味覚の秋

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 幼稚園に、子どもたちが行ってた頃、借りた農地に、サツマイモの苗を植える、農業実習がありました。『お父さんたちに助けて欲しいので、ぜひ・・・』との事で、参加しました。地方都市で、おじいちゃんの家の多くが農業で、サツマイモの苗植えなど珍しくなかったのでしょうけど、秋になっての収穫までの間、『美味しいサツマイモを食べられるよ!』と言う、生育を楽しむ事だったのでしょう。食欲旺盛のわが家の子どもたちは大喜びでした。

 秋になっての収穫の時期にも、駆り出されたのです。五月に苗植えをして、10月の収穫だったでしょうか、それまでの間、農地の所有者が世話をされていた様です。そんなことを忘れての収穫でした。嬉々として掘り起こして、収穫を楽しんでいた園児に、均等に配られて、家で蒸したり、調理して食べたのです。その時の味は忘れてしまいましたが、幼稚園の頃のことって、大人になってまで覚えているのでしょうか。それとも忘れてしまっているのでしょうか。

 華南の街に住んでいた時、友人宅にお邪魔した時に、実のオレンジ色のサツマイモをたくさんいただいたのです。家に帰って、早速蒸しました。まだ<秋深し>ではないのに、<芋蒸し>して食べましたら、絶品でした。故郷から送られて来るのでしょうか、田舎を持っている人は、収穫のたびに、送ってもらっている様です。

 その頃、上の階の方の所に、大きな竹籠いっぱいの「龍眼long yan」が送られてきていて、お裾分けしてもらいました。まさに「龍の眼」の様な感じですが、口当たりが良く、冷やして食べると美味なのです。日本でも輸入品がありますが、確かハワイにもあったと思います。夏の初め頃の果物です。

 日本のスーパーでも売っていたのですが、「紫芋(サツマイモの一種です)」が、華南の街でも売られていて、とても美味しかったのです。収穫の時期になって出回ると、買っては食べていました。食べ物の「季節感」とは好いものですね。この週初めには、「無花果(いちじく)」が、スーパーの果物売り場に並べてあって、つい手を出して買い求めてしまいました。初秋の果物でしょうか。小学校の下校時に、無花果泥棒をしたのは、知人の家で、先日メールに書いたら、子どもの頃を笑われてしまいました。

 まさに「味覚の秋」、涼しくなって食欲が解き放たれて、<美味しい物だらけの秋>の到来です。食べ過ぎに気をつけなくてはなりませんね。美味しい桃をいただいて、満足しています。自然の中で、農業をなさる方が工夫をし、世話をして美味しいものを作られるのは、感謝でいっぱいです。そろそろ、「栗」も「柿」出てきそうですね。
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早朝に思う

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 順風満帆な青年期を生きていたのですが、突然病んでしまって、一切のものを失ってしまう〈生きていく辛さ〉を、一人の歌人が、次の様に、短歌を詠んでいます。

 死にかはり生まれかはりて見し夢の幾夜を風の吹きやまざりし

 これを詠んだのが、歌人・明石海人(本名野田勝太郎)です。この方は、明治34年に、静岡県駿東郡方浜村(現沼津市)に生まれています。沼津商業学校に進んで、静岡師範学校(現静岡大学教育学部)で学びました。卒業後は、小学校の教員として奉職しています。須津尋常小学校で出会った女性と結婚し、二人のお嬢さんが与えられました。

 ところが、25歳でハンセン氏病を発症してしまうのです。愛する妻と子たちと、強制的に離されてしまいます。そして、「天刑病」、「業病」と言われた病の特効薬を求めて、福岡県の明石に行ったりします。その後、現、岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539にある国立療養所「長島愛生園」に隔離収容されてしまうのです。

 この様に、青天の霹靂、思いもよらない発病を受け入れながら、短歌と出会います。それを詠むことを始めて、ご自分の心の思いを「三十一文字」で表現したことが、生き続けさせる力となっていったのです。失明もしてしまいますし、喉頭狭窄による気管切開も経験し、死と面と向かっても生き続けたのです。

