初耳

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中学校3年の国語の教科書に、「二つの悲しみ~戦争が残した出来事~」という一文が掲載されています(光村図書)。戦後、千葉市稲毛にあった「引き揚げ援護局」に勤務されていた、杉山竜丸氏が記したものです。昨年の7月に、その全文を、このブログに掲載しました。学校教育の中で、15歳になる中学生に、こう言った種類の「悲しみ」があることを伝えているのを知って、感じることが多くありました。

感じ入った私は、昨年度と今年度、二年に亘って、この文章を使って、日本語学科の学生のみなさんに作文をしてもらっているのです。息子をなくした父親の悲しみが、一つ目の悲しみです。肩を震わせて慟哭する父親の姿が印象的でした。また、食べ物が欠乏し、弱くなっていた祖父母に頼まれて、小学校3年生の少女が味わうのが、二つ目に悲しみです。メモを手に援護局にやって来ました。母親をなくした少女は、父の戦死の知らせを、この作者から聞くのです。『泣いてはいけない!』、二人の妹もいて、『しっかりしなくてはいけない!』と言われて来たのです。目に涙をいっぱいにしても、じっと我慢をして聞くのです。

戦後の日本で、こう言った経験をした人がいたことは、中国で教育を受けてきた学生にとっては初耳、新発見だったようです。「悲しみ」への共感を記していました。そういえば、私の小中高大のどのクラスには、「父なし子(ててなしご)」が何人もいました。<時代の子>なのです。彼らは、どのように戦後を生きてきたのでしょうか。お母さんが、八百屋の手伝いをしながら育てられていた「ターボー」はどうしてるのでしょうか。おじいさんとおばあさんに育てられていた「ショウチャン」、お父さんの遺品の帽子をかぶってチャンバラをしていた「ジュン」はどんな今を過ごしてるのでしょうか。

学生のみなさんは、「平和」、「和平」を希求しているのです。二度と再び、あのような「悲しみ」を味わうような時がこないように、切望しているのです。武力、軍事力を持つことによって、相手を威嚇し牽制することでしか保たれない「平和」なのでしょうか。刀をちらつかせる以外に、交渉できない外交なのでしょうか。驚くほどの科学的な思考をしている現代人もまた、愚かなのかも知れません。それでも、「地に平和を!」を願う<ハナキン>の夕べです。

(写真は、”ウイキメディア”、平和のシンボルの「ハト」です)

衣替え

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この土曜日に、『一緒に食事をしましょう!』とのお招きで、指定のレストランに公共バスに乗って行きました。バスを降りて、先に郵便ポストで手紙を投函したのです。その道のどこでだったでしょうか、上半身裸の男の人を見かけました。もうすっかり夏が到来したのだと思わされたのです。ここ華南では、時々見かける光景なので驚きませんが、みなさんの服装が小綺麗になり、色鮮やかさがましている中での裸は、ちょっとそぐわなくなってきています。私が長く過ごした日本の社会では、六月一日は、「衣替え」です。制服を着る学生や警察官のみなさんは、冬服から夏服に替える時なのです。

こちらのみなさんは、裸(最近は少なくなってきています)、Tシャツ、長袖、コートなど、実に自在に服装を選んで生きておられます。人によって気温の感じ方が違うのですし、社会制約もありませんから、自由でいいなと思います。それに引き換え、日本では、カンカンに太陽が照りつけているのに、黒の学生服を我慢してきている様子を、以前はよくみかけました。

日本で励行されている「衣替え」も、実は中国の宮廷で行なわれていた習慣を、日本の社会が受け入れて、6月1日から9月30日までが夏服、10月1日から3月31日までが冬服の着用期間になったわけです。地球温暖化、社会の多様化の中で、制服を着なければならないみなさんは、自由にはできないわけです。髪を切って、指定の制服に帽子と黒革靴、ズックの肩掛けカバンで、中学に入学しました。詰襟が、アゴにきつかったのですが、『もう子どもじゃないぜ!』と自覚が湧いてきたのを思い出します。

そう言えば、こちらの大学の先生たちの服装も自由でいいと思っています。これからはジーンズ、七分丈のズボン、ポロシャツ、Tシャツの方がいらっしゃいます。ですから私もネクタイなど締めなくなってしまいました。『来学年は、きちんとしよう!』と思っているのですが、果たしてどうでしょうか。でも空調の備わっていない教室もありますので、教室が決まってからのことになるでしょうか。冬には、厚手のコートは必需品ですし。

