寺小屋

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 わたしの通った小学校は、山の狭間の渓谷の奥の山の中腹にありました。兄たちの通う、その学校の校舎が火事になったことがあって、兄はお寺の仮教室(寺小屋でした)で学んでいました。入学する前に、上の兄に連れられて行って、そのお寺の教室の兄の机の横に置いてもらった椅子に、ちょこんと座っていた記憶があります。脱脂粉乳を分けてもらって飲んだのです。入学式の準備は整っていたのですが、街の国立病院に入院中で、式への出席は叶いませんでした

 その小学校には、授業に出た覚えがないまま、東京の八王子に家族で引越しをし、転入した学校は、第八小学校の大和田分校でした。そこでも学校に行った日は少なかったのです。一年後、その隣町に、父が家を買って引っ越したのです。転校先は、日野小学校でした。内山先生が担任でした。この先生に、国語の授業で褒められたのが、生涯唯一の教師からの激励でした。昨日のことのように覚えています。

 木造校舎、床板、薪ストーブ、アメリカから寄贈されたミルク、虫下しの海人草(カイジンソウ)、叱られたこと、たたかれたこと、立たされたことがありながらも、学校に行くのが好きだったのです。まさか、自分が、後になって、教師になるなんて考えもしませんでしたが、行けなかった分を取り返すかの様に、教師になったのかも知れません。

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 教師を辞めて、伝道の働きをしたのですが、娘の主人が長野県の南信の県立高校の英語教師をしていた時、『村歌舞伎が、近くの大鹿村であるから観に来ない?』と誘われて、家内と二人で出掛けたのです。後に映画化される、江戸時代に、幕府の監視をかわしながら演じられ続けてきた「大鹿歌舞伎」でした。

 演目の「藤原伝授手習鑑」の場面で、印象的だったのは、書道をする子どもたちの「寺子屋」でした。道真の時代に「寺子屋」はなかったのですが、歌舞伎や浄瑠璃で取り上げるに当たって、江戸期に生まれてくる「寺子屋」を場面設定したのでしょうか。この演目が上演され、好評を博したのが1740年代の江戸中期でしたから、芝居上の仮相設定だったに違いありません。

 この寺子屋といえば、18世紀には、日本全国に15000もあったと推定されています。上方では「寺小屋」、江戸では「筆学所」と言っていたそうです。読み書き算盤を、庶民・町人の子弟にも学ばせていたことになります。庶民教育のこの形態は、世界に類を見ないほどのことであり、『当時の《識字率》は50%程だったろう!』と言われていますから、驚きです。

 日本で行われた、庶民教育は、世界を驚かせたものでした。この三本立ての教育が、幕末にやって来た外国人を驚かせたと記録されています。1872年に「学制」が、維新政府によって敷かれるのですが、明治に行われた教育の基盤に、この寺小屋がなっていたのです。大鹿歌舞伎では、〈悪戯生〉がいて、教場を歩き回ったりしていて、自分を見てる様でした。

 寺小屋は、「フリースクール(free school)」の様な教育形態なのかも知れません。幼い友人が、学校の授業や宿題で使ってる tablet  の導入で行われる、画一教育全盛の今、それとは違って、各自の習熟度でなされる個性的な教育の原型が、寺小屋にはありそうです。明治以降、先生が偉くなり過ぎなのも気になります。わたしの中学の担任が、教壇を降りて、われわれと同じ床に立って、挨拶をしていたのが思い出されます。

 初めての教育体験は、さながらお寺の本堂で行われた「寺小屋」で、古びた教室が、だだっ広かったこと、兄の級友にも可愛がられた記憶があります。校則などなかったので、弟が自由に出入りできたのは、火事のせいだっただけではなく、日本の田舎の良さだったかも知れません。

(「寺小屋発酵塾」のイラスト、山間の「大鹿村」です)

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『翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。(創世記
2818節)』

 念願の「枕(まくら)」を買いました。母が用意してくれたのは、父のまくらには、「あずき(小豆)」が入っていたのですが、母も子どもたちも「そばがら(蕎麦殻)」でした。以前は、それが一般的だったのです。きっと父の育った家では、危急の時のために「食料」になる様に、平時にはまくらに、食料に窮した時のために、小豆が確保されていたのでしょう。昔の人の知恵ってすごいですね。

