東京ラプソディー

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1936年(昭和11年)に、当時の東京の繁華街を歌い込んだ、「東京ラプソディー」が流行ったそうです。父が二十代、母が十代の頃になります。門田ゆたかの作曲、古賀政男の作曲で、藤山一郎が歌いました。

1 花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2 現(うつつ)に夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの 鐘も鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3 明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4 夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5 花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

銀座は、何と言っても、日本の流行の先端を行く華やかさを持った街で、昔も今も日本一の街です。これに倣って、地方都市の一番繁華な辺りを、「◯◯銀座」と呼んで、人を集めるようになっていました。神田は、その周辺に大学や女子大や専門学校などが多く、<学問の府>と言えるでしょうか。学生たちの向学心や青春が渦巻いていた街でした。浅草は、映画や演劇の娯楽の街で、週末は人で溢れかえっていたそうです。そして新宿は、もともとは 甲州街道の宿場町でしたが、昭和初期に、ボツボツ人気の出て来た新興の街だったようです。

父は横須賀生まれでしたが、大森(羽田空港の近く)から、旧制中学に通っていて、東京の空気を吸って生きていたようです。母は出雲の出身ですから、はるか に憧れの目と心を、この東京に向けていたのでしょう。北京にも上海にも、私たちが住んでいるこの街にも、人気と伝統のある街があります。どうも、ここでは日本のように、都市や繁華街を歌で歌うようなことはないようです。

「池袋・・・」とか「長崎・・・」とか、その町の思い出や特徴を歌い込んだ歌は、日本独自のものなのでしょうか。この日本人の手にかかると、「サンフランシスコ」も「パリ」も「上海」も、「釜山」でさえも歌で歌ってしまうのですね。「思想」も「演説」も、歌で主張する歴史がありました。

「わらべ歌」や「童謡」や「唱歌」も日本の文化であり,独特な日本人の心の動きや表現なのでしょうか。先月、二人の小学生の女の子が、手のひらをパンパンと触れ合いながら、無言で遊んでいました。それを眺めていた私は、『日本にも同じ遊びがあるんだ。だけど、歌を歌いながらするんだよ!』と言って、『せっせせのよいよいよい、夏も・・・』と歌って上げたら、不思議そうにしていました。こう言った遊びの違いや共通性を調べたら面白そうですね。

(写真は、”WM”による富士山を望む「東京」です)

天高く馬肥ゆる秋

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「天高く馬肥ゆる秋」です。<天が高い>と言うのは、空気が澄んで爽やかでしのぎやすさを意味しているのでしょうか。<馬肥ゆる>と言うのは、美味しいものがたくさん収穫されて、食欲が増進し、健康的な季節を意味しているのでしょうか。まさに秋なのでしょう。

ここ華南では、日本で、生まれた時から感じ取って来た秋とは、だいぶ違ったものなのです。何しろ時間的に短いのです。『あっ、秋だ!』と感じたらすぐに、冬の到来なのです。1〜2週間ほどでしょうか。それでも夜間は、長袖や薄手のうわぎが欠かせないので、温度の日較差が段々と大きくなるのに注意しないと、風邪を引いてしまうのです。よく、こちらの方に、『注意してください!』と言われてしまいます。

「馬肥ゆる」と言っても馬ばかりではありません。気候が快適で、食欲が進んで、何でも美味しいので、人が肥えてしまうのです。自分にとって禁物なのが、「柿」なのです。ドリアンもマンゴスチンも美味しいのですが、日本に古くからある果実、この「柿」が、大好物なのです。今日も出かけてからの帰り道の小型スーパーで、「柿」が並んでいました。一旦は素通りしたのですが、もどって来て、買ってしまいまいました。日本で食べていた「次郎柿」に形がそっくりだったからです。まだ渋そうでしたが、家で皮をむいて、食べましたら、色の割には美味しかったのです。

でも、最盛期の「富有柿」とか「御所柿」に味には及びません。まだ早生なのかも知れません。もうしばらくして、涼しくなったら、甘くて食べると果汁が滲み出るような「柿」が出てくることでしょう。去年は、それにありつけたからです。そうしたら、「人肥える秋」になってしまうので、注意しないといけませんが、この食欲に勝つためには、相当な意思力が必要なようです。こちらの友人知人には、<柿好きな>であることを誰にも言っていません。日本では言ってしまって、毎年秋には、柿を頂くことになってしまったので、言わないのです。