しかし、最近の若いみなさんの服装は、渋谷さながらで、秋葉原のファッションで身を飾っている若い女性もおいでです。女性のスカートの着用が、ずいぶん多くなっているのに気付かされております。それにひきかえ、『男性がお腹を出して歩くのだけはやめて欲しいのです!』、そう小声でお願いしておきます。そう、ご馳走になった、イタリアのローマで、日本人の板前に教わった店主の握ってくれた「江戸前ずし」は、とても美味しかったのです。

(写真は、”ウイキメディア”による「にぎり寿司」です)

20回目の家

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生まれてから今まで、住んだ住所を正確に数えて見ました。20ありました。父と一緒に5回、父から独立して今まで15回になります。それは荷造りをし、荷ほどきを繰り返した引越しの回数になるのでしょうか。生まれた家は、いつでしたか、母と兄たちと訪ねた時に、『ここであなたと徹ちゃんが生まれたの!』と、母に教えてもらって分かったのです。沢の谷間で、参拝客を止める旅館の離れで、日当たりの悪い家だったのでしょう。長く人が住まなかったので廃屋のようでした。それからだいぶ経って再訪した時には、崩れ落ちていました。

記憶が深いのは、八王子から越した街でした。そこで二十歳まで住みました。小中高大と、両親と二人の兄と弟と一緒に暮らしたのです。居室が二間と茶の間と台所の小さな家でした。そこに父が風呂場を大きく拡張していました。よく6人もで住んでいたと感心してしまうのですが、それだけ家族の距離が、物理的にも心理的にも近かったことになります。4人で喧嘩を繰り返した家ですが、それででしょうか、今も四人兄弟は人が羨むほど仲が好いのです。

所帯を持ってからでは、生まれ故郷と同じ街に引っ越して、一番下の息子が生まれてから、6人で過ごした家でしょうか。三間と台所で、道路を挟んで事務所がありました。一時期は、そこで10人で生活していたことのある家です。豊かではないのに、人の世話をやいて、同居者を迎えていたのです。近所のみなさんには、随分とゴチャゴチャと賑やかで、迷惑だったことでしょうか。子どもたちも、きっと思い出深い家ではなかったかと思います。

そういえば、長男が生まれて産院から退院してすぐの夜に、国道の工事中にガス管が破れて、消防士に『避難してください!』と言われて、着の身着のまま、長男を入れた衣装ケースを左手で抱え、家内の手を引いて逃げたこともありました。また、上の階でガス爆発の火災があって、被災したこともありました。3人の子と下の子がお腹にいた時でした。命からがら奇跡的に守られたのです。『引火しなかったことが信じられません!』と、現場検証をしていた消防士が言っていましたから。まさに、二回も火の危険の中からの<エクソダス>があったことになります。

20回目の家は、友人の同僚が、ご両親のために買われて、内装を綺麗にしてありました。でもご両親は田舎が良くて、越してこないまま空き家だったのを、お借りしたわけです。夜間の車や酔客の声がうるさいのが玉に瑕(きず)ですが、これまでのどの家よりも快適なのです。そんなこんなで感謝な日々を過ごしております。ご安心ください。

(写真は、前に住んでいた家の裏庭に咲いていた「花」です)

水無月

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「水無月」、六月の別名です。「梅雨」の時期をこう呼んだのには、訳があったのでしょうか。旧暦ですと、「五月」が梅雨の季節であったのですが、この「五月」を「皐月(さつき)」と言いました。梅雨の時期なのに、「皐月晴れ」と言ったわけです。雨の止み間の晴れのことだそうです。そう呼び始めた人は、「皮肉」で言ったのだと思ってしまったのですが、ちょっとネットの「語源由来辞典」を見ることにしましょう。

「水無月」は次のようにあります。「水の無い月と書くが、水が無いわけではない。<水無月>の<無>は、神無月の<な>と同じく<の>に当たる連体助詞<な>で<水の月>という意味である。陰暦六月は、田の水を引く月であることから、<水無月>と言われるようになった・・・」とありますが、後者の説の方が当を得てるようです。

「皐月」は次のようにあります。「<耕作>を意味する古語の<さ>から、稲作の月として<さつき>になった。<早苗>を意味する<早苗月>が約され<さつき>となった説もあるが、<早苗>の<さ>も耕作の<さ>が語源とされる。漢字<皐>には<神に捧げる稲>の意味があるため、<皐月>が当てられたと思われる。」とあります。

