父と母にまつわる味

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仕事か出張で出かけて,その帰りに,父は必ずと言って好いほど,お土産を手にしていました。お腹を空かせた育ち盛り四人の男の子のために、その土地土地の<名物>を買って来てくれたのです。コケシだとか、飾り物などでは、買って来てくれたためしがありませんでした。何時も「食べ物」でした。ですから、帰って来た父の顔ではなく、手の先にぶら下げている物に、最初に目が行ったのです。

横浜回りで、東海道線で帰って来た時の<名物>がありました。駅のホームで、『えー、弁当、弁当!、お茶に弁当!』と言いながら、売り子が売りさばいていた、横浜名物の「シュウマイ」です。「シュウマイ」が入った折詰に、陶器でできた醤油入れと小皿と洋辛子が入っていました。美味しかったのです。当時、中華料理で知っていたのが、醤油味で鳴門巻きとシナチクと海苔の入った「中華そば(または支那そばで、ラーメンなんていうのは、そのあとのことでした)」だけでしたから、『中国の人は、こんなに旨い物を食べてるんだ!』と言うのが、「シュウマイ 」を食べた時の感想だったのです。

この八年間、多くの種類の中国料理を食べて来ましたが、父が持ち帰った<最初の中華味覚>の「シュウマイ」と同じ味を、こちらで探し当てたことがありません。あれは、独特に日本人好みの中華料理、幼い日の<懐旧の味>だったのでしょうか。今日の昼にも、知人と一緒に食事をしましたが、その料理に、似ていた物がありましたが(美味しかったのですが)、あの味とは違っていました。

もう一つ、懐かしい中華料理があります。母親の自分流のレシピでこしらえてくれた、<かた焼きそば>でした。中華麺を油で上げ、それに、豚肉、白菜、人参、もやし、筍もあったでしょうか、それを炒めて片栗粉で、ドロっとさせたアンを掛けた、<門外不出>の逸品でした。育ち盛りの息子たちの食欲の的だったのです。あの味も、こちらで出合ったことがありません。唯一無二の<お袋の味>だからです。あの母の工夫してくれた料理で、この体が作られたのだと思い返している、まだ日中の温度が34度もあった夕刻であります。

(写真は、”崎陽軒”のホームページにあった「シュウマイ」です)

赤とんぼ

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夕方の散歩の道で、トンボが二匹、私の前を横切って行きました。『赤とんぼかな?』と思いましたが、日本で見慣れた色よりも、少し薄かったのですが、メスだったかも知れません。夕方の風を受けて、スイスイと飛んでいたのです。やはり秋なのでしょうね。トンボを目にすると思い出されるのは、作詞が三木露風、作曲が山田耕筰の「赤とんぼ」です。

1 夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

工業化や都市化が進んで、里山や野原や小川が少なくなったり、防虫や除草のために農薬が多く使われたからでしょうか、虫や鳥や野花が生息できなくなって来ているのでしょうか、子どものころに、野原や田んぼの上を、無数に飛んでいた赤とんぼを、最近では見かけなくなってしまいました。こちらでも同じなのかも知れません。

<トンボとり>、<トンボつり>などと言ったでしょうか、棒の先に止まっているトンボの目の前で、人差し指を蚊取り線香のようにくるくる回して、気絶させて採る方法もあったのですが、採れたためしがありませんでした。この歌の二番にある、「桑の実」のことを、小学校時代を過ごした都下の街では、<ドドメ>と呼んでいました。好く熟した実は、甘くてとても美味しかったのです。

まだ農家は、養蚕(ようさん)をしていましたから、桑畑が広がっていて、ある木には、たくさんの実をつけていたのです。桑の木の前に座り込んで、口いっぱいに放り込んで食べたものです。こちらでも、一斗缶に入れて、道端で売っているのですが、夏前に出回っていたようです。<赤とんぼ>、<桑の実>は、懐かしい子どもの頃の風物詩であります。

(写真は、”実業之日本社”による復刻版「赤とんぼ」です)

達観

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都市部から離れた辺鄙(へんぴ)な「田舎」を、漢語では「乡下(郷下)xiang xia」と言います。また自分の「故郷」を、「老家laojia」と言います。先週、訪れた郊外の幹線道路を車に乗せていただいて通りました。その沿道風景は、都市部から郊外に抜けて行く、日本の風景と、そっくり、な様子を見せていたのです。

