華のお江戸の浅草で

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 この週末、東京に、東武電鉄日光線の特急・ベーシア号に乗車して出かけました。栃木に住み始めて、8年になりました。これまで入院や通院で電車を利用することがあっても、上り電車、それも特急に乗ることはありませんでした。今回、初めて乗って、浅草に行ったのです。ベイシアの乗り心地は快適でした。

 渡良瀬川と利根川を渡って、埼玉県に入り、春日部駅、北千住駅、東京スカイツリー駅で停車し、浅草駅に着いたのです。沿線は田植えの終わった緑色の農村部から、ビル群の都会に移っていきました。栃木県民に愛されてきた都会です。この浅草は、横須賀生まれの父の会社が近くにあったり、娯楽で過ごした街でした。自分にとっても、この方角から訪ねたのは初めてのことでした。浅草駅をエレベーターで降りて、あの三角地に立ちましたら、何か、ものすごく懐かしさが込み上げてきたのです。

 父の青春の街だったからでしょうか、遺伝子に組み込まれていたものが、何か込み上げて来た感じだったのです。自分にとっての青春の街は、東京の西の新宿なのに、数度しか行ったことのない浅草に、郷愁を感じてしまったようです。サトウハチローが作詞し、万城目正が作曲した「浅草の唄」があります。

つよいばかりが 男じゃないと
いつか教えて くれた人
どこのどなたか 知らないけれど
鳩といっしょに 唄ってた
ああ 浅草のその唄を

可愛いあの子と シネマを出れば
肩にささやく こぬか雨
かたい約束 かわして通る
田原町から 雷門
ああ 浅草のこぬか雨

池にうつるは 六区の灯り
忘れられない よいの灯よ
泣くな サックスよ 泣かすなギター
明日もあかるい 朝がくる
ああ 浅草のよい灯り

吹いた口笛 夜霧にとけて
ボクの浅草 夜が更ける
鳩も寝たかな 梢のかげで
月がみている よもぎ月
ああ 浅草のおぼろ月

 劇場や舞台、映画館や寄席などが多くあって、芸人たちが集まって、名を売るための下積み時代を過ごし、励んだ街だったのです。ハチローの世代には、この浅草は特別な街だったのでしょう。同じように浅草を舞台にした、1970年代に初頭に歌われた歌に、「唐獅子牡丹」がありました。昭和時代の初期の東京、浅草を舞台にした、博徒の生き様を描いた映画の主題歌に歌われたのです。その歌で、「エンコ(浅草公園の公園を逆読みたようです)」、「浅草(あさくさ)」、「六区(劇場が多く歓楽街でした)」などが歌い込まれていました。「東京行進曲」の3番には、「粋な浅草」が歌われ、「東京ラプソディー」の3番には、「ジャズの浅草」とありました。

 花の雲 鐘は上野か 浅草か

 江戸期に、芭蕉も、浅草の浅草寺でつく鐘の音を聞いたのでしょう。江戸勤番の侍や、商家のお手代や手伝いなどの働き場を求めてやって来た人たちも多く、江戸の闇に逃げ込んだ逃散者などもいたようです。百万都市の江戸には、さまざまな闇と華があって、躍動していたのです。梅雨の走りの週末の浅草は、それでも外国人が、とくに家族が多くおいででした。

 江戸市民、東京市民、東の栃木や福島などからやってきた人々に、夢を見させてくれた舞台のような街で、日本文化の中では東の東京の文化、日本文化の特別な発信基地だったのでしょう。そんな残滓(ざんし、残りかす)を感じさせる所に、外国人ばかりではなく、この私も魅力を感じてしまいました。タクシーで、予約してもらった浅草橋のホテルまでの道筋に、仲見世につながる雷門が見え、「どぜう(泥鰌を四字でなく三字で表現したようです)」で有名な古暖簾の飲食店の前を通りました。

 隅田川があるからでしょうか、道幅が狭く、家々が連なる風景も独特で、身近さを感じさせてくれました。隅田川の河岸には、遊覧船が繋留されていて、昔の狭い濁り水の流れではない、きれいな川が窺えました。伝統の街、気取らない庶民の街、母に食べさせたいと次男が買ってきてくれた「よもぎ餅」を作る店も、隅田の向こう岸にあります。昔が恋しいのは銀座ばかりではなく、ここ浅草もなのでしょう。若い父が闊歩している姿が思い描けそうでした。

 そのホテルに会いにきてくれた次男が、「たい焼き」を買ってきてくれたのです。家内と3人で食べたら、あんこはそんなに多くなかったのですが、甘すぎずに実に美味しかったのです。住んでいる街にも、長く親しまれてきているたい焼きがあるのですが、浅草のものは至極美味でした。あんこ好きの父の味、浅草の味だったからでしょうか。

(ウイキペディアの浅草猿若町の図、素材Libray.comのドジョウです)

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親族の絆の強さを感じて

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 精神科医であった土居健郎が、1971年に「甘えの構造」という本を書いて、ベストセラーになりました。日本人の心理的な本質に、「甘え」が存在するということで、もっと自分を知りたくて、この本を私も買い求めました。