今日は快晴ですが、熱風ではなく、午後の帰宅したての部屋の中を通って行く風の動きは、爽やかで気持ち好いほどです。なるべくNHKのニュースを、ネットで聞くことにしてるのですが、昨日は、熱中症で救急搬送された方が大変に多く、亡くなられた方もいたと言っていました。これから梅雨、夏を迎えますが、去年の様な暴雨や異常高温にならないようにと、心から願っております。

こちらは、昨日から「児童節」、「端午節」の三連休です。朝でかけての帰りの道は、随分と混んでいました。遠出をしない家族連れの車が、町の北方にある近場の「森林公園」と「動物園」に行くのでしょうか、渋滞していました。お父さんたちは、子どもに、『どこか連れてって!』と言われて、家族サーヴィスの日になっているのでしょうか。その車の列を眺めながら、子どもたちを乗せて、あちらこちらと出かけた日々が、とても懐かしく思い出されたのです『お父さん、<イカの串焼き>買って!』と四人に言われて、『ダメ!』と言ったことが悔やまれてならないのです。もう二度とやってこない機会ですが、もし、また言われたら、財布の中を覗かずに、『いいよ、腹一杯食べな!』と言って奮発しようと思っている、「六一」の夕方です。

(写真は、”クックパッド”から、子どもたちが食べたかったのとはちょっと違う「イカの串焼き」です)

本籍地

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家内の独身時代の本籍地は、「東京都文京区湯島切通坂町」です。東京のど真ん中になります。江戸時代には、この近くに「昌平坂学問所」がありました。この学問所は、「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれ、1790年に、五代将軍・徳川綱吉の時に、徳川幕府直轄の学校として開所しています。当時の最高学府が、ここにあったわけです。明治維新以降は、東京大学、東京師範大学(現在に筑波大学)、東京女子師範大学(現在のお茶の水女子大学)に繋げられていきます。「昌平」とは、孔子の生地である「昌平郷(山東省曲阜)」にちなんで命名されているそうです。徳川幕府が、「論語」などを著した孔子に学ぼうとしていたことが分かり、日本の学問のルーツは、やはり中国にあるのです。

一方、私の本籍地は、「島根県出雲市今市町」です。日本有数の宗教色の強い街なのです。父は、母の住所を本籍地として選ぶほど、山陰の街への肝入りが深かったようです。独身時代の父は、松江や出雲で仕事をしていて、そこで母と出会ったようです。近所の若者を連れては、近所の小川に入って、「ドジョウ」を獲るのが好きだったそうです。それででしょうか、『雅、浅草へ柳川を喰いに行こうな!』と、何度も言ってくれました。しかし、それは<空手形>の約束で、果たさないまま父は天に帰って行ってしまいました。

こちらのスーパーには、ナマズやカエル、そしてドジョウが売られております。みなさんは、どう調理して食べるのでしょうか。実は日本で、上司にご馳走になって、一度だけ、<ドジョウ鍋>を食べたことがありました。骨が苦手で、美味しいと思わなかったのです。ですから、父の約束不履行に対して、責めるよりは、『かえってよかった!』と思っているほどです。

私の本籍地は、所帯を持った時に、間借りしていた家の街にしてあります。あれから何度も何度も引越しをしているので、戸籍の抄本や謄本を取り寄せるのに不便を感じながらも、そのままにしてあります。簡単に、本籍地を移せるのだそうですが。

日本から持ってきた重要書類に中に、家内と私の「戸籍抄本」があります。結婚した時に、届け出をするために取りせた二通の残りの一通です。パスポートがあれば十分なのに、なぜ持って来たのか不明なのです。それで先日、「国籍」が話題になって、こちらの方に、それを見せて上げたのです。不思議そうに、<青焼きの抄本>を眺めておいででした。当時は、ゼロックス式の普通コピーのなかった時代ですから、<青写真>なのです。

一体、故郷とはどこなのでしょうか。生まれた村でしょうか。そこは係累が誰も住んでいない村です。村の名称も変わってしまっています。それとも、小学校時代を過ごした街なのでしょうか、家のあった所には、中央道が走っています。それに父母もいなくなっています。そうか、きっと「天」に、私の故郷があるに違いありません!そこに帰って行くこと、それが私の希望なのだと思っている、異国の空の下の週末であります。

(写真は、「町名を探す会」の家内の本籍地の附近の住居表示です)