所々に農家や商店があり、夏の花が綺麗に、道路沿いに咲き、アパートの中の植え込みにも咲いていました。春先に咲く花の色に比べて、色の濃さが増し加わって、夏の感じが溢れていました。懐かしかったのは、泊まったホテルの庭に、<百日紅(サルスベリ)>の木の花が咲いていたことです。日本の知り合いの家の玄関に、植えられていて、本当に猿が滑ってしまいそうな幹や枝だったのと、まったく同じでした。ピンクでしょうか、薄紅色でしょうか、綺麗な花をつけていました。

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そ言えば、『カナカナ!』と聞こえる蝉の声がしていたのです。あの暑さを掻き立てる『ジージー!』とは違っていました。田舎だったからではなく、季節が移ろっていたからなのでしょう。街に戻って来ましたら、蝉の声が聞こえてきません。やはり、秋なのでしょうか。秋は、夏と共、そっとやって来ていて、猛暑の中に隠れているのだそうです。そう言えば寝苦しい夏の夜が、明け方近くなると、若干温度が低くなっているにではないかと感じさせられるこの頃です。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと

奥州藤原三代の栄誉を、思いながら、「奥の細道」を旅しながら、芭蕉が読んだ俳句です。中一の国語で習ったのですが、『人の盛りの時期と言うのは、短いのだ!』と解説されて、これから生きていこうとしていた十三の私には、『へー、そんなものなのか?!』と思っただけでした。この中国大陸も、数限りない武将たちが群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)し、東西南北に兵を走らせ、民を追ったのです。

今まで、どんなに暑かった夏も、必ず終わって、秋が到来しています。何事にも移ろいと終わりがあるのですね。いやー、ちょっと達観してしまいました!

(写真は、”奥の細道画巻・平泉”による「芭蕉」、下は「サルスベリ」です)

思わされていること

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広島市安佐北区の防雨による土砂災害が大きく報じられています。その被害の大きさに驚き、現地の被災者のみなさんのことを思ったりしております。想像を超えるような規模の積乱雲が波状攻撃のように襲いかかって、夥しい量の雨を降らせたのが、気象的な原因だと伝えていました。このような気象現象が、最近起こっていて、各地に被害をもたらせているようです。

シンガポールで海を見たり、空を仰いだりして、ゆっくりと自然界に目を向けて、二週間ほどを過ごしました。海から立ち上る水蒸気が雲を作って、それが冷却されて落ちてくるのが雨なのだそうですが、雲の量と言うのでしょうか、厚さと言うにでしょうか、幾層にも幾層にも空全体に雲が広がってい他のに圧倒されたのです。

赤道直下の海面からの水蒸気で作られた、あの雲が移動して、雨をもたらしたり、台風などを誕生させるのでしょうか。広島の防雨のニュースを聞いて、あの雲の量を思い出したのです。梅雨前線が残っていて、それを刺激しているのだと、気泡予報士が言っていましたから、様々なことが重なって、異常気象になるのでしょう。

ここ中国のある地域でも、同じような異常降雨量を記録しているそうです。この何年か、地球規模で、気象が異常を来たしているのですが、あの「ノアの箱舟」の話が、創作物語などではなく、実際にあった史実なのではないかと思わされてまいります。このままで行きますと、どれほどの量の雨が降り、どれほどの速度のか風が吹き荒れ、どれほどの震度の地震が起こるのか,予測が立ちません。

人間の心の荒廃が,自然界を荒ぶらせているのではないかと思ったりしています。人の道徳的な法則と自然の大法則と、相関関係があるのではないかと考えさせられているのは、私だけでしょうか。あの佐世保の少女の犯罪を考えていて、ごく普通に生活をしている中から、こう言った事件が頻発することのないようにと、切に願わされております。人そのもの人の心の保塁、防波堤、避難所である<家庭>が、本来の機能を失なわれているのではないかと思わされるのです。ノアの時代に、社会や人の内側に、何が起こっていたのでしょうか。

(写真は、WMによる「積乱雲」です)1

空の鳥の如くに

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長男の嫁、家内、長女、次男、この四人の誕生日が過ぎて、八月も終わろうとしています。次男の誕生日は、一昨日でしたが、近くにいないので、一緒に祝うことができなかったのは申し訳ないなと思っています。この四人に共通するのは、幼稚園からずっと、夏季休暇中に誕生日を迎えたので、級友たちに祝われることが少なかったようです。我が家では、自家製のハンバーグを焼いて、デコレーション・ケーキにロウソクを灯し、それを切って、祝ったものです。

