人間観察

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「初めての親」を1972年の5月、27才の時に始めました。彼を見た時に、その小ささとか弱さと「いのちの神秘」さに驚かされ、その「責任」の重さに圧倒される ほどでした。父母に育てられながら、親を見て、触れて、感じてきたのですが、自分が親になったことの「歯痒さ」もありました。私は、就学前に肺炎を病んでから、小学校の低学年の間、自分が病弱だったことから、両親に甘やかされて育てられたので、多分に我儘でした。自分の中では、両親は、「甘やかしてくれる親」だったわけです。今思い返して見ますと、あふれるほどの愛情と関心を受けたことは、「特権」だと思うのです。「特愛された子」の安定があるように思っています。通常、最初の子と「末っ子」は、愛情を親から格段に受けるのでしょうけど、私は三男でありながら、親の愛を独占したようです。もし祖父母がいて、忙しい両親に代わって育てられていたら、取り返しのつかない「我儘だらけの孫」になっていただろうと思うのです。ところが、両親は「子育て」に責任をとってくれたのです。過分に「拳骨(げんこつ)」が浴びせかけた父でしたが、総じて評価すると、「最高の父親」だったのです。

先日、連休中のスーパーで、買い物を済ませ、スナック・コーナーでお茶を飲みながら、「人間観察」をしていました。お婆ちゃんやお爺ちゃんと一緒の子どもたちの言動は、「一人っ子」の特徴と、祖父母の養育の影響が感じられてならなかったのです。彼らのしている「嘘泣き」や「駄々をこねること」や「注意を聞かないこと」は、私の父には通用しませんでした。すぐに「ゲンコツ」が飛んできたからです。寵愛を受けていた私も例外ではなかったのです。先日、「私の子育て中には、時々、<鞭(むち)>を使っていました!」と、若い親御さんたちの中で話したのです。「不従順と約束不履行、不当に怒りをあらした時に、そうしました!」、「手ではなく、それなりに用意した<愛のムチ>でお尻を!」打ったことも、話に付け加えました。祖父母は鞭を使わない方が好いのですが、親が使うことを勧めたいのです。私は、「懲らしめ必要論者」です。子どもたちの心にある「反抗心」は、砕かなければ、それが増長していくからです。私に多くのことを教えてくださったアメリカ人実業家は、このことも教えてくれたのです。こちらの家庭や「子育て」」ぶりを見ていますと、祖父母に一任のように見受けられます。思春期の若者の暴走は、アメリカや日本だけのことではなく、こちらでも、たびたびニュースになっています。

「たびたび窃盗をしていた!」子が大人になって、同じ事件を犯しました。親御さんは、自分の養育責任の間に、事件を教訓に、子を懲らしめたり、責任をとらすことをしないばかりか、事件のもみ消しをしていました。蔑(ないが)しろにしてきた「盗癖」が増幅し、熟成されて、衆目の前に晒されてしまったわけです。だから「親に恥をかかす子」に生長してしまったことになります。人は偶然に罪を犯しません。初めは微細で軽微な過ちなのです。それが放置されている間に中程度の過ちになり、やがて「国法」を破る重犯罪になってしまいます。「痛さで教える躾」は、子供の頃以外にできません。「年をとった犬に芸を教えることはできない!」のは、この世の哲理です。

自分の歩いてきた道を振り返りますと、「恥の体験」が溢れるほどあります。その数々は、「好かったことです!」と断言できます。赤っ恥をかいて、何度首をすくめては、「恥をかかないように生きよう!」とか、「親兄弟に恥をかかせないようになろう!」と決心できたからです。時々思い出して、「誰か覚えてる人がいないか?」と辺りを見回してしまうほどです。「切れる老人」が増加してるのだそうですが、糖分の摂取を当分ひかえて、「静かな心」で、人生の「秋」を生きたいと願う「神無月(かんなづき)」です。

(写真は、四川省の稲城の「秋の風景<2>」です)

「たけなわの秋」

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最後の「月餅」を冷蔵庫から取り出して、遊びに来ていた若者と、三分の一づつ食べました。私たちの中国滞在のために、いろいろと助けていてくださる方が、大きな製パン業をされていて、その工場で作られた物でした。私たち日本人は、「これ、つまらない物ですがおひとつ!」と言いますが、「私たちの月餅は、とても美味しいんです!」と言って、ご夫人が「中秋節」に、わざわざ二箱も持って来て下さったのです。自信作の「月餅」は、本当に美味しかったのです。