『あっ、柿だ!』、山路で美味しいそうな「柿」を見つけて、みんなで採って食べたことがありました。食べ終わったら、そこは柿畑だったのに気づいて、罪意識を覚えて、そそくさと引き返したのです。あの中に、私の恩師もいました。<柿ドロボー>をさせてしまったのは、本当に申し訳ないことしてしまったのです。その恩師も、もう召されて12年になります。

(写真は、”ぐるなび食市場”による「御所柿」です)

読書の秋

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「読書の秋」、今頃は、図書館の閲覧室は、座る席がないほど混み合っているのでしょうか。帰国する度に、兄の自転車を借りて、市内の図書館に、よく行きました。ある時は、多摩川を渡って、隣の市の図書館にも行ったことがあります。 学校に行っていた頃は、立川や青梅の図書館にも行きました。それは、試験の前の<ノート写し>のために、4〜5人が集まっては、黙々と写していたのです。

そういえば、図書館には独特の<匂い>があります。本のインクと年月を経た紙の匂いでしょうか。あるいは<本の虫>が運んで来る<読書好き>の匂いかも知れません。最近では、コピー・サーヴィスがあるのですね。また、珈琲や軽食のとれる一郭があって、一日中、空調の入ったところで<読書三昧>で過ごせるのです。そういえば、昔の図書館は暗かったのではないでしょうか。採光が好くなかったのと、電灯が少なかったし、照度も低かったのです。今は、どこでも好く設計されて整えられています。でも書庫が高くて、<仄暗さ>のあった頃が懐かしいですね。

また、近頃は、ネット回線の図書館が開かれています。よく開くのは、「青空文庫」です。著作権に制限を受けない作品が、ネット上で読むことができますし、ダウンロードも許可されているのです。夏目漱石や田山花袋や芥川龍之介、魯迅までも、その名作が読めるのです。

本と言えば、何時でしたか、古本屋で買った本の中に、<五百円札>を見つけたのです。板垣退助の肖像の新札でした。このお金の旅が、その本の中に封印されて、どこにも動きを取れない運命だったのです。『いつか家内とコーヒでも!』と、挟んだのでしょうか。それを忘れてしまったまま亡くなられて、奥様の手で古本屋に、その本を蔵書とともに買い取ってもらい、それが私に買われてやって来たのでしょうか。『本もお金も丸ごと買ったんだ!』、『しめた!』で好かったのでしょうか。でも、ちょっと正直になった私は、古本屋さんに連絡して、『かくかくしかじか!』を伝えたのです。店主は、『好いんじゃないですか、お使いになって!』と言う返事でした。

今度帰国したら、古本屋巡りを、どこか地方都市でしてみたいものです。そうしたら、過ぎ去った時代の人の<ものの考え方>や文化習慣と出会うことができそうですから。そう言えば昨日は、「秋分の日」でした。こちらの暦には祭日の印がなかく、授業がありましたので、忘れていました。

(写真は、”横浜金沢観光協会”の「金沢文庫」です)

 

昭和は遠くなりにけり

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中央自動車道を、新宿に向かって走る上り線で、遠くに多摩川の流れが視界に入ってくるあたりで、左側のバスの車窓から、私の母校が見えます。校庭の広さや校舎の建て位置は変わっていませんが、校舎も周りの風景も全く変わってしまっています。校舎がコンクリートの耐震建築だと言うことが分かります。あの頃は、木造で、冬になるとストーブの薪が足りなくて、校舎の端の板を剥がして燃やしてしまったこともあったのです。

そこは、二年の二学期から卒業まで通った小学校です。通ったのは事実ですが、低学年の頃は、病欠児童で、通学日数が極めて少なかったのです。それでも四年生の後半ごろから、元気になって、体育の時間には、『おい廣田、みんなの前で跳んでみろ!』と言われて、跳び箱の試技をやらされたりで、元気に回復していたのです。

三つの小学校に通いましたが、最初の学校は入学式も、その後の授業もほとんど受けませんでしたし、二番目の学校は分校でした。ですから、懐かしいのは三番目の卒業した小学校なのです。校長が小池先生、最初の学級担任が内山先生だったのを覚えています。内山先生には褒められたので、小池校長は、校長室に立たされたので覚えています。