 去年の誕生日に、家内が  present に、有名寝具店の高級枕を贈ってくれました。上等過ぎて、中身の少ない自分の頭には合わなくて、結局、そうでない家内が使っているのです。自分は、家内のものを使っていたのですが、化学繊維のurethane 製は、どうも好きになれなかったのです。それで、子どもの頃に使っていた「そばがらまくら」を、スーパーの二階の衣料品店で見つけて買ってしまいました。850円だったのです。

 使い勝手がいいというのでしょうか、自分の頭に記憶があるのでしょうか、ピッタリ合っているのです。American size で大きなまくらが流行って、それが愛用されてきたのですが、小さな頭には持て余し気味で、しっくりしなかったのです。頭を動かす時のそばがらの動く音が耳に心地よいのです。イスラエル民族の族長の一人、ヤコブは石を枕にした、と聖書にありますから、それで熟睡できたのでしょうか、驚きです。

 華南にいた時に、ある方が、「ふんどし(褌)」をしていて、家内が、『洗濯しますから、洗うものを出してください!』と言ったら、下着と褌を出して、家内は笑いながら洗濯機にかけて、干していました。この方が帰ってから、贈り物を送ってくれた中に、そのふんどしが、わたし用にと、二本入っていたのです。もちろん新品でした。

 日本男子にはこれがいいのです。母に、サラシで作ってもらったことがありました。それは、「越中(えっちゅう)」と呼んだのですが、「六尺」というふんどしもあって、水泳をする時に、古来日本人は、水泳パンツの代わりに、これを使っていたのです。溺れた時に、解いて使ったり、溺れた人のふんどしを掴んで救助するのに良いからでした。

 六尺の長さで一本の晒(さらし)は、包帯にもなりますし、おぶい紐にもなったりで、実に重宝なのです。中学の臨海学校では、その「赤フン」をしめたのです。男子校でしたから、しめ方から始まって、懐かしい思い出です。あの少年たちも、年を重ねて、ひ孫を抱く様な年齢になっているのに、時間の過ぎゆく早さ、盛んな時の短さに、感じ入ってしまいます。

 住む家があり、寝る布団があり、頭を置く枕があって、静かに、平安に夜を過ごすことができて、なんと恵まれ、感謝なことでしょうか。ウクライナでは地下鉄のホームや階段で、戦火を避けて、夜を過ごしているのを聞きますと、申し訳ないような思いがしてきます。東京空襲で、防空壕にいた一瞬の光景に覚えがある、と家内がいいます。つくづくと枕を見てしまう朝な夕な、石ではなく、蕎麦殻枕でよかったと思うことしきりであります。

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和解

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「二ひきの蛙」   新美南吉

緑の蛙と黄色の蛙が、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」と緑の蛙がいいました。

「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」と黄色の蛙がいいました。

 こんなふうに話しあっていると、よいことは起こりません。二ひきの蛙はとうとうけんかをはじめました。緑の蛙は黄色の蛙の上にとびかかっていきました。この蛙はとびかかるのが得意でありました。黄色の蛙はあとあしで砂をけとばしましたので、あいてはたびたび目玉から砂をはらわねばなりませんでした。

 するとそのとき、寒い風がふいてきました。二ひきの蛙は、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。蛙たちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないのです。「春になったら、このけんかの勝負をつける。」といって、緑の蛙は土にもぐりました。「いまいったことをわすれるな。」といって、黄色の蛙ももぐりこみました。

 寒い冬がやってきました。蛙たちのもぐっている土の上に、びゅうびゅうと北風がふいたり、霜柱が立ったりしました。そしてそれから、春がめぐってきました。

 土の中にねむっていた蛙たちは、せなかの上の土があたたかくなってきたのでわかりました。さいしょに、緑の蛙が目をさましました。土の上に出てみました。まだほかの蛙は出ていません。

「おいおい、おきたまえ。もう春だぞ。」と土の中にむかってよびました。すると、黄色の蛙が、「やれやれ、春になったか。」といって、土から出てきました。

「去年のけんか、わすれたか。」と緑の蛙がいいました。「待て待て。からだの土をあらいおとしてからにしようぜ。」と黄色の蛙がいいました。

 二ひきの蛙は、からだから泥土をおとすために、池のほうにいきました。池には新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへ蛙たちは、とぶんとぶんととびこみました。

