ため息ではなく感謝で

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 一昨日、shopping mall(ショッピングモール)に、訪問中の娘親子と、市の巡回バスに乗って出掛けたのです。歩き回るのが大変なほど大きく広い floor の店で、家内は車椅子を借りて、それを押したり乗ったりしたのでした。

 娘たちは一階の店にいて、家内と私は二階の店にエレベーターで上がったのです。買い回っていると、館内放送で、私の名前を呼んでいるではありませんか。小さな声のアナウンスでしたので、もしかしたら娘が呼んでいるのかと思って、一階の店に行ったのです。彼女は『呼んでないよ!』と言うではありませんか。

 何だろうと思って、ポケットとポシェットを調べると、物入れの財布がないのです。その中には、マイナンバーカード、クレジットカード、現金数万円が入っているので、大慌てしてしまいました。

 その一階の店の前で、買おうとした物の支払いを、娘に頼もうとして、ポケットに結んでいたフックを外して、財布を渡したと思っていたのです。ところが、手から落ちていたのに気付かないままでいたようです。

 よくニュースや YouTube  で、日本人が財布や持ち物を拾って届ける番組があります。ある時、外国人の観光客が、諦めていたのに、それでも、お父さんからもらった大事なものでだったので、警察に届け出たのです。『私の国ではあり得ない!』と驚いて、それを取り戻して、とても喜び驚いている番組がありました。小学生の女子が、『困っているだろう!』と思って届けたのだそうです。

 その番組の自分版に、年の暮れ、生き馬の目を抜くような人の多い雑踏のような大型店の中で、物入れをサーヴィスカウンターに届けてくださった方がいたのです。暗い午後を過ごさなければならなかったのに、感謝して、うどん店で、お昼をすることができたのです。

 勤勉さだけではなく、正直な日本人に驚いた、あの大森貝塚を発見したエドワード・モース(Edward Sylvester Morse)が、旅館に小銭を落としたのでも、試そうとしたのでもなく、部屋に残して、数日経って戻った時に、畳の上に置きっぱなしにしていたものが、そのまま残っていたそうです。あちこちと旅行し、騙されることの多かったモースが、日本人の道徳心に驚いたのです。貝塚発見以上に、日本人の正直さや明朗さを発信した、滞在記の「日本その日その日」の記事を読んだのを思い出したのです。

 シンガポールに旅行した時に、家内が具合悪くなって、救急車を要請して病院に搬送していただいたことがありました。上の娘が同乗してくれていたのです。診察と治療を受けて精算しようとしましたら、市立病院は、「請求額0」の医療経費を渡したのです。それには驚き、シンガポールへの感謝を覚えたことがありました。戻ってきた財布とは繋がらない出来事も、なぜか思い出したのです

 驚く体験が多くあっての今、世知辛く、物騒で、嘘や欺瞞が多く、人心が荒れているような日本の中で、こんな親切さと正直さに、捨てたものではない日本社会や日本人、そういった心情を育ててきた躾や教育に感謝をも、改めて感じたのです。今頃、ため息を吐き続けているのに、その届けていただいた物入れを持って、今日は、近くのスーパーに、感謝して買い物に出掛けました。

(“ Christian clip arts ” の「いなくなっていた一匹の羊」のイラストです)

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舞い落ちる枯葉

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君にはどうか思い出して欲しいんだ
ぼくらが恋人同士だった日のことを
あのころは毎日が美しく過ぎ
太陽の光も今より輝いていた

枯葉が風で吹きだまってたのを
ぼくは覚えているよ
枯葉が風に吹かれて舞ってた
思い出も そして後悔も

北風が吹きすさぶ
忘却の冷たい夜に
ぼくは忘れはしない
君の歌ったシャンソン

その歌は ぼくらを歌う
二人の愛の日々を
二人で暮らした日々
愛しあい 愛されあい

でもその愛を時が引き裂く
ゆるやかに 音もたてずに
砂浜についた足跡を
波が消してしまうように

 イヴ・モンタンが歌ったシャンソンの「枯葉」です。木枯らしが吹き、水が冷たく感じ、霜が降りて秋が深まり、冬になりましたが、この晩秋から冬の名物誌に、「落ち葉」があります。葉が枯れて落ちていくさまは、物悲しさを伝えてくれます。

