ekklēsia

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 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 (エレミヤ2911節)」

 『〈今〉、〈金〉、〈自分〉のことしか考えない時代になってしまった!』と、購読のブログにありました。長い展望に立って、将来を見据えて、「今」を考えないといけないのにです。近視眼的な、物質的な、利己的な考え方や生き方に、この時代が傾斜してきているからですの戒めです。

 若い頃に教えられたのは、『お金を稼ぎなさい。そして貯えなさい。それを神の栄光のために、それを必要とする時、場所、方法で用いなさい!』でした。「あらゆる悪の根(テモテ6:10)」だと言われるお金が、義や善や愛のために使われると、驚くべき結果を生み出します。

 私たちが会堂建設をした時、お金が与えられるのに応じて、資材を買っては、建設を続けていく、これを繰り返しました。14ヶ月の間に、当時1200万円ほどの建設資金が与えられ、竣工し、献堂されました。その資金に、宣教師の知人の寡婦の方は、大工さんが腰に吊るす釘袋を縫って売って得たお金を、忠実にアメリカから送金してくれた方がいました。大金ではありませんでしたが、重い意味のある会堂献金でした。
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Crowd of people composing a world map.
Created with adobe illustrator.

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 「今」の生活に使うお金の中から、献げる決心をして取り分けての送金でした。聖書に出てくる「2レプタをささげた婦人(マルコ12:42)」を思い起こさせてくれた出来事でした。そう言った献金が、多くの教会の歴史の中で、世界宣教に用いられてきています。

 「自分」のことではなく、異国の街に建ち上がる教会堂で、自分を救い、希望と将来を与えてくれた神さまが、異国の人々によって、自分と同じように、ほめたたえられ、栄光を受けることを、この方が願ったからです。世界中にある教会は、そう言った方法で会堂が与えられているのです。

 自分の仕事を休んで、時間と労力を献げて、飛行機に乗って来て、材木を切り、削り、釘を打ち込んでくれた “ American  carpenter “ 夫妻もいました。何の報酬も求めず、自分の仕事を終えて、黙って帰国されました。YMCAで英語を教えながら、惜しまず教会建設の奉仕に励まれたアメリカ人のご家族、仕事を辞めて、14ヶ月の間、建築の指揮に当たられた夫妻がいて、そこでお嬢さんも与えられた一級建築士もいました。

 一人一人の心の中に、教会に主が与えてくださった「希望」がありました。教会堂建設中は、一人一人が取り扱われ、吟味され、人間的にも、信仰者としても、成長した時でした。もう一つあったのは、まだ経験していない「将来」でした。今も、その「将来」の中にあって、明日も「将来」の中にあります。子や孫が、信仰的な祝福を継承してくれたら、それは素晴らしいことであります。

 「教会」は、建物を立てた人々や、建て上がった会堂に神礼拝にのために集い、助け合い励まし合い、隣人愛に生き、福音の宣教の業に携わる “ ekklēsia “ 人々の群れのことを言います。

 

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ピカピカ

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 『戦場で味方の陣をこっそり抜け出して、敵陣に一番乗りで攻め入って立てた武功。転じて、人を出し抜いて立てた手柄や利益のこと。』を、「抜け駆けの功名」と言うと、[故事ことわざ辞典]にあります。

 すばしこくて、ずるい人の生き方を、そう言って揶揄するのですが、日吉丸(木下藤吉郎)が、主君の織田信長の草履を懐で暖めて、外出する主君の前に、サッと差し出した話を聞いたことがあります。誰もしないようなことをして、『サル!うい奴じゃ。』と愛顧され、主君を喜ばせ、褒められたのですから、天下取りをした豊臣秀吉は、抜きん出て優れていた人だったのです。

 それは抜け駆けではなく、主君に最善をしようとした、草履取りの主君愛だったのでしょう。『何に気付くか?』は、その人の生まれ持った特質なのでしょうか。親の生き方を見て、学びとって、そう言ったことができるのでしょうか。《人を喜ばせる才》を持って生きた人でした。

 父の客が、わが家に来られた時、私の弟は、その「藤吉郎」をしたのです。玄関に脱いで置かれた靴を、そっとだれも気付かない内に、ピカピカに磨き上げたのです。中学生の弟は、そう言ったことのできる子どもだったのです。そのお客さんは、綺麗になった靴を見て、目を丸くして驚いて、感謝と感心を、父に示していたのです。

 弟は、天下取りにはなりませんでしたが、《◯◯テツ》と呼ばれて、教え子に慕われ続けている教師をして来ました。彼の勤めた学校は、幼稚園から高校まであるのですが、幼稚園でも授業を担当していて、幼い子にも慕われていた教師でした。