中村草田男が、こんな俳句を詠んでいます。

降る雪や明治が遠くなりにけり

久しぶりに、草田男が母校を訪ねたのです。草田男が小学校に通ったのは、明治の終わりから大正の初めでした。昭和になっての訪問だったようです。母校の佇まいは、ご自分の通学時と変わりませんでした。その同じ校舎の中から、子どもたちが、いっせいに校庭に飛び出し来たのです。その時、草田男が見た後輩たちに、<明治の少年たち>の姿がなかったのです。『ああ、一切は過ぎ去ったのだ!』、『明治と言う懐かしい時代は永久に過ぎ去ったのだ!』と、彼は瞬間に思って、そう詠んだ句なのだそうです。

高速道を高速で走る車窓から眺めて、その変化を感じているのですから、校門をくぐって、校庭に回って、そこに立って校舎を眺め、校庭で運動をする後輩たちを見たら、『ああ、昭和と言う懐かしい時代は遠くなりにけり!』と、つぶやくのではないでしょうか。最初の小学校は、廃校になり、二番目の分校は、本校に吸収されてありません。人生短し!

(浮世絵は、葛飾北斎の描いた「武州玉川」です)

運動の秋

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「運動の秋」です。おととしの夏の八月に、上海からの日中連絡船「蘇州号」で、大阪国際港に上陸しました。その晩、『カプセルホテルに一度泊まってみたい!』との願いを叶えたくて、地下鉄に乗り込んで、予約した心斎橋のホテルに行こうとしていました。朝の十時過ぎでしたから、ホテルに入るには、まだ相当の時間があったので、『どう時間を潰そうか?』と考えて、座っていましたら、『そうだ、八月は甲子園の高校野球の大会があるんだ!』と、ふと気付いたのです。そばにいた高校生に、『甲子園は、どう行ったらいいの?』と聞いて、教えてもらった駅で乗り換えて、甲子園行きにホームで待っていました。

そこに三人連れのご婦人がいて、帽子とメガホンを持っていましたので、話し掛けたのです。結局、この方たちに同行して、入場券まで頂いて、これも長年の夢であった、『甲子園で高校野球を観戦したい!』が実現して、球場に入ったのです。照りつける夏の日差しの中で、岩手県と島根県の代表校の対戦が始まっていました。母のふるさとの代表校の三塁側の応援席に座って、応援を開始したのです。とても好い試合でした。

私がやっていた運動は人気がなかったのですが、この野球は花形スポーツで、選手数も観戦者数は雲泥の差でした。腕一本、バット一本、グローブ一つで、スター選手になれる世界なのです。長男も小・中でやっていて、プロ選手を目指した時期があったほどでした。すでに引退した松井、今や最盛期を過ぎたイチローと、ほぼ同世代です。野球の選手生命は、短いのですね。ことし、ヤンキース入に団した田中投手は、大活躍したのですが、肘の故障で戦力外になってしまいました。幾何学的な数字の契約金で入団したのに、体が資本の野球には、「故障」と言う問題がつきまとうようです。

前から気懸りだったことがあります。<投球数過多>、<登板日数過多>が、投手の故障の原因だと言われているようです。高校野球ですが、県予選(都道府もです)の初回から、甲子園の決勝戦まで、一人の投手が投げ続けるのが、一つの構図です。『管理上、これで好いのかな?』と、門外漢の私ですが思い続けて来ました。肩や肘の故障で、有能な投手が、多く消えて行きました。『勝ち続けるために!』仕方が無いとは思いません。猛省を促したいと思う、<運動の秋>であります。

(写真は、巨人軍の名投手だった「沢村栄治」です)

食欲の秋

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「食欲の秋」になりました。昨夕、『乡下(郷下、田舎の意味です)で採れた薩摩芋です!』と言われて頂きました。この方の故郷から届いたそうです。この時期の物は、水気が多いそうで、『美しいのは冬場の芋なんです!』と言っていました。こちらでは、根菜が安くて、種類も豊富です。よく買ってくるのが、<紫芋>なのです。薩摩芋の一種で、果肉が紫色をしていて、甘くてホクホクで美味しいので、最近は、こちらばかりを買って来て食べているのです。

