老いるということ

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 『まことに誠になんぢに告ぐ、なんぢ若かりし時は自ら帶して欲する處を歩めり、されど老いては手を伸べて他の人に帶せられ、汝の欲せぬ處に連れゆかれん』(大正訳聖書 ヨハネ2118節)」

 こんな有名な詩が、語り伝えられています。

私を見てちょうだい
あんたがたに見える私は、
ただの不機嫌な顔をしたボケ老人でしょうね。
ぼんやりとうつろな目をして、
次に何をしたらいいかも分からない老人でしょうね。
ボロボロこぼしながら食べ物を口に運び、
「ちゃんと食べて」と大声で言われても、返事もしない老人でしょうね。
看護婦さんのしてくれることには、知らん顔をして、
年がら年中、靴や靴下の片方を探している老人でしょうね。
お風呂や食事を嫌がってみても、どうせ他にすることもないからって、
結局は言いなりになる老人でしょうね。
どう、このとおりでしょう?
これが、あんたがたに見える私でしょう?

さあ、看護婦さん、
よーく、目を開けて私を見てちょうだい。
ここでじっと座って、命令されるままに動き、言われるままに食べる私が
本当はどういう人間なのか教えてあげるから。
私はね、10歳の時には、両親や兄弟の愛に囲まれた子どもだった。
娘盛りの16には、愛する人に巡り合う日を夢見る乙女だった。
20
歳で花嫁になり、心弾ませて「この人に一生を捧げます」と誓ったのよ。
25
には母親となって、子どもたちのために安らぐ家庭を築こうとした。

もう私は年老いてしまった。
年の流れは、情け容赦なく年寄りをおろかに見せ、身体をぼろぼろにし、
美しさも生気もどこかに追いやってしまう。
そしてかつての柔らかな心は、石のように閉ざされてしまった。
でも、この朽ちかけた肉体の奥には、若い娘がいまだに棲んでいるの。
この苦しみに満ちた胸は、今一度過ぎ去った日々を思い出しては、
喜びに弾み、悲しみにふさぐ。
こうして人生を慈しみながら、もう一度生きなおしているの。
駆け足で通りすぎていった、あっと言う間の年月を思うと、
人生のはかなさをつくづく思い知らされる。

そうなの、だから看護婦さん、よーく、目を開けて私を見てちょうだい。
ここにいるのは、ただの不機嫌なボケ老人じゃない。
もっと近くによって私を見てちょうだい。

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  この驚くべき詩は、著者不明なのです。スコットランドのある老人病棟から見つかったもので、言い得て余りあるほどの「老い」たご自分の現実を詠んだものです。そんなこと言いたい気持ちが、なんとなく分かる年齢になったかも知れません。

 老いてしまった自分の過去を知ってもらいたくて、若かった頃の自分にも輝いた季節があったことを、人は知って欲しいのです。そんなこの方とは違って、ユダ族に族長であったカレブは、次にように告白しているのです。

 『14:10 ヱホバこの言をモーセに語りたまひし時より已來イスラエルが荒野に歩みたる此四十五年の間かく其のたまひし如く我を生存らへさせたまへり視よ我は今日すでに八十五歳なるが

14:11 今日もなほモーセの我を遣はしたりし日のごとく健剛なり我が今の力はかの時の力のごとくにして出入し戰闘をなすに堪ふ

14:12 然ば彼日ヱホバの語りたまひし此山を我に與へよ汝も彼日聞たる如く彼處にはアナキ人をりその邑々は大にして堅固なり然ながらヱホバわれとともに在して我つひにヱホバの宣ひしごとく彼らを逐はらふことを得んと

14:13 ヨシユア、ヱフンネの子カレブを祝しヘブロンをこれに與へて產業となさしむ (文語訳聖書 ヨシュア記141013節)』

 この両者の言うことは、それぞれに嘘偽りのない主張です。老い衰えて、生きる気迫が失せて、過去に思いを向けるか、85歳になって今もなお、戦いに立てる自信を告白するか、それにしてもみんな老いるんですね。過去の栄光に立たなくとも、今をアリのままで生きたいたいものだと思わされます。