 からだをあらってから緑の蛙が目をぱちくりさせて、「やあ、きみの黄色は美しい。」といいました。「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」と黄色の蛙がいいました。

 そこで二ひきの蛙は、「もうけんかはよそう。」といいあいました。

 よくねむったあとでは、人間でも蛙でも、きげんがよくなるものであります。

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 これは、新見南吉の「二ひきの蛙」です。2匹のカエルが、自分の方が色が綺麗で、違う色の相手をけなすのです。両者とも互いの違いを受け入れることができずに、なじり合い、喧嘩になります。冬が来て、2匹とも冬眠に入って、時間が経つて、「春」が来て目覚めると「和解」するという話です。

 体の色の違いが、冬眠が明けると、2匹とも泥にまみれたになったままの体でしたが、水で体を洗ったのです。そうしましたら、互いの体の色がはっきりとしたのでしょう、互いに、その美しさをみとめ、褒め合う様になったのです。

 学校のいじめ、国と国の争いが、人の思いを暗くし、悲しみも増しているこの時代、考えさせられる話です。ウクライナへのロシア軍の攻撃には、伏線があって、やがて、ロシア軍は地中海沿岸のイスラエルに、必ず進軍する、その序曲なのですが。この2匹のカエルの様に、和解ができたら素晴らしいのですが。

 こんな話を作った新美南吉が、世に出るために、助けをしたのが、巽聖歌(たつみせいか)でした。聖歌は、クリスチャンでした。わたしたちの長男の妻は、南吉と同じ知多半島の出身でした。聖歌は、わたしが小学校からずっと生活し、上の兄と弟が今も住んでいる東京都南多摩郡日野町(現日野市)で、亡くなるまで長く住んだ街で、何か共通点があり、作品と共に近さを覚えるのです。そういった縁で、日野と紫波町(旧・日詰町)とは姉妹都市となって交流が続いているのだそうです。

 どうして、人も国も、互いの存在を認め合わずに、銃をとって攻撃をするのでしょうか。こんなに賢く作られた人間が、愚かな行動をとって、結局は自分も自国も滅んでいくではありませんか。相手の素晴らしさを褒めたらいいのに、いつも邪魔をするのは、誇りなのでしょう。相手があっての自分を道めたらいいのに、そう思う百花繚乱の春、この春は必ず巡ってくるのです。

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それでも

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 小学校にも中学校にも、薪を背負って、歩きながら書を読む「二宮金治郎像」がありました。これから学ぶ子どもたちに、倣うべき模範の人物が、農政改革、農業の改善や増収のために、その果たした功績の多大な人物として訴えかけ続けてきたわけです。教育者の中には、この人を挙げるのに異議を唱える人などいません。

 わたしも背負子(しょいこ/弟が山小屋の仕事で使うために小屋主に作ってもらった物でした)に薪や荷物をつけて、金次郎のしたことに真似たことがありましたが、漫画を見ていただけで、その精神に倣うことはありませんでした。でも、その門をくぐった校舎の教室や、その他の教室で、多くの忍耐強い良き教師に教えられたことには感謝が尽きません。

 わたしの学んだ小学校の校歌に、『鏡と見まし山と川と』と一節がありました。遠望する逞しく聳える富士山を仰ぎ、多摩川の押し流す清流を見ながら、切磋琢磨して、奮励努力して学んで欲しいという願いが込められていました。

 今朝の新聞に、県下のある小学校の校門の脇に、その二宮金治郎ではない、一人の人物の像が置かれているのだと掲載されていました。わたしは、これを読んで、この街の大人たちは、この人を鑑にして、小学生たちが、その人から学んで、生きていって欲しいと願ったに違いありません。

 その人は、野口英世です。福島県の猪苗代の人で、郵便配達を仕事としていたお父さんの子として生まれ、幼少期に囲炉裏に落ちて手に傷を負います。その負った手の傷を治してくれた医師に倣って、医師を志して学び、後に細菌学者として生きた人でした。

