射干

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 この写真の花は、「シャガ」と呼ばれ、「里山を歩こう」から配信いただいた写真です。あやめ科の花で、「射干」と漢字表記します。原産は中国だそうで、広島の灰ケ峰の山麓に咲いていると知らせてくださっています。

 こんなに素晴らしく花開くのに、驚かされ、《創造の美》に感動させられっぱなしです。花に目覚めた私は、多種多様の花に圧倒させられ、ホームセンターに行きますと、まず、店外の花や苗のコーナーで時間を潰してしまいます。

 『もっと広い庭のある家に住みたい!』と思うことしきりです。狭いベランダには、何種類もの花が開き始めています。ペチュニアが綺麗に咲き、ルピナスは二期目の花が育っています。キキョウも、もうすぐ開花になるでしょうか。

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入笠山の思い出と鈴蘭と

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 JR 中央本線の富士見駅からも行けますが、家内を誘って登った山がありました。それが標高1995mの「入笠山(にゅうがさやま)」だったのです。その時は、車で行きましたが、12月の初めの頃でした。前日には雨でしたが、全く気にしないで、登山者用の駐車場に、車を停めて登ったのです。高くなるにつれて、登山道に、うっすらと雪が積もっていたのです。前日の雨は、そこでは雪だったのに、注意しなかったのです。

 山上の景色が実に綺麗なので、人気の山なのですが、駐車場は、なんとガラガラだったのです。360度見渡せる山に連れて行きたい思いで、登山情報を調べずに登ってしまったのです。だんだん積雪量が多くなっていくのです。お土産屋の軒の下で、お弁当で腹ごしらえをしてから、頂上行きを断念して、林道に出ました。そうしましたら、けっこうな積雪があって、動物の足圧が見られ、『ヤバイ!』と思ったのです。

 蟹に手を引くのですが、何度も滑って点灯してしまいました。雪の積もったら林道を下りても下りても、駐車場に着かないのです。『初老の夫婦、入笠山で遭難!』と言うニュースが思いにやって来るほどでした。

 登山道を引き返した方がよかったのに、それをしなかったのを悔やみながら、雪に難儀したのでしょう、また私が滑って転ぶのを何度も見て、家内は黙り込んでしまったのです。風は冷たく、靴も濡れていました。必死に、祈りながらの下山、やっと駐車場が見えた時の安堵感は、忘れられません。知人に連絡しようとしましたが。携帯電話は繋がりませんでした。

 あんなに恐怖心に駆られたことはありませんでした。山を軽く見たわけではないのですが、状況判断を怠ったわけです。あれ以来、決して無理をしなくなりました。それ以来、低山専門に変えて、今は、蕎麦屋通いの大平山、標高314mで、昨年でしょうか、熊の出没のニュースを聞いた頃から、歩きでは近づかずにしているのです。

 どうして、入笠山を思い出したかと言いますと、何を植えたか忘れていた、ベランダの隅の鉢から芽が出てきて、この写真のように、「鈴蘭」の花が咲き出したからです。この入笠山には花畑があって、鈴蘭が綺麗だったのを思い出し、危うく遭難しかけたことを思い出したわけです。

 健気で、清楚で、可愛い花ですね。若い頃に、白樺湖に行った時にも、この花が綺麗に咲いていたのに、ここ四階のベランダで咲き始めて、なんとも心落ち着かせられているところです。昨日、満開がちょっと過ぎでしたが、大好きな思川桜を見せに連れ出していただいて、それを外に見て、昨日は内に鈴蘭の開花、なんとも言えない春気分の連続です。
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思川の川辺にお連れいただき

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 昨日は、隣町の牧師さん夫妻が、私たちを訪ねてくださり、午後のひと時に、楽しい交わりをさせていただきました。家に上がっていただき、明治初年に、この街でお店を始められた老舗の「柏餅」に、渋茶を飲みながらの談笑でした。その後、私たちを連れ出してくださって、思川の堤にお連れくださって、思川桜が咲き誇っている中を、お交わりしながら散策をしたのです。

