四回目

 1年ほど前から、右足の付け根に違和感を感じていました。クシャミをすると軽い痛みが走るのです。『何かな?」と思っていましたが、3ヶ月ほど前から、そ の箇所がゴルフボール大にふくらんでいるのを発見したのです。昔、『ダッチョウ、ダッチョウ!』と、近所の子をからかっていた、その「鼠径ヘルニア」では ないかと疑ったのです。早速、昨年家内が入院しました、板橋中央総合病院のサイトにアクセスをして、調べましたら、やはり「脱腸」だったのです。友達をか らかって、はやし立てていたことが、自分に帰ってきたではありません。早速、外科の鼠径ヘルニアの専門医に問合わせのメールを送りましたら、その日に返信 がありました。帰国している間に入院、手術、術後の診察をしてくださるとの約束をとりつけて、1月6日に帰国しました。帰国しました翌日、病院で診察をし てもらったのです。家内の執刀医ではなかったのですが、若くて優秀との評価を受けていますK医師に診察をしてもらいました。『27日に入院、28日に手 術、そして29日退院ということでやりましょう!』と言ってくれました。

 先程、次男の家に帰ってきました。27日昼前に入院し、翌日の28日午前1115分から、ヘソとその両脇の3箇所に穴をあけて、内視鏡を使った手術をし ました。地下鉄三田線、山手線、東横線と、電車を乗り継いで帰宅しようと思ったのですが、いかんせん切り口に痛みが残っておりましたので、中山道の脇に 立って、タクシーを拾いました。その運転手さんとずっと話をしていましたら、代官山にあっという間に着いてしまいました。病気のこと、信念のこと、中国で の生活のこと、家内や子どもたちのこと、そして川口市長のこと、千利休のこと、ハワイ市民マラソンのこと、彼の家族のことなどで盛り上がってしまいまし た。『ボクは44歳で・・・』という人懐っこい方だったのです。『また、どこかで会いましょう!』、『お大事にしてください!』と,旧知の友のように、挨 拶を交わして車を降りました。客と運転手の間に、千利休の茶道で言われる「一期一会」があり、言葉と言葉の交流とは、実に不思議なものだなと思った次第で す。

 数えてみますと、四回目になりました。30代の終わりに左の腎臓を摘出し、50代に左足の静脈瘤除去手術、60代初めの右腱板断裂後の縫合手術の都合3回 の全身麻酔をしましたので、今回はそういうことになりました。『廣田さん、ひろ・・・・!』と言われて、目を覚ましたときに、激痛が走った最初全身麻酔 は、11時間以上の手術だったようです。術後、1年近く左半身が麻痺して、頭がボーッとしていたのです。今回は短時間でしたから、後遺症は全く有りませ ん。この30年間に麻酔法が変わったからかも知れませんね。『来年のことを言うと鬼が笑う!』と言われますが、次回は何時、どんな手術が待っているので しょうか、きっとあるのではないかなと思うのです。

 このように48時間、丸二日間での入院手術ですむというのは、医学・医術の長足の進歩なのでしょうか、ほんとうに驚かされてしまいます。それに見合うよう な、人間の心が、簡素化、即席さについていかないのではないかと感じてしまうのは私だけでしょうか。最初の手術の時に、義母が、

 「あなたの◯、◯であるわたしが、あなたの右の手を握り、『おそれるな。わたしがあなたを助ける。』と言ってるのだから」

と、メモ書きして渡してくれたのを思い出し、昨日の朝、読み直していました。その義母も、この三月で、百一歳になりますが、今は寝たきりで目をさますこと も稀になり、ほとんど会話もありませんが、義母の娘婿への深い愛を思い返していました。これも偶然ではなく、必然の「一期一会」なのでしょうか、多くの人 に励まされ、叱られ、そして勇気づけられてきた日々を,ただただ感謝して、ブログの原稿を書き込んでいます。同じ病室の方は、上の兄と同い年の工務店主の 大工さんで、彼とも会話が弾んでしまい、息子さんがあとを継がれて、父子三代の大工家族だと喜んでいました。痛かったのですが、いくつかの出会いに感謝し て。

 


