先輩後輩

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    「◯◯良いとこ 誰言うた 櫟林のその中に 粋な学生がいると言う 一度は惚れてみたいもの、都立公立 古臭い・・・」、「僕は◯◯の一年生 紺の制服よく似合う あなたは女子部の白百合よ 紺のセイラーがよく似合う・・・」、これらは替え歌の文句で、上級生が教えてくれたものです。中学に入学して、隣の校舎には、おじさんのような高校三年生がいて、クラブ活動には、大学生や社会人が出入りしていました。また高校の教師が、中1の私たちを教えてくれたのです。とくに同じ学校の先輩と後輩というのは、近く親しく感じるものなのです。ああ言った関係が、とくに強かったと思います。

    「面倒をみる」とか「可愛がる」とか「奢(おご)る」とか言った関係でつながり、私たち後輩は、それを受けていたのです。もちろん、その中には、今では問題となっている「ビンタ(張り手のことです)」もありました。「制裁」とか「共同責任」とかで、頬を張りとばされたのです。「暴力」に違いないのですが、何だか「大人扱い」をされた気持になり、先輩への従順や敬意でさえ感じました。家庭や友達との間にはなかった真新しい世界の「上下関係」だったのです。中には、怒り心頭で殴った先輩もいましたが、例外でした。

    十歳も十五歳も年上ですと、戦時中に教育された先輩たちもいましたから、「軍事教練」を受けた世代になるのです。そんな先輩たちだったことになります。教師たちは、それを伝統とみなして、認めていたのです。教師の中には、OBもいましたから。「早く大人になりたい!」と言った願望で思いの中が溢れていました。ですから吸収力が旺盛で、いいことも悪いことも教え込まれた時でした。民主主義の教育を受けたのですが、古い価値観も残っていたことになります。

    あの時一緒に練習をした同級生たちと一緒に、都内の高校で試合があると、ボール運びと応援で連れて行かれました。帰りは、決まって新宿で下車して、西口の線路ぎわの小汚い食堂で、ご馳走になりました。美味かったのです。肉と言っても、何の肉だか分からないものだったのではないでしょうか。そんなことを考えなかった時代でした。仲の良かった友人は、四十前に亡くなってしまいました。同じ帽子と制服で紅顔の美少年だった仲間たち、先輩たちは、どうしていることでしょうか。全てのことが、昨日のように感じられてしまいます。

    (写真は、1960年頃の「新宿の街」です)

  • 運動会

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    「中高一貫教育!」を掲げた私の母校は、「武蔵野の櫟(くぬぎ)林」の中にありました。東京の多摩地区では、歴史もあり、まあまあの教育実績を上げていたのではないでしょうか。「大正デモクラシー」の時流の中で、教育事業を始めたことが、学園の学校案内の「沿革」に記されてあります。私たちが入学した頃には、幼稚園も小学校もありましたし、今では大学・大学院もある総合学園になっております。東京、京都と言った国立名門大学への進学者は少なかったのですが、私学の名門校「早稲田」の合格者はまあまあいたでしょうか。とくに大学進学の名門ではない「のんびり屋」の多い校風の進学先は、いわゆる「東京六大学」や「東都六大学」が多かったようです。

    そんなことで、卒業生たちの大学の「応援歌」が、秋の運動会には歌われていたのです。中学に入った年には、中高六年の合同運動会が行われていました。縦割りでしょうか、「白組」と「紅組」に分かれた「紅白対抗」で、競技が行われたのです。運動会が近づくと、校庭に集合して、応援歌の練習が何週にもわたって行われました。声変わりのしていない中学の新入生の私たちは、声をふりしぼって歌わされたのです。それで声変わりが始まった者もいたくらいだったのです。「武蔵秋空、希望に高く、意気と深紅の血と燃え盛る・・・・」、「紺碧の空、仰ぐ日輪、勝利・・・・・」などを歌わされた記憶があります。