 あの人にも、恋をしていた時期がああって、ほとばしるような青春の血を躍動させて、何キロ走っても疲れなかった時があった、それでいいのでしょう。行く道だけがあって、わたしたちは来た道には戻れないのですから。

(英語版uikipediaCaleb Return of the Spies, 1860 woodcut by Julius Schnorr von Karolsfeld

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文化遺産でしょうか

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 地形的にも、気象上でも、多くの困難を経験してきた太古から、この日本列島に住み続けてきた私たちは、独特な民族の気質を養い育ててきたと言われています。大地を揺らす地震、夏から秋の台風襲来、日照りや寒冷、疫病の発生、飢饉など、さまざまな災害を経験してきたからでしょうか、そんな困難な中で、「笑う」ことを身につけてきたのです。

 もちろん悲嘆にくれてしまうこともありますし、絶望することもありました。一昨日も、能登半島に大きな地震が見舞い、甚大な被害をもたらしています。そんな経験の中で、パニックに襲われて暴動が起こるわけでも、食料品スーパーが襲われることもなく、みなさんが、その事態に冷静に立ち向かっておいでなのです。

 そんな地震と津波とに被災して、家が壊れても、諦め悔やむだけでなく、事実を容易に理解して、立ち直る次の一歩に目を向けていかれています。『大好きな街の復興のために助けとなりたい!』と、ある被災した高校生が言っていました。これこそ神が与えられた、日本人の賜物に違いありません。

 神を呪うのでも、為政者を責めるのでもなく、現実を認められるから、笑えるのでしょうか。泣く以上に、笑うことこそが、逆境を跳ね返していける原動力になってきたのが、日本人の独特な「笑い」なのでしょう。

 もうアップできませんが、明治期に外国人が撮影した写真の中で、小さな子どもから大人までが、その笑いをしている写真を見たことがありました。みなさんが同じような笑い顔なのです。ヘラヘラ笑い、お愛想笑い、追随笑い、はにかみ、どう表現したらいいのか、「あの笑い」なのです。一人が、そう笑うと、連鎖して、一人一人が笑いの輪を作って、広げていくののです。


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 その笑いが、次の瞬間を、次の時を、次の日を生かす力となって、この国を動かして、人々が生きてきたのです。厳粛な事態でも、この種の笑いを忘れなかった人たちの国、これが日本なのでしょう。

 欧米人には見られない、環境の厳しい仕打ちを跳ね除けてしまう「笑い」なのです。なかなか理解されない日本人の笑いこそ、まさに文化遺産に違いありません。被災した後、すぐに立ち上がって、シャベルや土起こしを持って、復興作業に取り掛かる力を、彼らは残してるのです。

 隣の村や国に、故郷を捨てて移り住むことをしないで、神に定められた地に、しがみついて生き続けて来た過去があります。今朝の能登の地を、創造主の神さまが顧みてくださるように祈るのみです。

(ウイキペディアによる「無邪気な子供の笑い顔」、今回震度7の地震に見舞われた「志賀町」の風景です)

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ある伝道者の切なる願い

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 『私は、平壌の運動競技場を会場にして、民族福音化のための大集会を開きたいのです!』と、一人の韓国人の伝道者が、熱烈に語っておられました。もう40年ほど前になるでしょうか、スウェーデン系の宣教師さんの家で、ご一緒に夕食をご馳走になっていたテーブルででした。

 この平壌は、その韓国人伝道者の故郷だったのです。南北戦争で、朝鮮半島が分断されると言った韓民族の悲劇を被って、故郷回帰の思い、同郷人の救いのための大会の開催の願いを、そう熱く話されたのです。平壌の冬は極度に寒いのだそうです、幼少期を過ごした地は、どんなに寒くても、この方にとっては懐かしく、親族のいる地なのです。世界中の多くの街で、福音宣教をし続けてこられて、『いつか故郷の平壌で!』と思い続けておられたのです。

 しかし、そんな願いを果たせずに、その韓国人伝道者は、2006年に召されてしまいました。故郷平壌は、ますます世界から孤立していき、寂れていくのに、宇宙開発は、驚くほどの勢いをもって、強引に進んで行っています。

