松江近郊に咲く

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この花は、月に一度ほど、送信していただいています、HP「松江花図鑑」に掲載されている、松江市近郊に咲く、「山瑠璃(やまるり)」です。福島県・石川県以南〜九州の山の木陰や谷沿いの斜面に生えている春先の花です。下は、「タムシバ/田虫葉、学名:Magnolia salicifolia」です。モクレン(木蓮)科の花で、コブシ(辛夷)に似ていますが、種類が違います。春を告げてくれる花です。

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教えと戒め

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若い頃、私の恩師の元を訪ねに来た、恩師の友人たちが、ことあるごとに、まだ青臭く、野心的な私たちに向けて、教え戒めてくれた言葉があります。『金と女と名誉の誘惑に勝て!』でした。この3つの点で、多くの人が、人生を失敗してきているからです。

お金が目的になった人の末路も、遊びで始めた火遊びに捉えられて深みに嵌った人の末路も、出たがり屋の名誉心で人の信用を失った人の末路も、どれも惨めです。本人よりも、かえって妻子の方が悲惨なのです。

ある人たちは、煙が立ち昇った段階、つまり人の口に、〈噂〉が昇った時点で、その人を、その要職に相応しくないと判断してしまいます。その人は、友人や先輩として愛しても、その動機や行いを憎むのです。そうしないで容認し、妥協してしまうと、いつの日か自分も同じ轍(わだち)の中にはまってしまうからです。

英雄たちに、英雄である時期がありますが、その時期は、一時的です。大いなる力が、その事態の収拾のために、その人を選んで、その事態に当たらせていることをわきまえないで、ことが終わった後も、英雄気分に浸っていることが忘れられず、ついには堕落してしまう人が多いのです。歴史は、英雄たちの末路、後半生が醜いものであることを証明しています。

そう言えば、恩師や友人だけでなく、アルバイト先のおじさんたちが、教訓を垂れてくれたのを、けっこう真面目に聞いていたのです。『若い時に、大いに遊んでおくんだ。そうすれば年を重ねたら、誘惑に勝てるからね!』と言うと期待していたら、とんでもなかったのです。『大いに飽きるほど遊んだって、この道は悟りがないんだ。やめられずにズルズルと一生、そうして行くんだよ!』と、危なっかしい私に言ってくれたのです。

吉祥寺の駅近の青果会社の荷受けのアルバイトをしていた時、初老のおじさんが、そう言っていたのを、大いに納得して聞いたのです。まさにその通り、真面目に若い時期を生きた人が、何かの切っ掛けで、〈老いの撹乱〉で、家庭崩壊をすることだって、よくあるのです。泥沼から這い上がれたこと、自分の弱さから生還できたのは、まさに、あの方たちの「教え」と「戒め」によってでした。ありがたいことです。

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地図記号

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子どもの頃から、好きだったことの一つは、「地図」を見ることでした。紙の上に表された山や川や鉄道線路や国道など、どこからどこに広がっているのか、県境を超えて東西南北に広がり、山や海を越えたり、実に夢を膨らませてくれるの。です。

最近買わなくなったのが、「国土地理院」の《地図/二万五千分の一》です。これを貼り合わせていて、住んでいた家では、それ以上は無理でした。それで、大きな家、大きな壁のある家に住みたいと思ったほどでした。等高線があって、時々、測量のし直しによって、山の高さなどが修正されることもあるのです。
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測量をして、地図を作る仕事は、小学校の頃に、なりたかった仕事の一つでもありました。その地図に、「地図記号」が記入されてあります。この写真の様にです。等高線を眺めていると、山が立体に見え始める様な錯覚になっていくのですが、こうなると、もう病気か中毒の域です。

中国に行って以来、一度も見なくなってしまいました。大きな書店には、この地図の引き出しがあって、しっかりと区分わけしてあるのも、羨ましい限りでした。高校一年生の「地理」を教えた時は、何か夢が叶った様でした。でも地図ばかりに関わっていられなかったのは残念でした。

