牧者

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 『わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ1011節)』

 牧場の羊は、いつも危険にさらされています。そんな羊が必要としているのは、「牧草」と「清潔な飲み水」と「休息」です。それがあることで、安らかに生きていけるのです。これらが備えられるために不可欠なのが、「羊飼い」です。どうしても、導き手がいなければなりません。

 まだ信仰を持ち始めた頃に、「羊飼いが見た詩篇23篇(W・フィリップ・ケラー著/いのちのことば社刊)」を読みました。著者のケラーは、実際に羊飼いをしたことがあり、何を羊たちが必要とされているか、その必要をどう満たすかについて知っていて、その本を記したのです。

 ここに《良い牧者》がいます。羊の群れのために、その一匹一匹のために、自分の命を投げ出した牧者の存在を、著者は明らかにしたのです。羊とは、彷徨える私たち人のことです。真実な羊飼いがいないで、狼が虎視眈々と襲おうとしていますし、粗悪で劣悪で不健康な草を摂取し、汚れて腐った水を飲み、安らかに眠るとこなく生きていた私は、この「牧者」と、青年期の初期に、幸いにも出会ったのです。

 その上、正しく判断することができず、邪悪な道に誘われ、滅ぶばかりの状況下で、拾われたのです。羊が頑迷であるのと同じで、わたしも、無力なのに自分勝手に生きて、結局は迷子になって、正しい道に戻れずに、深みに沈み込もうとした時に、首根っこを掴まれて、つまみ上げられたのです。この忠実な牧者なしに、わたしは生きてはいけないのです。

 動物の中で、羊は一番愚かだと言われます。わたしも愚かで、いつも混乱していました。主なる神、イエスさまが「牧者」となってくださってから、その羊飼いの手にある「鞭と杖」を使い分けて、叱責と助けと導きをしてくださって、今日まで生きてこられたに違いありません。

 教会時代の始まりに、「使徒」として召され、その職責を果たしたパウロにとっても、イエス・キリストは、「牧者」でした。そして彼自身も、諸教会を導いた牧者でした。テサロニケの教会に書き送った手紙に、どの様に、教会を導いたかが記されています。

 『それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。(1テサロニケ人278節)』

 わたしは、パウロが、どんな人、指導者、牧者であったかを、この箇所で知りました。「母が子どもたちを養い育てるように」と、「優しさ」で接したのです。漢訳聖書では、『如同母亲乳养自己的孩子」、お母さんが乳児を、乳房を含ませて養う様にして養い、振る舞ったと記しています。

 それは、「救い主」でいらっしゃるイエスさま、また「助け主」でいらっしゃる聖霊なる神さまと同じです。私たちへの接し方は優しいのです。わたしがバスケット・ボールをしていた中学の時に、鉄拳を使って、私たちを教えると言って、先輩たちが制裁したのとは、全く違うのです。

 同志社を興した新島襄に、「自責の杖事件」がありました。当時の英学校の二年生が、集団で授業の boycott(ボイコット)をしたのです。それは、「校則違反」で、『罰せよ!』という声が上がりました。出張から帰った新島は、教壇に立って、『今回の集団欠席は、私の不徳、不行き届きの結果起こったことであり責任は自分にある!』と言って、持っていた杖で自分の左手を叩き始め、杖が3つに折れるほどでした。

 これが、明治基督者の教師の姿でした。イエスさまが、信じる者たちの罪の身代わりとなって、十字架に死なれたのに倣って、新島は、自らに罰を課したのです。そんな新島に感銘を覚えたわたしは、同志社で学びたかったのですが、道は開かれませんでした。

 ここに、「良い牧者」がおられます。滅ぶばかりの瀕死のわたしを、永遠のいのちに救ってくれたお方なのです。義を愛し、真理を求め、隣人を愛して生きる生き方を教えられ、今日も生きています。

(“ Christian  clip art ” の「羊飼い」です)

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春まだき

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 芭蕉が詠んだ句に、次のような俳句があります。

 櫻がり きどく(奇特)や日々に 五里六里

 日本列島、電車に乗っても、バスに乗り換えても、山にも里にも、桜前線が北上して、樺太に至るまで桜が順次満開中です。山の木々の間や麓の林の中や路側や小学校の校庭の隅に、桜が見られます。雪の残る「平家の落人部落」では、これからの様でしたが、帰路の東武鬼怒川線も日光線も、車窓から満開の桜を見ることができました。