この年齢になると、「羊羹」とか「どら焼」とか「きんつば」を、渋茶で食べたくなるのです。以前、家内はあまり好まなかったのですが、最近では嗜好が私に似てきているようです。「甘党」の父似で「餡(あん)」で作られた和菓子に目のないの私に慣らされたのです。この「月餅」は、型で焼かれた外形は、みな同じですが、味や餡は様々です。どの「月餅」も、「中秋の名月」を象った卵の黄身(加工してあります)が入れられてありまた。しかし頂いた内の一箱lは、「パイ生地」に独特な餡が入っていて、東京の、和洋折衷のケーキに食感が似ていていました。今まで食べたもの中で一番美味しかったのです。

「十五夜」に、父の家では、普通の家庭がするような、野原に生えているススキや月見団子や栗などの果物を、月に供えることはしませんでした。そう言えば父の家は、季節行事とか宗教行事をしなかったのです。父も母も超然とし、それを好まなかったからだったからでしょうか。どの家でもすることを、しないでいても平気だったのは、当時では珍しいことだったのです。だからと言って、私たち四人兄弟が、社会性や情緒面に欠けていたことはないと思うのです。でも団子だけは食べたのを覚えています。それよりも何より、当時、一般家庭では口にすることのなかった「ケーキや「かつサンド」や「あんみつ」を食べさせてくれましたから、お腹は大喜びでした。

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実は、この八月に、こちらに戻ってきた時に、渋谷の「東急のれん街」へ出掛けて買った、製パン会社の社長さんへのお土産を持ち帰ったのです。「虎屋の羊羹」でした。「これなら口の肥えた彼とご家族にも喜ばれるかな!」と思ったからでした。家内にも買ったので,旅行カバンが重くて難義してしまいました。彼らは、私たちが儀礼的に言う、「この間は、美味しい物をご馳走様でした!」との言葉は、中国のみなさんにはありませんが、かんしゃはあふれています。家内は、夢に見るほどに懐かしい味に、「ありがとう!」と喜んでくれました。

天津にいました時に、アメリカ人のご家族が食事に招いてくれたことがありました。奥様は台湾の出身で、台湾料理でもてなしてくれたのです。その帰りに、「これ、貰い物なのですが・・・」と言って頂いたのが、「虎屋の羊羹」でした。「異国で虎屋!」に大喜びしたのです。それ以来、「虎屋フアン」になってしまった私たちですが、そうたやすく食べられるほどの値段でないのが、玉にキズです。

「食欲の秋」、今朝方の気温は、20度を切りましたので、まさに「たけなわの秋」です。日中は夏、夜間は秋と言った季節感のここ華南の街です。秋の連休、街ゆく人の顔は、緊張感のない「休みの顔」をしておいでです。私は、来週の金曜日まで休みになっています。一週間ほど前に分かりましたが、もっと早く分かっていたら、いろいろと計画できたのですが。「今日は、何をしようか?」の一日になりそうです。「紺青」とか「碧空」という言葉をつけるに相応しい秋空です。

(写真上は、四川省の稲城の「秋の風景」、下は、「羊羹」です)

口撃?好撃!

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「どんな躾をしてるんですか?」と、受話器の中で怒った声で非難してきた方がいました。娘が通っていた幼稚園の園児のお母さんでした。私の娘が憎くて、邪魔でしょうがないと言った雰囲気がこもった声だったのです。四人の子どもたちの子育て中に、いろいろと<口撃>されたことがありましたが、「我が家の子育てに欠陥があるのだろうか?」と思わされるることがいくどとなくあったのです。家内も私も、そんなことを聞いても馬耳東風でいられました。育児ノイローゼ に悩むことがないほど、あっけらかんと、<好撃>に換えてしまったのです。

長男が幼稚園にいた頃にも、それに似たことがありました。彼の担任が、「この子は異常です!」と園長に訴え、その旨、園長が知らせてきました。「今度、大学の幼児教育の専門家を呼んで、面接をしてもらいましょう!」とにこやかに園長が連絡してきて、その面談が行われました。「この子は成長したら、面白い子になることでしょう!」という結論でした。実は、長男にはリーダーシップがあったのでしょうか、園庭で遊んでいると、クラス中の園児が、長男が右から左に走ると、その後を追って走るというほどだったのです。担任のいうことを聞かないで、長男に従ってしまうにで、クラスを掌握できない新任の担任が、悩んで訴えたのでした。