その「二万五千分の一」の地図に、新しい、「地図記号」が、記入される様になったそうです。「自然災害伝承碑」と言う名で、2019年10月31日時点で、372基の自然災害伝承碑が掲載されているそうです。例えば、

『「東日本大震災記念碑」は、宮城県南三陸町戸倉の五十鈴神社にある、東日本大震災による津波の災害を伝承する碑。標高23メートル。海から400メートル。2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災による大津波の時、戸倉保育所・戸倉小学校の子供たち・教職員や、地域住民が避難して難を逃れた。津波の中、神社の境内だけがポッカリと島のように浮かび助かった。碑には次のように記されている。「未来の人々へ 地震があったら、この地よりも高いところへ逃げること」。』と解説されてあります。

地図上で、《旅行》をすることができるのです。未知の土地を訪問することができるのですから、地図好きって、空想家なのかも知れません。ネット上では、〈google地図〉もあって、写真で道路も家も踏切も山も海も川も見られます。でも記号で表示された実際の地図の方が、夢を与えてくれるのです。わが家の壁に、「栃木県地図」が掛けてあります。車に乗らなくなってしまったので、出かけることが少なくなったのですが、自転車には乗れます。いつか隣町まで走ってみようと計画中です。

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コロラド

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作詞がビリー・モール、作曲がロバート・A・キング(日本語詞が近藤玲二)の“ Moonlight On The Colorado(コロラドの月)” を、小学校の授業で習いました。

1 コロラドの月の夜 ひとり行く岸辺に
想い出を運びくる 遥かなる流れよ
若き日今は去りて きみはいずこに
コロラドの月の夜 はかなく夢は返る

2 コロラドの山の端(は)に 涙ぐむ星かげ
今もなお忘れられぬ うるわしき瞳よ
夜空に君の幸を 遠く祈れば
コロラドの山の端に はかなく夢は返る
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    Moonlight On The Colorado

1. Each night I sit beside the campfire dreaming
In England’s hills and dales across the sea
And as I watch the embers softly gleaming
I always picture in my memory;
Moonlight on the river Colorado
How I wish that I were there with you
As I sit and pine, each lonely shadow
Takes me back to days that we once knew
We were to wed in harvest time, you said
That’s why I’m longing for you
When it’s Moonlight on the Colorado
I wonder if you’re waiting for me, too.

2. Sweet heart, do you recall the night we parted
Beneath the moonlight on the river’s shore
Each time I see the moon I’m broken hearted
Just longing to return to you once more;
Moonlight on the river Colorado
How I wish that I were there with you
As I sit and pine, each lonely shadow
Takes me back to days that we once knew
We were to wed in harvest time, you said
That’s why I’m longing for you
When it’s Moonlight on the Colorado
I wonder if you’re waiting for me, too
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山の中で生まれたせいか、アメリカでも、ロッキー山脈の麓(高原)にあると言う、コロラド州(州都はデンバー)に惹かれたのです。よく、こんな大人の恋の歌を、小学校で教えていたものだと、大人になって思うのです。でも、『いつか行ってみたいなあ!』と思ったわけです。そんなマセタものにではなく、まだ小学生の私は、まだ見ぬアメリカ、〈コロラド・ロッキー国立公園〉に行きたかったのでしょう。この歌の歌詞にあるロマンチックさにとらわれてしまったわけです。

大きさや広さへの憧れでしょうか。狭い日本に住んでいて、自分の母国を知り尽くしたわけでもないのに、アメリカ兵が放り投げるのを、競って拾っては食べた、美味しいチョコレートやチューインガムやピーナッツを、ふんだんに食べられる繁栄の国・アメリカに行ってみたい、占領国の矛盾した少年の日々でした。