 このアパートの玄関に、この枯葉が吹かれて入り込み、一塊になって、出入りの足に絡まって来ていました。しばらく寒さが続きましたが、この数日は暖かな日が続いていますが、また寒さがぶり返してくるようで、襟を立てて寒風の中に出て行くのでしょうか。

 『枯葉は地面に、裏を上にして落ちるのです!』とお聞きして、家内は、出先からの帰りに、紅葉の木の葉を確かめるように地面に落ちている枯葉を見ていたら、みごとに裏返って落ちていたのだそうです。すごい観察眼だなと感心してしまいました。

 その裏返った葉に水が溜まって、地の中で腐葉土に帰していくのです。それを吸収して木は成長し、枝を広げて葉をつけ、実のなる木でしたら、美味しい果実を実らせるのです。この自然のサイクルの不可思議さに、人に知恵を超えた、神の知恵と優しさが溢れています。

(イラストACによる「カエデの枯葉」です)

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 「面壁九年」、一つのことに忍耐強く、専念して、やり遂げることの譬えとして、このように言い表します。長い修行によって、一芸に秀でることですが、その反面、生まれながらに身につけた才能を持っていて、それほどの努力なしで一流になって活躍する人もいます。

 なかなか芽が出ないで、壁に向かって演説の練習をし、ボール撃ちをするテニス選手のなどがおいでですが、自分も、ラケットを引っ張り出して、運動公園の壁打ちをしたりしたのですが、寄る歳なみで、もう続かなくなってしまいました。

 iPadのキーボードに向かって、ブログ作成を始めて、だいぶ年が経ちます。自分の過去の思いや、まだある将来の夢や、叶えれれなかった願いや、出会った人や思想や出来事を、機械に向かって打ち込む作業も、何となく「壁打ち」に似ているように思うのです。

 冬場、炬燵に入って横になり、腕を組んで目を瞑り、寝ているのではなく、何かを思っていた父の姿が思い出されます。亡くなる少し前の父の姿です。父よりも二十年ほど多く生きて来て、自分を重ねながら父のことを思い出して考えています。

 親は、自分の果たせなかった夢や願いを、子に託すことが多くありそうです。長男の兄には大きな期待を向けていたのでしょう。次男の兄は実業界に早く送り出し、三男の私には好きなように生きさせてくれ、末っ子の弟には、教師になりたい希望を叶えようとしたのだと思います。四人四様に自立して、これからの活躍を目にしたかったのに、還暦過ぎの父は六十一で亡くなってしまいました。

 父の前に立ちはだかり、このお自分の前にもある「壁」、今のそれは無言の石やコンクリート作りではない、有言無言の「壁のようなもの」を感じるのです。生き終えた人が、直面していた「老い」や「死」の到来なのかも知れません。もうそれを払い切れない現実の中にあります。

 病んで、入院して、老いを見せている私たちを、心配して、息子や娘たちや孫たちが、訪ねて来ます。『一緒に暮らそ!』と、この暮れに、2週間の予定で、孫娘と一緒に訪ねてくれた娘が、一言言ってくれました。その気持ちが嬉しかったのです。海の向こうに住みながら、そんな気持ちを向けてくれたのです。

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 「進撃の巨人」だったら、高い強固の壁を打ち破って前進できるのでしょうけど、強がって生きて来て、父の老いを理解して上げられないまま、父が帰天してしまい、温泉にも連れていきたい、好きなきんつばを思いっきり食べさせて上げたかった思いだけが残っています。

 あの時、腕組みで目をつぶっていた父の思いが、何となく分かるような思いにされている「今」なのです。果たせなかった夢もあったのでしょう。辛い経験もあったことでしょう。育った家庭のこともあったのでしょう。両親や友人や同僚との出来事もあったのでしょう。青春の蹉跌や挫折、戦時下の苦悩、物不足の戦後のこと、子育てのことなどなどです。そして「老いていく自分」がいたのでしょう。