 「桜図鑑』によりますと、『久保田秀夫が栃木県小山市東島田・小山修道院に栽培されていた十月桜の種子を1954年に播種、1959年に開花したものが半八重咲で美しい桜だったことから、近くを流れる思川に因んで名付けた品種です。』とありました。

 帰りには、「道の駅」に寄って、野菜などを買うことができました。そこで売っている「給食用麦納豆」が美味しくて、『食べていただきたい!』と、ご夫人が言われてでした。その上、イチゴや焼き芋やゴボウの漬物などをお土産も合わせて買ってくださったのです。ご夫人は、堤の菜の花の芽を摘んでくださって、持たせてくれました。

 夕食に、それをおひたしにして、ちょっとホロ苦い春の味覚を楽しむこともでき、優しいお二人の心遣いでした。子どもたちが遠くにいますので、何か息子と娘の代役をしてくださったようで、ポカポカの春の暖かさも相まって、心温まるひと時に感謝を覚えたのです。

 お二人とも「第二世代」で、牧師家庭に育っておいでで、お嬢さまと息子さんの二人の親御さんです。閉じ籠りがちの私たちを、爛漫の春の河辺に連れ出してくださって、その優しさに感謝した春の一日でした。

(思川桜の近影と遠影です)

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神学以上のことについて

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 『(隣国の若い友人からの)メール読みました。ご質問の改革派の教えと、結婚と離婚問題ですが、改革派の教えなどについては、ボクが回答します。結婚問題は、家内が後で回答します。まず、私のブログの記事をお伝えしますね。』。「一羽の雀(20236月にブログに書いたものです)」です。

 『これまで、体調が思わしくなく、寝込んでしまうことが何度かありました。一番は、季節の変わり目ごと、秋から冬の時季、梅雨時などに、決まって起こるのが、〈腰痛〉だったのです。まだ伝え歩きができるのは良かったのですが、這うような時もありました。一週間も、そういう時が続いて、『もう歩けなくなるのかなあ!』と思ってしまう時だってあったのです。

 ある時から、〈休息必要〉と思いを変えて、怠け者のように寝ることにしたのです。そうすると徐々に痛みが引いていき、回復がくる、そんな繰り返しの年月でした。高校の頃、走り過ぎたのか、兎跳びをさせられ過ぎたのかも知れませんし、教会があった街の自治会の側溝掃除で、コンクリートの蓋を、手で上げた時に、ギックリ腰をしたことがありました。そんなことがあったのですが、まだ若い頃は、、そんなにひどくなかったのですが、歳を重ねるに従ってキツくなりました。

 ところが、帰国以来、この5年ほどは、持病の腰痛は、湿布と温泉で、すぐに痛みが引いてしまっているのです。寝てなんていられないので、神さまは、そんな風にしてくださっているのかな、なんて思わされています。

 以前、寝込んだ時に、枕元で家内が歌ってくれた賛美がありました。「一羽の雀(心くじけて) 」と言う歌だったのです。

1.
心くじけて 思い悩み
などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わが真(まこと)の友
(折り返し) 一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う
2.
心静めて 御声聞けば
恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得(え)ん
ただ知らまほし 行く手の道
(折り返し)一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う

 そういえば、聖書の中に、次のような聖句があります。

『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ1267節)』

 何もできずに、〈小ささ〉や〈つまらなさ〉や〈弱さ〉でおびえてしまう時、それほどの者でしかない自分を、父なる神さまは、覚えていて、知っていてくださるのだと、イエスさまがおっしゃったのです。

 『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ(詩篇8414節)』

 五年前に帰国して、差しあたっての必要は、住む家でした。自分の人生設計の中に、家を持つことがなかった私は、友人のご好意で、ご両親が住んでいらっしゃった家をお借りして、住ませていただいたのです。次男が生まれる直前の40数年前も、ガス爆発で住んでいた借家を退去しなければならないことがありましたが、雀にさえ、住処を与える神さまは、必ず住む家を与えてくださると思ったのです。それで教会の床の板の上に、みんなで寝たわけです。あそこは最高の住処でした。