青木昆陽の話を、小学校の社会科で学びました。米の育たない痩せた地に植えることを、農家の人たちに奨励し、収穫した薩摩芋を食べて、飢えから人々を救った人として有名です。それで彼のことを、人々は、「甘藷先生」と呼ぶようになったのです。元は蘭学者でしたが、将軍・徳川吉宗に、飢饉対策として、この甘藷栽培を進言した人でした。

江戸時代には、たびたび飢饉が日本を襲いました。米の不作、米価の高騰によって、土一揆などが起こったのです。そう言う世情の中で、甘藷の試作が行われ、四年後に成功したと言われています。原産はフィリピンで、中国を経由して日本にもたらされたそうです。

この日曜日に、一緒に車に乗せて頂いた方が、こんな話をしておいででした。この街のバスターミナルから高速バスで、1時間半ほどの所にある島の出身なのだそうです。子どもの頃は、島を結ぶ連絡船に乗らなければならなかったのだそうです。私たちが五年ほど前に訪ねた時は、まだ島との間が架橋される前でしたし、高速道路もありませんでしたので、朝出て昼過ぎに着いたほどでした。

この島は、痩せた土地で、米を作ることができなかったそうで、『主食は、この<薩摩芋>でした!』、『兄弟がたくさんいて、何時もお腹を空かせていた毎日でした!』と言っておいででした。日本でも、飢饉の時に、とくに東北などでは米が採れないで、粟や稗や芋を食べていた時期があったのです。この方は、そんな苦労を微塵も見せずに、何時も明るく微笑みを絶やさないのです。

さあ、今日は、頂いた<地瓜digua>を蒸かしてみることにしましょう。瓜ではないのに、そのように、この地方では呼ぶのです。やはり、<薩摩芋>は、秋に似合いそうです。小学校の時、まだ給食のなかった私の学校で、この芋を弁当に持って来ていた級友がいました。そんな時代を思い出している、真夏のような天気の九月中旬の週日です。

(写真は、”イチからわかる野菜の育て方”による「サツマイモ」です)

暑くても秋です

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一昨日の晩から今朝方にかけて、二夜、窓の下のバス通りが、アスファルトの舗装の突貫工事を終えました。日中を避けての真夜中の工事で、アスファルトを運んで来る大型車、それをローラー車でならすエンジン音、工事をする人たちの掛け声、眠られない二晩でした。それでも、今日は、車の走るタイヤ音が、以前のコンクリート製の路面と違って、とても静かになりました。

この所、街中の多くのところで道路工事が進行中です。きっと、来年、この街で開催される<国体>のためだと思っています。日本でも、国体が各都道府県を会場に開催されてきていますが、その開催が、交通環境を整え、運動競技施設を設け、スポーツの振興や、開催地周辺の経済や商業の隆盛に寄与して来たのです。

時々、その運動競技の行われる付近を散歩しますが、驚くほどの規模と斬新なデザインの屋内競技場が、いくつも建設されています。もう、ほとんど外装工事が終わっているようで、足場が外されています。仕事の機会も増え、<打工dagong>と呼ばれている建設作業員が働いておられて、その経済効果も実に大きいのではないでしょうか。

子どもたちが、幼稚園と小学校と中学に通っていた時期に、私たちの住んでいた県下で、<国体>が開催されました。その工事が行われていた時に、町の雰囲気に、とても似ているのを感じます。あの開催年の前後は、県民意識が上がって、好かったのではないでしょうか。開会式に演技をするために、開催前の一年ほどは、各学校では、その準備に大わらわでした。

一つの目的のために、市民を上げ、県民を上げて準備していたからでしょうか、その年の中学校は、<校内暴力>が少なかったほどでした。いつも、市内の幾つかの中学では、『去年は☆☆中、今年は○○中!』と言う様に、順繰りで、荒れていた学校があったので、とても落ち着いていた年だったでしょうか。練習でクタクタになっていたので、悪さをする余力がなかったのか、それとも目的意識が、そう言った何時もの動きを抑えたのでしょうか。

その年の<国体>を記念した<写真集>が発行されて、買い求めたのです。その写真の中に、子どもたちを見つけることができたからです。その子どもたちは、今や、親の世代ですから、時間の経過の速さに驚かされます。7〜9歳の女子部門の<5キロマラソン>に参加した次女の娘が、とてもがんばったと言って写真が、先日送られて来ました。そういえば、北半球では、<運動の秋>がやって来たのですね。日没後まで、ボールに白い石灰を塗ってまでして、コート上をボールを投げながら走り回ったり、シュートしていた日が昨日の様に、思い出されて来ます。暑くても秋です。