 昨日は「大寒」でしたから、一昨日になるでしょうか、東京に初雪が降りました。久しぶりの日本の雪を、息子の家の窓から眺めていましたら、ひとつの歌を思い出したのです。それは山崎唯作詞・作曲の「白い想い出」でした。

雪が降ってきた ほんの少しだけど
の胸の中に 積りそうな雪だった
幸せをなくした 暗い心の中に
冷たくさびしい 白い手がしのびよる

雪が溶けてきた ほんの少しだけど
私の胸の中に 残りそうな雪だった
灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると 

灰色の雲が 私に教えてくれた
明るい陽ざしが すぐそこに来ていると
すぐそこに来ていると

 いつごろだったか調べてみましたら、大学に入学した1963年(昭和38年)に流行っていた歌だったのです。ちょっとおセンチな歌詞と悲しいメロディーですが、この歌を思い出してしまうのは、年を重ねてきた証拠なのでしょうか。太陽のように輝く青春の日々だったといいたいのですが、アルバイトに明け暮れていました。芝浦の埠頭や横浜で、手配師が、『お前・・・お前!』と、その日に必要な頭数を揃えていく中で、雇われて日雇いの「沖仲仕(港湾労務者)」もしていたでしょうか。荷揚用の小さな船に乗って、沖に停泊している貨物船に行き、船倉に降りての荷降ろしの仕事や、大型トラックの助手などをしていました。

 この歌詞にあるような、「暗い心」や「灰色の雲」ほどではなかったのですが、恋が実ったと思って喜んだら、壊れたり、何もかもが不調で試行錯誤の日々だったのではないでしょうか。昨晩、今朝の明け方といったほうがいいのでしょうか、夢をみました。「初夢」ではないのですが、ちょっと切なく甘酢っぱい思いに浸されたようです。時々ランチを作ってもってきてくれた同級生がいました。汗臭い男子校で6年過ごして、女心が分かっていない私は、お腹がいっぱいになっただけで、映画や喫茶店に誘うこともないし、手を握ることもないままだったのです。夢というのは、その頃の思い出だったのですが、目が覚めたら細かいことはぜんぶ忘れてしまいました。ずいぶんと年月が経ってしまったのですが、最近、ちょっと青臭い夢を、時々見るのです。何かし忘れたことがあって、悔いが残っているからなのでしょうか。そういえば、二度ともどることのない青春の日々は、やはり悔いが多く積まれているのかも知れません。

 同世代のみなさんやちょっと先輩の方々と、電車などで乗り合わせるのですが、惚れたり好いたりした過去があったのでしょうけど、そんなことは全くなかったような涼しい表情をしている様子をみるにつけ、手を握り合ったり、抱き合ったりしている若者の横を通り越しながら、人の目のあるところでは決してしなかった彼らは、『どう思てるのだろう?』と、自分のことはよそに、そんなことを考えている自分が、おかしくて仕方がありません。「时间过了很快」、これは『時間の経つのがとても早い!』という中国語ですが、自分の青春の時は、鳥が飛び立つように過ぎ去ってしまって、一切が過去形になってしまっているわけです。今は、山奥の小さな湖水の水面のように、心の思いが透徹して澄んでいる・・・・と思いたいのですが、何とまだまだ生臭いのには困ってしまいます。

 渋谷から東急東横線で一つ目、山手線の恵比寿から歩いてすぐの「代官山」は、都会の喧騒から距離があって、たたずまいが落ち着いているのには驚かされます。お洒落で気取っていて落ち着いているのは、信じられないほどの感じがしています。昨日は、横浜よりひと駅の中目黒まで行って、「ブックオフ」で本を探してみました。こういった過ごし方は、やはり日本の生活なのだと思ってしまいます。

 そういえば明日は、中国では「春節」、つまり旧暦(農暦)の正月元旦なのですから、今日は日本的に言うと「大晦日」になります。今晩の中国は、爆竹の破裂音と花火の打ち上げ音で街中が大騒音に満ちあふれることでしょうか。「春の到来」の喜びが、張り裂けるお祝いなのですね。中国、そして中国の親しいい友人たち、隣人のみんさんに取りまして、この新しい一年が、喜びのあふれる祝福の年であることを心から願っております。