 黄疸や梅毒の研究による業績によって、多くの賞を国外から贈られいます。でも、これから学ぶ小学生が、模範としていく人物としては、どうしても首を傾げたくなっているわたしなのです。人が生きていく方便があり、それを上手に使って生きていく才が、この人にはあったようですが、それはいいのです。一番気になるのは、梅毒のスピロヘーターという細菌の研究、ワクチンの開発のために、何をしたかが問題なのです。

 研究の被験者に、ついての記事が、次の様にあります。「571人の被験者のうち315人が梅毒患者であった。残りの被験者は「対照群」であり、彼らは梅毒に感染していない孤児や入院患者であった。入院患者は既にマラリア、ハンセン病、結核、肺炎といった様々な梅毒以外の病気の治療歴があった。対照群の残りは健常者であり、ほとんどは2歳から18歳の子供であった(ウイキペディア)。」

 そして、被験者から、〈同意を得ていない点〉が一番の問題なのです。人間の弱さは、誰もが持ち合わせていますが、若い頃の行状は、不問にふされてもいいのかも知れません。でも、1928年、51歳で死んだ時に、黄疸病に感染したことが原因だとされますが、亡骸の解剖によって、若い頃に罹患した梅毒が直接の原因だとも判明されています。自堕落に青年期を過ごしていたのです。

 偉くなったし、その勇名を世界に鳴り響かせたこと、多くの褒賞を得たことは、驚くべきことです。命懸けで生き、人間性も何もかもがごちゃごちゃとした人間像は、小学生の model には、相応しくないのではないでしょうか。

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 業績だけが大切で、そのためにやった非人間的なことには目をつぶるなら、結果だけが人間評価の基準なのでしょうか。人生のすべての中で、どんな人間観、患者観、研究者の理念、在り方などで、疑問視される様な人物は、自分の孫たちに、『鑑としなさい!』とは言えません。

 街の桶屋のおじさんが、良い桶を作ることだけに専心して、鉋を使って作り上げ、それを喜んで使ってくれるお客さんの必要のために生きて、ただの桶屋さんで一生を終わった人の方が、小学生の模範になるのではないでしょうか、誠実さや勤勉さなどの方がいいからです。もちろん若気の至りを悔いているなら、いいのでしょうが、それでも、なのです。

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都上り

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 『主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。 その祭司らに救いを着せよう。その聖徒らは大いに喜び歌おう。 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。 わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」(詩篇1321318節)」

 イスラエルの民は、年に三度、民族的な行事として、「都上り」を励行していました。「過越の祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」に、エルサレムの神殿に、捧げ物を携えて、それぞれの町や村から、青年男子は上るのです。

 彼らは、黙々と苦行者の様にして道を歩んだのではありません。神への讃歌を喜び歌いながらシオンに入ったのです。その歌は、「詩篇」の「都上りの歌」と呼ばれる、120〜134篇のダビデの詩でした。実は、この詩篇にmelody をつけた賛美chorus があり、よく礼拝の折に賛美したことがありました。

 イスラエル人、ユダヤ人にとっては、生ける神、エホバとかアドナイと呼ばれる神を礼拝するための「都上り」でした。流浪の民ユダヤ人は、世界のどこに居留しても、エルサレム、シオンを、故郷の様に思い、「シオンに住まれる主」への礼拝、感謝、賛美を捧げたのです。その離散した地から、19世紀になると、Zionism と言われる民族的な動きが起こり、世界中に散っていたユダヤ人たちに、「シオンに帰ろう!』とする思いが湧き上がって、ついに、1948年5月14日に、建国に至るのです。

 東京に遷都されるまで、京都が日本の都でして、「京に上る」という言い方で、位置付けられていました。ところが明治維新以降、東京が都に定められてから、鉄道網が敷かれていき、全国を網羅する様になるのですが、どの列車も、東京に向かって走る列車は、「上り(のぼり)列車」になっています。
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 昨日、上の息子が出演するという「レイアロハ・フェスティバル」が行われる「新小岩公園(東京葛飾)」に、急遽行ってきました。まさにわたしにとっては、下野栃木からの久々の「都上り」だったのです。貰ってもいけないし、上げてもいけない「コロナ」のことを考えたのですが、春の晴れた晴天の下、野外で行われる festival ですので意を決したのです。

