木を植えた男〜2〜

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 第一次世界大戦が勃発します。「わたし」は従軍し、5年間を戦場で過ごしたのです。プロヴァンスでのことを考える暇などなかったのです。でも、戦争から復員すると、新鮮な空気が吸いたくなって、わずかな手当を手に、あの荒れ果てた地に向かうのでした。その地に変わりばえはなかったのですが、「廃墟の村に来ると、はるかかなたに、灰色がかったもやらしきもの」が見えます。

 その地を訪ねる前夜から、そこでの羊飼いとの出会いのことが思い出されるのです。「ああ、ひょっとして、一万本のカシワの木が、あんなにもひろくねづいたのかも・・・」と呟きます。五年もの戦争体験で、多くの人の死を見てきた「わたし」は、あの羊飼いも、もう亡くなっている様に思えたのです。ところが彼は生きていました。

 会うと、もう60ほどになっているであろう羊飼いの男は、かくしゃく(矍鑠)としてるではありませんか。その頃、彼は羊は木の苗を食い荒らすので、4頭だけ残して、100箱の養蜂を始めていました。そしてこの5年間も、木を植え続けていたのです。1910年に植えた、10歳になるカシワの木は、「わたし」の背丈を越して、大きく成長していたのです。

 その光景を目にした「わたし」は、言葉を失ってしまいます。羊飼いのビフィエ氏は、黙々と林の中を歩き回るのにしたがって、「わたし」もついて歩きます。三区域に分かれた林は、長さが11キロメートル、幅3キロメートルの広さに広がっていました。「戦争というとほうもない破壊をもたらす人間」が、ほかの場所では、「こんなにも神のみわざにもひとしい偉業」を成し遂げることができていたのです。

 ビフィエ氏は、思いついたことをみなやりとげていたのです。ブナの木などは、「わたし」の方に降りかかるほどの高さになって、みわたすかぎり広がっていました。カシワの森も、動物たちにかじられるのを耐えて、密生しているではありませんか。ビフィエ氏は、カバの木立も見せてくれました。五年の歳月を耐えていましたから、戦争で戦っていいた1915年ころには、もう芽生えていたことになります。「まるで若者のようにすっくと立ち」、みずみずしかったのです。(つづく) 

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木を植えた男〜1〜

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 「人びとのことを広く深く思いやる、すぐれた人格者の行いは、長い年月をかけて見定めて、はじめてそれと知られるもの。名誉も報酬も認めない、まことにおくゆかしいその行いは、いつか必ず、みるもたしかなあかしを、地上にしるし、のちの世の人びとにあまねく恵みを施すもの。」 

 こう言って書き出される、一冊の絵本を読みました。フランス人作家のジャン・ジオノの原作、フレデリック・バックの作画、寺岡襄の訳で、1989年に「あすなろう書房」から刊行された「木を植えた男」です。

 舞台は、フランスのプロバンス地方、時は第一樹世界大戦が始まった1915年の二年ほど前の1913年、「わたし」は、十代半ばの青年です。その地方の山を歩いていたのです。二つの川とヴァンツウー山脈に囲まれている山深い、海抜1300メートルの荒地をでした。

 行く手に集落がありますが、人が住まなくなった廃村で、水筒の水がなくなり、水を求めて何時間も歩き続けています。6月頃のことです。30頭ばかり羊を飼う一人の男と出会い、この羊飼いから、川袋に入った水を分けてもらうのです。まさに、〈清涼な命の水〉に思われたほどでした。

 この寡黙な男に、「わたし」は強い興味を示すのです。廃屋を改装した羊小屋に連れて行かれます。その小屋は小綺麗に掃除が行き届いていた様です。温かなスープを振舞われ、泊めていただくようにお願いすると快諾されます。