    ああ言った伝統は、男子部と女子部が統合され 、男女共学の今も受け継がれているのでしょうか。「運動会」の思い出は、小学校よりも、中学入学の頃の物めずらしかった「母校愛」の意識を強くされた時のものです。「バンカラ(yahoo辞書によりますと<[名・形動]身なり・言葉・行動が粗野で荒々しいこと。わざと粗野を装うこと。また、そのような人や、そのさま。「ハイカラ」に対する造語。「―な学生」「―を気取る」とあります)」な気風が、まだ残っていたでしょうか。こちらの中学生や高校生に聞きますと、私たちが参加したような「運動会」は行われていないようです。 子どもたちの幼稚園や小学校の頃の「運動会」は、日曜日に行われていまして、日曜日に忙しかった私と家内は、やっとのことで、朝早く家内が作っておいた「昼ごはん」をもって、午前の部が終わった頃に駆け付けるのが常でした。校門(運動場に面した裏門でした)で、上の三人が首を長ーーーーくして、私たちを、いえ「弁当」を待っていたのです。そんなことの連続の年月でした。彼らを気の毒に思った級友のお母さんが、弁当を分けてくれようとしたこともありましたが。私たちを見つけた時の喜んだ彼らの顔が、今も思い出されます。もう孫の時代の「運動会」になってしまいました。思い返しますと、日本の学校教育には、独特で伝統的なイヴェントが多くあったように思うのです。やはり圧巻は、幼稚園のそれでした。「こんなに大きくなって!」と言った感慨で、多くのお母さんたちが泣いていたからです。今も、そうでしょうか。日本では「体育の日」の休日、連休も終わったことでしょう。 (写真は、今も残る「武蔵野の雑木林」です)

    小さな出来事

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    昨夕、家内と路線バスに乗って出かけました。その訪ねた家で夕食をご馳走になって、10時過ぎまで話をして過ごしました。遅くなってしまい、帰路についたのですが、もうバスの運行時間が終わってしまっていました。それでタクシーに乗って帰って来たのです。アパートの前の果物屋さんに明かりがついていましたので、みかんと葡萄を買って道路を渡ったのです。私たちの後ろから一人のご婦人が歩いて来られ、何か話しかけてきました。小声だったので私は聞き取れなかったのですが、「いい夫婦ですね!」と言っていたそうです。こちらの方は、そう言った言葉を、見ず知らずの私たちにも、気軽にかけてこられるのです。

    久し振りに寄る店で、懐かしそうに店主が話しかけてきます。「どうして知ってるのですか?」と聞くと、「一年前に買い物に来たじゃあないですか!」と答えます。私たちのことを覚えていてくれたのです。これは時々あることです。「意外と見られているんだ?」と思い、言動に気を付けないといけないと感じています。群衆の中に紛れ込んでいるように感じても、見ている人がいるわけです。最近では、すっかり中国人になったように感じるのです。顔の色も表情も仕草も、少しも変わらないのですから。それでも、ちょっとした違いがあり、みなさんから少しばかり浮いて見られているのかも知れません。

    日本男児の私は、妻でありながら、なかなか腕を組んだり、手をつないで歩くのに躊躇してしまうのです。アメリカ人のようにできたら好いのですが。人の目を気にするからでしょうか。でもこちらに来て、だんだんと年を重ねて、足元がおぼつかなくなってきたこともありますし、夜道は日本のように明るくないし、段差もありますので、最近では、腕を組んでくる家内を受け止めて歩いているのです。そう言った様子を見て、好ましく感じられたのでしょうか、そのご婦人が、そう語り掛けてきたわけです。仲睦まじい様子は、好いことなのですね。「日本人の老夫婦が助け合って、異国で生きているんだ!」と思ってくれるのは、対日感情のなかなか好転しない中での少しばかりの「一歩前進」になるのでしょうか。多くの人たちが、いまだに「日本鬼子」と思っておられる昨晩の巷での小さな出来事です。

    (写真は、「夕日」です)

    ちいさい秋

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    「四季の歌」の「秋」を歌う歌詞に、

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    とあります。与謝野鉄幹は、「人を恋うる歌」の中で、

    ああ われダンテの 奇才なく
    バイロン ハイネの熱なきも
    石を抱(いだ)きて 野にうたう
    芭蕉のさびを よろこばず

    と歌っています。ハイネの詩は、明治以降の近代化の中で、多くの若者に好まれたようです。しかし、青年たちを啓発して、夢や理想を詠み込む詩ではなく、「恋愛詩」を作ったのですが、当時の大人は、「何と軟弱な!」と感じたのではないでしょうか。与謝野鉄幹も、ご婦人には至極甘かったようですし、政治でも教育でも実業の世界でも、指導的な立場にあった人たちの多くもまた、鉄幹に似た生活をしていたようです。それを「よし」とするものが何時の世にもあるのでしょうか。