私の父と母と上の兄が三月、すぐ上の兄が八月、弟が十一月、そして私が十二月でした。誕生日を祝ったかどうか、記憶がありませんので、しなかったのでしょう。もしかすると、食べて満腹したので忘れてしまったのかも知れません。人の一生を考えてみますと、両親と兄弟と一緒に過ごした年月は、結構短いことに気付くのです。四、五才の頃までの記憶は、さだかではありませんし、兄たちが大学に入り、就職をして、家を出て行きましたから、一緒に四六時中いた十四、五年ほどの間のことしか記憶がありません。

四人の子どもたちとの生活も同じでした。『あっ!』と言う間に、みんな羽ばたいて、親元から飛び立って行きました(実は最後に羽ばたいて出たのは私たちなのですが!)。今では時々しか会えないのは、ちょっと寂しいものですが、たまに会える喜びが大きいのも確かなことです。時々、自分の子どもたちを、両親の近くに住まわせている家族に会いますが、<ありがたさ>や<再会の喜び>から言うと、離れていても好いかなと感じます。

今が「戦国の世」ではないのは好いことだと思っています。親と子が対決したり、謀反があったり、反旗を上げたりした時代ではありませんから、親も子も枕を高くして寝ることができるのです。土地も家も財産も、全くない私たちを親に持った四人は、相続で争う必要もありませんから、彼らにとっては、私たちは<好い親>なのかな、と思ってしまうのです。

空の鳥は、藁や小枝の簡易宿舎を住処にし、木の実や畑にこぼれ落ちた穀粒を食べ、小川の水を飲んで養われています。今の私たちは仕事を与えられ、幾ばくかの収入で、住む家を借り、衣服を揃え、食料を買い、たまには書を求め、過不足なく生きております。明日への心配はありません。空の鳥が養われているのですから、『我もまた!』と安堵しております。

ちょっと遅い朝食を済ませ、葡萄とヨーグルトをデザートにし、紅茶を飲みながらブログを書き込んでいます。家内が部屋の壁に向かって、電子オルガンを弾いています。ゆったりした平和なひと時であります。来月は、次女の誕生月です。

(写真は、WMによる、渡り鳥の「カオジロガン」です)

ここに住みたい!

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週初めに、街中から出て、郊外に、家内と出かけてみました。海側ではなく、内陸部、山間地に行ったのです。空気が好いこと、水が綺麗なこと、緑が輝いていたこと、そして人が穏やかなことが印象的でした。自分が、山の中で生まれ、そこで七歳の夏まで過ごしていますので、<故郷回帰>になるでしょうか。

生まれた所は、山と山がせめぎ合った渓谷のようでしたし、育ったのも、沢違いの山村でした。そこに、市内に事務所と山奥の仕事場の他の、もう一つの父の仕事の事務所がありました。晴れてると、兄たちの後を追いかけて、山の中に分け入り、駆け回っていたのです。雨が降ると、家の近くに、大きな倉庫があって、その中で遊びました。

この町の周辺部へは、以前、何時間も何時間も山路をバスに揺られていたのに、高速道路網が拡大してからは、時間的に近くなって便利になって来ているようです。川沿いに鉄道が敷かれてあり、17輌もつないだ電車が汽笛を鳴らしながら走っているのが見えました。長閑(のどか)さが溢れていて、<原風景>を眺めているようでした。

高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「故郷(ふるさと)」を思い出しました。

1 兎(うさぎ)追いしかの山
小鮒(こぶな)釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷(ふるさと)

2 如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風につけても
思い出(い)ずる故郷

3 志(こころざし)をはたして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷

山青く、水清き私の故郷は、箱庭のようでしたが、ここは雄大でデンとしていて、やはり大陸的なのです。『ここが、私のふるさとなのです!』と言う方がおいででした。どうも私は都会が苦手な感じがします。『ここに住みたいな!』と言ったら、『また!!!』と言う顔を家内がしていました。ゆく夏休みの数日の出来事でした。

(写真は、”花鳥風月”より、「へちま」です)

秋風が立つ

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「立つ」、風が、波が、秋風が、涼風が、霞が、角が、弁が、義理が、筆が立つと言います。物事が進んで行く状態に、この「立つ」が使われるのでしょうか。日本語の面白さです。シンガポールに行っている間に、<秋が立って>、立秋を過ぎたのに気づきませんでした。コンクリートのアパートの十九階の娘の家の、何処かから虫の音が聞こえたのが、その頃だったのかと思い返しているところです。

