10月10日

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「統計」、goo辞書によりますと、「[名](スル)集団の個々の構成要素の分布を調べ、その集団の属性を数量的に把握すること。また、その結果を数値や図表で表現したもの。「―をとる」「―を出す」「就業人口を―する」。」とあります。

今日、10月10日は、50年前に「東京オリンピック」の開会式が、首都東京に、新装なった「国立競技場」で行われた日です。その開会式を、テレビで観ていました。真っ赤なブレザーを着た日本選手団が、秋空に映えていたのを思い出します。私と同世代の聖火の最終ランナー坂井さんが、聖火台に点火した時、真っ白な鳩が放たれて、紺碧の秋空に舞い上がって行きました。さらに五機のジェット機が、五輪の五色の輪を空中に描いたのには、実に驚かされてしまったのです。

悲惨な戦争が終わって19年、焦土から立ち上がった日本が、起死回生の復興を遂げたことを、全世界に向けて、発信した一大出来事でした。それは、絶望し、落胆し、うなだれた日本人の頭(こうべ)を上げさせてくれた、スポーツの祭典でした。『世界のみなさん、日本は平和な国に蘇えりました。!』との挨拶を、世界に向けて語ったかのようでした。

その年、東海道新幹線が、東京と大阪を4時間(今では2時間25分)で結んで開業しました。戦闘機を作って来た頭脳と技術が、陸上の基幹交通として平和利用された証であったのです。19の春を生きていた私にも、『夢を捨ててはいけない。明日に向かって駆け出せ!』と語りかけてくれたのを覚えています。その秋、東京駅の新幹線の食堂車に、食材を積み込むアルバイトをしていました。空いている時間に、新幹線のプラットホームで、逆立ちをしたり、地上転回をして遊んだりしていました。

あの10月10日が、開会式に決定されたのは、統計上、この日が晴れである確率が高かったからでした。科学的な根拠に基づいて決定されていたのです。今日の東京の空は、どうでしょうか。台風19号が、沖縄に接近しているようですが。被害の少ないことを願いながら、東京に思いを向けている<ハナキン(華の金曜日)>の午後であります。

(”jijicom”による、聖火走者・坂井義則さんです)

春秋

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「春秋に富む」と言う言葉があります。「史記(齊悼惠王世家)」の「皇帝春秋富」からの出典です。「春秋」とは<年>のことで、<年齢>の意味でも用いられています。ですから、その意味は、『これから先、残されている年数が多い!』ということになります。

将来のある若者に、『あなたは春秋に富んでいますね!』と言うのです。これは私にも、青年期に当てはまった言葉ですが、それは瞬きの間のように過ぎて行きました。こちらでよく聞く言葉に、「時間過了很快」があります。『時の経つのは大変早いものです!』と言う意味です。中国に参りましてからの年月の動きもそう言うのですが、人生そのものを、そう言って悔やむのが人の常でしょうか。

これも、よく聞いた言葉で、「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。」があります。『学ぶべき時に学んでおかないといけない。時間を浪費してはいけない!』との教訓なのでしょうか。学びを怠った者には、<後の祭り(時期を逃がして甲斐のないこと)>になってしまいます。

また、「春秋高し」と言う言葉もあります。『高齢である!』という意味になります。まさに私は、今や、「秋高し」です。ところが、一昨日のニュースに、今年のノーベル物理学賞を、赤崎勇氏が受賞することになったとありました。赤崎氏は85歳、私が、その年齢になるには、小学校入学から大学卒業までの年数以上の年月が残されていることになります。その挑戦は、『もう一度、初めめから勉強をやりなおしなさい!』でした。

この赤崎氏について、こんな逸話を同級生が語っているそうです。戦争中の軍需工場での勤労動員の折、クラス全員が教官に殴られることになったのだそうです。その時、『級長の私一人を殴ってください!』と、赤崎少年が前に進み出たことを覚えてるそうです。十代の中ほどで、そんな素晴らしい心を持った少年だったことに、感動させられます。その後、どんな風に生きて来たかは、推して知るべしですね。

このノーベル賞受賞に、心から、『おめでとうございます!』と申し上げます。

(”jijicom”による、赤崎勇氏です)