 どうもその村は、村人がいがみ合い、憎み合って、心も荒廃して村人は去ってしまったのです。そこに住み着いた孤独の影を漂わせる羊飼いは、食後に、テーブルにどんぐりの入った袋を広げて、ヒビの入っていない大きめな粒を、100粒ほど選nんでいるではありませんか。手伝いを申し出るのですが、「いや、けっこう」と断られ、床に着きます。

 もてなしに心が休まるのを感じた「わたし」は、この男に好奇心を持ち、もっと知りたくて、もう一泊と願い出るのです。「迷惑がると言うことを知らない男」は承知したのです。翌日、羊を牧羊犬に任せると、昨夜選り分けたどんぐりの実の入った袋を水に浸して、腰に結え、1メートル半ほどの鉄棒を手にしました。

 ついてくる様に誘われ、200メートルほど山道を登ると、その鉄棒で地面に穴を開けて、昨夜選り分けたどんぐりを一つ一つ埋め込んでいったのです。『(ここは)あなたの土地ですか?』と聞くと、『ちがう』と答えるではありませんか。聞くと、三年前からこの作業を続けているのだそうです。10万個もの種を植え、2万個が芽を出し、やがて半数はダメになる。でも一万本の「カシワの木」が根付くのです。

 この羊飼いは、その時、55歳で、名前を「エルゼアール・ブフィエ」と言い、それ以前は農場主として麓に、家族と共に住んでいました。ある日、突然息子と夫人を亡くし、世間から身を引いて、羊と犬との「ゆっくり歩む人生」をはじめました。彼は「なにかためになる仕事」をしたいと願ったのです。それが不毛の地に「命の種」を植え付けることでした。

 この「わたし」は、十代半ばで、出会った羊飼いと同じく、孤独の中を寂しく生きていたのです。でも孤独な魂と、ひびきあおうと言う細やかな心の持ち主でした。彼は、『もう30年もすれば、一万本のカシワの木が、りっぱに育ってるわけですね』と言うと、羊飼いは、『もし神さまがこのわたしを、もう三十年も生かしてくださるならばの話だが・・・、そのあいだ、ずうっと植えられるとすれば、今の一万本なんて、大海のほんのひとしずくってことになるだろうさ』と答えています。

 羊飼いの家の近くでは、ブナの苗木が育っていました。彼は、谷間でカバの木の植え付けも考えていた様です。あくる日、羊飼いと別れて旅立つのです。〈つづく〉

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寄留生活

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 私たちの街でも、〈ゴミ回収〉のために地区分けがなされていて、ゴミの種類ごとに、日曜日と木曜日を除いて委託業者の方が回収に回ってこられます。〈可燃家庭ゴミ〉は、週2回あります。今朝は、〈もやさないゴミ等/有害ゴミ〉の回収がありました。

 中国の華南の街では、私たちが生活していた少し前までは、分別なしで、大きなゴミ箱の中に、毎日、何度でも、しかも

何でも捨てていました。森林公園の奥の谷間に、ゴミ収取者が運んで捨てていました。でも、きっと最近では、〈分別ゴミ〉がなされて、ゴミ処理がなされていることでしょう。

 子どもの頃、ゴミ回収などしていませんでした。庭を履いていた父は、箒とチリトリとで集めた木の葉などを、庭の隅のカマドで燃やしていました。食べ物の残りは、埋めていたでしょうか。今のような過剰包装や、無駄のない時代だったので、そんなで間に合っていました。

 〈クズ屋〉さんが、自転車でリヤカーを曳いて、時々回ってきて、鉄製品など有価な物は量りで測って、お金を置いていきました。捨ててしまう今の時代とは違って、再利用がなされていたのです。

 人口が増え、街中で燃やすことができなくなり、結局街が責任をとって回収するようになって、今に至っているわけです。今朝も、床のモップ掛けをしました。電気掃除機をかけた後なのに、モップにはゴミがついてくるのです。生活は、ゴミを生み出して回っているのでしょう。