 二十代半ばの私が感じた、父が面壁していた「壁」が何だったのか、思ってしまうのは、自分も直面している「壁」があるからなのでしょう。あんなに盛んに咲き誇っていたベランダの花が、寒さの中で、徐々に咲き終わって、春の到来を待っているように、私には、「永世の望み」、「救いの完成」、「天国への帰還」、「救い主との直面」の時が迫っています。

 「壁」の向こうに、そんな素敵な「憧れ」の時が待っていてくれます。家内が呼んでくれた救急車に乗って、人生の終点を感じた先月、それでも退院後、初の温泉行きをした昨日、温泉に浸かって感じた温もりが、実に快適でした。家内はデーケアに行き、娘と孫娘を誘ったのです。一緒に昼食を摂り、談笑し、再び温泉に浸かりました。

 帰り道に、皇帝ダリアが綺麗に咲き誇っているのが見られました。孫娘が、珍しい景色に、スマホをかざして写真庫に収めていました。帰りにシジミと蓮根とを買って帰ったのです。雨も上がり、青空が広がって来ていました。

( ウイキペディアによる「皇帝ダリア」、「カレーうどん」です)

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メディカル・カフェ

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 この日曜日の午後、県都・宇都宮で、「メディカル・カフェ」があり、来訪中の次女と孫娘と私たちで参加したのです。この会は、順天堂大学の医学部の医師をしておいでの樋野興夫(ひのおきお)氏が、呼びかけて始まった、おもにガン患者を中心に、医療関係者とボランテアと家族の交流を目的としたもので、宇都宮では十周年を迎えています。

 樋野興夫氏の担当の「ガン哲学外来」の医療現場から、そもそも「ガン哲学外来」とは、どんなことを目的とした医療なのかについて、つぎのように述べられています。

 『多くの人は、自分自身または家族など身近な人ががんにかかったときに初めて死というものを意識し、それと同時に、自分がこれまでいかに生きてきたか、これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを真剣に考えます。一方、医療現場は患者の治療をすることに手いっぱいで、患者やその家族の精神的苦痛まで軽減させることはできないのが現状です。
 そういった医療現場と患者の間にある隙間を埋めるべく、「がん哲学外来」が生まれました。科学としてのがんを学びながら、がんに哲学的な思考を取り入れていくという立場です。そこで、隙間を埋めるために、病院や医療機関のみならず、集まりやすい場所で、立場を越えて集う交流の場をつくることから活動を始めました。
 2009年、この活動を全国へ展開をしていくことを目指し、樋野興夫を理事長に「特定非営利活動法人(NPO法人)がん哲学外来」を設立しました。2011年には、隙間を埋める活動を担う人材の育成と活動を推進するために「がん哲学外来市民学会」が市民によって設立されるとともに、「がん哲学外来コーディネーター」養成講座も始まりました。
 こうして、がん哲学外来が対話の場であるメディカルカフェという形で全国に広がり、現在ではメディアで取り上げられるほど注目されるようになりました。また、地域の有志による運営、病院での常設などのほか、さまざまな形で協力してくださる企業も増えてきました。
  これらの活動をしっかり支援し、がん患者が安心して参加できる場をもっと提供していこうと、NPO法人がん哲学外来を201373日「一般社団法人がん哲学外来」とし、一組織として強固な体制を整えていくことになりました。
  「がんであっても尊厳をもって人生を生き切ることのできる社会」の実現を目指し、より多くのがん患者が、垣根を越えた様々な方との対話により、「病気であっても、病人ではない」という、安心した人生を送れるように、私たちは寄り添っていきたいと思っています。』