    「秋」は、「物思う季節」だったり、「人生を探求する季節」なのではないでしょうか。作詞がサトウハチロー、作曲が中田喜直の「小さい秋見つけた」は、

    1 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      目かくしおにさん 手のなるほうへ
      すましたお耳に かすかにしみた
      呼んでる口笛 もずの声
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    2 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      お部屋は北向き 曇りのガラス
      うつろな目の色 溶かしたミルク
      わずかなすきから 秋の風
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    3 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      むかしのむかしの 風見の鶏 (とり) の
      ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつs
      はぜの葉赤くて 入り日色
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    です。実に素朴で、ホッとさせられる詩ではないでしょうか。この歌に出てきます「だれかさん」や「鬼さん」の顔を、真っ赤な夕日やモミジが照らしているように感じられるのです。広場に集まって、「鬼ごっこ」や「宝とり」を、キャアキャア言いながら集団で遊んだのは、つい昨日のようです。そういえば、「集団遊び」も「広場」も、日本では見られなくなりました。ここ中国では、夕方になると、幼稚園くらいの子どもたちが、さまざまに掛け合いながら遊ぶ声が、アパートの壁に反響して聞こえてきます。ずいぶん影が長くなってきて、ここ華南の地も、もう「ちいさい秋」です。

    (写真は、中国四川省稲城の「秋」です)

    願い

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    この写真は、「外孫」たちの小さなころの後ろ姿です。兄貴が妹をコロに乗せて、家の周りを連れ歩いてるところです。もう二人とも小学生になってしまいました。彼らには、いとこが日本にいて、ほぼ同世代です。私たちの「内孫」になります。曽祖母の葬儀の折りに再会をして、遊んでいるのを見て、血の繋がりの近さをみせていました。自分の子どもたちは、なかなか大きくならなかったように感じたのですが、孫たちの成長の早さには、驚かされます。養育の責任はないし、会うといってもほんのたまなのですから、そんなものなのでしょう。

    先日、その長男の息子が、神妙に目をつむっている姿を撮った映像が送られてきました。何かを心込めて決心したと言った「本気顏」をしていて、「わー、成長したんだ!」と思ったのです。まだピカピカの一年生なのにです。ジイジの私など、あの年齢の時には、ハナを垂らして、ボーッとしていて、あんな表情をしたことはなかったのです。感心してしまったのは、ジイジの欲目でしょうか。

    異常気象、原発事故の放射性物資の拡散、残虐な事件の頻発、人心の荒廃、人口や食糧の問題、将来への不安、イジメなど、大変に困難な時代を、孫たちは生きて行くわけで、「何をして上げられるだろうか?」と、小さな頭で考えて見ても、何も思いつきません。ただ、「どんなことが起こっても、感謝の心、慌てない冷静さ、勇気をもって問題に立ち向かえる、強い心でいてほしい!」と願うだけです。

    "Come back “

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    「親分、ポリ公の野郎が来やがりやした!」、日頃、警察官を快く思っていない子分が、親分に、警察官を侮辱語で「ポリ公」と「野郎」と呼び、来たことも「来やがった」と歓迎しない迷惑な思いを込めて言っています。ところが「親分」には敬意を込めて、丁寧に語り掛けているのが対照的で面白い文章です。きっと悪巧みを計画しているか、悪さをした後の話し振りに違いありません。三十年ほど前に、世話をした少年が、警察官を、隠語で「マッポ」と言っていました。

    そう言えば、何時の頃からでしょうか、街中や住宅街で、「巡査(警察官の別名)」を見掛けなくなりました。駅前とか、賑やかな所では、「こんなにいるの!」と思うほどいるのですが、住宅街などの「派出所(交番の別名)」には人影がありません。何時でしたか、拾い物をして届けた時に、呼んでも返事のない、不用心な交番がありました。一体、どこに行ってしまったのでしょうか。小学校や中学校に通っていた頃、留守番をしていると、「お巡りさん(警察官の別名)」が、子どの私にも敬礼して、「お母さんはいますか?」と尋ねられたことが、二、三度ありました。母が犯罪を犯したからではありません。そうやって「警邏(けいら、見回ること)」や「巡視(じゅんし)」をしていたのです。地域担当の「巡査」が、住民の安全を確認したり、防犯のために時間を割いていたのです。

