わが心の街

.

.
 一度訪ねて観たい街があります。ライン川と合流するネッカー河畔の街で、ドイツ最古の大学街と言われる「ハイデルベルク」です。ここには、わが国の京都にもある「哲学者の道」があるのだそうです。京都は西田幾多郎の散策で有名ですが、このハイデルベルクはゲーテがよく逍遥したと言われています。

 私は母の信仰を継承し、アメリカ人宣教師から教えを受け何を信じるかを、またどう生きていくかを学びました。そして多くの本を読みました。その信仰の基礎の部分を作りあげる上で、二十代に手にした、竹森満佐一師の翻訳した小冊子の「ハイデルベルク信仰問答」を読んで、学ぶことによって、確証の印を押された経験をしたのです。

 その体系的にまとめられた問答書は、1561年、フリードリヒ3世によって選任されたウルジーヌスとオレヴィアーヌスによって作成されています。「神の恩寵」を掲げる改革派の教えが根底にあって、若い神学者たちによる問答書で、「聖餐論争」を終結することが主たる目的での作成でした。

 それまで個人的に、教えられて来たことと、自ら学んでいたこととが、まるで「勘合符」の様に、この問答書とピッタと合わせられ、承認されたのを感じたのです。当時、一線を退かれた岡田稔師の説教を、テープで聞く機会がありました。師のお話の内容と人間性の高さに感じ入ったのです。自分が模索しながら学び、立とうとしていた信仰的立場を確認することができ、安心を得たのです。
.


.
 それは知識だけのことではなく、書かれた文章でも、人の思想でもなく、「真理の解き明かし」でした。同じ頃に読んだ本に、榊原康夫師の「聖書読解術」がありました。その書の最後に、『・・・聖書という書物に関する限りは、その術だとかこつだとか理論だとかでやっていても、やっぱり最後に、どうしてもことばでは言えない神秘が残るのです・・・どうしても聖霊の自由なお導きとみわざに最後の極意を譲り渡すということ。』と言われました。

 若い日に学び諭されたことは、今なお新鮮な教えです。右にも左にもそれず、偏らないで真っ直ぐに歩んでこれたと、今なお思わされるのです。その出発点が、どうもハイデルベルクにある様に感じてなりません。500年近く前の異国で生まれた思想に、何か郷愁を覚えていますので、訪ねてみたいのです。何度も行こうと思ったか知れない街ですが、今まで叶えられずじまいでした。昨年来、不要不急の外出をしない様にしていますので、行けるかどうかは不明です。

 今すべきことは、闘病している家内と共にいて、一緒に過ごすことと決めていますから、家内が癒えたなら、緩やかな旅程で訪ねられるように願っております。でも出たがり屋の私の心は、飛んでいっているかの様です。思想も街も、私の心に中に宿っているからでしょうか。

(この街の様子と、5月頃に咲くアーモンドの花です)

優しい国に

.

The Pilgrim Fathers arrive at Plymouth, Massachusetts on board the Mayflower, November 1620. Painting by William James Aylward (1875 – 1956). (Photo by Harold M. Lambert/Kean Collection/Archive Photos/Getty Images)

 これまで両親、恩師、書物から、多くのことを教えられてきました。まだ、その教えを咀嚼(そしゃく)していないのを感じながら、時間のできた今になって、いろいろな学びを思い返したり、図書館に行って本を借りて読んだり、ネット検索をして、資料に目を向けたりしている今日この頃です。

 「物の考え方」で、合理主義と個人主義と民主主義の背景を生きてこられたアメリカ人から、青年期に学ぶことができことに、今更ながら感謝を覚えるのです。この方たちと交流し、学ばなかったら、きっと〈日本主義〉で、日本人の優秀性の亡霊に片寄って、今頃偏屈な老人になっているのだろうと思ってしまいます。

 もちろん私はアメリカ礼賛(らいさん)者ではありません。でも、イギリスからメイフラワー号で渡った、清教徒たちの作った国、その国に移民として渡り、アメリカ市民として教育を受け、生活した方たちの子や孫たちから、感化を受けたことに、とても感謝しているのです。