 アメリカ人の宣教師さんと8年ほど、地方都市で過ごして、この方から聖書や教えを学んだのです。その8年は、この方にとって、この私は、すこぶる手を焼かせたに違いありません。きっと私の言動に、不可解さを覚えたに違いないのです。それでも忍耐されて、宣教と弟子の養成に励んでくださいました。

 街の中心に、ハンバーグ店があって、彼は、よくそこのテーブルに座って、幸せそうに、それを食べていたのです。その丸型パンに、薄切りトマトと玉ねぎとレタスを重ね、ドレッシングをかけたバンバーグのサンドイッチは、アメリカ人にとっての国民食であり、ふるさとの味であり、幼い日から食べ慣れたスナックだったのです。そっと家を抜け出して、食べている姿を、何度か見かけたのです。

 とくに身近に接している私は、不可解な相手だったに違いないのです。2年ごとにアメリカに帰られて、数ヶ月後に、日本に帰って来られると、肥っておられたではありませんか。その帰りの飛行機が羽田の上空に来ると、そして空港に降り立つと、なんとも言えない重圧感が感じられのだ、と彼が言われたことがありました。

 きっと、それは厄介で不可解な私との再会があったので、そんな重い気分になったのかも知れません。そればかりではなく、この方の家族が住んだのは、地方都市で、けっこう伝統的で山にめぐりを囲まれる、ややっこしい「しきたり」があったのです。とくに珍しい外国人には、表面的には親切なのですけど、複雑さがあったようです。

 ヤンキー・スピリットで押し通せると良かったのですが、繊細な心の持ち主でしたから、日本人に対して、その人間理解は大変だったと思うのです。今回、ハワイを訪ねて、1ヶ月ほど生活をしましたが、ダニエル・イノウエ国際空港に着いても、街中を通っても、空気の軽さを感じたのです。天気は良く、吹く風は心地よく、食べ物も美味しく感じたからです。

 ところが羽田に帰って来ましたら、スーツケスが一つ見当たらないではありませんか。JALの航空便手荷物係の方が、手持ちのタブレットで調べたり、スマホで連絡をとってくださったのですが、いっこうに不明のままでした。見つかり次第連絡を差し上げる、とのことで、出迎えてくれた息子とやっと会えたのです。けっきょく日曜日に宅配されてきて一件落着でした。

 便利さの中にも、人間のする行動や判断に限界があって、デジタル化やAI時代になっても、ストレスになることは増えこそすれど、減ることはなさそうです。人間が関わりますし、民族風習が違うといったえ難しさがあります。便利さが増しても、煩雑さや不可解さは残ることになります。で、空気が重く感じられてしまうのでしょうか。

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 「甘えの構造」は、日本人の精神構造の中にある独特で、根本的な点を指摘しています。人の悩みや孤独感の根底にあるのが、「甘え」なのだそうです。日本人には、特有な心理構造があって、それとは対照的な西洋人には、その心理の中に、常に「神」が必要とされる点と比較されて、著者は書き進めていたのでしょう。

 心理学には「自我境界」という言葉があるようです。自分と相手との間に、「境界線」があるからです。西洋社会では、この境界線を早期に確立し、自立した「個」として生きることが教育を通して学ばれてきています。しかし、日本人の心理の中には、「曖昧さ」が残るのです。相手への期待が大きくて、話さないでも分かっくれる、と言う思いが強いと言われます。行き過ぎた期待感があって、それが裏切られると、すぐに傷ついてしまうわけです。

 これが「甘え」なのでしょうか。だれもが思い当たることが多そうです。日本社会に起こる問題は、この辺のことが原因として多いのでしょう。期待過剰で、そうしてもらえないと、すぐに傷ついてしまって、だから人間不信に陥り、関係作りが下手なのではないでしょうか。一緒に、団体で行動したいのが私たちで、そうしてくれない者には、冷たく接してしまいます。

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 「絶対神」を持っている西欧人と、八百万の神の下にある日本人の精神行動との違いなのかも知れません。いつだったか、例のバンバーグ店で売っている、アップルパイを、その宣教師さんに預かって欲しいと頼まれたのです。冷蔵機が故障して、冷凍庫のパイが溶けてしまうので預かったのでしょう。ところが、それを勘違いして、頂いたと思って、私は食べてしまったのです。新しい大型の冷蔵庫が届いたのでしょう、パイを返してもらいに宣教師さんが来られたのです。

 「預けた」宣教師さんと、「頂いた」私と家族の思いの違いで、そんなチグハグさの一件が懐かしく思い出されます。相手への期待の違いが、そうしたことを生んだのでしょう。彼は苦笑いをして帰って行きました。そう言えば55年の結婚生活、子育て時代の年月は、家族間に、そんな期待感と裏切られる経験との連続だったのかも知れません。それでも相手を知り、赦せた年月だったのでしょうか。