学び

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1563年に、ポルトガル人のルイス・フロイスが、日本を訪ねています。31歳で、長崎に上陸したのです。足利義輝の治世下でした。やがて織田信長、豊臣秀吉の時代にも日本で過ごしております。滞在中に、「日本通信」、「日欧文化比較論」、「日本史」を著しており、当時のヨーロッパに日本を紹介したのです。フロイスは、日本人について、次のようなことを言い残しています。

『日本人は、西洋人に匹敵する優れた民族である。この国の人々の性質や特質を思う時、布教に関わる喜びを禁じえない。純真で、素直で、よく言いつけを守り、飲み込みが早い。しっかりと規則を守っている。少しも無駄のないスケジュールで言葉を学び、文学、声楽、音楽の勉強に励んでいる。学ぶことにかけては天賦の才のある者ばかりだ。』とです。当時の日本人が、高い特質を持っていたことを語っているのです。

今の日本人は、500年も前と変わっていないことになりそうです。大航海の時代に入って、ヨーロッパの国々は、アジア、極東の国々に強い関心を向けていた時代でした。新しいことに興味を持ち、<進取の精神>に富んでいた青年たちが、異国の文化に目を輝かせて学んでいたのでしょう。確かに日本人は、かつては荒波を越えて出掛けて行って、中国に学んでいます。その後、ポルトガル文化に触れ、鎖国時代を経て、明治期になってからは、欧米諸国から学び取ろうとする貪欲なまでの知識欲が溢れていたようです。

<良いもの>を受け入れるについては、人種とか国家とか言語の違いを超えて拘わらなかったのです。それで、遅れを取り戻すのが早かったわけです。日英同盟を、1902年に締結していますが、このことは日本にとっては画期的なことだったのです。三等国が、一等国のイギリスと肩を並べられたからです。明治維新から30年で、それほどの国際地位を得たのです。どうもその自信や誇りが、大陸進出やアジア制覇への道に進ませたのでしょう。

まだまだ、私たちは学ぶことがあるに違いありません。かつてのように、波濤を越えて、門を叩いて新しいことの学びを請うたように、あの時の謙虚さに戻る時かも知れません。相手を知ることが、己を知ることなのです。私は、こちらに来てから、言葉だけではなく、私にない優れたものをお持ちのみなさんから、多くのことを学ぶことができました。感謝なことであります。

(写真は、”ウイキメディア”による、四川省成都にある「詩聖・杜甫像」です)

日々是好

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アパートの南側に、大家さんの田圃が、大家さんの住宅と挟んでありました。結構広くて、向こう側に見える大家宅が小さく見えるほどでした。田圃に水が張られ苗が植えられると、「大合唱」が始まるのです。そうです、蛙の鳴き声々です。幾重にも重なって、『グウオー、グウオー!』と聞こえてきました。この自然界の音というのは、決して騒音ではないのです。『すごくけたたましい和音だ!』と思っているうちに、子守唄に変わるのでしょうか、すぐに眠りに落ちていきました。

この水曜日の夕方、知人の家に行きました。その高級アパート群の正門の横に噴水があり、水が張られてありました。そこから、あの懐かしい、蛙の鳴き声がしてきたのです。雨期で、どこからやって来たのか、もともとが農耕地だったところで、子孫が帰郷して来たのかも知れません。こちらに来てから初めて気づいた鳴き声でした。それで、小さかった子どもたちといっしょに過ごした日本での生活の一コマを思い出したのです。

そういえば、この辺りには田圃が見られないのです。河を挟んだ旧市街に人が多くなって、郊外の農地が住宅に転用されて、アパートが林立し始めてきた地域ですから、農地は、さらに遠くに行かないと見られません。その農地も、郊外農業でしょうか、野菜の植え付けがほとんどです。朝早く、リヤカーを挽いたり、モッコで担いで、農家の人たちがやって来て、青菜や瓜を道端で売っているのです。

この辺りで、ついぞ見かけないのが、道路際にある「無人野菜販売所」です。子育てをしていた町の郊外に行きますと、野菜だけではなく、旬の果物が、プラスチックの袋に入れられて、百円、二百円と値が付けられて置いてありました。その横に「料金入れ」と書かれた箱も置かれていました。新鮮で美味しそうなので、よく買って帰ったことがありました。『そんなんで大丈夫?!』と思えるのですが、買い手をまったく信じていたわけです。