 1938年(昭和13年)に、改造社から出された『新万葉集』に11首の短歌が入選するのです。翌年の2月に、ご自分の歌集『白描』が出版されます。でもその4ヶ月後に、明石海人は、わずか37才で召されてしまうのです。生前の193312月に、長島曙教会で、宣教師から「洗礼」を受けます。そして、身に負った病の「天刑」を、「天恵」、「天啓」として捉え直して、受け入れられる様になります。

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 明石海人は、『人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失つては内にひらく青山白雲を見た。癩は天啓でもあった。』と言い残しています。「隔離政策」と「偏見」、伝染性がないことが明らかになっても、その隔離を継続した国に決定が、大きな問題とされまああいた。

 この野田勝太郎さんが受洗した曙教会のみなさんから、この方の時代とは違う平成に入って、驚く様な感謝献金を、私はいただいたことがありました。それは尊過ぎて、自分の生活のためには使うことができず、長くお世話くださった宣教師が病んだ時、その医療費のために献金させていただいたことがあったのです。

 新型コロナが収まり切らず、感染される方が増える中、さらに熱暑が続く8月ですが、人の予測外の出来事に見舞われる、人の世の現実に戸惑わされていますが、私の確信は、『神の愛は不変で、移ろうことのない!』なのです。振り返ってみるなら、理解できない人生上の出来事が、きっと人の一生には益しているのではないでしょうか。さまざまに思い出している、もう暑苦しく蝉の鳴く早朝です。

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安心

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 「さいた」、花が〈咲いた〉ではないのです。「最多」は、TOKYO2020大会の金メダルの日本の獲得数です。柔道監督に就任して9年間、候補選手を懇切に指導してきた、日本代表、井上康生監督の手腕が、高く評価されています。この方自身も、2000年にシドニー大会、100kg級に出場して、金メダルに輝いた経験を持っています。その栄光の冠だけではなく、「人柄」が高く評価されているのです。

 日本の柔道界は、猛者揃いとの定評なのですが、大舞台に上がると、お腹を壊してしまうほど、pressure に弱いと言われてきたのを、克服させた功績は大きいのではないでしょうか。そんな若い監督の次の記事が、彼を言い表しています。

 『選手への情熱は、今年2月、東京五輪代表選手を発表する場にもうかがえた。落選した選手を思い、涙したのだ。「選考を思い浮かべる中で、ギリギリで落ちた選手たちの顔しか浮かびません。ほんとうに彼らはすべてをかけてここまで戦ってくれました。」』

 選考に漏れた候補者を忘れないでいる指導者は、珍しいのではないでしょうか。選手の99.99%は、栄光の座に登れないのですが、選ばれた者が、その様に、共に励んだ仲間を忘れないでいるのも、スポーツとしては、Sparta 的でなくて、いいと思うのです。その辺に、近代オリンピックを導いたクーベルタンの考え方もあるのではないでしょうか。

 そんな「最多」を心から喜ぶのですが、喜べない「最多」があります。日本の「コロナ感染者数」、コロナによる「死者数」です。世界では、感染者は〈2億人〉、コロナによる死者数は〈438.6万人/81日の時点〉なのです。

 昨日次男に、『after  corona にはみんなで会おうね!』と言う話を持ちかけたら、『Afterは来ないと思うようになってきた!』と言ってきました。その後、『ちょっと暗い話だったね!』と言い添えていました。

 思うに、経済社会の論理は、尽きるところ〈お金〉を、どう儲け、どう備蓄し、どう運用するかなのでしょう。儲けるためには、犠牲を考慮しないことが多いのです。少しの犠牲は、大きな富には見逃されてしまう、これが人の歴史でした。二十一世紀も、教訓を学ばないので、同じ考え方です。

 貧乏人の遠吠えの様ですが、有名なスポーツ選手は、引退後に、三億円の家を買って生活することができる話を聞いて、数万円の月家賃で住んでいる、『じっと手を見る!』私たちには想像できない、お金社会の現実です。