 今、“ space  debris(宇宙ゴミ)が問題になっています。宇宙開発が、国と国で競うように行われ、新興国が遅れじと開発に躍起にになって、国力のある国は、ロケットを打ち上げたまま、ゴミなっている現状を捨て置いて、そのままで過ぎています。” Wikipedia “ によると、次のように伝えています。

 『旧ソ連が、スプートニク1号打ち上げて以来、世界各国で4,000回を超える打ち上げが行われ、その数倍にも及ぶデブリが発生してきた。多くは、大気圏へ再突入し燃え尽きたが、現在もなお4,500トンを越えるものが残されている。』

 これからの〈新 Business 〉は、宇宙ゴミ回収業になりそうですね。大気圏が、地球を覆っている知恵に、驚かされますが、『地球が自転しながら、太陽の周りを好転している!』と、小学校で学んで、飛び上がるほど驚いた私は、太陽も月も星々も宙に浮いていることが不思議でなりませんでした。その宇宙がゴミだらけは悲しくて仕方がありません。

 遠くばかり見ている私に、地球や宇宙に保全だけではなく、自らの心の内の積年のゴミ、70年の生涯に生み出したゴミの処分が課題になっている様です。これこそが、〈終活〉の大切な一件になっています。もちろん、家の中にも、不用品が多くありそうです。イスラエルが荒野を彷徨った時、携行品はわずかでした。私の理想は、両手に、2個の Boston bag をもって生きる生活なのです。

 『 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル1113節)」

 ある宣教師の夫人は、ご主人と死別してから、2個の bag で、子どもたちの間を旅してきていると言っていました。彼女にとって、ご自分は寄留者で旅人であり、天の故郷に帰還する旅の途中にあると思っているのでしょう。さあ、2個の bag に何を入れるのかが難しいことでしょう。

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ふつうの男の子

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 『弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ92節)』

 《近代オリンピックの父》として、クーベルタンが有名ですが、今たけなわのParalympics》にも、「父(創始者)」がいます。ユダヤ系でイギリスで医師をしていた「ルートビィッヒ・グッドマン/ Ludwig Guttman 」が、その人です。

 ドイツで生まれますが、反ユダヤ主義を掲げて台頭したナチス誕生後に、イギリスに亡命しました。ナチスによるドイツが敗北した後も、イギリスの留まり、第二次世界大戦で体に損傷を負った傷痍軍人の回復のための治療に専念しています。

 私が子どもの頃、電車に乗ろうと駅に行きますと、駅頭に、白衣を着て軍帽を被った一団がいました。街頭募金、義捐金を集めていたのです。義手や義足、眼球のない目を露骨に見せていました。戦争で障害を負った人たちの悲惨な姿は例えようがありませんでした。

 この人たちは、電車の中も会い、『あああの顔で、あの声で、手柄頼むと・・・』と軍歌を歌っていました。父も従軍して戦場を駆け抜けていたら、同じように負傷していたかも知れないと考えたり、お父さんを戦争で失った級友たちと比べて、自分は、どんなに恵まれていたことでしょうか。

 戦禍で傷つき、機能を失った傷病兵たちが、勇気を持って、戦後を生きていけるように、強烈に願って誕生したのが、Paralympics なのです。このGuttoman は、次の様に言っています。

 『私は最初、スポーツを治療に活かすことを考えた。でも途中でもっと大切なことに気づきました。人間は肉体的に不自由になったからといってネガティブになる必要はない。スポーツを通して、心を輝かせることができる。そこが重要なのです!』

 『失ったものは数えなくていい、残されたものを最大限に活かそう!』

 そう言った理念で始まったのが、Paralympics です。こう言った人間観、障碍を負われた人たちへの Guttman の見解に、聖書の真理が見られるのです。弟子たちも、現代人も、人の負った障碍の原因を、父や祖父や祖先の犯した罪と結びつけて考えています。ところが、目が不自由で生まれついた男の人の原因を、弟子に問われたイエスさまは、次の様に答えたのです。

