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中学生の頃でしょうか、『二十才になると、タバコが吸えて、酒が飲めるのに、なぜ成人映画は18才からなのか?』と、素朴な疑問を感じていました。それで、『早く18になりたい!』と思っていたのです。その成人映画が観られる年齢になった時、一人で観る勇気がありませんでしたから、悪友を誘って行っては観たものの、背伸びのし過ぎで、『来るべき所ではない!』の後悔ばかりでした。まだ早過ぎた感がしました。

それが普通なのか、ませていたのか、未知の大人の世界を覗き見たかったのです。中学に入って、運動部で過ごしたのですが、上級生が面白おかしく猥談をし、発禁本を持ってきて見せてくれ、<大人への門>を強引に潜(くぐ)らされてしまったのです。糸の切れたタコの様に、トップリ大人の世界に誘い込まれたわけです。

もっと純情な青年期を送りたかったのに、ダメでした。中学生の時、上の兄が読んでいた、「足摺岬」を読んだことがありました。死に場所を求めて、一人の大学生が、四国の高知の足摺岬に行きます。しかし、そこで出会った人たちとの接触で、自殺を思いとどまって、元の生活に戻ると言ったあらすじだったでしょうか。青春の苦悩を抱え込んだ主人公の様な、大学生になってしまわない様に警告された様でした。

「いのち」と「死」、「清さ」と「性の誘惑」、「喜び」と「悲哀」、「光」と「闇」、両親の寵愛を受けて嬉々として生きていた子どもから、大人になっていく過渡期が、上手く超えられなかったのかも知れません。藤圭子が、『15、16、17と私の人生暗かった!』と歌っていましたが、自分も、そんな人生だったのかも知れません。

彼女の一級下の方から聞いたのは、この方は、成績優秀な中学生だったそうです。でも浪曲師の娘として、両親の仕事につ従って、彼女も「浪花節語り」になる様に育ち、高校進学を断念してしまいます。鍛えた喉は、歌謡歌手に最適で、不遇な人生の後に、すぐに有名になったのです。でも、人生の後半で、ついに自死してしまいました。彼女には、お金や名声があっても、「夢」や「希望」がなかったのです。

誰にでも失敗、断念、失望があります。それを超えられるなら、生きてる喜びや充実感が帰ってきます。アメリカ人は、三人に二人が、自分の余力を“ボランテア活動”に費やしていると言われています。その「他者を顧みる思い」が、人生を肯定し、生きる喜びを引き出し、新しいアイデアを創出するのかも知れません。私には、転換点、方向転換点がありました。虚無な幕を打ち破てくれる、「素晴らしい門」を潜る経験があったのです。25の時でした。

(「高知新聞」による足摺岬の近影です)

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万葉の花

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この花は、"万葉の花"と呼ばれる、「アサザ(阿佐佐)」だそうです。いつも引用させてもらっています、HP「里山を歩こう」に投稿のあった花です。聖徳太子が通われたと言われる、奈良県三宅町太子道(筋違い道)を散策していた時に出会ったのだそうです。

やはり、"古代の浪漫"が感じられる悠久の花の様に思えます。聖徳太子もこの時期に眺めたことでしょうか。何時か、この目で見たいものです。

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海外移住の日

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18才の頃、日本脱出を考えていました。ちょうど父たちの世代の若者が、『狭い日本にゃ住み飽いた!』と言って、大陸中国を目指して、東シナ海を渡って出掛けて行った様にです。広大な原野が広がる満州に、理想を求めてでした。私の父も、ご多聞に漏れず、現在の遼寧省瀋陽、当時は「奉天」と呼ばれていた街で過ごしたそうです。

戦前の中国は、「四億の民」が住んでいた様です。父は鉱山技師で、当時の国策に従って、自分の習得した技術を生かそうと、勇躍と出掛けています。しかし、途中で呼び戻され、朝鮮半島に遣わされたり、山形などの山を歩き回ったのでした。未掘削の大地が広がっていたのでしょう。若者が、夢を実現するには、そんな機会が目前にあったのでしょうか。

私は、「南十字星への憧れ」があって、南半球に行って見たくて、東京にあった「アルゼンチン協会」に手紙を書いて、《アルゼンチン移民》を考えてる旨、手紙を出しましたら、大きな封筒に一杯の資料を送ってくれたのです。それを見ながら、胸を膨らませていました。本屋に行き、「スペイン語」の自習書を買って、学び始めたのです。

