真理

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1946年9月、東京帝国大学卒業式で、時の学長、南原繁が次の様な、餞(はなむけ)の言葉を語っています。

『・・・敗戦日本の復興のための世界歴史的教訓として、近頃しばしば人の説くデンマルクをして、80年以前、同じく敗戦のどん底から立ち上がらしめ、よく平和と文化の幸福な国土を築くに至らしめた所以ものは何か。実にかような真理と精神の力に対する無限の信頼を抱いたところの隠れた幾多個性のあったことに因るのである。

 かの三千平方哩の荒寥たるユトランドの曠野を化して遂に緑の林野となし、この国の林業および牧畜の一大富源をつくったのは、若き地質学者にして復員軍人たるダルカスとその子の事業であった。そしてかれら父子をしてこの事業を完遂せしめたものは、実にユゲノーの自由の信仰と、誤解と嘲笑に堪えてあくまで真理を探求する不屈のたましいであったのである。また人の知るデンマルク創始の国民高等学校は、ひとりの精神の指導者グルンドウイの思想に共鳴したところの、コペンハーゲン大学卒業の数人の学士が、その未来に約束された輝かしい地位を捨てて、それぞれ田圃に立ち帰り、地方青年の間に神を敬し、隣人と祖国を愛する人間の教育を始めたことに由来する。これがのちに全国に組織せられ、今日のデンマルクを担うところの国民の中堅層は、ここで養成せられたのである。・・・諸君、我々を取り囲む環境がいかに苛酷でであろうとも、いまこそわれらの学んだ真理と精神の力を発揮すべき時である。』

 この南原繁は、香川県から上京し、一高、東京帝国大学に学び、青年期に新渡戸稲造に強い感化を受け、さらに内村鑑三の教えを受けた人でした。青年期に受けた薫陶は、学問だけではなく、精神の高さが培われていました。まるで神学校の卒業生に、その校長が送る言葉の様に語ったのです。その最後で、次の様に語って終えています。

 『諸君は今日ここに別れを告げるわれら師友と、諸君が長い学窓生活の最後を学んだこの学園のことを、今後の生活の幾曲折において、想い残されんことを望む・・・かくて諸君何処にありても、われわれとともに同じくこの母校を中心として、見えざる真理の紐帯によって結ばれた一つの結合のうちに常にあるであろう。
  
 さらば卒業生諸君!いつまでも真理に対する感受性を持ち、且つ気高く善良であれ!そして常に明朗にして健康であれ!』
 
⚪︎ ユトランド(Jylland )
  ヨーロッパ大陸北部にある、北海とバルト海を分かつ半島である。北側がデンマーク領、根元のある南側がドイツ領である。「ジュート人が住む地」という文字通りの意味である。
⚪︎ダルカス(Enrico Mylius Dalgas)
  デンマークの軍人,デンマーク・ヒース協会初代会長。デンマークに1782年に移住したフランス系の家系に生まれ,1853年北ユトランド,ビボーの軍道敷設隊の工兵中尉に任官,56年大尉に,80年中佐となる。ビボー在勤中にユトランドの土壌を熟知し,66年オーフスで友人らとともにヒース協会を設立し,ヒース地帯の開墾に力を注いだ。
⚪︎ユゲノー(ユグノー/Huguenot)
  16~18世紀のフランスのカルバン派プロテスタントのこと。手工業者・独立自営農民・小商人に多く、次いで貴族層に浸透。カトリックと対立し、ユグノー戦争を経て、1598年のナント勅令により信仰の自由が認められたが、1685年、ルイ14世の勅令廃止によって再び禁止され、1787年、ルイ16世の寛容令によって自由を得た。
 

(デンマークのユトランド半島です)

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歴史の事実

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 中学の社会の授業の一環で、同学年二クラスを、視聴覚教室に集めて、映写会が行われました。前もっての説明があったか、また観賞後に何を、担当教師が語ったかは覚えていませんが、衝撃的な映像が大写しにされていました。