季節にも「立つ(立春、立夏、立秋、立冬)」を用いるのですから、漢語の中に「立つ」と言う言葉を使う例があったことになります。汗かきに私にとって、この数年の暑さは格別で、少し動いただけで、大汗ですから、<秋立つ>季節の到来は、大歓迎です。信州や八ヶ岳の初秋しか知りませんが、高校野球が行われて、優勝校が決まった頃から、秋が感じられて、『あーあ、もう夏や積みが終わって、また学校か!』と、今頃は決まって思っていたのです。

毎年思い出す歌に、

秋はいいな 涼しくて
お米が実るよ 果物も
山からコロコロやってくる

があります。<涼しさ>を願い気持ちが込められ、秋そのものが、山から、<コロコロ>と転がってくるのでしょうか。古里の山や川はどうなっているのでしょうか。過疎で人が少なくなり、父や母を覚えている人もいなくなってしまったことでしょう。それでも、あの時の空の色、風や土の匂い、かじった栗や柿の実の味が、ジワリと感じられるかのようです。

そういえば、土曜日に買い物に行ったら、果物屋さんの店頭に、柿がならんでいました。小さかったのですが真っ赤で美味しそうでした。それでも買わずじまいで帰ってくてしまったのです。この暑さでは、ちょっと趣(おもむき)がなくて、食べる気を誘われませんでした。九月に入ったら、買ってみることにしましょう。はたして秋風の立つ頃の古里を思い出せるでしょうか。

(写真は、”tozan.net”から「甲武信岳(こぶしだけ)」の登山道です)

左の頬

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『隣人と争っても、他人の秘密を漏らしてはならない。』と言う格言があります。その争いを優位にするために、個人的に知り得た争う相手の秘密を、公に言いふらすことは、人としてすることではないからです。争いは、口喧嘩よりも、<拳(こぶし)>で決着をつけるのが好いのではないでしょうか。どちらかが、『参った!』と言うか、誰かが止めに入るまでです。罵り合いながら、とんでもないことまで言い合うよりは、スッキリしていて好いのです。もちろん素手です。

こんな提言をすると、<暴力じじい>と言われそうですね。天津に住んでいた時、「菜市場(中国版の庶民のマーケット)」の出口で、若いご婦人が二人、コンクリートのタタキの上で、上になったり下になったりで、取っ組み合いの喧嘩をしてるのを、二度ほど見ました。男のように激しかったので、中国女性には驚かされたのです。仲裁が入って幕になりましたが、見ていて気持ちの好い物ではありませんでした。江戸の昔は、『喧嘩は江戸の華!』と言われていたそうですが、中国の街ではどうなのでしょうか。

やはり無言の内の決まりがあって、棒や道具をつかったりしないのです。実力と肝っ玉の勝負です。犬も出会いばしらに、火花を散らし始めることがありす。しかし、血統の好い犬は、堂々としていて威容があり、始まる前に決着が着いて、負け犬は、睨まれただけで、戦意喪失、尻尾を巻いて逃げてしまうのです。高知では「闘犬」、スペインなどでは「闘牛」、ある所では「闘鶏」が行われています。人間の賭け事のためにです。よろず世間は、争いや喧嘩が絶えません。

ここで前言を訂正しましょう。喧嘩はいけません。避けるべきです。そして先に謝ってしまうのが好いのです。強くても、何の役にも立たないからです。<男の面子>なんて、どうでも好いのです。『負けて泣いて帰って来たら家に入れない!』と言われて育ったので、どうも、そんな考えから抜け出せないのです。ごめんなさい。『右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい!』と言われていますが、これが到達したい 私の一つのゴールなのです。

(イラストは、”子供と動物のイラスト屋さん”から「けんか」です)

不測の事態に

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結婚をする前だったでしょうか、ニューヨークの学校で教師をしている方の講演会が何度かあって、聴講したことがありました。この方は、ギリシャ系のアラブ人だったと聞いていましたが、若い時にはボクサー(拳闘家)だったことがあったり、面白しろい経歴をお持ちでした。何時でしたか、親しくなった私に、『マサ、髪の毛を刈ってあげよう!』と言って、ハサミを取り出して刈ってもらったこともありました。結構上手だったのです。