 この土曜日にブラジルから、家内の兄の子、甥夫妻がやって来られ、芝公園のレストランで会食があって同席しました。そこに来ていたのは、家内の従兄弟、家内の兄嫁とその家族、私たち夫婦と二人の息子でした。美味しいご馳走と、話の盛り上がりで実に楽しい夕べでした。

 父(家内の兄)から聞いたブラジルへの移民の経緯、父の子育や3人の兄弟姉妹たちのこと。4才の時に横浜でブラジルに行く彼のお父さんを見送った父の従兄弟の思い出話。そのお父さんの弟の嫁と息子家族の話。そのお父さんの妹(家内です)の思い出話と家内が二人の娘を連れて、ブラジルを訪問した時の思い出話。15才で叔父を訪ねた長男の思い出話。幼かった次男は叔父の子とビジネスの話をしていました。大きなテーブルを囲んで、隣同士だけでなく、みんなが交わりに参加していました。

 そのやりとりをを聞きながら、日系移民の子としてブラジル人として育てられ、ビジネスに励む彼とヨーロッパ系の夫人とに、文化や精神性をこえた「親族の近さ(姻族の夫人も含めて)」を強く感じたのです。ブラジルで教育を受け、ブラジル人として60年間生きながら、日本人のmentalityを受け継いでいるのは、「血」なのでしょうか。内も外もない、垣根を越えた近さは、なんなのでしょうか。「甘え」が、素敵に作用しながら、良い関係を見せていたのでしょうか。どうも「甘え」は悪者ではない一面を持っているに違いありません。

(ウイキペディアの移民募集ポスター、甘い蜂蜜、ブラジルの位置図です)

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ハワイアン・モンク・シール🦭

 

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 ハワイの砂浜で、ハワイアン・モンク・シール(アザラシ)の母子が保護されていました。絶滅危惧種なのだそうで、ほとんどの観光客は、指定された距離から、様子をうかがっていて、注目を浴びていました。ところが、日本人観光客が、他の砂浜にいるシールに石を投げたとかで、ネットが張られたり、沿岸警備隊の係官が、巡視していました。

 

(”いらすとや“のアザラシ、滞在中撮影したシールです)

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真間の手児奈とエフタの娘

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 JRの錦糸町駅か御茶ノ水駅で乗り換えて、JR総武線が千葉県に入りますと市川駅があります。千葉県市川市の主要駅で、歴史に名高い「真間(まま)」と呼ばれ、万葉集にも詠まれた場所があります。律令制のもとに、下総国の国府が置かれた地なのです。どこの国府にも、その近くに国庁、それに添うように、国分寺や国分尼寺が置かれ、大和朝廷の威光を示したのです。これは高橋虫麻呂の詠んだ和歌です。

勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ

 この地に美女伝説が伝えられていて、「真間(まま)」と呼ばれた地に、絶世の美女だったのでしょう、「手児奈(てこな)」がいました。遠く奈良の地にも伝えられたほどの女性で、美人薄明なのでしょうか、若くして亡くなったと伝えられています。いつの時代も同じなのでしょうか、手児奈の家には、いつも会ってみたいと願う、若たちの「追っ掛け」が集まるほどだったそうです。

 最初の職場に、機関紙の編集をしていた方いて、その方が、この市川に住んでいました。自分が仰せつかった一欄に、原稿を書いて載せる務めをさせていただいて、原稿を持って、出掛けたのです。よく面倒を見てくださった方でした。この方の住まいの近所に、「手児奈の井戸」、「真間の井戸」があって、手児奈は水汲みに来ていたのです。その頃合いを見計らった若者たちが集まる、「真間小町」だったそうです。 

 海に近かったせいで、この地のどの井戸水も、塩気を含んでいました。ところが、ここの井戸だけが真水を湛えていたのです。満月のように輝く美女の登場の頃合いには、水汲みの女性だけではなく、息子に嫁にと望む親たちも、その中に混じっていたそうです。それで争いも絶えなかったのです。

 『どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。』と言って、手児奈は海に放って入水自殺をしてしまう、そんな伝説が伝えれていたのです。手児奈を哀れに思った人たちの手で葬られ、「真間の井戸」の近くに「霊堂」が建てられています。

 市川駅を電車に乗って通過すると、その話を思い出すのですが、どうも日本には、そう言った哀れな話が多そうです。実は聖書にも、一人の女性の悲しい話があって、思い出してしまいました。

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『エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに7出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」 すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」 そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」 エフタは、「行きなさい」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。 二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、 毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。(士師11章30~40節)』

 軽率な誓いをしてしまった父親の悲劇の物語です。エフタは、「遊女の子」(士師11:1)だ、と聖書は紹介しています。それで彼の民から軽蔑され、見捨てられます。なんとならず者たちと行動を共にするのです。そんな人も、軍の将として推挙され、士師に召されます。ギャングでも非行少年でも博徒でも、神さまの愛の対象です。要は《悔い改め》があれば、どんな背景であって、民の指導者に推挙されもしたのです。