 彼の高校では、卒業生は、市町村が行う式には参加しないで、学校で行う「成人式」を、卒業生の企画で続けているのです。卒業生は、校長でも理事長でも園長でもない、弟を、どの年度の卒業生たちもが、主賓講師に選んで、祝辞を話してもらうのだそうです。

 もう七十を過ぎているのですが、私の友人の奥さまがしている、「チャーチスクール」で、もう何年も何年も、週二日の講師をしているのです。わずかな生徒の学校で、交通費程度のお手当で、朝早く家を出て、電車を乗り継いで出勤し続けています。何百何千の教え子のいる彼が、一人、二人のスクールで教師をし続けているのです。

 弟ながら、彼の生き方に感心させられて、学ばさせられることが多いのです。今は、「ミニトマト」のベランダの鉢植え栽培の方法を教えられています。《一苗百個》だと励まされているところです。靴磨きの件ですが、私たちが天津の外国人アパートにいた時に、シアトルから来ていた若者が、家に食事にやって来ました。中国東北部を旅行して、目を輝かして旅行談を話をしてくれたのです。

 彼の履いていた靴は、ささくれ立っていました。それを見かねて、私は、靴クリームをつけて、ピカピカにはなりませんでしたが、磨いて上げたのです。ご両親が離婚していて、寂しそうな青年でした。そんな人生を好転させようとしたのでしょうか、語学学校で学んでいた留学生仲間でした。六十過ぎのお爺さんに磨かれた靴を見た彼の驚いた顔が、昨日のように思い出されて来ます。もう三十代後半の年齢になっているでしょうか。あれっきりです。

 

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例幣使

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 毎年、四月一日に、日光東照宮に「供物」を奉納する一行が、京の都を発ち、大祭前の十五日に日光に到着し、翌十六日の朝に、東照宮に入り家康の墓前に恭(うやうや)しく持参した「幣帛(へいはく)」を捧げました。その期日は決まっていたのですから、けっこう難儀な旅をしたことになります。雨の日も、四月の初めですから、雪や霙(みぞれ)だって降ることがあったでしょう。二週間の旅のことを考えると、自分の健康維持のために散歩している街道を歩いてみると、その旅の大変さが分かります。

 京都周りは歩きやすかったでしょうが、中仙道などの内陸の街道を、厚底のスニーカーなどなかった時代、草鞋で歩いたのです。山や谷や川を越え、毎夕違った宿に泊り、荷解きをし、翌朝には旅支度で身を包み、それを毎年繰り返したわけです。山里が多かったのでしょうから、刺身もなかったのでしょうし、土地土地の名産品を食べながらの旅だったことでしょう。

 難儀な旅に、不満や不平が顔に現れて、苦虫を噛み潰したような一行が予想されてしまいます。大体、〈強いられた義務〉と言うのは、いやなことに違いありません。1617年(元和三年)に、身罷(みまか)られてしまった初代将軍・徳川家康のために、ずいぶんなことを求められたものです。

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 「例幣使」の日光東照宮への参内は、1646年(正保三年)から始まり、1867年(慶應三年)まで続きました。ちなみに「参勤交代」は、1635年(寛永12年)に始まっています。両方とも三代将軍家光の時代でした。「例幣使」とは、神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使のことでしたから、家康を神とした礼を尽くすことを、徳川幕府は朝廷に求めたのです。でも日常から解放されての当番の旅には、刺激も多かったに違いありません。

 彼らが通う街道沿いの街は、毎年50人もの一行がやって来て、去って行くのは、見ものだったことでしょう。中山道の倉賀野宿から楡木宿間が「日光例幣使道」、楡木宿間から今市宿が「日光壬生道」で、全長三十一里十町(118.km)でした。この一行は、横暴の限りを尽くしたと伝えられています。

雨戸の節穴や障子の破れを塞がさせられ、町や村は、何と、彼らに強請り(ゆすり)やたかりをされたのです。それで、やりたい放題、憂さ(うさ)を晴らしたのでしょう。

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 さながら、最初の時には、都言葉を話す公家(くげ)を遠目に見て、異邦の人のように映ったのでしょうか。二日に一度、この日光例幣使街道を散歩する私は、代官所、商家の蔵、巴波川の流れ、味噌醸造屋、和菓子屋を脇見します。きっと当時はあった「草鞋屋」や「蓑合羽屋」は見当たりません。この同じ道を、牛馬が通ったのでしょう。農民や商人たちは、都人一行に、道を譲らされたことでしょう。一行は、厚顔にも公家の身分を誇ったのでしょう。

