俄か男やもめ>の私のために料理を、彼がしてくれたのです。食材を手に下げての訪問でした。実に几帳面な調理で、とても美味しく頂いたのです。実に爽やかな青年でした。爾来、何度も二人で訪ねてくれました。

何時でしたか、『是非遊びに来てください!』と言われて、帰郷する彼女と一緒に新幹線で出かけたこともありました。二日ほど、ボーイフレンドの家に泊めていただき、市内を案内してくださったりで、彼のお母様の南方料理をご馳走になったのです。温かく迎えてくださったので、お父さまやお姉さまたちとも面識があったのでした。教え子のご両親と弟さんと一緒に食卓を囲み、談笑もしました。高台にある郷土の英雄の像や市内の名刹に連れて行っていただき、細やかな説明もしてくださったのです。南の人の優しさに触れたのです。

その宴は驚くほどのご馳走で溢れていました。フカヒレ、車海老、高級カニ、鮑、高級魚(同席の方が一匹500元と言っていました!)、デザートには「莲雾」と言う果物までも添えられていたのです。その他にも何種類もあり、このような料理は、生まれて始めて食しましたので、私たちの胃袋が驚いたに違いありません。心の籠った「おもてなし」に、心から感謝したのです。私の愛読書に、「喜ぶ者とともに喜べ!」とありますから、私たちも、この二人の門出を、心から喜んでお祝いしたのでした。

祝杯に少し酔われた新郎のお父さまが、『来てくださってありがとう!』と何度も何度も繰り返されたのをお聞きして、お祝いの席に連なることができただけではなく、お父さまに、そんなに喜ばれて、来た甲斐があったことを喜んだのです。親族の方でしょうか、駅まで送っていただき、予約してあった「和谐号 」に乗って帰宅の途につき、夕間暮れの駅に無事着くことができました。

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陸の孤島

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今回の日本の豪雪で、作詞が内村直也、作曲が中田喜直、高英男が歌った、「雪の降る街を」を思い出しました。

雪の降る街を 雪の降る街を
想い出だけが通りすぎてゆく
雪の降る街を
遠い国から落ちてくる
この想い出を この想い出を
いつの日かつつまん
温かき幸せのほほえみ

雪の降る街を 雪の降る街を
足音だけが追いかけてゆく
雪の降る街を
ひとり心に充(み)ちてくる
この哀しみを この哀しみを
いつの日かほぐさん

緑なす春の日のそよ風
雪の降る街を 雪の降る街を
息吹(いぶき)とともにこみあげてくる
雪の降る街を
誰もわからぬわが心
このむなしさを このむなしさを
いつの日か祈らん
新しき光降る鐘の音(ね)

『大雪になったら大変だろうな!』と思ったのが、山梨県の南部にある早川町に、知人を訪ねて行った時でした。県道37号線から脇道に入った集落でした。夏でしたが、樹木が生い茂って、日陰に入ると涼を感じられるほどで、その渓谷を見下ろすほどの小高い山の頂きに、その家があったのです。遠来の客である私たちを歓迎して、ご自分の畑で採れたトマトを、冷たい水で冷やし、それを切って、何と山盛りに砂糖をかけてくれたのです。『えっ!』と思ったのですが、そのお気持ちを無にできずに、食べたのです。でも、美味しかったのです。昔、「砂糖」は、貴重な甘味料だったのですから、それを存分にかけてくれたということは、<VIP待遇>だったわけですね。

年配のご夫婦でしたから、きっと子どもさんが、一週間に一、二度訪ねてきて、必需品を届けて、それで生活をされていたようです。車で登る山路は曲がりくねって急峻でしたから、もし、今も、そこで生活をされていたら、今回の史上稀な豪雪で、「陸の孤島」になっているに違いないと思ったのです。案の上、ニュースで、『住民1183人が孤立!』と伝えていました。「雪の降る村を 足音・・・」も聞こえようがありませんが、ニュースを聞いて、夏の日の思い出が蘇ってきてしまいました。『真冬に雪が降ったら、この辺りでの生活は大変だろう!』と感じたことなど思い出し、住民の不安が解消されるような援護がなされることを、ここ華南の雨の空の下で切に願っております。

(写真は、早川町内の「家屋」です)

22度

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さまざまのこと思ひ出す桜かな 芭蕉

今日の最高気温の予報は、22度でした。確かに昼前は、着ていった冬用のコートが不要で、脱いで手に抱えて、学校から帰ってきました。自分だけかと思って今出ましたら、何人もの方が、コートを脱いでいましし、電動車に乗っていた青年は半袖でした。このままとはいかないにしても、陽の光の強さから、そこまで春が来ているようです。