この方の講演の中で、自動車製造の工程に関わる話をきいたことがありました。デトロイトは、アメリカ自動車産業のメッカで、かつては活況を呈していた街でした。生産工程の中に、製造ライン方式を取り入れており、作業ラインの中で、ポイントごとに組み立て個所が違っていて、分業をしているのです。人が関わっていますので、<不測の事態>が起きて、この流れ作業が滞ることがあるのだそうです。

そう言った事態の対策が取られているというのです。このラインを見下ろせる工場内のある所に、特別室が設けられています。そこには数人の人がいて、普段は、本や新聞を読んだりしていても好いのです。一日中、何もしないで終える日もあります。ところが、組み立てラインの中で、作業員が怪我をしたり、体調不良になったりして、そこを離れなければならなくなった時に、作業の穴が生じます。その時に、<すわ鎌倉!>で、待機中のこの人が、その現場に駆けつけ、作業を担当するのです。そうするならラインを止めることなく、作業を継続できるわけです。

この作業員のことを<ミニットマンminite man>と呼ぶのだと、この方が言いました。この特別職の人は、どの部署の作業でもこなすことのできる技術者なのです。これは40年以上前の自動車工場の一コマですが、こう言った特別技能者が、どの世界にもいて、<不測の事態>に対応していたわけです。今も、きっとこう言った方々がいて、流れ作業が行われているのでしょうか。この興味深い話を、今でも、よく覚えております。

(写真は、WMによる、ニューヨークにセントラル・パークです)

今のいまを生きて欲しかった!

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『お父さん、とても好い映画があるんだけど、観たらいいよ!』、と娘に言われて観たのが、「いまを生きる(1990年日本上映)」でした。

どんな内容だったかと言いますと、「1959年、バーモントの全寮制学院ウェルトン・アカデミーの新学期に、同校のOBという英語教師ジョン・キーティング(ロビン・ウィリアムズ)が赴任してきた。ノーラン校長(ノーマン・ロイド)の下、厳格な規則に縛られている学生たちは、キーティングは「教科書なんか破り捨てろ」と言い、詩の本当の素晴らしさ、生きることの素晴らしさについて教えようとする。このキーティングの風変わりな授業に、最初はとまどうものの、次第に行動力を刺激され、新鮮な考え、規則や親の期待に縛られない、自由な生き方に目覚めてゆくのだった。キーティングは授業中に突然机の上に立って宣言する。「私はこの机の上に立ち、思い出す。つねに物事は別の視点で見なければならないことを! ほら、ここからは世界がまったく違って見える」。生徒も立たせ、降りようとした時に「待て、レミングみたいに降りるんじゃない! そこから周りをきちんと見渡してみろ!」と諭す。」と、ウイキペディアにあります。

この学校の卒業生で、教師のキーティングを演じたのが、ロビン・ウイリアムズでした。もう一度観たい映画の一つです。教室の机の上に立って、詩を吟じる姿が印象的でした。また、学生の間で起こった問題の責任をとって学校を退職することになり、学校を後にするキーティングを、在校生が、『Oh captian!My captiann!』と呼びかけて、見送る場面は、じつに感動的でした。

クラス担任をしていた時、問題を起こした生徒を退学させるか、残すかを決めなければならなくなったことがありました。私は、この学生を残すつもりでしたが、学年主任も教頭もは、<自主退学>にしようとし、そう処分が決まってしまいました。この学生の将来よりも、学校の対面を保つための体のいい<退学処分>になったのです。『これこそ天職だ!』と感じていた私でしたが、この一件で、教育への情熱がいっぺんに醒め、翌年春、年度終わりに、彼女に遅れましたが退職願を書いて学校を去りました。

問題の最中(さなか)に、アメリカ人実業家が、『一緒に働かないか!』と誘ってくれていたので、その決断に弾みがかかったことになったのです。それとともに、当時の学校の同僚の生き方や、教育の仕方への躓きもありました。ちょっと言えない内容ですが。時々、あんころ餅を作ってきて、作業員室でお茶を飲む席に、『先生、一緒に!』と誘ってくれた掃除のオバさんたちが、退職を惜しんでくれたのです。あの学生は、もう<おばあちゃん>をしているのでしょうね。

そんなことを思い出させてくれた、ロビンが数日前に亡くなりました。あの映画を観て、強い印象を持った方が多かったのに、病んでも自分の弱さに直面しても、年老いても、今のいまを生きて欲しかったと思っている、この週末です。

(写真は、”yahoo検索”より、「いまを生きる」の一場面のイラストです)