さくらんぼ

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確かに、あれは「さくらんぼ」だったと思うのです。通っていた小学校の校庭に、映写幕が張られ、よく映画会が開かれていた頃の一つの映画の中に、この「サクランボ」が出てきたのです。それは食べたことのない果物でした。あの頃は、スイカ、梨、桃、葡萄、みかん、柿、時々のバナナくらいだったでしょうか。よその家の庭先で、グミ、イチジク、木苺、いちごなどは、<無断失敬喰い>をしていたでしょうか。ごめんなさい!

映画の中の農村は、東北、多分山形県だったと思いますが、そこで栽培され、収穫されていたのが「桜桃(おうとう)」と呼ばれていた、私にとっては未知の果物でした。実に美味しそうでしたが、手に入る術を知りませんでした。ただ、『食べてみたい!』と指をくわえました。住んでいた街の目抜き通りには、今の様に「果物屋」などありませんし、八百屋の隅に、わずかに"高級そう"に置かれていただけでした。あれは、誰が食べていたのでしょうか。

「チェリー」が、日本に入ってきたのは、明治の初めだそうです。あらゆる産業分野で、《お雇い外国人》の技術者が、やって来られて、農業も工業も、欧米式なものが移入されたのですが、この「さくらんぼ」も例外ではなく、農業の振興のために栽培された様です。北海道で栽培が始まり、東北などに広まったと言われていますから、山形で正解でしょうか。

そんな高価な果実が、酒場のカウンターに置かれていて、客が、取っては食べ、取っては食べを繰り返します。家には、子育てで大変な妻と三人の子どもがいるのです。妻子たちに食べさせることを考える余裕などなかったのです。家事や育児の手伝いもしない、そんなで創作意欲はなくなっていて、やがて自死してしまう、太宰治が、その「桜桃」を食べていたのです。同名の小説に、太宰は書き残しています。

私は、初めて「サクランボ」を食べた日のことは覚えていませんが、タネが気になり、実の少ないのが、ちょっと不満でしたが、美味しかったのは事実です。アメリカ産の「チェリー」が、こちらでも山積みで売られていますが、山形や山梨で収穫されたものは、甘味と酸味が程よくて、実に美味しいのです。もう、そんな「さくらんぼ」の出荷の時期になっているのでしょうか。

山東省の出身の方が、何年か続けて、その日本産と同じ品種の「サクランボ」を持ってきてくれたのですが、今年は、どうでしょうか。最近は、会う機会がありませんから、どうかなの6月末です。

(これは「ナポレオン」と言う品種のさくらんぼです)

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やきとり

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札幌で入院生活をして、真冬の吹雪がどんなものかを、四月の半ばに経験させられたのですが、因習を感じられない開拓地の雰囲気が、札幌には、いまだに残っているのを感じました。滞在中の街中や、北海道人にお会いしてです。お会いした人たちに、『こちらには元々はどちらからいらっしゃったんですか?』とお聞きしたのですが、病院のリハビリの療法士のお一人が、『岐阜からです!』と答え、父でも先祖でもない、『私一人で学びに来て、ここで仕事を見つけたのです!』と言ってました。

みなさんから、“開けっぴろげさ”をあまり感じなかったのは、寒い冬を過ごして生きてこられたからでしょうか、“沈思黙考”で、静かな方が多かった様です。もちろん人の性格は、気象や地形位置に左右されているばかりではないのですが。ものすごく明るい方もおいででしたし、短期の滞在で感じたことに過ぎません。

6ヶ月検診に行きました帰りに、遠距離バスで、函館に行きました。広さを感じると同時に、家と家との境界線に、塀や垣根がないのが、私たちが住んで来た街との違いでした。『俺の!』という自己主張の強さのない、“拘りのない鷹揚さ”を感じて、いっぺんに北海道贔屓になってしまったのです。

それで”終の棲家(ついのすみか)“は、北海道が好いと思ったのです。そうしましたら、ニセコから来ていた病友が、『嫁の実家が土地をたくさん持ってるから、話して上げるよ!』と、移住の誘いをしてくれたのです。

ある方は、『道南の伊達市は、雪も少なく温かくて住み好いですよ!』と推薦してくれました。それで、バスの窓から、伊達市の街外れの高速道路から街並みを見ていたのです。有珠山(うすざん)の山麓が海に迫る間に、街が広がって、穏やかそうでした。でも札幌にも函館にも、けっこう距離があって、大変かなとも思ったのです。