 『國の利益は全く是にあり 即ち王者が農事に勤むるにあるなり(文語訳聖書 伝道者59節)』

 王たる者、一国を導く責任を負う者は、国民が、まず食べられるために、農事(農業)に精出すことを言っています。食べられない国民が、大陸間弾道弾など、実はどうでもいいことなのです。国民のお腹がくちくならずして、国政などまず何の意味もないからです。ゲーム機器遊びを王がしている国など、立ち行くはずがありません。

 そうなったのは、内戦の影響ではなく、一人の我儘放題に育てられた後継者の自己満足、遊びなのです。こんな悲劇があるとは驚き至極です。一つの民族の分断は、ドイツが東西に、ヴェトナムも南北に分断された歴史がありました。日本でさえ、南北分断の提案が、日本の戦後処理でなされたのですが、台湾の蒋介石夫人の宋美齢女史の執り成しがあって回避された経緯がありました。

 飢えている実情が、もう何年も何年も前から伝えられていますが、満ち足りるほど食べている人には、飢えている同胞の苦しみなど分かろうはずがないのです。さらに信仰上の迫害があります。存在するモデル教会は、形式だけの宣伝用の教会ですが、そんな中でも、信仰を持つ人がいるのです。政府高官子弟の中に、もいるようです。現在、 2040万人ほどのクリスチャンがいるとされています。みなさんは激しい迫害と困難の中にあるのです。

 『3:12凡そキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過さんと欲する者は迫害を受くべし。  3:12凡そキリスト・イエスに在りて敬虔をもて一生を過さんと欲する者は迫害を受くべし。(大正訳聖書 2テモテ書)』

 隣国に、そう言った信仰上の困難があることを、覚えながら、祈りをしていく必要が、私たちの国のクリスチャンにはあります。信仰による困苦や失うこと、さらには死でさえも恐れずに、信じ続けるクリスチャンたちがいるのです。この自由と繁栄の日本の中にも、同じく信仰上の別の面での困難がみられます。主のおいでが近いのかも知れません。

 あの熱漢の伝道師の願いは、どなたかが代わって、平壌の競技場に溢れるほどの観衆、求道者を集め、そのみなさんに向かって、贖罪の福音が語られる日がくるのを信じて、祈っていきたいものです。主に忠実さに信頼して参りましょう。

(ウイキペディアによる「平壌球技場」です)

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会話を楽しむ

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 押し迫った昨年の暮れ、『今日は、せめてお餅ぐらいは!』と決心して、幸来橋の袂のバス停から、ふれあいバスに乗って、「にしかた道の駅」に、買い出しに出かけたのです。小型バスにたった一人の乗車でした。バスに乗り込みましたら、『久し振りですね!』と、運転手さんが声をかけてこられました。何度も利用の顔馴染みの方だったのです。

 途中、東武日光線の家中駅から、出張の会社員が二人乗り込んできて、大きな工場で下車して行き、また乗客一人だけになって、運転手さんと運転歴のエピソードなどの話をして、道の駅で、『ありがとうございました!』と感謝して下車したのです。

 いつも、ここに行く時には、新鮮な野菜、切り餅、梅干し、椎茸などを、おもに買ってくるのですが、「のし餅」があって、それを一枚買ったのです。それに干し柿、スティック・ブロッコリー、ほうれん草、梅干し、宮ねぎ(ここでは下仁田葱をそう呼んでいるのです)などを買いました。

 いつも帰りは、イオン止まりの便に乗って、そこから家まで歩くのですが、今回は、東武金崎駅から電車に乗ったのです。駅のホームに親子連れが一組いました。ホームを歩いていたら、『おじちゃん、黄色い線から出ちゃあダメだよ。危ないよ!』と注意されたのです。とっさに、『アッ、そうだねいけないね。ごめんごめん、ありがとう!』と返事をしたら、彼はホッとしていました。