 それは、太平洋戦争末期のサイパン島を、米艦から撮影したものでした。その島の断崖から、夫人や子どもたちが、次々に飛び降りていく様子が映し出されていました。投身自殺をしていたのです。死ねないと、もう一段飛び降りていくのが鮮明に映し出されていました。

 戦争が終わって、ほぼ十年が過ぎた、昭和三十年代の初めの頃でした。社会科の担任は、まだ三十代でした。東京大学を出て兵役につき、終戦後、私たちの学んだ中学の教師になって、地理や歴史を教えてくれていました。そんな現実が、十年数前にあったのに、驚愕した日でした。

 「歴史の事実」、忘れてはならない過去を、中学生の私たちの記憶に刷り込もうとされたのです。当時の日本と軍部のしたことを弁護するのでもなく、批判するのでもなく、私たちの担任は、教材を用いて《事実》を教えてくれたことに感謝するのです。

 戦争を体験した大人は正面から戦争を、子の世代に語りませんでした。私は、戦争に関わった人たちに、虚脱感や罪責感があるのを感じました。駅の改札付近や駅近の道ばたや電車内で、白衣で軍帽を被った傷痍軍人が、アコーデオンを弾きながら、『♭ ああ、あの顔で、あの声で・・・♯』と歌い、募金をしていました。

 電車に乗ると、前の席で酩酊したおじさんが、『#勝って来るぞと勇ましく・・・♭』と、歌う声を何度も聞きました。過去に苛まれた大人を何人も何人も見ていました。今、「歴史の修正」がなされています。『仕方がなかった!』、『敵の策にはめられた!』と言って、父や祖父の世代の過ちを修正する人たちがいます。

 私と家内が過ごした華南の街に、日本軍の飛行場跡がありました。上陸した日本軍は、田畑を飛行場に変えたのです。そして、多くの井戸に毒が投げ込まれたとのことでした。そう重い口を開いて話してくれたのです。私が出会った、上海の近くの村を故郷とする老婦人は、日本人の焼き討ちで負ったやけどを見せてくれたのです。話してくれた人たちは、《事実》を話してくれて、決して憎悪や敵対心を向けませんでした。

 日本軍が、真珠湾を攻撃したのが、1941年12月8日でした。同じ日、日本軍は、イギリス統治下にあった香港を奇襲していたのです。その2週間後に、香港は日本軍に降伏したのです。セントジョセフカレッジの学生、病院の医療者患者、負傷兵が、凌辱され虐殺されている、これも影に隠された《事実》です。

 こう言った過去の事実から目を逸らして、忘れてしまおうとしている人たちがいます。恥ずかしい過去、不都合な記憶を、『忘れよう!』とする傾向があります。歴史の事実に直面ずることを避け様とするのです。国全体が、そう言った動きを見せて、歴史を修正するのです。十代の感受性の強い年に、事実としての歴史を見る目を与えてくれた恩師に感謝している今です。

 そう言った意味で、ユダヤ人の父親は、宗教教育の他に、「民族の歴史」を子どもに教えるのです。酸いも甘いも、同族が辿ってきた歩みを、包み隠さず教えます。民族的な忘却をすることなく、《事実》を伝えるのは、正しいことに違いありません。私の父は、戦争の生々しい悲劇の写真集を買って来て、『被害者として、また加害者としての同国人の過去を忘れるな!』との思いを込めてでしうか、私の目の前に置きました。

 二十数年前、私たちの過ごした街の国立の大学院の中国人留学生が、広島の原爆記念館を見て帰って来て、私に言った言葉が忘れられません。『被害者の記念を残すなら、加害者の記念をなぜ残さないのですか?』と厳しい表情で訴えて話してくれました。歴史を改竄したり歪曲したりしては、決してあってはなりません。

(平和の時代の「サイパン島」です)