 エフタには、結婚前の一人娘がいました。出陣する際、『敵に勝利して無事に帰って来た時には、最初に家から迎えに出た者を犠牲としてささげます!』とエフタは、神さまに誓いを立てしまいます。感情のコントロールは信仰者には不可欠です。エフタは、とてつもないダメージを負うのです。何としたことか、敵を退治し、家に帰った彼を、エフタの娘が、戸口から飛び出し、迎えたのです。

 神に立てた誓いは必ず果たさなければならない、それがイスラエルの掟でした。娘も、そのことは十分に承知していました。そこで彼女は、2か月間、友人たちと共に山で、嘆きの歌を歌った後、父の誓った通りに命をささげました。どんな間違いを犯して、取り返しがつかなく、愛する娘を亡くした悲しさで、生きなけれはなりません。エフタは6年間、神の民のイスラエルを、士師(指導者)」として導いたのです。

 手児奈は、自ら自分の命を断つのですが、エフタの娘は、父が神さまへの誓いを果たすことに、あがらうことも不満を示すことも無く、神の前に死んでいきます。イスラエルの社会、とくに古代イスラエルの女性たちは、毎年4日間、このエフタの娘の悲運を悼んで集うという伝統的な慣習を実行していくのです。

 一方、父親のエフタを、新約聖書では、次のように記すのです。

『これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。 女たちは、死んだ者をよみがえらせていただきました。またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。(ヘブル11章32~35節)』

とありますように、イスラエルの信仰者の列伝の中の一人として、あのダビデと並んで取り上げられているのです。軽率であったのは、私たちも同じことで、誓いを果たせない者であるのではないでしょうか。私には、エフタを裁くことはできません。辛い星のもとにあじわった、「男の悲しみ」が、よく分かるからです。でも人は、どんな境遇があっても、生きなければならないのです。いのちの付与者がおいでなのですから。

(ウイキペディアの市川市真間の浮世絵、エフタの娘です)

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白いまんまが

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 六月、旧暦の呼び名で、「水無月」となりました。もう田圃には稲の苗が植えられていて、水がはられて稲穂が風に揺らいでいるでしょうか。間もなく梅雨にも入るのに、どうして「水無月」なのでしょうか。この月は、「水月」とか「水張月」とも言われてきていて、「無」とは関係なさそうです。日本の農事や主食の中心に、この「お米」があります。

 子どもの頃、「風の小六」と言う歌が歌われて、ラジオでよく聴きました。その二番に次のような歌詞がありました。

白いまんまが食えよぞえ

 風の小六は、どんなに感謝して米を喰ったことでしょうか。日本人が「幸せ」を感じることができる、大きな一点は、「白米」を腹一杯喰うことでした。「八十八」回も手を加えて、育て上げる「米」が珍重され、年貢として上納されてきました。

 父が、『もっと、もっと喰え!』と言っては、私たち四人兄弟を育て上げてくれました。母は、ハンバーグステーキ、具沢山の堅焼きそば、ちらし寿司、すき焼き、秋刀魚などの焼き魚、しじみの味噌汁、つけた白菜や大根の漬物、煮しめ、おひたしを作っては、食べさせてくれました。

 ケーキや餡蜜や笹団子や薄皮饅頭やソフトクリームや佃煮などを、父が買ってきては、よく食べさせてくれました。正月餅の切れ端を切っては干して、それを油で揚げてくれましたし、カルメ焼きをザラメさとうを、お玉で七輪の上で煮溶かし重曹を加えて作ってくれたのです。非行防止策だったに違いありません。

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『あなたは小麦、大麦、そら豆、レンズ豆、あわ、裸麦を取り、それらを一つの器に入れ、それでパンを作り、あなたがわきを下にして横たわっている日数、すなわち、三百九十日間それを食べよ。(エゼキエル4章9節)』

 先月、娘の家を訪ねた時に、「エゼキエルパン」を買ってきて食べさせてくれました。神さまがエゼキエルに作って食べるようにと言われたレシピのパンです。美味しかったのです。添加物なしで健康食です。自家製で作れたらいいなと思案中です。好い月をお過ごしください。

(いらすとやの田植えと、秋の収穫です)

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ハワイ旅行の祝福を

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 ヨーロッパ戦線で、その英雄としての功績から、ホノルル国際空港は、「ダニエル・ケン・イノウエ国際空港」と、2017年4月27日に改名されたのです。長男が高校進学を考えていた時、ハワイのヒロで牧会をしていた牧師さんと、五月聖会で出会しました。『ボクが、息子さんお世話をしますので、おいでください。教会のメンバーに、高校の校長をしている兄弟がいるので、そこで学んだら大丈夫です!』 と言うことで、話が進んだのです。

 1990年の夏に、長男を連れて、当時はまだ改名以前で、その「ホノルル国際空港」に降り立ったのです。留学の書類が足りなくて、オフイスでは調整が行われ、小一時間の間に、入国許可が出て、ヒロ行きの便に、二人で搭乗したのです。空港には、車で迎えてくださっていて、市内の喫茶店で、その牧師さんと話し合った後、牧師さん宅にホームステイし、牧師さんが大好きで、ヒロでの開拓伝道について来られた方の家に、しばらくして移りました。牧師さんご家族にも、この方にも感謝して、私は日本に戻りました。

