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 鏡に映る自分の顔を、毎朝見ています。髪が薄くなって、シミが出て、張りのなくなった顔ですが、親に似た、父に言わすと、『俺の親父にそっくりだよ!』と言っていた顔です。たとえ老けても長く付き合ってきたので、《今をよし》としなければなりません。

 子どもたちに似てる、いえ、子どもたちが似てるのですが、そう何度も言われます。その上、孫の表情に、自分の顔を見ることがあります。やっぱり血は争えないかなって思うことしきりです。

 昨日は、ちょっと体調が思わしくないので、日帰り温泉に出かけました。歩いて四千歩ほどの所にあって、平成173月に地下1,000mから泉温47.1℃で湧出した、「炭酸水素塩温泉(重曹泉)」だそうで、日本では「美人の湯」、「冷の湯」、またヨーロッパでは「肝臓の湯」などと呼ばれてるようです。

 見知らぬ土地で住み始めて、3年あまりになりますが、知り合いは少なく、『お久し振りです!』なんて言う人と会うことなど、いまだにありません。湯船に浸かって、入っている人、入ってくる人の「顔」を見ると、たくさんの方と出会ってきた私は、その一人一人の、顔に歴史を感じてなりません。

 今は、「黙浴」で、会話が禁止されていますから、顔をチラッと見るだけで、壁や湯の動きや雲の動きを見るだけで、ただノンビリしてるだけです。ときどき、『何をされてこられたのでしょうか?』と聞きたくなる衝動に駆られますが、ガマンして温泉を楽しんでいるだけです。でも一度、その温泉で、逆に何をしてきたかを聞かれてしまいました。

 ときどき若者、子育て世代の方がいますが、ほとんどの方が同世代なのです。若い時には、肌に艶があって、張りがあったのでしょうけど、シワやたるみは如何ともし難いのでしょうか、筋肉労働をした方、事務をしてきた方など、想像を逞しくしています。何せすることがないのでから、「人間学」の復習と総まとめをしているのです。

 温泉にも、ネットに映し出されたり、多くの顔を見ていますと、実に《いい顔》の方がいます。作りではなく表情というか、生き様でしょうか、惚れ惚れするような顔です。人と接する仕事をしてきましたし、あちこち出かけて、多くの人と会ってきましたので、リンカーンならずも「顔」に関心があるのです。リンカーンは、『40 歳になったら、人は自分の顔に責任を持たねばならない!』と言ったからです。

 また、〈わるい顔〉もあります。心が、してきたことが、思っていることが「顔」に、出てしまうのです。これは人相見ではなく、人間学でしょうか。人とお会いしてして、その表情が隠し切れないものがあるのです。一見柔和そうですが、そうでない醜悪なものが潜んでいるのです。

 自尊が喪失してしまったもの、高慢で傲慢なもの、猥雑なもの、強欲なものが見えます。それとは逆な「顔」があってホッと胸を撫で下ろしますが、母に示され、心の中に銘記した言葉があります。

 『鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。(イザヤ222節)』

 これは決して人間不信を勧めているではありません。人間の制限や限界を言っています。その上で、信頼すべき創造の神に向けるような「信頼」を、人には持たないことです。そんな限界の中にある人物でも、西郷どんは、幕末に明治にも、私欲にとらわれない、優れた価値観の中にいた人だったのでしょう。弟の顔から兄を描いた肖像画の西郷どんは、「いい顔」の人ではないでしょうか。

 それで、再び、鏡の中の自分の顔を覗いています。「明鏡止水(めいきょうしすい/澄み切って落ち着いた心)」を願う、雨の朝です。

(“ラベル印刷ねっと”による西郷どんのイラストです)

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ミニトマト

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 今年の4月頃に、ミニトマトの種を鉢植えに植えました。根付くまでに、随分と時間がかかって、『芽が出るのかなあ?』と心配していました。これまで、苗のトマトは植えて育てたことがありましたが、農薬を使わなかったので、ほとんど収穫がなく失敗に終わっていました。

 5月の初めに、やっと芽が出てきたのです。成長は遅かったのですが、葉が出てくると、綺麗な青葉がベランダいっぱいに広がって行き、室の中から見る、その様子は素晴らしいものがありました。実も美味しかったのですが、葉の緑に癒される日々でした。