 コーヒーやアイスクリームやコーラが飲めたことも感謝ですが、神を畏怖し、信頼し、叫び求め、感謝する生き方は、人の本来的なあり方だと学べたことです。母は、少女期に、その隣国のカナダ人宣教師から、真理や義や愛を学んで、恵まれない生まれを恨まずに、天父と出会い、神の恵みを知って生きることを学びました。

 そんな素敵なアメリカが、今危機に瀕してます。民主主義の申し子の国が、危いのです。経済力も弱くなり、世界への影響力が後退しつつあります。でもまだ余力があります。どんなに混迷し、暴力的になったとしても、アメリカの持つ《底力》、つまり建国の父たちから受け継いだビジョンの継承、富や祝福の分配、祈ることのできる神を満ち続けてきていること、それこそ天来の祝福が溢れていることです。

 暴力がことを決める様な、西部劇の世界の様なアメリカになってしまい、堅実に生きてきたアメリカ市民の嘆きが聞こえてきそうです。メイフラワー盟約に、次の様にあります。

 『神の名においてアーメン。われらの統治者たる君主、また神意によるグレート・ブリテン、フランスおよびアイルランドの王にして、また信仰の擁護者なるジェームズ陛下の忠誠なる臣民たるわれら下記の者たちは、キリストの信仰の増進のため、およびわが国王と祖国の名誉のため、ヴァージニアの北部地方における最初の植民地を創設せんとして航海を企てたるものなるが、ここに本証書により、厳粛に相互に契約し、神およびわれら相互の前において、契約により結合して政治団体をつくり、もってわれらの共同の秩序と安全とを保ち進め、かつ上掲の目的の遂行のために最も適当なりと認むべきところにより、随時正義公平なる法律命令を発し、かく公職を組織すべく、われらはすべてこれらに対し当然の服従をなすべきことを契約す。(大木英夫『ピューリタン』中公新書)』

 建国の精神に立ち返って、強いだけのアメリカではなく、優しく人々を尊重する国家が再建されることを、心から願うのです。孫たちを始めとして、この国の子どもたちが、一市民として、平和を享受し、国を愛し、すべての人を愛して、神を畏怖して生きることができる様にも願っているからです。

.

一冊の本

.

.
 もう30年ほどになるでしょうか、家内と私は、一冊の本を毎朝読んできています。華南の街にいた間も、帰国した今も続けてるのです。病気や入院や旅行中に欠いたことがありますが。それは、「366日の黙想」と言う副題のついたもので、ロンドンの神学校の校長をされて、四十代の前半で亡くなられた、オズワルド・チェンバース(1874〜1917年)の死後に、夫人が夫の教える神学校での教えの速記録をもとに編集して著した本です。

 英語の題は、” My utmost for his hightest “ 、日本名の「いと高き方のもとに」です。「百万人の福音」と言う月刊誌に、1971年から一ヵ年の間、掲載字数の制限があったので、意訳されて掲載されたものに、訳者の湖浜馨師が手を加えて、1990年に出版されたものです。それを手元に入れて読んでいるのです。

 あの頃、送られてくる月刊誌に掲載されたものの一年分を切り取って、自己流に製本して繰り返し読んでいました。本として刊行されてから、それを購入し、読み継いでいるのです。けっこう長い年月になりますが、毎朝新鮮な語り掛けを受けているのには驚かされます。

 多くの本を失ったのですが、実は、下の息子に読む様にして、家内が上げたものが、何故か親元に帰ってきたものなのです。〈1995年1月5日 母〉と、第三表紙に、家内の記入があります。家内が中三の次男に贈呈しました。次男には新たに買って上げていると思います。
.