そんな私が、アメリカ人起業家と一緒に働き、子どもたちを、その国に留学させて、学ばせたことは不思議よりも、奇跡なのかも知れません。娘たちは、そこで出会った青年と導かれて結婚に至ったのも、大きな手の導きに違いありません。コロナ旋風に翻弄されているアメリカが、そこに住む娘たち家族が気になります。

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生を思う

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おっちょこちょいを自他ともに認める私は、膝や弁慶の向こう脛を、テーブルや机の角にぶっつけては、しゃがみ込むほど痛い思いをして生きてきました。刃物を使うと、よく手傷を負いました。無数の手傷を、いまでも手指や腕に認めることができ、ちょっとやそっとの傷や痛さは、苦にならないほどになっています。

この「痛さ」ですが、体が痛くなる感覚というのは、実に大切な感覚だということを、ある時に知ったのです。ハンセン氏病という病があります。かつて恐れられ、忌み嫌われたのですが、私の周りで、この病気の方を見聞きしたことがなかったのです。もちろんライ園やライのみなさんの施設のあることは知っていました。

この病は、その伝染性の問題で、いったん罹病されると、隔離収容さてるのです。山梨県の出身で、ライ患者のみなさんの治療に献身された小川正子がいました。この方は、「長島愛生園」で治療に当たっていて、その手記が、「小島の春」でした。そこには次の様に記されてあります。

『・・・この山中に十年、二十年と病み住めば男といえどもどうして山を下れよう。ましてや家には純朴な一徹な無智善良な肉親と周囲があって伝染ということさえ知らずに同じ炉を囲んで朝夕。そして悲劇は何時の日までも果てしなく続けられていく。(中略)母に寄り添って立っていた十一歳という女の子、まととない愛くるしい顔、背中の二銭銅貨大の痛みのない赤い部分、白い跡はおできのあとと母親はいうのだが、水泡を疑うのは非か。七つの子をあやしつつ、いぶかしいと思うところをつついてみると痛くない。(中略)病人のほかに二人とも異常があることになった。私は言い出す術をしらなかった。強いて微笑んではきたけれど、すべてが「手遅れ(ツーレート)」であった。』

ここに「痛みのない赤い部分」という箇所があります。この病の大変さは、〈痛みが無い〉ことにあるのだそうです。痛みが無いことで、外科的に指が欠けても、分からないのです。痛い思いを繰り返してきた私にとっては、それは驚きのことでした。それで、痛い思いをすることに、感謝の念を覚えられる様になったのです。

私の生涯で、耐えられない痛さの経験が二度ありました。一度は、その年の暮れに40になろうとしていた夏の終わりに、腎臓の摘出手術をした後のことでした。手術が終わって目覚めたのは、強烈な痛みによってでした。麻酔が切れて、痛さの感覚が突如として戻ってきたのです。体の底の底からくる、耐えられないほどの痛さだったのです。とっさに、私の顔を覗き込んでいた看護婦さんに、『痛み止めを打って!』と言ったほどでした。

その痛さを和らがせ、忘れさせた出来事が、数年経った頃にやってきたのです。その長島愛生園のライの施設にいらっしゃる方たちが、私の「腎移植」の話を、何かの経路でお聞きになって、感動したと言って、八万円ほどを募金して、送金してくださったのです。もったい無くて使えず、病んで入院していた恩師の治療のために差し上げさせてももらいました。あんなに嬉しく感動したことはありません。

もう一つは、右肩の腱板断裂の縫合手術をして、手術を終えて目覚めたのが、右腕を上げた状態で、ベッドに括り付けられていた時でした。これも麻酔が切れた時でした。2日ほど、その状態が続いたのです。傷の痛さと体を固定された苦痛とでの激痛でした。『自殺者がいたほどの痛みがある!』と聞かされていたものでした。