 東武日光線、東武亀有線、JR総武線と乗り継いで、新小岩駅で降りて、荒川の流れの端の広大な区立公園で行われた、Hawaiian  festival に参加したわけです。招かれてお話や司会をする息子の応援でした。15でハワイのヒロの高校に入学して学び、ハワイの教会で奉仕をした経験がありますので、挨拶語もシャツも、『Aloha!』が、彼には似合っていました。

 主催者の方の賛美も、フラダンスも、お話もみんな素晴らしかった週末の土曜日でした。そこは、まるでハワイでしたが、フラダンスや模擬店やお店の賑やかさ以上に、フラで賛美をした最後のステエジは圧巻でした。一時、生ける神が崇められたのが最高に有意義な時だったのです。都のはずれ、下総国の境の片隅で、主が褒め称えられたのは素晴らしいことでした。こんな「都上り」だったら、毎週出かけてみたいものです。
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介入

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 他民族や他国家に、どの国も民族も優しくありません。それで人類は戦争を繰り返して、21世紀を迎えています。今も、同じ東スラブ民族のロシアが、ウクライナに攻め込み、戦争状態にあり、驚くべき犠牲があって、悲しくて仕方がありません。

わたしたちの国も、かつては、「五族平和」とか、「大東亜共栄圏」と言ったslogan を掲げて、大陸に軍事侵攻を繰り広げていった歴史があります。

 その侵略を阻止するために、欧米列強は、ABCD Line (米国America,英国Britain,中国China,オランダDutchの頭文字)を敷いて、経済封鎖で、日本の暴挙に介入しました。ガソリンなどの石油類を、輸入に頼っていた日本は、その供給源を絶たれるなど経済制裁をされたのです。それで国際連盟を脱退し、米英に宣戦を布告して、真珠湾を攻撃して、太平洋戦争に突入してしまいました。

 経済的な面だけを見るなら、不公正に思えますし、その報復として宣戦を布告し、奇襲したのを是としたいのですが、もとはというと、大陸進出に問題があったわけです。そもそも日本は活路を開くために、中国の東北部、満州に開拓団を送り、その防備のためにとぼ名目で、軍隊を配備したことに問題があったわけです。

 ドイツは、第一次世界大戦の敗戦で、莫大な賠償を強いられました。疲弊した誇り高いゲルマン民族は、強いドイツの建国を掲げたのです。そして、ナチスが台頭し、国家巣権を握り、ヒットラーは、「第三帝国」の建設に牙を剥きました。

 その帝国建設のために、教会を支配下に置こうとし、ユダヤ人を虐殺し、優秀民族を作ろうと、生命操作までしたのです。日本も、中国大陸で、人道に反する犯罪行為を働きました。神は、その日本やドイツの侵略や暴挙を許しませんでした。人命軽視や戦争犯罪を許さなかったのです。神の鉄槌が降り、大きな犠牲を払うかたちで、その野望は潰えたのです。

 そう言った歴史の動きの中で、一人の人物のことを思い出すのです。神学校教師をし、ドイツ告白教会の若き牧師であったデートリッヒ・ボンヘッファーです。その横暴を許さない、軍関係者や政治家などによって、「ヒットラー暗殺計画」があって、ボンヘッファーもそれに名を連ねたのです。

 ヒットラーが自殺する三週間ほど前に、その暗殺計画に、ボンヘッハーが加わっていたことが、一人の暗殺団員の日記で露見し、捕えられ、処刑されてしまうのです。キリスト者で、福音主義の教会の一人で、牧師であった人を、教会の主であるイエスさまが、39才の彼が殺人者となることを未然に防いで、その罪から守るためだった様に、わたしには感じてなりません。彼が信じ、仕えた神は、『汝殺すなかれ!』と命じられたお方だからです。

 「暗殺計画」、悪の元凶を打ってしまおうとする働きが、独裁国家を許せない勢力にはたびたびあります。ウクライナ問題や新疆ウイグル問題を思う時に、『いっそのこと!』といきりたつ思いに駆られ、それを支持したい気持ちにされることが、わたしじもあります。しかし神が与えられた命を、人は、どの様な理由があっても奪うことは許されることではありません。ただ、罪が満ちる時に、神は介入されるということは確かなのです。

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サイン

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 野球は、観るスポーツとして面白いし、しても楽しめます。日本でもアメリカでも、野球タケナワの春です。父のフアン振りは、驚かされました。