 この詩篇の節末に、「セラ」があります。楽譜の中に休止符がありますが、それと同じ意味を持つ言葉で、騒然としていたり、忙殺されたり、波乱の時を過ごしている時に、「小休止」があるのだと言う、信仰者の告白だと、ある伝道者が聖書を教えてくださいました。旅人で寄留者の私たちにとって、《永遠の住処》を、主がお造りくださり、迎えに来てくださると言う約束もあります(ヨハネ14章2〜3節)ので、今の家に感謝を持って住んでいられるのです。

 時々、家内がゆっくりできる家を備えなかった不備、不徳を詫びるのですが、〈甲斐性のない夫〉なんて言わないで、『約束のお屋敷があるのだからいらないわ!』と言ってくれます。小林一茶の「七番日記」をもじって、『これがまあ終の住処かカラス鳴く(雪五尺)』との思いで、今朝もカラスの鳴く声の聞こえる中で、《永遠の小休止》、永遠だったら《大休止》を願いつつ、そこに憧れながらのこの家に感謝でいっぱいです。』

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 今回のメールを読んで、次のみことばが、思い出されています。改革派教会に対するお考えです。私は、聖書を最高規範として、救いや再臨やクリスチャン生活にあり方などを学んできました。改革派には、hyper (厳格)な立場と、穏健な立場があるようです。私は、極端過ぎないことを旨としています。

 聖書は、「神の子の祝福」が5つあると思っています。

神の愛の確信

 『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ410節)』

☞生まれた時から、私たちが愛されていることを、救われた時に確信するのです。神の愛は不変です。

②良心の自由

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ51節)』

☞教理や神学や掟によって不自由にされないで、のびのびとして、救いを感謝し喜ぶべきです。人は十字架で救われるのであって、神学や教理にはよりません。私はカルヴァン神学を信じているのではなく、聖書を、聖書の記すキリストを「救い主」として信じています。

③聖霊による喜び

 『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。 (ロマ1417節)』

☞聖霊は、不自由な窮屈な信仰から解放し、活き活きとして活力のある生き方、信仰に導いて下さいます。平安や喜びをくださるのです。

④恵みの増加

 『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 2コリント98節)』

☞神さまは恵み深いお方です。気難しいお方ではないのです。もちろん、罪に対しては厳しいのですが、規則や律法の中で、私たちを縛るのではなく、恩恵の中に安らかにいられるように、信仰も実際生活性も導いて下さいます。

⑤終わりまで保たれる

 『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。(1コリント18節)』

☞この救いに入れられたら、一生の間、保持してくださると言うのです。どこかで無くしてしまったり、誰かに盗み取られたりはしません。だから恐れずにいられるのです。

 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ4110節)』

☞神さまは良いお方で、いつでも義の右手で握っていて、守っていてくださいます。もう迷ったり、怯えたり、恐れたりしないでいいのです。

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  救い主が祈っていて下さいます

ローマ8:34

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。』

  父なる神さまはよいお方です

エペソ2:8

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』

主イエスさまは私たちの保持者です

1コリント1:8

『主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

私は、いただいた救いや永遠の命が、盗まれたり、取り上げられたりすることはないと信じて、今日まで生きてきました。ある人は、いつか奪われる恐れでいっぱいです。でも、一度救われたら、それを保証してくださるのは、父なる神さまです。

神さまに栄光を帰しましょう

ユダ1:25

『すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。』

人は自分の栄光、繁栄、成功を認めています。クリスチャンは、死ぬ時に、この世に置いて残していかなければならないものを求めることをしません。成功も栄誉もいりません。

キリストなるイエスさまをもっと知ろう

エペソ3:1519

『天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。』

様々な問題は、主をよく理解していないから起こります。主が、どんなに素晴らしいかを知るなら、人生の答えがやってきます。疑問は一つ一つ解かれてくるのです。

私たちには求めるものがあります

1テモテ6:1112

『しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。』

高い品性、高貴な生き方は、私たちが受け継ぐべきものです。野卑な生き方をしません。クリスチャンは、何も持たなくても、高貴さを持ち続けるべきです。 賛美しましょう。

虫にも等しき」

1 虫にもひとしき 者のために
 主はかくもむごき 目にあいしか

2 この身のとがゆえ 十字架につく
 ああそはいかなる 愛ぞ愛ぞ

3 み神のひとりご 死ぬるをみて
 照る日もかくれぬ 雲のなかに

4 恥いるこの身を いかに隠さん
 涙にこころも 目もとけゆく

5 恵に報ゆる すべ(術)をしらず
 すべてをな投げ出し ただひれ伏す

『そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(ヘブル人への手紙 21718節)』

 