 芭蕉の頃にも、桜狩りは人気だったのでしょう。旅の途中、奈良の吉野山を、桜咲く時季に訪ねたのでしょうか、人は五里も六里も、咲く桜に誘われて逍遥して、観桜を楽しんでいました。そんな人たちが、桜を追いなら、いつの間にか遠くに行ってしまって、その疲れを《花疲れ》と言うのでしょうか。

 豊かな水資源を、宇都宮市、茨城県、千葉県などに、「都市用水」として供給するために、また地域の洪水対策にのために建設されたのが、「湯西川ダム」、「五十里(いかり)ダム」です。小雨の中を、バスの車窓から、その美しい湖面を見ることができました。でも、まだ少し早いのでしょうか、山肌にポツンポツンと咲く桜花は見ることができませんでしたし、山里にも、まだ桜の開花は早かったのです。

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 花を見たわけではなかったのですが、『泊まっておいでの宿の湯は、湯西川でもとても良いんです!』と、蕎麦屋の女店主に言われて、早朝5時に散歩に出かける前に一度、午前に一度、午後に一度、夕食後に一度と、温泉を楽しんで、電車に揺られて帰ってきたら、めずらしく頭痛に見舞われてしまい、夕食後、早々と床についてしまいました。

 頭痛持ちでない私にも、ズキズキと一息ごとに痛みがやってきて、夜中の2時ごろまで眠れませんでした。そのうち痛みが引いたのでしょうか、朝まで眠ることができ、定時の5時半に起床したのです。寝る前、玄関の棚に、獨協医科大学病院の診察券と、健康保険証を用意し、『酷い鼾(いびき)がしてきたら、救急車を呼んでね!』と家内にお願いしたのですが、使わずにすんでしまいました。父が、脳溢血で召されたので、父似の自分ですから注意したのです。

 湯西川の瀬音、鳴く鳥の音、梢を揺する風の音ばかりを聴いて、好い音を聞き過ぎたのかも知れません。帰栃して街中の音についていけなかったのでしょうか、初めての頭痛体験でした。春先の《花疲れ》、いや〈湯当たり〉だったかも知れません。

 春まだき うぐいす鳴きて 平家の野

 桜なき 湯西の里に 花疲れ

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春雨

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 『神はそのいなずまを全天の下、まっすぐに進ませる。それを地の果て果てまでも。そのあとでかみなりが鳴りとどろく。神はそのいかめしい声で雷鳴をとどろかせ、その声の聞こえるときも、いなずまを引き止めない。神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きな事をされる。(ヨブ3735節)』

 「二十四節気」で、旧暦三月、いまの4月を、「穀雨」と言うのだそうです。今週月曜日に訪ねました湯西川で、バスを降りましたら、冷たい雨が降っていました。宿までは舗装されていましたが、雨具持参でしたが足元が濡れてしまったのです。宿の着きますと、『お迎えに上がりましたのに!』よ、女主人が言ってくれました。

 「時雨」と書いて、しぐれと読みます。“gooデジタル大辞泉樹雨の用語解説木の葉や枝についた霧が水滴となって落ちること。 また、その水辞書には、「『1 秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨。《冬》「天地(あめつち)の間にほろと―かな/虚子 時雨煮」の略。 涙ぐむこと。涙を落とすこと。また、その涙。』とあります。

 わたしたち日本人は、この雨に特別な気持ちがあるのかも知れません。別名があって、「夕立」、「俄雨(にわかあめ)」、「通り雨」、ちょっと難しい漢字で、「驟雨(しゅうう)」と言ったりします。動詞でも、「時雨れる」と言う表現があり

