乗ってみたい汽車がある

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CNR SL-751 im Eisenbahnmuseum Shenyang
Toshiba Digital Camera

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 「乗り物」と言うよりは、動く物への関心が、幼い子どもたちにはあります。山奥から東京に出て来て、一番興味深かったのは、家の近くに甲州街道があり、その交通量の多さに驚かされたのです。新宿から八王子の大和田橋を渡って市内を抜け、小仏峠の直下のトンネルを抜けて、相模湖、大月、甲府、諏訪を経て、松本と、飯田方面に分岐して行くのです。

 その大和田橋まで、日野自動車が作ったトラックが、工場から試運転をして折り返していたのを、兄たちが道端に座り込んで、ベーゴマを磨いていた真横で、眺めていました。まさか自分が、大人になって自動車を運転するなどとは思いもしなかった頃、子どもの自分は、お決まりの車や汽車、進駐軍の立川基地に離着陸して、家の真上を飛んで行く飛行機に、目を丸くして見入っていたのです。

 山奥の村にやって来たのは、まだガソリンエンジンの自動車や電動エンジンで動く自動車はなく、戦時下にガソリンを手に入れなかった日本は、戦後は、まだモクモク煙を吐く、木炭エンジンのバスで、それに乗った記憶があります。

 車や車輪を回す働きに、強烈な関心がありました。中央本線を走っていた蒸気機関車の蒸気を吐く、シュシュシュの蒸気音と、ポッポーの汽笛が、今でも懐かしく思い出されます。

 旧暦の明治5912日(新暦の18721012日)に、新橋と横浜(桜木町)の間に、最初の汽車が走ったのです。鉄道先進国のイギリスの技術に、全面的に習っての開業でした。明治のみなさんは、その「陸蒸気」を、驚異の目で眺めたのでしょう。それから瞬く間に、鉄道網が日本列島を縦横に結んでいくのです。今、新幹線網が張りめぐされることも、だれも想像しなかったことだったのでしょう。

 ところが、鉄道開業から、90年余りで、東海道新幹線が開業され、現在では、リニア新線の開業準備が着々となされていて、世界に、鉄道技術を輸出するほどの先進国と、日本がなっているわけです。

 中国で日本語を教えていました時に、NHKの「プロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線」のDVDを教材に、授業をしたことがありました。日本が、中国大陸に、満州国を建国し、関東軍を派遣し、日華事変を起こして、侵略を行ない、「大東和共栄圏」を唱えて、アジア政策を遂行した過去への猛烈な反省から、戦後、平和産業の鉄道事業に携わった人物に、十河信二と三木忠直がいます。

 オリンピック東京大会の開催に合わせて、平和産業の雄である、「新幹線」を開業するにあたって、その提案をしたのが、第四代の日本国有鉄道の総裁だった十河(そごう)でした。戦前は、南満州鉄道株式会社の理事になり、その在任中、特急「あじあ号」の運行に直接関わっています。日本国内で実現できなかった、線路の標準軌(日本国内は狭軌の1067mでしたが1435mmの標準軌)を採用した満鉄で、「あじあ号」を走らせたのです。その最高速度130km/hを記録したほどでした。大連と新京間の701kmを、約8時間30分で走り抜いたのです。その速度は画期的でした。

 この「あじあ号」の成功が、戦後の東海道新幹線の開業につながったと言われています。新幹線事業は猛反対の中、十河のくじけない執念で、運輸委員会を動かして実現に至ったのです。その電車の設計に携わったのが、三木忠直(みきただなお)でした。三木は、旧日本空軍の技術士官で、「桜花」と言う戦闘機を設計した、少佐でした。

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 軍人として、やむを得ない軍命に服して、特別攻撃機の設計に携わり、多くの若者を死なせた責を、強く感じつつ。悶々として戦後を生きていました。この新事業が建て上げられた時、三木は請われて「設計」の責任を負ったのです。『飛行機を作っても、船を作っても戦争につながる。でも大地を走る電車なら平和に供することができる!』と思って、新幹線の開業に、後生涯を捧げたのです。

 若い日の父は、満州に渡り、南満州鉄道で働き、日中戦争時には、水晶の掘削の軍需工場で防弾ガラスの生産の一翼を担い、戦後は、国鉄の車輌の部品を製造する仕事に従事したのです。あの十河は、「新幹線の父」と言われたのですが、彼が総裁退任後、参議院選挙に立候補した時、選挙活動に、父が、全国を跳び回って担当していました。

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 もう夢が叶うかどうかは怪しいのですが、アメリカ合衆国に西海岸から東海岸への列車旅行を、家内と二人でしたい思いが、若い頃からあるのです。東海岸にいた義姉は、帰天してしまっていますので、訪ねて泊めてもらうことは無くなってしまいましたし、近頃では、なかなか遠出は難しくなっています。

 もう一つの願いは、まったくの夢ですが、父が乗った「アジア号」で、旅順から奉天、長春に、鉄道の旅をしたみたいのです。中国では、「和諧(hexie/調和の意)」が、総延長が2776Kmで全土を網羅しています現在、「アジア号」の車両が、大連の記念館にあるのだそうです。これまで天津と北京と大連までは行くことができましたが、そのほかの東北部への旅は叶えられずに帰国してしまいました。夢の中ででも、父の足跡をたどってみたい願いが、まだ残っているのです。