ところが、大学に引っかかって、その夢は泡の様に消えてしまいました。『何がなんでも!』という強い気持ちがなく、簡単に諦めてしまったのです。農業や物作りや商いの資格も能力もなく、一体、出掛けて行って何をするのかの目標を持たずに、漠とした憧れだけだったので、結局は安易な道を選び取ってしまったわけです。

そんな昔を思い出していたら、今日のニュースの片隅に、今日は、「海外移住の日」の記念日だとありました。1908年6月18日に、「笠戸丸」に、781人の移民のみなさんを乗せて、ブラジルサンパウロの海の玄関の「サントス」に入港したのだそうです。父が生まれる2年弱前の事で、110周年になるのです。

そのサントスから、ブラジル全土に、また周りの国々に入植して、農地開拓を始めたのです。私が、ブラジルのサンパウロと、アルゼンチンのブエノスアイレスを訪ねた時に、多くの日系のみなさんとお会いしました。もちろんサンパウロの隣町に、義兄が移民していましたから、そこを訪問しました。

ブエノスアイレスでは、沖縄から移民した方たちが多く、洗濯屋や花屋をしながら、子育てをしてきたそうです。公務員や医師や新聞記者などを、子どもさんたちはなさっていると言っていました。日本料理で歓待してくださったのです。やはりお顔は、苦労の跡が残っておいでで、白人社会の中で、アルゼンチンは、そこに入り込むのが厳しかったそうです。

もしかしたら、私は「迎える側」にいたかも知れないと思って、ちょっと複雑な思いがしたのです。夢と現実は、かなり違うのですが、日系人は、アンパウロでもブエノスアイレスでも、しっかり働いて、頑張って生きてきた証をお持ちでした。でも、お年寄りは、祖国に帰れない寂しさが目に溢れておいででした。ご苦労が見える様でした。

(ブラジルの「サントス」の景観です)

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新緑の渓流の滝、今頃、そんな中を歩いたら気持ちが好いでしょうね。写真は、広島県三次市だそうです(☞HP「里山を歩こう」から)。様々に教えて頂き、一緒に働かせて頂いたアメリカ人起業家の友人が、この三次にいたことがありました。頭の毛の薄い方で、わが家に来られた時に、肩車してもらった次女が、この頭を手の平で叩いていたことがありました。彼は、ただニコニコするだけで、好い人でした。その子が、今や二児の母親になっています。

中国山地の台地の風景です。私たちが住む、この街の北にある、森林公園から、山に入ると、登山道の脇にも渓流が流れていて、夏場は涼を楽しめます。しばらく行ってませんので、この写真を見ましたら、行ってみたくなりました。山肌の隙間から流れ出る湧き水が、美味しいのです。美しい風景に、心が休まり、感謝です。

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カラオケ

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世界には、日本から始まったものが多くある中で、ここ中国でも盛んなのが、「カラオケ」です。学生さんに誘われた事がありましたが、一度も一緒に歌ったことがありませんでした。昔、何かの機会で、一度だけ歌ったことがありました。忘れもしない、「なみだの操」でした。”ミリオンセラー“とかで、街中でもラジオでもテレビでも、1970年代だったでしょうか、よく聞かされ、メロディーを覚えてしまっていました。歌詞を見ながら、デユエットに誘われて歌ったのです。

何年か前の夏に、この街の北の山の方の民宿に泊まったのですが、板に布が敷いてあるベッドで、薄掛け布団も、干された事がなさそうで、カビくさかったので、なかなか寝付かなかったのです。その上、近所の民宿で、大音量の“カラオケ”をしていました。『もう、そろそろ・・・』と誰も言えなかったのでしょう、きっと“◯長さん”でしょうか、一人で延々と歌って、零時を回っていました。上手なら子守唄になるのですが、音程が外れて、がなり声、絞り声で聞くに耐えませんでした。

実は、この小区でも、一昨日あたりから、夕方になると、同じ声の”おじさん“が、<独りよがり>で、ちっとも周りを気にしないで、歌い続けています。きっと、“◯長さん”の横暴に違いありません。わが家に来れば、カラオケ代とタクシー代を上げてもいいので、街中の個室で歌って欲しいほどです。<下手の横好き>なのでしょう。