 日本では、「雨」を様々な言葉で呼んできています。思いつくものも幾つかありますが、調べてみましたら、こんなにありました。

春雨(はるさめ)春の菜種梅雨の頃の弱く降るもの、

緑雨(みどりあめ)新緑の頃に降るもの、

翠雨(すいう)青葉に降りかかるもの、

村雨(むらさめ)降ったと思うとすぐに止んでしまうもの、

瑞雨(ずいう)穀物の生育の益のために降るもの、

秋雨(あきさめ)秋にシトシトと降る長雨

麦雨(むぎあめ)麦が熟する頃に降るもの、

甘雨(かんう)草木を潤すために降るもの、

霧雨(きりさめ)霧だか雨だか判別できない様に降るもの

五月雨(さみだれ)田植え時期に降る長雨、

樹雨(きさめ)木の葉や枝についた霧が水滴となって落ちるもの、

喜雨(きさめ)日照り続きの日に降ってくる恵みの雨、

慈雨(じう)雨が降らないで待ち望んでいたときの恵みの雨、

小糠雨(こぬかあめ)小糠の様な細かくシトシトと降るもの、

涙雨(なみだあめ)ほんの少し涙の様に降るもの、

白雨(はくう)空が明るいのに降る俄雨、

氷雨(ひさめ)冬に降る冷たい雨で雹(ひょう)と言うこともある、

私雨(わたくしあめ)全域ではなく限られたところに降るものもの、

 夏場のセミの鳴き声(本当は声ではなくセミの体を知り合わす音なのだそうです)を聞きますと、暑さを抗議してる様に、強く感じられます。降ってくる様なので、「蟬しぐれ」と言うそうですね。中国の南の街で聞くと、特別に暑く感じてなりませんでした。夏場になると初めに聞こえてくる『ジィージィー!』から、『カナカナカナ!』に変わってくると、暑さも一段落するのでしょうか。

 このところ、「雷都」と呼ばれる宇都宮に近い、ここ栃木では雷の声が聞こえてきません。遠くから徐々に近ずいて、雷光があって、大音響の雷鳴が鳴り渡って、大雨が降るあの勢いが大好きな私は、ちょっと寂しいのです。季節が進むと、聞こえてくるでしょうか。車軸を流す、そんな雨を、長く過ごした華南の街では、「陣雨zhenyu」と言っていました。今ごろの季節には、大音響の雷鳴が、天空をゆする様に、お腹の中に響き渡る様に聞こえていたのを思い出します。

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ローカル鉄道

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 童謡の「汽車ポッポ」は、作詞が富原薫、作曲が草川信で、リズミカルなメロディーで、子どもたちが大好きでした。

汽車(きしゃ) 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
僕等(ぼくら)をのせて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
スピード スピード 窓(まど)の外
(はたけ)も とぶ とぶ 家もとぶ
走れ 走れ 走れ
鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
汽笛(きてき)をならし
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
野原だ 林だ ほら 山だ
走れ 走れ 走れ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

汽車 汽車 ポッポ ポッポ
シュッポ シュッポ シュッポッポ
けむりをはいて
シュッポ シュッポ シュッポッポ
ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
明るい 希望が 待っている
走れ 走れ 走れ
がんばって がんばって 走れよ

 ポッポ シュッポ シュッポ シュポッポ"の蒸気機関車など、電化と共に消えて行き、映画やアニメ、Youtubeなどでしか見られなかったのですが、最近では、あちらこちらで観光用に復古されているのです。今回、東武日光線、鬼怒川線、野岩鉄道を利用したのですが、どこかの駅で、蒸気機関車を見かけたのです。

 コロナ禍以前、日光の宿泊施設に出かけた折、下今市駅で見かけることがあって、週末に運行されていた様です。でも、また再開されるのでしょうか、「大樹」と名付けられた東武線の観光用の蒸気機関車でした。

 中学の時に、立川駅から五日市線が出ていて、中央線が電化されていたのに、ローカル線なので最後まで、蒸気機関車に牽引される列車が運行のために残っていたのを覚えています。〈鉄ちゃん(鉄道フアンの呼称です)〉ではない私でも、あの蒸気と煙に、何とも郷愁を感じてしまいます。蒸気で車輪を回す力強さは、男の子の憧れだったのではないでしょうか。

 中央線は、笹子峠の手前で、スイッチバックをしていました。一気に登り切ることが、蒸気機関車ではできなかったのです。記録映画で観たことがあるのですが、東北のローカル線では、3台の蒸気機関車で牽引しないと登れない峠もあった様で、今では廃線になってしまいました。とにかく、夏場、トンネルに入ると、一斉に窓を閉めなければなりませんでした。開けていたら煤煙が入り込んでひどい目に会うからです。

 何でも手でする時代で、面倒でしたが、全てが自動になってしまった今になると、何もかもが懐かしくて、便利さの陰で、情緒が失われてしまったことが悔しいくらいです。駅で窓を開けて、駅弁とお茶と氷ミカンを買って食べさせてくれた父や母の顔が浮かんで参ります。窓から出入りしたこともあったのです。