 そのミニトマトが、葉が落ちて最後の三つになってしまいました。隣近所に配ったほどでしたが、昨日の朝の赤く色づいた二つの写真です。東京郊外に住む弟も、ベランダ菜園で、インゲンとか茄子とかミニトマトとか、いろいろと栽培していて、味噌汁の実やサラダに使っているそうです。彼に、育て方を教えられて世話をしたミニトマトの最後の三つ、そのうちの二つです。

 今日は、きっと最後の収穫になると思いますが、家内と一つづつ感謝しながら食べるつもりです。もう一個、青い実が残っているのですが、熟すでしょうか。花はまだ50ほど黄色く咲いていますが、天候が思わしくないので、実るのは難しそうです。美味しかった!

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 石川啄木が、明治431910)年726日に詠んだと言われる短歌に、「一握の砂」があります。

はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る

 生活苦など、まったく経験したことのない私でも、これまで働いてきた日々を思い返して、さまざまなことに、この「手」を使ってきたのを思い出しているのです。私は右利きですから、利き腕の「右手」なのです。

 子どもの頃に、父の机の引き出しにあった driver を手にして、手当たり次第に、機械のネジを回して解体してしまいました。どうなってるのかが知りたかったからです。その父の机の上にあった打電機を打って、海の向こうの国のことを考えていました。そんな科学する子を、父は叱りませんでした。

 学校に行って、教科書やノートの頁をめくり、ノートや作文用紙や試験用紙に字を書いたり、絵を描いたり、黒板に chalk で、答を書いたことも、雑巾で床を拭いたこともあります。同じ手で、いたずらしたり、人を叩いたりしていたのです。

 中学受験で、受験申込用紙に必要事項を書き込んだでしょうか。中学でbasketball 部、高校で handball 部に入って、ボールを投げたり、体育館の床に mop を掛けたり、ground 整備をしました。

 入院した母を見舞って、体を吹いたり、家で、食事の用意で、米を研いだり、調理をしました。父ばかりにさせられないので、洗濯もし、綻びを直そうと縫い物で針も持ちました。買い物も掃除もしました。

 Arbeit(アルバイト)で、機械を動かし、ノコをひいたり、金槌で釘を叩いたり、糊をつけたり、紙を貼ったり、野菜や果物の入った箱を運んだり、野菜を切り刻んだり、case に陳列したり、後片付けをしました。

 車や自転車の handle を握っての運転、結婚してから、家内の手伝い出産入院の不在時に、おしめ洗い、洗濯物干し、食事の用意、自転車や車での送り迎え、病気で入院している方の訪問で運転、家内の手を引いて海を渡り、中国のみなさんと握手をし、子どもの頭をなで、ticket を手に握って、電車やバスや飛行機に乗りました。

 今、この手を使いながら、家事をこなし、自転車の handle を握り、あちらこちらと出かけているのです。これから、市役所に用で出かけ、散歩をします。その前に、椅子に座りながら、じっと手を見る朝の私です。

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日の出前

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   8月の末から、ずっと雨や曇りでしたが、やっと太陽が見える様になった、一昨日の朝の東の空です。やっぱり晴れて、陽が射してくるのは気持ちが晴れやかになります。昨日も今日も晴れ、でも今日の午後からはまた雨のようです。好い一日をお過ごしください。

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木を植えた男〜4〜

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 1939年まで、森林は被害をこうむらなかったのです。ところが、その年に第二次世界大戦が始まりました。自動車は、当時まだ木炭ガスで走っていたので、木材が大量に必要になってしまいました。そこで、1910年に植えたカシワの木から、伐採の手がつけられたのです。ところが、自動車道から遠くて、会社は採算が合わないとのことで伐採をあきらめてしまいました。

 そんなことは、この老人は何も知りませんでした。そこから30キロも離れたところで、相変わらず、至極平和に仕事を続けていたからです。第一次大戦時と同様、第二次大戦中も、彼は黙々と木を植え続けたのです。「わたし」が、最後にアル・ブフィエ氏に会ったのは、1945年7月ことでした。彼は87才になっていました(注:「わたし」が出会って32年が経過しているのです!)。戦争による破壊の爪痕の残る荒涼とした道を辿っていました。

