悲しくてなりません

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『世界中で、人の心が荒れ荒(すさ)んでいる!』ようです。と言うよりも,<愛が冷えている>時代が到来しているのかも知れません。地球温暖化で、地球上は酷暑、猛暑、暴雨に見舞われて、人の心が、余裕や我慢や忍耐をなくしてしまったのでしょうか。天気のせいにしてしまうのは言い逃れです。みんなが不快や不安を、同じように感じているのですから。

今朝のニュースで、目の不自由な女子高校生が、暴行を受けて三週間の怪我をしたと伝えていました。白杖が触れて転倒された腹いせで、後ろから足を強烈に蹴り込んだのだそうです。しかも無言で、そうしたのだそうです。社会の中で、強者が弱者と共に生きることによって、<優しさ>を心の中に培う、素晴らしい機会なのに、なんて言うことでしょうか。そこはスパルタはなく、JR川越駅だったそうです。

かつては体の不自由な方たちは、家に籠もって、なかなか社会進出をしませんでした。『人に迷惑をかけるといけないから!』と言ってでした。そんな中、『優しい社会を作ろう!』と言う社会意識が強まってきて、<点字ブロック>が設けられ、道路などの<段差>が解消され、横断歩道の音声でのお知らせなどに努めてきています。どうも、心の中に、もっと大切なものを設ける必要があるようです。

先日も、盲導犬が、追尾して来た男に、フォークのような物で刺される事件があったばかりでした。また、こんな事件が起きて、この女子高校生は、外を歩けなくなってしまうのではないかと心配でなりません。この加害者は、<平成の大悪人>です。朝から悲しくてなりません。点字ブロックを白杖で触れながら、登校し、出勤し、買い物に出るみなさんが、人の愛や善意に触れて、安心して生きられる社会であることを、ただただ願う朝です。(10日に記す)

(写真は、”旬彩館”より「マツムシソウ」です)

テニス界の雄

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『相手がひるんだ隙こそが、攻撃の好機だ!』と言うのが、競争や競技の鉄則です。どのスポーツでも、とくに個人戦の競技では,相手の体制を崩すのは、勝機をつかむ絶好の時なのです。柔道でもレスリングでも、バトミントンでも卓球でも、同じです。勇猛果敢に、攻撃をしかけて、返し技ができないほど、やりこむことは卑怯なことではありません。 ウイキペディアに、次のような記事が載っています。

『「やわらかなボール」が放たれたのは、1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)である。対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返したという。チルデンが体勢を立て直し、返球がエースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンがラケットで指した所、観客がスタンディング・オベーショを、清水に向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという。』

ここに出て来ます「清水」とは、清水善造のことで、日本テニス界の黎明期に、国際舞台で活躍した選手です。当時の世界順位で、第三位に上げられるほどの名選手でした。ウインブルゾンでの善造のプレーは、観衆から賞賛を受けた、素晴らしいものだったのです。プロ選手としてはともかく、人間としては高く評価されるべきことだったわけです。相手が、体勢を立て直して、球を打ち返すことができるように、攻撃の手を緩めたわけですから。

戦国の武将は、『やあやあ、我こそは・・・』と名乗りを上げて、武人としての闘争心を高揚し合い、面と面と向かって、渡り合ったような<潔(いさぎよ)さ>それと同じような意気ウインブルゾンの観衆が、感じたのでしょう。また善造は、いつもニコニコしていて、<スマイリー・シミー>と、親しく呼ばれた人気選手だったのです。

フェアープレイが、なかなか見られなくなっているスポーツ界ですが、<紳士のスポーツ>と言われる<テニス>を、日本男子が、イギリス人に負けないような<紳士>として競技したことは、私たちが誇ってよい特質ではないでしょうか。 後年、彼は、洗礼を受けたキリスト者として、敬虔に生きたと記されてあります。ヨーロッパ人に比べて、体の大きくない選手でしたが、貧しさゆえに早朝のアルバイトの草刈りと、長距離の登下校で鍛えた、強靭な足腰を持っていたそうです。群馬は高崎の人でした。