.
 スコットランド人の思想、信仰でしょうか、伝道を志して入学してきた若者たちに、情熱を込めて「真理」を曲げることなく教えたことごとの記述です。確かに創造者を崇め、人を啓発する教えが、簡潔にまとめられています。華南の街にいた時も、非合法本の中国語訳があって、それを買っては、何人かの若者に上げたことがありました。

 短い生涯を、最高に輝いて生きた人の内に宿った永遠の命の喜びと確信が、今朝も伝わってきます。金が錬金される様に、純化された《古(いにしえ)の教え》が止まっていて、安定さを感じさせてくれます。人を喜ばそうとはしない、また人をもてなそうとはしないで、神の真実や、生きる道を語っています。《古典》と言ってもよい一冊です。

 聖書の他に、こんなに長く読んできている本は、他にないのです。読むたびに、まるでこの方の学生になった様に、新しいことを示されたり、警告されたり、叱られたりすることもあります。『自分のために書かれているのかも知れない!』と思うことがしばしばあります。ちなみに、ロンドンで彼が教えた神学校の卒業生の中で、四十人ほどの人が宣教師となっているそうです。

(その本の英語版、オズワルドが生まれたアバディーンの街に咲くスノードロップ〈マツユキソウ〉です)

.

上杉のお殿さま

.

.
 《一度訪ねて見たい街》があります。その一つは、蔵王山で有名な米沢(山形県)です。スキーをしたり、美味しい米沢牛を食べたいからでもありません。もちろんスキーが出来て、米沢牛にステーキを食べられたら好いのですが。若い頃に読んで感動した本がありまして、その本の中で、旧米沢藩の藩主・上杉鷹山のことに触れてあって、その高潔な人格に心が揺すぶられたからです。その鷹山が治世をし、生涯を過ごした街に行ってみたいのです。

 内村鑑三が、「代表的日本人」として、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と、この上杉鷹山の五人の歴史上の人物を取り上げて、紹介しているのです。内村は、1906年に、アメリカのニューヨークで、“Japan and The Japanese” と言う題で、英語で書きました一冊の本を出版しています。鎖国を打ち破って、国際社会に参入して行く中で、日本と日本人を、欧米人に知らせようとしたのです。と言うよりは、自らの「日本人としてのアイデンティティー(日本人像)」を明確にしたかったのだと評されております。

 鎌倉時代の日蓮以外の他の四人は、徳川幕藩体制下に生きた人でした。私が感じ入った上杉鷹山は、藩財政に逼迫していた米沢藩を、建て直すために善政を行った稀代の藩主でした。1751年に、九州の日向高鍋藩主・秋月種美の次男として、江戸藩邸で生まれています。十歳で、出羽国米沢藩の幸姫の婿養子となって、第九代の米沢藩主となっています。
.


.
 奥方の幸姫は、発達障害を持っていて30歳で亡くなっています。この方は、妻のために雛人形を自ら作って上げたりして、生涯変わることなく愛し続けたのです。子を設けることがができなかったので、世継ぎの子を得るために、側室を持ちます。しかもただ一人、自分より十歳も上の女性を得て、子をなすのです。

 また藩改革の中で、特異なことを行っています。藩内の遊郭を取り潰したのです。遊郭がなくなれば、欲情のはけ口がなくなり、もっと凶悪な方法で社会の風紀が脅かされるという反対がありました。でも、鷹山は『欲情が公娼によって鎮められるならば、公娼はいくらあっても足りない。』と言い切ったのです。実際、廃止しても領内には何の不都合も生じませんでした。

 この鷹山の葬儀の日、その死を悲しみ惜しむ人々の弔問の列が、米沢の街に途切れることがなかったそうです。「蓋棺自定(がいかんじてい)」、人は死して、その徳が正しく評価されるのですが、鷹山は、農民にも慕われた名君だったのです。この街を訪ね、米沢ラーメンを食べたら、そんな息吹を感じられるのでしょうか。米沢気質に触れてみたいものです。

(米沢城と市花の東石楠花〈アズマシャクナゲ〉です)

.

評価

.

.
 「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 (レビ記27章3、5〜7節)」

 これは、古代ユダヤ民族の《人身価値》をお金で換算したものです。性別や年齢に応じて、人の価値が変わっていたのです。長男と次女の息子たちが、今十代ですから、「二十シケル」です。ところが、もうとっくに六十を過ぎた私は「十五シケル」、家内は「十シケル」で、孫よりも少なくなっているのです。

 では現代社会は、人の価値を、どんな度量衡で図るのでしょうか。日本政府は、もう年金生活で納税しなくなった上級国民ではない私に、どんな価値づけをしてくれているのでしょうか。しかも国外で十数年も過ごして留守をしていた私をです。国への貢献度を測ってみますと「ほとんど無」と認定されるのでしょうか。