 その頃、デュランスのた谷間を、長距離バスが走っていたのです。昔歩いて通った場所が、すっかり変わったのは、その橋がスピードを上げて走るせいと思われたのです。道筋を間違えたかと不安に思うほどでした。バスから降りたところは、ヴェルゴンという村でした。1913年当時、この村には11、2軒の家があり、住んでいたのは三人の粗野な人だけでした。彼らがいがみ合いながら暮らしていたのです。未来への夢もなく、気品や美徳を育むような環境でもなく、彼らはただ死を迎えるために生きていたようでした。

 ところが今はすっかり、空気までほこりっぽい風のかわりに、甘い香りのそよ風がまわりを包むように変わっていました。山のほうからは、水のせせらぎの音が聞こえてきたのですが、それは森にある木々のさざめきの声だったわけです。水音も聞こえてきたのですが、それはなみなみと水をたたえる噴水からの音だったのです。さらに驚いたのは、そのそばに一本の菩提樹が植えられていました。葉の茂り具合によると、四年ほど経っていて、「この地の再生の象徴」のようだったのです。

 さらに、ヴェルゴンの村には、「未来への夢」とか「労働への意欲」がみなぎっているではありませんか。新しく五軒の家が建てられていました。村の人口も、28人に増えていたのです。その中には、四組もの若夫婦もいます。しっくいに塗られたばかりの家々は、菜園に囲まれていて、さまざまな草花が植えられていたにです。そこに、「わたし」は住んでみたいと思うほどでした。

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 踊り出したいような弾む足取りで、「わたし」は先へと道を急ぎます。「生命の息吹」は、父位からほとばしりでていたのです。見渡すばかりの山の裾野には、青い穂麦の畑が広がって、こころをなごませていまあう。狭い谷間には、緑の牧草が映えて、見下ろせています。わずか8年ほど経っただけなのに、「生気とやすらぎ」が村々にみちあふれています。幸せとくつろぎを生む、みごとな耕地に変わってしまったのです。

 古くからある源の水が、森がたくみに調節したのでしょう、あめや雪どけの水をほどよく加えて、流れがとうとうと水を押し流しています。それを村人はせきとめて水路をつくり、その新鮮な水を田やハッカ畑に送り込んでいるのです。

 村々が再興していきます。平地に住んでいた人々が、そこに移住してくるほどで、この一帯に、「若さと冒険心をもたらした」ほどです。若い男女の笑い声や喜びの声が上がっています。昔の住人は、いがみ合っていたのに、今やみなさんが生活を楽しんでいるのです。そこには一万人以上の人たちが、その幸せを、エルゼアール・ブフィエ氏に感謝しなければならないはずです。

 たった一人の男が、肉体と精神をぎりぎりに切りつめて、荒れ果てた地を、幸いな地としてよみがえらせたことを思う時、「私」は、やはり人間の素晴らしさ讃えずにはいられないのです。「魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神」、「心の寛大さのかげにひそむたゆまない熱情」、それらがあって、はじめてすばらしい結果がもたらされるのです。この「神の行いにもひとしい創造」をなしとげた名もない老いた農夫に、「わたし」は、かぎりない敬意を抱かずにいられないのです。

 1947年、エルゼアール・ブフィエ氏は、バノンの養老院において、やすからかにその生涯を閉じました。(おわり)

 ✴︎ 「わたし」の括弧や、丁寧語の表現も、ひらがなを漢字にしてしまったり、訳文を転載する時に、ブログ執筆者の私が勝手に変えています。ぜひ、お読みください。名のない羊飼いの後半生に、挑戦されています。映画化されてもいますので、youtube で鑑賞できます。
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明治の光

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 まだお酒を飲んでいた若い頃、酔っていた私は、電車の中だったか駅のプラットフォームだったか、『妻をめとらば才たけて みめ麗しく情けあり・・・♭(「人を恋る歌(作詞が与謝野鉄幹、作曲者不明)」』と歌っていたら、聞いていた初老の紳士が、『いいですね、そんな歌を歌うんですね。君、「才長けた妻」なんていないよ。でも出会えたらいいですね!』と声を掛けてくれたことがありました。