今朝は、真っ赤に熟れたトマト、キュウリ、バターとピーナッツバターとブルーベリージャムをつけたトーストに三角チーズ、それに紅茶、何時もの朝食でワンパターンなのです。美味しい日本式パンを、時々もらいます。何と昨晩は、ケーキも頂いてしまいました。アマンドやボンマルシェなどの老舗の味と遜色のない質と味なのです。ご安心ください。<喰う寝る遊ぶ>、そして仕事もボランティアもさせて頂いている日々を、楽しく生きております。

(写真は、”ウイキメディア”の「トマト」です)

ことば

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子育てをした街は、実に自然に恵まれた、いわゆる「自然の要塞」のようなところでした。夏の暑さと冬の寒さは、『暑いってこう言うことなのか!』、『寒いというのは温度の低さというよりは、山おろしの風とか底冷えを伴なうものなのか!』ということで納得させられたほど、はっきりと感じさせられたのです。春は春で溢れ、木も花も赤や緑や黄が色鮮やかで、目を楽しませるてくれました。秋は秋で満ち溢れていました。暮れなずむ頃には秋刀魚の煙がたなびき、とくに葡萄や柿が美味しかったのです。

台風が来ても、迂回してしまうのです。大雨が降っても、たびたび大きな被害をこうむったことから、防災の知恵に富んで、対策が講じられていましたので、河川が決壊するようなことはありませんでした。先人の知恵と努力の賜物に違いありません。人は保守的で、社会的には閉鎖性が強かったでしょうか、なかなか<よそ者>は受け入れてもらえなかったのです。でもいったん心が通い合うと、強い絆が生まれました。外部との交流が自然要塞で遮断されていたからでしょうか。

そこは私の生まれ故郷でもありました。今でも、自分で気づくほど、幼い日に覚えた方言の影響が、話し言葉に、ほんの少し残っているのです。運動会の競走は、『とべ!とべ!』と声がかかります。<跳ぶ>のですが、『走れ!』を<飛べ>と勘違いしてしまうようです。今住んでいるこの町の人々も、近隣の町や村から、仕事や結婚で移り住んでいる人が多いようです。携帯電話をとって話し始めると、<普通話>が、瞬間的に<ふるさと言葉>にシフトされてしまいます。話し相手が同郷人だからです。そうなると、100%分からないのです。この街にも特有の<方言>があります。

他郷の人に聞かれたくない話は、そうすることができるのです。『考えている時は方言ですか?それとも標準語ですか?』と、親しい方に聞きましたら、『十年近く留学して、日本から帰って来た当初は、日本語で考えていたんですよ!』と言っていました。でも一般的には、個人的な事は<ふるさと言葉>で、仕事のことなど公のことは<普通話>のようです。この方は英語も話せますから、言語環境は多様なわけです。私の父も母も、それぞれ<ふるさと言葉>を持っていたので、晩年は、生まれ育った当時に覚えた言語で、考えていたことでしょう。

子どもたちは家庭では<標準語>で、近所や学校は<方言>でしたから、育った街を出てしまった今は、どうしてるのでしょうか。思い出の中では<ふるさと言葉>、通常は<標準語>なのでしょうか。結婚してアメリカに12、3年いる次女は、夫や子どもたちを思っている時、両親や兄弟を思っている時、幼なじみを思い出す時は、思いの中で、それぞれ違った言葉を使い分けているのかも知れませんね。意思の伝達や思考のなかの言葉は、不思議なものを感じております。

(写真は、”ウイキメディア”から「ぶどう」です)

今週末

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山里から越してきて、落ち着いて住み始めたのが、中央線の日野駅を降りた、旧甲州街道沿いの家でした。その家の茶の間の一本の柱に、毎年、四人の背丈が刻まれていました。上の兄が、本とか箱を使って、三人の弟たちを測ってくれたのです。

海野厚が作詞をし、中山晋平が作曲をした「背くらべ」を歌うたび、そんなことを思い出します。

1 柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
粽(ちまき)たべたべ 兄さんが
はかってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ なんのこと
やっと羽織(はおり)の ひものたけ

2 柱にもたれりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背のび していても
雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

その背丈を刻んだ柱を、記念に残そうと思ったのですが忘れてしまったのです。実は、この家が、「中央高速自動車道」のために立ち退かなければならなくなったのです。父に頼まれて、その家を解体したのが私でした。弟の同級生たちが手伝ってくれて、彼らの昼飯や夕飯、飲み物やおやつで、父からもらったお金は消えてしまったのです。で、その柱も焼却してしまいました。