(写真は、”WM”による、コート上ネット際の清水善造氏です)

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「四季の歌」の二番に、次にようにあります。

夏を愛する人は 心強き人
岩をくだく波のような ぼくの父親

<父のような夏>だと言うのです。つまり男性的な季節だと言うのでしょうか。ギラギラと陽が照りつけ、陽炎(かげろう)が燃え、雷光や雷鳴、そして土砂降りの夕立があり、甲高いアブラゼミの鳴き声があたりを圧倒し、西瓜やトマトの美味しい季節でもあります。よく川に泳ぎに行き,帰りに<ボンボン>と言う氷菓を買い食いし,兄や近所の遊び仲間と,家に帰った記憶があります。

今の子どもたちと違って,夏休みの宿題も少なかったし,し忘れて新学期に登校しても、それほど怒られなかったのです。どの学年でも、担任、隣りの担任にさえも叱られてばかりでしたから、記憶が薄いのかも知れません。自動車も少なかったし,生活がのんびりし,生活圏も狭かった時代でした。追いかけられたり、強いられたりすることのほとんどない、自分の歩調で生きられた時代だったのです。蛍は,山の中に行かなくても、家の前の小川で捕まえられましたし,蚊帳の中に放って,点滅するのを眺めてる内に眠りに落ちたのです。

夏が好きな私でしたが、ただ一つ嫌いだったのは、必ず蚊に刺されることでした。周りにいる人は刺されないのに、必ず自分は何箇所も刺されるのです。それはどの夏も例外なく繰り返されたことでした。ですから、こちらに来てからも、蚊帳を張って寝ないわけにはいきません。それで今年も早々と、戸棚から蚊帳を出して張ったのです。しかし出入りが下手なもですから、蚊帳の中に蚊を招き入れてしまい、安全圏なのに刺されてしまうのです。

ところが、今年は特別で、「異変」が起きているのです。どうしたことか、蚊に刺される回数が、これまで三回ほどしかないのです。代々木公園の近くで、蚊に刺されてデング熱に感染される方が多いそうですし、こちらでも広東省の広州でも多発してるようですから、蚊の発生は多そうです。私の住む街では、暑すぎて蚊の発生が少ないのか、蚊に好まれる自分の体質が変わったのか、不思議でなりません。狐につままれているような感じの秋口の週初めです。

(浮世絵は、二代目広重の「 赤坂桐畑雨中夕けい」です

カタカナ語

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<カタカナ語の氾濫>を嘆く人のブログ記事を読んで、これまで書き続けて来た、ブログを読み返してみました。やあー、実に多いのに驚きました。中国伝来の漢語は、カタカナ表記はしませんが、これらも外来語です。中世以降のポルトガル語(「カステラ」が有名)明治維新以降の英語やフランス語やドイツ語が、混ざりに混ざって、今の日本語が成り立っているわけです。

中国語では、外来語を、どのように表記しているのかが面白いのです。アメリカのことを、日本語では「米国(亜米利加)」、中国語は「美国」です。ニューヨークは「紐育」で「紐約」です。中国の方が、欧米諸国との接触が、鎖国中の日本よりも早かったので、中国語表記の影響を、日本語がおおきく受けているのです。「リンカーン」は、「林lin」に「肯ken」のように、地名や人命の発音に似ている漢字が使われているのです。

台湾に行った時に、ある所でお話をさせてもらいました。話の始めに、『廣田さん、カタカナ語を使わないでいただきたいのですが、よろしいででょうか?』と言われたのです。話の原稿を見ますと、何箇所にもカタカナ語があるではありませんか。それを日本語に言い換えなければならないわけで、ちょっと戸惑ってしまったのです。通訳者が、英語をご存知でも、日本語化されて使われている英語を類推することは、台湾の方にはできなかったからです。カタカナ語は、英語ばかりではなく、フランス語もあるのです。例えば、「ニュアンス」は英語ではなく、フランス語なのです。