 もう一つ、ブログを取り上げてみます。改革派教会は、カルヴァン主義を信奉する群れですが、そのカルヴァンについても、触れたからです。「主の赦しと祝福と栄光と」と言うタイトルです。

 『ルターが、「信仰義認」を掲げて、宗教改革を始めた時に、旧勢力は、異端だとして排斥し、新しく誕生する教会のリーダーたちを、神への反逆、教会への不従順として弾圧し、死罪に定め、断頭台に送ったのです。そうして誕生した福音主義、聖書主義を掲げた教会も、内紛、とくに神学や教理の違いで、反目し合ってしまいます。例えば、ジュネーブで牧会をしたカルヴァンも、「三位一体論の誤り」を理由に、ミシェル・セルヴェを、親しい友であったのに、「火刑」にしています。

 寛容、恩寵、忍耐、和解など、そう言った教会の主の教えとは真反対に、神学上の違いで死罪にしたことは、「時代の誤り」だという追随者の言い訳ではなく、どんな言い訳もできない非寛容な、自分だけを正統とする、憎悪に燃えた罪であったことを忘れてはいけないのです。そう言ったことは、カルヴァンにだけあったのではなく、すべての人の思いの内にあることを覚えなければなりません。「異端」の判別や裁きは、教会の主であるイエスさまだけができること、「キリストの座の裁き」と「最後の審判」に任すべきだからです。

 また、「浸礼」で洗礼を施すことを主張し、後にバプテスト派が誕生した時、旧勢力は、バプテスマを施す教職者を、水の中に抑え込んで溺れ死にさせたことも、教会の歴史の中にありました。さらに、「異言」を語り始めた教会や神学校を、旧勢力は、異端として攻撃し排斥しました。教育を受けていない者たちの極端な信仰の表明を、コリントの教会の問題と被らせたからでしょう。そして「カリスマ派」というグループが出てきて、賛美礼拝で、同じ歌詞をしつこく繰り返したり、賜物とか油注ぎなどの主張を非難して、非正統のレッテルをつけて、嫌悪してきています。

 私は、個人的な信仰体験として、1970年の秋に、母教会の夕方の特別集会で、「聖霊のバプテスマ」を受けました。異言が口から、まさに突いて出てきたのです。アフリカに、福音宣教のために遣わされた教え子を訪ねる途上、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校で教壇に立つ、説教者の按手によってでした。

 自分は、17で信仰告白をし、22でバプテスマを受けていたのですが、煮え切らない back slider で、曖昧だった私の信仰を確かなものにしたのが、その体験でした。その時、イエスさまの十字架の死が、自分の罪を赦すためだということが、突如として分かったのです。信じた神が、「自分の父」だと信じられたのです。それは驚くべき信仰の体験でした。

 これっておかしな、異常なことだと言えるでしょうか。そのパウロが、『私は、あなたがたの誰よりもはるかに多く異言で話せることを私の神に感謝しています(「インターリニア ギリシャ語新約聖書」から)。』と言っています。これは、どのような批判をこえていて、「異言」を肯定しているのではないでしょうか。

 ある著名な牧師が、パウロへの尊敬のあまりでしょうか、『パウロ先生!』と言われた説教を聞いたことがあります。私たちを導いた宣教師のみなさんや、彼らの友人の牧師さんたちは、ご自分を、〈ジャック〉、〈チャック〉、〈トム〉と、先生抜きの名前で呼ぶように願っていました。私は、〈ヒロタさん〉、〈ジュンさん〉と呼ばれてきました。ただ「赦された罪人」であって、兄弟姉妹だからです。