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    昔と比べて警察官は減っているのでしょうか。それとも、事務的な報告書の作成などの雑務が増えてしまって、パソコン操作などで忙しくなってしまっているのでしょうか、警察官を見なくなっているに気づくのです。地域密着型の警察でなくなっているのです。殺人事件は、駅前とか、飲食街で起こることがほとんどでした。ところが去年でしたか、吉祥寺の住宅街で殺人事件がありました。そして、先ごろ、その隣の三鷹でも殺人事件が起こったのです。こう言った事件と、警察官を見かけなくなってきている傾向と、何となく相関関係があるのではないでしょうか。

    「君、幾つ?学生証を見せてください!」と尋問されたことがありました。生意気なくわえ煙草で歩いていた時でした。<未成年者の喫煙>だと踏んでの職務筆問だったのです。私は、やおら学生証を提示したのです。それを確認した巡査(そんなに年齢は違っていなかったと思われますが)は、敬礼をして、「お気をつけて!」と言いました。私はタバコを、「スパッ!と吸って、彼から離れたのです。年齢に見えない「童顔」だったので、これに似たことがいく度もありました。

    犯罪が凶悪化していることは事実です。ニュースが伝える殺人事件の多さに驚かされるのです。昔の映画の「シェーン」のラストシーンで、"Come back “と少年が叫んでいました。同じように、「戻って来て!」と、住宅街が叫んでいるのではないでしょうか。お巡りさんが住宅街に復帰することをです。

    (写真は、「現在の交番」と「1938年当時の交番」の比較です)

    碧空

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    「抜けるような空」のことでしょうか、秋空を、「天高く」と形容するようです。台風接近を知らされた日は、まさに「碧空(へきくう)」でした。私たちの住んでいる華南の街は、中国で、「最も自然環境に恵まれた街」とのお墨付きをいただいているそうです。それなりに、長年の植樹や環境保全を続けてきたことがあっての今なのです。多摩川を挟んで東京の西にある「川崎」は、京浜工業地帯の一角で、大企業から零細企業まで、多くの工場がひしめき合って、日本の工業化の要をなしてきた街の一つでした。空気の悪さでは、日本一だった街で「喘息」の発病率も群を抜いて高く、ここから長野や山梨の山村に、疎開した児童も多くいました。「川崎公害」と言われたほどです。石油のコンビナートができ、様々な物資のための運送業のトラックの排気ガスは半端ではなかったからだと言われています。

    かつて北京の空も、天高く抜けるような青さだったのですが、最近では「外出を控えてください!」と警戒情報を発するような事態です。まだ、暖房用の石炭を燃やし始める時期にはなっていませんが、電力消費量が急増し、火力発電に頼る中国に電力事情によって、大気が汚染しているのです。それに加え、自家用車の普及があげられます。 二酸化ガスの排気量の増加も半端ではないからです。我が家の上の階のご婦人も、運転免許証をとられて、このところ自動車も手に入れておいでです。駐車スペースが足りなくて、私たちの住む公寓(アパート)の敷地内は、車がひしめいて、植え込み中にも駐めるような現状です。「中国一」の自然環境を誇る街のこちらも、ゆくゆくは排気ガス天国になってしまうのでしょうか。

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    実は、「公害対策費」は莫大な資金が必要なのです。静岡県下に富士市があって、紙パルプの製紙工場の街です。「垂れ流し」を住民から指摘されてから改善に取り組んだのですが、その経費は驚くほどの出費だったそうです。新聞購読者が減って「紙の時代」が終焉を迎えようとしている今、製紙工業の行く先も心配ですが。これから中国は、「公害対策」が、最大の課題だと、世界から指摘されています。そのためには、それだけの資金の準備が不可欠でしょうか。そうでないと次の世代に、好い「住環境」を渡せなくなってしまいます。

    中国に来る前に住んでいた日本の街は、「自然要塞」のように、巡りに山が林立し、真冬には山颪(やまおろし)の北風がきつかったのですが、空気も水も農産品も抜群に美味しかったのです。とくに山間(やまあい)に分け入ると、「湧き水」があり、それを両手ですくって飲むのですが、ミネラルが豊かで、「うまい!」と声が出てしまうほどでした。人が増え人家が建ち、物流が増えて自然が破壊される、お決まりのサイクルなのですが、「逆サイクル」にすることはできないまでも、「これ以上は…!」の決心で、自然を取り戻したいものです。