実は、『カタカナ語は極力使わないで文章を書く!』と決心して、このブログを書いて来たつもりですが、その決心を忘れ てしまって、実に多いのです。同じように、国会議員の質疑応答、文筆家の文章にも多いのです。難しいので、辞書を引くのですが、綴り(「スペル」と書いたのですが<綴り>に書き改めてしまいました)が分からないのでうやむやになってしまうことが多いのです。

「繰り返して訪れるお客」を、”リピーターrepeater” と呼んでいますが、英語本来の意味は、「連発銃」か「常習犯」や「落第生」なのだそうです。馴染みのお客さんが来た時、『あっ、連発銃を持った常習犯と落第生が来た!』では、実に失礼になってしまうわけです。綺麗な日本語、大和言葉があるのですから、極力使いたいと再決心の「長月」の七日です。さて「ブログ」は,何と日本語で書き表したら好いのでしょうか。

(写真は、福砂屋の「カステラ」です)

中秋節の休み

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今週末から、来週始めまで、「中秋節」で休みになると連絡がありました。新年度、新学期が始まったばかりですのに、予想外の休みに、緊張気味の気持ちが、少々緩んでしまいました。でも、この休みは好いものです。

日本にいたら、<ジジババ>をしているのでしょうか。もう学校に行き始めているので、両親や祖父母よりも、友達が一番好くなっている孫たちですから、けっこう煙たがれて、時間を持て余してしまうことでしょう。それで、ボランティアに出かけたり、自転車に乗って知らない小道を走ったり、図書館で読み物をして過ごすのかも知れません。昔、釣り竿を担いで出かけたりした魚釣りも、けっこう楽しめそうです。

ところが、こちらにいることで、きちんと学期学期に、週ごとに、果たすべき社会的な責任が与えられていることに、感謝しているのです。先々学期まで、一緒に仕事をしていた二人の同年輩の教師が退職してしまって、自分独りになってしまいました。なんだか存在価値や責任が大きくなっているのかも知れません。最近の学生には、『爷爷(イエイエ/おじいさん)!』と呼ばれるようになっています。もう、『叔叔(シュウシュウー/おじさん)!』の年代ではなくなっていますから。もちろん、『廣田先生!』とか『雅仁先生!』と、学生にみなさんは呼ぶのですが、彼らのお父さんやお母さんは、私の長男の世代ですから、当然でしょうか。

高校三年間、担任をしてくれた教師は、兄たちの学年を担任した方で、その学年で渾名された、『オジイ!』が通称でした。慶応ボーイのお洒落な英語教師でした。終礼に出るのをサボって、終わってから教室に戻ると、『雅仁、オジイが、また怒ってたぞ!』と言われるのです。それで職員室に行って、『先生、何でしょうか?』と言うと、『おう、廣田来たか!』と言って、怒ったことなどなかったように、世間話をして、『頑張れよ!』と言うのが、何時もの繰り返しだったのです。教育実施に行った時には、もう退職されておいででした。

「休み」と聞いたので、この<オジイ>を思い出してしまいました。好い先生だったN先生の年齢をはるかに超えてしまっている今の私ですが、『もっと真面目に勉強しておけばよかった!』と、これも何時も繰り返し思いにやってくる、<今オジイ>の自己反省です。

(写真は、”百度”による「秋桜(こすもす)」です)

健康志向

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私の散歩道が、幾つかあります。このアパートには、南と西と東に、門が三つありますから、それぞれの門を出て、右左に行くだけで六方向あるのです。最近気づいたことは、この地域の<運動公園>に向って歩いて行くのが一番好いということなのです。なぜかと言いますと、思い思いに歩いたり、 走ったり、後ろ向き歩きをしたりしていて、仲間と二人、三人と連れ立って、励まし合っている、同好者が、そこに大勢いるからです。