 新学期が始まって、ハワイ州の公立高校に、息子は通学を始めたのです。中学での英語の成績は良かったのですが、現地での英語はチンプンカンプンだったそうです。豊かではないのに、留学ができた感謝があったのでしょうか、頑張って学んで、お恥ずかしながらですが、けっこう良い 成績で卒業できたのです。次女も、同じようにお世話くださる牧師さんよって、その教会とホームステイ先の家で生活で生活させていただいたのです。


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 さらに長女も、次男もしばらく、オアフ島の語学学校に通ったのです。その頃は、その牧師さんはホノルルで牧会を始めていて、大学を終えた長男は、その教会の日本人スタッフでインターンをしながら、奉仕しながら学んで時を過ごしていました。親元を巣立って行く子どもたちの背中に向かって、主に委ねる祈りが、私たちにはできました。

 そんなことがあって、ハワイとは、教育と信仰の面で、素晴らしい関わりを経て、今に至っています。長女が、結婚後に、ここに住み始めたのです。歳を重ねている私たち二親を、何度も来るように誘ってくれていたのですが、やっと今回、その招きに応えて訪ねることができました。家には植木が多くあったので、それを枯らすことができず、旅行を躊躇していました。

 そうしましたら、隣家のラジオ体操仲間のご婦人が、花の世話をしてくださるとのことで、10鉢以上を庭に、胡蝶蘭3鉢は室内でお世話くださって、一ヶ月の予定で出掛けられたのです。川向こうのご夫妻は、家の無事を写真で送ってくれたりもして、その滞在を終えて、この28日の夜に、羽田に帰着し、送り迎えをしてくれた長男が出迎えてくれ、栃木の家に、車で帰って来れたのです。

 ところが、少々トラブルがあって、予約の搭乗機に乗れなくなかったのです。責任を感じた飛行会社の空港のカウンターで調整してくださって、2時間半遅れの便に搭乗できて、羽田に帰れたのです。ところがスーツケースの 前便から移し換えに不備があって、行方不明になってしまいました。けっきょく昨晩、JALの手荷物担当の方からの電話で、見つかったと電話があったのです。明日日曜日に宅配便で届けられる予定になって、ホッとしているところです。


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 行きは、次男が同行して、助けてくれて、全てお任せでしたが、帰りは、ハラハラ、ドキドキでした。隣国の教会での奉仕と学校の仕事の中で、家内が病んで、任地先から急遽帰国し、入院治療をしたのが2019年の正月でした。家族5人を連れて動き回った私でしたが、次女家族は西海岸から、長女の義母も『会いたい!』と西海岸からやって来てくれ、今回は子ども主導の旅をさせてもらいました。

 今回、8年ぶりの旅のプレゼントが、長女からあって、人生初めての「お任せ旅行」だったのです。4人の子持ちを笑われたこともあったりでしたが、今や4人の子どもたちの愛と優しさに、老親の私たち夫婦は、最高の旅をさせてもらって感謝ばかりの朝です。

 エジプトを脱出したイスラエルの民が、あの荒れ野の40年の旅を思い返して、予約便に搭乗できず、また手荷物不明トラブルのあった、今回の旅を思い返して、モーセの苦労を思い返しています。老いた私たちが、負うた子どもたちに、丸抱えで支えられて、今、栃木ににある不思議に驚かされている私たちです。昨夕は、お稲荷さんと副菜付きで、川向こう隣人で友人が夕食を届けてくださいました。良い友人と隣人に恵まれていて、きっと子どもたちは安心していることでしょう。今日は昼に、次男がやって来てくれます。

(ウイキペディアのイノウエ国際空港です)

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赤いマフラーとサーカスと平和

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 『歌は世に連れ世は歌に連れ!』と言われますが、作詞が吉川静夫、作曲が上原げんと、唄が津村謙の「流れの旅路」が、昭和23年(1948年)に発売されたレコードの歌謡曲で、「一世を風靡した」歌で、日本中が溢れていたのです。ラジオから、繰り返し、繰り返し流れてきたのです。「国民歌謡」は、特別な日本的な文化に違いありません。

1 紅いマフラーを いつまで振って
名残惜しむか あの娘(こ)の馬車は
はるかあの丘 あの山越えて
ゆくかはるばる 流れの旅路

2 旅の一座の 名も無い花形(スター)
ビラの写真の さみしい顔よ
はるかあの町 あの村すぎて
ゆくかはるばる 流れの旅路

3 紅いマフラーは 見るのもつらい
別れ惜しんだ あの娘がいとし
はるかあの空 あの星見ては
ゆくかはるばる 流れの旅路

 娯楽のなかった戦争後、馬車に、その後は木炭車に、一切の資材を積んで移動する集団がありました。日本中を巡り歩く、演劇集団やサーカスでした。白粉(おしろい)や「ドーラン(油性の練り白粉のことである。化粧品の一種として、主に演劇上演や映画撮影などでのメイク用途に使われていました)」の強い匂いがテントや小屋の中にあふれていました。そんな匂いの記憶が、さまざまにあります。