 としますと、「楢山節考」のお婆ちゃんの様に姥捨山、爺捨山行きの対象者なのでしょう。ところが私の愛読書には、

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43章4節)」

と、がっかりしている私に、「創造者」の評価が記されています。《愛の対象者》だと言って接してくださるのです。しかも《高価》で《尊い》と言って優遇してくださるのです。年齢には関係なくです。昨日も、私たちより少々シワが多いだけの九十歳のご婦人が、わが家を、お嫁さんと一緒に訪ねてくださいました。渋茶と煎餅を食べながら談笑させていただいたのです。どこも悪くなくお元気でした。

 このご婦人も私たちも、とうの昔に〈山行き〉か〈佃煮〉だったのに、街中に住むことができて、なんと感謝なことでしょうか。イスラエルの社会では、ご用のすんだ老人の価値は低かったのですが、

 「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ19章32節)」

とも定めて、《敬意》を示すように勧めています。しかも《起立》してです。私が中国の大学のクラスで、「北国の春」を歌った時に、『老人が、人の間で声を張り上げて歌うなんてことは、ここ中国ではありえないんです!』と起立した学生さんに言われたことがありました。

 ところが帰国して、山手線に乗った時、「優先席」の前に立った家内と私をチラッと見ながらも、三人の高校生がゲームに興じていたのとは違って、中国でバスに乗ると、若者たちは、席を立って、『どうぞお座りください!』と、席を譲ってくれるのです。四十代の男の方にも譲られました。

 『アッ、老人の前の起立って、こういうことなんんだ!』と思わされたのです。無神論や唯物論で教育を受けてきた若者たちが、聖書に従った行動をとるのに驚かされたのです。そう「十五シケル」の私は、懐かしく中国での《起立の出来事》を思い出しています。
.

.

すみません

.

Mimosa pudica, a creeping annual or perennial herb of the pea family

.
 個性的に生きるよりも、周りのみんなと仲良く生きていきたい日本人が、もっともよく使う言葉があります。『すみません!』です。相手に対しての謝罪の気持ちを表す言葉で使いますし、敬語でもあります。何かをお願いする時にも、ありがとうの思いを込めて感謝する時にも、また家を訪ねた玄関で、玄関に人を呼ぶために、そう言ったりして使っています。

 その語源は「済む」の打ち消しで「ぬ」をつけたもので、丁寧語の『すみません』と言ったりします。でも一番は、事を済ませなかったので、し終わらないことの「謝罪」で使うのです。だいぶ卑下した言葉でもあります。

 社会生活をする上で、この一言を言うか言わないかによって、世間の目は全く違ったものになります。言われた方は、それを聞いて、『すまないと思ってるなら、まあいいか!』と言う気持ちにされて、不問にふしたり、『次からは気をつけてね!』と言ってくれるのです。

 病院の待合室で、看護師さんが、『お待たせしました!』と言いましたら、40ほどの患者が、『すまねえじゃあねえよ、こんなに待たせて!』と、正直な思いを口にしていました。そう言うことが多いからでしょうか、診察前の医師の最初の言葉は、『長らくお待たせしてすみません!』を、『如何でしたか?』を言うよりも、会うなりに言ってます。きっと、そう言う様な話し合いがあっての取り決めなのでしょう。

 ところが、その一言を言わないばかりに、仲間外れにされたり、はたまたは〈村八分〉にあったり、先程の怒れる男の様な目にあいます。ペコペコするのが嫌いな私は、〈事実としての《理由》を言って、へんに詫びないのです。それで謝罪のない人は、人に嫌われてしまいます。

 日本人は、三十の息子の不始末を、親が人々の前で謝罪します。有名な女優の息子が、犯罪に手を染めた時に、マスコミの前で謝罪していたのを見聞きしました。また学校の教師が社会的な犯罪をした後も、校長が、マスコミに前に身を晒して、『すみませんでした!』と、よく言っています。企業犯罪の場合もも同じです。

 それは、世間やマスコミを納得させるために、どうしても必要だとされる一言です。でも、それっておかしいのではないでしょうか。知事や市長になれる年齢なのに、本人の代わりの様にしての謝罪を、母親がするのはおかしいのです。母親の一言に「涙」が添えられるなら、『まあいいか!』を世間から生み出せるのです。