この街の大学の外語学院で、しばらく学んだ時に、一人の老師が、歌を紹介してくれました。台湾の葉啓田と言う歌手が歌ったもので、「爱拼才会赢」と言う題でした。日本の演歌の様に、“こぶし”が入っていて、覚えてしまったのです。それで、新入生に「発音」の授業をやる時に、日本の歌と一緒に、この歌を台湾語で歌うことにしたのです。結構、雰囲気作りに好かったですし、大受けしました。

アッ、騒音が止みました。これで晩御飯が美味しく頂けそうです。一週間ほど前には、女性が、<変な猫(失礼!)>の様に、とても高い声で歌っていました。歌の上手くない人は、自分の歌を録音して聞かれても、下手だとは思わないのでしょうね。自信があるから、ああやって歌うに違いありません。真の友人は、言って上げるべきです。『もう、そろそろ・・・』と。そう言うのは、私の仕事(工作gongzuo))ではありませんので。どうしたらいいのでしょうか。

(いつか食べたい「牛肉麺(高雄市名物)」です)

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父の日

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今日は、出先で、可愛らしい女子中学生から、“ガーベラ”の花を二輪頂いて帰りました。そう、「父の日」でした。世界中のお父さんは、少々疲れ気味でしょうか。4人の子どもたちが、自立し、それぞれ所帯を持って生活している今、親業を卒業したのかも知れませんね。一生懸命働き、家内と子育てをした日々が懐かしいのです。<卒親>としては、これから、どう残りの日々を生きて行くか、やはり、《終活》をすべきなのでしょうか。

前に、「象の背中」という映画を観た事がありました。「余命半年」を医師に宣告された主人公が、し残した事、しておかなければいけない事をリストアップして、人を訪ねるくだりが、ちょっと悲しかったでしょうか。身につまされる思いでした。体に、痛い所はありますが、まだ跳ねたり、小走りだってできますし、出掛けたい所もあります。生かされている自分を感じながら、もう少し意味のある生き方を続けようと思います。

最近仕切りに、父の事が思い出されてまいります。結構し残した事が、父にはあったのではないかな、と思ったりしています。して上げたかった事も多いのです。母似だと言われたのですが、父の若い頃の写真を見た方が、『よく似てます!』』と、先日言っていました。ちょっと嬉しい気持ちがいたしました。

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野の花の如く

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昨夕、配信してくださった"hp「里山を歩こう」"の写真です。上は「イガタツナミソウ(伊賀立浪草/三重県伊賀で発見されて命名されてそうです)」、下は「フナバラソウ(舟原草)」です。こういった花々は、里山や土手が、日本から消えて行ってしまったので、花々も消えて行くのだと聞きました。同じ立浪草でも、伊賀で咲く種類には、それに適った命名がなされるのですね。驚くのは、見てすぐに、「フナバラソウ」だと分かる観察眼です。

家内が学んだ学校の先生は、よく里山や野原に、学生たちを連れ出しては、『これは◯◯、どこどこによく咲いているんだ!』と教えてくれたのだそうです。専門は農学で、農業に携わるみなさんに、養鶏や、特別な作物の植え付けを指導して、経済的に自立する様に勧めていたそうです。

花には目もくれずに、チャンバラをして遊んで、少年期を過ごしたので、花の名前も知らない自分が、ずいぶん無知だと認めています。今になって、名のない草の美しさがわかり始めてきたのは感謝です。恩師が、「野の花の如く咲きなむ!』と言い残してくれたのを思い出します。

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残る悔い

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日本に帰化された、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、次の様に語っています。

『・・・私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。』

このキーン氏も、アメリカ軍の語学学校で、やがて占領する国で、戦後処理をするために、日本語を学んだ人でした。その学校のカリキュラムは、驚くものだったそうです。短期間の学びで、日本の日刊紙が読める様になったそうです。そう言えば、私が、“サンノゼ(サン・ホセ/カルフォルニア)”を訪ねた時に、一人のアメリカ人兵士と会いました。彼は、二十歳でしたが、『私は日本語を半年学んでいます!』と、流暢な日本語で話しかけてくれたのです。

戦時下だけではなく、1990年代の終わり頃にも、アメリカ軍は、希望する兵士に、外国語の学習をさせて、軍務だけにではなく、学問や文化の面で、人材を要請していたのです。日本語の上手な方に、何人もお会いしましたが、短期習得の方法があるのですね。私も、中高大と、何年も英語を学び、アメリカ人起業家とともに働いたのですが、英語力は不足しているままです。