 宇都宮でもたれている、この交流会について、医師をしておられ、ご自身もがんの闘病中で、会の責任をお持ちの方は、次ように語っておいですす。

 『がんの診断にたずさわる医師たちやがんを経験した人たちが「まちなか」へ出ることにしました。がんなどを患う方たちと話すために。がんなどを患う方たちの家族と話すために。白衣を脱いで、立場を超えて経験をふまえ、同じ立場でまちなかでみなさんと癒しの場をつくっていきたい。
 まちなかでコーヒー片手に、話しましょう。』

 家内の退院後に、以前教会に来ておられ、ご主人に転勤で東京近辺に在住の一人の姉妹が、この会の存在を教えてくれたのです。ネットで検索しましたら、宇都宮でも開催されていて、そこに集うようになったのです。

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 昨日の会には、実家に帰って来た次女と孫娘が、私たちに同行してくれ、一緒に家族として、この会に参加したのです。心うちのことを何でも話をし、一歩会場を後にしたら、語られ聞いたことは、会場に置き残して、それぞの生活の場に帰っていく、これを旨としていて、自由な語り合いが行われ、看護師や医師のみなさんに相談したり、苦しみを分かち合ったりするのです。

 互いに認め合い、励まし合い、話すこと、書くことに励んでいくような勧めもなされています。この会は、全国に展開していて、引っ込み思案の患者を外に誘って、話したり書いたりするような勧めまでしてくれています。「ことば」は、話されても、書かれても、keyboardで打たれても、大切な交流の resource なのでしょう。

 臨時参加の孫娘は、司会者に請われて、交流会の最後に「クリスマス会」が持たれ、「聖しこの夜」を英語で賛美していました。

(” Wikipedia “ による「宇都宮市」、「ベツレヘム」です)

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貧弱という門を通って

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 「私たちは、貧弱という門を通って神の国に入らなければならない。」

 「いと高き方のもとに(いのちのことば社刊)」にあった一節です。この本は、オズワルド・チェンバースの説教や聖書学校の講義で語られたものを、夫人が速記されていたものを編集して、刊行された黙想書です。「百万人の福音」誌に、湖浜馨牧師が翻訳され、19711972年に掲載されていたものを、1990年の秋に、いのちのことば社から、手を加えて刊行されたものです。

 名文、名翻訳文で、毎年毎年繰り返し繰り返し、家内と読み続けてきたのです。このような黙想書は、多く刊行されてきていて、内村鑑三の「一日一生」、スポルジョンの「朝ごとに」、榎本保郎の「旧約聖書一日一章」、金田福一の黙想書も素晴らしいものでしたが、私には、一番教えられ、迫られたのが、この書なのです。

 力強さとか、速さ、豊かさが求められる繁栄の時代、「貧弱」とか、「弱さ」とかは流行らないに違いありません。価値観の転倒だからでしょうか。この流行りこそが、価値観の転倒なのにです。

 救われるために、高慢で、言い訳ばかりする人は、創造者の前に、自らの弱さを曝け出さない限りは、神の国に入国できないというのは、その通りなのです。イエスさまは、「山上の説教」で、

 『心の貧しき者・・哀しむ者は福なり(明治元訳聖書 馬太伝545節)』とあります。それはただの貧しさというよりは、何も持たないほどの困窮状態を言っていて、また単なる悲しみよりも、悲嘆のどん底で感じる思いに違いありません。そこから「神の国」に入るのだと言っているのです。繁栄の教えの対極にある在り方でしょうか。

(“ウイキペディア”による十七世紀頃の「London bridge」です)

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渡り鳥の習性に


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 上海の外灘にある港と大阪南港を結ぶ海路の船旅を、何度もしたことがありました。大阪南港を出て、瀬戸内海を関門海峡を出て、玄界灘沖、対馬の北を経て東シナ海を、約二日間を費やしての船の旅は、悠々として、素敵な時でした。

 いつも思ったのは、遣唐使や遣隋使あの船客の思いに重なって、帆船から機関船に代わって、船旅の旅程時間は、とても短くな理、航海の危険性は少なくなったのですが、1500年の隔たりがあっても、船に乗る気分や思いは変わらないのではないかと思ったのです。