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憂国の青年

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  1862年(文久二年)、徳川幕府は、イギリスから購入した帆船に、「千歳丸」という名を付けて、上海に向けて視察団を乗せて出航させました。この船に乗船したのは、長州萩藩の高杉晋作、佐賀藩の中牟田倉之助、佐賀藩の納富介次郎 、高須藩の日比野輝寛、大村藩の峰潔 、浜松藩の名倉予何人などの人たちがいました。さらに水夫として乗船した五代友厚(薩摩藩)もいました。

 この船は、中国との貿易の「試験船」でしたが、2世紀ぶりの公船としての中国訪問でした。高杉晋作をはじめ選りすぐられた各藩の藩士たちは、それまで儒学を学んできた若者たちでした。彼らは、まだ見ぬ儒教の聖地への憧れがあった様です。ところが中国は、欧米諸国によって、アロー戦争、太平天国の乱、アヘン戦争による混乱で溢れていました。

 高杉晋作は、訪問記として、「遊清五録」 を書き遺し、次の様に記しています。

 『上海は支那南辺の海隅僻地にして、害て英夷に奪はれし地、津港繁栄と雖ども、皆外国人商船 多き故えなり、城外城裏も、皆外国人の商館多きか故に繁栄するなり、支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なると難道、或年中船すまいにて在り、唯富める者、外国人の商館に役せられ居る者也」
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 租界に住む欧米人の豊かさと、原住の中国人の貧しさの格差が際立っていたのです。外国人勢力に占有され、哀れな中国人の様子を見て、やがて日本も、このままで行くと、上海と同じ様な状況になってしまうという恐れを、全員が感じたのです。ことのほか、2ヶ月間見聞した高杉晋作の思いは深かった様です。

 私は、占領軍の下にあった日本の姿を、おぼろげに覚えています。占領直後のことは、まだ幼くて、しかも山奥にいましたから、何も覚えていませんが、昭和20年代の中後期に、アメリカ軍基地の隣町に住んでいましたので、アメリカ兵の姿をよく見掛け、“ give me chocolate ” をした世代でした。

 アメリカ兵の腕にブル下がって歩く日本女性の姿を眺めて、子ども心に憤りを覚えたのです。何をしているかを、ませた子どもなりに知っていたからです。高杉晋作たちが歩いた上海の街でも、同じ様な光景を、屈辱的な思いを持って、中国のみなさんは見ていたに違いありません。

 後に初代内閣総理大臣になる伊藤博文は、『動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずやー・・・中々勇悍の人であった。創業的才藻には余程富んで居った!』と、高杉を語っています。今も憂国の思いで、高杉晋作の様に、国の将来を思い計る青年たちがいるのでしょう。

(萩市の市花の「萩」上海の古写真です)

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天なる故郷

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 これは、2006年の晩秋、天津の「外国人公寓gonyu/アパート」の7階の窓から写した写真です。巨大な煙突から、周辺のビル群の部屋暖房のために温水を循環させるために、水を沸かすためで、石炭が燃やされた煙が写っています。

 夕日が、地平線に落ちて行く前に撮影したのです。中国大陸の延々と広がる大平原のど真ん中にすみ始めた感じは、鹿や熊の出る様な山の中で生まれて中1まで過ごし、巡りを急峻な山に囲まれた盆地の中で三十数年過ごした私には、寄り掛かるもののない不安定さになれるに、だいぶ時間がかかりました。

 そこから北の遼寧省や吉林省や黒竜江省に行って住みたいと思っていた私には、想像を絶する広さでした。そして、当時の街中は、灰色や黒色がほとんどで、緑の樹々の少なさに、物足りなさを覚えていました。歩いている人の服装も、無難色で動くには、公共バスとタクシーと電タク、そして自転車ばかりでした。