(写真は、”秋風景”から「秋の空」です)

秋には温泉が

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今朝、眠りから覚めましたら、『えっ、涼しい!』と思わず感じたのです。もう毎日が、最低気温で26度、室内の最低温度さえも29度の連続でしたから、夢を見てるのかと思ったら、現実でした。窓を開けましたら、もうすっかり忘れていた涼しい風が入って来てくれました。夕方の今も、北側の窓から吹き混込んで来る風が、頬に涼しいのです。さしもの暑さも、『これまで!』と言ったところでしょうか。でも、結構裏切られることが多いので、安心しないことにしておきます。

我が家の一部屋の壁に、日本の祝祭日などを知らせてくれる、弟からもらった<カレンダー>が掛けてあるのです。今日は赤字で、「9月15日」、「敬老の日」の祭日だったのです。すっかり忘れてしまっていました。『今日は出勤の日!』の思いしかなかったからです。と言うことは、こちらの生活に、すっかり適合して、日本のことに疎くなっていることになるのでしょうか。

ネットのニュースによると、日本の老人人口(65歳以上)の割合が、25%になったそうです。としますと、四人に一人が老人だということになります。自分が、老人に数えられるなどということを、思ったことがありませんでしたし、今でさえも、他人事に思ってしまう、突っ張ったところがあるのです。ついこの間まで、セーラー服にトキメいていたほどなのですが。

こちらにも「敬老の日」があるそうで、9月9日だったようです。それだからでしょうか、9日の夕方に車に乗せていただいた時、始めて「孝敬父母」という言葉を教えてもらったのです。仕切りに、『シャオジング フウムウ、シャオジング フウムウ!xiao jing fumu』と、車を運転しながら話し掛けてくれたのです。何度か聞いて、帰りの車の中で、やっと「父母への孝行と敬意」だと分かった次第です。

しかし、この年令になると、父も母も天のふるさとに帰ってしまっていて、父がよく言っていた、『孝行したい時に親はなし!』で、何かし残した思いにされてしまうのです。次兄が、『親爺が生きていたら、おんぶして、温泉に連れて行って、楽しませて上げるんだけどな!』と言っていたことがありました。その次兄も、そろそろ背負われる年代になっていますし、かく言う私も同じなのです。

昼過ぎ、学校の帰りに、郵便局に用事があって、寄ってから帰って来たのですが、何時もですと、大汗をかくのに、今日は、いつになく爽やかに過ごすことができているのが、意外だったのです。父の汗かきを受け継いだ私なのですが、秋には、温泉が一番似合いそうですね。南信州の「かじかの湯」や「かぐらの湯」に、日がな入っても好い気候に、そろそろなって欲しいものです。

(写真は、”阿南町案内”の「かじかの湯」の露天風呂です)

 

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「日暮らし」と書くのだと思っていましたら、正しい漢字は「蜩」でした。知らない漢字に出会って、浅学さを思い知らされてしまいました。と言うのは、来月、「蜩ノ記」と言う題名の映画が、日本で公開されるのだそうで、その題名が読めませんでしたので、調べてみて知ったのです。『学校では教えてもらいませんでした!』と言い訳できない年齢になっているので、少々恥ずかしくなってしまいました。『俺に聞くな、辞書を引け!』と言って、広辞苑を買って来てくれた父を、また思い出した次第です。

いやあ、一生が学びなのですね。「弟子」と言う言葉の意味は、『聞く者のことである!』と書いてあつたのを読んだことがあります。初めてのことに、聞き耳を立てて聞こうとする人、学ぼうとする人こそが、「弟子」だと言うのです。九月も中旬、間もなく「秋分の日」がやってきます。それにしても暑い日が続いています。日中は、ゆうに35度はありますし、最低気温だって26度もあるのですから。今日も室内温度が、31度を寒暖計がさしましたので、窓を閉めて、空調を入れたのです。今、雷光と雷鳴で夕立になりました。

かなかなの耳に残りし秋の風

『かなかな!』の鳴き声でも聞こえて来たら、ちょっと涼しさを感じさせてもらえるのですが、こちらでは聞いた試しがないのです。夏の暑さが十一月ごろまで残って、ほんの短い秋があって、冬が来るのです。もちろん夜は、だんだんと涼しくなるのですが、今のところ、その気配がありません。