室蘭出身の男性看護師が、『室蘭は、“やきとり”が名物なんです!』と、どこどこが美味しいと、店まで教えてくれ、故郷自慢をしていました。この“やきとり”は、鶏肉ではなく、“豚のロース肉”と玉葱の串焼きだそうです。どこかで“焼きトン”を食べたことがありますが、きっと、その室蘭名物に真似たものだったかも知れません。

でも、遠いですね。静かに老後を生きるのには、最適かも知れません。青森から、津軽海峡を命懸けで渡った人たちの”開拓者魂“、“不屈の精神”には頭が下がります。「オホーツク文化」への興味も尽きませんから、オホーツクの風に誘われてしまいそうです。

先頃のニュースで、この室蘭と東北の港町、宮古との間に、定期航路が就航したと伝えていました。10時間の所要時間で、室蘭から船内で一泊して宮古港に着くそうです。運転免許証を持たなくなった身には、船やバスや列車がいいですね。ちょっと里心がつき始めているのでしょうか。それにひきかえ家内は、こちらでの生活を満喫しています。

(室蘭港から有珠山の遠望です)

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ヒメジョオン

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上は「アカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)」、下は「ヒメジョオン(姫女菀)」です。東広島市に咲く花です(☞HP「里山を歩こう」から)。上手な撮影技術に、写真を楽しませていただいています。こんなに多くの種類の花々が、野や里に、ひっそりと咲いているのに驚かされます。

ただし、「姫女菀」は、アメリカ原産の外来種で、旧国鉄の線路沿いに咲くので「鉄道草」とも言われ、日本全国に瞬く間に広まったそうです。小学校の登下校に、この時期に、道の脇に咲いていた花なのだそうです。”ウイキペディア"に、そう解説されていました。

小川の岸や田んぼの畦の叢(くさむら)や藪(やぶ)の中に、小さな花を見つけられると、遠写や接写をなさるのですね。大変なご苦労があるのを感じて、読者は楽しませていただいていることになります。ありがとうございます。

家内の蔵書の中に、「ファーブル昆虫記」の全集がありましたが、13回も引越ししている間に、どなたかに上げてしまって、なくなってしまいまし。 時々眺めていました。花の辞典もあるのですね。世界には、どれほどの花があるのでしょうか?

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ジャカランダ

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上は、パキスタンのイスラマバードに咲く、“ジャカランダ”と言う花です。下は、南アフリカに咲く花です。カルフォルニアやフロリダにも咲くのだそうですが、実に高貴な紫色をしています。実に綺麗な紫色で、下の写真は、宮崎県日南市に咲くジャカランダです。日本では六月に咲くそうです。

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鹿持雅澄

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私たちの住む街の「空港」は、海岸沿いにあります。そこから南の方に行ったところの海岸線が、実に美しく、広く、凪の日は静寂なのです。大陸が広大だからでしょうか、砂浜も延々と続き、圧倒されてしまうほどです。日本の千葉の「九十九里浜」を彷彿とさせるほどですが、この街の海岸線のスケールの大きさは、この街の「雷鳴」の轟の物凄さに匹敵するほど、人を圧倒させます。

山育ちの人間には、「憧れの的」でしょうか、海を見ると、"ホッ"とさせられるのです。相模の海沿いで育った「父の血」を引いているのもあるのでしょうか。それとも、引いては押してくる波頭の砕ける「汐の音」が、母親の胎内で、9ヶ月聞き続けてきた音に似ているからでしょうか、海が愛(いと)おしく感じてしまいます。

土佐の高知に行きましたとき、「室戸岬」まで、レンタカーを運転して、出掛けたことがありました。そこの海岸線も延々と続き、沖には「潮吹く鯨」は見えませんでしたが、引き込まれそうな海で、心癒されてしまいました。そこに行きます途中に、「大山岬」があって、その岬に、江戸期の万葉集の研究者の鹿持雅澄(かもちまさずみ)の歌碑がありました。

鹿持雅澄について、"人名辞典"に、「1791-1858 江戸時代後期の国学者。寛政3年4月27日生まれ。中村世潭に儒学を,宮地水渓に国学をまなぶ。土佐高知藩校教授館の写本校正係としてつとめながら,大著「万葉集古義」を完成させた。安政5年8月19日(一説に9月27日)死去。68歳。土佐出身。初名は深澄。通称は源太,藤太。号は古義軒,山斎,醜翁。姓ははじめ柳村,のち飛鳥井とも。著作はほかに「古言訳通」「万葉集紀聞」など。」とあります。