 もう、ほとんどの特急電車や寝台電車がなくなってしまったそうです。ゆっくりと汽車の旅ができなくなってしまいました。亡くなられた鄧小平氏が訪日され、初めて東京から「東海道新幹線」に乗られた時、『後ろから押しこくられる様でした!』と感じたと言われていました。そうですね、私も無理に急がされている様に感じてなりません。これからは、ゆっくりと旅も人生も過ごしたいものです。

 東武鬼怒川線の新藤原駅から、「野岩(やがん)鉄道」が35年ほど前に開通され、今では、会津若松駅に繋がっているのです。その湯西川温泉駅は、地下にあって、会津方面は、ホームの先に、湯西川の鉄橋が見えます。その先は福島県で、白虎隊の会津に行くことができるのです。

新藤原駅方面は、長いトンネルが続いていますから、もし蒸気機関車の牽引の列車でしたら、煤で顔も何もが真っ黒になっていることでしょう。今回の旅行(栃木県の県内の旅でした)で、すっかり、ローカルの鉄道への興味が湧き上がってしまいました。都会人よ、コロナが明けたら、街を後にして、ローカル線の旅に出よう!

(「野岩鉄道の湯西川温泉駅に着こうとしてる電車、路線図です

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平家の里にて

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下の数字記号は video です。

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 結婚記念日で、訪ねた訪問先は、旧栗山村(現在は日光市に合併されています)です。〈最後の村〉だったそうですが、住民は、合併には賛成でなく、平家の落人の誇りを守りたかったのでしょうか。

 この街中を、湯西川が流れています。奥山から流れくる清流なのです。その川床が「粘土質」で出来ています。それを「滑床(なめどこ)」と言います。小学生の頃に、多摩川を渡る旧国鉄の鉄橋下に、ここと同じ粘土質の川床で、その上に橋脚が置かれていて、潜ると、それを見ることができました。

 川に足を入れてはみませんが、流れを見ますと、浪床の上を綺麗な水がしぶきを上げて流れていました。その瀬音に慰められます。35年ほど前に、野岩鉄道が営業を始めてから、両室な温泉をねあての観光客が来られる様になったそうです。

 お昼ご飯に、蕎麦屋に入り、食後、店の前の商店に入りましたら、地味との方が話しかけて来て、『移住してらっしゃいよ!』と誘われてしまいました。散歩しますと、廃屋も多く、しっかりした家屋も、住み手がおられないままの家が多くあります。

 この村を出て、生活を確立されている世代は、戻ってくるのは、大変だろうなと思ってしまいます。診療所、警官の駐在所、消防支署、小さな美容室があり、食材は引き売の車が、週に2回来るのだそうです。

 宅急便の車を見掛けましたから、まあ、生活に困ることはなさそうです。移住への誘惑は、ちょっと考えさせられてしまいました。余所者(よそもん)を受け入れてくれそうですが、通院の便を考えると、1日6便のバス運行では、大変そうです。こう言う時に、『運転免許証の更新をしておけばなあ!』と悔やんでしまいます。

 こんな自然美、天然感を味わえたら、少々の不便も苦にならなさそうです。救急ヘリコプターで、駆けつけてくれそうですし、重く誘惑されてしまいました。

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助言

 

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 『彼とともに育った若者たちは答えて言った。「『あなたの父上は私たちのくびきを重くした。だから、あなたは、それを私たちの肩から、軽くしてください』と言ってあなたに申し出たこの民に、こう答えたらいいでしょう。あなたは彼らにこう言ってやりなさい。『私の小指は父の腰よりも太い。(1列王1210節)』

 人は、だれでも初めての人生の出来事、事件、体験をしようとする時に、『どうしようか?』と迷います。それまで経験したことがない局面に立たされて、迷ったり、悩んだりしてしまいます。だれかからの「助言」を必要としています。その時に、大切なのは、『だれの助言に聞くか?』です。これほど、大切な問い掛けはありません。

 イスラエルの王家の後継者であったレハブエムは、父の時代の悪政を改めてほしいと陳情者たちがやって来て、税の軽減を願ったのです。どんな内容だったかが、記されてあります。

