ソロリソロリと

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この9月18日に、東京と名古屋間を、40分で結ぶ「リニア中央新幹線」の開業が、2027年に決まったとの発表がありました。現在の品川駅の地下に始発駅を作り、相模原、甲府、岐阜に新駅を設け、名古屋に到着するとのことです。時速500kmとは、どれほどの速度なのでしょうか、ちょっと体感してみないと何とも言えない「速さ」に違いありません。南アルプスの山岳地帯にトンネルを掘るのですね。歴史上まれにみる土木工事になることでしょう。

この実験線の見学センターが、山梨県都留市にあります。近くを通りかけたことが何度かありましたが、見学をしないままでした。40分というと、長男の住んでいる東武東上線の駅から、次男が住んでる代官山までの普通電車と乗り換えの時間を入れた所要時間くらいでしょうか。名古屋には知人はいませんから、行く機会はないのですが、便利になることはいうまでもありません。

このところ、日本との往復に、船を利用することが多くなってきています。ゆったりと背中を伸ばして旅ができますし、急かされることのない船旅は、今まで急ぎ足の生き方を補ってくれるような、微調整してくれる効果があるように感じています。妻や子どもたちに、「早く!速く!」と、急(せ)かしてきた自分としては、反省も込められているようでもあります。上海を昼前に出港した船は翌々日の朝9時に大阪港に着きます。この丸二日は、過ぎにし年月に思いを向けたり、これから迎える日々を考えたり、ただ波の飛沫(しぶき)や流れる空の雲を眺めながら、思考停止していることで過ぎていきますが、それは新たな経験になっているようです。

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そんな経験をしますと、人生は、「はやさ」ではないことが、やっと悟ることができたようです。つい急いだばかりに、無くしたり、忘れたり、取りに戻ったり、やり直したことが多くあったのを思い出し、結局は、急いでも、ゆっくりでも、所要時間は、ほとんど変わらなかったのです。かえって、ゆっくりした方が早かったと思われることが何度もありました。

この8月、上海までの船は、台風の余波で大揺れでしたので、「次は飛行機で!」と思ったのですが、そう言った口が乾かない今、「次回も船で帰国しようかな!?」と、考えてしまう私であります。今度、日本に帰ったら、「鈍行の旅」をしてみたいものです。上野から青森まで、普通電車を乗り継いだら、二日ほどかかるでしょうか。無目的に、どこかの駅で下車をして、バスに乗って横道にそれたら、新しい発見や体験があることでしょうね。車を運転していた時に、よく見かけた表示に、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く?」という交通標識がありました。さあ、ゆっくり、ソロリソロリと歩んで、ターミナル(終着)に向かうことにいたしましょう。

(写真上は、「リニアカー」、下は、歌川広重の「東海道五十三次」の「三島宿」です)

十五夜

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今宵は、「十五夜」 、縄文の昔から、日本人は想像をたくましく、秋の満月を見上げて、その神秘さに感動してきているようです。「若い方たちが鍋を囲んで、食事をしますので、お出でになりませんか!」と誘われた私たちは、バスに乗って出かけ、先ほど家に帰り着いたところです。帰り道に空を見上げたのですが、雲に邪魔をされていました。ところが、ベランダに出ましたら、「まあるいまあるいまん丸い月」を眺めることができました。

明治43(1910年)年七月、文部省が編集した最初の唱歌集『尋常小学読本唱歌』に発表されたのが、「月」でした。小学一年生の歌唱教材として、教科書に掲載されていたのは昭和27年から平成3年までの間でした。私の父が、この明治43年の三月に生まれています。

1
出た出た 月が
丸い丸い まん丸い
盆のような 月が

2
隠れた 雲に
黒い黒い まっ黒い
墨のような 雲に

3
また出た 月が
丸い丸い まん丸い
盆のような 月が

歌謡曲に、「月が とっても青いから 遠回りして帰ろう・・・」という歌があって、よく口づさんだことがありますが、我が家のベランダから見上げた月は、本当にほのかに青い光を放っているのです。想像をたくましくして、月の中に、うさぎが餅搗きをしていると感じたのは、縄文人だったのでしょうか。