土佐藩の下級武士だった鹿持雅澄は、奥さんを高知城下に残して、「浦役人」として、10ヶ月ほど単身赴任していました。その時、妻を思いながら、数首の和歌を詠んで残しています。その一首です。

秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

この「妹(いも)」とは、姉妹の妹のことではなく、「妻」のことで、「菊子」と呼ばれていました。万葉の研究者であり、歌人でもあった雅澄は、赴任地からはるかに高知城下に思いを馳せて、《妻恋の歌》を詠んだ、「愛妻家」でした。

天津にいました時に、「周恩来記念館」に行った時、やけに若い二人が多かったので、いぶかしく思っていました。中に入って分かったことは、周恩来夫妻は、若い二人にとって模範なんだそうで、この夫妻にあやかりたい二人が、結婚前に多く訪れていたわけです。周恩来や鹿持雅澄の故事から、結婚が上手くいかないご夫婦は、このお二人にあやかって欲しいものです。我らは、47年の山谷を越えてきました。

(高知県安芸地方の「室戸岬」の周辺に写真です)

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それでも

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悲惨な現実の中で、『それでも人生にyesと言おうと!』という言葉を、ビクトール・フランクルが残しています。フランクルは、ユダヤ人の精神科医で、あの悪名高い、ナチスの強制収容所から、生還した方でした。その収容中に、この言葉で、死の恐怖に怯えている仲間の間で、激励し合ったそうです。フランクルが、こんな話を残しています。

彼はヒトラーが、ウィーンに進軍してきた時、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では、医師として働きを続けることができないことが明らかでした。それで、アメリカ行きのビザを申請したのです。数年かかって、やっとビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっていて、強制収容所への抑留は、間違いない状況になってしまったのです。

しかし、彼には年老いたご両親がいました。その二人のビザを申請することも、取得することできませんでした。彼は、アメリカ行きを迷ったのです。彼がウィーンに残ったとしても、両親を救うことなどできません。しかし、両親を置き去りにして、自分だけがアメリカに渡ることができずにいたのです。

フランクルが家に帰ってみると、父親が、「ユダヤの会堂」の破壊された瓦礫の中から拾ってきた、大理石の石片がテーブルの上に置いてありました。そこには、ヘブル語の"カフ"というアルファベットが刻まれていたのです。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。

彼は、この文字を見た時、自分が、どうすべきかを理解するのです。両親と共に、ウィーンに残ることにしました。しかし、それは、彼自身も強制収容所に抑留されることを意味していたわけです。彼は自分の医師という立場を用いて、秘密警察官の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができたのです。しかし、フランクルは、間なく両親と共に、強制収容所に抑留されてしまいます。

お父さんは、そこで肺水腫に罹って、死の床につきます。彼は医師として、父の最後の「鎮痛剤の注射」を打つことができました。父親に、それをして上げた時のことを、『私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった!』と書き残しています。

一方、お母さんは、その後、アウシュビッツのガス室送りになりました。移される直前に、彼は母親に、祝福の祈りを請います。心の底からの祝福のことばを、母から最後に受けることができたのです。彼はその後の収容所生活の中で、母への感謝の思いで、心が満たされていました。
 
フランクルは奇跡的に、強制収容所の苦しみに耐えて、戦後、生き残ることができました。そこでの体験を「夜と霧」という本で証ししたのです。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は、高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることができるのだという証しでした。

(ウイーン市の遠景です)

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甲斐犬

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この街の路上で出会う、<飼い犬>が、みんな血統書付きの様な、可愛い犬ばかりです。先日は、丸刈りにした犬が、パーマをかけたご婦人に引かれて散歩していました。暑い夏対策でしょうけど、犬って、毛を刈り込まれて喜ぶのでしょうか。何か犬らしくなくって、その犬も、何やらバツが悪そうに伏し目がちでした。

子どもの頃、父の家で飼っていたのが、<甲斐犬>でした。狩猟に使われる犬で、山の中から都会に連れて来られてしまいました。近所に養鶏所があって、そこから何度も鶏をくわえて帰って来てしまったのです。この犬が通った道に、羽が散乱していました。結局処分してしまったのです。

もう一匹は、秋田犬の雑種で、逞しくて弟が可愛がっていました。子犬時代、近所の子に石を投げられたりした経験があって、防衛本能からか、人を噛むので、この犬も処分せざるをえませんでした。少々悲しいわが家の飼い犬の歴史です。ここはマンションで、高い所は28階もありますが、多くの人が犬を、室内で飼っている様です。土を踏む事の少ない犬って、大丈夫なのでしょうか。毛はふさふさで可愛らしいのですが、ちっとも逞しくなく、番犬にはなりません。