(ウイキペディアの南満州鉄道の「あじあ号」、旧新の新幹線の車輌、桜花ニニ型、「アメリカ大陸横断の物語」の列車です)

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母を訪ねて

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 「草原のマルコ(母をたづねて三千里)」の歌を、深沢一夫の作詞、坂田晃一の作曲の「母をたずねて三千里」の主題歌でした。

はるか草原を ひとつかみの雲が
あてもなくさまよい とんでゆく
山もなく谷もなく 何も見えはしない
けれどマルコ おまえはきたんだ
アンデスにつづく この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
希望の光 両手につかみ
ポンチョに夜明けの 風はらませて
かあさんのいる あの空の下
はるかな北を めざせ

小さな胸の中に きざみつけた願い
かあさんの面影 もえてゆく
風のうた草の海 さえぎるものはない
そしてマルコ おまえはきたんだ
かあさんをたずね この道を

さあ出発だ 今 陽が昇る
行く手にうかぶ 朝焼けの道
ふくらむ胸に あこがれだいて
かあさんにあえる 喜びの日を
はるかにおもい えがけ

 この歌で歌われていた番組は、わが家の子どもたちが小さい頃に、フジテレビで放映していたアニメでした。主人公のマルコが、音信不通となったお母さんを訪ねて、三千里の旅を続けて、南米大陸のアンデスに行くのです。子どもたちには、残念なことに、わが家にはテレビがなかったので、友だちの家で観ていたのでしょう。

 イタリアの港町ジェノバに住む少年マルコは、両親と鉄道学校に通う兄とともに暮らしていましたが、生活は日増しに苦しくなっていたのです。とうとうお母さんが、アルゼンチンへと出稼ぎに行くことになってしまいます。寂しさをこらえ見送るマルコだったのですが、やがて母アンナからの便りが途絶えてしまうのです。そんなお母さんを捜しに行きたいというマルコの固い決意に、お父さんも、とうとう、その旅を許し、マルコの長く苦しい旅が始まります。マルコは、明るく元気な性格の少年で、アルゼンチンでの様々な人との出会いや出来事を乗り越え、ついに、アンデスの麓のトゥクマンの街で、母アンナと再会する、そんな物語でした。

 私たち兄弟四人の母のことですが、近所か、親族か、母の誕生の経緯を知っていた方が、『あなたの母親は、今のお母さんではなく、奈良に嫁いでいる!』と知らされたのです。寝耳に水のようなことばに、戸惑った十七歳の母は、出雲の地から、旧国鉄(JR)の汽車に乗って、生母を訪ねる奈良への旅をしています。昭和7年、1934年頃だったと思われます。


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 出雲市、米子、鳥取、豊岡、園部、京都、新田辺、大和西大寺、そして奈良へ、現在のJR鉄路のキロ数で423.6km、ほぼ百里の旅だったことでしょう。私が、小学校一年の時、私たち四人兄弟を引き連れて、東京駅から、鈍行列車で出掛けたので、小さな子連れの汽車の旅は大変な時代でした。

 それは、母の奈良への母を訪ねる旅から、十数年経っていましたが、三十代の母に連れられて蒸気機関車が牽引する汽車の旅は、長く退屈で窮屈な旅の記憶があります。母は、まだ幼い弟や我儘な私を引き連れての旅、難儀だったに違いありません。

 でも、母に会いたい一念の旅を思うと、会える期待、その喜びは大きかったのでしょう。でも、生母に会った時に、歓迎されざる客だったのです。『今の幸せを壊さないど欲しい。帰って!』と言われたのだそうです。本当の母親に会う一途の思いがくじかれてしまい、どんなに辛かったことでしょう。

 産んだ娘を育てる決意を持たずに、自分の幸せと生んだ娘の幸せを、どう天秤棒にかけたのでしょうか。ある藩の菩提寺の家柄に嫁いだ祖母には、祖母の立場も言い訳もあったのかも知れません。涙をこらえて、出雲に傷心の思いで帰る道は、母には辛かったことでしょうね。

 でも、この生母が亡くなった床の枕の下に、どこから手に入れたのか、母が産んだ私たち四人、孫の写真が、置かれてあったのだと、聞いています。その写真を繰り返し出しては眺めて、きっと申し訳ない気持ちを新たにし、孫たちの無事の成長を願っていたのかも知れません。

 私たちの母は、薄幸な娘だったのでしょうか。十四才の時に、イエスさまを救い主と信じ、神を「父」と知って、「真実な父」との出会いは、その母の生涯の支えであったのです。その神と救い主を、母が、私たち息子たちに四人に知らせてくれました。自分が産ん息子たちが、どんな悪さをしたのを聞いても、見ても、決して叱ることはなかったのです。私たちに背中を向けて、向こう側で、聖書を読み、讃美を歌い、祈っていた母がいて、私たち四人の今があるのでしょう。

(ウイキペディアによるトウクマンの地図、奈良の若草山です)
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名のみの春

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 日本海を渡ってくる大陸の風が、越後の山並みを超えて、北関東に運ばれてきて、頬をなぜる風は、まだ冷たく、陽の光と相争うかのように感じられます。それでも三月になりますと、大平山の木々の芽がふくらんできていて、何か山肌がもくもくしてきているようなのです。