日本海側や東北や北海道、黒竜江省や吉林省や遼寧省などでは、まだまだなのでしょうが、ここ華南では、一足早めに春を感じさせられています。2011年に、家内が入院手術を日本の病院でしましたので、そばにいて上げるために日本に残りました。そのおかげで、板橋の病院の近くの満開の桜を、五年ぶりでしょうか、心ゆくまで眺めることができました。

今年は、近くの公園の中に、数本の桜の木が植えられてあるそうですから、一足お先に<観桜>と洒落込もうと思っているのですが。開花、満開、そして散る時期を推し量れなませんし、<桜前線>の予報も、こちらではありませんので、いつ頃になるのでしょうか。この公園も通り道ではなく、わざわざ出かけないとなりませんので、どうしたら好いのでしょうか。葉桜になる前に行けたら、嬉しいのですが。

日本人って、どうして桜が好きなのでしょうか。小学校の校庭に桜の木が植えられていて、ちょうど開花の頃に入学式があり、年度の移り変わりになりますので、時別な思い入れがあるのでしょう。また、開花している時期が短いこと、散り際が潔いことが、日本人の心情に合うからでもあるようです。小さな花が、『あっ、桜に似ている!』と思ったのでしょうか、「桜草」と命名してしまい、小さなピンクの貝を見て、同じように、『あっ、桜に似ている!』と言って、「桜貝」にしてしまうのです。

桜にまつわる思い出が、思いの中を駆け巡る、早春の午後であります。

(写真は、「サクラソウ」です)

ライバル

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「10年来のライバル」という、浅田真央とキム・ヨナの戦いが、ソチ・冬季オリンピックで終わりました。他を寄せ付けないで、ずっと相手を意識しながら、互いに練磨してきた二人です。聴くところによりますと、ヨナは IOCに勤めるとのこと、真央は学業を続けることでしょう。日韓問題が、今日のように緊迫していない頃から、政府間、国家間の思惑を超えて、スポーツの世界で<しのぎ(激しい競争のこと)>を削ってきたことは、実に爽やかだったと感じてきました。優れたスケーターであるがゆえに、フアンもマスコミも、良きつけ悪しきにつけ、この二人に注目してきたのです。中には心無い中傷や憶測があって、心苦しいこともありました。こう言うには、「有名税」なのですが、悪意の中傷は慎まなければいけません。実に聞き苦しいからです。 戦いがすんで、互いに労(ねぎら)い合う言葉がニュースで報じられていました。相手への感謝と激励の言葉が、真央にもヨナにもあって、とても気聞き心地がいいので、この二人は人間としても、スポーツ選手としても、そして若者として、素晴らしいものを持っているようです。また二人とも、涙し、泣き、号泣もしたのだそうです。ヨナも真央も、自分の祖国からの期待を背中に感じながら、競技を続けて来て、その重圧は大変なものがあったことでしょう。ヨナは『心が身軽になった!』と言ってました。誠一杯に自分の力を出し切ったのですから、真央も同感なのでしょう。 順位やメダルを超えて、この二人が見せてくれたスポーツマンシップに、感動して、中国の真央のフアンも、日本のヨナのフアンも、『ありがとう!』との声を上げています。真央は、『ヨナはとてもすばらしい選手だと思う。ジュニア時代からずっと同じアジアの選手として多くの人から注目を浴び、そのような点で私も成長できた部分もあったの!』と言い、ヨナは、『真央、泣かないで、あなたがいたからヨナがいたんだよ!』と言っていました。国と国の間も、その様になることを切望したい思いで、心が一杯の週末であります。 20140222-124528.jpg

ハグ

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今日の午後、私のことを、『雅仁さん!』と呼んでくれる若い友人の<おばあちゃん(奶奶nainaiー父方の祖母)>が、彼のお母さんと一緒に訪ねてくれました。我が家は五階ですのに、一度も休むことなく昇って来られたのです。腕をとって助けようとしたら、『要らないよ!』と言って一人で大丈夫でした。以前は、膝に問題があったのですが、全く、それを感じさせないほどの健脚ぶりに、八十三歳を感じさせませんでした。同伴の嫁に贈り物を持たせての来訪を、私たちは歓迎したのです。

一昨日、『金曜日の午後三時ごろにお邪魔したいのですが!』と電話があって待っていたのです。家内は、朝9時半ごろのバスに乗って、街中のショッピングモールにあるケーキ屋さんに出かけて、チーズケーキとクッキーを買ってお待ちしていたのです。一昨年、ご主人を亡くされて、お子さんたちが代わり代わりにお世話をされているそうで、とてもお元気でした。この老夫妻には、たびたび家やホテルに、食事に招待されたり、帰国時などには、軍用車を手配してくださって、空港まで送っていただいたのです。お二人とも軍功のある高級軍人で、軍人の退職後のために設けられている 「干休所(軍の幹部の住宅)」にお住まいで、何度もでかけたました。