他の道で、散歩している方と会うのは、一時間半ほどの間に、一人くらいで、ほとんど朝早く出勤の電動自転車に乗って急いでる方たちばかりです。運動公園では、若者たちが、10面もあるバスケットボール場で、ゴールに向って、ボールを放ったり、ゲームをしています。年配者たちは、鉄棒にぶる下がったり、歩行練習機のようなもので体を動かしたりして、まあ様々に運動をしているのです。さらに400mの陸上競技場を、何周も走っている方もおいでです。

今朝、見付けたのは、公園の隅にある「テニスコート」です。何と三面も、全天候型のコートがあるではありませんか。篠竹が通り道と分け隔てた中に、隠れているようにあったのです。誰も使っていませんでした。『えーっ、もったいないな!』と言うのが実感でした。『近くにテニス好きの同世代の御仁がいたら、一緒にできるのになあ!』とつぶやいてしまいました。

そうですね、一人でやっていると、時々言い訳が出て来て、サボってしまうのですが、早朝や夕刻に、こうやって運動に励んでいる仲間がいるだけで、『みんな頑張っているんだから!』と、自分を励まして続けられるのでしょうか。そう言った意味で、運動公園の存在の意味があるのでしょう。何人か肥満体の方もいますが、切実に思っている人もいるようです。

そこにいる人の平均年齢が、男女ともに高いのは、<健康志向>だからでしょうか。私も同じですが、<老い>に挑戦状を叩きつけているのでしょう。朝が、だいぶ涼しさを感じられるようになって来ました。『友達百人できるかな!』、と思ってみたりしています。

(写真は、”WM”による、秋の花「桔梗(ききょう)」です)

人恋しい秋

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やはり、人恋しくなるのでしょうか、今朝、ある方のことを思い出していました。私と二十歳違いで、同じ誕生日、同じように腕時計の文字盤を腕の内側に向けてはめるアメリカ人の実業家がいました。一緒にテニスをしたこともあり、よく彼の家に、家族ごと招いてくれた方でした。夫人の両親がパン屋でしたので、美味しいパンやクッキーを焼いて食べさせてくださいました。病気になられて、しばらく闘病をされていましたが、召されてから、もうだいぶ年月が経っております。

先日、この方の写真が、回り回って、私のメールボックスに、添付されて送られて来ました。まだ二十歳前の<美男子>、太平洋戦争に従軍されていた時のものです。北欧系の青い目で、息子さんが、お二人健在ですが、よく似ているのです。

北欧からの移民の子で、ワシントン州の出身で、私が一緒に働いた方の友人でもありました。 私の知る限り、よきアメリカの伝統を受け継ぐ、<アメリカ市民>のモデルにような人でした。<gentlemanジェントルマン>と言う英語を絵に書いたような穏やかで、堅実で、暖かな心の持ち主でした。

父には少し若く、兄には年齢差が大きかったのですが、人間的に見て、<父的な存在>だったでしょうか。『どうして、こんなに穏やかなのだろうか?』と、誰もが思っていたのです。一緒に寝泊まりをしたことはありましたが、生活の全てを見ていたわけではありませんでした。出会って来た沢山の人の中でも、特に思い出深い人です。喧嘩ぱやい短気な私にとっては、感情の抑制の効いた理想的な人だったのです。

ところが、ある時(告別式の時です)、弟さんが若い時の兄の思い出話を話したのです。それを、又聞きしたことがありました。この方が、十代を送った街では、大変有名(!?)だったそうです。それが、全く変えられたのです。戦場での体験が、彼を変えたのか、途轍もない誰かとの出会いがあったのか、私が出会った時には、ニコニコと両手を広げて迎え入れてくれる人でした。奥様は、この話は、<寝耳に水>だったそうで、彼は、自分の心の中で、過去を封印して、愛する夫人にも語らなかったのです。