『アッ、やっぱり日本だ!』


 昨晩、仕事のために一時帰国した娘と、次男と三人で新宿の街で落ちあって、食事をし、買い物をしました。この街は小学生の頃から、たまにやって来ては歩いていた街でしたし、ことのほか学生の頃には、友達とワイワイやっていた街の一つでもありました。ですから、熟知とまでは言いませんが、まあまあの新宿通だったかも知れません。私の職場の本部が市ヶ谷にありましたので、会議がはねると、決まって新宿で下車しては、西口の飲食街の一角でご馳走になったのです。あの時の上司も他界されたと聞いていますので、昨晩、その西口の様変わりした街を歩いて、思い出してしまいました。東京大学の法学部をでたエリートでしたが、官界には入らないで、私学教育界で活躍された方でした。長崎の壱岐の出身で、お酒の好きな人でもありました。会議録を書いて出しますと、『駄目!書き直し!』と言われて、なんども書き直させられました。そんな上司でしたが、生意気な私を、よく連れ歩いてくれ、奥多摩の山を一緒に歩いたこともありました。この新宿の街を、酔って歩いていたこの方の後ろ姿が見えるようでした。

 もうすっかりお酒をやめてしまている私ですが、昨晩は、酔客がそぞろ歩いている間を子供たちの後について歩いていました。新宿の西口には、父の会社の一つがあって、何度か連れていってもらったことがありました。まだ淀橋浄水場があり、工学院大学の校舎が見え、都電が走っていた頃ですから、都庁や住友ビルなどの高層建築物などはありませんでした。昨晩、9時過ぎの新宿西口の飲食街、最盛期に比べると人通りが少ない感じがしました。やはり景気低迷の影響があるのでしょうか。

 パソコンや携帯電話関係の製品を買いたいというので、ヨドバシカメラの店内に、ついて入りましたが、そこは若者で混雑していました。ものすごい種類と量が店内いっぱいに並べられていて、ここばかりは景気がよく、需要が多いのだと分かりました。いくつもの製品を手にとってみました。ほとんどが、 Made in China でした。その他の販売館にある製品を確かめて見ることはできませんでしたが、そこも同じなのでしょう。これほどのものが中国で作られて、日本中、いえ世界中に輸出されているといった、中国の工業生産力には、今更ながら驚かされた次第です。このヨドバシカメラには、中国などからの旅行客がやってきて、旺盛な購買力で買って帰られるれるようです、自国で生産した製品、もちろん、パナソニックとか sony とか toshiba などの日本メーカー品ですが、それを持ち帰るのです。パソコンや携帯などの先端のメディア製品は、若者にとっては必需品になっているのでしょうね。どのように使うのか、まったく見当のつかないような製品が店頭に並んでいて、見ているだけでめまいがしてくるほどでした。

 三人で食べた夕食は、とても美味しかったのです。一昨日も、長男と孫たちで回転寿司に行き、ご馳走になったのですが、昨晩も「焼き牛タン定食」を食べたあと、同じような回転寿司店に入りなおして、喰い改めたのです。お菓子の安売り店に入って物色した後、娘は会社が用意したホテルに帰り、次男と私は代官山の家へ帰りました。つい満腹以上に食べてしまった帰り道がきついかったのは勿論のことでした。時々、地震で揺れている日本の首都ですが、平和で、豊かで、雑踏の中にも、満員の電車の中にも、どこかすました様子があって、『アッ、やっぱり日本だ!』と思わされること仕切りでした。

(写真は、新宿西口午前0時の様子です)

若者風情


九ヶ月ぶりの日本は、豊かな感じがしましたが、それは表面的なことだけなのでしょうか。アメリカ経済の破綻、ギリシャの国家的経済の困窮、そのあおりで世界経済が減速していると聞いていました。さらに、昨年の大震災の影響と円高で、日本でも中小企業が生き残りをかけて、東南アジアに新天地を求めて、安い人件費、特恵待遇をえて工場疎開をしていると聞いています。そんな動きの中で、国内の求人が減少し、景気低迷しているのだとの情報を得ていましたから、ちょっと意外な感じを覚えたのです。成田空港からJRエクスプレスの電車に乗って新宿に出て、中央線に乗り換えて、母のいる街の駅で下車しました。私の周りにいる人の様子、着る物、持ち物、表情、動きなどには、落ち着きがあり、豊かさや満足さが見られたのです。息子は、『見せかけ!』と言ってます。