 『あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」(1列王124節)』

 その陳情を聞いた彼は、〈父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たち〉に聞きました。

『彼らは王に答えて言った。「きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。」(127節)』

 それは穏やかの忠告だったのです。この長老たちの進言に、彼は聞くべきでした。ところが、その長老たちの助言を退けて、〈彼とともに育ち、彼の仕えている若者たち〉の意見を聞き入れてしまったのです。彼が元々目論んでい多物に、若者たちは、〈ヨイショ〉をしただけでした。

 仕事柄、多くの人が相談にやって来られて、お聞きしたことがわたしたちにありました。ある人たちは、もう自分の思いの中では、どうするかを決めてしまっていて、その決定の確証でしょうか、承認、同意を得たくて来られるのです。その方たちの決定ではない、反対の助言を私がすると、怒り出して帰って行かれました。

 進学、就職、恋愛、結婚、誕生、家庭、金銭、生活、終活、葬儀などなど、いつも初めて直面する場面、また繰り返される問題が、人生には溢れています。「双六(すごろく)」が、一歩一歩、サイコロを振って進んでいく様に、〈上がり〉の時が迫っている今、《どう終えるか》が、喫緊の課題です。

 死に逝く人の手記などが多くありますが、「死後の命」のあることを信じている私は、ある面では不安解消されているのです。でもやがてやって来る、この新体験、未知の「死」について、どんなことなのだろうと思うことが多いのです。

 『主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。 (詩篇394節)』

 これはダビデのことばですが、まさにわたしのことばでもあります。〈生のはかなさ〉ですが、これを無視することはできません。「儚い」と漢字表記をしますが、ここにだけ思いを向けますと、「死」に圧倒されてしまうのが人です。だから、死の対にある「生」に思いを向ける様に、聖書は、《生きること》を多く語るのです。

 『まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ・・・主を求めて生きよ。(アモス546節)』

 これが聖書の勧め、助言、命令なのです。生かされている間、おのれの生を生きる責任を負っているのです。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ316節)』

 人の「生」は、《永遠》に向かってのものであって、〈今生〉だけのものではないと、聖書は言うのです。人の齢(よわい)は70年、健やかであっても80年」で、その限られた年月を、ヨロk9んだり、悲しんだり、傷つけたり、傷ついたり、癒されたりの切り返しを過ごすのです。さあ、「真実な助言」に聞き従って、生きてまいりましょう。

(”キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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落人部落

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 日本全国に、「平家落人部落」があるそうです。『おごる平氏にあらざれば人でなし!』と権勢を極めた平氏は、「源平合戦(承久の乱などがありました)」で敗れてしまったのです。政権を握ったのは源頼朝でした。その頼朝の執拗な追跡を逃れて、平氏は全国に四散してしまいます。安住の地を求めて、宇都宮に逃れてやって来た一族は、そこから、この湯西川の地にたどり着いて、住み始めたと言われています。

 東武鬼怒川温泉駅からバスに、家内と二人で乗り(乗客は他に途中で降りたご婦人と途中で乗って来られた老年の男性の二人でした)、1時間ほどの山道を、バスに揺られたのです。こんな奥深い地に、どの様にして、山を越え、川を渡って来て、住み着いたのでしょうか。死を逃れるための必死さがあっての今なのでしょう。

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 その昔、男の子を産んだ母親が、それを愛でて「鯉幟(こいのぼり)」を挙げたのが、源氏の追跡団に見つかって討伐されたのだそうで、逃れた者たちの子孫は、今でも鯉幟は挙げないのだそうです。度々の火事で、古文書などの記録は消失してしまっている様です。また戦時中には、残されていた刀や槍などは持って行かれ、鉄兜や弾丸になってしまったのです。

 明け方に、ペンションの近くの白樺の林の中で、鶯が鳴く声がしていました。残雪の残る道を、峠まで散歩して来たのですが、何か趣が感じられ、源氏の末裔の私は、思うところ様々でおります。山懐に、こんな部落があって、電車(野岩鉄道)が開通してから、温泉地として脚光を浴びた様です。源平の代(よ)って、どんな時代だったのかと、鎌倉武士の末裔の父の子ととして、思うことの不思議さを覚えてしまいました。

(湯西川上流、平氏にまつわる記事です)

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盗まず生きよ

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 『二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言3079節)』

 子どもや若い頃に習慣化されたことが、正しく処置されていないと、何かの非日常的な出来事、恐怖体験などと相まって、再犯させてしまうと言う事例を、信州松本のキリスト教会で聞いたことがありました。