親の欲目でしょうか、我が家の子は、「個性的」に生きていたのです。テレビを買ったのは、長女が、「高校受験の勉強のためにテレビの講座を聞きたいの。だからテレビを・・・」と言ったから、節を曲げたのです。押し付けの一方的な情報を受けなかったことと、何でも買い与えないで、必要な時まで待たせたことなどから、自分で工夫をして遊び、生きていたのだと思います。そういったことが、級友たちには、きっと魅力的だったのだと思います

次女は、授業が始まると園庭に出て行って、遊具にのって自在に遊んでいたのです。それで担任に怒られ、親の私たちにも、「Nさんは・・・!」と注意勧告がくるのです。娘に聞くと、「あたしが休み時間に遊具を使うと、ほかのお友だちが使えないから、あたしはみんながいなくなってから・・・」と、何故かを言ってくれたのです。また、クラスで絵を描く時も、作業の遅い子の手伝いをするオッチョコチョイで、自分がする時間がなくなってしまって、結局は先生に怒られるというパターンで生きていました。そんな理由を聞いていましたので、「まあいいか!」ということで押し通したわけです。

この子は目立ったのです。幼稚園の頃のスナップ写真を、園長や父兄が撮ったものを見ると、いつも、この子が先頭にいるのです。目立たない子の親は、比較してみると、きっと我が子の不甲斐なさの原因は、私たちの子にあるということでの口撃だったに違いありません。長女もリーダーシップが旺盛でした。困ってる子の面倒をよく見ていたり、妹や下級生が不当ないじめに会うと、いじめた子を制裁していたほどでした。しかも上級生だってお構いなしだったのです。次男は、音感が良くて、優しかったのです。食事の時など、話題が暗くなると、「ねえ、明るい話をしようよ!」と、いつも提案する子でした。

子育ては、あれよあれよで過ぎて行き、今は、四人とも、すっかりおじさんやおばさんになってしまったようです。それで、時々、彼らのことを思い出すのですが、「国慶節」の一週間の連休が、なおのこと郷愁の思いを強くするのでしょうか。今は、周りにいる若い友人たちの子育てを眺めていることが多いのですが、夕べ会ったご夫婦には、小6の女の子と、小4の男の子がいます。娘はお母さんに似て優しく、息子はお父さんに似て剽軽(ひょうきん)なのです。彼らにも、「子育て」を楽しんで欲しいと願う十月であります。

(写真は、幼稚園や公園にある「ブランコ」です)

とんがり帽子

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作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、唄が川田正子の「鐘のなる丘(とんがり帽子)」は、戦後間もない、1947年にはやった歌です。

1 緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よi

2 緑の丘の麦畑
  おいらが一人でいる時に
  鐘が鳴ります キンコンカン
  鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
  元気でいろよという声よ
  口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
  夜になったら星が出る
  鐘が鳴ります キンコンカン
  おいらはかえる屋根の下
  父さん母さんいないけど
  丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち
  鐘が鳴ります キンコンカン
  昨日にまさる今日よりも
  あしたはもっとしあわせに
  みんな仲よくおやすみなさい

1950年の夏に、父は、「四人の子を、東京で教育したい!」と考えて上京しました。東京で少年期を過ごした父だったこともあり、戦後の混乱も少しづつ収まり始めたころでしたから、自分も懐かしい東京に戻りたかったのかも知れません。新しい仕事も都内にあったようです。それで、現在のJR新宿駅の南口の近くや、大田区の東急線沿線(父はそこにある旧制中学に通っていました)に家を探したのですが、結局中央線の日野駅の近くに物件を見つけ、それを買ったのです。駅のそばに農家がまだ残っていたほどで、旧友たちの何人もが農家の子でした。かつては甲州街道の宿場だった街で、級友のS君の家は、宿場の中心的な役割をに担っていたそうで、遊びに行きますと、門構えも、家の中の柱や長押(なげし)もがっしりして、江戸時代を感じさせてくれるほどでした。