 この季節になると思い出すのが、北宋の詩人、蘇軾の「春夜」の詩です。

春宵一刻値千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜

[読み]春宵一刻(しゅんしょういっこく)値千金(あたいせんきん)
花に清香(せいこう)有り月に陰(かげ)有り
歌管(かかん)楼台(ろうだい)声(こえ)細細(さいさい)
鞦韆(しゅうせん)院落(いんらく)夜(よる)沈沈(ちんちん)

[和訳] 春の宵の一刻は千金に値するほど素晴らしい。花は清らかな香りを放ち、月はおぼろに霞んで見える。歌声や笛の音がにぎやかだった楼台も今は静まり、かすかな声が聞こえるだけで、乗る人もないぶらんこのある中庭に、夜はひっそりと更けていく。

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 「春宵」と言うのは、宵の口のことではなく、深夜なのだそうです。日が沈む頃から、時が経つに従って、「夕」、「暮」、「昏」、「宵」、「夜」と呼び方が変わるのだようです。「一刻」は十五分、その「値」は千金に匹敵するほどだと言うのです。

 庶民には、そんな感じ方はなかったのでしょうけど、蘇軾は、開封(Kāifēng)の街の大きな高級官吏の邸宅に住んでいた、若い頃の満ち足りた環境の中で、更けていく夜を、心地よく感じているのでしょう。

 それにひきかえ、同じ春を感じ、春を詠んだ、旅の途中の恵まれない境遇の唐代の詩人、杜甫の「春望」は、杜甫自身の境遇を読み取ることができます。

国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪

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[読み] 国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻いて 更に短かし (はくとうかいて さらにみじかく)
渾べて簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

[和訳] 国都長安は破壊され、ただ山と河ばかりになってしまった。
春が来て城郭の内には草木がぼうぼうと生い茂っている。
この乱れた時代を思うと花を見ても涙が出てくる。
家族と別れた悲しみに、鳥の声を聞いても心が痛む。
戦乱は長期間にわたって続き、家族からの便りは
滅多に届かないため万金に値するほど尊く思える。
白髪頭をかくと心労のため髪が短くなっており、
冠をとめるカンザシが結べないほどだ。

 同じ春を、時代、年齢、場所によって、人の感じ方は違うのでしょう。二十一世紀、まだ平和な日本、北関東は、蝋梅の花の香が漂い始めたそうで、名のみの春ですが、それでも香りや声を聞く身には、好ましい季節の到来です。月末になると、桜が開花し、新入生が入学をし、新人が入社をしていくのでしょう。そんなことが、遥か昔に、自分にもあったのを思い出しております。杜甫ではありませんが、まさに人生は旅であり、旅する私であります。

(図書館への道に昨日咲く梅の花、ウイキペディアによる古き開封、現在の西安の一廓です)

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昭和、時と所、そして私

 

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『イエス言ひ給ふ『なんぢらは下より出で、我は上より出づ、汝らは此の世より出で、我は此の世より出でず。 (文語訳聖書 ヨハネ伝8章23節)』

 「昭和」と言う時代の響きは、戦争、敗戦、欠乏、地震災害などの暗い面ばかりではなく、豊かさ、躍進、新幹線、オリンピックなどのキラキラした時代で、この自分が生まれ育った時で、そういった時代の風を吸って、その空気や風情を思い起こさせてくれるのです。

 その時代に持ち運ばれ、そのまま大人になって生き始めていった時代だったのです。もどかしく、不確かな時を重ねて、父を見上げ、兄たちに真似、映画スターに影響され、父のタバコを盗み吸いをし、盗酒の味も知り、興味津々で大人の世界に足を踏み入れ、戸惑ったり、危険を感じたり、刺激いっぱいでした。タバコの煙、酒のにおい、母になかった化粧の匂い、溢れるほどに罪の感じられる匂いが立ち込めていたでしょうか。

 そんな脇道をたどり、歩き回って、母の魂の故郷だったでしょうか、キリストと、キリストを信じる人たちの群れ、キリスト教会にたどり着いたのです。そこで佳人を得て結婚し、四人の子育てに懸命な時を過ごしました。そして老いを迎えたのは、平成であり、とっぷり浸かっているのは、令和の今なのです。時は流れ、人が行き交い、去っていき、またやって新たな出会いがあります。

 父も、母も、恩師たちも逝ってしまいました。「走馬灯」のように、顔出しでの思い出ばかり、表情やことばや、それぞれの時のニオイも思い出させてくれます。VideoでもCDromでもFace Time  ではないのです。紙芝居や幻灯で映し出されるかのような懐かしさイッパイの映像です。聞き覚えの歌の一節、『  ああだれにも故郷がある、ふるさとがあーる ♯』が口を突いて出て来ます。

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 19261225から198917日を、時代区分で「昭和」と呼びますが、再来年は、「昭和百年」を迎えるのだそうです。生まれた故郷があり、育った街があり、独立して子育てをした街、命をかけて移り住んだ街、たくさんの街を通り抜けた街の中で、「新宿」は、もっとも昭和の匂いを思い出させてくれる街なのです。南新宿に家を買って、子育てをしようと考えた父が、盛場の近くを避けたのは、父の大英断だったのです。

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 作詞が悠木圭子、作曲が鈴木淳で、八代亜紀が歌った「なみだ恋」に、次のような歌詞がありました。