 偏り過ぎている現実を、憂えるのは、貧乏層の遠吠え、断末魔でしょうか。お金に縁のない人生でしたが、だれにも無心したり、借りたりしないで、生きてこれたことは、感謝なことです。お金以上に、素晴らしいものがあるのです。ただ、〈コロナ終息〉を願う、厳しい残暑の夕べです。

 もう一言、柔道の井上康生監督は、《家庭の人》でもあるそうで、お子さんたちをしっかり育て上げている《良き父親》です。父に誉を与え、感謝できる子たちが、彼の家にいることは、「安心」が伝わってきます。

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高価な私

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 ある国の政治指導者が、『私の国には、こんなに多くの人がいるのだから、一億人が死んでも、後、3億人が残るのだから問題はない!』と、人の命を、〈算術〉で測ったのですが、その国の一人は、〈分数〉で考える様な〈物扱い〉をされたわけです。そんな指導者をいただいた国民は、悲劇です。

 今回の新コロナ騒動の中で、「1300万人の都民の中で、たったの2000人が死んだのだ!』と、〈百分率のパーセン〉で意見を述べた人がいます。この様な人の命を軽視する考え方ですが、それが戦争を生み、他国を侵略支配していった論理と同じなのです。

 私の叔父は、赤紙一枚で、戦場に送られました。戦死し、生きて祖国に戻ることなく南方戦線で亡くなりました。結婚前でしたが、母親の悲しみはどれほどだったでしょうか。こう言った悲劇は、溢れるほどあった時代を超えて、平和を享受できる時代に、私たち叔父にとっての甥は生きて、老いの今日を迎えています。

 父と母にとって、四人の子は、一人一人の〈足し算〉で捉え、それぞれの個性に見合って、個性的に育て上げてくれました。父は、私たちの結婚式に出て、祝福してくれて、その1ヶ月後に亡くなりました。父の期待の三番目の子だったのですが、裏切ってしまったのは申し訳なかったのです。でも後ろ指を指されることもなく生きてきましたから、及第でしょうか。

 『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。(創世記1章26〜27節)』

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。創世記12628節)』

 人が、一人一人が尊いのは、「神の被造物」だからです。「われわれ」と言われる、「父、子、聖霊の神」の形に、「われわれににせて」人が造られているのです。物ではなく、神と人格的に交わることにできる「創造物」です。「ことば」で交わることができるほどの相互交流があるのです。人が、どんなに蔑んでも、神の目には、「高価で尊い(イザヤ434節)」のです。

 それほどの価値を、人は理解していません。私を教えてくれた教師は、『みんな、全く何もできない障碍を負った一人の少女が、日向で陽を感じる時、お風呂に入る時、えも言われないほどの表情を見せるんだ!人には可能性がある。誰にも可能性があるんだ!』と、頬を紅潮させて興奮して、自己嫌悪していた私に、教壇から話してくれました。

 その一言は、私を動かし、動機づけ、生きていく勇気と激励になったのです。なぜなら神が、私をお造りくださったからなのです。もう社会に貢献することのない退役者ですが、一人の妻の夫、四人の子の父親、四人の孫のジジ、四人兄弟の三男坊、幼い子の友、人々の隣人としては、まだ務めがありそうです。

(“キリスト教クリップアート”の「放蕩息子の帰還」です)

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あれから15年

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 中国で初めて住んだ東北部の街の交通大学の校舎が見えます。その学校の教室を借りて、語学学校がありました。毎朝、自転車で、外国人公寓(gōngyùアパート)から通っていたのです。私たちが一番高齢の学生でした。

 行く前に、中国語のできる友人から学んではいたのですが、あの教室で、あんなに真面目に学んだのは、私にとっては初めてのことでした。帰りには、自転車を降りて、行き合う街の人に、習いたての中国語で語りかけるのです。みなさん相手になってくれて、日本人だとわかる私たちを物珍しがって、発音を直してくれたのです。よい会話練習になりました。