今年になっての〈コロナ禍〉は、心痛む現象です。世界中で、不安と恐怖が満ちていて、心が爆発寸前です。感染して死を恐れることだけに、もはや人の心が捕らえられてしまっています。でも冷静に見ますと、感染したら死んでしまう確率は低いのです。もっと怖いことは、人を憎んだり、否定してしまう方が、人を死に追いやる要因で、恐るべきことかも知れません。実は、私たちは、いつも死と対峙しながら、今を生きているという事実です。今落ち着いてこの状況下で、自分の《生》を思う時にしたら好いのではないでしょうか。与えられたこの一日と、残された日々とを生きようと思う、4月1日です。

(瀬戸内海に浮かぶ島です)

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あの一年

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家内と私は、2006〜2007年のほぼ一年間、天津の街で過ごしました。真冬になると、人工池から流れる運河でししょうか、水路がパンパンに凍ってしまい、近くの大学の学生たちが、その上で遊んでいる光景を眺めていました。

その街で、春先になった頃のことです、柳の木から「柳絮(りゅうじょ)」と言う綿が、まるで雪が降る様に、ふわふわと飛び交うのです。日本でも見られるそうですが、あんなに大量に浮遊し、吹き溜まりには、大きな風船の様に塊ができるほどの珍しい光景を見て、驚いてしまいました。

中国に、「柳絮の才」と言う話があります。

『晋の時代、謝安が急に降り始めた雪を見て、この雪は何に似ているかと聞いたところ、甥の謝朗は「空中に塩を蒔いたようだ」と言い、姪の謝道韞は「白い綿毛のついた柳の種子が風に舞い散るのには及ばない」と答えた。謝安は姪のことばに感心し、「柳絮の才高し」と言ったという。』

たった一年の滞在でしたが、夕日の大きさ、土地の広大さ、お菓子屋さんでも御殿の様な目を見張るほどの門構えの大きな建物、冬季の寒さ、春節の喜び、爆竹の炸裂音、天津名物の麻花の美味しさ、広く雑然とした菜市場の賑わいなどに驚かされたのです。そういえば、果物屋によく行ったのですが、外国人への特別に高い値段で買っているのを、級友に教えられ、行かなくなったこともありました。中心街に、伊勢丹があって、その8階の日本料理店で、日本人のスタッフと日本語交流ができたので、何度か出かけました。また子どもが多いはずなのに街中で、登下校時にしか見かけない様子、何から何まで見慣れない光景が満ちていました。でも社会全体に、活気が満ち溢れ、旺盛な生命力を感じた一年でした。.
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家内と自転車で駆け巡り、同じ語学学校のイギリス人、アメリカ人、ブラジル人、スイス人などの学生たちとの交流が楽しかったのです。日曜ごとに市の中心街に出かけました。茶菓を持ち合っての交わりを持ち、夕食を招きあったり、学校帰りに市内見学に行って迷子になりかけたり、ある時は、「IKEA」が出店すると聞いて、バスをチャーターして、北京にも大挙して出かけました。生気あふれる若いみなさんの仲間に入れてもらって、大いに刺激された一年でした。アメリカ人のご主人と台湾人の奥さんとお嬢さんのご家族に、昼食に招かれたり、イギリス人家族に招かれたりでした。

学校帰りの道では、自転車を降りては、通りすがりのみなさんに、習いたての中国語で話しかけ、ちんぷんかんぷんな顔をしているので、身振り手振りで話しかけていました。アッ、そうです、「吉野家」があって、留学生たちに人気で、『ここ日本の店!』って自慢したこともありました。

あの同じ外国人語学学校の同級や上級生たちのみなさんは、あれから十数年経ちましたが、どうされているのかな、と時々思い出します。学校の老師やブラジルから来ていた若い同級生が、わざわざ華南の街のわが家を訪ねてくれたこともありました。また戻って、あそこで生活をしてみたい思いがしてまいります。

(柳絮の舞う様子と天津の紫金山路の天塔に付近の風景です)

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