誇り高い犬と飼い主が、自慢げに、少々上向きに歩いているのを見て、こういう時代なんだと感じ入ってしまいます。大体、番犬や狩猟犬、今では救助犬、麻薬探知犬などが、犬の本流なのではないかと思うのです。でも、孤老の愛玩用として、抱いたり、話し掛けたりして、慰めを得ている場合が多いのかも知れません。

我が家で預かっていた子が、犬を買いたがったので、子犬を頂いて来て飼った事ありました。"三日坊主"で、彼は飽きてしまって、世話などしないままでした。この犬も、病死してしまって、それ以来、犬を飼う事はしていません。別れが悲し過ぎますから。

もっと悲しい話がありますが、思い出したくない辛い経験でしたので、本欄では取り上げない事にします。この街で長く生活していて、思い出す限り、私たちが招かれたり、訪ねたりした家では、どこも犬も猫を飼っていないのです。時々、“FaceTime”を見るのですが、犬自慢や猫自慢の方が多く、その写真付きの投稿が目立っています。

(甲斐犬の子犬です)

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夏至

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今日、6月21日の私たちの住む街の「日の出」は5時14分、「日の入り」は18時54分で、「夏至(げし)」です。日中時間が一番長い日なのですが、正確には、ちょっとずれているのだそうですが。今日も雷雨です。

昨日は、豪雨で、道路が水没し、車が動かず、夕方7時に、私たちを迎えに来てくださる友人は、大学で会議を終えて、ここに寄ることもできず、家に直接帰ったのは23時過ぎだったそうです。この様なことは、滞華12年の間、初めてのことです。ここも異常気象に見舞われています。
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今日の「夏至」は、春分の日、秋分の日、冬至の様に特別な食べ物や行事がないのだそうです。田植えなどの農繁期ですから、それどころではないからでしょうか。それでも私の母の故郷の島根県では、小麦の「焼き餅」を、田植えを手伝ってくださる人々に振る舞う風習があるそうです。

また強い雨が降り出しています。明日も雨の予報だそうです。わが家は、市内を旧新に二分する大河の近くに位置しています。でも二階ですので、水害は大丈夫と思っていますが。それでも、「備え」を怠ってはいけませんね。

(北海道の洞爺湖の「日の出」、この時期の岡山県新見市草間台地に咲く「イチヤクソウ」です☞HP「里山を歩こう」から)

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程好い距離



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ずいぶん昔になりますが、東北なまりで、訥々(とつとつ)と話される「詩人」のインタビューを聞いたことがあります。青森県出身で、「天井桟敷」という劇団を作って、若い世代に、とても人気のあった、「寺山修司」です。残念ながら、40歳前半で病気で亡くなられています。

そのインタビューの中で、この方が、<近親憎悪>について話していたのです。”大辞林“には、「血縁的距離が極めて近い関係にある者どうし、また、性格の似通った者どうしが憎み合うこと。」と解説されています。日本の犯罪は、40%以上の犯罪が、この近親間で起こっている、世界でも特異な犯罪傾向がある様です(子殺し、親殺しなどです)。<家>、<本家と分家>、<地主と小作>の関係が近過ぎるからでしょうか。

中根千枝(社会人類学者)が著した「タテ社会の人間関係」と言う本は、日本の家族制度について触れていて、興味深く読みました。「柵(しがらみ)」や「制約(掟と言った方が好いでしょうか)」や「絆(きずな)」が、家族の間で強過ぎるのでしょうか。親は子に期待過剰になり、子は親を利用し、依存する傾向が強いのです。上手く均衡が保たれている間は好いのですが、一旦、関係が破綻すると、<対決>してしまう。そこに犯罪が起きやすい精神土壌があるのでしょう。

昔の農村だけではなく、現代の都会や会社や倶楽部にも、そう言った、近い者同士が、《程好い距離》を保てなくて、近づき過ぎたり、遠く離れ過ぎてしまう問題があります。出身地や出身校や趣味や倶楽部などで派閥を作ってしまうのです。あんなに仲が好かったのに、何時の間にか、疎遠になってしまうか、憎しみ合ってしまう友人、同僚、恋人同士が多くいるのを見て来ました。

田舎で育った方は、それが嫌で、家と親元から、都会に出て、解放されるのですが、この“コンクリート砂漠“で生活していくうちに、孤独になって行くのです。 都会も形を変えた束縛や不協和音があるのに気付くからです。それで、『都会は嫌だ!』と、Uターンをしてしまい、元の煩雑な関係に舞い戻る人も多い様です。