アモイ

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今週、七年ぶりに、厦门(Xiamen、アモイ)に参りました。私たちを訪ねてくれた長男を伴って<動車Dongche、中国版の新幹線>に乗って,夕方、着いたのです。駅頭に、車で迎えて頂き、北駅から40分ほど、よく整備された道路を走って、街の中心にお連れ頂いたのです。厦门大学の海寄りの道路に来た時、その場所が記憶にありました。初めて来た時に、海浜に高架の道路が建設されたばかりで、そこを車で通ったことがあったからです。

当時、高速道路も動車もありませんでした。長距離バスに乗っての小旅行だったのです。厦门巿内も、高層建築はわずかでしたし、古い街並みを見ることができたのです。でも今週見た市内には、バス専用の市内を運行するバス専用(BRT)の道路ができ、高いビルが立ち並んで、その変容ぶりはきわだっていました。 とくに国慶節の休み中でしたから、多くの観光客が、街歩きをしているのを、見かけたのです。

『どこかの街並みに似てる!』と思ったのですが、シンガポールの中華街周辺の町並みに似ているのです。行ったことがありませんが、写真でみたスペインやイタリア風の建て方なのでしょうか。何度かシンガポールに行きました時に、娘が住んでいましたので、早朝、よく散歩をしましたからよく見知っていたわけです。街作りのモデルになるのは当然なわけで、このシンガポールの人口の78%が中華系の人たちだからです。

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アモイの街の中は、とても綺麗で、静かなのです。開放政策が行われた時に選ばれた街の一つが、この街だからでしょうか、今も、市民の平均収入は、国内でも非常に高い、豊かな街だそうです。もう少し時間があったら、好かったのですが、時間の都合で一泊しかできませんでした。一緒の息子に、もう少し多くのところを見せたかったのですが、次回に譲ることにした次第です。

彼は初めての中国でしたが、二つの街で出会ったみなさんとの交わりを通してでしょうか、すっかり中国と中国のみなさんに好感を持ったようです。『今度は、ご家族でおいでください!』と言われていました。ぎこちない中国語を使っていましたが、通じたのか通じなかったのか、それを喜ばれてもいたようです。昨日は、昼食と夕食をご馳走になって大喜びでした。『これは、朝五時に漁れた自然のエビです。養殖ではありません!』と言われて、頬張ったエビの美味しさに感動していたほどです。

今朝、友人が、六時前に迎えに来てくださって、空港までお連れいただき、北京経由で、成田まで帰って行きました。ちょっとせわしなかったのですが、好い旅行だったことでしょう。空港のケンタッキーで、家内が払おうとした隙に、払って頂いた「ラテ・コーヒー」が、ことのほか美味しかった早朝でした。

(”百度”から、厦門大学、BRTの駅です)

粧いの秋

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「笑う」、「滴(したた)る」、「粧(よそお)う」、「睡(ねむ)る」と言う四つの動詞があります。明の時代の楊愼撰は、「画品」と言う作品の中で、『山は春には笑い、夏には滴り、秋には粧い、冬には睡る。』と、記しました。自然界の一年の移り変わりを、こう言ったことばで表現する、<感性>に驚かされしまいます。

[畫品]
郭煕四時山、
春山淡冶而如笑、
夏山蒼翠而如滴、
秋山明浄而如粧、
冬山惨淡而如睡。

こう言った世界が目の前に広がっているとするなら、山が新芽を吹いて、まさに笑う様に見え、山が雨を頂いて青々と滴る様に見え、紅や黄に変色した山が着飾る様に見え、やがて眠る様に山が休息しているのが感じられるのです。その様に感じられる国があるなら、それは私たちの祖国だと思うのです。

秋十月、「粧いの秋」の到来です。定山渓も、渡良瀬も、日光も、箱根も、白樺湖も、蒜山も、四万十の源流も、阿蘇も、紅葉で着飾ろうとしているのでしょうか。私の生まれた中部山岳の山村も、秋の山は見事でした。猿や鹿や熊が出没した、幼い頃の故郷のことをよく覚えています。アケビや山の梨や柿や栗の実を採って食べたのです。小川では、ヤマメの魚影を見たり、捕まえようとして逃げてしまったり、そんなこともありました。