 お父さんに日頃注意されていて、それを守っていたのでしょう、違反していた私を見て、『危ないよ!』と警告してくれたのです。県の南の方の小学校一年生で、ヤマトくんと言っていました。三歳の赤ちゃんがいて、お母さんが働いていて、今日はお父さんと二人の電車旅で来ているのだと、質問したら、ハキハキと話してくれました。

 そんな感謝や感心したりの会話のあった午前中でした。子どもの頃、大人がよく話しかけてくれたのを思い出します。叱られることも、褒められることもあったのです。今は、なかなか会話がなされない時代になってしまったのでしょうか。若者は、スマホに夢中で、電車に乗ると、イエホームから一斉にスマホ中毒になっているのです。

 前回の電車利用には、インドネシアから働きにやって来た、実習生の青年に話しかけたのです。25歳で、群馬県に、両毛線に乗って行くのだと言っていました。『日本の生活は、どう?』と聞くと、辛いことが多いのだそうです。待遇も、良くないし、5年いるそうで、帰ろうかと思っているが、なかなかできない、そんなことを話してくれました。栃木駅で降りて、両毛線の改札まで連れて行って上げました。それが嬉しそうでした。

 電車の中は、みんな会話を拒絶してスマホ操作の人ばかりですが、子どもや外国人は、そんな機器に誘惑されないので、人間らしくているのです。家内は今夕、駅のコンコースの街中ピアノを弾きに出かけて行きました。弾いてると、年配のご婦人が、自分のできないことをしてる家内を羨ましがって、話しかけて来たのだそうです。娘さんが、明日ガンの手術をするとかで、元気に出る賛美を弾いて差し上げたそうです。

 黙っていないで、みんな会話を楽しんだらいいのです。個人主義に害されて、人と人との交流がなくなってしまった現代、人はますます孤独になってしまうからです。ことばを駆使できるからこそ、人は人でありうるのです。『電車乗った時など、隣のおじさんに語りかけてごらん。いろいろな話が聞けるから!』と中学の担任が、個人的に勧めてくれたことがあって、いまだにそれを実行中なのです。

(ウイキペディアによる「東武日光線」の電車です)

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至高者の揺るがない支配が

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『ひとりの嬰兒われらのために生れたり 我儕はひとりの子をあたへられたり 政事はその肩にあり その名は奇妙また議士 また大能の神とこしへのちち 平和の君ととなへられん その政事と平和とはましくははりて窮りなし 且ダビデの位にすわりてその國ををさめ今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立これを保ちたまはん 萬軍のヱホバの熱心これを成たまふべし (文語訳聖書 イザヤ書9章6〜7節)』

 万軍のエホバ(アドナイ)が、この2024年の一日一日を、栄光の御座からご支配され、悪も善も、義も不義も、全てをみそなわされておられます。それゆえ「万軍のエホバ」であり、「平和の君」である至高者が、この年に何をなさるのか、じっと見させていきたいと願う年明けの朝です。

♭ 栄光 栄光
イエスにあれ
栄光 栄光
イエスにあれ
御座にいます小羊よ
ほむべき御方
あなたは統べ治める
永久(とわ)に
正義をもって ♯
 

(明けの明星も輝く元旦の東の空です)

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一人の上方芸人の生涯を思う

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 上方芸人で、吉本喜劇所属の坂田利夫さんが、82才で亡くなりました。平均寿命が2020年で、「81.05歳」ですから、ご自分の生を全うされたことになります。

 ご自分を、「アホ」と言って、笑いをとった人で、芸人魂を持った根っからの師匠でした。そこまでして、芸道を生きなくても良かったのではないかと思ってみたのですが、芸の道とは、それほど厳しいものだと言うことを知らされて、自分にはできないなと思ったことがありました。

 生涯独身を貫いた方で、結婚をしない理由は、『結婚して子どもが与えられ、その子がアホと呼ばれてほしくないから!』と言っていたそうですが、これも芸人特有の理由なのでしょう。本意は分かりません。

 この方を結婚させる会があった頃、その番組を見観たことがありました。仲間内で、そんな盛り上がりがあって、芸人仲間からも信望のあった方だったのでしょう。テレビが、わが家に置かれてから、人気番組は、「番頭はんと丁稚どん」で、その丁稚どんを演じていたのが、メガネをずらしてかけていた大村崑でした。ボケ役でしたから、坂田さんは、それにヒントを得て「アホキャラ」を演じていったのかも知れません。