夜の新宿 裏通り
肩を寄せあう 通り雨
誰を恨んで 濡れるのか
逢えばせつない 別れがつらい
しのび逢う恋 なみだ恋

 子どもの頃、電車に跳び乗れば、一本で行けた新宿でした。二十歳を過ぎた頃、この街の場末の裏通を、どこへ行くともあてなく歩いていたのです。それほど恋の危なげなど感じなかったのですし、そんなに入り込まないようにしていたと思っていました。いえそんな冷静ではなかったかも知れません。隣りには、札幌から出て来ていた同級の女ともだちがいました。肩を抱くようなことはなかったのですが、時には肩が触れながら、そぞろ歩いたのです。生意気盛り、大人ぶっても、中身は子どもでした。新宿の京王線の改札まで送って、指も触れないまま、卒業後、彼女は札幌に帰って行きました。

 あの頃を彷彿とさせてくれる新宿の街は、この歌が言っているようだったかも知れません。自分たちの場合は、そんなに切なくも、危なかしくもなかったのですが、昭和の立ち込めた街を歩いた時を思い返して、この歌が言ってるようなことがあり得たかな、と思い出すと、やはり危なっかしさに晒されていたのかも知れません。

 演歌全盛が昭和だったでしょうか。その時代の男たちが支持した、その頃を代表するような女性歌手が、その八代亜紀でした。昨年末に亡くなったと、ニュースが伝えていました。「昭和が行く」、まさにあの頃を切々として思い出されて参ります。これも「この世」の現実であり、わが青春の譜の一頁なのでしょう。

 だれもが定められた時と場所を、人は生きて、その走路を走り終えるのです。「此の世」で、どう生きたかを問われるお方がいると、聖書は、厳粛に言います。全てをご存知の神さまが、私の行いや思いを精査される時、「神のみ前で弁護(KJ訳は advocate )してくださる方(1ヨハネ2章1節)」を、私が頂いていて、救われるのを感謝しては、ただ喜びにむせぶことでしょう。

(ウイキペディアによる「富士を望む新宿」、新宿御苑、青年期の頃の新宿風景です)

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「世界の平和を願って」

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 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれることなんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手掛かりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から祈っている。

  2017年3月         学習院女子中等科 敬宮愛子

(ウイキペディアによる広島の原爆ドームの写真です)

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名をもって呼ばれる神

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 『まことに誠に汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は、盜人なり、強盜なり。 門より入る者は、羊の牧者なり。 門守は彼のために開き、羊はその聲をきき、彼は己の羊の名を呼びて牽きいだす。   悉とく其の羊をいだしし時、これに先だちゆく、羊その聲を知るによりて從ふなり。 他の者には從はず、反つて逃ぐ、他の者どもの聲を知らぬ故なり』 (文語訳聖書 ヨハネ伝1015節)』

 『示しがつかなくなることと、尊敬の意味で、自分の牧師には、「さん」ではなく「先生」と呼ぶように、信者に言っています!』と、先生呼称主義でない、「さん主義」の群れで育った私との〈先生呼称〉の問答で、同世代の牧師さんたちが、そう答えが帰ってきました。

 私が学んだ学校も、伝統的に教師をお呼びする時は、” Mr and Mrs “ だったのです。もちろん英語にも、” reverend ” と言う呼称があります。ところがアメリカの教会から派遣された宣教師であり、教師であった方の始めた Mssion School だったので、伝統的にそういう呼称でした。聖書で、教会の主であるイエスさまは、「先生」について、また「父」について、次のようにおっしゃられています。

 『されど汝らはラビの稱を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり。  地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなはち天に在す者なり。(文語訳聖書 マタイ伝2389節)」

“But be not ye called Rabbi: for one is your Master, even Christ; and all ye are brethren.And call no man your father upon the earth: for one is your Father, which is in heaven.” KJ version

 この呼称の一件は、そう簡単ではなさそうです。「先生」付きで呼ばれてみると、けっこういい気持ちになるのは事実です。四人の子どもたちの父親への呼称は、抵抗がありませんが、それでも、ある教会では、牧師さんを、「霊の父」、「霊父」であるとしています。これには、やはり聖書的には問題がありそうです。ヘブル書に、次のようにあります。

『汝らを導く者に順ひ之に服せよ。彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば、汝らの靈魂のために目を覺しをるなり。彼らを歎かせず、喜びて斯く爲さしめよ、然らずば汝らに益なかるべし。(1317節)』

 信仰を指導してくださる方への「従順」や「尊敬」や「感謝」を表すことで良いのではないでしょうか。私の親しかった宣教師さんは、信者さんからの「感謝」のことばを受けると、その「感謝」を主にお渡しして、ご自分では受けないような生き方をされていました。主の前に、ご自分は、当然なことをしたに過ぎないと思われたからでしょう。問題というのは、天国では、この二つの呼称はないからです。きっと、名前で呼び合うのでしょう。神さまが、名を呼ばれる方でいらっしゃるからです。

 実際、職業としての教員を、実は女子校で、しばらくの間やったことがあって、初々しい声と表情の女子学生から、「先生」って呼ばれると、何か嬉しい気持ちがして、ウキウキしてきたのです。

 私が就職した最初の職場は、研究所でした。先生と呼ばれた過去を持つ職員と、そうでなかった職員との間に、何かぎこちない関係があったのです。しかもその方の教え子が、同じ職場にいたからです。同世代の課長でも、教員ではなく、調査機関にいた人にとっては、面白くなさそうだったのです。