中国のみなさんは、今日を「中秋節」と呼び、国民の休日になっています。そして「月餅」を送りあって、月を愛でながら食べる習慣をお持ちなのです。我が家にも、四軒の家から「月餅」を、都合五箱ももらって、「月餅」だらけと言った感じがしております。爆竹が鳴り轟き、花火が打ち上げられ、学校も官庁も休みですから、リラックスして、この日を祝っているようです。故郷に帰らなかった若者たちと、鍋をつつき、水餃子など十種類以上の料理、そして果物やジュースを一緒に食べて飲んで、楽しい交わりの夕べでした。彼らの上に祝福を願った「中秋の宵」でした。

(写真は、「msnニュース」から富士山にかかる真珠のような「中秋の名月」です)

他人事ではない

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有名なテレビの司会の息子の窃盗事件のニュースを聞いて、幼児教育をしばらくしていた家内が、「寂しさが、そう言った行為に連れて行くことがあるそうよ!」とコメントしていました。「窃盗症(せっとうしょう)」を、ウイキペディアは、「アクレプトマニア (kleptomania) の訳語であり、経済的利得を得るなど一見して他人に理解できる理由ではなく、窃盗自体の衝動により、反復的に実行してしまう症状で、精神疾患の一種である。病的窃盗ともいう。」と説明しています。

それを聞いて、自分にも子どもの頃に「盗癖」のあったことを思い出したのです。「みよちゃん」という駄菓子屋が、私の住んでいた街の大通りにありました。母親にもらった五円や十円を握っては買いに行ったのです。一時期、何度も何度も、おばさんが向こうを向いている隙に、利き腕の右手でお菓子や飴玉を握っては、ポケットの中に盗み取っていたのです。それで、この店の前を通ると、やましさが心の中から湧き上がってきて、自責の念に駆られるのが常でした。二十歳の時に、よその街に越し、さらに仕事で遠くの街に越したのです。しかし上の兄が、その街で仕事をしていましたから、時々訪ねていました。駅を降りて左に行くと兄の仕事場、右に行くと「みよちゃん」の店があるのです。

結婚して子どもが生まれて 、幼稚園に行き始めた子育て真っ盛りの頃でした。「<みよちゃんの店>に行って、お詫びをしろ!」という思いが、たびたび湧き上がってくるのです。親として清算すべきことを思い出させられたわけです。その思いを、払い除けるのですが、消すことができませんでした。ちょうどその頃、兄の所に行く用があったのです。「今度こそは、<みよちゃん>の店に行って、おばさんに・・・!」と、心に決めて出かけたのです。駅を降りて左に行かずに、右に行き、「みよちゃん」の店の前に立ったのです。あの「みよちゃん」が、子どもの頃のようにして店にいました。「おばさん。ぼくが子どもの頃、おばさんが向こうを向いてる隙に・・・」と、罪を告白したのです。みよちゃんは、キョトンとした顔をして、苦笑いで聞いてくれたのです。「・・・・それで、これ少ないですけど、お詫びの分です!」と言って、3000円を手渡したのです。すると、「いいわよ、そんなの!」と言って取ってくれないので、強引に握らせて、「じゃあ!」と言って去ったのです。

それ以来、「みよちゃん」の店を訪ねていません。まだ店をやってるのかどうかも分かりません。「みよちゃん」は元気なのでしょうか。何度も何度も買いに行った客だった私の顔も、どこの誰の息子かも、狭い街でしたから知っていたのです。「娘の頃に、万引きをしたことがあった女校長が、退職を間近して万引き事件を犯して逮捕される!」という話を、松本の「女鳥羽講演会」で聞いたことがありました。「親になったのに、何か精神的ストレスが原因で、盗癖の根がノキノキと出てきて、再び盗みを犯してしまったらどしよう?」と恐れたのが、清算の動機だったのでしょうか、「恥な過去」の良心の責めだったのでしょうか。でも、過去の過ちの清算をして好かったと、今切々として思うのです。決して「他人事(ひとごと)」ではないからです。