    二十数年前に、北京から「万里の長城」の観光に出掛けた時に、頂上から見上げた空が真っ青だったのを覚えています。その時、中国で何軒目かの「マクドナルド」が、駐車場の脇に開店営業したばかりだと聞いたことが、なぜか記憶に残っております。

    (写真上は、「秋の空」、下は、2006年の冬に天津のアパートのベランダから撮った「暖房用温水施設の煙突」です)

    「雑草魂」

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    「雑草」とは、yahoo辞書によりますと、「1 自然に生えるいろいろな草。また、名も知らない雑多な草。2 農耕地や庭などで、栽培目的の植物以外の草。3 生命力・生活力が強いことのたとえ。「―のようなしたたかさ」」とあります。道端に生いいでている草は、踏まれても踏みつけられても、「なにくそっ!」と立ち上がって生き続けるのです。よく「生命力の強さ」の象徴として語られます。種田山頭火が、

    秋となつた雑草にすわる

    ふまれてたんぽぽひらいてたんぽぽ

    と、詠んでいます。ずいぶんと下向きな俳句で、山頭火という人の生き方が、何となく分かるようです。メジャー・リーガーに上原浩治という、レッドソックスのピッチャーがいます。彼のことを、「雑草魂」の持ち主だというそうです。 六年前に渡米して、三つのチームを渡り歩いて、今年「抑え投手」として、地区優勝に大きく貢献しました。故障の多い選手でしたが、今年の活躍は見事で、今や話題の中心にいます。彼も無名高校で野球をし、将来は体育の教師になりたくて大学進学を志すのですが、受験に失敗します。一浪して、大阪体育大学に入ってから、外野手から投手にコンバートしたのでした。ジャイアンツで活躍しますが、彼の「野球観」とプロ野球との違いに傷ついた過去があっての今なのだそうです。

    日の当たる道を歩み続けるよりも、人生というのは、道端の野草や雑草のようにして生きた方が、強靭な精神を養うのではないでしょうか。同じ山頭火の句に、

    あるがまま雑草として芽をふく

    と詠んだものがあります。野辺の道行きを好んだ山頭火の目は、名のない雑草に向けられています。十歳の時、母の悲劇的な死の姿を目にして、大人になります。早稲田に学んだのですが、病んで中退しています。幼い日の母との死別の悲しい衝撃が、彼を旅と深酒とに逃避させますが、俳句を好んだのです。そこにだけ正直な心を読み込むことができたのでしょうか。自分の心を、一枚、また一枚と脱ぐようにして生きた、五十年あまりの生涯だったようです。上原浩治のことを考えていたら、山頭火に思いが向いてしまいました。彼も雑草のように強く生きることができたにちがいないのですが。「雑草魂」、好いですね!

    (写真は、雑草の一種の「うまごやし」です)

    「もみじ」

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    小学校の運動会が終わった二学期のころでしょうか、音楽の時間に、二部輪唱で歌ったのが、「紅葉(もみじ)」でした。作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、実に懐かしい歌です。

    1 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
      濃いも薄いも 数ある中に
      松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
      山のふもとの 裾模様(すそもよう)

    2 渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
      波にゆられて 離れて寄って
      赤や黄色の 色さまざまに
      水の上にも 織る錦(にしき)

    信州長野の「梓川」や、利根川に合流する北関東の「渡良瀬川」の川沿いに見られるような、燃えるような紅葉は、私たちが小学時代を過ごした東京都下では見るができませんでした。生まれてから六才まで育ったのは、中部山岳の山深い村でしたが、幼い私には、まだ「紅葉」に感動するような感性は育っていませんでした。ただ、山路を歩いて、カサカサと落ち葉を踏んだ音と、枯葉の匂いの記憶が残っているだけです。冬と夏を挟んだ 「新緑の春」と夏と冬を挟んだ「紅葉(こうよう)の秋」は、日本が一番美しく彩られ季節です。

    先日、遊びに来られた学生さんが、故郷の「四川省」の美しい観光地を紹介してくれました。それで、ネットで検索してみたのです。私の上の兄家族が住んでいる東京郊外と同じ名称の町で、「稲城(いなぎ)」です。省都の成都からは、だいぶ離れたところで、チベット族が住み続けてきた地域で、その景観の美しさで、観光開発されてきているようです。もう何年も前に訪ねたアメリカ合衆国の「モンタナ州」のミズーラという街の近くの大自然に、とても似ているように感じられたのです。写真でしか見ていませんが、実際にこの目で、その景色を見たら、きっと息を飲むような感動に包まれるのではないでしょうか。写真をアップして見ますと、どうも秋が綺麗なようです。