 この自転車で街中に出ては、街で一番古い教会に、日曜日の朝は出掛けて行きました。帰りに小吃店(食堂)でお昼をし、時々同級生も、教会に来ていて、一緒に食事をしたのです。卒業したみなさん中国中の街に散って行きましたが、今はどうされておいででしょうか。

 日本が砲火で攻撃した街でしたし、東北部では大きな街でした。私たちよりも年配のみなさんが、涙を流して、公認教会の聖餐に預かっているのを見て、その真剣さに驚かされたことがありました。

 自転車に乗っているのは、家内です。2006年の秋だったと思いますから、15年前になります。スイス、カナダ、アメリカ、オーストラリア、ドイツ、イギリス、ブラジル、マレーシアなどから来ていたみなさんと同じ学校でした。英語と中国語混じりでの会話が、じょじょにできる様になって行きました。

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 今日は8月1日、日曜日、4時過ぎの朝焼けが赤く綺麗でした。東京ではオリンピックの競技が続いています。コロナの感染者が激増してるとニュースが伝えています。初めて会った時が十代だった家内が、78歳の誕生日を迎えました。よい日曜日であります様に!

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 『もし大きな教会、強力な教会、社会的に影響力にある教会を作るなら、この世を変えることができる!』と言う誘惑が、教会と教会の指導者たちには一番大きいのだそうです。

 私たちの母教会を開拓された方は、戦後間も無く、マッカーサーに派遣された宣教師でした。弱冠三十代で、奥様と二人で来日されたのです。この方は、『数年で、日本最大の教会を建設するのだ!』と心に決めて伝道を始めたのです。間も無く数人の男性が教会にやって来ました。

 一人の方は、祈りも聖書理解も分かち合いも優れていました。〈ニッポンのパウロ〉の様だともて囃されたのです。宣教師の良き助け手となり、間も無く、宣教師は、この方に、教会の責任を委ねたのです。ところが、小さな不満で決裂し、群れが分裂してしまいます。宣教師に付く者と、この新しい指導者に付く者とに、二分してしまったのです。

 宣教師と働き人との関係が出来上がる前に、どのような人かをよく理解しないで、責任を取らせたことが原因でしょう。この方は、後年近くの街の教会の牧師となりますが、ある問題を起こして、牧師職を解任されています。

 教会に残ったのは中年のご婦人と若い姉妹たちだけでした。ところが何年経っても何年過ぎて、伝道しても伝道しても、その教会に集って来るのは、若い女性ばかりだったのです。たまにやって来る男性は社会生活のおぼつかない人たちで、教会や教えに躓いては去って行きました。

 この宣教師は、完全に挫折してしまったのです。あの野心は、完全に消えていたのです。しかし、帰国しないで日本にとどまり続けました。毎日聖書を教え続けました。しばらく後に、東京から程遠くない街に、もう一つの教会を立て上げてから、この二つの教会を新しい宣教師たちに任せて、アメリカに帰って行きました。傷心しての帰国でした。

 ところがです、あの若い女性たちの間から、四人の牧師の夫人が生まれたのです。毎晩集会に集って、聖書を教え続けた実りが、この四人だったのです。一人の姉妹の子から二人の牧師も出たではありませんか。

 あの宣教師の働きは、日本最大の教会は作れなかったのですが、今もあり続ける教会を牧会する者たちを、直接的に間接的に信仰的に養育をしたことは、小さな働きではないはずです。今、枝分かれして、14ほどの教会が、日本のあちこちにあって、牧会と伝道がなされているのです。

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 地上で一番大きな、人数の多い教会は、エジプトのアレキサンドリアにあった教会だと言われている。『その教会よりも大きな教会を作る!』と言うことを目指して、韓国のソウルに世界一の教会ができていました。「弟子訓練」を掲げて、そう言った教会が作られたのです。信徒の力を活用し、信徒を競争させて、「大教会」を作ったのです。

 私は、この教会を三度訪ねたことがあります。私の心の内にも、「大教会建設」の野心があったからです。でも、私には、そう言った信徒の力を教会建設のために結集させる賜物や力量のないことを知ったのです。