この狭い国土に、多くの人が生活しながら、これだけの経済の繁栄を経験し、それを持続しているのは、やはり「東洋の奇跡」に違いありません。終戦後の焼土とかした国土荒廃、敗戦経験による戸惑いと無気力さの中で、朝鮮戦争の「特需」が、日本の経済界に勢いをつけたことを、小学校の社会科の授業で学びました。また、城山三郎の「官僚たちの夏」によりますと、戦後の経済界を鼓舞激励したのが通産省の官僚たちであったようです。占領国の悲哀を克服するために、国家主導の産業界の再編成がなされたのです。世界に通用する「物作り」に励み、さらなる改良を積み上げてきたのが、私たちの父の世代で、それを受け継いだのが私たちの世代だったのでしょうか。頑なまでのこだわり、愚直な努力、世界を『アッツ!』と驚かせ続けさせてきた極上の物の生産と提供でした。そして、その動きが、今日にいたるまで続いていることに、驚かされるのは私だけではないと思うのです。

幾たびも奈落の底に落ちそうな瀬戸際に立たされながらも、這い上がろうとする遡及力を忘れないで、奮い立った先人から、こういった心意気を継承したのにちがいありません。しかし日本の物作りにしても、その発端は、朝鮮半島から渡来し、帰化した韓民族にあります。さらに、この韓民族に知恵や技術をもたらせ、精神・思想を教えたのが中華民族になります。この歴史の事実を忘れたら、日本人の独りよがりになってしまいます。「謙遜さ」を徳とする日本人は、これを忘れずに、励んできた結果、この特性を身につけることができたのに違いありません。そうやって築かれた繁栄は、前の世代からの遺産であって、今の世代が、この恩恵への感謝を忘れてしまうと、見せかけの繁栄も潰えてしまうのではないかと、ちょっと心配です。

今、帰国時の宿を次男の家に決めて、都会のど真ん中で過ごしています。昼ご飯時に、次男と一緒に出て、あちこちと歩いたのですが、お上りさんと思しき老若男女が、そぞろ歩いてるのと行き合いました。華の都の名所の一つなのでしょうか、訪ねてきたみなさんには購買力があって、好いものを求める高級志向は衰えているようには見えません。しかし、義母を尋ねた先週、地方都市の中心街の街並みは、年年歳歳、シャッターの降りている商店が増え続けているのです。『ここにあった店が、駐車場に変わってる!』というケースが多くなっておりました。かつての羽振り好さを感じることができないのは、とても寂しいものです。東京はともかく、地方に活力がなくなっているのを感じますから、日本はアンバランスになって、周りの海に落ち込んでいってしまうのではないかと、とても心配になってしまいました。

どこででもみかける顔立ちも服装も整った若者なのですが、海外志向から国内残留、冒険よりも保身、アパートに住みながらも似つかはしくない高級新車を手に入れたいと願うマイカー志向から何ランクも下がってちょっと格好の好い自転車志向に転じているのだそうです。堅実といえばそうですが、「危うさ」は若い人の特許だったのではないでしょうか。アジア人蔑視のヨーロッパに勇躍乗り込んで行った彼らの父や祖父の〈野望〉をなくしてしまっているのは、なんといっても寂しいものがあります。背伸びをすることなく、小ぢんまり纏まっている覇気の無さが、将来の日本にとっては、心配の種ではないでしょうか。「ゆとり教育」の教育効果は、シッカリと上がっているのですが、〈人間力〉が弱くなっているのが、極めて心配でなりません。九ヶ月ぶりの日本の現実に、戸惑う2012年の年の初めであります。

(写真は、代官山の街角風景です)