 『もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 (ロマ1415節)』

 福音を信じて、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される人たちを、パウロは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。聖書解釈や教理の違い、「異言」を語ることで、その人を嫌ってはいけないのでしょう。新しい賛美を歌うクリスチャンを、正しく評価できるでしょうか。そのような体験に導いてくださった器は、驚くほどの人格的に優れた方でしたし、聖書理解も、その説教も優れておいででした。

 宣教師や英語教師が幕末以降、我が国にやって来た時に、彼らの宣べ伝えた福音を聞いて、昨日まで神々に手を合わせ、仏教や儒教の教えを信奉していた人々が、すぐに十字架を信じることができたことは、神の「恵み」でした。

 例えば、国際連盟の副次長を務め、「武士道」を著した新渡戸稲造は、15歳で札幌農学校に入学します。その学校の教授と殴り合うほどの荒くれ男で、「アクチーブ(行動派)」と仇名されていたのです。それが、福音を信じてから、今度は級友たちに「モンク(修道士)」と呼ばれるほど劇的な変化をしています。スリが劇的に変えられて善人になったり、極道や香具師が、瞬間的に回心して牧師になったりするように、福音には力があり、それは聖霊の働きによるのです。

 『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ1711節)』

 それぞれ違った方法で、さまざまな背景から、人は基督者になっています。そして様々な教派が生まれてきています。歴史性があって、縹渺する特徴点が違うからです。宣教師の出身国や出身教会によっても違いがあります。そんな違いがあっても、それぞれに補い合い、助け合うのは良いのです。ですが、その違いで争わないで、「一つになること」こそが、教会の主の願いなのです。

 ジュネーブの教会の牧師のカルヴァンは、生涯の終わりに、『わたしは非常な苦しみを経験するでしょう。わたしは十分死のつらさを受けるでしょう。それでもなお心は確かであると思います。・・・神の御旨を待ちつつ、慎ましく楽しむために。』と言い残しています。そして、1564527日に、55年の生涯の全てを主の手にお任せし、罪の赦しを確信して、罪の呵責から解き放たれて、主の元に帰ったのです。』

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 人は過ちを犯しますが、それでも、人は赦されて、主に栄光を帰します。そして贖われた教会も、栄光を、主にお帰しするのです。主が、「第一のお方」でいらっしゃるからです。

 「聖書は何を言っているのか?』、ここに答えがあります。時間をとって聖書を読むなら、聖霊である神さまは、理解力を与えて下さいます。何が真実で、真理であるのかが分からせてもらえるのです。近道はないかも知れません、あなたのために祈っています。「救い」、「神の子」とされたことは、驚くべき祝福です。それを忘れずにいてください。主の祝福を、ご家族やご両親、教会のみなさんの上に祈ります。お元気で!

(Christian clip artsからのイラストです)

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偏見から客観視へ

 


『ナタナエル言ふ『ナザレより何の善き者か出づべき』ピリポいふ『來りて見よ。』
(文語訳聖書ヨハネ伝1:46)』

 結婚の相手は、『添うてみなければその真価はわからない!』のでしょうか。いえ、試験婚の勧めをしようとしているのではありません。中学一年の時の英語教師と、二十年ぶりに会ったことがありました。たった一年教わっただけでしたが、覚えていてくれたのです。『準、何処にいるの?』と聞いたので、『〇〇です!』と答えたのです。この先生の奥さんが、その県の出身で、その県の出身者は、「最悪」だと言ったのです。

 初老で、ちょっと酔っていての弁でした。有名な大学で教授をされていました。その偏見に驚いたのです。今の不幸せを、奥さんのせいにして、教え子にまで、そんなことを言うので、最高の奥さんを持つ私は、呆れ返ってしまいました。フランス語を専攻された方で、入学した学校では英語を教えてくれたのです。

 まさに、〈添うてみなければ〉、分からなかった結婚をされた英語教師と、主から頂いた奥さんのいる私との違いを、今更ながら知らされた再会でした。フランスまで行って学んで、大学教授にまでなった一人の男性、恩師の二十年後の言葉に驚いて帰宅したのです。