 『イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(ヨハネ93節)』

 R.J.パラシオが、「wonder ワンダー」という本を著しています(ホルプ出版2015年刊)。オギーという主人公が、《ふつうの男の子》として生きて行く物語です。同級生にも、後輩にも、華南の街にも《ふつうの人》がいました。みなさん強く立派に生きていたのです。

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記憶の中だけ

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 コロナ禍で、《しなければならないこと》があります。外出から帰宅した時に、手の消毒、うがいの他に1つ増えたのです。今は6週に一度、家内の通院になっていますが、通院予約日を遡る、2週間前から、付き添い人の私の「検温」です。その他に、県外に出掛けたことや人混みに出掛けたことなどの有無を記録して、家内の通院の窓口に出さなければならないからです。

 家内が、drugstore で買ってきてくれた体温計は、脇に挟んで、ものの10秒ほどで表示されるのには驚きです。もう振ったりしないですむ体温計なのです。大体、平温の36.336.6℃の間です。この「体温」ですが、経済にも温度があって、「経済の体温計」で測られる数値があるのです。

 総務省が行っている「消費者物価指数」を、そう言うのだそうです。5年ごとの調査報告画なされているそうで、品目は585あって、毎回30品目が新たに加えられたり、30品目が削られたりしています。昔、家にあった固定の黒電話などは、もうほとんど使わなくなったので、とうの昔に外されています。社会の変化、嗜好の変化、新しい物の誕生など、q時代遅れの物は消えていくのでしょう。

 この消費者物価指数は、各家庭で消費する物や Service の値動きを示す経済指標を表示しています。経済の活況や停滞の様子を表すので、健康状態を表す「体温計」に似ています。品目ですが、幼稚園の運動会や学芸会で、お父さんたちが、左手で持っていた「ビデオカメラ」は、もう「スマホ」に替わってしまっています。小型化、廉価化、多用化など、入れ替わりは激しそうです。

 買い出し当番で、「密」を避けながら、何軒ものスーパーマーケットに、私は出掛けていますし、週一の宅配生協の物もお願いしています。昔はなかった物が、店の case の中に置かれてあるのです。「カット野菜」」、「ベビーリーフ」、「サラダチキン」とか、健康食品と言われるサラダ関係の食材が多く出回っています。健康保持のための supplement なんかもあったりで、父や母の時代は「養命酒」と言ったものがありましたが、父も母も飲んでいませんでした。

 それ時代の動きを、経済の面で捉える興味深い統計指数です。実は、「統計」に興味があって、一旦は、それを学び始めたのですが、教職をしたくて、変えてしまった背景が、私にはあります。数字やgraph の表す数値が、面白くて仕方がありませんでした。その道に行っていたら、違った人生が拓けたでしょうか。

 子どもたちがいなくなって、空の巣の中で二人で生活をしていて、しかもコロナ禍で、訪ねてくる人、出掛けて行く機会が極端に少なくなってしまった昨今、わが家でも、「映像通信」が多くなっています。カメラで撮って、filmを現像に出して、焼き付けをしてもらったのを、封筒に入れて、切手を貼って送った時代が嘘のような今です。

 携帯のスマホで、撮影から送信まで、ものの20秒で完了です。しかもその映像を、孫たちは加工してしまうのです。巻かれた film も消えてしまっています。きっと探せば、どこかに売っているのでしょうけど、写真の DPE はもう、街中では機能していないようです。だからでしょうか、紙芝居屋も、チンドン屋のおじさんもおばさんたちも、記憶の中だけです。

(ベビーリーフです)

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balance

w.