 よく声を掛けてくれたものです。小生意気な私に、そのまだ純粋さを、そう言って心配してくれたのでしょう。よく本を読みました。今では〈本を読まない学生〉が多くいるそうで、日本中で本屋が閉まり始めて、もうずいぶんになります。与謝野鉄幹の明治や大正や昭和の学生さんは、書を読んだのです。そして多くに先人は、『書を読め!』と勧めるのです。

 旧学制下の旧制高校では、《必読書》があったそうです。『これ読まざれば学生に有らず!』と言われたものが、三冊あったのです。それは、西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』と倉田百三の 『出家とその弟子』でした。

 人として生きていく上での基本的倫理観、人生観、人間観、死生観を学ぼうと、当時の学生は躍起だったからでしょう。いえ先輩たちが、新しく入学してきた高等学校生に学んで欲しかったからだったのです。これらは、「日本的名著」と言われています。

 文明開花の明治期に、欧化政策の下、「日本精神」が忘れられようとする恐れがあって、日本的なものが、その反面で叫ばれ、求められていたようです。日本人のidentity が影薄くなってしまう危惧を感じて、内村鑑三の「代表的日本人(1994年刊/内村33歳)」、新渡戸稲造の「武士道(1899年刊/新渡戸36歳)」、岡倉天心の「茶の本(1906年/岡倉43歳」が表されました。日本、日本人の在り方を、過去の時代に求めた訳です。〈古き良き日本〉への回帰です。それらは素晴らしい名著です。
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 でも、明治期の近代化の基礎は、欧米諸国に学んで据えられたことを忘れてはなりません。内村も新渡戸も岡倉も、若く30代ほどの作品です。彼らは英語で執筆したのです。と言うのは、読書の対象を欧米人にしたからです。まさに明治期日本人の劣等感のなせる業だったとも言われています。明治期の青年たちは、英語やドイツ語を学び、西洋の文学や思想に学んだのですが、反面生まれ育った国への思いも強かったわけです。

 でも、そう言った劣等感があって、その裏返しの優越感が日本の優秀性を紹介したのでしょう。でも、日本人の優秀性が先走りして、感謝と謙遜さを忘れて、「日本主義」を生み出したとするなら大きな問題だったわけです。日本の優点が強調され過ぎると、「大国主義」、「軍事強国」に繋がり、その危険性が、戦争へと傾き、取り返しのつかない惨めな結末に終わったわけです。

 日本には感謝すべき優れたものがありました。でも謙遜さを忘れてしまうと危険なものになってしまいます。そんな時代下で、内村や新渡戸は、子供の頃から、武士の子の習いで、論語や朱子学を学んでいたのですが、「進取の精神」の旺盛な青年期に「聖書」と出会い、それを読んだのです。そして「書の書を読む」ことを励行したわけです。

 西洋思想の重要な基礎である「聖書」に、彼らが触れたのは、実に素晴らしいことでした。価値観や人生観や死生観が変えられ、生き方までも変えられてしまったのです。何よりも、《神の前に立つ私》を認め、基督者とされたことは、驚くべきことでした。とくに内村鑑三は、学問書ではなく、「信仰書」を著したことは特筆に値します。その書かれた書を、多くの青年が読んで、大きな影響力を与えられて行ったのです。

 新保祐司氏(都留文科大学教授、文芸評論家)が、「明治の光 内村鑑三」という本を、藤原書房から刊行しています。「富国強兵」の明治に、「光」を放っていた内村鑑三の感化力は驚くべきものがありましたし、今なおあります。この書の裏に、徳富蘇峰の言葉が記されています。『内村さんのような人が明治に産出したことは明治の光だと思う。』と。

 内村の書を読み、聖書講義を聞いて、この「光」に寄せ集められ、啓発された多くの有名無名の若者たちが、「日本の良心」を堅持し、義を愛し、誠実に、謙遜に、この日本を形造り、推し進めてきたのです。この夏、水上に行く途中、上州高崎駅で乗り換えて帰宅しました。その高崎は、高崎藩の城下町、藩士の子として、内村は江戸小石川で生まれています。父親の勤務の都合で、高崎で12才まで過ごしたのです。16才ほどで、札幌の農学校入学し、一級上の大村正健らとの交流の中で、キリストを信じ仕える決心をして、その信仰を生涯全うしてしています。