 と言うのは、「万引きをした女校長」の話が、例話として語られていたのです。退職間近の校長が、警察に捕まったというのです。彼女は、若い頃に数度万引きをしたことがあったのだそうです。見つかりませんでした。教師になり、社会的に責任があった時には誘惑を拒むことができたのですが、退職が間近に迫っていて、不安な精神状態になったのでしょうか、つい手が出てしまったのだそうです。

 あの時、現場を見つけられ、罪の処置がなされていたら、その女校長は、同じ万引きで逮捕されるようなことはなったに違いありません。もう亡くなられた作家ですが、井上ひさし氏が、中学生の頃でしょうか、本屋で、「英和辞典」を万引きして、店番をしていたお婆さんに見つかったのだそうです。

 このお婆さんは、警察に電話をしなかったのです。その代わり、ひさし少年を裏庭に連れて行き、薪割りをする様に言います。彼が、言われた薪割りを終えると、「700円」の報酬をもらったそうです。本代として「500円」を差し引いてです。それで、欲しかった辞書は、正当に自分のものになったのです。そして、「200円」をいただいて帰ったそうです。

 それ以降、その苦い思い出があったので、二度と万引きをすることなく、井上ひさし氏は生きられたそうです。私にも万引きの過去があります。他人事ではなく、私が少年期を過ごした街に、「キヨちゃん」という駄菓子屋がありました。おばさんが後ろを向いた隙に、店に並んでいたものを、万引きしたことがたびたびあったのです。

 こすっからかったからでしょうか、見つからずに大人になってしまいました。でもその盗癖は治らず、高校生の時にも、時々やっていたのです。25歳で、やっと救われて、基督者となり、何と学校の教師になってもいた頃、そのキヨちゃんに、謝罪をする様にとの、強い思いに迫られたのです。それで3000円を持って行って、あのキヨちゃんに、子どもの頃の盗みをお詫びして手渡たそうとしました。それに目を丸くして驚いたおばさんは、『いいよ、もうそんな!』と言いましたが、封筒に入れたお金を、キヨちゃんの手にねじ込んで、礼をして急いでその店を出たのです。

 神の前で、わたしは罪赦されたのですが、被害を与えや相手には詫びたり、償わななければならないと思ったからでした。父は、ケーキや饅頭やソフトクリームやあんみつなどを買ってきては食べさせてくれていましたから、ひもじかったわけではないのに、悪い癖が身についてしまっていたのです。

 今でも一瞬、心の隙に、誘惑がやってくることがあるのです。これって、自分の意思で封じ込むことができないのかも知れません。一度、悪事に手を染めてしまうと、そういった誘惑への思いは、いつでも沸き立ってくるのかも知れません。

 箴言の記者は、人は、自らを律し切れないものがあることを言っているのでしょうか。そう魂の監督者に向かって、懇願しているのです。この年齢になって、生ける神の御名を汚さずにで生きていける様に、わたしも懇願している老いの今であります。

巴波の春

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 窓の下を流れる巴波川を眺めていると、時間が time slip してしまった様に、江戸の代に、都賀舟(米俵を五十俵ほど積める浅底の舟)で、渡瀬川の部屋まで下った様子が目に浮かんできそうです。そこで荷を、高瀬舟に、積み替えたのだそうです。

 この江戸に向かう舟には、米、麦、味噌、野菜、木材、薪炭、石灰、獣皮などを乗せたそうです。逆に、江戸からは、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが積まれて来て、部屋の船着場で、荷を載せ替え、「水夫(かこ/船頭)」と呼ばれた人足が、綱を引いて、栃木の河岸まで運び上げたのです。

 川の端には、「綱手道」が残されていて、三尺(1m)ほどの幅の道を、草鞋(わらじ)ばきで、手綱を肩に引き上げたのです。ものすごい重労働に従事する人たちがいたと言うことです。その河岸には、蔵があって、そこに運込まれて、商人たちが売り捌いたのでしょう。買うと、肩に負ったり、牛馬に轢かせた荷車で、各地に運ばれてたのでしょう。

 今住んでいるアパートの前の大家さんは、その船主だったそうで、売り上げの出納帳などを見せていただいたことがありました。ですから、ここ商都栃木は、長く繁栄していたのでしょう。喜多川歌麿を支援した旦那衆が、その船主たちだったそうで、江戸文化の流れに触れてもいたのでしょう。