 教会に託された使命とは、「大教会建設」なのでしょうか。ある牧師セミナーに参加したことがありました。講師は、アメリカでも最大級の教会の有名な牧師でした。どうしたら成功者、つまり大教会の牧師になれるかの成功事例を話していました。そんな集会に出て、宿泊していた部屋に戻ってくると、若い牧師たちは、大きな刺激を受けて、心が高揚し、顔も紅潮していたのです。

 『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ123節)』

 そんな牧師たちの中に、瀬戸内海の島々を訪ねて、そこで伝道している伝道者がいて、次のような言葉をふと漏らしたのです。『私がしている伝道は、小さなエンジンをつけた小舟に乗って、島から島へと、そこにいる数人の信者さんを訪問する奉仕なのです。大教会の建設など、全く無関係な伝道に従事してるのです。』とでした。彼らもまた宣教師の働きを継いでいたのです。

 その話を聞いた時に、我に返ったのです。そして、99匹の羊を牧場において、失われた一匹に羊を追う牧夫の聖書の話を思い出したわけです。日本では、信徒数が少なく、日曜日に礼拝を守る信徒が、30万にも満たないし、信徒も高齢化しているのです。

 一人の魂をないがしろにして、何千何万もの教会の幻を見ているのを、主は喜ばれていないことが分かったのです。いえ、聖霊なる神は、そう言った願いを持つことを、喜ばれていないことを、私の思いに語りかけたのです。人を救うのは、聖霊の業であって、人の考え出したプログラムによるのではないことを知らされたのです。

 器が整っていないのに、まあまあの規模の大きさの教会を作り上げた牧師が、金銭や女性の問題で、堕落して行くのを、何度も見聞きしました。大教会建設のビジョンを掲げ、どうそれを実行するかの方策を研究し、大きく成長した教会に出かけて行って見学し、その方策を学んで帰る旅行が、多く開催されました。しかし、方策や理論で教会が建設されるのではないのです。

 ある大会の講師に選ばれた方の後ろの席についていました。その方の背広の肩の襟に、虫食いの小さな跡を見つけたのです。大都市ではなく、地方の街で伝道されていらっしゃる方で、聖会講師であっても、それが一張羅だったのです。3人の子育てをしながら、地方の因習の強い街で、牧会をされ、今もなお続けておいでです。まさに《聖霊の御業》とは、それではないでしょうか。この方の二人の息子さんは、ご両親と同じ道に生きておいでです。
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鈴と直談判

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 猫に仲間を獲られてしまう鼠たちが、猫から身を守る方法はないかと相談をします。ついに何をするかが決まったのです。猫の首に、〈鈴〉を付けることになりました。その鈴が鳴ったら逃げるのが一番良いということになったのです。ところが、だれが猫の首に鈴を付けに行くかと言うことになりました。それは危険極まりない仕事なのですから、それを引き受ける鼠は一匹もいませんでした。その相談は頓挫してしまったのです。

 そう『イソップ物語』の寓話にある話です。今、2020TOKYO大会が行われ、その終了後には、パラリンピックが開かれようとしています。初めから、尾身会長は、『こう言った状況では、普通はしないのですが!』と言ったのに、専門家の苦渋に満ちた意見を聞かないで、開催にこぎつけてしまったわけです。大会の開催と同時に、感染者数はうなぎのぼりに増えており、警告が的中して医療の逼迫状況が起こっています。また、今後の見通しも、感染者の減少は考えられず、増加の一歩をたどって行くとのことです。

 死の危険のある疫病下の方策で、人々の健康を維持し、死亡件数を、これ以上に増やさないための『やめます!』を決断して頂くには、頑固一徹な方に、だれかが〈鈴〉をつける様に、強烈に進言できるのでしょうか。ちょっと、ない頭を絞って考えてみました。政府の諮問機関、コロナ対策分科会の会長の提言、直談判を受け入れられないなら、