(写真は、今でもある「駄菓子屋」の店頭です)

美談

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森鴎外の名作に、「高瀬舟」があります。この舟は、高瀬川の流れを利用して、人や物を運んだといわれています。役人の手で、弟殺しの犯人が護送されるのも、この舟でした。この作品には、船中での二人のやり取りが記されています。この川は、琵琶湖から流れ出し、宇治川となり、やがて淀川となって下って行くのです。この淀川で、人命救助があったというニュースが、今週ありました。

「経験したことのない大雨」が、台風18号の襲来で、近畿圏や中部圏を中心に降りました。最近の大雨は、「ゲリラ豪雨」とは言わないようで、「想像を絶した大雨」と言う方が、的確なのではないかと思ってしまいます。半端な降り方ではないのです。16日のことでした。その大雨で増水した淀川に、足を滑らせて流された小学生を、一人の青年が救助したのです。その方は、中国人の留学生、厳俊さんでした。10mほど泳いで岸に、小学生を連れ戻したのです。

救助されたのは、9才の男児で、たまたまジョギングで通り掛けた厳さんが見つけ、川に飛び込んで助けたのです。それは考えていたらできない行為で、きっと咄嗟(とっさ)飛び込んだに違いありません。大水でしたから、ご自分だって危険が予測できたのでしょうに、そんなことを顧みずに、人を助けるという行動は、見上げたものです。私も、中国の空の下から、「ありがとうございました!」と拍手して感謝したところです。

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中国の青年のみなさん、私たちが出会ってきた彼らは、一様に優しい心の持ち主でした。背筋をしっかりと伸ばし、堂々として生きていますし、いつもあたりに気配りをしておいでです。教育のせいというよりは、中国の伝統的な良い精神的な遺産を継承しておられるのだと、感じるのです。昨年の今頃、「尖閣諸島」の購入によるデモが、中国の多くの街で起こり、中日関係が最悪の事態になり、その後も思わしくなく推移しているのですが、この「人命救助」の「美談」が、中日友好関係の好転に変えられていくサインのように感じています。民間レベルでの愛の交流が、関係改善に寄与していくのではないでしょうか。

厳俊さんは、来春、大阪市立大学の大学院の博士課程に進学を予定しているそうです。その前途を、心から祝福いたします。

(写真上は、浮世絵に描かれた「淀川」、下は、「厳俊さん」です)

ひと夏の思い出(5)

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かつて名の知れない小さな漁村だった「横浜村」が、ペリーの黒船来航以来、近代日本の窓口として、外交や商業の主要都市となっていきました。それ以来、貿易港としての使命を果たし続けてきているのです。この夏、所用があって、代官山から東横線の電車に乗って、みなとみらい線の「馬車道駅」まで出掛けました。横浜には友人がいて、彼の家に泊まりに行ったり、一緒に町歩きをしたりしたことがありました。当時は、横浜には地下鉄も「みなとみらい線」もなかったのですが、今では、多くのビルが建ち並んで、さながら「未来都市」のようになっていました。

日曜日の朝、訪ねた所は、四十年ほど前に、友人の結婚式があって、一度行ったことがありました。その建物は、明治の初期に建てられたのですが、関東大震災の被災で壊滅してしまい、その後再建されています。その建物も戦争中には空襲で焼かれてしまったのです。戦後、改修されて今日に至っており、周りの近代的なビル群の間で、「デン!」と構えて歴史を誇るかのようでした。それは、学校で学んだ「ヘボン式ローマ字」を作ったヘボンと関わりがある由緒ある建造物なのです。

用を済ませた私は、駅前にある「神奈川県歴史博物館」に入ってみました。父の出身の横須賀に関わる展示物などもあり、「横浜開港」前後の様子を描いた絵が展示されているのが興味深かったのです。一時間半ばかり館内を見学して駅に向かいました。息子に、「中華街で中華饅頭を買ってきて!」と、出がけに頼まれましたので、二駅向こうの「横浜中華街駅」に向かいました。日曜日の昼過ぎ、駅からはき出される人の波で、街は溢れていました。中国情緒の好きな人ばかりなのでしょうか、かくいう私も「中日友好の士」ですから、けっこう人の波に押されながら、碁盤の目のような中華街を徘徊してしまったのです。道筋に八百屋があって、自分の好きなトマトときゅうりを買い、それに頼まれた「饅頭」も買って、帰宅したのです。