お招きいただいた時に、風邪気味だった家内が体調を崩したことがありました。おじいちゃん(爸爸)が、軍の診療所に連れて行ってくれて、診察してもらい、薬もいただいたことがありました、雨の中、サンダルを履かれ、家内に傘をかざし、腕をとってお連れくださったのです。その元気だった後ろ姿が今も目の底に残っています。優しい人で、軍人だったとは思えないほど温厚でした。入院中に何度かお見舞いをしたのですが、手術後、しばらくお元気でしたが、入院先の病院で亡くなられたのです。

その若い友人が、アニメが好きで、それを見ながら日本語を独学していて、この街に私たちが来たことを聞いて、毎週のように、我が家に訪ねて来てからの交わりなのです。今は、東京の大学に留学中で、今回帰国中には、一緒に食事をしたり、ケーキ工場見学のおりに、来日中の中国の友人夫妻のために通訳をしてくれたのです。このおばあちゃんですが、戦時中、日本軍が村に放った日で、腕に火傷をされておられたのです。恨んでもいい日本人、赦さなくてもいい私たちなのに、美味しい餃子を作ってもてなして、赦して、家内をハグしてくれたのです。今日も、おばちゃんと家内は、しっかりとハグしていました。華南の巷のアパートの五階の光景は、「中日友好」の一つの真実な有様なのでしょう。

(写真は、美味しそうな「チーズケーキ」です)

ニッポン・サイズ

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アメリカのテキサス人は、なんでも大きいもの好みだと言われています。全米一の大きな州に住むことの誇りで、ステーキもマグカップも「テキサス・サイズ」なのだそうです。ところが、1953年1月に、アラスカが最後の州に編入されてから、No.2に格下げになってしまったのです。世界で一番面積の大きな国は、ロシアです。因みに、カナダ、アメリカ、中国、ブラジルの順に続きます。大きいことって、本当にいいことなのでしょうか?

政治学を学んだり、政治家になろうと考えたことはありませんが、好きな総理大臣に、病気で二ヶ月で退任された、石橋湛山がいます。お寺の子で、甲府一中で学んだことがあり、当時校長をしていた大島正健の感化を強く受けた人でした。大島正健は、札幌農学校の一期生で、直接クラークの薫陶を受けたのです。湛山は、早稲田に学び、後にジャーナリストとなり、東洋経済新報社の主筆、重役をした経歴があります。終戦の年の10月には、「靖国神社廃止の議」を述べています。この湛山の考えの一つは、日本を大国にしようとの動きの中で、「小日本主義」を主張しています。「東洋経済新報」の1921年の社説で、

~一切を棄つるの覚悟~
「我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。」

と語ったのです。あの「言論の自由」の許されない時代に、こうのように言えたことに、驚かされるのです。大局に立って、ものを言える言論人だったことになります。今また、大きな日本、強い日本になるような動きがありますが、石橋湛山なら、『小さな日本で好い!』というのでしょうか。コツコツと物を作り、より良いものを作ろうとして国が富んで行った過去のようにしたら好いのではないでしょうか。争わないで、四海平和な関係を、<ニッポン・サイズ>で、持ち続けて行くのはどうでしょうか。

(図は、かつての日本の「職人」です)

孫と私とランドセル

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「また」というのは、以前にあったことや起こったことが、今度も、繰り返される時に用いる言葉でしょうか。日本のニュースを見ますと、この週末に、ある地域では百年ぶり、百二十年ぶりの大雪が、『また雪が降った!』と伝えていました。私たちがいた、先週末の東京にも、結構な雪が降り積もっていました。『明日は出かけて行って、孫兵衛に、約束のランドセルを買って上げなければいけないけど、雪で行けるかな?』と心配したのですが、翌朝、交通機関に乱れはないと、ニュースが伝えていました。降り積もった雪に足を取られながら、私にぶら下がる家内と一緒に、東急東横線ー地下鉄副都心線ー東武東上線で、孫兵衛の待つ駅に降りることができました。

駅前も除雪が思うようにいっていないで、スパイクの付いていない靴でしたから二人とも、滑り滑りで駅前の大型スーパーに入り、そこの地階のフードコートで、長男と孫たちと落ち合ったのです。午前中でしたので、外は、まだ深々と雪が降っていましたが、店内は効き過ぎた暖房で、コートを脱いで、汗を拭うほどでした。一緒に、「ランドセル特売コーナー」に行って、品定めをしたのですが、『これがいい!』と言ったのは、昨年の売れ残り値引き品でした。すぐに、『これね!』と言って買うことにしたのです。何と爺孝行の孫ではないでしょうか。この店も、正直に去年物と今年物とを区別して売っていたのは、大手のスーパーだけあって『流石!』と思ってしまいました。