 逆の航路で、上海を出て、外洋の航路の船に乗りますと、カモメが追ってきて飛ぶ姿が見えていましたが、やがて、カモメに変わって飛魚が船とが並走して泳ぎ、飛ぶ姿が見られました。果てしない東シナ海を、ゆったりと進むのです。何度も乗ったのですが、ただ一度だけ、台風接近に中を、乗り出した船が、船頭と船尾を、縦に揺らす波に襲われたことがありました。船員さんも酔っていて、船に強い自分も酔わされたのです。そんな静まらない荒波も、やがて凪(な)いでくるのでした。

 港に帰れる所まで飛んできて、戻っていくカモメとは違って、エンジンもペロペラも持たないのに、ただ羽根の翼を駆って空を飛来する、長距離移動の「渡り鳥」には驚かされるのです。春のツバメやオオルリ、冬のオオハクチョウやマナヅルなどです。この写真にあるのが、中国大陸から冬季に飛来する「タゲリ」です。

 モンゴル周辺から飛んできて、関東以西で越冬するために飛来してきて、「田んぼの貴婦人」と呼ばれていますが、絶滅危惧種になっていうようです。広げた時に7284cmもある大きな丸い翼を持っていて、季節風に乗って飛来し、去っていくのです。フワリと飛ぶのが特徴だそうです。

 この街にも、飛ぶ鳥が見るように、上空から見る「鳥瞰図(ちょうかんず)」で描かれた図絵があります。時々掲出している、日光例幣使街道の栃木宿の街並みです。人は、鳥のように飛ぶことを夢見てきたからでしょうか。鳥のように、地の上を眺めて描くのを好んだのでしょう。

 でも、宇宙船から月に降り立った地球を眺めた、アームストロング宇宙飛行士が、『地球は青かった!』と語ったニュースを聞いて、緑色でも茶色でも灰色でもなく、「青」には、驚かされたのです。人類が見上げ続け、和歌や俳句や詩に表し続けてきた月の色だったわけです。

 そう言えば、『月がとって、青いから、遠回りして帰ろう』当たった歌謡曲がありましたが、月が青いように煮えたことはなかったのですが、地球は、きっと、青いんだろうなと納得がいったのです。

 このタゲリは、私が、宣教をしたいとの願いがあった、このモンゴルから飛んでくるのです。この渡り鳥の習性には、羨ましさも感じますが、その長距離飛行を遂げる力と飛翔の術には、驚かされるのです。餌を求め、避寒のために、どうして、それほどの距離を飛んで来て、飛んで帰るのでしょうか。天敵が少ない北で、子育てをすることを知っているからでもあるようです。ヘブル書には、信仰者たちを取り上げて、次のように記しています。

 『11:13彼等はみな信仰を懷きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、遙にこれを見て迎へ、地にては旅人また寓れる者なるを言ひあらはせり。(大正訳聖書ヘブル書)』

 イスラエル人の祖、アブラハムは、その生涯を天幕で過ごし、創造者のもとに帰っていきました。それはアブラハムだけではなく、すべての人は、旅人で寄留者なのです。この地上に国籍や市民権を置いていても、それは仮の登録であって、永遠の登録は、これから、約束に従って与えられる、いえ与えられているのです。

 彼に倣って、私も、ここまで旅人で、寄留の地で、借家住まいで過ごしてきました。

(ウイキペディアの「タギリ」の幼鳥の写真、聖句は新改訳聖書です)

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洗うのか研ぐのか

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 自分が、今や「時代錯誤の人」になってしまったのかと、つくづく感じてしまいました。今先日(29日)のラジオに、五十代前の大学の先生が出ておられて、『コメを洗って。』と言っていました。

 子ども頃、母に、『お米を研(と)いどいてね!』と言われて、研いだのに、今は、「洗う」でいいのですね。それには理由があります。昔は、精米技術が良くなかったので、米の糠(ぬか)が残っていて、米同士をぶっつけ合うようにして研ぎ合うようして、米を研いだのです。しかし最近では、精米機が改良されて、研がずに、「洗い」だけで良くなっているのだそうです。