 そこで1年過ごした私たちは、華南に導かれて、都合13年は、激変の年月でした。道路は整備され、自家用車が増え、女性がズボンからスカートに履き代わり、パン屋と果物屋が増えていきました。最初の年に、天津の街に、「吉野家」が出店して、ドイツ人に誘われて食べに行ったほどでした。マクドナルドとケンタッキーも雨後の筍の様に増えていきました。祝宴や葬儀の時の爆竹には、足元で爆発して飛び上がるほどでした。
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 けっきょく、北へは道が開かないで、反対の華南に移り住んで、腰を据えてしまったのです。素敵な出会いがあり、悲しい別離もあり、驚く再会もありました。最近は、何人もの子どもの写真が送られてきています。何年も何年も待って、やっと与えられた女の子が、2歳になったと言っておしゃまな写真が、昨日も送られてきました。

 逃げ込んだアルジェの街で、パリに帰りたいと願う、ジャン・ギャバンが演じた警察に追われるペペ・ル・モコの憂いに満ちた目が思い出される様に、私も華南の街に、「郷愁」を覚えてしまうのです。旧海軍の街の港を見下ろす高台のホームで、老後を過ごしている何人もの方たちを訪ねたことがありました。昔話を懐かしく語ってくれたみなさんの目も、郷愁にあふれていました。

 きっと今の自分の目も、そんな郷愁を湛えていそうです。海浜の村の高台にある墓地で、素晴らしい交わりをしていただいた方のお母様の埋葬式がありました。その個人墓地に、友人が私たちも葬ってくれると言ってくれたのです。そこから眼下に広がる東シナ海の向こうに、日本があるのだと言っておられました。

 帰国して2度目の年の暮れを、ここ北関東の街で迎えています。忙(せわ)しなかったこの季節でしたが、今は、静かな一日一日を単純に繰り返して、過去を思い出し、人との別離を思い返し、仕上げの時を送っています。天(あめ)なる故郷に憧れている日々です。

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balloon?

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 今朝7時半頃に、渡瀬遊水池から飛んできた4個のバルーンです。気持ち好さそうで、乗ってみたくなりました。快晴の冬空に映えていました。一昨日は、長女の主人の誕生日でした。

 「空中携挙の日」に、あんな感じて空を浮遊できるのでしょうから、もう少し待つことにしましょう。バルーンではなく、御使いが支えてくれるのでしょうか。最高の日曜日となります様に!

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Cultural confidence

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 “ Cultural confidence “ と言う言葉があります。「 文化人類学」の分野では、『自国の伝統文化への絶対的な誇り!』だと定義しています。敗戦の焼土の中から立ち上がって、世界を驚かせた日本の経済復興がもたらせた、経済的な豊かさを誇る様なこととはちょっと違います。

 戦国時代にやって来たヨーロッパからの訪問者も、幕末にやって来た外国人も、日本人の生活振り、振る舞いを見て、驚いた様子を書き残しています。それは、ヨーロッパにも、他のアジアの地域には見られない、独特の日本人の在り方を高く評価したのです。

 《謙遜さ》は素晴らしいのですが、〈日本人の卑屈さ〉は美徳ではありません。これは遠慮や譲歩とは違って、〈自信のなさ〉が、そうさせてきているのです。優れたものを受け継いでいることに自信を持ったら、今の日本人はもっと輝くのでしょう。

 国粋主義、日本主義に陥らない様に注意しながら、庶民は生きてきています。アメリカ人の生物学者、E.モースが、1877年に発見した、その「大森貝塚」は、日本の考古学に光を当てた、学術的な大貢献でした。私の父が、旧制中学の時に、この大森(東京都品川区)の親戚の家に寄宿して、そこから学校に通っていたと言っていました。

 このモースが、三度の来日で触れた日本について、「日本その日その日(Japan Day by Day 講談社学術文庫版)」を著しています。39才で初来日した彼が、東京帝国大学で教えながら、東京や、旅先で見聞したことを、スケッチ入りで書き著した本なのです。偏見や蔑視のない目と心と体で触れた、江戸文化を残しつつ、新しく変えられていく日本の街々と人々と事物を捉えたのです。