在米の孫兵衛たちにも買ってあげたかったのですが、「ランドセル」は日本文化の産物、『要らないわ!』と言われて、「外孫」には何の入学祝いもせずじまいなのです。これって不公平でしょうか。不公平といえば、外孫たちの母親、私たちの次女が小学校に入学した時のことです。着る服は、巡りめぐって従姉妹のお下がりでした。また、新一年の定番のランドセルも、上の兄の長女が六年間使った「卒業済みランドセル」の代物だったのです。くすんだ赤で、所々に傷がついて、それなりに年代物でした。『歌織が使ったのでいい?』と次女に聞きましたら、『うん、いいよ!』と言ってくれました。『嫌!』と言ったら新しい物を買おうと考えていたのですが、親の意向、経済状況(!?)を理解してくれたのでしょうか。不満や不平を何一つ言うことなく、<ピカピカの新一年生>が<お下がり>で身を調えて入学式に出て、それ以来6年間使い通したのです。

授業参観に行きました時、教室の後ろの物入れに、たくさんのランドセルが並んで光り輝いて収まっていたのですが、次女のだけが、異様にくすんでいました。でも一番居心地がよさそうに、『デン!』と座りこんでいたのは見事だった。「まだ使える物を使うこと」、「物を大切にすること」を、次女は学ぶことができたのだと思っています。「みんなと違う自分の物」を持って使うことは、性格や人種や才能などの違う人々の中で生きていかなければならない彼女にとっては、良い学びだったのでしょうか。絵を描くのが遅い子の絵を描く手伝いをして、自分の絵が描けないで、先生に怒られてしまった次女でしたが、相手を顧みることにできる心があったことからして、「ランドセル事件」は落着したようでした。

あのランドセルは、何度もした引越しの後で、何処かに行ってしまったようです。そう言えば、まだまだ貧しかった戦後間もない頃、ランドセルを買ってもらえなかった級友たちが何人もいました。彼らは、ズタ袋に教科書や筆箱を入れて登下校していたのです。彼らは、どんなその後を生ききているのでしょうか。彼らの消息を知りたい思いに駆られている、『日本では、また雪が降った!』のニュースを聞いた日曜日の午後であります。

(写真は、教室の机に下げられた「ランドセル」です)

子守唄

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「春天来了」、中国のみなさんにとって、一番響きの好い、聞いて嬉しくなるフレーズなのではないでしょうか。文字通り『春が来たんだよ!』という意味です。もちろん、熱帯地域には四季はないのですが、それでも微妙に春を感じる時があるのではないかなと思ってしまうのですが。春夏秋冬、はっきりとした季節の移り変わりのある日本の中部山岳に生まれた私にとっても、春の到来は、思い出とともに心地よい時であります。新暦の元旦は、まだ冬の真っ最中でして、暑いコートを着て、手をポケットに突っ込み、肩をすぼめての外出ですが、旧暦の元旦(今年は1月31日でした)は、まだまだ寒いのですが、太陽の輝きも強さを増していますし、気分的に春を思うことができるのです。

今、「爆竹」と「花火」の炸裂音が、四方八方から次々と聞こえてきます。「火薬」を発明した中華民族の末裔のみなさんにとっては、誇らしい音響と、煙と、匂いなのでしょう。戦の銃器に用いないで、平和のために、喜びのために用いるのであれば、強烈な爆発音も、<子守唄>に聞こえてきそうです。2007年の「春節」と「元宵節」を、天津で過ごしました。年越し蕎麦を口にし、「除夜の鐘」を聞きながら「元旦」を、静まり返って迎える日本の街中とは違って、心の準備をしないままに、「春節」の前日だったでしょうか、「天塔(テレビ塔)」の前を、自転車で通っていた時に、突然、右側で爆竹が鳴り始めて、真っ赤な紙片が散らばり、驚かされたことがありました。外国人向けのアパートの7階に住んでいたのですが、建物の横が空き地でしょうか、広場になっていました。そこから花火を打ち上げていたのですが、窓の横で花火が開くものもあって、午前零時、旧正月の元旦になった後まで続いていました。初めての中国の「過年」、正月を、その爆竹と花火で、驚きの中に歓迎されたのです。

中国も日本も、それぞれの仕方で正月を迎え、終えるわけです。「けじめ」をはっきりとさせることについては、中国も日本も同じなのでしょう。来週の月曜日から、授業が始まります。気を引き締めて、学生のみなさんとともに学ぼうと願っております。私にとっての「爆竹と「花火」の炸裂音は、『今年も精一杯するんだぞ!』との叱咤激励の声のように聞こえてまいりました。

(写真は、「爆竹(鞭炮bianpao)」です)