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 「進取の精神」という言葉があります。“goo国語辞典には、<みずから進んで物事に取り組むこと>とあり、英訳は、” a enterprising spirit”で、「企業」とか「起業」も意味していています。また、中国語に、「温故知新(おんこちしん)」という言葉もあり、デジタル大辞泉には、『〈「論語」為政から〉過去の事実を研究し、そこから新しい知識や見解をひらくこと』とあります。

 明治のご維新以降、新政府は、あらゆる面で立ち遅れていることを認め、国家の近代化を、性急に図りました。そのために、維新政府がしたことは、800人もの「お雇い外国人」を、軍事や行政や医療はもとより、多くの分野に招来し、教えや導きを求めることでした。その時の思いを、「和魂洋才」と言うようです。その意味は、<日本固有の精神を失わずに、西洋からのすぐれた学問・知識を摂取し、活用すべきであるということ。「和魂」は日本固有の精神のこと。「洋才」は西洋の学問に関する才能や知識のこと。「和魂漢才」の類推から生まれた語(goo辞書)>です。

 これが、日本人の優れた点だと、国際評価されています。ところが、お隣の中国の清朝も、朝鮮の李朝も、欧米諸国から学ぶことを頑なに拒んだのです。それで、この両国の近代化が遅れてしまったと、後に歴史研究者が語っています。

 東京の大森に、「貝塚」があります。これを発見したのが、東京大学に招聘されていたエドワード・モースでした。また、「お雇い」ではなかったのですが、このPSの文書作成のために使っている、<ローマ字変換>のもとになる、「ヘボン式ローマ字」を紹介したのが、医師で明治学院を開学したジェームス・ヘボンでした。その他に、功績と名をあげたら枚挙にいとまないのですが、知的に教育的に、また現実的に貢献してくれた方が、日本が近代化していく黎明期(れいめいき)に、西欧から大勢のみなさんが来朝したのです。

 多くを受けた日本には、今度は「国際貢献」をしていく責任があり、責務があったのです。それで、多くの日本人が、海外に出て行って、貢献してきています。小学校で学んだ、細菌学者でワクチンを発見した野口英世や、国際連盟で活躍した新渡戸稲造がおります。その他に、名のない多くの人々が、低開発国に赴いて、喜ばれてきたのです。

 これまで時々、大阪と上海を、船で往復して来たのですが、大阪の波止場など、日本の港湾整備の技術の導入も、あの巨大な火力用ダムの建設も、初期的には、「お雇い外国人」がなした業だったのです。

 中学生の頃、年賀状に、「和魂洋才」などと書いて出した覚えがあり、いま思い返すと赤面の至りです。自分の内にある「和魂」が、偏屈な自分を作ってしまったからです。そんな私は、八年間、アメリカ人宣教師と共に過ごし、学ぶ機会が与えられことに感謝しているのです。それで、ほんの少し ” balance ” されたのだと思っています。

(港区白金台にある明治学院のチャペルです)

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 中学の遠足の時、バスの中で、「海軍小唄」を歌ったのです。40代の担任が振り返って、歌っている14歳の私を見て不興な表情を向けていました。私は、それを無視して、得意になって、『嫌じゃありませんか軍隊は・・・』を歌い続けました。生意気ざかり私は、その頃、「若鷲の歌(予科連の歌)」覚えて、自分の愛唱歌にしました。

 『  いのちおしまぬ 予科連の 意気の翼は 勝利の・・・』、13、4歳だった私は、私たちほどの年齢で、国のために少年兵となって行った海軍予科練習生や、特攻隊になって、祖国を守るために立ち上がった学徒兵に憧れたのです。戦争中に生まれていたら、きっと志願して軍人になりたかった平和の時代に育っていた私でした。

 ですから、知覧飛行場跡に作られた特攻記念館に、『いつか行ってみよう!』と思い続けていて、その特攻を礼賛していたのです。そんな少年期の私は、〈特攻の真実〉の記事を、今日読んだのです。