日本列島は「山紫水明」、「四季鮮明」な自然の中にあり、日本人もまた、「感性豊富」な民なのではないでしょうか。我が家のベランダ、から、ビルの向こうに、そう高くない山が見えます。でも目の前には見えません。先週土曜日に、森林公園からもう少し奥まで山歩きをしてみたのです。木々の間を歩いたのではなく、舗装道路をずっと歩いたのですが、華南の夏の名残のする山路は、まだ夏山の様に見えました。

五日市の駅から山に分け入って、一人で山歩きをした中二の頃から、御前山、瑞牆山、茅ヶ岳、入笠山など、低い山歩きをして来ましたが、どの山も、個性的で刺激的でした。決して登山愛好家などではない私ですが、山に登ろうとし、山を愛する人たちの心は、よく分かります。みなさん、笑っている山のように笑いたいのでしょう。滴る様な湿潤さに身をおいてみたいのでしょう。粧っている様に、心を粧いたいのでしょう。そして、眠っている山を、起こさない様に静かに登ったり下りたいのでしょう。

昔の人は、自然と一つになって、和して生きていたと言うことでしょうか。自然への感謝が、心に溢れていました。それを現代人は、残念なことに、忘れてしまったのではないでしょうか。

(”山の写真集”による「茅ヶ岳(山頂が三角形)です)

 

ふと思うこともある

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今では、大きなショッピングセンターが近くに出店したおかげで、四路線に増えた学校経由の公共バスのどれかに乗って、週二日、出勤しています。この街で、二校目の学校で教え始めて、七年になります。この間の<学生気質>の変化は、何度かこの欄で触れてきましたが、教師たちにも、同じ様な変化が見られるのです。この一年ほどの変化でしょうか、自家用車で通勤される教師が増えているのです。

学校には北門、東門、西門にバス停があり、東と西の門の近くには、バスターミナルがあるのです。それだけ利用客が多いと言うことになります。その門から校内に入って、教室まで歩くのですが、多くの木や花が植えられあり、飛んでくる鳥たちが、さえずりで歓迎してくれるのです。以前は自転車置き場が、幾つもあったのですが、今では駐輪している自転車や電動自転車は、とても減ってしまいました。

そのかわり、校内の沿道には、所狭しと自家用車が駐車されているのです。かつては見られなかった光景です。教師の待遇が良くなったからでしょうか、利便性からでしょうか、それとも自家用車の所有が、一つの職業的誇りの表れになっているのでしょうか、その変化は歴然としています。

退職後、私の弟は、週に三日ほど、若い教師の相談相手や、彼も卒業生ですから同窓会の事務やクラブ指導の仕事をし続けているのです。そんな弟が、雨の日以外、自転車通勤をしている様です。健康管理のためでしょうか、多摩川を越えて、さっそうと出掛けているのです。

日本でも景気が良くなってきて、誰もが車を持つ様になってきた時期を迎えていました。そんな中で、地方都市におりましたし、仕事の範囲が広くなり、家族も増えて行きましたので、この私も<自家用車族>になったのです。兄から中古の車をもらったり、何台もの車を乗りつぶしてきました。ある時は、二台も車を所有していた時期がありました。ところが今は、車なしの生活をしているのですが、さすが、雨や嵐の日には、『車があったらなあ!』と思ってしまいます。しかし、こちらでは、運転をする自信がありません。

そんなこんなで、徒歩とバス、時にはタクシーの生活をしております。でも慣れたのでしょうか、ふだんは、なんでもありません。先日は、ジャガーという車をはじめて、こちらで見かけました。まさしく庶民の私には、<高嶺の花>、驚いてしまいました。いえ、欲しいわけではありません。もう恰好や見栄は、どうでも好くなりましたから。

(写真は、”WM”による、秋の風景です)

羽田飛行場

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東京オリンピックが開催されたのが、1964年(昭和39年)の10月でした。19才の青年期の真っただ中に、私もおりました。その年に、藤間哲朗の作詞、佐伯としをの作曲で、新川二郎が歌ったのが、「東京の灯よいつまでも」だったのです。