 先日、ニュースをラジオで聞いていましたら、刑務所の中での呼称に変化があったのだそうです。刑に服している人を、「さん」付けで呼び、刑務官を「先生」から「さん」に変えたのだそうです。入ったことがまだないので、「番号」で呼ばれていたと思っていたのに、今度は「さん」になって、戸惑いがあるのではないかなと心配しています。もっと戸惑っているのは、刑務官で、先生でもないのに「先生」と呼ばれ続けて来ての変化は、ちっと混乱することでしょうか。

 中国には、「先生/ xiansheng 」と言う言い方があります。大人の男性を「先生」、大人の女性女性を「女史/ nvshi 」と言うのです。ですから、ご主人を、奥さんは、『私の夫です!』と言う時に、『我的先生wodexiansheng』と言っていました。まさに、先に生まれたことであって、決してが偉さではないのですが、丁寧な言い方なのかも知れません。職業の先生は「老/ laoshi 」です。

 私たちの社会では、相手をからかう意味で、そう呼ぶこともあるようです。でも多くは、相手をいい気持ちにし、おだての意味で、そう呼んでいます。

 鼻持ちならないのが、先生同士で、相手を呼び合う時に、「先生」と呼び合うことです。また事務の方が、教師を呼ぶ時に、そう言います。世間から離れた世界で、世間知らずのみなさんの世界で、使われているように感じます。でも、この良いところは、名前を忘れてしまった時に、思い出さないで済む呼称で、便利なのでしょう。

 面白い経験が、私にはあります。著名な牧師さんを、特別伝道集会にお招きした時に、男女お二人の伝道師の方が随行して来られ、わが家に、女性伝道者が泊まられたのです。私たちの教会は、先生の呼称のない教会でしたし、宣教師はいましたが、助手はいても伝道者の呼称を、私は持ちませんでした。初め、この伝道師は、「先生」と呼んでいたのですが、私が献身者だと分かってから、「兄弟」と呼び方を変えて、彼女は一段高くなられたのです。学校では先生でしたが、教会では先生でない私は、こう言った変化に、不思議さを覚えたのです。

 でも今、小学3年生のお嬢さんが、私のことを『ジュンさん!』と、お母さんが言うように、同じく呼びかけてくれるのです。名前で呼んでくれるのはいい気持ちで、これって、なんともいえない素敵な関係ではないでしょうか。主なる神さまは、「名をもって呼ばれ神」でいらっしゃいます。

(Christian clip artsから「羊飼い」のイラストです)

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日光連山

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 日光連山、主峰の男体山、下野国の誇る山です。イスラエル人にとって、ヘルモン山は特別な山だったように、不動の山をお造りになられた創造の神を、ほめたたえたたのです。その創造の最高傑作は「人」でした。それを、高価で尊いのだと、主はおっしゃっておられます。

 そういえば、今日は、「閏日」ですね。暦を微妙に調整する知恵って、驚きです。太陽の一回転、地球の一回転、星の位置など、天空の自然を極めた人間の知恵に、神さまの啓示があったのでしょうか。閏日の情報の入力が欠けていたコンピューターの誤作動が、いくつかの県の免許センターであったそうですね。

いろいろなことが起こって、IDの限界だってあって、今日にところは、人間の知力に軍配が上がりそうですね。

(昨日、東武宇都宮線に車窓から見えたものです)

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相違と主にある一致

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 ソウルの教会を、初めて訪ねたのが、1974815日、日本が無条件降伏をした記念日で、韓国では「光復節(日本支配から解放された記念日です)」で、暑い夏でした。漢江の中洲にあった、広大な汝矣島(ヨイド)漢江公園を会場にして、「世界キリスト教大会」があって、それに参加したのです。会場となった用地は、まだ未整備の段階で、漢江の流れの淵でした。母教会の兄弟と連れ立っての参加だったのです。当時、午後11時過ぎは、外出禁止令が出ていて、戒厳令がしかれていたと思います。

 日本から本田弘慈牧師が団長で、かなり多くのみなさんが参加されていましたが、私たちは、個人参加で、ユースホステルに宿を取っていました。その会場には、100万人が集まったと言っていました。多くの説教者が壇上に立って、賛美や説教や祈りが、繰り広げられていたのです。大会途中に、強雨が降り始め、日本からの参加者は浮き足立っていましたが、韓国のみなさんは、コンクリートの上にじっと座って微動だにしなかったのが印象的でした。

 この大会が終わって、永楽教会に移動してから、会堂の中で、重大な報告がありました。日本人が、朴正煕大統領を狙撃し、夫人の陸夫人が亡くなられたというのです。それで外出禁止で、ホテルに留まるようにとのことでした。後に、狙撃犯が、北朝鮮系の在日の男だということを聞いたのです。ちょうど長女が産まれて間もない時だったのです。無事に帰国できてホッとしたのを覚えています。

 それ以後、何度かソウルを訪ねたことがあります。ある教会の長老さんの家に招かれた時に、日本語教育を受けられた世代の方でした。歓迎されて、美味しい朝鮮料理をご馳走になり、話が弾む中で、次のようなことを話されたのです。

『韓国人は、正しく生きてる時には命をかけてでも仕えていくことができます。ところが一旦、不正を行なっていることを知ると、手の平を返すように反逆するのです。日本では部下と上司の繋がりというのは、人と繋がっているのです。良くても悪くてもかまいません。正しくても正しくなくてもいいのです。にその人の行いや考え方というのは構わないのです。田中角栄が不正を行なっても、部下が、その不正を糾弾することはありません。ところが朴大統領に不正が露見した時に、黙っていることができずに、銃を手にとって撃って、制裁を加えたのです!』とです。