 私も、個人的に大きな感化を内村鑑三から受けていますから、「光」に照らされた一人なのでしょう。明治は、明治末年に生まれた父と、この内村鑑三が代表して、私の内にあります。昔の書生さんが読むように勧められた書を、今は読まなくてもいいですから、内村鑑三の「代表的日本人」、「後世への最大遺物」、「デンマルク国の話」は、文庫版で本屋にありますから、読んでいただきたいな。あの初老の紳士が願ったように、「相応しき妻」と出会って、五十年伴に生きて、今があります。

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木を植えた男〜3〜

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 「わたし」は、村沿いに降りていくと、以前は、干上がっていたのに、小川はせせらぎの流れになっていたのです。とすること、ビフィエ氏の賜物に違いありません。この廃村だった村は、古代ローマ機の遺跡の上にあって、考古学者がそれを発掘したこともあったほどです。ところが二十世紀になると、村人は雨水を利用する以外になくなるほど、川は渇れていたからです。

 そんな村に、あの羊飼いが蒔いた種で育った木から、地に種が落ちて、水が流れるようになると、柳が目を出し、やがて牧場や菜園や花畑がつぎつぎに生まれてきて、村が生き返ってきたのです。山に動物狩りに来るものたちは、自然の気まぐれで生き返ったと思うだけで、なんの感動もなかったのです。一人の寡黙な男のなせる業だとは、知る由もなかったわけです。まさに見事な作品でした。

 1920年以来、「わたし」は、一年とおかずに、迷ったり、疑ったりすることもなく過ごすエルゼアール・ブフィエ氏を訪ねました。でも大成功の影には、逆境に打ち勝つ苦労があり、勝利するために絶望と戦ってきた結果だったのがわかりました。

 ある年、ビフィエ氏は、カエデの木を一万本植えたのです。ところが苗が全滅し、彼は絶望したのですが、翌年ブナの木を植えたのが成功して、カシワの木よりも上手く育ったのです。その不屈の精神力は、あの言葉を失うほどの孤独の中で鍛えられた、不屈の精神によったものだということを、「わたし」は忘れてはならないと思うのです。

 1933年になると、一人の森林監視員が、彼を訪ねてきました。『自然の森を守るために、外で決して火を焚かないように!』、この素朴で何も知らない人は、森が一人で成長するのを見て驚いたからです。当時、75才にもなっていたビフィエ師は、家から12キロも離れたところにブナの木を植えようとしていました。それで行き来の労をはぶこうと、石造の小屋を建てようとしていたのです。一年後に小屋は完成します。

 1935年に、今度は政府の派遣団が、自然林の視察にやってきました。代議士や林野局の役人や営林技師が自然林に視察にやってきたのです。あれやこれやと森林対策のことを言いましたが、ただ一つ益だったのは、この森林が保護区にされたことだったのです。炭焼きのための森林伐採が禁じられました。美しく茂った木々の美しさは、訪れる人々を魅了したのです。

 「わたし」の友人に森林管理の役人がいて、派遣団にも加わっていました。「わたし」は、一人の男の奇跡的行為を説明したのです。1週間ほどした時、視察場所から20キロも離れたところにいた彼を訪ねると、仕事の最中でした。友人はもののよく分かった男で、ことの事実を理解し、ただ黙って見守るだけでした。お土産に持って行った卵を彼にあげ、パンを仲良く三人で分け合い、素晴らしい眺めの中で、黙想の時を過ごしたのです。

 友人と二人で歩く道には、6〜7メートルの高さの木々で覆われていたのですが、1913年に来た頃には荒地だったのです。《平和な規則正しい労働》、《高原の澄みきった空気》、《魂の清浄さ》、それらが、この老人に目に眩しいほどの頑健さを与えていたのです。まるで、「神につかわされた闘技者」でした。老人と別れる前に友人は、この地にどんな木が適するかを簡単に説明しました。ところが、しばらく歩くと友人は、「どうやら、あの老人のほうが、ぼくよりよっぽどくわしいようだ」ともらしました。