1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

まだ学生で、外苑や日比谷を、女友だちを連れて歩くような社会人ではなかったのですが、淡い火影の揺れる東京の浪漫を感じさせられて、よく歌を覚えています。とくに、「いとし羽田のあのロビー」と言う、鼻音で歌う箇所が印象深いのです。まだ成田空港ができていませんでしたので、この羽田飛行場が、外国への行き帰りや訪日外国人の日本で唯一の玄関口でした。

この歌が流行ってから、十年以上も経ってからのことでした。一緒に働いていたアメリカ人の企業家の家族を、この羽田まで車で見送ったことがあったのです。車を駐車場に停めて、そのロービーで、休暇で帰国する彼らを見送りました。そこは東京なのですが、そこはかとなく外国を感じさせられる所だったのが印象的だったのです。人も物も匂いも、そこは欧米色で満ちていました。

今のような海外旅行が盛んになる前でしたから、日本人の旅行者は少なく、あの狭いロビーでも十分だったのでしょう。多くの外国人が行き来していた、そのロビーで、この歌のフレーズを思い出したわけです。見送りでも、しばしの<別れ>でしたので、留守の間の責任の重さを、ズシリと感じて家に一人で帰って行ったのです。日本に戻って来られる時も、この羽田に、彼らを出迎えたのですが、その時のことはよく覚えていません。何年も何年も経って、羽田が何度か改装されて、今のような大きく立派になってしまったのには、昔を知っている私は驚かされております。なぜか、あのロービーの人、物、匂いは記憶に鮮明なのです。

(”WM”による、当時の羽田飛行場の「国際線ターミナル」です)

賢さ

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地球は、大雑把にできているのではありません。人間が生息するために、信じられないほど綿密な構想や計画がなされているのです。地表に生活する人間のための<空気の濃度>は、奇跡的なものです。極点はともかく、通常の生活のための<気温>は、衣服で調整できる範囲に調整されています。雨の降る量も、適量です。燃料も、固形燃料から液体燃料、そして核燃料と、地表から掘り出せるところに埋蔵されてあります。驚くほどに按配されているのです。

そこにあるのは途方もない「知恵」です。造山活動や造陸活動がなされた時、無作為に作り上げられてはいないからです。メガコンピューター以上の計算や設計図があって作られているのです。「偶然 」などと言ったら、地球からごうごうの非難が上がることでしょう。当然の様に、毎日、いえ毎秒吸っている「空気」について、ちょっと調べてみました。その成分は、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、メタン、他、です。その濃度も配合も、人間の体が必要としたものになっていて、100年以上吸い続けても無害です。賢く配合されているわけです。

こう言った地球環境に、適合した生物が生成され、生命を持ち始め、個体が出来て、愛したり赦したりできる人間に進化したのでしょうか。私の小さな脳みそでは、そんなことは考えられないのです。この「賢さ」は何なのでしょうか。私は、海が好きなのです。山の中で生まれたので、海への憧れが大きいのだと思っています。人生の一番好い時期(現在も最良と思っていますが、一般的に言って)を、四方を山で囲まれた地で生活した反動かも知れません。また父の家系の<海好きのDNA>を引き継いでいるのかも知れません。

上海の码头(波止場)から、黄蒲江、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海を渡って大阪港への船旅をする時、14410トンの「蘇州号」に乗るのですが、岸壁では 、『うわー、大きい!』と思うのです。ところが大海に出ると、木片の様な船、それに命を任し切っている、<人間の小ささ>を感じるのが好きなのです。海の掟に従って、船長が繰る船が、自然の摂理と争わないで、波濤を越えて、前に進んでいる姿が好きなのです。

そうすると、この地球が、宇宙と言う大海原を航行する<船>の様に思えてくるのです。マストもエンジンもスクリュウも操舵桿もないのに、毎日毎日、自転しながら、一年をかけて空中を回っている、<不安定さ>が好きなのです。海に海水が満ちています。太陽に照りつけられると気化してしまいます。ほどほどの量です。それが真水となって雨を降らせ、その水を飲んで、人は生きているのです。その水が大地に注がれて、人の食物を育てるのです。種は、どこから来たのでしょうか。それを受け止めて育む土の成分と滋養分は、どこから来るのでしょうか。

やはり、この地球は、<賢く>機能しているのです。今、その地球が、悲鳴を上げています。壊れ始めているのです。手を打ったり、対策を講じたり、いえ、反省しないと、終いには爆発してしまうのではないかと心配でなりません。