大将


 昨日、「親バカ」の次女からメールが来ました。小学校1年の息子の近況を、ジイジの私に知らせてきたのです。

『・・・毎日膝と服を泥だらけにして帰ってくる。どうも休み時間はお決まりの”フットボール”をしているようです。年上の子たちと一緒に走っているみたい。休み時間の先生と話をすると、校庭に3人ぐらいの大将(chief)がいて彼はその1人だそう。彼以外は2年生、3年生。この先生は思ったことをはっきり隠さないで言う人で、3人の性格を言っていたよ。
 彼はどんな大将かあててみて。
  1.ずる賢い大将(自分の良いように人を動かす)
  2.暴力大将(すぐ人をたたく)
  3.素直な大将(注意をされると二度としない)
ちょっと親ばかだけど、彼は〈3〉だそう。驚いたけど、彼はそんな子らしいよ。”本が書ける”ほどドラマがあるよう。子供の世界はシビアだからね。上手にできる子とできない子がいるんだよね。では彼のお弁当つくらなきゃ。じゃ、☆ちゃんによろしくね。・・・』

それで、私は、こんな返信をしました。

『・・・そう、3種類の「大将」がいるんだね。子供の世界を、そういった目でしっかり見ている先生がいるんだ。彼の大将ぶりは、そうだろうと思うよ。策略計略大将や強圧暴力強引大将でないんだね。公平で、みんなに好かれ支持される大将になってほしいね。ドラマを記録しておいて、教えてね。小学校の5~6年まで、クラスの番長だったけど、ある時、世代交代されて、没落したことがあったよ。三日天下だったけ、彼みたいな「好い大将」ではなかったからだね。今は、反省してるけどね。Sくんという同級生だけが、お父さんの味方になって、休み時間はいつもSくんと一緒で二人きりだった。◯◯◯の消防署に、お父さんが勤めていたけど、どうしてるかな。・・・彼のリーダーシップを、養い育てたいね。◯◯、頑張ってね。◯◯ちゃんは、そんな兄貴を見てるんだね。◯◯◯◯オジ(家内の長兄)も、番長だったようです。すごく正義感があったようです。彼らのお父さんとと◯◯◯◯オジに似たんだね。・・・』

 中学を出て、ハワイの高校に留学して、夏期休暇で親もとに帰ってくると、近所のスーパーのレジのアルバイトを、姉と一緒にするのを常にしていました。彼女の兄と弟も、そのスーパーで働いていましたが。高校を出ると、西海岸の大学に進学し、卒業後の1年を大学付属の幼稚園で働いて、帰国間近に、その街にあった学生宿舎で出会った一人の青年と結婚したのが、この次女です。ある時、『お宅は、どんな躾をしてるんですか!』と、電話が入りました。行動派で目立って、いつもみんなの真ん中にいた彼女を、目立たない子のお母さんに妬まれたのでしょうか、子育てまでも干渉されたことがありました。4人を育てさせてもらいましたから、ちょっとやそっとの非難で落胆することはありませんでした。家内と私は、好いところや自然性を大事にして育てようと決心していましたから。今、この次女には二人の子が与えられて、子育て真っ最中です。〈だれにも愛される子〉であるように、そんな子育てをして欲しいと、メールの返信をして思う今朝であります。どんなドラマがあるんだろうか?

(写真は、ライオンの母子です)

和の里の湯

                                     .

 昨年の暮れに、一つの買い物をしました。新聞配達をしている友人が紹介してくれたものです。田舎の道路際に、作業場兼展示場があって、店頭に並べて販売していた物です。前もって、『あったら紹介してくださいね!』とお願いしていたのです。しばらくたってから、『廣田さん、おそこで売っていました!』という知らせをしてくれたのです。それで自動車を持っている友人に乗せていってもらって、買いました。自動車の後ろのシートに積み込むことができて、家まで運んだのです。力仕事を禁じられていましたので、アパートの門衛をされている若い方と交渉して、15元(200円弱)で、5階の私たちの家に運んでもらったのです。そして、シャワールームに入れてセットしたのです。もう何かお分かりと思いますが、「風呂桶」です。木目があって、まさに日本で昔使っていた風呂桶と、ほとんど同じような形と感触です。 