久しぶりの「横浜」でしたが、様変わりが激しくて戸惑ってしまいました。その印象は、「日本って平和で豊かな国だなあ!」というのが本音でしょうか。着ている服、履いている靴、持っているバッグ、手にしている携帯、彼らを呼び込む店の物量の多さ、何を見ても、そう感じた今年の日本、とくに横浜の夏でした。

(写真は、横浜の「中華街」です)

ひと夏の思い出(4)

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私の生まれた年に流行った歌に、「ラバウル小唄」があります。作詞が若杉雄三郎、作曲が島口駒夫で、「遠洋航路」の別名もあります。

1
さらば ラバウルよ また來るまでは
しばし 別れの 涙がにじむ
戀し懷し あの島 見れば
椰子の 葉かげに 十字星

2
船は 出てゆく   港の沖へ
いとし あの娘の  打ちふるハンカチ
声をしのんで  こころで泣いて
両手 合わせて  ありがとう

3
波の しぶきで 眠れぬ夜は
語り あかそよ デッキの上で
星が またたく あの星 みれば
くわえ 煙草も ほろにがい

4
赤い 夕陽が 波間に沈む
果ては 何處ぞ 水平線よ
今日も はるばる 南洋航路
男 船乗り かもめ鳥

5
さすが男と   あの娘は 言うた
燃ゆる 思いを  マストに かかげ
ゆれる 心は  憧れ はるか
今日は 赤道  椰子の下

この歌詞 に出てくる「ラバウル」は、パプア・ニューギニアのブリテン島にある町で、かつて旧日本軍の航空隊の基地がありました。この歌は、軍歌ではなかったのですが、兵士たちに好んで歌われたようです。大阪港から「蘇州号」に乗って上海に向かった船の中で、この歌を思い出した私は、波を見ながら歌っていました。ところが二日目、台風が行ったばかりの外海は、荒波が立っていたのです。これまで5回ほど乗船経験があり、この歌の三番の歌詞の「波の しぶきで 眠れぬ夜は 語りあかそよ デッキの上で・・・」のように、道連れになった方たちと語り合うことが多くありました。しかし、今回は、そんな気分はなれなかったのです。「船員も船酔いしていたようです!」と後になって聞いたように、船が前後に揺れて、朝食を摂ったあとは、昼も夜も食事を食べずに、水分補給だけはして、船室のベッドに横になるばかりだったのです。さながら船内は「ゴーストタウン」のように静まり返っていました。小さな子どもたちでさえも、走り回らなかったのです。

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そんなこんなの船旅で、上海で下船したのですが、上海は朝から真夏日が照り付けていました。「動車(中国番の新幹線)」のチケットを買っておいてくれた学生さんと落ち合う喫茶店に、何と徒歩で向かったのです。近いはずなのに、体力がなかったので遠く感じられ、荷は重くて倒れるばかりでした。その朝も食べられなかった私は、息子が「はい、おやつ。持っていって!」と渡してくれた「干しイチジク」を食べていたので、どうにか持ち堪えることができたのです。Nさんと会えて、始発駅まで送っていただきました。彼女に荷物を一つ持っていただいた時は、彼女が天使のように思えて感謝でいっぱいでした。

Nさんと息子のお陰で、「熱中症」にもならないで、無事に帰宅することができたわけです。「次回は、飛行機!」と決心したのですが、あの何とも言えない船のゆったりした揺れと語らいが、懐かしくなってきていますので、この決心は撤回されるかも知れません。初めて「吐き気」を覚えた夏の出来事でした。

(写真上は、上海と大阪間を就航する「蘇州号」、下は、「上海」です)

ひと夏の思い出(3)