(写真は、”WM”による、月から見た「地球」です)

忘れていること

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私たちが、忘れていることがあります。この地球の内部には、<マグマ>があることをです。<マグマ>とは、”知恵蔵2014”によりますと、

「地下の岩石が融解して生じる高温の液体。それが地表から噴出するのが噴火。マグマが液体状態のまま火口から噴出したものが溶岩。マグマの大部分はケイ酸塩溶融物で、主な構成元素は、酸素、ケイ素、アルミニウム、マグネシウム、鉄、ナトリウム、カリウム。ケイ素の量は、マグマの流動性や、噴火のタイプを左右する。ケイ素が少なく流動性の高いものが玄武岩質マグマで、主に溶岩流として噴出する。以下、含有量が増えるにつれ、安山岩質マグマ、デイサイト質マグマ、流紋岩質マグマと呼称が変わり、流動性が悪くなり、爆発性が高まる。火口からの噴出温度は、玄武岩質が1200℃前後、流紋岩質が900℃前後。マグマの起源は、上部マントルの深さ100km付近かそれ以浅にあり、マントル物質の上昇流の中で、減圧融解により岩石が部分的に溶け、形成されるとみられる。形成直後のマグマはおそらく玄武岩質で、それが上昇する過程で、条件によって鉱物結晶が析出し(結晶分化作用)、また地殻物質と反応して、ケイ素の量が増えていく。」とあります。

岩石が液状化した極めて高温な物質のことなのです。『北海道も、アラスカも、マダガスカルも、自然が溢れていて、感動的な美がある!』と言われて、誰もが行って見たい観光の名勝地なのです。私が生まれた村のそばにも、奇岩の山があり、岩の間からは滝が流れ下り、実に神秘的な美の世界があるのです。その最たるものは、南米に仕事で出かけた時に、連れて行って頂いた「イグアスの滝」なのです。『地球上に、こんな自然があるのか!』と、足がすくみ絶句したほどでした。

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そんな美と神秘の景観の下には、この<マグマ>がうねっているのだと言うこと、何度も見上げて来た「御嶽山」の昨日の噴火で思い出させられたのです。緊張している国際関係も、仁川で行われているアジア大会も、シリアの空爆も、この<マグマ>の上で行われていることになります。一旦、吹き出せば人命も、築き上げて来た文化財も、美しい紅葉も消し去ってしまうのです。これから冬になると、「日向ぼっこ」をしたくなりますが、真夏には猛暑をもたらす太陽が、少し斜めに射してくると、『暖かい!』と感じるのですが、実は、その太陽も燃えているわけで、<火の固まり>なわけです。

『日本列島には、110もの活火山がある!』、物凄い自然の中で、人が生きている、いえ生かされているわけです。ある人が、『自然界は人がして来た所業にたいして怒っているのだ!』と言っておいでです。開発、便利さ、富、そう言った物を追い求めて、自然を傷つけて来たので、地球が揺れ動き、風呂桶をひっくり返した様な暴雨が降っているのではないか、そう思えてなりません。人間の強欲と傲慢と非礼への<しっぺ返し>かも知れません。

(写真は、”Goo”による噴煙を上げる「御嶽山」、”九州大学”による「地球の構造」です)

秋は夕暮れ

 

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高校の「古文」の授業で、清少納言の「枕草子」を学んだことがあります。その初めのところに、次の様にありました。

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春は曙・・・夏は夜・・・
秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)                                冬はつとめて(早朝)                  「青空のホームページ」より

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秋の美しさや趣を感じられるのは、「夕暮れ」時が際立っていて、山際に沈んで行こうとする夕陽が、ことのほか感じ入るのだと言っているのでしょうか。東京から香港に飛び、香港から寝台列車に乗って北京に来たのが、2006年の八月の下旬でした。そこにバスで迎えてくれ、天津のアパートまで連れて来てくれたのが、ドイツ人の夫妻でした。

着いたのが夕刻でした。食事に連れて行ってくれ、すっかり用意してくださった部屋に入った時は、ベッドも作られていました。この若い夫妻が、用意しておいてくれたのです。すでに日本から送った物が、部屋の隅に置かれてありました。そこで天津での生活が始まったわけです。