 小学2年から20歳まで住んだ街の、私たちの家から甲州街道に下ってくる途中に、風呂桶屋さんが二軒あり、暖簾分けしたのでしょうか、同じ屋号でした。その作業や道具が面白くて、学校の帰りには、よく覗き込んだことがありました。独特な鉋(かんな)で、『シュッ、シュッ』と丸みを帯びて削ったり、その木を接着剤を使わないでつなぎとめる技術は圧巻でした。水をいれると、しっかりと膨張して、一滴の水も漏れることがないのです。乾いていても、タガが外れることがなかったから、驚くほどの技術だったのでしょうか。しかも木の材質が、「檜(ひのき)」でしたから、何とも言えない木の香がしていました。大人になって、有名な温泉場の浴場が、この檜で出来ていたことがあって、子ども頃を思い出されてとても懐かしかったのを思い出しました。買った風呂桶は、ニスが塗ってあり、木と木とは接着剤て合わせてあって、子どの頃に眺めた、桶屋さんのような緻密さはないのですが、大満足です。

 さて、風呂桶を入れたシャワールームを、実は「和の里の湯」と命名しました。というのは、このアパートに「和」の漢字が使われていること、家内と「和やかに暮らすこと」を願って、そう呼ぶことにしたのです。将来は、三保の松原から富士を仰ぐ絵を浴室の壁に描いてみたいなと思うのです。今晩、つまり元旦の晩も、この風呂桶に湯を張って、「伊香保温泉の素(入浴剤)」を入れて、「八木節」と、永六輔作詞、いずみたく作詞、デユーク・エイセスが歌った「いい湯だな」を、一声、二声うなりました。湯気は天井からポタリとは落ちませんでしたが、ひと時、中国にいるのを忘れて、群馬県の山奥にいるような錯覚を楽しんだのです。

 これまで中国での生活に何も不自由を感じなかったのですが、ただ一つ、『これに加えて、風呂に入れたら天国なのだがなあ!』という願いを消すことができなかったのです。その切なる願いが叶えられて、満満足な元旦を過ごすことができております。ある日本人の友人の家を、昨晩訪ねて、ごちそうになりましたが、彼の家には、「畳」の部屋があるのです。次は「畳」かなと、ちょっと日本情緒に恋心を感じている、2012年の年頭であります。風呂桶は日本円で6000円ほどでしたから、夢を叶えるにはずいぶんと投資がすくなくてすみましたのも、満足の一つであります。今、家内が、『極楽、極楽!』と言って出てきました。

(写真は、木曽さわらの風呂桶です。こんなには立派ではありませんが!)

笑顔で!

                                     .
 2012年の初めにあたり、心からのご挨拶を申し上げます。
 昨年の年頭には、誰もが明るい一年を願ったのですが、3月には、歴史にもまれな地震が列島の北、東北地方を大きく揺さぶり、甚大な被害をもたらしました。この地震に伴って発生しました津波が、美しいリアス式の三陸海岸を襲ってしまいました。また、この津波は、福島の海岸線にあった原子力発電所を襲って、壊滅的な照射線漏れを起こし、日本ばかりではなく、隣国にも世界中にも、不安と怖れを引き起こしてしまいました。結果論になるのですが、もし周到な備えがなされていたら、的確な初期処置がなされていたら、これほどの被害は起こらなかったのだと、どうしても思ってしまい、悔しさが湧くき上がってきます。それほどに危険だということを、しっかりと認識した上で、安全対策がこうじられていたら、これほど多くの人々の人生を狂わることはなかったのに、と大変悔やまれます。でも、これほどの困難に出会いながらも、願わなかった現実を受け入れて、その上にしっかりと立ち、生き方を変えていこうとしている、被災された多くのみなさんがいらっしゃって、その柔軟さに本当に励まされております
 
 この新しい年の元旦、六度目の正月を、ここ中国で迎えました。澄み切った青空が、なんとも言えない希望を胸の中に広げてくれるように感じております。しかし、晴れの日ばかりではなく、日本でも、どこの国でも、決して願わない何かが、今年も起こりうるのではないでしょうか。幸福も、そうでない不幸も、私たちは受けなければならないのでしたら、安易な考えは持つことはありませんが、起こりうる可能性をしっかりと認識しながら、どちらにでも対応できるように生きていきたい、そう思わされております。