 でも、この例幣の旅は、公家にとっては、〈屈辱の旅〉だったわけです。征夷大将軍よりも天皇の方が上位で、将軍職は天皇が任命してきたのです。ところが家光の側近たちは、京の都から「幣」を持参して、権現様への参拝を義務化させられたわけです。誇り高い都人には、不平と不満があったのでしょうけど、当時の力関係はどうすることもできなく、劣位にあった彼らは、耐えられない思いをしたのではないでしょう。

 その思いを、農民や商人に向けたことになりそうです。随分と酷いことだったわけです。こう言った旅で、着替えなんかはどうしたのでしょうか。けっこう一行の後は臭かったのでしょうけど、みなさん気にしない時代だったのでしょう。宮に仕えても、土を耕しても、封建時代でも二十一世紀でも人は、誰も同じなのです。

 帰りは江戸に出て、将軍に見(まみ)えてから、しばらくの時を江戸で過ごした後に、東海道を京都に向かったのです。250年も続けさせた、幕府の支配力、統治能力は、凄いものであったことを知らされます。今日は、例幣使道を離れて、所用を兼ねて、西の方に散歩の予定です。雨の一日の予報です。

 

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mentor

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 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。(イザヤ96節)」

 新型コロナ騒動の今、人が求めているのは、《見通しある助言》ではないでしょうか。先が見えないトンネルに中にいて、必ず出口があるのですが、それが何時なのか、どんな方法で出口に導かれるかが不明なのが、人を不安に陥れています。

 若い頃に教えられたことは、《好い友》を持つこと、《善い助言者》を戴くことでした。人生の困難に出くわしたり、激しい誘惑にさらされるような時に、もう自分の力では抜け出せないような時に、なんでも話せて、裏切ることのない友や助言者がいたらどんなに助けになることでしょうか。置かれている状況を理解してくれ、共に立ってくれる友がいてくれたら、どんなに大きな力となることでしょうか。

 私を、8年もの間、伝道者として、人として育ててくださった方がいました。この方を、影や日向になって助けていた友がいました。外国での宣教をしていた彼のもとを時々訪ねて来て、交わりを持ち、経済的にも支えておられた方でした。何よりも 精神的な助けとなっておられた方です。

 このお二人のやりとりを見ていて、実に羨ましくなるような《友情》を感じていたのです。どんなに大きな支えであったかが分かったのです。ところが、メキシコで、教会のキャンプが行われていた時、湖で遊泳中に、その方が水難事故に遭われて亡くなられてしまったのです。その知らせを聞いた恩師は、憔悴し切っていました。どんなに互いに強固な友情で結び合わされていたか、その友を失うと言うことは大きな衝撃だったのです。

 この助言者を英語では、“ Mentor ” と言います。聖書の中に、アヒトフェルの助言が、「人が神のことばを伺って得ることばのようであった」とあります。ダビデに敵対する勢力に加担した人でしたが、生き方や、助言内容、人間観、職業観などに問題を持った人が、どんなに優れた助言者であっても、評価されません。この人は、自分の助言が受け入れないことを知って、故郷に帰って自殺して果てました。

 どんな人から、助言を求めるかが、重要です。私の恩師を、長く支えていたトムさんは、まさに恩師にとって ” mentor “ だったのです。この社会には、溢れるほどの助言者がいますが、〈だれに聞くか」は大切なことであります。キリストでいらっしゃるイエスさまは、「不思議な助言者」だと預言されています。聖書は、その「助言」のことばで溢れています。正しい価値観、人間観、死生観を持つ人の「助言」は、人を生かしてくれます。

 一番の “ mentor “ は、 “ No! “ と言ってくれる人に違いありません。私のような過ちの多い者に、たびたび “ No! “ と言って、正してくれた方でした。亡くなられて、もう20年なるでしょうか。

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意味深

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 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイの福音書62630節)」

 子ども頃、畑や畦道に生えるクローバー(clover )の中に、「四葉」を懸命になって探したことがありました。花よりも四つ葉ばかりが気なって、花には見向きもしないわけです。なぜなら、『《幸運》に恵まれるから!』と聞いたからです。そんなことで、人は《幸運》に出会えるはずもないのにです。その花の名が、「白詰草(しろつめくさ)」だと、初めて知りました。雑草と言われる仲間なのでしょうけど、見向きもされないのがいいですね。《孤高に咲く花》だからです。

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 でも花の名が、もっともらしいのが気に入ります。公式にはただ一箇所、長崎の出島には、ヨーロッパや中国大陸から、様々な物が持ち込まれたのです。その中に、〈ギヤマン〉と言われた製品がありました。『〘名〙 (diamant から) 江戸時代、ダイヤモンドを呼んだことば。 ② (彫刻をほどこしたガラス製品を「ギヤマン彫り」と呼んだところから) ガラス製品一般をさす。ビードロ。玻璃(はり)。』と、「日本国語大辞典」にあります。