 しばらく一緒に歩くと、その友人の思いは、ますます強くなっていきます。すると彼は、驚嘆の声をあげます。「彼は世界中のだれよりも、木のことを知り尽くしているようだ。どうすれば最良の結果が得られるか、ちゃんとした秘訣を見つけたらしい!」、ともらします。この友人の働きで、森の安全だけではなく、老人の幸せまでが保証されたのです。森の管理人を三人も任命し、材木の伐採人たちがこっそり渡すワイロには、目もくれないのように、きびしくいいわたしました。(つづく)

 

作法

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 商売がうまくなくなったりで、景気が思わしくなくなったりすることを、「左前」と言うようです。例えば、『とうとう、裏の瀬戸物屋さんは左前になった様だ!』などと言ったりします。

 下の娘が、中学を卒業してから、お世話くださると言うハワイの友人の牧師さんのご家族にお願いして、留学したのです。オアフ島ではなく、ハワイ島の high school に入学し、無事に卒業しました。それ以前、長男も、同じ様に留学できたのは、その牧師さんのご夫妻のご好意によったのです。

 卒業後の進路を考えていた時に、私たちをよくお招きくださった宣教師のお嬢さんが、西海岸の教会にいらっしゃって、その街に郡立の college があって、学費がとても安いとのことで、長男がそこで学んでから、州立の学校に編入したのです。それに倣って、次女も、そこで学んだのです。

 次女は、そこを出てから、保育園で働いていたのですが、学んでいた頃に、一人の青年と出会います。所属していた教会の青年会や礼拝、教会経営の寄宿舎でも、一緒でした。長女も、次男も、同じ様に、上の息子に倣って、そこで学んでいました。もう何年も何年も前のことです。

 しばらくしてから結婚の申し込みが、その青年からあって、私に、結婚の許可を得るために電話がありました。とても緊張した話し振りの電話だったでしょうか、誠実な青年だと分かって、その結婚を許可したのです。もちろん、その電話以前に、次女私の願いを聞いていましたし、会ったこともありました。

 穏やかで、紳士でしたので家内も気に入っていました。その学校と教会があった街は、私たちをいつも励ましてくださった宣教師の伝道されていた街と、姉妹都市になっていたのです。それで恒例にように、"Japanese day “ が行われていて、盆踊りに似せた踊りの輪ができていました。

 その時、私は、そこを訪ねていました。その時、次女は浴衣を着ていたのです。どうも様子が変だと思って、よくよく見ると、その着ている浴衣が「左前」だったのです。物陰に行って、次女は正しく浴衣を着直したのです。浴衣を着せたことなどなかったし、15で留学して、日本人としての在り方などの学びが足りなかったからです。

 結婚したての頃に、私の母が、「白絣(かすり)」の着物を縫ってくれたことがありました。書生さんが昔着ていたような物で気に入っていたのです。ついぞ着る機会がないまま、引っ越しの連続で、行くへ不明になってしまい、母には申し訳ないことになってしまいました。着付けだけではなく、正しい生き方、歩み方、格式が何事にもあるのですね。

(” publicdominic “ のイラストです)

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頑張り屋さん

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お客様方へ

 園主56才、22才の春より父親母親と畑に出て、仕事を教わりながら頑張ってまいりました。いろいろな気象の中、大変な苦労もあったりしたものです。30年以上の経験を活かしながら農業を続けてまいりましたが、今年程思うようにはいかず、お天気に悩まされた年は初めてです。春先の凍害、夏の異常なまでの高温、かと思ったら台風よりも大きな熱帯低気圧が日本海を通過し、果物の落果、そしたら連日の豪雨により、またまた落果、病気の発生等、まったく思うように作物が育てられません。今日出荷できました果物は、この気象条件の中、耐え抜いてきた頑張り屋さんです。

 どうかお客様方、宜しくお願いします。ご購入本当にありがとうございます。

                 長野県須坂市小河原 園主

 顔で笑って心で泣く、早く心で笑える時が来れば・・・

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間もなく終了の Paralympics

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 素晴らしい競技が繰り広げられている、Paralympics も、間も無く終わろうとしています。多くの volunteer のみなさんが陰で支えておいでです。コロナ禍での開催で、厳重な感染症対策の中で行われてきたようです。若者も、私の弟のような高齢者も、スポーツを愛し、人が好きなみなさんの奉仕があっての大会です。競技者のみなさんからの感謝が触れているようです。本当にご苦労様です。

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