 お隣の韓国など、東アジアでは、どこでもありそうなことですが、島国日本では傑出して多いのです。欧米諸国では、〈個人責任〉で事を収めています。

 〈任命責任〉が問われることがあります。自分の派閥の議員が汚職をしたり、反社会的な行為をしたり、世間を騒がせた時に、派閥の長に求められる〈謝罪〉です。でも、会社の上司が謝罪して、4、5人の会社の幹部が横になって、九十度頭を下げて、『申し訳ありませんでした!』と頭を下げている光景はよく目にしますが、国政の派閥の長がするのは見たことがありません。大人扱いをしてるのでしょうか。

 『あれは、もう大人なのですから、あれに聞いてください!』と言う、成長した社会に、日本がなるのは難しいのでしょうか。少なくとも選挙権を与えられた年齢以降は、個人で謝罪をし、事を収めたらよいのでしょう。折しも、オリンピック委員会の会長が、昨日の女性蔑視の発言に、〈すみませんでした〉をしたと、ニュースが伝えています。それで、辞任は解消になるのです。撤回を即座に受け入れてしまう寛容(?)な社会だからです。

(オジギソウです)

.

舟と船

.


.
 バスコダ・ガマなどの航海時代の100年も前のことです。中国は明の時代に、鄭和(ていわ)が、大船団を従えて、見果てぬ海を、アフリカまで航海をしています。福建省泉州に行きました時に、港に古代の巨大な船の残骸が残されていたのを見ました。それは鄭和の船ではなかったのですが、それを彷彿とさせるほど大きかったのです。鄭和の率いた船は、全長130mもの巨大な木造船の船団でした。

 ところが遠洋に出ることができない、わが国の北前船や千石船は、日本の港から港をつなぐ商用船で、京大阪に諸国の米や染料や海産物などを運んだのです。北前船は30mほどの大きさでした。また多くの河川では、「舟運」が行われていて、わが家の脇を流れる巴波川でも、部賀舟でくだり、渡良瀬川の合流地近くで、高瀬舟に荷を載せ替えて、江戸との間を商用が行われていた歴史があります。

 『行きはよいよい帰りは怖い!』で、江戸へは流れを下るので容易でしたが、利根川を上る道も、帆を使ったり、手漕ぎもありましたが、支流に入る脇道を、「網手道」と呼ばれる土手があって、上り舟を、人力で曳いて上がった道で、男衆の大変な労働に支えられていた様です。それでも盛んな舟運が行われていたのです。
.


.
 いつか、ここを浅底の舟に乗って、思川、渡良瀬川、利根川、江戸川を下って、東京湾へ行ってみたいのです。でも河川って、勝手に舟で上ったり下ったりできるのでしょうか。若い頃に、富士川を下ることを考えていたことがありましたが、治水のための堰(せき)があったりで、自然の流れにしたがっては下れないのを確かめて、諦めました。

 さらに華南の街の大きな河川を、小型船で上る計画を、外洋航路の船長をされた方に持ちかけたまま、帰国してしまいました。小さなエンジンをボートにつけたらだいぶ上流まで上れそうでした。池に木っ端を浮かべただけでは満足できない子の幼い日の夢でした。

 上海から蘇州号で、大阪に着く丸二日間の旅は楽しかったのです。飛び魚と競走している様に、大海のど真ん中を行く船旅は、船内に風呂場があって、喫水線あたりに波の飛沫を見ることができ、船風呂を楽しめたのです。あの阿倍仲麻呂には経験できなかった優雅でのんびりな船旅でした。
.

untitled

 海洋国家の日本は、北前船に見られる様な「廻船(かいせん)」が行われ、江戸期以前は、御朱印船などで海外に出かけることが多かったのです。江戸の前期、山田長政はシャム(今のタイです)に出掛けた人で、ついにはシャムで王にもなっています。その話を子どもの頃に聞いて、冒険心を呼び覚まされたことがありました。
.