 元々は漫才の出身で、上方漫才は、関東の漫才とは違って、テンポが良くて、抜け目がなくて、軽い笑いで、聞いていますと日本語に、もう一語あるのではないかと思わせたほどで、聞いていて分かる言語だったのです。坂田さんは、漫才の賞も多くとって、人気の漫才芸人でした。

 大阪人の友人は少ないのですが、私の育ててくださった宣教師さんは、大阪で伝道をしていた時期がありました。何度か呼ばれてお話をさせていただり、みんなで訪問したことがありました。さすが、教会の中では、関西弁は聞かれませんでした。宣教師さんは、そこで病を得て、後半は、ご子息のいた東京のホスピスに入院されて、天に帰って行かれました。

 坂田さんは、「老衰」が死因だそうです。もうすぐ八十になる私は、「老衰予備軍」になっているのかと思わされたのです。人生、盛んな時期が短く、アッと言う間に過ぎていくのですね。それを再確認させられた訃報でした。

なが瞳にように守り、死ぬことにないように

御翼の影に われをかくまいたまえ ♯

 家内の今年最後に通院を終えて、ホッとしたのでしょうか、この五年間、風邪をひかなかったのですが、立てないほどで寝込んでしまいました。寝ていて、この賛美が口をついて出てきたのです。『死ぬまで生きる!』覚悟でいます。父にも義父にも、自分たちの子を抱いてもらえずに、天に送ってしまいましたが、せめて、孫たちの結婚式には、家内と二人で出たいなあ!

 笑う必要のある、厳しい現実にある人々に、「笑い」を提供した坂田利夫師匠は、国会議員にもならなかったのですが、一芸人として生を全うしたことになります。眼の間に、哀愁が漂っているように感じたのは、私だけではないのでしょう。生きるのは、実に厳しい現実に違いありません。

(ウイキペディアによる「坂田利夫師匠」です)

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賛美せよ!

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 『感謝のそなへものを献るものは我をあがむ おのれの行爲をつつしむ者にはわれ神の救をあらはさん (文語訳聖書詩篇5023節)』

 『ヱホバをほめたたへよ その聖所にて神をほめたたへよ その能力のあらはるる穹蒼にて神をほめたたへよ その大能のはたらきのゆゑをもて神をほめたたへよ その秀ておほいなることの故によりてヱホバをほめたたへよ ラッパの聲をもて神をほめたたへよ 筝と琴とをもて神をほめたたへよ つづみと蹈舞とをもて神をほめたたへよ 絃簫をもて神をほめたたへよ  音のたかき鐃鈸をもて神をほめたたへよ なりひびく鐃鈸をもて神をほめたたへよ  氣息あるものは皆ヤハをほめたたふべし なんぢらヱホバをほめたたへよ (同 詩篇150篇1〜6節)』

 賛美は、礼拝の最たるものです。神こそ、賛美を受けるにふさわしいお方であり、賛美の中に座され、賛美の中に、再びおいでになります。礼拝が、説教中心になってしまったことは、至極残念なことであります。ダビデは、竪琴を奏でながら、主を賛美しました。その賛美が、詩篇の中にあるのです。

 パウロとシラスは、ピリピの獄屋の中で賛美しています。その賛美が、彼らを縛っていた鎖を解き放ち、人々を縛っていた心の束縛を解いたので、牢役人はイエスさまをキリストと信じ、家族も信じてバプテスマを受けました。

 教会の中の賛美は、厳かであるべきです。驚くほどの讃美歌を、教会は生み出しました。でも、楽譜がなくても、メロディーが与えられ、みことばが歌われるような、自由もあっていいのです。パウロたちの獄中の賛美は、そのように、神が讃えられて歌われ、賛美され、礼拝をしたのです。