 真っ白なマフラーを靡かせて、勇しく、潔い青年の姿に、いつも自分を重ね合わしていた私に、特攻出撃前に、菊の紋を印刷された包装紙に包まれた、〈恩賜のチョコレート〉が配られ、それを食べて敵艦に突撃したのだそうです。単なる甘いお菓子だと思っていたら、違っていました。それは〈覚醒剤/俗にヒロポンと呼ばれていたもの〉を混入した物だったと、その読んだ回顧録にありました。

 それは士気を高揚させ、想いを高揚感にあふれさせ、死を恐れさせないで、痛みをも和らげると言った意図で作られ、配布されたのです。父や母、弟や妹、恋人にために、命を賭して死んでいった特攻兵にも、痛み苦しみ、死への恐怖があったのです。死を恐れ、突撃を尻込みさせていたのです。人として当然だったのです。

 そんな若者に麻薬を提供した軍のあり方を知って、悲しくて仕方がありません。勇躍して、祖国防護のために飛び立った方たちばかりではなかったことを知って、みなさんが、今の私たちと同じ死への恐れを抱いていたのです。人の死を理想化し、美化する怖さが、そこにあったのです。まさに、今になって、戦争の現実を知らされた次第です。

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 『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。 2テモテ110節)』

 父も母も、恩師たちも亡くなりました。やがて私たち誰もが迎える「死」ですが、この「死」に打ち勝って、蘇られた方がおいでです。その方を知って、信じることのできた私は、〈死の恐怖〉から解放されました。父も母も、兄たちも弟も、妻も子たちも孫たちも、信じたのです。

 私は、若い日に倉田百三が、弟子の亀井勝一郎に、『極楽はあるのだろうか?』と、死の床で言ったという記事を読んで、日本人の死生観の弱さを知らされたことがありました。愛国心でも、哲学でも超えない死の現実に、だれもが翻弄させられるのです。

 最大で最後の私たちへの問い掛けは、『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげ(棘)はどこにあるのか。(1コリント1555節)』です。私は、若い日に、はっきり《死の勝利》を宣言したイエスさまを知って、それを信じることができました。心の思いに刺さった「棘」が抜かれ、生かされている感謝が溢れている今です。

(鹿児島の知覧の茶畑、一服のお茶です)

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こわさ

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 「怖さ」って善いものです。子どもの頃、家の隅っこにある厠(かわや/toilet)に、夜中に行くのが怖くて、『お母さん!』と呼んで、一緒に行ってもらったも甘えん坊でした。悪戯して怒られるのが怖くて、終礼を pass して、部室で終わるのを待っていました。また交番の前を通ると、何もしてないのに、ゾクっとして嫌でした。

 民主主義でない国では、首長が国民によって選ばれない国では、国が、国民を脅かしていますから、怖いのは秘密警察や公務員です。しばらく過ごした国では、窓口の女性は、service と言う「仕える業務」の担い手なのに、公安(警察署)の窓口人は、実に横柄でした。権威の皮を被った狐みたいで、威張っていました。

 ところが私たちに国では、明治以降、「選挙」によって、国民が、国や市や県などの首長を選ぶので、普段は威猛々しいのですが、立候補する時は戦々恐々、選挙期間中は平身低頭でお願いばかりしてます。投票者が怖いのです。

 一昨日の横浜市長選挙で、それが如実に現れたのではないでしょうか。たかが一票なのに、そんな紙切れ一枚が、どこへ行くのかを読めないところに、立候補者の「怖さ」があるのでしょうか。〈まさか〉なのか〈当然〉なのか、結果が出てしまったわけです。

 「親方日の丸」、時の権力者のご威光が、反映されないことに、非力を覚えるのも、この選挙制度の「怖さ」です。国民は、よく見て聞いて、分かっているからです。指導者の条件の一つは、「人心収攬術」に長けていなければ、ダメです。やさしく言いますと、技術ではなく、「人気」を得ているかどうかです。