変えられたお父さんの彼に、五人の子供さんがおられます。みなさんを知っていますが、彼らが、まだ子どもだった頃、家族で訪問した時に、自分たちの寝台を、私たち家族に与えて、何処かに寝場所を見付けて寝てくれ家族ぐるみで歓迎してくれた方たちでした。そんな好い経験をした私たちの子どもたちも、そんな生き方を真似て、それぞれが、今を生きているのは感謝なことです。

(写真は、”HIS”による、ワシントン州シアトルの名物の「クラムチャウダー」です)

学びつつ教えつつ

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昨日は、5時10分起床、顔を洗い、トマトとキュウリを刻み、饅頭(こちらのマントウ)にバターとピーナッツ・バターとチーズ、紅茶を淹れて、ゆっくりと朝食を摂りました。6時40分に家を出て、 近くのバス停から公共バスに乗って、学校のバス停で降り、東門から構内を横切って、キホク楼の405番教室に着いたのが、7時15分でした。

授業の主要点を板書し、空調を入れて、学生たちの来るのを待っていました。90分授業で二学級を済ませたのです。今学年最初の新3年生の「作文」の授業でした。1年生の時に「発音」と「会話」を教えた学年です。そうやって待機する緊張感は、けっこう好いものなのです。

さすが、2年間の学びは、学生さんたちを大きく成長させているようです。机の端に、「経貿」と印刷された教科書がのっていました。入学時に、チンプンカンプンだった彼らが、よく聞き取れ、自分の思いを日本語で表現できるようになっているのです。前期16週、後期16週で、立派な文を書けることでしょう。過去の学年を見ますと3年の終了時には、日本人とほとんど遜色ない文章家が、毎年、4、5名はおいでです

教え子の中には、旧国立大学(旧帝国大学)の大学院に進み、超一流企業に内定した方もいます。しっかりと学びを継続させている卒業生がいることになりますね。前回帰国中に、渋谷の<ハチ公>の前で落ち合って、夕食に、一緒にハンバーグを食べ、珈琲を飲みながら、留学経験の悲喜こもごもを聞いた卒業生です。そこで一緒に食事をした教え子も、大学院への進学準備中でした。

幼稚園、小学校、中学校、高等学校が、今日から始まりました、大きな希望をもって、しっかりと知的にも人間的にも自分を作り上げて、社会に貢献で来る人となって頂きたと願っております。人生の後半に、このような機会が開かれたことを不思議に思うのです。『もう、やめようかな!』と思うこともありましたが、続けられての昨日でした。そんな生きる励みがあることは感謝なことです。

今学期が終わる頃は、「春節」も間近かな時期になります。そこに向って、好い始まりができたようです。学びつつ、教えつつ、精一杯にと決意を新たにしたところです。

(写真は、”Early Morning"から「紅茶」です)

気質と言葉

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関西圏と関東圏との違いを、端的に言い表している言葉があります。比較例が、好くないのをおゆるし頂きたいのですが、「アホ」と「バカ」と言う言葉です。昔、ある総理大臣が、『バカヤロー!』と口を滑らせて、国会が解散したそうですが。関東人が言う『バカ!』には、棘があり、言われた人の感情を甚だしく傷つけてしまうようです。通りすがりで、肩が触れ合って、『気をつけろい、馬鹿野郎!』とでも言うなら、テレビや映画でなく、普段の街中でも殴り合いになるのです。

ところが関西人が言う、『アホ!』は、喧嘩まではいかないのではないでしょうか。関東で育った私が、よその言葉を聞く感じ方の違いで、そう感じているだけなのでしょうか。大阪の人に聞いて見ないと、そう言われた実感を理解できません。関西の漫才で、時々聞く限りでは、軽い響きがあって、『なんでやねん?』と、受け答えできそうに思えるのですが。気質の違いが、言葉の違いでもあるようです。