 朴正煕大統領が、KCIAの責任者で、古い友人で側近の部下だった人物によって、1979年10月に銃撃され、射殺されてしまいました。この方が言われたことは、日韓の比較論で、実に興味深かったのです。彼は日本人と朝鮮民族の違いを語られたので、大変興味をそそられたのです。明智光秀と織田信長との一件を思い出させられる話でしょうか。ある人たちは、『◯◯先生のことだから、少々の失敗をしても、まあ仕方が無いか!』と思ってしまうのでしょう。人脈とか派閥といった強い絆に、太い感情のパイプでつながっているからです。朝鮮民族のみなさんは、「正邪」、「良悪」と言った規準で人とつながるのだということを学んだわけです。

 今、イスラエルとハマス(これは国を代表するのではなくテロ集団です)との戦いを見ていて、ユダヤ人とアラブ諸国との、民族的な違いからの長い抗争があっての今回の戦争ですが、イサクとイシュマエルの異母兄弟の対立、ヤコブとエサウのいざこざ、ユダヤ教とイスラム教の違いですが、この両者の祖は、アブラハムです。彼らは、神さまに導かれて、カルデヤの地から「渡って来た者たち(ヘブライ、ヘブルの意味は民によって仇名されたことばです)」だったのです。

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 同じ父の子の対立が、今日の抗争の元であることを考えると、「相違」を超えていけない、人間の弱さがあるのでしょうか。文化や慣習や伝統の違いもあるようです。クリスチャンになって、血のつながりを超えて、霊的でしょうか、同じキリスト信仰を持つ者が、兄弟姉妹という関係に入れられているのです。

 これまでロシア人、タンザニア人、韓国人、中国人、フィリピン人、台湾人、アメリカ人、アラブ人と言った人たちと、私は関わってきても、文化や慣習を超えた、同じ信仰の交わりに入れられた者同士の親密さがあったのです。それぞれの民族性の違いを超えていける、一致点で驚くような交わりがあったと思います。『あなたのために祈りますね!』と言ってくださった方もおいででした。

 『我らの見しところ聞きし所を汝らに告ぐ、これ汝等をも我らの交際に與らしめん爲なり。我らは父および其の子イエス・キリストの交際に與るなり。 (文語訳聖書 第一ヨハネ13節)』

 「父なる神」と「子なるイエスさま」との交わりの間に、私たち信じる者の相違を超えての一致の交わりがあるのは、素晴らしい特権ではないでしょうか。

( ウイキペディアによる現在の「ヨイド漢江公園」の写真です)

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そんな” precious “ な自分を

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 『兄貴にそっくりだなあ!』、私のたちの体育の授業を見ていた二級上で、ハンドボール部のインターハイ優勝チームのレギュラーの先輩が、そう言ったことがありました。立教大学に進学していった方で、頭も良く、運動もこなしていた主将だったのです。高等部に進学した頃に、《運動神経が良い》と言う意味で、そう言ってくれたようです。上の兄も、運動部で活躍していました、

 すぐ上の兄は、同じ学校の高等部に進学し、自分は中等部に、同じ年に入学し、兄は野球部に、自分はバスケットボール部に入ったのです。兄は、甲子園を目指していたチームのレギュラーでした。3年の夏の甲子園大会の東京都の予選で、代表になったのは、日大二高でした。その年の甲子園の覇者は、西条高校(北四国代表の愛媛県)だったでしょうか。

 兄たちの学年は、ベスト16で敗退し、甲子園行きは果たせませんでした。当時、プロ野球で活躍していたのは、「球界の紳士」と言われた巨人の藤田元司投手、新人王をとった大洋ホエールズの桑田武でした。

 自分は、進学した学校で、最も練習の厳しいハンドボールに入部したのです。センターフォワードでした。けっこう兄たちに似て、彼らの運動神経を受け継いでいたのかも知れません。ところが、母が、ダンプカーの車輪のボルトで、両足に大怪我を負って、11ヶ月もの間、入院生活をすることになったのです。上の兄は静岡の会社で働いていて留守、すぐ上の兄も千葉の会社で働きながら、大学で学んでいたのです。家は、父と弟と私でした。父が家事をしてくれていて、家に私がいて、父に全部を任せるわけにはいきませんでした。

 インターハイにも国体にも、東京代表で出場し、全国制覇に貢献したかったのですが、休部せざるを得なかったのです。涙を飲んで、そうしたのです。その年、都立隅田川高校が優勝し、わが校は準優勝で終わったのです。インターハイも国体も、優勝候補だったのに駄目でした。その断念は、辛かったのですが、両足切断の危機を何度も超えながら、治療を受け続けている母の世話をし、家の留守を守る父を見ての決断でした。父は、会社経営をしていたので、仕事を任せて、家事をする自由はあったのですが、私の断念、決断だったのです。

 それはよかったのでしょう。高校運動界の覇者になるよりは、父や母を助けられたのは、よかったのだと思うのです。それでも後になって、高校の教師になり、そこでハンドボール部を作って、全国大会に出られるチーム作りの願いもありましたが、信仰を回復した私は、宣教師の招きで献身し、伝道者にさせていただく願いが与えられ、依願退職をしたのです。