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 巴波公園の近くの塚田家の船着場に、今は遊覧船に替わって、一人千円で船遊びをする客たちが、船頭歌を歌う声が聞居ている姿を、昨日も見かけました。

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

 きっと、桜が開いた今頃は、船の行き来が賑やかだったのではないでしょうか。今日も、市役所の帰りに、家内と川辺の道を歩いたのですが、川面の両岸に、今年新しくされた鯉幟が渡され、その数は、1000匹だそうです。綱に引っ掛かってしまった鯉幟を、家内が綱を揺すって、解いてあげていました。ちょっと寒い日でしたが、春到来です。

 

(巴波河畔に昨日咲いていた桜です)

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白いまんま

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 1952年から、NHKにラジオ放送で、夕方6時30〜50分に、「新諸国物語」と言う、子ども向けのラジオ番組が開始されました。冒険時代活劇で、映像がないラジオ放送でしたから、想像しながら聞き入っていたのが、わたしたちの世代の子ども時代だったでしょうか。

 いくつかの series で、「紅孔雀」 とか「笛吹童子」が放送されていて、夕ご飯を食べるためではなく、これを聞くために、遊びを終えて家に帰り、ラジオの前に、ちょこんと座っていた記憶があります。後に映画化もされていました。

 その中に、「風の小六」と言う、主題歌があって、今でも歌えるのですから、どれほど集中して、聞いて、想像し、手に汗をしながら聞いていたかが判るでしょうか。

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
明日の 明日の天気が 変ろぞえ
やんれ やんれ やんれさ

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
白い 白いまんまが くえよぞえ
やんれ やんれ やんれさ

風の小六は 泣かぬぞえ
泣いたとて 泣いたとて
月が 月が四角に なろうぞえ
やんれ やんれ やんれさ

 今夕のネット記事の中に、東映フライヤーズで野球選手として活躍し、安打数で抜群の成績を残したい、張本勲氏が、《白いまんま》について言及していました。『慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した!』とです。親友の慎ちゃんは、江藤慎一氏で、チームは違っていました、気心の知り合った仲間だったのでしょう。

 この江藤氏は、もう亡くなられたのですが、兄たちの世代のプロ野球選手で、とても良い選手でした。張本勲氏は、広島市の出身で、投下された原爆の被爆者でもあります。お姉さんは被曝して亡くなっておいでです。江藤慎一氏も、貧しい中を生き抜いた人だったそうです。文の立つ人で、江藤氏は次の様な記事も寄稿していました。

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わが輩はバットである―
ボール君は愉快そうに飛んでいった。若手では島野(育夫)選手の鋭いスイングにびっくり。与那嶺コーチの満足そうな顔を、わが輩はチラリと横目でみてすぐボール君に向かっていった。しかし、一つだけさみしい気持ちになったのは、練習が終わるとポイとわが輩を投げ出し、柔らかい泥がついたままケージの中にうち置かれることだ。「なんだい、打つときだけ大事そうにして」と仲間同士で怒っているうちにマネージャーの菅野さんとスコアラーの江崎さんがベンチまで運んでくれた。わが輩たちはさっそく緊急会議を開き、そういった選手にはホームランをレフトフライにすることに決めた。

 野武士の様な九州男児で、素晴らしいプロ野球に選手でしたが、70歳で亡くなられています。戦時下に生まれ、戦後を逞しく生き抜いた人です。貧しくて、新聞配達をし、アイスキャンディーを売りながら家計を助けた少年時代を過ごした人でした。懐かしく親友を語っている張本氏も、戦後、お父さんを亡くして、お母さんの手一つで育てられています。苦労した者同士の友情だったのでしょう。

今も戦火の中のウクライナでは、家が壊され、祖国を追われ、多くの人は亡くなっています。さらに食糧に窮しているのです。食べられない苦痛というものを、この21世紀にも味わっているわけです。それが戦争のゆえであって、パンが食べられない人々が、飢えを味わっているのです。ここ日本でも、パンやうどんが値上げされ、電気代やガソリン代も高騰し、何も良いことを生み出さないでいる戦争が、集結する様に願う、卯月(うづき)4月1日です。

(「巨人の星」の少年・星飛雄馬です)

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