ほとんど顔を出さない奥さんはダメなのでしょうか。

zあの電通から転職した息子が言ったらどうでしょうか。

上皇さま、

天皇陛下、

防衛庁の統合幕僚長、

最高裁判所の所長、

検察庁の長官、

検事総長、

警察庁の長官

警視総監、

横浜税務署長、

国家公安員会の会長、

プロレスの猪木さん、

柔道の吉田沙保里さん、

将棋の藤井聡太さん、

MLBの大谷翔平さん

日銀の総裁、

国連の事務総長、

WHOの責任者、

柔道金メダルのオリンピック委員会の山下さん、

秋田県知事、

湯沢高校の校長、

法政大学の学長、

横浜市長、

横浜市立小学校の児童会長、

剣道のチャンピオン、

空手のチャンピオン、

少林寺拳法のチャンピオン、

ソフトバンクの孫会長、

所管の自治会の会長、

エベレストからスキーで滑降した三浦雄一郎さん、

読売新聞の渡邊社長、

国民栄誉賞の長嶋名誉監督や王名誉監督、

贔屓(ひいき)の床屋さん、

行きつけの寿司屋の大将、

初恋の女性、

同年生まれの強面の江夏豊さん、

段ボール工場の親方 etc.

 ご両親が健在だったら、その助言に聞かれるでしょうか。〈鈴〉をつけるのは無理かも知れませんが、どなたかが〈首〉になって、その上にある頭を下げさせられるのでしょうか。わが家は、だいたいどの夫婦も同じで、家内が頭の私をを動かしてくれていますが、奥さまが一番適任だと思うのですが。「かかあ天下」だったら可能でしょう。「亭主関白」だったら無理です。だれかが 〈普通のことができる様〉 に言わねばならない最終の時が来ています。

 この猛暑と雷雨の中、今秋、七十五になろうとしている弟が大会運営の volunteer をしていますので心配でなりません。無給の奉仕で、medalist のみなさんや大会役員は、驚くほどの報奨金を得て、〈貴族〉の様な生活があるそうですが。弟は年金生活者での奉仕、ちょっと考えさせられます。お金や名誉よりも大事なものがあるからです。選手も応援者も、スポーツを愛する全世界の人たちへの激励は忘れていませんが。命の安全さを願うのです。健康でなければ何もできないからです。

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城下町

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 悔しいほどスッキリ爽快な同年生まれの好青年、梶光夫が、「青春の城下町」を歌っていました。1964年、オリンピックの東京大会が開催された年でした。作詞は西沢爽、作曲は遠藤実でした。

流れる雲よ 城山に
のぼれば見える 君の家
灯りが窓に ともるまで
見つめていたっけ 逢いたくて
ああ 青春の 思い出は
わが ふるさとの 城下町

白壁坂道 武家屋敷
はじめてふれた ほそい指
ひとつちがいの 君だけど
矢羽根の袂が 可愛いくて
ああ 青春の 思い出は
わが ふるさとの 城下町

どこへも 誰にも 嫁(い)かないと
誓ってくれた 君だもの
故郷に 僕が 帰る日を
待っておくれよ 天守閣
ああ 青春の 思い出は
わが ふるさとの 城下町

 山奥の村で生まれ育ったからでしょうか、自然要塞は堅固で安全極まりないものだと思っていました。里に降りた街には、城跡がありました。江戸城(皇居)は見ていましたが、下の息子と訪ねた木曽川の河畔に、国宝の指定を受けた、「犬山城」を見た時、その天守閣の原型を留めている城として、一番注目されていましたから、実に素晴らしい眺めに圧倒されてしまいました。

 室町時代の天文6年(1537年)に建てられ、天守は現存する日本最古の様式です。木曽の流れのほとりの小高い山の上にあって、天守最上階からの眺めは素晴らしいものがありました。織田信長の叔父の居城であったのですが、名古屋城や姫路城の様な巨大な城に比べると、小さくて見劣りがしますが、立ち様は威厳がありました。

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 子育てをした街の子ども会で、バスに乗って訪ねたのです。「明治村」に行ったついででしたが、遊びよりも、日本の歴史に触れることができて、素晴らしい時でした。下の息子と出かけたのですが、別の時には、「小田原城」にも一緒に行きました。北条氏の居城で、武田信玄の攻撃にも、じっと耐え抜いた城だった様です。