 それ以前に、伝道者として、日本では勢いのよい働きをして名をなしていた方が、母の教会に来られました。男らしく日本的 で、successful な牧師だったのです。彼の後について行こうかなと思ったほどでした。スポーツ選手として願いを果たせずに、断念し、挫折者のような自分は、それを挽回したい願いが強いのでしょう。field は違えども、伝道者の道で成功者となりたいと言う願いがあったのだろうと思います。でも、主は、それを許しませんでした。

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 ちょっと先輩な、また同輩の牧師たちとの出会いがありました。みなさん成功願望で野心的でした。彼らと切磋琢磨して、成功街道を切り拓いていくような誘惑の機会、交流があったのですが、その交わりへの参加も、主は許さなかったと思います。

 その世界で、有名な伝道者になりたい願いを、また挫かれたのです。日本精神や野心や成功願望は、挫折体験の背後に潜んでいるものなのでしょうか。成功よりも、内側に潜むものを取り扱われる必要があったようです。そして、成功願望者が陥りやすい、金銭的誘惑、成功への誘惑、名を成したいとの願い、異性の誘惑に陥ることのないような勧めが、やってくる説教者は異口同音に語って迫ることが、若い頃には何度もありました。

 ただ忠実な僕であることを、主は私に願ったのです。母教会にやって来たニューヨークの聖書学校の教師が、私の頭の上に、手を置いて祈ってくださった時に、聖霊のバプテスマを受けたのです。それは一生を変える、人生計画を覆してしまう出来事でした。きっと、あのエジプトで、パロの娘の子として拾われ、育てられたモーセが望んでいた、

 『信仰に由りてモーセは人と成りしときパロの女の子と稱へらるるを否み、  罪のはかなき歡樂を受けんよりは、寧ろ神の民とともに苦しまんことを善しとし、  キリストに因る謗はエジプトの財寶にまさる大なる富と思へり、これ報を望めばなり。(文語訳聖書 ヘブル書112426節)

 あのモーセの経験を思い起こさせるような、この世の栄誉、冨、成功ではない、義への渇望、永遠への憧れ、品性の向上、同胞や隣人の救い、主を求めることの願いを、モーセーのように、二十代の悶々としていた私の思いの中に、主が入れてくださったのです。

 この世の富、名誉、成功以上のもののあることを分からされたからなのです。あれは異言を語るペンテコステ体験だけの出来事ではなく、自分の実態に気付かせ、赦しを確かにさせられ、十字架を理解させ、イエスさまをもっと知りたいとの願いを起こさせ、永遠のいのちへの憧れ、献身の願いを起こさせ、自分により頼むことをやめさせた画期的な体験だったのです。

 五十数年経った今、さまざまなことが、すべて益であったのだということが分かります。今は、史上驚くほどの価値で測られる選手たちの繰り広げる “ MLB “ の祭典が、始まろうとしています。でも、主が測られる価値には、次のようにあります。

“Since thou wast precious in my sight, thou hast been honourable, and I have loved thee: therefore will I give men for thee, and people for thy life.”(KJ訳 イザヤ43:4)

 「あなたは高価で尊い」と、主なる神さまが、今でも言ってくださっているのです。こんな自分を、” precious “ だと言ってくださる主に、ただ感謝したいだけの、春の陽のさす窓辺の私です。

(Christian clip arts によるパウロのイラストです) 

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この五年の記

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 2018年、華南の街のお借りしていた家で、家内の体の具合悪くなったのです。隣街にあった養老院に、牧師子女で長く医者をされてきた老姉妹、そのお父さんが、旅人や貧しい隣人たちに宿や食事を提供していたのを見て育った老クリスチャンでした。同じような信仰的な背景のみなさんを訪問し、交わりをして、帰宅した後でした。ちょうど教会の降誕節が終わったた直後だったのです。

 ちょうど訪ねてくださった姉妹が、家内を見て、『すぐ病院に行きましょう!』と、数年前に、家の近くに開院した、省立病院の別院に、車で連れて行ってくださったのです。しばらく待って診察していただき、担当医師が、『精度の良いMRIが本院にありますから、そちらに行って撮ってもらってください。』と言われ、20191月元旦に、本院に行ったのです。

 そこでMRIをしていただいて、その結果を診た医師が、即入院という診断をしてくれました。緊急を要したのでしょう、家内は、それに従ったのです。一週間経って、主治医に私が呼ばれて、診断結果を話してくれ、『重大な病ですから、直ぐに日本に帰国して、大学病院で診てもらい治療されたらよいでしょう!』と告げられたのです。

 直ぐに飛行機のチケットを予約し、翌朝、入院先から直接、飛行場に、その姉妹に連れて行ってもらったのです。もちろん、旅行用のスーツケースには必要な物を入れて、帰国準備はしてでした。伝道師さんたちとその他の兄弟姉妹がたくさん見送りに来てくださったのです。

 その姉妹が、チケットをビジネス席に換えてくださり、搭乗前の空港付医師の診察を受けましたら、「搭乗不可」を言われたのです。仕方なく家に戻って、翌日の便を予約していただきました。家内にとっては、家に戻って、必要な物を、自分で選ぶことができたのは幸いだったのです。一番は自分のベッドで眠ることができたことでした。