七階の陽当たりの良い部屋で、日の出から日の入りまで、ベランダで眺めることができました。大平原に落ちて行く、大陸の夕陽を見た時、紅のような赤さと、見たことのない大きさに度肝を抜かれたのです。日本では見たことのない壮大で、神秘的な様だったからです。その時に思い出したのが、中村雨紅の作詞、草川信の作曲の「夕焼け小焼け」でした。

1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手手つないで みな帰ろう
烏(からす)といっしょに 帰りましょう

2 子供が帰った あとからは
円(まる)い大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星

日本の自然の美しさと違った、中国大陸の大きさと美しさに圧倒されてしまったのです。『長安の都で、宮仕えをした、安倍仲麻呂も、同じように感じたにだろうか?』などと思ってみたりしました。やはり、この大陸でも、秋には「夕陽」が一番似合うと言うことに納得したわけです。そのベランダの目の前に、高い煙突がありました。暖房の温水を作り、アパートの各部屋に配水する施設のものでした。十月の中頃には、もくもくと煙を吐き出していたでしょうか。

その煙突が、やけに思い出されるのです。あの近辺では一番高いアパートの七階だったので、視界が大きく広かったのです。そこで夕陽や月を眺めたのですが、煙突が屹立(きつりつ)して、頼もしかったわけです。

(写真は、文中の天津の「煙突」と「夕陽」です)

運動の秋 2

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中高の六年間通ったのは、男子校でした。替え歌で、『♭・・・櫟林(くぬぎばやし)のその中に 粋な男がいると言う・・・♯』と歌っては、むさ苦しさを掻き立てていたのです。その学校は、「大正デモクラシー」の自由な時代の風を受けて、<体と頭を動かす教育>をしたいとの初代校長の教育理念の結晶だったようです。そんな教育のあり方に感じ入った父が、『雅、行ってみるか!』と言って入れてくれた学校でした。12才の子供と18才の大人の<六年の年齢差>は大きかったのです。ヒゲの濃い、いかつい高三から小学生に毛の生えた様な中一が、同じ敷地の中で学んだのです。

今頃は、運動会に向けて、午後は、中高の縦割りで、応援の練習が校庭で繰り広げられていました。早稲田や明治の応援歌の替え歌を歌わされました。大きな班旗がふられ、『♭ 紺碧の空 仰ぐ日輪・・・♯』とか『♭ 武蔵野秋空 希望に高く 意気は・・・♯』を、『声が小さい!』と叱咤されて大声で歌ったのです。風薫る季節、真っ青な秋空、バンカラな感じが相まって、運動会の当日よりも、それまでの練習の日々のことが、実に懐か思い出されます。

籠球部(バスケットボール部)に入部したら、高校のインターハイや国体の東京都予選の応援に駆り出されては、ボールを持たされて、先輩の後をついて回りました。九段、小石川、両国などの高校巡りをしたのです。それでも、帰りには、<ご苦労さん会>で、食事をご馳走してもらいました。決まって、新宿の西口の線路際の、棟割長屋のような小さくて小汚い食堂に連れて行かれたのです。空きっ腹に、実に美味しかったのです。どの先輩がおごってくれたのか覚えていません。

また、秋だったと思いますが、マラソン大会がありました。高校二年だったでしょうか、送球部(ハンドボール部)に入っていたのです。一番ビリで走り始めて、何人抜けるかを試したのです。ちょっと小生意気でしたが。この時だけ、同じ敷地内にあって、金網で仕切られてあった女子部の生徒が、沿道から応援をしてくれたのです。『マサヒトさーーーん!』と声を掛けてくれたのです。そうしたら鞭の入った競走馬のように、韋駄天(いだてん)で走り抜けたのです。そんな声が掛かったのは、自分ひとりで、『マサ、もてるじゃあねえか!』と、みんなに羨ましがられたことがありました。

焼いた秋刀魚(さんま)の匂い、その白い煙りが、薄暗がりの運動場にたなびいていました。勉強はあまりやらなかったのですが、いやー、みんな昨日のことのようです。

(写真は、秋の旬の味「秋刀魚」の塩焼きです)