今日は秋の味覚の「栗」を買って来て茹でました。先おととい、友人宅で出してくださって、とても美味しかったので、『我が家でも!』と、アパートの門の所で売っていたのを買って来て、やってみたのです。酸味のある青みかんと、この栗を食べましたら、秋の運動会が思い出されてしまいました。

今日、我が家に小学校二年生がやって来ました。宿題の入ったかばんを下げてです。どんな宿題かを見たら、「国語」の帳面で、昨日の授業で、拼音(中国版のふりがなでアルファベットです)を書き込んだのを、先生が添削で赤い印を付けてありました。間違いを正すのが、その宿題なのです。そこに「翠」の漢字があってびっくりしました。日本の小学校二年生が覚える漢字は、<180字>だけなのに、画数の多い漢字を、こちらの新二年生で覚えているのです。日本でも、漢字制限などなくしたら好いのではないでしょうか。

これまで、『おかしい!』と感じて来た漢字の中で、「障碍者」を「障害者」と書かせていることです。体の不自由な方は、「有害」の「害」で書き表わされているのです。「碍」の漢字が難しいからだと言うのは、おかしなことだと思って来たのです。書き改めないで、本来の漢字を使うべきだと、常常、思っております。「蜩」も、<虫偏>があった方が、『カナカナ、かなかな!』と聞こえて来そうですから!

(写真は、葉室麟著の「蜩ノ記」の表紙です)

「大人になれなかった弟たち・・・」

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先日、亡くなられた俳優で、画家の米倉斉加年さんが、「大人になれなかった弟たちに・・・・」を著し、1983年に偕成社から刊行しています。中学一年の国語教科書(光村図書)にも、掲載し続けられている作品です。私たちの中学の頃にはなかった記事ですので、大変興味深く読んでみました。次のように、ネットにありましたので、ここにアップしてみます。戦時下の少年の体験記です。

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僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。僕が小学二年生のときに生まれました。そのころは小学校といわずに、国民学校といっていました。僕の父は戦争に逝っていました。大西洋戦争の真っ最中です。
空襲といって、アメリカのB29という飛行機が毎日のように日本に爆弾を落としに来ました。夜もおちおち寝ていられません。毎晩、防空壕という地下室の中で寝ました。
地下室といっても、自分たちが掘った穴ですから、小さな小さな部屋です。僕のうちでは、畳を上げて床の下に穴を掘りました。母と僕で掘ったのです。
父は戦争に逝って留守なので、家族は、僕と母と祖母と弟の四人です。四人が座ったらそれでいっぱいの穴です。
弟は生まれて間もないのですが、いつも泣かないで一人でおとなしく寝ていました。母は穴を掘りながら、ヒロユキがおとなしいから助かる、と言っていました。
そのころは食べ物が十分になかったので、母は僕たちに食べさせて、自分はあまり食べませんでした。でも弟のヒロユキには、母のお乳が食べ物です。母は自分が食べないので、お乳が出なくなりました。ヒロユキは食べるものがありません。おもゆといっておかゆのもっと薄いものを食べさせたり、やぎのミルクを遠くまでもらいに行って飲ませたりしました。
でも、ときどき配給がありました。粉ミルクが一缶、それがヒロユキの大切な大切な食べ物でした・・・。
みんなにはとうていわからないでしょうが、そのころ、甘いものはぜんぜんなかったのです。あめもチョコレートもアイスクリームも、お菓子はなんにもないころなのです。食いしん坊だった僕は、甘い甘い弟のミルクは、よだれが出るほど飲みたいものでした。
母は、よく言いました。ミルクはヒロユキのご飯だから、ヒロユキはそれしか食べられないのだからと・・・。
でも、僕はかくれてヒロユキの大切な大切なミルクを盗み飲みしてしまいました。それも、何回も・・・。 僕にはそれがどんなに悪いことか、よくわかっていたのです。でも、僕は飲んでしまったのです。
ヒロユキは病気になりました。僕たちの村から三里くらい離れた町の病院に入院しました。
十日間くらい入院したでしょうか。
ヒロユキは死にました。病名はありません。栄養失調です・・・。
父は、戦争に逝ってすぐ生まれたヒロユキの顔を、とうとう見ないままでした。

(写真は、”yahooイラスト”から「平和の使者・はと」です)