 
 陸上競技でも野球でもサッカーでも、『走者が走るのは、、どうしたら良いのか?』という、〈スポーツの調査〉の結果を聞いたことがあります。〈笑顔〉で走るほうが、苦しい表情で走るよりも、速く走れるのだそうです。私たちの人生が、80年ほどだとしますと、そんなに早く走ることは要求されないのですが、人生の意味を満喫したり、有意義に生きたりするのは、やはりこの調査結果から学んで、〈笑顔〉で生きるのがいいということになりそうです。2012年、相形(そうぎょう)を崩して、微笑んだ顔、笑顔で生きていきたいと思っております。
 
 人生の困難に直面して、どうしても避けられない事態に直面したときに、そのただ中で、次のような思いで心を満たすのがいいのだそうです。『この事態が好転したら、この国土の美しい自然の中に出かけていって、その景色を満喫しよう!あの美味しかった◯◯を食べよう!愛する人や懐かしい人と会おう!』との思いを持つことなのだそうです。明日の危険におびえるよりも、明日に希望や夢や幻をつないで生きて行くほうが、はるかに素晴らしい生き方となるに違いありません。
 
 『生きていることを楽しみたい!』、今年はこんな標題を掲げてみたいと思っております。様々な出来事や人に出会うことでしょうから、その出来事を、その人を、心から笑顔で迎えて、楽しもうと思います。心が元気になる本を読んだり、話を聞いたりもしたいものです。
 良いお年をお過ごしください。また、どうぞよろしくお願いいたします。

(写真上は、荘厳なる大空、下は、岩手県岩泉町の秋の紅葉「美しい日本の風景」です)

静かに、そして激しく

                                      .

 今年の3月11日に発生しました、「東日本大震災」を思い返しております。被災され、ご家族を亡くされ、家屋も田畑も乗り物も、何もかも無くされたたみなさんのことが、まず第一に気になります。そんな突如として起こった自然災害の中で、世界中が注目した、あの「東北人の忍耐強さ」は圧巻でした。何もない、狭い国土に生まれた私たちですが、一朝ことが起きたときに、あのように振舞われたみなさんを、遠く中国の地から望みながら、「日本に生まれた幸せ」を、しっかりと覚えさせてくださったことに、心からお礼を申し上げ、心から感謝しております。しかし年の瀬を迎えて、ご不自由なことが、なおなお多いことかと思います。物の豊かさに代わる、「心の豊かさ」で、この災難を乗り越えて、新しい年に希望をつないで、越年されますように心から願っております。失ったものは甚大なのですが、残されたものの多さにも、目をおとめになられて、あらゆる面での復興が、迅速になされますようにと願っております。

 
 その復興のために、労を惜しまれず、命を賭してに、様々な分野で、お励みくださった、自衛官、警察官、消防署、公務員のみなさん、そして地元の消防団、被災者のみなさん、そのほかに他の地から駆けつけられたたボランテアのみなさん、本当にご苦労様でした。こういった一丸になって取り組む姿も、日本人の素晴らしい美点だということを改めて教えられました。また諸外国からの物心両面の援助や激励にも、大いに感動させられました。とくに生存者の捜索のために、駆けつけてくださった中国やアメリカなど諸外国からの救援隊のみなさんに、心からの感謝を覚えております。ありがとうございました。生きていることが、こんなに素晴らしいことであることも、悲しい出来事の中で学ばせていただいた大きなことでありました。かけがいのない国土が、いえ地球が、猛威を振るうこともありますが、そのようなさなかに、多くの愛が動くことを知って、「人」であることの素晴らしさも思わされております。多くの愛が、静かに、そして激しく動いた2011年でした。


 2012年が、起死回生の祝福の年となりますように、この大晦日の午後、衷心から祈り、切に願っております。「生きている幸せ」を、思い起こさせてくださって、一言お礼を申し上げます。ありがとうございました。

追伸;私の左手首には、『 Unite To  be ONE! がんばろうNIPPON 』のリストバンドが、いまだにはめられたままです。

(写真上は、中国の救援隊のみなさん、中は、自衛隊員のみなさん、下は、世界からの「祈り」です)