 ヨーロッパに福音戦況が拡大し、そこから全世界に福音が宣べ伝えられて行く、その発端は、神賛美、救い主賛美だったのです。

 『さあ賛美しよう 救い主イエスを!』と賛美して、主を崇めてきました。無秩序や自分よがりな歌詞やメロディーはいけませんが、聖霊なる神さまは、みこととばを思い出させ、メロディーを与えられるのです。

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 『えいくわうの王はたれなるか ちからをもちたまふ猛きヱホバなり 戰闘にたけきヱホバなり 門よなんぢらの首をあげよ とこしへの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん この榮光の王はたれなるか 萬軍のヱホバ是ぞえいくわうの王なるセラ (文語訳聖書 詩篇24710節)』

♯栄光の王とはだれか 強く勇ましい主 戦いに勇ましい主である

万軍の主とはだれか 強く勇ましい主 これこそ万軍の主である 

 詩篇を歌うことができるのです。ダビデが歌ったようにではありませんが、ここ日本で、救われた者に、こんな賛美が与えられたのです。パイプオルガンでなくても、ギターを爪弾いても、ドラムを叩いても。手を打ちながら、踊ってもいいのです。麗しい賛美は、主が受けるべき誉だからです。

 ニューヨークから、伝道者が、母教会に来られて、賛美コーラスが紹介され、日本語に翻訳されて歌い始められたのです。

♯ 心の中でメロディーを 王の王にささげよ

主をあがめよ 心の中でメロディを 王の王にささげよう ♭

 単調なメロディーで、主が賛美されたのです。そういった賛美礼拝が、教会の中で始まったのです。『おかしい!』と言われつつも、50年も経つと、市民権を得て、若いみなさんが、それを受け入れて、自ら作曲をされて、新しい賛美が誕生されるようになってきたのです。混沌とした世情だからこそ、主が賛美されるべきです。来年も、賛美の声を上げ、この国を讃美で満たしましょう。

( Christian clip arts の「獄中賛美」他です)

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年の瀬に

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 明治生まれの父と、大正生まれの母は、島根県の出雲で出会ったのだと思います。結婚して、京都で過ごしたと、母が言っていました。父は、横須賀で生まれ、秋田に学び、京城、山形、山梨、東京と移り住んで、国策事業に従事し、父は61年の生涯を閉じ、母は95歳まで生きて、二親共に天の故郷に帰って行きました。

 男の子四人を育てて、親孝行をしてもらえる年齢になったのに、何も言い残さないで、父は逝ってしまいました。戦中、戦後の厳しい時代を、精一杯に働いて、食べさせてくれ、着せてくれ、暖かな布団を与えてくれ、学校まで行かしてくれました。

 ちょっとばかり短気だったでしょうか、ゲンコツをもらいながらでしたが、思い返すと感謝なことばかりが思い出されるのです。あの渋谷のレストランで、ご馳走してくれた子牛の柔らかな肉料理と黒パンの味は忘れません。

 ここ栃木の街で、明治8年に創業した老舗の和菓子屋で、棚に置いてあった「カルメ焼き」を、つい懐かしくて、先日買ってしまいました。二つ買ったのですが、一つは、今週訪ねてくださった中国からの若い友人家族と親族七人が、華南の街にはないと言って、持って行きました。父が作ってくれたのは、金属製のお玉の中に、ザラメの砂糖に水を入れて、七輪で煮溶かし、頃合いを見計らって、わり箸の先に重曹をつけて、溶けたザラメに入れると、ジューという音を出して結晶して出来上がったのです。

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 その様子を見守っている間、つばきが激しく出て来て、食べたいサインを出していたのです。父親が作ってくれたからでしょうか、その美味しさは、どことも比べられないほどでした。あれって、非行化防止の策だったのでしょうか。悪に走る足も手も、引っ込めさせた効果あったのです。

 家で餅つきはしたことはなかったのですが、米屋さんに餅をついてもらって、毎年配達してもらったのです。のし餅が切り時になると、三箱もあった餅箱に、六人が、お雑煮や海苔巻きやきな粉餅にするための餅を、スケールを使って全く同じように切っていました。几帳面だったのです。切ったはじっこの餅は、小さく切って、母に、干させて、正月明けに、揚げ餅を作ってくれ、醤油をかけて食べたのです。