    私たちの住んでいるのは、華南の街ですから、亜熱帯気候で、冬も青い葉が茂り、花でさえ咲くほどです。「もみじ」は、すこし山深いところに分け入ったらみられそうですが、街場ではむりのようです。来年の秋に訪ねらたら、「もみじ 」の歌を歌ってみたいものです。そこには、松や蔦や楓などの植生があるのでしょうか。そろそろ自然界は、これから休息の季節に入っていくように感じられます。

    (写真は、「楓<かえで>」です)

    大陸的

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    「嚏」と書いて、「くしゃみ」と読みます。難読漢字の一つです。中国語では、「喷嚏penti」と言いますから、日本語では「当て字」なのでしょう。隣りの室から、時々、「ハクショーン!」と大きなクシャミが聞こえてきます。家内です。「遠慮ないくしゃみ」でして、日本にいた時にはこんなに大胆ではなかったのです。こちらに来て、ご婦人たちが口に手を当てて、「クシュン!」すると思っていたのです。ところが、隣りの家の「ハクショーン!」を聞いた家内が、それを真似し始めたわけです。「ほんとうに気持ちいいの!」と言ってやめません。

    「人に、どう思われるか?」などと言うようなことは考えないで、こちらの人は、自然体で生きているのは、素晴らしいと思うのです。まさに「大陸的」な大らかさや屈託のなさです。とくに生理的なことには、日本人がコントロールして、抑えてしまうようなことをしません。「どうしようか?」と言って、周りを気にしたりされないのです。ですから「屁(おなら)」や「欠伸(あくび)」だって自然体です。人の生理現象が、どうであっても天下国家には関係がないわけです。もし難しい問題が起こってしまったら、広い大陸ですから東西南北、どこにでも新天地を求めて移り住むことができるのです。閉鎖的な村社会に住み続けてきた私たち日本人は、そう容易に他に行くこことはできなかったわけです。

    中学の時の担任で社会科の先生が、「鎌倉時代の日本人は、もっと大らかだった様です!」と言っていたのを覚えています。戦乱で明け暮れた戦国時代、耕した畑や、稲の苗を植えた田んぼが戦で踏み荒らされてしまうことが繰り返されたのですが、狭い日本では、どこにも移住できずに、じっと「我慢の子」だったわけです。中国の南方に、「客家(kejiaクウジア)」と呼ばれる人たちがいます。その意味は、「よそ者」です。北方中国で繰り返された戦乱を逃れた「漢族」の末裔です。彼らの一部が作った「土楼」が、福建省や広東省や江西省に散在していて、「世界文化遺産」に登録されているところもあります。城壁のように土壁で周りが作られ、多くの人たちが集団で住む集合住宅なのです。驚くほどの知恵と工夫が施されています。今でも住居として使用されていて、漢族の聡明さを感じさせられるのです。

    狭いところに住んでいても、心が狭くならなかったのでしょうか、そこから飛び立って東南アジアに働きに行った人たちも多かったようです。客家人の中には、中国の政治指導者の鄧小平や李鵬、台湾の李登輝、シンガポールの「建国の父」と呼ばれる、李光耀(リクワンユー)、フィリピンのアキノ元大統領などのお歴々がいます。中国では少数者ですが、影響力の大きな民であるのです。私たちの住んでいる街にも、この方たちの故郷のレストランが、あちらこちらにあります。

    日本の様な狭い国の中で、気ばかりを使って生きてきた人には、住んでみることを心からお勧めします。夏など、木陰の路側のコンクリートの上や、電動自転車の上で、スヤスヤと寝ている人を見かけます。お店の店番をしていても、いびきをかいている人だっておいでです。まあ、日本では、キリキリ神経が張り詰めていて、こんな自由で放心したような光景は見ることができません。お出でになられると開放されて、「住んでみたい!」と思われること必至です。「人情」も日本に似ておりますので。「嚏」も「欠伸」も「オナラ」も見逃してくれます!

    (写真は、福建省にある「土楼」の一つです)