 友だちになって欲し人は、自分のことを知っていて、心配してくれて、困難に立っている私のために助け舟を出してくれるような人を、だれもが友にしたいに違いありません。コロナの疫病的な危機の中で、まさに心理的な危機に陥っている、この時代人が求めている指導者は、そう言った人ではないでしょうか。

 三日くらいは徹夜ができる体力と気力の人、どこにでも何時でも飛んでいける人であって欲しいのです。会議で居眠りをしたり、寝不足で不機嫌になったりしていてはダメです。《四十代市長》なら、《五十代知事》、《六十代首相》、いえ《五十代首相》がいてくれるなら、国民は安心できます。その上、《家庭をしっかり治めている人》であって欲しいのです。

 伊藤博文が、『私は神を畏れる!』と言った欧米の政治指導者に、『私は、神も恐れない!』と言って顰蹙(ひんしゅく)を買ったそうです。真に、《神を畏れる指導者が、政界、官界、教育界、実業界などに誕生し、安心して信頼できる指導者が立ち上がってくれることを切に願う、善き友を思う八月です。

 

(上杉鷹山が治めた米沢の今の銘菓「時雨の松」です)

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川止め

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江戸防備のために、幕府は橋の架橋を許しませんでした。それで、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言う馬子唄が歌われたと、小学校の授業で学んだのを覚えています。これには続きがありました。

箱根御番所に 矢倉沢なけりゃ    

連れて逃げましょ お江戸まで

三島照る照る 小田原曇る 

間(あい)の関所は 雨が降る

 天下の剣、箱根には関所があって、「出女入り鉄炮」に目を光らせて、検問していたのです。ところが、雨季の難所は、「川越え」でした。雨で川が増水すると、「川止め」になって、宿場町に留め置かれて、許可が出るまで待たされたのです。松尾芭蕉も、51歳の時に、東海道を京に向かって旅をしていた途中、大井川の川留めで、島田宿に留め置かれました。その時に、次の句を読んでいます。

 五月雨や空吹き落とせ大井川

 『濁流渦巻く大井川よ、いっそのこと五月雨の空を吹き落としてくれまいか!』、五月雨(さみだれ)の雨量は半端ではなかったのでしょう、芭蕉は三日間足止めになって、空を見上げて、この句を詠んだのです。

 九州、四国、山陽、関西圏、岐阜など、8月の梅雨前線の停滞で、大雨が続いて、大きな被害が出ています。江戸期の雨で、とくに物流業者は大変だったのでしょうか。陸路は、山あり谷あり川ありで、それで流れを利用した「舟運」が盛んに行われていて、ここ栃木も、家康の亡骸を、日光に改葬するにあたって、東照宮の造営と維持のために、江戸から物資を運び登った、おもに「日光御用」の舟による輸送が行われたのです。

 「部賀舟(べがぶね)」で巴波川を上り下りし、大型の「高瀬舟」に荷を載せ替えて、渡良瀬川、利根川の流れで、江戸を行き来したのです。巴波川の「うず」は、「渦(うず)まく」様に流れる川だったので、そう命名されたと言われています。ですから、舟運も難儀することが多かったに違いありません。
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 今回の雨で、眼下に眺める巴波川の水量も、ずっと増水のままでしたが、やっと元の流れに戻ってきた様です。散歩コースの一つが、この巴波川の上流まで土手を歩くのです。流れの端には、川を逆流して舟を人力で曳き上る道があって、多くの人足が働いていたことでしょう。

 川を上下するのも、横断するのも雨の多い日本では、ことさら、架橋が許されなかった江戸期には、人々は大変だったに違いありません。それにしても、近頃の雨は半端ないのに驚きます。来年、再来年には、今年でも、九月には、フィリピン付近に誕生して北上する台風が、列島を襲う様な予感がして来ます。降った雨水を集めて流れ下る、川の流れの威力には驚かされます。

 昨夜も、遠くで雷鳴がしてくると思っていたら、しばらくして雷雨が激しく降っていました。巴波川は、瞬く間の増水でした。
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