 そういえば、〈飼ってみなければ〉、分からない動物の可愛さもあるのでしょうか。猫嫌いの私は、猫の可愛さが分かったのは、飼ってみてからでした。娘夫婦が、アメリカに帰国するにあたって、長野の南信の街で飼っていた二匹の猫の処遇を、私たちに任せてくれたのです。

 飼っている間に、怪我をして、手術を終えた、布団の中にいた私の胸の上を、走り込んで去って行ったり、駐車場に停めた車の音を聞いて、二匹が並んで玄関で出迎えてくれるうちに、可愛くなってしまったのです。 

 「猫じゃらし」も、娘が置いていってくれたので、それで二匹をジャンプさせるのが面白くて、よくやりました。犬には見られない戯れだったのです。部屋の茶箪笥の上のスペースが、彼らの居場所で、いつも並んで休んでいたのです。

 この猫と「マタタビ」との関係が伝統的に伝えられていました。この記事の初めに掲載した映像は、またたびに応答する一匹の猫の様子を撮影したもの(ウイキペディアによります)です。これを、「猫のマタタビ踊り」と言うのだそうです。ただ踊るためだけだと思っていましたが、それだけではないことが、研究者によって明らかにされているようです。

 岩手大学の宮崎雅雄教授は、獣医師の志望で、動物の嗅覚活動の研究を続けてこられて、ネコの尿から、「コーキシン」と言うタンパク質の新種を発見した方です。この方が、マタタビに酔うように見える猫の行為は、その成分(ネペタラクトールだそうです)で「蚊よけ」をしていると言っておいででした。

 言い伝えられたことを、科学的に研究すると、新しい習性や事実が発見されるのですね。先日の散歩の途中に、猫をヒモに繋いで散歩している方がおいででした。この猫が、私の近づく気配を感じて怖がっていたのだそうで、飼い主が小声で、『怖がらなくていいのよ!』と言って抱き上げていました。それで猫のまたたびの話を思い出したのです。

 偏見で、猫嫌いの人も、妻嫌いの人もいて、この人の世は、様々なのですね。でも、犬が、飼い主の乗っている自転車のカゴや、犬用のカートに入れられていて、それに熱い視線を向けているご婦人がいて、犬たちは幸せそうにしているのを見て、買っていた犬を思い出して、なんとも言えない違和感を覚えました。春先の光景でした。

 ナザレからは立派な人材は出ないとされていたのに、ナザレ人イエスを、行ってその目で見て、「神の子」、「イスラエルの王」、「救い主」であることを理解したのがナタナエルでした。偏見を捨て、客観的にイエスさまを見たからです。今もなお偏見で、真実の姿を見抜けない方が多くいるのでしょう。「ナザレ人イエス」とは、ナザレに「人の子」として、私たちと寸分変わらなく生きた、「神の子」でいらっしゃるのです。

(ウイキペディアによる映像です)

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エルサレムの平和を祈る

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『ヱルサレムのために平安(שָׁלוֹם シャローム/平和)をいのれ 。ヱルサレムを愛するものは榮ゆべし 。 ねがはくはなんぢの石垣のうちに平安あり、 なんぢの諸殿のうちに福祉あらんことを。 わが兄弟のためわが侶のために 。われ今なんぢのなかに平安あれといはん。 われらの神ヱホバのいへのために我なんぢの福祉(繁栄)をもとめん。(文語訳聖書 詩篇122篇6~9節)』

(ウイキペディアのエルサレムの写真です)

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春の小遠足へ

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 一昨日は好天でしたので、家内を誘って、「ふれあいバス」の一日乗車券を買って、市の北に出かけました。バス停は、巴波川を跨ぐ「幸来橋」のたもとにあり、その際に、舟運の河岸風景を掘り込んだ土盤が掲出されています。

 ほぼ一時間ほど乗ったでしょうか。「道の駅」には、綺麗な桜花が満開でした。レストランには、知人夫妻が、美味しそうに蕎麦を食べておいでで、食べ終わったのでしょうか、順番を待つ私たちの前に立たれて、しばらくでしたが談笑することができました。家内は蕎麦を食べ、私はカレーライスでした。