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息子の自転車にまたがって、全国高校野球選手権の「西東京大会」の決勝戦が行われる「明治神宮球場」に、麦わら帽子をかぶり、ザックを背に出かけました。午後一時試合開始でしたから、夏の陽がジリジリと照りつけていました。入場券を買うために、長い行列ができていましたので、その最後部に並んだのです。「もう少し日陰がほしい!」と思ったのですが、じっと我慢しておりました。3塁側の応援席に陣取って、球場全体を見回すと、ほぼ満席の状況で、さすがに決勝戦の熱気に満ちていたのです。久しぶりの都立高の決勝戦出場を果たした「日野高校」の応援をしたのです。私が都合、十五年ほど住んだ街にある都立高校だったことが、そうさせたわけです。卒業生ではなく、戦後の団塊の世代の受け入れで、1960年代の初めに新設された高校でした。対戦は日大三高、西東京の雄で、甲子園で優勝経験もあるほどの名門でした。

やはり一方的な試合運びで、大差で日大三高の勝利に終わってしまいました。でも試合を捨てることなく、最後まで善戦した日野高校の選手たちに、最大級の拍手を送って席を立ちました。人気のないスポーツをしていた私には、このメジャーな高校野球の沸騰するような人気が羨ましくも感じたのです。同じ運動場の右と左に別れての練習は、時たま打球が入り込むこともありました。野球部とは、仲良く励んでいたのです。私の部は、先輩たちや後輩たちによって全国制覇をしたこともあり、野球部に比べたら認知度が高かったのですが、マイナーだったのは悔しい限りでした。都の予選の決勝戦では、一点差で敗れ、インターハイに出場できなかったのです。すぐ上の兄とは同じ学苑の中等部と高等部で、兄は、その野球部に所属していたのです。確か東京の「ベスト16」で、甲子園の夢は破れてしまいました。

帰りも同じコースを通ったのですが、途中、「国連大学の前庭で<フリーマーケット>をしているんだけど、面白いよ!」と息子に言われて送り出されたので、寄ってみました。何と、そこでは、多くの野菜や果物の中に、私の古里産の「桃」が売られていたのです。咄嗟に「食べたい、」と思って息子と私の分を買って帰ったのです。懐かしい味と、みずみずしさとで美味しく息子と食べることができました。

太陽、高校野球、自転車、麦わら帽子、桃と五つが並びますと、どうしても「夏」ということになるのでしょうか。熱中症にもならずに、日本の夏を楽しむことができた一日でした。

(写真は、決勝戦の行われた「明治神宮球場」です)

ひと夏の思い出(2)

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渋谷から地下鉄「半蔵門線」に乗って押上駅で降りますと、そこは「東京スカイツリー」の真下でした。出張で帰国中の長女と次男とで、「一度は登ってみよう!」とのことで出掛けたのです。平日でしたので空いているかと思ったのですが、あにはからんやの夏休みで、学生と小さな子連れの家族で溢れていました。「(待ち時間)70分」とサインの出ていた最後部の列に並んだのです。今や「東京一の人気スポット」ですから、仕方なく「お上りさん」をしてみました。幸い列に最後部は、建物の中で、しっかりと冷房が効いていたので助かりました。「一人2000円」の入場料は高いと思いましたが、娘に払わせてしまいました。

高速のエレベーターで、一気に登ったのですが、「こんなに展望台に人がいて大丈夫?」と思うのは素人考えで、構造上も工学上も問題がないのです。二十一世紀の日本の科学技術の粋を凝らして作られたのですから、展望台に足を置いても不安はありませんでした。少々曇り空でしたが、千葉、埼玉、神奈川、山梨の隣県も眺められ、東京の街は足元に見ることができ、こう言ったのを「鳥瞰(ちょうかん)」と言うのでしょう。大空を舞う鳶(とび)にでもなったような気分でした。高度が「むさし(634m)」の駄洒落(だじゃれ)なのがいいなと思わされます。