 つまり、「ガラス製品」のことです。これは壊れやすいので、その緩衝材として使われていたのが、この白くて乾燥させた草だったのです。それで、詰め物とされ、花が白かったので、「白詰草」と呼ばれました。これも大切な〈脇役〉に違いありません。

 ギヤマンが取り出されたら、詰め物は不要で捨てられるだけです。ガラス製品が輸入される前には、名無しだったのでしょうか、または別名があったのでしょうか。どちらにして寂しいことです。「野の花」や「野草」の様に、見向きされないものの方が、それでも逞しいのです。

 この花には「花言葉」があるのです。詰め物にされる花にも、どなたかが花言葉をつけたのです。その代表的なのが、「復讐」です。随分と思い切った名をつけたものだと驚かされてしまいます。四葉のクローバーが「幸運」を見つけた人に与えるのとは、まったく裏腹な花言葉に驚かされます。

 男の子の私も、だれかの真似をして、この花で花輪を作ったことがあります。だれかの首にかけた覚えはありませんが、自分の首にかけたことはありました。クローバーですが、葉が3枚は〈復讐、約束」、4枚は〈幸運〉、5枚は〈財運 、不幸〉、6枚は〈名誉〉、7枚は〈無限の幸福〉と言われるとか。

 獄窓から、私のゼミの担当教師が見て慰められ、平和な時代がやって来て監獄から出てからのことを考えていたのは、この「白詰草」を見ていた時なのではないだろうかと思っています。踏まれたって、なんので生き続け、嫌われ捨てられたって、きちんと使命を果たせる花なのです。ソロモンでさえも、この「白詰草」ほどに装うことはなかったのです。意味深で、教訓のある花です。

 

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チェリー・トマト

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 この苗は、「ミニ・トマト」で、種から鉢の中で育てて、ここまで伸びて来たところです。全部で6つの苗を育て始めたところです。私たちは、「ミニ・トマト」と呼びますが、英語では “ cherry tomato "と言うそうです。その「トマトの歴史」は次の様です。

 『チェリー・トマトは、現代の栽培トマトの直接の祖先であると考えられており、南米以外で発見された唯一の野生のトマトである。トマトが最初に栽培されたのはメキシコのプエブラ・ベラクルス地域で、雑草のようなチェリー・トマトの形で南米からこの地域に伝わったと考えられている。チェリートマトに関する最初の記述は,1623年にスイスの植物学者カスパー・バウヒンが著した『Pinax theatri botanici』(「植物の図説」)に掲載されている。バウヒンは「Solanum」(ナス科の植物)の項で、「Solanum racemosum cerasoru[m] forma」という品種を紹介している。アメリカでは、少なくとも1919年からチェリートマトが普及していた。1967年の記事には、チェリートマトを使ったレシピが掲載されている(ウイキペディア/英語版翻訳から)。』、『日本には江戸時代寛文年間頃に長崎へ伝わったのが最初とされる。貝原益軒の『大和本草』にはトマトについての記述があり、その頃までには伝播していたものと考えられている。ただ、青臭く、また真っ赤な色が敬遠され、当時は観賞用で「唐柿」と呼ばれていた。中国では「西紅(xīhóngshì)」・・・日本で食用として利用されるようになったのは明治以降で[18]、さらに日本人の味覚にあった品種の育成が盛んになったのは昭和に入ってからである。』

 作詞が荘司武、作曲が大中恩で、「トマト」と言う歌があります。

トマトって
かわいい なまえだね
うえから よんでも
ト・マ・ト
したから よんでも
ト・マ・ト

トマトって
なかなか おしゃれだね
ちいさい ときには
あおいふく
おおきく なったら
あかいふく

 目がないほどに好きな野菜で、子どもの頃には、お百姓さんに内緒で、もいで食べたほどに好きでした。今では一年中売られていますから、食べない日がないほどに毎日食べ続けていて、《健康の秘訣》にしています。まさに薬代わりの野菜でもあります。

 先日も、焼きそば屋さんの前を散歩していたら、店頭の棚に、「三百円」の値のついた袋入りが置いてあって、おじさんから買いました。『甥が作っていて、市場に出せないハネダシですけど!』と言っていました。美味しいのです。

 この栽培指導を、弟に受けて、写真で送っては指導を仰いでいるところです。一苗から100個できるからね!』と聞いています。都合600個の収穫を夢見ています。懐かしいトマトの《あの匂い》が、脇芽を摘んだらして来ました。今日から六月、「水無月」です。トマトは、『水のやり過ぎに注意!』なのだそうです。収穫感謝祭をするつもりでおります。。

 

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