 そのコメントに、『エッ!』と思ってしまった自分が、時代がずれてしまっているのを知って、今週訪ねてくる次女と孫とに、『お米を洗っといてね!』と言うことを、心で決めたのです。

 家内が、近所の女の子と話をしていたことがあり、それを聞いていたのです。『お母さん、妹さんのオシメを洗うので大変でしょう?』と言ったら、その子は、『ううん、オシメはすてるの!』と答えたのです。家内の子育て時代は、晒(さらし)で作ったおしめを使って、晴れても降っても、洗っては乾かし、乾かしては畳むを繰り返していたのに、家内は、使い捨てオシメの時代になっているのに気づかなかったわけです。

 この「時代錯誤」は、如何(いかん)ともし難い、世代間の溝のようなもので、世の中は変わり、物は新しく作られ、技術は長足の進歩を遂げ、主役は交代しているのです。紙の感触よりも、洗い続けた晒の布の感触とは、雲泥に違うのですが、手間よりも、時間を省くほうが、大切にされている時代なのでしょう。

 時代時代に使うことばも変わってきているのに気づかないのが、老いた証拠でしょうか。まさにことばは生きているのでしょう。今日は天気がとても良くて、どうするかと言いますと、若い頃は、外出したほうがいいと思ったのに、今では、洗濯日和だと思ってしまう、これが世代のギャップなのかも知れません。

 でも、です。「研ぐ」は、まだ〈生きていることば〉のようです。寿司屋や定食屋のお店では、正統な研ぎ方を伝授された方が、洗い場で、昔からの手順で、米研ぎがなされているようです。まだ時代に置き去りされないで、安心しました。
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されど薩摩芋

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 『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。  地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。 (新改訳聖書第三版・創世記11112節)』

 いよいよ師走、よく走らされたように思い起こしています。さて、お昼の定番は、今や「さつま芋」のわが家です。蒸しているのですが、焼き芋が一番美味しいのは分かっていますが、一番簡便な方法で食べているのです。

 このさつま芋は、甘藷、人参芋、砂糖藷、饅頭藷といった味を表現した呼び名、由来の唐芋の呼称もあります。このさつま芋は、「青木昆陽」に始まるのだと歴史の時間に学んだのですが、飢饉に強い植物と言われ、非常食として重用されてきています。江戸の中期、8代将軍の徳川吉宗の時代に、青木昆陽が「蕃藷考(ばんしょこう)」という研究書を著し、将軍に上書したことに始まります。

 享保の大飢饉(1732年)が、当時に日本を襲って、食物危機をもたらした教訓から、紀元前には、メキシコのアンデスで栽培されていたそうで、15世紀にヨーロッパに伝わり、やがて中国から琉球(沖縄)、沖縄から薩摩に伝わり、その昆陽の学問書を、伊奈忠逵が簡略化した「薩摩芋功能書并作り様の伝」として刊行されて、まず将軍のお膝元の関八州に、種芋とともに配布されます。ところが収穫に至らなかったのだそうです。

 その状況下で、さつま芋の栽培が成功していく様子を、「上毛新聞(前橋市古市町1-50-21)」が、次のように伝えています。

 『上州只上(ただかり)村(現在の太田市)の名主も、伊奈忠逵から試験栽培の任を受けた一人だった。板橋定四郎は和算家でもあったが農学研究にも熱心で、丹念に栽培記録を取ってい失敗を重ね、試行錯誤を続ける中で彼はあることに気が付く。

 それが、肥沃な土よりもやせた土地の方が良く、むしろ肥料を与えない方が良質な芋がたくさんとれるという事実だった。要は蔓(つる)ぼけという、栄養の与えすぎで蔓や葉が茂りすぎて、土中の芋がちっとも大きくならない現象を見つけたのだ。これは当時の常識を覆す発見で、青木昆陽よりも早く、具体的で実践的な研究成果だった。