 この野球の要は、選手を束ねる監督で、彼は、一つ一つの場面で、<sign(サイン)>を送って指示をするのです。自分だけではなく、ベンチの選手やコーチを通してもする様です。相手に見破られない様に、様々に手を用いてしています。バッターも野手も、その指示に従ってプレイをするのです。

 ですから監督の作戦通りに進行して行くわけです。また、アメリカで行われているアメリカンフットボールは、一人、または複数のアシスタントコーチが、観客席の高いところから、フィールド全体を見て、チーフコーチに、無線で状況を伝えて、作戦を立てる様です。

 それらは、駒を動かす指し手の意思で、歩や金や銀の駒が動く「将棋」に似ています。野球やアメリカンフットボールの選手は、生きて自分の意思を持っているので、時には、見落とすこともあるのでしょう。子育てをしていた頃に、子どもたちが、<サイン>を出していました。母親は、小さなサインを見逃さないで、察知して、臨機応変に対処していて、『すごいな!』と思ったことが何度もありました。

 思春期の子どもも、恋心を感じると、相手に無言のサインを出したりします。大人だって、様々なサインを出していて、特に医者は、そのサインを通して診断を下したりするのです。それは医者ばかりではなく、学校の教師にも、それを読み取るスキルが求められているのです。

 中学の時、グレかけていた私が、様々に服装や歩き方や言葉や振る舞いをしているのを、観察していた担任が、時々、私を呼びつけては注意したり、三者懇談の時に、母親に注意をしてくれました。そのお陰で、思春期の危機に守られたのを思い出します。

 きっと、私の担任は、他の教科を教えている同僚に、『どうですか最近の準は?』などと聞いてくれていたのでしょう。教師全員が、シフトについて、子どもたちを見守っていてくれたのです。昨今、相談に出かけ、言葉でサインを送り、何度も何度もそうしたのに、そのサインを見落としたのか、無視したのか、子どもたちが自死してしまうケースが多くなっているのではないでしょうか。由々しき事態です。

 子どもたちの生活の変化、問題行動のサインを、察知する能力を、親や教師には与えられているのです。職責を果たすために、天が授け与えている能力なのです。アンテナを高くして、その子どもたちのサインを、敏感に感知していただきたいものです。そうしたら、楽しい学校生活を過ごせるのですから。

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奈良県

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 いにしへの 奈良の都の 八重樱 けふ 九重に にほひぬるかな

 これは、伊勢大輔(いせのたいふ/大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘)が、『かつての奈良の栄華をしのばせる豪勢な八重桜だけど、今の帝の御世はさらにいっそう美しく咲き誇っているようだよ!』と花に託して、今の宮中の栄華ぶりをほめたたえた、〈大和朝廷讃歌〉です。

 今まさに、染井吉野の桜前線が、北海道にまで上がっていったと、ニュースが伝えていました。今春も散歩の途中で、子どもたちのいない小学校の校庭の脇に、実に綺麗に開花し、『ああ春だ!』と実感させられたのです。ときおり花びらが散り落ちて、咲く花も散る花も、春の趣がいっぱいに溢れていました。

 かつての日本の中心は、平安京・京都でしたが、それ以前には、飛鳥京、藤原京、平城京、長岡京など、今の奈良県が列島の要であったのです。中学校の遠足は、奈良と京都への旅でした。奈良公園では、鹿を追いかけたら、追いかけられて逃げるのが大変でした。東大寺の大仏の大きさには、度肝を抜かれたのです。

 母を産んだ実母が嫁いだお寺が、奈良公園の近くにあって、まだ元気だった母と兄弟たちとで訪ねたことがありました。大和郡山藩の菩提寺とかで、禅宗のお寺で、その敷地や建物の大きさに驚かされたのです。小学校の林間学校で、東京郊外のお寺に泊まって以来の宿泊を、その宿坊でさせてもらいました。自分たちの教会とは違って、お寺の豊かさには驚かされました。
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 やはり奈良は、「いにしへ」を感じさせられた時で、日本の原点なのだと再認識をしたのです。律令制下の「大和国」、国都に選ばれた地でした。その都から、日本統治がなされて、全国各地の統治が始まっています。ここ下野国にも国庁が置かれ、国分寺、国分尼寺がその近くに開かれ、その跡地が、「天平の丘」と名付けられて残されています。長い旅をして、大和朝廷の官吏たちが赴任し、京都に行き来をしたことでしょう。