恵まれて戦後を過ごした私とは違って、戦争でお父さんや家族や家を失った子どもも多くいました。新宿や上野などに行きますと、よく「戦争孤児」を見かけました。まだ国が、彼らの面倒を見ると言った制度がなかった時代でしたから、新宿のガード下には、大勢の子どもがいたのです。ヌクヌクとして過ごしていた私たちとは違って、厳しい現実を生きていたのです。そんな頃に、よくラジオから聞こえてきたのが、この歌でした。今、歌いますと、あの頃の情景が思いの底から浮かび上がってまいります。「・・・おいらはかえる屋根の下 とうさんかあさんいないけど・・・」と歌詞にあります。あのジブリが作った「火垂(ほたる)るの墓」の兄妹の姿を彷彿とさせられます。

<緑の丘に赤い屋根の家>があって、そこで、そう言った子どもを見兼ねた人たちが世話をしていたのです。そのモデルとなった「おいらの家」が、岩手県奥州市に残されているようです。繁栄の時代の今では、想像もできないことですが、こう言った過去を、しっかりと記憶にとどめておく必要があるようです。その家に住んでいた子どもたちも、もう七十代、八十歳にもなっておいででしょうね。厳しい境遇を跳ね返して、強靭に生きてきて、老いを迎えておられるのでしょうか。この時代は、「あしたはもっとしあわせに」と願われ、世話を受けた、彼らの上に出来上がったわけです。<とんがり帽子の・・・>のフレイズに強烈な印象があります。

(写真は、歌で歌われた「おいらの家」です)

「将来を考えられるんだよね!」

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もう42年前になりますが、「婚姻届」を市役所に届け出た時、「戸籍抄本」が必要でした。父母の本籍地の市役所から、取り寄せた時、父の戸籍の部分が記録された「抄本」が送られてきました。その時、なぜか二通、送付してもらっていたのです。家内も、同じでした。その残りの抄本を日本から持ってきて、「重要書類ファイル」に保管してありましたので、昨日、それを取り出して、写真におさめ、メールに添付して、娘のところに送りました。私の父の両親の「姓」が違っていることを確認してきたのです。明治期の父の生まれた家系の在り方が、この抄本から読み取れるのです。一般的に、私たちの国では、家族の秘密を、「世間体」を考えて、その事実を隠してしまおうという思惑が働くのです。

私が、分かる範囲で知らせたことに対して、娘から、「辛い過去を考えるのは嫌なことだけど、次の世代に、<歴史の事実>を残すのも好いことだと思うわ!」と返事がありました。孫たちの学校のプログラムで、「歴史」を、ありにままに学ぼうとしているのです。「幼い頃から歴史を教えて、事実を受け止めて、歴史から学ぶ必要があるの。だから将来が考えられるんだよね。」と、親としての見解を知らせてきました。もちろん知らなくて好いこともあることでしょう。ただ曾祖父の誕生の歴史的な事実を知ることは、その血を受け継いでいるひ孫の彼らには、重荷にはならないはずです。事実を知る時、「そうだったの!」と思い、生きることの楽しさや面白さ、辛さや悔しさを知るのは好いことに違いありません。きっと、会ったことのない「ひいじいちゃん」がおぼろげに見えてくるのではないでしょうか。

テレビを一緒に見ていた父が、「こんな場面で!」と思う時に、涙を流しているのを見たことが何度かありました。涙もろさの中に秘められた「歴史」、そして「隠されている過去」があったのでしょう。父の生まれ育った家庭環境や、当時の社会や家庭の在り方、国の仕組みでさえも知ることができるに違いありません。

「歴史の歪曲(わいきょく)」という言葉があります。後世に、事実を隠蔽(いんぺい)して正しく伝えたり、残そうとしないことを言っています。イスラエル民族は、親が子に、「民族史」を教え続けてきた特異な民族です。親が子に口で語り伝えるのです。氏族の恥な過去も、隠しておきたい事実も、家系の明暗両面の歴史も正直にです。正しい歴史観に立つと、過ちを避け、再び過ちを犯すことがなくなります。娘が、「将来を考えられるんだよね!」と言ったのですが、正しい将来を迎えるには、偶然にではなく、「歴史の事実」を学んだ結果、もたらされるものなのでしょう。「関心を持つ!」ためになされる、アメリカの学校の歴史教育、今回のプログラムは、とても良い企画だと思います。多民族国家であるがゆえ、国としての歴史の短さのゆえに、学ぶことも、祖父母の国とは違う背景があるわけです。孫兵衛たちが、目をクリクリさせながら大いに学び、自分たちの「アイデンティティー」を確かにして欲しいものです。

英語では、「家系」を「ルーツ(roots)」と言うようです。土を掘り起こして、自分の根を掘り起こして見る時、驚くべき発見があることでしょう。孫兵衛たちの父母は国際結婚ですから、二親、その両方の父母、また父母と探っていくと、ヨーロッパ大陸にまで伸びて行き、「ウワーッ…!」と声を上げることでしょう。歴史学者のアーノルド・トインビーが、「現代人は何でも知っている。ただ、自分のことが、よくわからないだけなんだ。」という言葉を残しています。「自分のことが分かるために!」、良い学びがなされますように!