 かくして関東最初のさつまいも栽培の成功は、上州只上村の板橋定四郎によってもたらされた。この由緒にちなんで、太田菓子工業組合発の太田銘菓「定四郎ポテト」が販売されている。おいしいスイートポテトで、さらに地域の歴史も味わえる。』

 この只上村は、渡良瀬川の南岸に位置し、川を隔てた栃木県足利市に隣接しています。あの有名な岩宿遺跡(旧石器時代だとされる遺跡)も近くにあって、なじみ深い地なのです。この村で栽培、収穫に成功したさつま芋は、またたく間に全国に広まり、飢饉の時の非常食、とくに農民の主食にまでなっていったようです。今では、この地で作られる「種芋」が、全国に出荷されているそうです。令和の我が家でも、準主食になっています。

 土地が肥沃な地には、それに見合った作物が生産され、そうでない地にも、違った種類の作物が育つと言うのは、やはり創造主の神さまのご配慮なのでしょうか。板垣定四郎のように、人は知恵を得て、栽培に工夫をしていったのです。

(Illust AC からのイラストです)

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朔風払葉

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 この季節を歌った、季節歌と言っていいでしょうか、「たきび(作詞が巽〈たつみ〉 聖歌、作曲が渡辺 茂)」があります。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

そうだんしながら あるいてる

 作詞者の巽聖歌は、岩手県の人で、お父さんは鍛冶屋で、この人も小学校を終えると家業に従ったのです。童謡に惹かれ、北原白秋に師事した童謡作家でした。20歳の時に洗礼を受けたクリスチャンで、讃美歌も作詞していて、東京都下の日野市で病没しています。

 今頃を、「七十二候」の「朔風払葉(さくふうはをはらう)」と言うのだそうです。二十四節気の「小寒」を、三分した季節の移り変わりを、そう日本では呼んできたのです。この時季は、北風が木の葉を吹き払う頃で、この「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさします。

 人に会った時に、話題にしたりはしないことばなのですが、日本人の感性の細やかさに驚かされることばなのです。家の近くの「うずま公園」も、落ち葉の吹き溜まりができていて、落ち葉焚きができそうですが、今では、ゴミ袋に入れて、回収されてしまうのは、趣がありません。

 山の中で、落ち葉を集めて、濡れ新聞に持参のサツマイモを巻いて、落葉焚の中で、焼き芋をして、教会学校の子どもたちと美味しく食べた日がありました。風のないのを確かめたり、ちゃんとバケツに水を汲んで、防火の用意を怠りなくしたのです。スーパーの電気焼き芋機では味わえない、美味と郷愁の味でした。

 今朝も、陽が射してきて、外気は冷たいのですが、窓際は小春日和の暖がとれそうです。

(散歩道の菊の花です)

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皇帝ダリアと栄光の王

 

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 この花は、近所の方からいただいた「皇帝ダリア」です。去年もいただいたのですが、木のように高いところに咲いていて、それを手折ってくださったのです。高いところに立って、国民の生活ぶりをつぶさにながめて、善政を行う真の指導者を思わせるような花なのです。

 お城の高楼に登っては、四方を眺めるお殿さまがいて、民は安心して暮らせるのです。この下野国には、小藩がいくつもあったようで、ここ栃木にも、中世には皆川城があったそうです。皆川氏の居城でしたが、今では城址跡になっています。どんなお殿さまだったのでしょうか。

 『7門よなんぢらの首をあげよ とこしへの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん 24:8えいくわうの王はたれなるか ちからをもちたまふ猛きヱホバなり 戰闘にたけきヱホバなり 24:9門よなんぢらの首をあげよ とこしへの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん 24:10この榮光の王はたれなるか 萬軍のヱホバ是ぞえいくわうの王なるセラ(文語訳聖書 詩篇24710節)』

 私にも王がいます。「栄光の王」、「万軍の主」と言われる神で、人の子の姿をとって来てくださったイエスさまなのです。十字架に死なれ、蘇られて、今も、いと高き天から見下ろして、見守り続けてくださっておいでです。

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