.
 “ Covid-19 “ の影響で、外出も旅行もままならない今、海に出て行った人たちのことを思いながら、鄭和や長政や船頭さんたちのことを思ってみると、ちょっと閉塞感が広げられてきそうです。
(鄭和の船団、航路、高瀬舟、北前船、山田長政の乗った船です)

.

 

誰に何を

.

.
 『誰に聞き、何を読み、如何(どう)情報を得るか?』、これらに注意する必要があります。これは博学以上のことです。《聞き》、《読み》、《得る》を教えられて今日まで、私は生きてきたのです。怪情報、作為的な勧め、悪意に満ちた曲解が、今も私たちの周りに溢れているからです、誰もが自分の意見を発信できる機会が得られるのは、言論統制のあった昔に比べるなら驚くべき自由と特権です。でも様々な分野に騒ぎと混乱を起こして大衆操作をし、惑わす様な時代が、またやって来そうです。

 戦時中に、軍部の発信する情報を、私たちの父たちの世代は鵜呑みにさせられてしまいました。各新聞社の情報の流布の功罪、その罪は、実に大きかったのを忘れてはなりません。真実を伝えるという使命に命をかけて始まった情報機能が、強権に追い迫らて節を曲げて利用されてしまったわけです。この時代でも、ある団体や個人の都合で、押し曲げられた情報が多く発信されているのではないでしょうか。

 私たちは、長く時間を経て、《正統》と認知されてきた教えに留まるべきです。それは真理を曲げず、取り除かず、また付け加えずに、試され、闘われて、錬られて、正当性や基本性が証明された教えだからです。ところが、懐疑的な立場から「斬新な教え」、「画期的な教え」との触れ込みで、長い年月に亘って、試されて叩かれて純化された教えに、混ぜ物を加え、小さな故意の解釈をこじ付けをして、まるで〈化粧00直し〉の様にして登場し、古い教えとして認知されたものを、否定や訂正してしまい、若い未熟な世代を惑わす教えが流布されています。

 とくに〈新しい教え〉や〈啓示的な教え〉に、人は弱いのです。私のアンテナは、けっこう敏感に、耳触りの良さの中に、隠された〈おかしさ〉を検知してしまうのです。そして小さな綻(ほころび)が、全体を崩れ落ちさせてしまうのに気付いてしまいます。

.

.
 エルサレムの城壁に、「ミロ」と言われる部分がありました。そこから敵が這い上って来るので、どうしてもその破れ口を補修する必要があったそうです。私たちの心にも、思考にも、人生そのものにも、隠された小さな罅(ひび)、見付けづらい裂け目があったら、それを早期に《修復》する必要があります。そこから不義、不正の教えが侵入してくるからです。例えば、欠陥や不足、劣等感や苦味、赦せない思いをたどって、核心が崩されてしまうのです。

 さらには世に公にされた非常識な人、性倒錯者、道徳感の欠けた人、不正な金銭感覚の人、醜聞のある人、曲解する様な者の意見や教えは聞くことを私はしません。引用もしません。おかしさが分かった時点で、そう処してきました。今日日のコロナ情報も終末情報も錯綜しています。私の愛読書に、次の様にあります。

 『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。 (イザヤ書52章7節)』

 「良い知らせ」は、不変、不動、生命横溢、将来安泰、善意、平和の告知です。人を励まし、生かし、再生します。人の情報には、不純なものがありますが、造物主からの情報だけが、確かです。このお方から啓示を受けた人の語る言葉にだけを聞く様に、教えられ学んできたからです。私の愛読書に、『真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも。 (箴言23章23節)』とあります。売ってしまわないで買えと言う勧めです。

(エルサレムです)

.

将来と希望

.

.
 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29章11節)」

 父も母も日本人で、私も日本人として育てられ、日本人である自覚を、確かなものにしながら一人の国民、市民として、これまで生きてきました。そんな自分の国民性を意識することはなかったのですが、外国人と出会い、海外生活をする段において、じょじょに意識するようになったのだと思われます。
 
 《民度の高さ》とか言う国際社会からの褒め言葉を聞くと、なぜか恥ずかしさを覚えてしまうのです。祖国を愛していますし、平和であり続けてほしいと願っています。《日本人の優秀性》などと取り上げられ、諸外国人から言われるのは、自分は好きではないのです。ただ父や母の世代が勤勉だったので、自分もそれを受け継いでいるだけと思うからです。