父も母も、鯉幟をあげたり、武者人形を飾ったりして、「端午の節句(こどもの日)」の行事で祝ってくれませんでしたが、小綺麗に着せてくれ、栄養を考えて食事を作って食べさせてくれ、懸命に育ててくれました。日本では「異端」の家庭だったかも知れません。初詣とか、墓参りとか、盂蘭盆会だとかしませんでしたから。

どうして、月遅れのことを記事にしたのかと言いますと、今日、車で家まで送ってくれたご家族のお父さんが、『日本では、いくつまで子供の祝いをするんですか?』と聞いてこられたのです。こちらは、今週末から三連休の「端午節」だからです。児童福祉法とか学校教育法とか少年法などの「児童」、「少年」とかの年齢を、はっきり覚えていないので、適当に答えてしまったのです。

『端午節から、天気が安定してきますよ!』と、隣町出身のお母さんが教えてくれました。気候不順も解消するようで、よかった!

(写真は、”ウイキメディア”から、「端午の節句」に入る「菖蒲湯」です)

『君はどこにいる?』

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次の記事は、「感知中国」/2006年」に載っていた、「聶栄臻(NieRongzhen)元帥と日本人少女 美穂子ちゃん」の記事の転載です。
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1980年7月14日、北京人民大会堂で美穂子さんは聶栄臻元帥の手をしっかりと握り締め、涙を流した。40年間生き別れになっていた「父親」に会えたのだ。聶栄臻元帥も彼女の手を掴んで離そうとはしなかった。

1940年8月21日、戦闘を指揮していた聶栄臻将軍は、指揮下にあった部隊が戦火の中から両親を失った日本人の女の子を救出したという報告を受け、司令部にその子たちを連れて来るように指示した。聶栄臻将軍が、二人のうち年かさの女の子に優しく名前を尋ねると、女の子は「興子」と答えた。この年かさの女の子が美穂子さんである(後に美穂子に改名)。彼女の脅えた様子を見て、聶栄臻将軍は梨を取り出し、「このナシはちゃんと洗ってあるから、食べなさい」と、親しみを込めて言った。

「興子」ちゃんはやさしく接してくれる聶栄臻将軍に安心して近づき、ナシを受け取って食べた。聶栄臻将軍は、「敵は無数の同胞を残忍にも殺害したが、この二人の子供に罪はない。この子達も戦争の被害者だ。私たちはこの子達を保護しなくてはならない」と言い、二人を部隊で保護することを決める。聶栄臻将軍は、部隊を指揮しながら、自らの手で「興子」ちゃんに食事を与えていた。女の子も聶栄臻将軍を慕うようになり、将軍のズボンの端を握り締め、どこに行くにも影のように付いて行くようになった。敵味方を超えた愛情を注いだ聶栄臻将軍は、女の子の安全を考え、後に二人を日本の兵営に送り届けている。しかし、二人と別れた後も、聶栄臻将軍の脳裏からはあの小さな女の子のことが消え去ることはなかったという。

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1980年、『人民日報』は『日本の女の子、君はどこにいる?』という記事を掲載し、日本の『読売新聞』がこれを転載した。「40年も経って、命の恩人が見つかるなんて、感激して泣いてしまいました」。美穂子さんは、当時の写真を持った『読売新聞』の記者が訪ねて来た日の驚きと感動をこのように語った。この時、美穂子さんは都城市に家を構え、夫と3人の娘たちと幸福に暮らしていた。

北京で再会した時、聶栄臻元帥は美穂子さんに松竹梅の『歳寒三友図』を贈り、「寒い冬、百花が落ちても、松、竹、梅だけは生気を保っていられる。中日友好も松竹梅のようであってほしいと思う」と言った。美穂子さんは帰国すると、絵の大きさに合わせて自宅の玄関を改築し、この貴重な絵を飾った。

1986年、美穂子さんは夫とともに中国を再訪し、聶栄臻元帥を訪ねた。「父は私たちに日中友好事業のために力を尽くすことを望み、私が今住んでいる都城市と、自分の故郷の江津市が友好都市になることを願っていました」。美穂子さんは、聶栄臻元帥の遺志を実現しようと心に決めた。その後、聶栄臻元帥の生誕100周年に当る1999年、中国の江津市と日本の都城市は友好都市の関係を結んだ。両市の友好都市提携を積極的に働きかけた美穂子さんは、「ようやく父の遺志を実現することができました」と、感慨深げに語った。

(写真上は、聶将軍と美穂子さん、下は、戦時中の将軍と幼い美穂子さんです)