 家内と二人っきりなのですが、のし餅を買って帰った昨日は、父に倣って、餅を切ったのです。正月二日に、弟が来ると言っていますから、関東風のお雑煮を作ろうと思っているところです。おせち料理も、作らなくなりました。母が準備万端整えてくれ、子育て中は家内も作ったのですが、この数年は、スーパーに行って、棚を見て終わりにしています。

 中国で、お餅を「年糕niangao」と言うのですが、中国からの若い友人夫妻が二つ持参してくれました。日本の餅とは、似て非なるものですが、伝統の正月用品です。いつも来るたびに、家内を心配してくれて、漢方の食材を持参してくれるのです。

(「カルメ焼き」と「年糕」です)

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買い出しで出会った人たち

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 『今日は、せめてお餅ぐらいは!』と決心して、幸来橋の袂のバス停から、ふれあいバスに乗って、「にしかた道の駅」に、買い出しに出かけたのです。小型バスにたった一人の乗車でした、乗り込みましたら、『久し振りですね!』と、運転手さんが声をかけてこられました。まあ顔馴染みの方なのです。

 途中、東武日光線の家中駅から、出張の会社員が二人乗り込んできて、大きな工場のあるあたりで下車して行きました。また乗客一人だけになって、運転手さんと運転歴のエピソードなどの話をして、道の駅で下車したのです。

 いつも、ここに行く時には、新鮮な野菜、切り餅、梅干し、椎茸などを、おもに買ってくるのですが、今回は「のし餅」があって、それを一枚買ったのです。それに干し柿、スティック・ブロッコリー、ほうれん草、梅干し、宮ねぎ(ここでは下仁田葱をそう呼んでいるのです)などを買いました。

 帰りは、イオン止まりの便に乗って、そこから家まで歩くのですが、今回は、東武金崎駅から電車に乗ったのです。駅のホームに親子連れが一組いました。ホームを歩いていたら、『おじちゃん、黄色い線から出ちゃあダメだよ。危ないよ!』と注意されたのです。とっさに、『アッ、そうだいけないね。ごめんごめん、ありがとう!』と返事をしたら、彼はホッとしていました。
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 お父さんに日頃注意されていて、それを守っていたのでしょう、違反していた私を見て、『危ないよ!』と警告してくれたのです。県の南の方の小学校一年生で、ヤマトくんと言っていました。三歳の赤ちゃんがいて、お母さんが働いていて、冬休みになって、お父さんと電車旅で来ているのだと、質問したら、ハキハキと答えてくれました。

 そんな感謝や感心したりの会話のあった午前中でした。子どもの頃、大人がよく話しかけてくれたのを思い出します。叱られることも、褒められることもあったのです。今は、なかなか会話がなされない時代になってしまったのでしょうか。若者は、スマホに夢中で、電車に乗ると一斉にスマホ中毒になっているのです。

 前回の電車利用には、インドネシアから働きにやって来た、隣に座った実習生の青年と話をしたのです。25歳で、群馬県に、両毛線に乗って行くのだと言っていました。『日本の生活は、どう?』と聞くと、辛いことが多いのだそうです。待遇も、良くないし、帰ろうかと思っているが、なかなかできない、そんなことを話してくれました。栃木駅で降りて、両毛線の改札まで連れて行って上げました。それが嬉しそうでした。

 電車の中は、みんな会話を拒絶して、年配者は目をつむり、若者はスマホ操作ばかりですが、子どもや外国人は、そんな機器に誘惑されないので、人間らしくているのです。家内は今夕、駅のコンコースの街中ピアノを弾きに出かけて行きました。弾いてると、年配のご婦人が、自分のできないことをしてる家内を羨ましがって、話しかけて来たのだそうです。娘さんが、明日ガンの手術をするとかで、元気に出る賛美を弾いて差し上げたそうです。

 黙っていないで、みんな会話を楽しんだらいいのです。個人主義に害されて、人と人との交流がなくなってしまった現代、人はますます孤独になってしまうからです。ことばを駆使できるからこそ、人は人であるからです。人であれ!