12月17日


 北朝鮮の公式な発表として、指導者・金正日が12月17日に死にました。その時に思い出したのは、1つの〈ブラック・ジョーク〉でした。

 1953年3月5日のことです。クレムリンに半旗が掲げられていました。何が起こったのでしょうか、それを見たある人が電話をかけて、その半旗掲揚の理由を聞いたのです。電話の向こう側から、『スターリンが死んだからです!』と答えが返ってきたのです。その意味が分からなかったのでしょうか、この人は何度も何度も電話をかけて問い直すのです。ついに電話を受け取った人が怒って、『なぜ、なんども同じことを聞いてくるのか?』と聞いたとき、その人は、『何度聞いても好い気持ちがするからです!』と答えたそうです。

 これは、ロシア版ですが、もし、北朝鮮版があるなら、抑圧されてきた国民や、拉致被害者や留守家族のみなさんは、平壌の人民政府の事務局に、『国中に半旗が掲げられているのはどうしてですか?』と、なんどもなんども電話を入れて聞きたいところでしょうか。

 この12月17日ですが、実は私の誕生日なのです。中部山岳の山奥で、村長さんの奥さんが、産婆役をかってくださって生まれたのだそうです。『早朝4時45分出生!』と、父のその年の手帳に記されてありました。この日を、かの北朝鮮では、〈生まれてはいけない日〉に決まったと、今朝のニュースが告げていました。つまり出生の届出をしていけない、笑うこともお酒を飲むことも不謹慎な日と定められるようです。私の生まれた「喜びの日」なのに、北朝鮮では「太陽が落ちた悲しみの日」として金正日を追慕するのだそうです。

 
 それで、ウィキペディアにあったブラック・ジョークをもう1つご紹介しましょう。『スターリンが死んだとき。フルシチョフら党幹部たちは、彼をどこに埋葬すればいいか悩んだという。なるべく遠くに葬りたかったのだ。でもどこの国も遺体の埋葬を引き受けようとはしなかった。困りきっていたところ、イスラエルから「建国に際し干渉しなかった恩があるので引き受けよう」との申し出があったが、フルシチョフはこれに対して丁重に断った。訳を聞かれると、フルシチョフはこう答えた。「だって彼の地では以前、一人復活しているじゃないか。」 』

 きっと体の中には、朝鮮民族の血が、滔々と流れているであろう私も、「そこに生まれなかった幸福」を感じながら、「北朝鮮に生まれた不幸」を感じているみなさんのことに思いを馳せながら、『どうして半旗が・・・』とピョンヤンに電話を入れたい衝動にかられております。言論統制の国だったら、こんなブログを書いたら、逮捕されて銃殺でしょうね。くわばら、くわばら!

(写真上は、国連旗の半旗掲揚、下は、結婚式に着る「韓服」で正装した新郎新婦です)

蚊難

                                      .
 今朝方、つまり真冬の12月の30日の明け方2時半のことです。左手の甲が痒くなって目を開けましたら、『ブーン!』と、聞き覚えのある音がしてきたではありませんか。ななんと蚊でした!昨日は暖かな日で、最低気温の予報が13度くらいでしたから、それで蚊が出没したのでしょうか。まあ、信じられないことで、想定外の「蚊難」でした。飛び起きて、夏の残りの痒み止めをすり込みました。かゆみはとれたのですが、眼が冴えてしまいまったのです。それで、読みかけの本を取り出して、ベッドの中で読み始めた次第です。

 だれも刺されなくとも、決まって蚊に刺されるのが私ですから、血か体質に問題があるのかも知れません。だいたい毎夏、蚊帳をつって寝ているのですが、ひとシーズンに5回ほどは、蚊帳の中で蚊に刺されてしまう私です。そうでなければ、蚊帳の外から、蚊帳に触れている手を刺されることもあります。5年目の華南の地での「蚊難」には、本当に参ってしまいます。来年は、〈体質改善〉をしなければいけないかなと思うのですが、根本的な対策などあるのでしょうか。特別に美味しい物を食べているわけではありませんから、食習慣との相関関係はないと思うのですが。

 夜明けにはまだ3時間程もありましたから、読書ができたことでよしとしたのです。しかし、来シーズンは強敵の蚊と停戦同盟を結ぶ必要も、真剣に考えている、2011年がもう一日の晦日であります。改めて美い年を迎えられますように!

(写真は、終の棲家にしたいと願っている岩手県・岩泉線「押角の森」(山岡 亮治氏撮影)です)