 さて奈良県は、県都が奈良市、県花は奈良八重桜、県木は杉、県鳥はコマドリです。人口は131万人で、有力な豪族が「大和王権」を建て上げ、「大和朝廷」を起こして、「政(まつりごと)」を始め、その支配を確立していったのです。現在、高市郡明日香村が、県南にありますが、そこが「飛鳥朝廷」が置かれたと伝えられています。

 育った父の家では、よく「奈良漬」が食卓に並べられていました。母が好きだったのかも知れません。瓜(うり)を酒粕で漬け込んだもので、わたしの基督者の友人は、二切れ三切れ食べて、酔ってしまったことがありました。かつては、明日香や奈良の朝廷の上級官吏たちが食べたものだそうで、一般庶民が食べる様になったのは、いつの頃からでしょうか。そういえば奈良漬、食べたいですね。

 遣唐船で長安に留学して、帰国が叶えられなかった、阿倍仲麻呂は、故郷、奈良の都が恋しかったのではないでしょうか。若くして留学しましたから、家族と囲んだ食卓に、この奈良漬が並んでいたのかも知れません。長安にはなかったでしょうから、故郷の味覚も懐かしかったに違いなさそうです。

(春の奈良公園の桜と鹿です)

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 4000年も前に記された、聖書の記事を読んでいると、心の動きは、この21世紀を生きている私たちと、全く変わらないのが判ります。長く文字を持たなかった日本人は、言葉もなく、人と人とが意志の疎通を欠いていたかの様に錯覚してしまうほどで、何を考え、何を語っていたのかの無言だった様に思えてしまうのですが。

 その時代の人々の心の動きを知ることができないのは、実に残念で仕方がありません。日本人の思考や思想を、言葉で表現していたのに、文字化されてないので、空白の様に感じてしまうのです。人と人、男と女、大人と子どもの間に、隣人、村の指導者との間などに、様々な感情があって、意思の疎通や誤解があったに違いがないのですが、その記録がないわけです。お母さんは、自分の息子に何を言っていたのでしょうか。

 「箴言」を書き残したのは、ソロモンだったと言われていますが、そこにお母さんから受けた勧めを記録されています。

 『マサの王レムエルが母から受けた戒めのことば。私の子よ、何を言おうか。私の胎の子よ、何を言おうか。私の誓願の子よ、何を言おうか。 あなたの力を女に費やすな。あなたの生き方を王たちを消し去る者にゆだねるな。 レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。「強い酒はどこだ」とは、君子の言うことではない。 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。 強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。 彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。(箴言3117節)』

 当時も、多くの男たちを迷わせていた問題、同じ様に現代人をも誘惑してやまない女性問題、対アルコールの弊害など、わが子を思う母親の言葉を読んで、自分の母を思い出すのですが、わたも同じです。同じソロモンの箴言に、次の様にあります。

 『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言423節)』

 一国を支配し、政(まつりごと)の責任を負わされた者は、とくに誘惑の機会が多いのかも知れません。お金、女性、名声、酒などは、いつも深い穴を広げて、誘い飲み込もうとしているのです。そして多くの人が、それになぎ倒され、それに飲み込まれてきた、それが人の歴史なのかも知れません。

 神の命令に従い、欲望を正しく制御し、人を愛したり、赦したり、激励したり、感謝したりして生きることが大切に違いありません。欲望に従うか、神の法(のり)に従うかで、人生は全く違ったものになります。欲望は、際限なく高まりますが、そうなればなるほど、深い穴の中に引きずり込まれてしまいます。神を畏れることによって、神に助けられて、その誘惑に勝てるのです。

 『わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。(箴言151617節)』

 わたしは、問題だらけ、欠点だらけでしたが、聖書に従うことを学んだのです。物によって築き上げられた家庭ではなく、心や精神で支えられる家庭を建設したかったのです。家族で質素な食卓を囲み、赦したり愛し合う団欒のある家庭が欲しかったのです。酒や異性で、家庭を壊さない様に願って生きてこれました。それが創造者の願われる一生や家庭であったわけです。

(“ Christian  clip art ” による「愛」です)

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