また、「サーカスの歌」をよく聞きました。作詞は西條八十 、作曲が古賀政男で、松平晃が歌っていました。

1 旅の燕(つばくら)淋しかないか
おれもさみしい サーカスぐらし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなりごしょ
鞭の振りよで 獅子さえなびくに
可愛あの娘は うす情け

3 あの娘住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
ながれながれる 浮藻の花は
明日も咲きましょ あの町で

 旅のサーカスや剣劇芝居を何度か見たことがあります。お祭りの行われた神社の境内に、簡易に芝居小屋が組み立てられて、暖簾をくぐって席に着くと、拍子木がキィーンキィーン、パーンパーンと打たれ、芝居が始まるのです。伊那の勘太郎月夜とか国定忠治などのシャンバラ芝居の演目が演じられていました。拍手が起こり、擬音が沸き起こり、必死な演技が舞台に上に見られたのです。
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 日本の移動演劇は、懐かしい文化の大切な一部分だったのでしょう。演歌歌手の藤圭子は、ご両親が浪曲の演者と三味線の曲師だったそうです。東北や北海道の町や村を巡ったのです。その一座の前座のとして、幼い頃から歌謡曲を歌っていたそうです。とても頭の良い子だったのですが、一週間とか一ヶ月ほどでしょうか、公演が終わると、隣街に移動していく旅芸人でしたから、落ち着いて勉強するいとまがなっかったようです。

 「流れの旅路」、「旅の一座」、「旅の燕(つばくら)」、「あの町」、「この村」と歌にあるように、ラジオから流れてくる、これらの歌を、子どもなのに、すっかり覚えて歌って、今になっても誦(そらん)じることができるのです。あの時に頬に感じた風、鼻で嗅いだ匂い、手で触れ、目で見たものの全てが、懐かしく甦ってまいります。

 何年前だったでしょうか、よく遊びに行って、お母さんにご馳走になった級友の家に泊まった時に、壁にお父上の写真がありました。軍服姿の凛々しい青年の姿でした。子を残して戦死しておいででした。お母さんが電電公社で働いて、彼を育て上げていました。お父上と一緒に旅芝居やサーカスを見ることもなかった戦後を生きてきて、彼は、やはり寂しそうでした。

 戦争のない80年は、私たちの父母や曽父母の世代の犠牲があっての平和な年月でした。お父さんの軍帽をかぶって別府の町裏を遊んでいたと言っていた級友もいました。もう曾孫を持つ年齢になっている我々世代ですが、戦争後の間もない時期の様子の懐かしさに、なぜもなく圧倒されてしまいます。

 そんなことがあって、もたらされた「平和」が、絵に描いた餅にならないで、「作り出す(マタイ6章9節)」ものと、主イエスさまは言われたので、私たちにかかっています。人と人の間に、国と国との間にあるのは感謝なのですが、現実には争いが絶えません。根本的には、「神との平和」なのでしょう。神との断絶にあった私たちのために、平和な橋渡しをされたのが、イエスさまであり、十字架です。神の御子の死によってもたらされたものは、永遠なのです。

(ウイキペディアの蓄音機、サーカースのテントです)

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血湧く大相撲の今日

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 今回、長女夫婦の招きでハワイを訪ねているのですが、これまでの生活が一変していることがあります。親の来訪で、歓迎の徴がたくさん見られるのですが、日本情報を知らせたいと、大型画面のテレビのプロジェクターを買ってくれたようです。

 YouTubeも見られるそうで、そのセッティング付きです。観たことのない映画やテレビ番組の案内があって、いくつかを観せてもらっています。そん中で、一番驚いているのは。「大相撲五月場所(国技館)」なのです。

 子どもの頃に、相撲巡業が、通っていた小学校の校庭でりました。二所一門がやって来て、設えた土俵上で、本物の相撲が行われていたのです。その頃、遊びと言えば、野球、相撲、その後にはプロレスで、選手や力士やレスラーは、みんな英雄(スター)でしたから、誰にも贔屓(ひいき)がいました。そのプロマイドが売っていたり、写真カードがアメの箱の中にあって、そのカードが欲しくて、あまり美味しくないアメを買っていました。

 それでメンコをしたり、飛ばし合ったり、手のひらで起こし合ったりのゲームもしたのです。その地方巡業の相撲には、琴ヶ浜、玉の海が来ていました。弟は、もっと覚えていて、三根山、松登、鏡里、大内山などに力士がいたそうです。もう何年も、二、三十年も相撲をとりませんし、テレビ放映も観ないままでいますから、最近の様子を知らない、浦島状態だったのです。

 長女は相撲フアンで、二所ノ関部屋の贔屓なのだそうで、今では、部屋の活動や取り組み内容と勝敗をフアンに知らせる、【二所ノ関部屋チャンネル】がアップされていて、部屋の様子をリポートしているのです。これまでは、新聞の取り組み表を見たり、ラジオの放送やニュースでしか知り得なかった情報を、知らせる広報であり宣伝流行りなのだそうです。