祖父母を、私は知らないのです。母の養母には、小学校の時に出掛けて、叱られた記憶があり、父の養母の葬儀に、父のお供で出たことがあるだけでした。だからオジやオバも従兄弟、従姉妹も、両親共付き合わなかったので、訪ねて行くことも、来ることも全くなかったのです。これも、日本の社会の中では、逆に珍しいかも知れません。

ですから「お年玉」を、親戚の人にもらった記憶もないほど、疎遠だったので、「村の掟」とか「親族の柵」などに縛られたこともありません。中上健次の小説の題材が、ほとんど、家族間の軋轢と衝突だけの様で、その様な世界でなく育ったのは好かったと思っています。「甘え」とか「恥」にも、寄り掛かったり、はなれたりしないで育ったからです。家内が羨むほど、兄弟との関係が好いのです。その上、血の繋がらない兄弟や姉妹がいて、助け合うことができています。

ここ中国も、けっこう故郷(老家laojia)の両親とか、近くに住む親族の冠婚葬祭、日常の付き合いが大変だと言いますが、その一方で、その煩わしさを喜んでいる様にも見受けられます。東アジアの国の私たちは、同じ様な背景に生まれ、育ち、今も生活しているのでしょう。寺山修司は、「家出のすすめ」を著して、家出を勧めています(この中で<自立のすすめ>にも言及しています)。犯罪を犯す前に、そうした方が好いのかも知れません。最善なのは、《程よい距離》で関わることでしょう。

(青森と言えば林檎、その花です)

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解く

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時々、「小包」が、わが家に来ます。日本の味や物に、未練を覚えているのを感じて、中身よりも、送料の方が高い「小包」を送ってくれるのです。配送郵便局に小包が届くと、「配送受け取り伝票」が、この小区の事務室に送られてきます。そこから伝票が届いた旨、電話連絡があって、それを取りに行くのです。日を改めて、伝票に「旅券番号」と「名前」を記入して、旅券と一緒に伝票を手に、そしてカートを引いて、バスに乗って、郵便局に出掛けます。

郵便局の事務の方に、伝票と身分証明に旅券を渡すと、奥に行って、届いた小包を渡してくれるのです。それをカートに、ゴムベルトで固定して、それを引いてバス停に行き、帰宅する、これをするわけです。吉野弘に、一編の詩があります。

「ほどく」

小包みの紐の結び目をほぐしながら
おもってみる
― 結ぶときより、ほぐすとき
すこしの辛抱が要るようだと

人と人との愛欲の
日々に連ねる熱い結び目も
冷めてからあと、ほぐさねばならないとき
多くのつらい時を費やすように

紐であれ、愛欲であれ、結ぶときは
「結ぶ」とも気づかぬのではないか
ほぐすときになって、はじめて
結んだことに気付くのではないか

だから、別れる二人は、それぞれに
記憶の中の、入りくんだ縺れに手を当て
結び目のどれもが思いのほか固いのを
涙もなしに、なつかしむのではないか

互いのきづなを
あとで断つことになろうなどとは
万に一つも考えていなかった日の幸福の結び目
― その確かな証拠を見つけでもしたように

小包みの紐の結び目って
どうしてこうも固いんだろう、などと
呟きながらほぐした日もあったのを
寒々と、思い出したりして

作者の時代や、私たちが子どもの頃には、小包は、紐をかけて結んでありました。解(ほど)かなければならなかったのです。小包の紐も、情の糸も、結び目が強ければ強いほど、解くのが難儀です。そういう情が絡まったり、解けなくなったりの経験のほとんどない私には、問題は、小包でした。

現在では、布とかクラフト紙とかプラスチックの粘着テープが、梱包用にあって、それで封をする様になっています。ですから、「解く(ほどく)」ことは、ほとんどしなくなりました。ただ最近は、「端午節」で頂いた「粽」があっって、それがタコ糸や笹製のヒモで結わいてありますから、それを「ほどく」ことがあります。

結び目が固過ぎて、解けないと、最後の手段は、「ハサミ」を使って、切ってしまうことです。父のところにも、よく小包がありました。几帳面(きちょうめん)」で、無駄をしない父は、その紐を再利用するために、忍耐強く解くのです。その紐を、左手の親指と小指に、交互に<8の字>にまとめていました。それでも、情の固い結び目で苦労している方から、何度も相談されたことがありました。 解くのか結ぶのか、痴話喧嘩や夫婦喧嘩は、ただただ大変でした。

(以前に送られてきた小包を解いた後のの中身です)

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