上の展望台に登るのは別料金でしたし、その展望台を満喫しましたので、下りのエレベーターで降り、次の目的地の「浅草」に向かいました。「鰻を食べたい!」という娘の要望で、お目当ての店に息子が案内してくれたのですが、あいにくの休業日だったのです。唾を飲み込んで、道を行きますと、「蕎麦屋」があり、「ここでいいか!」と言うことで暖簾をくぐったのです。空腹だったこともあり、結構美味しかったので、満足して隅田川にかかる「吾妻橋」を渡りました。

もうそこは「浅草」でした。都市整備で道路の車線も増えて、道路ぎわの建物もほとんどがコンクリートのビルになっていて、ずいぶんと様変わりしていました。私が、そう思うのですから、父が生きていたら、目を丸くして驚いたことでしょう。仲見世をぶらぶらしながら、ちょっと疲れたこともあり、路地裏の喫茶店に入りました。そこは六十年代の雰囲気を感じさせる店でした。そこを出て、今度は「浅草線」で渋谷に向かいました。息子と私は「東横線」に乗り換え帰宅し、「ちょっと買い物を!」と言って娘は渋谷で降りて行きました。

「打ち合わせがあるので!」と言って出掛けた息子が、九時ごろに帰ってくると、娘が渋谷で買ってきたケーキにロウソクを立てて火をつけました。電気を消したら、「ハッピーバースデーツーユー」と歌い出したので唱和して、息子の誕生日をお祝いしたのです。ローソクの火を消した息子の横顔は実に嬉しそうでした。もう何年も、誕生日を家族に祝ってもらったことがなかったことでしょう彼は、久しぶりの誕生祝いに、きっと「家族っていいなあ!」と思ったに違いありません。そう、私も「家族っていいなあ!」と思ったことです。

(写真は、新しい東京のテレビ塔の「スカイツリー」です)

ひと夏の思い出

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帰国時に、すぐ上の兄と弟と彼の孫とで、福島県の津波被災地の二年半後の様子を見ることができました。八月でしたから、神奈川県下の片瀬海岸にでも匹敵しそうな広く美しい、豊間の海岸線は、夏の陽を浴びて、キラキラと輝いていました。かつては週日でも、この海塩屋岬と合磯岬の間にある海水浴場は賑やかだったのでしょうけど、私たちが参りましたおりには、サーファーが十人ほど遊んでいるだけで、閑散としていたのです。

車をおりて、歩いて見たのですが、家の基礎が残っているだけで、「ここが玄関で、そこは風呂場だったんだ!」と分りますが、蛇口をつけた水道管が剥き出しになっていたのが哀れでした。何代も何代も埋葬されてきた墓場の墓石がなぎ倒されているのですから、地震と津波の勢いがどれほどであったかが想像できました。人間が積み上げたもの、人の一生の最後を記念する家名を刻んだ墓石でさえも、一瞬にしてさらわれていくのだと思うと、「物を豊かに持つことが、人生の目的でも手段でもないんだよ!」と語りかけられたようでした。

日本の国が、豊かに作り上げ、積み上げ、誇らしく思ってきた有形無形のものが、自然災害の前では、赤子の手をひねられるように、一瞬のうちに略取されてしまうのだとしたら、私たちは大自然と、その造物主の前で、何一つ誇れないことになります。昨日も、台風のもたらした豪雨が、日本を襲ったとのニュースを聞きました。たびたびの異常気象の様子を耳にしますと、ここ中国の少数民族の「ミャオ族」に語り伝えられている「洪水伝説」も、作り話ではなく、歴史的事実だったのではないかと思われてしまうのです。

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今朝のこの街では、碧空が広がり、吹く風は肌に心地よく感じられますが、陽差しは、まだまだ夏そのものです。家内が買い物から帰ってきた物の中に、「さつまいも(甘藷)」がありました。あんなに西瓜やメロンが食べたかったのに、今や芋類を口にしたくなるのですから、巡りくる季節の産物というのは、 実に不思議な自然界の備えだと思わざるをえません。ちょうど母親が、育ち盛りの子どもたちに、「食べ物」を備えるような優しい心配りがあるように感じられてなりません。