 古式豊かな相撲の世界が、時流にのって、大人気だそうです。プロ野球もサッカー(フットボール)も箱根駅伝も、今のような人気のない時代が続いていましたが、スター選手が出てきたのです。その注目度が上がって、よく言われた、「巨人 大鵬 卵焼き」で、野球は読売ジィアンツ、相撲は大鵬幸喜、食べ物人気は卵焼きは、日本の景気が急上昇して、「高度経済成長期(昭和40年代(1960年代)」の景況期に言われた時代がありました。

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 テレビの普及と放映で、男の大人の層から、子どもたちや女性層の人気が高くなったことが人気上昇の理由だったのでしょう。ラジオにかじり付いて、贔屓力士の取り組みを思いに描きながら、『やったー!』と叫んだ日がありました。『大向こうを唸らせる!』、贔屓力士の大一番で、得意技で勝った後の歓声が、国技館を満たした時代に、よく言われたのです。

 外国生活が長く、見る機会が少なかった私が、今場所、長女の家の大画面テレビで、映し出される映像に、女性客が多いのと、手持ちの贔屓力士の名を書いたフラッグが、取り組み前の仕切り時に、両手で広げて掲げているのに驚きました。サッカーの試合に見られるような、あのフラッグを小型化したものです。

 客席の雰囲気が、和やかで、女性客や子どもの黄色い声が上がって、実に様変わりなのです。取り組みも、『こんなに激しくていいのかなあ?』と思うほどに真剣です。まさに空前の相撲ブームに沸きかえる様子が映し出されていました。日本相撲協会の発表によると、2023年11月場所12日目から「満員札止め」が続いているそうです。チケット完売のことで、8割程度の入りで判断される「満員御礼」は、この夏場所5日目で連続300日を達成し継続中なのだそうで、大人気が観客数に現れています。

 緩慢な相撲がほとんど見られません。力一杯押したり、投げたり、飛んだりです。土俵際のせめぎ合いも、倒れ方の激しさに見られるように、ラグビーのタックル以上です。上手投げと言う豪快な技があるのですが、力一杯投げ、まるで力一杯飛んでいる取り組みもあるのです。それで、土俵下に、マットが敷かれるようになっているのだと、娘に聞きました。

 それででしょうか、怪我で休業する力士も多くいるようです。大怪我をしないような対策も必要に感じさせらました。手に汗を握らせ、興味を湧き上がらせるだけではなく、選手生命を長らえさせる策の必要性も感じます。双葉山、千代の山、栃錦、若乃花、大鵬、千代の富士などの圧倒的な強さを持った力士が、かつていましたが、今は、見られなくなったようにも感じます。相撲愛が再燃し、《焼けボックリに火》になってしまったのかも知れません。相撲が面白いのです。

(ウイキペディアの織田信長と相撲図、琴ヶ浜、今場所優勝した若隆景です)

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明治の日本に

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 明治維新は、日本の近代化への大きな節目だったに違いありません。大政奉還を決定をさざるを得ず、徳川の支配が終わって、遅れていた日本が、近代化していきます。その上で、欧米の技術や思想を、吸収していく必要を感じていました。

 1853年に、木造の帆船や手漕ぎ船しか持たない我が国に、蒸気機関を動力にした黒船が浦賀への来航したことが、日本中で知ることになりました。アメリカ政府の意向で、幕府への要求書を手にした海軍提督、ペリーの乗船していた鋼鉄船だったのです。日本の一大変化の起爆剤的な出来事でした。有史以来の突出した大きな出来事でした。

 江戸遊学中の河井継之助(長岡藩士)、坂本龍馬(土佐藩脱藩浪士)なども出向いて、黒船を目の当たりにしています。すでにイギリスが、アヘン戦争で、清国に勝利した知らせをうけます。そのアヘンの蔓延の悲惨さを目撃したのが、幕府の派遣で、清国上海を訪ねた長州藩の高杉晋作らからの報告でした。徳川幕府は、次は我が国に、と言った脅威を覚えたのです。

 アメリカは、アジア進出を企て、まず日本に開国を突きつけるために、このペリー総督を派遣して、それを迫ったのです。煙を吐く鉄製の軍艦の脅威は、当時の日本にとって尋常ではなかったわけで、十五代将軍の徳川慶喜は、大政奉還を決断し、薩長軍の動きに押し切られていきます。時流の動きには、どんな権力者も逆らえなかったのです。

 鎖を解く開国の要求は、霊的な意味でもなされていき、アメリカの長老派のキリスト教会は、宣教師を送り込む準備をしていました。清国の厦門に来ていたヘボンは、日本行きを決心して、一旦自国に戻り、1859年に日本に来ます。神奈川宿の成仏寺をあてがわれます。ヘボンは医療宣教師でしたので、そこに施療院を開き、多くの患者を受け入れて治療を開始します。