船で帰国したり、戻って来たりするたびに、上海の街を、何度か歩いたことがあります。旧日本人街のあった辺りを、「虹口(ホンキュ)」とか「四馬路(スマロ)」と、昔の歌で歌われていたのですが、そこに「福州路」があって、地下鉄を降りて、しばらく歩きますと、「外灘waitan」に出られます。世界有数の港で、船の行き来も多くて、観光客の数も驚くほどです(この辺りしか上海を知りません)。

私が泊まったのは、古いホテルでしたので、もしかしたら、戦前からあったものを改装したのではないかと思ったのです。ちょっと<懐旧的>な趣を楽しめたからです。上海の外灘の「古写真」を見たことがありますが、波止場を作っている<黄浦江>の流れの曲がり工合が、今も同じで、そこに写っているのと同じ建物(時計の付いた建物が有名です)が、今も現役で使われているのが分かります。

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この<上海>が大阪で、首都の<北京>が東京のような感じなのでしょうか。上海語と標準語の違いがありますが、言葉の響きの違いも、きっとあるのではないかと思われるのです。こちらの方に言わせると、北の人と南の人では、食べ物の味だけでなく、<気質>がだいぶ違うのだそうです。そう言えば、天津でよく見た取っ組み合いの喧嘩が、華南では、ほとんど見られないことと関係しているかも知れません。

気候が厳しいか穏やかか、肉か魚か、味が辛いか甘いかなどによっても違いがあるのでしょうか。<◯◯気質>と言ったりするようですが、広大で多民族の中国では、言葉や表現の仕方の違いも大きく、多様なのでしょうね。狭く小さな日本でも、その違いがはっきりしてるのですから。

(写真は、”百度検索”より、1930年代の上海の「外灘」、下、北京の胡同<下町>の昔の様子を描いた絵です)

百万一心

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広島の土砂災害の被害者の捜索に、警察庁と自衛隊と消防庁のみなさんが当たっておられると、ニュースが報じています。<2800人>とか<3500>もの陣容で行われているようです。人のいのちの尊さに対する畏敬の念を、その職務に感じさせられています。今朝のニュースですと、もう二人の方が、残っておいでだと言うことです。二次災害の恐れの中を、スコップを手に創作作業に当たっておられる、警察官と自衛官よ消防署員のみなさんには、<仕事>以上の<使命感>を覚えさせられるほどです。

新潟、淡路と阪神、東日本などの大震災の折に、速やかに派遣され、死の危険を恐れずに、その職務に当たっておられる、警察、自衛隊、消防庁の職員のみなさん、『本当に、ご苦労様!』、『ありがとうございます!』と心の中でつぶやいております。

特に、自衛隊が発足して、防衛大学校の第一回卒業式に、時の総理大臣・吉田茂が、次のように言っています(「2011年4月8日付「悠然自得」にも掲載)。

『君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり 、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない 。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない 。御苦労だと思う 。しかし 自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは 、外国から攻撃されて、国家存亡のときとか、災害派遣のときとか 、国民が困窮し、国家が混乱に直面しているときだけなのだ 。言葉を換えれば 、君たちが日陰者であるとき、国民や日本は幸せなのだ 。どうか、耐えてもらいたい !』
(昭和32年2月「防衛大学校第1回卒業式」訓示)

これは<名訓示>と言われているものです。今回、広島市の災害地に災害派遣されたみなさんのヘルメットに、「百万一心」と言うステーカーが貼られてあります。これは、毛利元就の故事に倣って、[「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と言うことから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している(ウイキペディアの解説)]と言う意味だそうです。そんな思い出、復旧と捜索に当たっておいでなのです。

平時の任務に、真心から従うみなさんのご無事を、心から願っております。

(写真は、”MSNニュース”による、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事(普請)の際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉「百万一心」を記した「ヘルメット」です)