(ウイキペディアによる「焼き餅」、「東武日光線の電車」です)

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暮の喧騒を思い出して

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 青果市場の競りの開始は、朝早かったのです。自転車にまたがり、駅から南に下って来る道の大きな交差点の角に、その街の市場がありました。そこに出入りの仲卸商の手伝いで、週日の早朝に働いたのです。卸商の競り落とした野菜や果物を、ネコと呼ばれる台車に載せて運び、貨物自動車の荷台に積み上げる仕事でした。それを四、五年したことがあります。

 母が、『そんな仕事しかないの?』と心配したこともありました。でも、家内と共に献身し、母教会を離れて、開拓伝道をする宣教師さんの手伝いをするために、中部圏の山岳の街に越して、“ tent maker “ 気分で、小パウロのような思いで、一生懸命に働いたのです。長男が五月に東京で生まれ、彼が三ヶ月ほどで伝道助手の仕事を始めたのです。

 その仲買人は同い年で、同い年の男の子を育てていました。隣街に店を持ち、お母さんと奥さんとで店をし、彼は、自動車に積んだ荷を、小さな店に卸していく商いをしていたのです。大勢の青果商の中で、抜群に競り落としの上手な方でした。その競り落とした商品を、他の青果商に売るような商いをもしていました。そればかりではなく、京浜の青果市場に、市場の運営会社に納品までさせているほどでした。

 東京の神田や三多摩地区に市場があって、そこでアルバイトをした経験があり、あの独特な青果市場の匂いや雰囲気が、そこも同じで、楽しく働いたのです。この方の家に招かれて、家内と息子を連れて訪ねたことがありました。気前の良い方で、いつも野菜や果物を、仕事帰りにいただいたのです。

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KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

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 神田は、東京でも築地と並んで大きな市場でした。まだ、電動の運搬車などない時代でしたから、大八車が場内を忙しく、けたたましく行き交い、小競り合いや喧嘩もあったのですが、地方都市の市場は、もう少し和やかで、青果下ろしの会社には、もう電動運搬車もありました。

 父が、戦時中から戦後の間、この街の山奥で仕事をし、この街に事務所を持っていましたので、その山奥で私は生まれていて、よく街に兄弟たちで連れ出してもらって、デパートの屋上の観覧車なんかに乗せてもらった記憶があります。その父の事務所は、その街の青果商組合の理事長をされていた方の店の脇にあったのです。この方の紹介で得た仕事でした。

 この方は、若い頃、東京日本橋の「千疋屋(せんびきや)」という、江戸時代からの大きな果物専門店で修行をされ、自分の街に帰って、果物の専門店を始めた方でした。八百屋さんたちは、この方と行き交うと、頭をさ下げてあいさつをしていました。人格者でした。

 私が、場内で荷運びをしていると、『準ちゃん!』と呼び止めては話しかけてくれ、季節季節に果物を箱ごと頂いたりしていました。『遊びに来なさい!』と言われて、三人で訪ねると、『何を食う?』と言って、食堂やレストランに連れて行ってくれ、うなぎ丼やカツ丼をご馳走になったのです。実に懐かしい方で、父よりも年配でした。

 暮の地方都市の市場も、大賑わいでした。最終競の行われる「止め市」の今頃の時期の場内には、みかんやリンゴ、正月用に野菜が山積みにされていて、その賑わいは、独特な高まりがありました。タバコをくわえたり、朝からお酒の入った青果商たちが、競の行われる場に、忙しく移動していくのです。きっと日本独特な雰囲気だったのでしょう。競の間、運び手たちが焚き火を囲んだ談笑もありました。

 あの喧騒が、瞼に浮かんで参ります。もう50年も前の光景です。その仲卸商に誘われて、一緒に朝飯を食べた八百屋さんたちと仲良くなって、いろいろな話をしたのです。雇ってくれた仲卸商は、得意になって、私がキリスト教伝道をしていることを、仲間内に紹介していたりして、そんな話題もあったでしょうか。二十代の後半の時期でした。みんな懐かしく思い出される、令和の時代の暮れです。

(ウイキペディアによる、「市場」の競風景です) 

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