地震と津波の被災地の復興が、まだまだのようです。また、福島の原発の放射能の問題も、「どうしたらいいのか?」から一歩も進んでいないそうです。課題だらけの日本ですが、生まれ育った祖国の課題ですから、門外漢でいるわけにはいきません。共に負いながら生きて行こうと決心したところです。それはそれとして、昼には、芋をふかしてもらうことにしましょうか。

(写真上は、美しい「海」、下は「さつまいもの花」です)

♭「ああ母さんと・・・」

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この季節になると、歌いたくなる歌があります。作詞が斎藤信夫、作曲が海沼実で、川田正子が歌った、「里の秋」です。1945年の暮れに発表されています。

1 静かな静かな里の秋
  お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は
  ああ母さんとただ二人
  栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい星の空
  鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜はっq
  ああ父さんのあの笑顔
  栗の実食べては思い出す

3 さよならさよなら椰子(やし)の島
  お舟にゆられて帰られる
  ああ父さんよ 御無事でと
  今夜も母さんと祈ります

この歌詞の中の「お背戸」は、OKwaveによりますと、「家の裏口(または裏手)を意味します。」とあります。今では、「囲炉裏」があるのは、茅葺のレストランで、郷土食を提供する店くらいにしかないのでしょうね。いつでしたか、山奥の家を訪ねた時に、老夫婦が、この囲炉裏に案内してくれたことがありました。夏でしたから、炭も薪(まき)も燃えていませんでしたが、井戸水で冷やしたトマトにたっぷりの白砂糖を載せたものを食べさせてくれました。ちょっと驚いたのですが、気持ちがとても美味しかったのです。

手袋を編んでくれたお母さんは、冬支度をする晩秋の頃に登場するのでしょうか。「栗の実」を煮ていた母は思い出しませんが、「干しいい(お釜の底にこびりついた米を水にふやかして、天日干ししたもの)」を炒って食べさせてくれたのが懐かしく思い出されます。母が得意だったのが、「ハンバーグ」と「硬焼きそば」でした。「もう一度・・・!」と願っているうちに、天の故郷に帰って行ってしまいました。ところが、家内の作ってくれる「ハンバーグ」の味が、「お袋の味」なのです。日本から上海経由で帰って来ました晩に、遅い夕食を食べた時に、食卓に、その「ハンバーグ」を並べてくれたのです。子どもたちの育った街の言葉で、言いますと、「まそっくり」だったのです。実に美味しかったので感激してしまいました。これって「嫁の味」になりますね。

日本滞在中、弟の家にいました時に(帰国時の息子の家の他の常宿になっています)、彼が料理を作って、何食も食べさせてくれたのです。十五年前に病気で、彼の奥さんのヨシエさんが召され、それ以来、「男手ひとつ」で仕事をしながら、三人の子を育ててきています。今夏の兄貴の来訪時にも、腕を振るってくれたのです。「筑前煮」などを作るほどの腕です。普段は忙しいので、出来合いのおかずで済ませてると言っていましたが、味噌汁はうまいし、目玉焼きの焼き具合も程よく、キャベツも細かく切っていて、いいかげんにしか作れない自分に比べた腕の良さに驚かされました。十五年のキャリアには負けてしまいます。

年を加えて足が弱くなってきていた母が、「轍ちゃんの家に行って手伝ってあげたいわ!」とよく言っていました。母親とは、息子がいくつになっても心配でならないのですね。我が家の「母親」も、いつも遠くにいる四人の子どもたち(妻や夫や孫も含めて)に思いを向けているようです。男の私には叶わないことの一つです。「ニッポンのお母さん」も「中国のお母さん」も「アメリカの母さん」も、その眼で子どもたちを見守り、手で繕ったり作ったりし、足で訪問したり、心で心配して育てておいでです。二十一世紀の「お母さん」に、心からの感謝とエールを送りたいと思っております。そう、お母さんの代わりをしてきた「お父さん」にも、心から、「ご苦労様!」と言いましょう!

(写真は、秋を代表する花「秋桜(コスモス)」です)