 もう30数年前に、台北から高雄までの台湾のいくつもの街を、講演旅行で、上の兄と一緒に訪ねたことがありました。そこで出会った年配者のみなさんから、日本統治時代のことを聞かされたのです。その年月の日本支配を、責められるのかと思いましたが、感謝しておいでだったのが意外でした。若い人たちも同じでした。

 そして十数年前に、大陸に参りまして、初めに天津の街に1年間住んだのです。ほとんどドイツやアメリカやスイスなどからの外国人たちとの間で、過ごした一年でした。一見して日本人だと分かった、道端やバスやデパートで出会う街中の中国のみなさんが、自分に向けられる視線や態度は、けっこう硬く冷たいものがありました。日本占領下の影響がまだ残されていたからでしょう。
.


.
 国柄や社会的背景の違いかも知れませんが、台湾と大陸とでは、ずいぶんと違っていました。それでも叩かれたり石を投げられる様なことはありませんでした。ただ一度だけ、尖閣諸島の領有権の問題が騒がれた時に、住んでいた華南の街の教員住宅のベランダにレンガの破片を、夜中に投げ落とされたことがあって、朝発見しただけでした。

 推し並べて共に過ごし、行き合った市井(しせい)の中国のみなさんは、寛容であって、過去に囚われない人たちだったことを思い出しています。頂いた月餅や団子や豆腐やスイカや甘薯も、ご自分の故郷に連れて行ってくださったり、お見舞いくださったり、付き添ってくださったことなども、みな友好の印だったのです。みなさんが、辛いことは前の世代の出来事であって、過去に拘らないで、今や将来に思いを向けているのが分かったのです。

 ところが、日本人は違う様に思ってしまうのです。毎年1月が来ますと「阪神淡路大震災記念」、3月が来ますと津波と原発事故の「東日本大震災」、8月が来ますと「原爆記念日」と言って、鎮魂、反対、対策の声が上がって、何か政治的に利用されたりしている様で、真摯に有り様を思い返す時ではない様に感じてしまうのです。

 〈過去に拘泥する思い〉が、日本人は極めて強い様に思うのです。反省や対策を学ぶにはよいのですが、感情の処理をしていなかったりで、過去の亡霊に心が掴まれて、明日を見させなくしているのではないかと心配なのです。エレミヤは、「平安な計画」や「将来への希望」を思い起こさせる、神のみ思いを書き留めました。

 「恥」は人を謙遜にさせます。「失敗」は、そうすまいと言う思いを掻き立てます。私には一つや二つどころではなく、足の指を使っても数えきれない恥や失敗があります。でも、《明日変えられる自分》を、想いの中に描きながら、将来への希望を満たしながら生きてきました。いえ生かされてきました。そんな《しぶとさ》を持つことができたのは感謝だと思うのです。これも親譲かも知れません。

(「フォーカス台湾」の「高雄市」の様子、天津市花の「月季」です)

.

もう春

.


.
 古来、日本では、二月を「如月(きさらぎ))」と呼んできました。まだまだ寒いので、重ね着を意味する「衣更着」が語源だと言われ、また春に向かって万物が動き始めるという意味も持つのだそうです。文化的な影響を受けてきました中国の呼び方と同じだそうです。番号で月を表現するよりも、季節感があってよいのかもし知れません。

 その中国では、「春節」を迎えます。毎年日が決まっていなく、2021年の元旦は、「二月十一日」です。爆竹を鳴らし花火を上げて、新しい年を迎えるのです。天津で、初めて春節を迎えたのが、2007年でした。外国人アパートの七階の窓の真横で、花火が炸裂したのには、驚かされ、街中の天文台の近くを歩いていた時に、足道で爆竹が爆裂し、追い立てられてしまいました。あの火薬の匂いが、思い出されます。

 今年は、コロナ退散のために、いつもよりも激しく、中国全土で、爆竹が鳴り渡ることでしょう。驚かされたわりには、懐かしい中国の風物詩です。好い年を迎えて欲しいものです。写真は、わが家の四階のベランダからの、日の出と日の入りです。陽の光が、もう春です。

.