 そびえる様な天守閣の威容は、藩主の権勢を誇っているのですが、姫路城、松本城、熊本城、そして犬山城は、どこも美しいのです。二度登った天守閣は、加藤清正の築城で有名な、熊本城でした。天守閣から眺める阿蘇の山並みも、熊本の街並みも実に美しかったのです。

 この歌詞にある、「矢羽根の袂」を揺らす君と、城下町が似合いますね。歌のmodel になったのは、岐阜県揖斐川町の「藤橋城」とのことです。「青春の思い出」も、楽しいことよりも苦くて辛かったことが、私には多かったのですが、でも「希望」が、心の中に広がっていました。父や母に愛されて育った確信があって、何があっても挫けることはありませんでした。「青春の蹉跌(さてつ)」も経験しましたが、後になって益になったことでした。

謝らない謝罪

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 『それは、わたしが、あなたの行ったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたがこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししないためである。──神である主の御告げ──(エゼキエル1663節)』

 「謝らない謝罪」と言う言葉を、今回初めて聞きました。” News week "の記事にあったのです。「謝罪」の様に聞こえますが、全く謝罪になってなく、自分の言ったこと、したことの正当性を、婉曲な方法で言い張っている様です。

 英語ですと、” non-apology “ “ non-apology apology “ という言葉dだそうです。日本語に訳すと、「謝らない謝罪」とか「謝罪なき謝罪」などとなるそうです。(オックスフォード大学出版局などが運営する辞書サイトのレキシコを見ると、次のような意味の言葉として紹介されていた。『謝罪の形式を取ってはいるものの、侮辱や怒りを生み出した原因に対する責任や後悔を認めることにはなっていない声明。』)

 政治家やお役人など、社会的な責任のある方が使う便法でしょうか。何例かを上げていますので引用してみましょう。

[1] 5月、外国人労働者が働く農家に対して、「外国人と一緒に食事をしないように」などと記した文書を配布した茨城県の保健所のコメント。

「差別する意図は全くありませんでしたが、誤解を招く表現があったとしたら申し訳ありませんでした」

[2] 3月、自分の目の前で国会答弁に立つ総務省幹部に、「記憶がないと言え」と発言したことについての武田良太総務大臣の釈明。

「誤解を与えたのであれば申し訳ない」

[3] 2月、辞任表明の際の森元会長の恨み節。

「まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども(中略)私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども」

[4] 昨年12月、政府が「会食は少人数に」と呼び掛けている最中に、自民党の二階俊博幹事長らと8人程度で会食をしていた,菅義偉首相の弁明。

「国民の誤解を招くという意味において、真摯に反省している。」

 小学校の頃から高校まで、流石に大学ではありませんでしたが、何度も職員室に呼び出されて、反省、謝罪、始末書書きをしてきた私は、『先生を怒らせてしまったことは申し訳ありませんでした!』なんて言いませんでした。したことの悪や過失を認めて、『ごめんなさい!』と言いました。ですから、軽い気持ちではぐらかせたりしませんでした。ですからその都度、教師は赦してくれました。

 みなさんは狡猾なのです。言ったこと、したことを反省しないのです。体面と立場を危うくするからです。よく自動車事故を起こした時、『あなたが悪くても、謝ったりないこと。保険の査定で不利になるから!』と言われます。自動車の陰から出てきた自転車を運転していた女子高生を突いて倒してしまったことがありました。

 怪我をしたので、すぐに病院にお連れして診てもらい、処置をしてもらいました。軽症でした。警察にも経緯を説明しました。自転車の修理、衣服の弁償をしたのです。悪かったのは私だったからです。

 『ごめんなさい!』、これは言うのが一番難しいのです。人は頑固だからです。叱られ慣れた私は、いじけもしませんでしたし、誤魔化しもしませんで、素直なのでしょうか、すぐに、『ごめんなさい!』と言える、これは特技なのです。中国にいた時、日本人の知人に、『ここでは、ごめんなさいなんて言うと馬鹿にされるから言わないほうがいいよ!』と注意されました。でも、こちらがいけないなら、私は謝ったのです。