(写真は、アメリカ原住民の父が子を教えているレクチャーの場面です)

蕎麦の味

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蕎麦はまだ 花でもてなす 山路かな 芭蕉

信州や甲州の寒村に、よく蕎麦が植えられています。蕎麦の美味しい土地は、米の実のらないほどに痩せているのだそうです。そばの花の咲く頃に訪ねたことのなかった私は、テレビの番組の中で、初めて「蕎麦畑」が一面に花を咲かせているのを見ました。その花は「清楚」だけど「芯」の強さを感じさせられたのです。そばの開花期は、八月の下旬だそうです。夏休みも終盤、新学期の準備の頃ですから、旅で訪ねる人も少なくなってくる時期になります。一度見てみたい光景の一つです。旅を住みかとした芭蕉が、山あいの山路を歩いていた時に、目にしたのがこの花だったのです。訪ねる家では、きっと蕎麦でもてなされることなのでしょうけど、それ以前に、蕎麦の花が自分をもてなしてくれていると感じたのでしょうか。

新蕎麦を待ちて湯滝にうたれをり   水原秋櫻子

この俳句も、美味しい蕎麦を、しかも新蕎麦を粉にして打ってくれたものでもてなしてくれる。その前に、湯滝に打たれて、一風呂浴びることにしたのでしょうか。湯上りの蕎麦への期待感が高まり、蕎麦通には何とも言えないひと時なのでしょう。山里の温泉の長閑な風情が感じられ、旅に誘われそうになってしまいます。酔狂な俳人は、ずいぶん心や時の贅沢さを満喫していたのでしょうね。

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夜通し働いた仕事を終えて、朝方、家に帰らないで、山路を車で飛ばすと、入浴させてくれる温泉宿がありました。眠さを堪え、湯に体を沈めると、本当に生き返るような心地がしてくるのです。本業の他に、月に数度の仕事を終えた達成感を覚え、深夜作業の疲労を癒されるようでした。入浴を終えて食べた蕎麦の味は、忘れることができません。そんな時に感じたのは、「ああ、日本人っていいなあ!」だったのです。ああ言った「息抜き」を時々したので、辛い仕事を何年も何年も、続けることができたのだと思うのです。

私の父が、蕎麦好きでしたから、よく出前をとっては食べさせてくれたことがありました。蕎麦屋の縄暖簾を、父の後にくっついて行って、くぐったことも何度あったことでしょうか。そんな子どの頃の体験が、人の「嗜好」を形作るのでしょうか。信州の伊北に、何度も寄った「蕎麦屋」がありました。初孫の誕生前後に、良く訪ねた時の道筋にあった店です。「じいじ」と「ばあば」になった、こそばがゆさと喜びの交錯した思いが、何となく「蕎麦の味」のように感じられるのが不思議でなりません。

(写真上は、信州・佐久の「蕎麦畑」、下は、「ざる蕎麦」です)

おおいに楽しみ!

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次女から、「ファミリーツリー」というタイトルのメールが送られてきました。孫たちの学んでいる小学校で、親や祖父母に「家系」を聞いて、調べる必要が出てきたようです。「教えてくれますか?」と言われたのですが、聞こうと思う間もなく父が亡くなり、母も昨年、召されましたから、確かめる術がないのです。そこで母の晩年の面倒を見てくれた次兄に、メールを出して、分かる範囲で教えてもらうことにしたのです。まだ返信がきていないのですが、このような「宿題」を出された覚えのない私にとって、自分の家系を明確にしておくことの必要性を、今更ながらに感じたのです。