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 慌ただしく翌早朝、空港で診察を受けると、搭乗許可が出たではありませんか。あちらこちらと、みなさんが手を回して下さっていた結果だったかも知れません。大勢の見送りの兄弟姉妹が、また来ておられて、挨拶を交わして搭乗したのです。みなさんは、家内と泣き別れでした。彼らは、家内の病状を告げられていたからで、二度と会えないと思って泣いていたようです。知らなかったのは家内だけでした。

 成田には、長男が迎えに来てくれていて、栃木の友人のご両親が住んでおられていて、空き家になっている家に連れて行ってもらったのです。二日後に、獨協医科大学病院に、省立病院の紹介状を持って診察をお願いしましたら、総合診察科での診察の結果、即入院ということで、呼吸器アレルギー科病棟に入院になりました。入院中、この家を貸しくださったご夫妻の助けは溢れるほどでした。

 診断結果は、第四期の肺がんでした。余命半年とのことで、治療が始まり、保険扱いになったばかりの免疫力を強める新薬の「キイトルーダー」の投与が始まったのです。病院では、放射線治療を勧めてくれたのですが、子どもたちも家内も、放射線治療は希望しないむね、何度か持たれた主治医との面談で、主治医に伝えてありました。食べられず、毎日採血の連続で、家内は弱くなっていく一方でした。ついに頸部から栄養剤を注入する手術をしたり、体中が管で繋がれていたのです。

 子どもたちに、母親の病状や余命のことを伝えましたら、直ぐに、4人が家族を連れて駆け付けてくれました。ちょうどインフルエンザの大流行の時でしたが、一人のN看護師さんのご好意で、特例の面会が許されたのです。この方は、微に入り細にわたり、懇切に看護して下さっり、家内の慰めと励ましをしてくださったのです。『今夜が峠!』と言われる中、じょじょに回復をみせ、管の一本一本が外されて行ったではありませんか。家内は快方に向かい、家内が歩いてトイレに行く様子を見かけた看護師さんが、『アッ、歩いてる!!!』と驚き喜んでくれたそうで、もち直したのです。それで4ヶ月後に退院の運びとなったのです。

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 その年の暮れには、また子どもたち家族が、再び全員で集まることができ、たっての家内の願いの「家族写真」を、近くの写真館で撮り、日光のオリーブの里に一泊し、日曜日でしたので、集会場をお借りして、家族で礼拝を持つことができ、家内は、大喜びでした。

 『お母さん、世界中でお母さんのために祈っているよ!』と、子どもたちが言い、友人知人、主にある兄弟姉妹、家内の姉妹たち、私の兄弟たちからの祷援があったのです。県北の教会に牧師夫妻も、熊本の友人夫妻の教会の朝の祈祷会でも、祈りの手を上げていてくださると言ってくださっていたのです。華南の街で出会って、今は帰国されている日系企業マンの奥さまが、加賀や日田などの銘菓を送って激励してださったり、激励の便りをくださるみなさんがおいでです。

 家族にも勝るとも劣らない愛で支え続けてくださっている中国の教会のみなさんの愛と犠牲は、実に大きいのです。何組も何組も、わざわざお見舞いに来てくれました。漢方薬や健康回復の食べ物、教会の愛兄姉の愛を運んでくれたのです。昨年の暮れにも、おいでくださったのです。『あなたたちは「一家人(家族)」だから!』だと言ってです。

 家内の現実の病状を見るにつけ、信じられないほどの回復に、ただ主を認めることができたのです。それでも、一喜一憂、強い薬の投与の連続でしたから、体への損傷や副作用は大きいのです。あのキイトルーダーの投与の後遺症が現れて、身体に発疹が出たり、激しい痒みがあったり、なかなか太れない状況にあります。それで時々、シャワー時に、泣くこともあったようですが、家内は弱音を吐かず、主に信頼しての病との対決姿勢は素晴らしいと思っています。

 自分のことだけしか見えていないのではなく、ラジオ体操に出かけられるようになって、散歩もでき、駅のコンコースの街中ピアノを弾きに出かけられるようになってきています。この街に、主をあがめる賛美で満たしたいのだそうです。近所のみなさんやデーケアー仲間、そして近所のみなさん、訪ねてくださるみなさんへの思いを忘れていないのです。『あの人、どうしてるかしら?』と思うこと仕切りです。亡くなられた方のご家族や、弱くなったり、入院したりしているみなさんへの思いも強いのです。

 まだ、不安材料は溢れていますが、主への期待だけは満ち続けています。それでも、時々、『そろそろかなあ?』との思いがやってくるのです。病まなければ、その当事者の闘いの厳しさは分かりません。死と対峙しながら、もちろん誰もが、そういったところにあるのですが、今は、漢方医でもある、県の病院の医師に、漢方治療を受け始めています。総合的な診察をしてきださり、ことばによる激励もあって、感謝でいっぱいです。

 この医師は、「メディカル・カフェ in 宇都宮」と言う、癌と戦う患者さんと、医療従事者、ボランティア、家族の交流会にもやって来てくださっている方なのです。何よりも、『我はエホバ、汝を癒す者!』とおっしゃる主がいらっしゃるのです。その同じ信仰を持つみなさんからの応援を肌に感じながら、春の到来を待ち望んでいる今であります。創造主や多くの兄弟姉妹、友人たち、家族に感謝の五年の毎日です。

(華南の家の庭に咲いていた花、今咲く胡蝶蘭、宇都宮のおりおん通りです)

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