 でも、一番の謝罪は、天と地の万物の創造者、私をお造りなられた神に、「悔い改め」をしたことでしょうか。そんな私のために、キリストは、「弁護者」となってくださるのです。

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すぐに

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 『準、すぐにやりなさい!』と親に、よく言われました。自分だけではなく、この社会での常套句に『後で !』があります。日和見的な見方や考え方をしないで、『直ぐに!』ことをしていたら、悲劇を免れたことが多くありました。また、他者に任すべきなのに、一度得た立場や要職に留まろうとする思いが、人は強いのです。国や会社のためではなく、自分の功績にこだわった結果、国や会社の将来を傷つけ、取り返しのつかない状況に置いた事例は多いのです。

 「失敗」の原因が、それです。それは自分の場合も同じです。帰国してすぐの頃に、血圧が高くなっていたので、内科医に診てもらいました。血液検査結果や体重の増加から、友人に紹介いただいた医師は、『廣田さん、一度罹ったら後戻りできませんよ!』と、〈糖尿病予備軍〉の状況を警告さ れたのです。行動範囲が狭くなり、悪いことに新コロナの嵐が吹きまくって、家にとどまる機会が多くなり、確実に運動量が少なくなり、体重が増えていました。

 そんな中、お菓子や果物の糖度の高く美味しい物をもらい続けていました。確実に食べる機会や量が増えていたのです。子どもたちも注意してくれていました。それで、昨年末に、市の総合検診を受けたのです。胃と糖尿の再検査の結果が出て、家内の掛かり付けの獨協医科大学病院で検査をしていただくと、幸い胃には問題がなかったのですが、糖尿病だと言われました。

 サイトで市内の糖尿病専門医を探して、診察の予約をとりました。開院前に病院につきましたら、駐車場のまわりに置いてあるバラの花に水やりを、院長がしていました。私と挨拶を交わすと、ホースの栓を止め、医院の中に入って、カーテンを開け、錠を開け、エアコンとテレビにスイッチを入れて、私を招き入れてくれたのです。

 診察室や廊下に、一人のイギリス人画家の絵が何枚も架けられていたのです。患者の扱い、絵の趣味、ご本人が待合室に出て名を呼んで診察室に導く仕方を見て、『この方にお任せしよう!』と言うことに決めたのです。今、好い方向に向かっていて、飲んでる降圧剤や尿酸調整剤の薬がやめられそうなことも言われているほどです。

 あの〈後戻り不可〉を言われた段階で、治療を開始し、食生活を改善し、運動量を増やしていたら大事にならずに済んだのだと、遅い反省をしているのです。大体、『後で!』と、健康過信をして、人は重症化していくのでしょう。

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 戦時下の日本が、後送りをしないで、早く決断をしていたら、広島と長崎、満州、北方領土、日本の都市爆撃など、終戦間際の悲劇を回避できたと言われています。何が問題だったかというと、科学的な考察が足りなく、〈精神論〉ばかりが叫ばれ、情勢認識が甘く、正しく覚悟の決断が遅れてしまったのです。それで取り返しのつかない結果を生んだことになります。

 コロナ対策も同じです。あんなに専門家が警告をしてきているのに、耳を貸そうとしません。政治主導、経済、いえお金優先になってしまって、決断人の顔、外国の顔を見るばかりで、現実を正しく凝視しないでいるからです。いつも思うのは聖書の記事です。そこには、愛に動機付けられた「警告」が満ちています。

 『それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ211011節)』

 これも〈週末に関わる警告〉と言えるでしょう。「疫病の蔓延」が、世界大に広がっていく時代の直中に、私たちはいます。この時代を生きる一人一人が、はっきりと思いを決める必要がありそうです。大水、洪水が起こるというのは、食糧危機の飢饉が伴うことでもあります。心が乱れ、不安の恐怖に見舞われるのです。どう心の準備をすべきか、これこそが、私たちの大きな今の課題になりそうです。
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