 その家の世話をする使用人が雇われるのですが、彼は使用人に扮した密偵でした。怪しい行動をとるなら、ヘボンを切り捨てる使命を負っていたのです。どんなに監察しても、ヘボンの生活には怪しい点を見つけられませんでした。それで暇乞いを願い出て、退去するのです。高潔な人格を認めたからでもありました。夫人も英語を教えていましたが、第220代内閣総理大臣となる高橋是清は、少年期に、その英語塾で学んでいます。ヘボン塾は、明治学院の前身です。

 明治の文明開化の時流の中で、昨日までは、仏教の宗門改人別帳に代表されるように、禁教であった「キリスト教」が、雪崩のように日本の社会の中に、進入して、多くの若者たちの心を掴んでいきました。孔子や老子や朱子(朱熹)の儒教の教えで育ってきた若者たちが、宣教師や外国人講師との接触の中で、聖書を読み、十字架の福音を信じ、生涯を、その信仰で全うした若者たちが、多く出ました。

 函館から密航を企てて外国船の乗り込み、そこにあった漢訳聖書の巻頭言『起起初神创造天地。』を読んで、『神がいるとしたら、このお方こそが神だ!』と思い始めた新島襄。キリスト信仰をみち、京都に同志社を創設しました。アメリカ人教頭のクラークと出会った札幌農学校の上級生たちに導かれた内村鑑三。村や街に祀られている神社の鳥居の前に来ると、拝礼を欠かさなかった人だったそうですが、官の道を閉ざされ、キリスト伝道の生涯を以後送るのです。

 内村の同窓で生涯の友となった新渡戸稲造。すぐに怒って喧嘩になり殴りかかる「アクティブ」と仇名された少年が、「モンク(修道士)」と呼ばれるほどの人に変えられます。漂流して外国船に救助されて、アメリカの社会の中で教育を受けた、元漁民のジョン万次郎。岩倉具視の使節団が渡米した折に、呼ばれて通詞として活躍したのです。

 同じように暴風雨で難船にあって、太平洋を漂流し、アメリカに漂着した、尾張国小野浦の水夫の音吉(美浜出身)、岩吉、久吉ら3人は、中国のマカオでギュツラフの助けをして、「カシコキモノゴザル」と福音書の翻訳に協力をします。聖書の翻訳者でした。オトソンと名乗ってシンガポールで亡くなります。

 横浜にやって来た医師ヘボンや宣教師のバラやブラウンに導かれ、明治学院の総理となった、会津武士の井深梶之助、第二十代総理大臣になる高橋是清などなど、明治期には、新しい精神性を培われた人たちがいました。信仰復興(リバイバル)をした時代でもあったのです。

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 女性たちの中にも、同志社を建て上げた新島襄夫人となる山本八重。会津藩鉄砲組頭の父の影響で、戊辰戦争で若松城に立て込もって、官軍に対して鉄砲を手に戦ったのです。女子教育を担った津田梅子、幕臣で新潟奉行として仕え、幕府の英語通詞となった津田仙の娘で、6才で選ばれてアメリカに官費留学をし、日本語を忘れてしまうほど、11年間、英語と聖書を学びます。帰国後は女子の意識向上や社会的進出を願って教育事業で、津田塾大学を興し、女子教育に生涯を捧げます。

 その桜井女学校附属看護婦養成所の一期生として学び、日本最初の看護婦となり、看護婦の養成に尽力した大関和(ちか)。黒羽藩の家老の娘として生まれ、領内を馬で疾走するほどの活発な娘だったそうで、縁あって結婚しますが、夫の不貞に三行半を投げつけて、二人の娘を親に預けて東京に出て学びます。植村正久牧師と出会ってクリスチャンとなるのです。1887年にバプテスマ(受洗)を受けます。『俺病む人に寄り添うことは、神の愛を人の世に示すことです。』という信仰が、和の看護の精神的な土台だったようです。

 大関和の同級生の鈴木雅。静岡の出身で、陸軍士官の夫と死別をして、二人の子どもを養育しながら、看護婦となります。「フェリス・セミナリー(今のフェリス女学院)」で学び、英語が堪能だったようで、キリスト信仰をもって生きた女性でした。

 廃娼運動をした八島楫子。結婚生活で苦しみ、酒乱の夫と離婚をへて、苦労して39歳で熊本から上京し、1878年に教員となります。『女性は職業を持って自立すべき!』と言う考えをもって生きます。千代田区一番町にある女子学院の初代院長に就任し、キリスト教婦人矯風会をも設立した人でもありました。

 さらに広瀬梅がいました。「女三界に家なし」と言われてきた女性が、福音に触れて、教育や医療の面で社会的な活躍をしたのは驚きです。これまで、就学前の肺炎での入院、中耳炎、インフルエンザ罹患、肋骨骨折、鍵盤断裂の縫合手術、鼓膜再生手術、ヘルニア手術、静脈瘤手術、脳梗塞、心房細動、半月板手術(予定)と言った病歴があります。医師や看護師の働き、によって、生きてこられたと言えます。そのことに感謝でいっぱいの私です。

(ウイキペディアの黒船来航、右から二人目が明治の女子留学生の津田梅子、右から二人目が大関和です)

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