 横浜、東京、江ノ島、日光、函館、長崎、鹿児島、京都、瀬戸内海と、精力的に旅をしたのです。主に学術的な目的を持った旅でしたが、日本文化に感心しながら触れた日本滞在記です。こんなことが、記されてあります。
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 「人々正直である国にいることは実に気持ちがよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは、一日に数十回出入りしても、触ってはならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間も無くポケットの一つに、小銭が若干入っていたのに気付いて、、それをもってきた・・・・日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に、錠も鍵もかんぬきも戸鈕(とちゅう)もーーーいや、錠をかける戸すらもないことである・・・」

 私の恩師たちの目にも、日本人の正直さは強烈な印象があった様です。しかし、「本音と建前」を使い分けてしまう日本人を、なかなか理解できなかったのです。〈約束をしてもそれを守らないこと〉は辛かった様です。それは、〈NOと言えない日本人〉の一面です。『明日来ます!』と、用があって来れないのに、『来れません!』と言って、相手をがっかりさせたくないので、そう言ってしまう日本人の心の動きが理解できなかったのです。

 この様に、日本にも日本人にも欠点が多くありますが、総体的に、日本への高い評価のあることは、私たちが誇っていいのかも知れません。明治期も二十一世紀も、変わっていないようで安心しました。物質の豊かさを誇るわけにはいきませんが、培われた文化的な素養は誇ってもよさそうです。

(モースの描いたスケッチです)

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蚊帳の外

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 中国の蚊も、日本の蚊と同じで、私が好きな様で、華南の街では、真冬にも出没して、私を幾度となく刺したのです。それで、在華中の13年は「蚊帳(かや)」を広げて就寝していました。それでも蚊帳の中にあやつは、隙を突いて侵入して来るのです。

 「蚊帳の外」と言う言葉があります。そこは危険地帯で、蚊の攻撃を受ける場所のことです。でも意味は少し違っています。集団の中で、故意に大切な情報を知らされなかったり、物事に関与できない立場におかれて、「無視されること」を言っています。「孤立」や「仲間外れ」になることです。

 〈いじめ〉の中で、この〈無視される〉ことは、とても辛い経験でした。戦後、占領軍のマッカーサーに遣わされた、多くの宣教師が、東京の北多摩郡にの街に来られて、しばらくの間、日本語や日本文化を学んで、そこから全国に、その働きにために散っていったのです。家内の母親が、この人たちに日本語を教えていました。そう言った関係で、アメリカから送られてきた物資を、個人的な関係で、衣服などをもらったそうです。

 家内は、その古着を着て学校に行きますと、ボロを着ていた男の子たちの羨望の的になり、それが〈いじめ〉になっていったそうです。古着や着ていた家内が悪いのではなく、物のない時代が生み落とした〈いじめ〉だったのでしょう。〈いじめ〉られて、『何すんのよ!』と報復ができたらいいのですが、家内にはできなかった様で、ずいぶん傷ついたそうです。

 焼け跡のすさんだ社会には、いまでは想像できないことが多くあったのでしょう。そう言った経験があったので、家内は、弱い人たちに優しく接することができ、中国での13年にも、そう言った人たちの助けをすることが、家内にはできたのです。でも世の中には、悪質ないじめをする人が、子どもの間だけではなく、社会全体、国にもいます。

 蚊の話ですが、どうも特定の人が刺される傾向がありそうです。半世紀以上にわたって蚊を研究してきた元東大教授・池庄司敏明さんに、『どんな人が蚊に刺されやすにですか?』と質問しましたら、『体が大きい人(太っている人)は蚊も見えやすいし体臭も多いから、刺されやすいね。体温が高い人、汗をかきやすい人も刺されやすいです!』と答えています。