 帰りにはイオンモールが、バスの終点でしたので、乗り換えに30分ほどありましたので、店内を歩き、市内循環バスに乗って、家の前のバス停で降りたのです。半日ほどの小旅行が出来るほど、体力の回復が見られる家内は、楽しそうでした。

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英雄から父に

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 『人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位に坐せん。 かくてその前にもろもろの國人あつめられん、之を別つこと牧羊者が羊と山羊とを別つ如くして、 羊をその右に、山羊をその左におかん。 ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ。 なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、 裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」 ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。 何時なんぢの旅人なりしを見て宿らせ、裸なりしを見て衣せし。何时なんぢの病みまた獄に在りしを見て、汝にいたりし」 王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」 (文語訳聖書マタイ伝25:3140)』

 子どもの頃の「憧れ」でしょうか、英雄視していた人物が何人もいました。とくに、この時期の成長段階には、《英雄》が必要なのです。たとえば歴史上の人物、おとぎ話の主人公(桃太郎)、プロ野球の選手、映画俳優など、憧れの的でした。でも、十六貫の小太りで、髭が濃くて、何でも知ってる、Yシャツにネクタイの背広を着て、黒革靴を履き、颯爽としていたのが《父》でした。風呂に入ると、安全剃刀の歯をガラスのコップの中で研ぐように、物を大切にし、書庫や箪笥はきちんと整理されていて几帳面でした。父は、子どもの私のまさに《英雄》だったのです。でも真の英雄とは、どんな人なのでしょうか。

 1840年に、トーマス・カーライルが公演活動をし、その内容を記した、「英雄崇拝論」を刊行しています。『歴史は偉人(ヒーロー)の影響によって大きく説明できる。偉人とは、優れた知性、英雄的 勇気、並外れた指導力、神の霊感などの生まれ持った特性によって、歴史に決定的な影響を与えた、非常に影響力のあるユニークな個人を指す。』と言って、英雄を語ったのです。

 カーライルは、英雄には6つのタイプがるとしました。「神としての英雄(オーディンなど)」、「預言者(モハメットなど)」、「詩人(シェークスピアなど)」、「司祭(マルティン・ルターなど)」、「文人(ルソーなど)」、「王(ナポレオンなど)」が代表です。

 日本でも、「江戸中期の三明君」と言って、米沢藩の上杉鷹山、紀伊和歌山藩の徳川治貞、肥後熊本藩の細川重賢、「維新の三傑(英傑)」と言って、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通をあげています。きっと自分が出た学校にも、、住んでいる街にも、そう言われている人材がいそうです。

 この英雄の評価ですが、業績第一で、人格の高潔さよりも、業績の面での評価が強いのではないでしょうか。『何をしたか?』であって、『どのような人であったか?』を重視していないのです。〈英雄、また人なり〉で、父も誰も、みんな弱さを兼ね備えていたわけです。でも、聖書を読み始めて、人格の高潔さだけが、倣うべきだと判りました。

 実は、それほどの人ではなかったことを知って、裏切られたような思いにされたことがありました。これは、クリスチャンにされてからも、信仰の強者、屈強のキリストの弟子のように思っていた人物が、実際は、そんなに清廉潔白な人でも、信仰者の見本でもなかったことを知らされて、ただの野心の人だったのを知らされて、納得させられています。

 もちろん、会って交わりをして自己判断をしたのではなく、英雄のカバーを外した実態は、正直な情報を耳にしてからでしょうか、裏情報、書かれたものから、真実の姿を知ったからです。よく〈化けの皮が剥がされる〉と言いますが、〈隠されたもの〉はやがて露わにされるのです。

 旧日本軍の精鋭で、最強の軍隊だと思っていた「関東軍」は、中国東北部の満族に地に、1932年に「満州国」を建国し、五族共和を図り、大東亜共栄圏を作ろうとしたのです。それは理想国家の建国だと思われました。もちろん、それは軍部だけの策略ではなく、当時の日本政府の国策であったのです。

 この雄々しいとされた日本男児たち、軍人たちの建国した国には、遠大な理想を掲げていました。現状を打開したかった日本人は、満蒙に鉄道を敷設し、石炭の採掘などと共に、農業用移民を果たします。米英を代表する国々の支配下に置かれ、植民地となっていた東アジアの民族の解放を目論み、アジア人の地に、自らの国家を作ろうとしたのは、立派だと思っていました。