二年半ほど前に、教え子の故郷を訪ねたことがありました。彼女のお父様が、一冊のきちんと製本された本を持ち出されて、見せてくれたのです。そこには、ご自分の姓の「H氏」の系図が細かくまとめられていたのです。きっと、「忘れてはいけない!」ことを子孫に残すために、そう言ったことをされたのでしょう。中国のみなさんは、「華僑」や「華人」として外国に移り住んでも、男の子の家系を記録するために、何年かごとに帰国して来るのだと聞いています。「自分が誰か?」、「自分がどこに属しているのか?」を確かめ、子や孫たちに伝え残すために、そう言った努力をしてきているのです。シンガポールに行きました時に、中華系のシンガポール人の方が、「私たちの祖先は福州人です!」と言われ、漢字を書くことができないのですが、家庭では、「福州語を話してきています!」とおっしゃっていました。公用語は、英語ですが、スーパーのレジでは、華僑同士ですと「普通話(中国国内の標準語)」が話されているのです。

父は、「鎌倉武士の末裔」であること、祖となる人が、「源頼朝から拝領した土地に住み続けてきている名門」と言っていました。父の下に弟がいましたが、戦死してしまいましたから、会ったことはありません。三人の妹たちは結婚して姓を変えてしまっていますので、父の四人の子の中から、「誰か、<家名>を継いで欲しい!」と叔母たちに言われたのですが、誰も頭を振りませんでした。まあ、この分だと、父の家の姓は絶えてしまうのですが、仕方がありません。事情があって、父は母の姓を名乗っていましたので。

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父が召された後だったと思うのですが、父のルーツを記した文章があったような気がしているのです。細かな記録は関東大震災や戦災などで消失してしまったのかも知ません。ただ「戸籍法」ができた頃からのものがあったように思うのです。まあ、私としては、父の父くらいでまで分かっていればいいかなと思うのです。五、六歳くらいの父が、祖父の両足の間にいる父を写した写真がありました。きっと、母の残した物の中にあることでしょうか。「優しい好い親父だった!」と父が言っていましたし、「雅、お前が髭をつけたら、俺の親父にそっくりだぞ!」と何度か言ってくれことがありました。髭を三、四度生やしたことがありましたが、父が召された後でした。「家名」よりも、姿かたちや血の中や性質の中に、受け継いでいるものがあるわけです。「良いもの」はみんな先天的で、「悪いもの」は全て、自分の後天的なものに違いありません。

分かる範囲で、先ほど返信したのですが、孫兵衛(まごべー)たちは、自分たちのお母さんの「家系」に何を感じるのでしょうか。彼らの祖母の方の両親とその両親、お父さんの両親とその両親の「木」に何かを発見できるのでしょうか。おおいに楽しみです。

(写真上は、「サザエさんの家系図」、下は、沖永良部島の有名な「カジュマル」です)

「危機管理の優先順位」

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朝の未明に家を出て、高速を走り、東関東自動車道の浦安インターを降りて、「東京ディズニーランド」に、何度、出掛けたことでしょうか。「子どもたちを喜ばしたい!」からでした。その一回目で、親の私が好きになってしまいました。開門前、まだ駐車場に一台も車が止まっていないで、一番乗りだったこともありました。月収に比べて、「入場料が高い!」と思いましたが、丸一日、園内で楽しんでから、帰り道では、「こんなに楽しめたのだから、高くないか!」と思ったことでした。人を喜ばせ楽しませると言った娯楽事業として、この事業展開は大成功でした。行かなくなってから、「ディズニー・シー」が増設され、名称も、「ディズニー・リゾート」と呼ばれているようです。「行ってみたい!」と、こちらの学生さんたちも興味津々のようです。

一体、その成功の秘密は何なのでしょうか。東日本大震災の揺れが襲った直後に、「東京ディズニーリゾート」の従業員がとった対応が「語り草」になっています。来園者の混乱が予想された時に、店頭のぬいぐるみや菓子を配り、笑顔で声をかけ続けたのです。「収益を上げる!」、「客を喜ばす!」だけではなかったのです。数えきれない人の利用する施設、会場、交通機関などは、「混乱が予測される時に、どのように避難させ、誘導するか?」の「危機管理」が徹底されている必要があるのです。この「危機管理」で、素晴らしい模範となったのが、この「東京ディズニーリゾート」の対応でした。