後になって、『もっと熱心に学んでおくべきだった!』と、<後の後悔>をしたのです。どなただったか忘れましたが、「嵐が丘(Wuthering Heights )」を翻訳本ではなく、原典で読みたくて、イギリス英語を学び直した人がいると聞いたことがありました。それを聞いた時、決心して学ぼうと自分も思ったのですが、そのまま、今日を迎えてしまいました。孫たちと交流するためにも、学び直さないといけないと思っているところです。

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作文

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こちらに来てから、一昨年までの7年間、毎年、50〜70人ほどの学生の「作文」の科目を担当しました。作文の仕方を教え、自分の習得した語彙を使って、毎週毎週、様々な資料を作り、それに沿って作文してもらいました。その書き上げた「作文」を家に持ち帰って、”赤ペン“で添削し、翌週、学生に手元に返しました。「修正点」を板書して、どう正すかの作業をしてもらいました。

ある時、「三行ラブレター」を書いてもらったことがあります。ご両親、祖父母、教師などに、愛と感謝を込めての短い作文でした。結構、泣ける様な文章を書く学生もいて、感激しながら読んだり添削したりする楽しみもありました。学生数が70数人の年は、大変でしたが、週毎に、作文の腕を上げて行くのを知る喜びもありました。

先日、ある少女の書いた「作文」を読みました。学齢前の、五歳の少女にしては、素晴らしい文章でした。ただ、それは《謝罪文》であり、《誓約文》でした。『どうして、こんな事を、父親は書かせたのだろうか?』と思う事しきりでした。そして多くの読者が、読まれて悲しくなり、涙したことでしょう。

「 ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんからきょうよりかもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします。」

大学ノートに、“ひらがな“で書かれてあったそうです。お母さんの連れ子の少女を、お母さんの新しい主人は愛せなかったのでしょうか。その感情が歪曲してしまい、長期の虐待で、とうとう亡くなってしまったのです。こう言った事件が頻発する日本の社会は、異常です。

先日、カルガモの一行の移動の様子を映した動画を見ました。九匹の雛を、母ガモが見守る姿に、《母性愛》が溢れていました。少なくとも、カルガモの母以上のお母さんが、あの少女をかばえなかったのは致命的です。虐待を続ける夫に、嘆願や哀願だってできたはずです。愛が異常です。世界中のお母さん、カルガモに倣って、子どもを守り、かばってください!結婚と家庭が深く傷ついているからです。

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西郷山公園

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明治維新政府の元勲で、海軍大臣や内務大臣を歴任した、元薩摩藩士の西郷従道(じゅうどう)がいました。兄の隆盛が「西南の役」で、逆賊の汚名を着せられた事で、総理大臣に推挙されても、従道は、それを固辞し続けたそうです。一国の命運を担っその責務を果たすのに、的確な器だったのですが、そういった名誉を、潔く捨てたのです。

この従道が、お兄さんのための邸宅を建てたのが、東急東横線の代官山駅からしばらく北の方に歩いた所にありました。従道は、兄思いの弟だった様です。その建物は、ずいぶん前に、明治村に移築してしまったので、その敷地は、今では「西郷山公園」になっています。お兄さんの隆盛は、粗衣粗食の人で、物欲のない人だったそうで、そんな立派な住宅を好まなかったのでしょう、そこに住むことがなかったのです。

とても好い場所にあって、建てられた頃は、閑静な所だったのでしょう。私たちも、<お上りさん>で、この公園に、二、三度行ったことがあります。今では、代官山は、東京でも人気のある地域で、小さな駅や小道は、多くの若者、乳母車を押した若い母子で賑わっています。美味しいケーキの店、喫茶店があって、とても好い街です。

渋谷区に近い目黒区にあって、都立第一商業高校が近くにあり、ハンドボールで、何度か対戦した学校なのです。周りには、多くの外国大使館があって、国際色も豊かな地域で、日中の賑わいはともかく、夜間は静かな住宅地です。次男が、しばらく住んでいた事もあって、馴染みを感じる街です。

西郷山公園の今頃は、花々で綺麗な事でしょう。紫陽花(あじさい)の花も咲いていた記憶があります。梅雨の時期、どこも紫陽花が、雨の中に綺麗に咲き誇っている事でしょう。そういえば、私たちに住んでいる街の北の山の中にも、紫陽花が咲いていたのを見た事があって、『ここでも咲くんだ!』と、嬉しくなった事がありました。

(西郷山公園と河口湖の天上山の紫陽花です)

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