 ところが掲げた満蒙開拓のスローガンと、満蒙の現実とは、全く違っていたのです。融和政策ではなく、侵略でしたから、現地の人々にとっては脅威にしか感じられなかったのです。五族共和などは、机上の空論であったわけです。

 敗戦後、山西省にあった関東軍は、その終戦の詔勅が発せられた後、一人の佐官の将校に後を任せて、最高責任者たちは、特別機で山西省を脱出して、日本に帰国してしまうのです。2600名もの残留兵は、蒋介石軍に加わって、共産党の八路軍と、3年半も戦ったのです。

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 残留兵を指揮したのは、今村方策大佐(中国は日本軍の「最高参謀」と高く評価しています)でした。暖かな人柄の人だったそうで、部下に慕われた上官でした。部下の処遇に奔走した後に、彼らの無事の帰国の確約をとってから、ご自分は、責任をとって自決されています。こう言った事実は隠されていて、知る人のみぞ知ることなのでしょう。『私は「蟻の兵隊」だった 中国に残された日本兵(岩波ジュニア新書)』を書かれた、元山西残留兵だった奥村和一、酒井誠は、そう書き残しています。この大佐こそ、真の日本の軍人であったのでしょう。

 また〈和製パウロ〉のように、説教上手で、自分の託された群れに、多くの人を集め、さらに枝教会をいくつも興した人がいました。18ほどの私は、この人の説教を聞いて、その弟子になりたいと思ったことがあったほどでした。母が自分の魂を委ね、所属していた教会は宣教師の始められた教会で、特集に誘われて行きますと、アメリカやオランダなどからの説経者ばかりでした。そんな時に、和製説経者が珍しく来られて、若い私は、そう思ったのです。でもこの方の晩年に、問題が露見して、信頼したり、従うべきは『人ではないのだ!』と学ばされました。

 聖人のように、高い評価を得ておられた方が、貧しく病んでいる隣人への愛に生きておられて、注目の的でした。大変立派だと思っていました。ところが、団体の上手な宣伝の産物、広告塔だったこと、集まった金銭を私物化し、キリストの苦難に倣って、信者は、それを味わうべきだとして、最低限度の医療を施し、シーツも汚れたままで、痛んでいる病人への緩和治療もしなかったのです。自分が病んだ時には、近代病院で、最高水準の医療を受けていたのが分かりました。この方の偽善が暴露されたのです。ただの人でした。

 政治家や経営者はともかく、なんと有名な神学者も、名だたる牧師も、人の目から隠れた生活があって、scandalous な生き方をしていて、その隠されたことが露わにされてしまいます。多くの若い牧会者が、憧れた器が、ただの堕落者だと知らされた落胆は、非常に大きいのです。

 あの野口英世も同じでした。疫学の世界では名を馳せ、小学生の私は、幻燈や人物伝を見て、《日本のキラ星》のように思っていました。ところが、彼の生活は、大酒に溺れ、行状は最悪で、自堕落でした。この人の表した研究論文も、全く評価されずじまいでした。

 イエスさまに祝福される人とは、「正しき者(マタイ伝25章)」であると、聖書でイエス・キリストが言われたのは、隠れたところでなした善行や慈愛のことで、しかも、人に為したことは、救い主イエスさまへの行為だと言われました。誰の目にも止まらないような、認められないような、自分でも思い出すことなどない、《善意ある行い》のことです。そう言った人こそ、神の国の《英雄》なのです。まさに〈化けの皮〉を持たない人の行いであります。

 子どもの頃の英雄だった父が、英雄でないことを、大きくなるに従って理解しましたが、「英雄の父」から、「父は父なるが故に父として遇する」を学んで、敬意と感謝を表すことを、いまだに忘れずにおります。その他の人は、ただの人でした。《義(ただ)しき》は、イエスさまだけであります。すべきは、そのイエスさまへの愛と感謝であります。

(ウイキペディアの人形の桃太郎、山西省名物の山西老陳醋です)

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