日頃、従業員に徹底していたことがありました。「行動基準の優先順位」が定められていたのです。第一に「安全」、次に「礼儀正しさ」、「ショー」、「効率」と定めているのです。「効率」が偏り過ぎると、「儲け主義」になり、「安全対策費 」を削り始め、ついには軽微な事故が起こり、それをないがしろにいていくうちに、やがて「大事故」が発生してしまいます。 「ハインリッヒの法則」が、そういったことを言っています。「東京ディズニーリゾート」では、日頃、そう言った優先順位で、従業員の訓練がなされ、「安全優先の原則」が、一人一人に徹底されていたのでしょう。だから、咄嗟の時に、正しく行動がとれたのです。

たかが「縫いぐるみ」や「菓子」ですが、それと共に、優しくにこやかに声掛けをしたところが、素晴らしい対応でした。これまで、私は何度か「パニック」に遭遇してきましたが、オッチョコチョイの割には、危機に臨んで、案外冷静に行動をとってきているように思うのですが。何時でしたか、アパートの上の階で、ガス爆発事故がありました。爆発の瞬間、玄関の戸が開き、窓ガラスが粉みじんに崩れ落ちましたが、次男をお腹に宿していた家内も、三人の子も無事でした。それを確認した私は、寝巻き姿で階上に駆け上がって消化活動をしました。「引火していてもおかしくない状況でした!」と、検証の消防署員が言っていましたから、「守られた」という以外にはありません。我が家は、「火を潜って生き延びた過去」を持っております。

今、住んでいる街には温泉が豊富ですから、火山帯の上に住んでいることになり、「いつでも地震の起こる確率は高いです!」と聞いています。少なくても、「非常持ち出し品」を用意しておく必要があるようです。「危機管理」は、国や地方自治体だけではなく、各人が心掛けるべきことなのでしょう。「蘇州号」で、「何かあったら、躊躇しないで、すぐに帰国した方がいいですよ!」と、大阪空襲を体験された方が忠告してくれました。これは、「行動基準の優先順位」の知恵深い言葉であります。

(写真は、「東京ディズニーリゾート」です)

あの表情、あの一言

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「雅仁、皮肉を言ってはいけない!」と、注意されたことがありました。もう35年以上も前のことになります。私の師の友人で、熊本で事業を展開しておられ、数年前に帰米されていたアメリカ人実業家にでした。久しぶりに彼が訪ねてきて談笑をしていたところに、一人の独身のご婦人が来たのです。この方は、昼頃まで寝ていて、夕方我が家にきては、よく食事をしていました。食後も、10時過ぎまで我が家にいて、取り留めのない話を家内にしていました。家内は、早朝にヤクルトの配達や、日中は訪ねてくる人の相談に乗ったりし、何よりも4人の子育て中でした。私たちも、「そろそろ時間だから帰ってください!」と、なかなか言えなかったのがいけなかったのですが、そう言ったことがたびたびあったのです。極めて迷惑な訪問客だったのです。

彼女は、東京にいた頃からの家内の知り合いで、私の師を慕って引っ越してきたのです。私たちが紹介した幼稚園で、週に数日のアルバイトの英語教師をしていました。その彼女に、私が皮肉めいたことを言ったのです。どう表現したのか、はっきりと覚えていませんが、彼女の生活ぶりを、上手に皮肉ったわけです。それを聞いていたロックさんが、「皮肉を言ってはいけない!」と言ったのです。私の皮肉を理解できるほどの日本語力を持っていなかったのに、「雰囲気」で分かったようです。私は、決して「皮肉屋」ではありませんでした。遠まわしで言うよりは、直接はっきりと言って生きていたからです。よほど、彼女の我が家での長逗留が腹に据えかねていたので、つい皮肉が飛び出した様です。

しかし、そのロックさんの注意は、私への決定的な「叱責のことば」になったのです。それ以来、「決して皮肉めいたことを言わない!」と決心させ、今日まで、一度も言わないで生きてくることができたのです。今でも感謝を忘れないでおります。その後、彼女は縁あってアメリカ人と結婚をされ、一人の男の子をもうけたのです。だいぶ経ってからですが、「離婚された!」と風の噂で聞きました。

このことを思いだ出したのは、私の師も、その友人たちも、みなさんが「天の故郷」に帰って行かれて、もう「叱ってくれる人」、「忠告してくれる人」が、訪ねて来てくれなくなってしまったからです。荒削りで未熟、短気で喧嘩っ早く、野生種の駄馬の様な私に、やって来ては、交わりの手を差し延べ、「人の生きる道」を教えてくれ、優しく諭してくれた方たちでした。自分を矯正し、行くべき道を指し示してくれたこと、それを素直に聞き入れられた、あの時期は、最も充実し、有益な時だったことを思い出すのです。

「秋分の日」が過ぎ、暑さの中にも、「人恋しく思う秋」がやって来たからなのでしょうか。あの一瞬、あの場面、あの表情、あの一言が感じられるほどの「秋」であります。

(写真は、インディアナ州の州の花の「ボタン」です)

「人命尊重の精神」

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 新聞社の懸賞小説に当選した「氷点」の作者、三浦綾子は、戦争中に教師をしていました。高等女学校を卒業し、17歳で小学校の教師となったのです。幼い子どもたちに、天皇中心の軍国教育を命がけで教え、何人もの子どもたちを戦場に駆り立て、死なせた過去を持っていました。戦後、それを心から悔いて、教師を辞しました。軍国教育とは、裏返すと、自国を愛するばかりに、「敵を憎む教育」だったのです。彼女は、「戦争責任」を強烈に感じたわけです。戦時下の軍国主義教育は、有無を言わせないものでした。「天皇の赤子」とまで言われて、国のため、天皇のために殉ずることを、奨励したのです。それで純真無垢な少年たちが、「少年兵」として戦争に従いました。

 私の母の故郷に、親戚のようにして、お付き合いをしてきた一人の方がいます。彼もまた、十代(15歳以上17歳未満)で「予科練(海軍飛行予科練習生)」として従軍し、生還したのです。戦後、父の仕事の手伝いをしていました。幼なく我儘な私は、この方に、『大きな迷惑をかけたんだぞ!』と、父に話されたことがあります。穏やかな目の方だった記憶がうっすらと残っており、今も母の故郷で健在です。こういった「涼しい目」をした青年や少年たちを戦場に送り、死なせたのだと思うと、なんとも言えない悲しみを感じてなりません。「軍隊」とか「国防」とか「聖戦」とは、そういったことなのでしょうか。世界中の青年たちが、母国のために戦い、死んだのです。その死が、平和をもたらしたのでしょうか。そうだとすると、これもまた悲しい歴史であります。

 神風攻撃隊で生き残った方が、こう言っていました。『「彼らの死は犬死だった!」という人がいる。私は「犬死」だとは思っていない。戦友たちは、国を思い、家族を思って戦い、それで死んでいったのです。彼らの「死」が、戦後の平和をもたらしたのだと考えたい!』とです。これは、重い言葉ではないでしょうか。ある医者が、『しなければならない手術があります。好くなる見込みがないのに、メスをとらなければならないのです。外科医とはこういった仕事なのかも知れません!』と言っていました。では、『しなければならない戦争がある!』のでしょうか。「人一人の命」よりも、国家や民族の「面子」が大切なのでしょうか。

 そういえば、現代でも内戦の続く中近東やアフリカには、この「少年兵」がいます。父親を亡くした子どもが、父親の敵討ちで、銃を取ると言った話を聞いたことがあります。私たちの社会には、「人身御供」とか「人柱」とか言って、「生命軽視」の歴史があります。多くの古代国家には、「名君」の埋葬のために、生きた人間が死んだ王の「鎮魂」のために共に葬られるということがなされていました。こういったことを是とすると、国民が王のために死ぬことが「当然」にされるのです。これらとは反対に、私はアメリカ人実業家から、「人の命」の重さを学ばされたのです。「人命尊重の精神」でした。日本の伝統的な教えにだけ学んでいたら、きっと今も「戦争肯定論者」だったことでしょう。変えられたのです。教育の「力」や「影響力」は甚大です。

 韓国の昨今の「反日」は、異常です。小学生の子供が日本人を見て、『ナップンサラム(悪い人)!』と言います。ソウルの公園で遊んでいた日本人の子どもに、韓国人の子どもが、石を投げ付けます。『独島(竹島)は私たちのものです!』と、日本語で呼びかけるそうです。私は三度、ソウルを訪ねたことがありました。三十年ほど以前のことでしたが。この様なことは、一度たりともありませんでした。こんな幼気(いたいけ)のない子どもたちでさえ、「憎しみを教え込む教育」がなされていることは、悲しくてなりません。ただただ、好い関係が回復されることを願うばかりです。

(写真は、敬礼する「海軍飛行予科練習生」です)