 いじめと蚊とに、刺される対象が似ていて、いじめっ子はいじめられっ子の匂いに敏感に反応して、〈刺す〉のです。蚊に刺された後の痒み止めがなくて、娘が「キンカン」を空輸してくれたことがありました。いじめに効く薬もあるはずです。香港の周さんが、禁固刑の判決を受け、刑務所に入獄したとニュースが伝えています。公平な裁判なしの判決で、蚊よりも酷い仕業です。中国の蚊も同じで、情け容赦なく強烈でした。その「蚊帳の外のこと」を、天は一切をご覧になっておいでです。

(香港の国花の「バウヒニア(Bauhinia blakeana)」、俗に香港蘭 “ Hong Kong orchid tree “ と呼ばれることもあります)

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 『人間も動物なので!』と、ラジオのゲスト・コメンテーターが言っていました。そうでしょうか。私は、自分を〈動物〉扱いした父や母に育てられなかったのです。一個の人格として接してくれました。わがままや決まりを守らなかった時に、父の拳骨が降ってきましたが、和を乱すものを矯正し、教える方法ででした。それで、自分も他の人も、人格を持った、尊厳に値する人としてみて、今日まで生きてきました。

 最初の人が造られた時、創造者は、

「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて・・・神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった・・・」と仰られました。

 「非常によく」人はつくられているのです。英語ですと、” it was very good “ とあります。単に、良かったのではなく、[特別に]とか[非常に]配慮されて造られているのです。どの様に特別で非常によく造られたかと言いますと、次の様に聖書にあります。

 「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」

 私たち人は、神に似せて,その《神のイメージ》に従って造られたのです。人には、知 性があり、感情があり、意志があります。それらを用いて、創造者を思い、人間同士の交流をし、より良いものに変えられて生きたいとの願いを持ちます。危機に迫った隣人を助け、落胆する者を慰めたり励ましたりします。泣く者と共に泣き、悲しむ者と共に泣くのです。そこに人格的な交流があるからです。

 私は、天地万物の創造者、統治者を信じる、信仰者の母に育てられました。人格的に辱められる様なことは一度もありませんでした。養育の責任を、その神から受けて育ててくれたのです。人として、男として生きて行く道を教えてくれました。義を愛し、隣人を愛し、弱者を助け、落胆している人を励ます様に教えられました。

 先週、隣人の飼い犬が、老衰で亡くなりました。家内が散歩で会って、家内になついていた犬だったのです。飼い主のご婦人が外科手術で入院中に亡くなってしまい、その悲しみはとても大きかった様です。家内は、悲しむご婦人の悲しみに連れ沿って、その日、2時間ほど共にいてあげたのです。動物の命と、人の命は違います。家内の母親は、私たちが滞華中に亡くなりました。その死別の悲しみは非常に大きかったのです。親子の深い人格的な関わりがあったからです。

 人の命が、どれほど尊いのかと言いますと、神から付与されているからです。人の狡猾さを見て、つまずいた若かった私に、「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」と母に教えられました。〈人間不信〉を教えたのではなく、人には限界があるとの〈人の真実〉を教えてくれたのです。《頼り》にできるのは、神以外にいないからです。そして、喜ぶ者と共に喜んでいたいものです。

 
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contrast

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 魅入ってしまった一葉の写真です。次男が撮影して送ってくれたもので、十一月の終わりの都内の一郭の夕べが映し出されています。動と静、暗と明、天と地、縦と横、手前と奥行き、右と左、無色と有色、高と低、自然と人造物などの対比が見られて、なんとも言えません。

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 農家の庭の柿の木に、秋になると、「柿」の実がなっていて、そこを通るたびに、『農家の子に生まれたかった!』と思っていました。桃も葡萄もドリアンも大好きですが、この「柿」ほど美味い果物はないのだと決め続けている私です。今季、近くのスーパーや「街の駅」に出掛けて、この「柿」を、何度買ったか知れません。13年も日本を留守にして食べなかった分を、今年は食べ足した様に思うのです。

 柿好きを「柿喰い」と、言うのだそうです。「柿」が読み込まれた有名な俳句に、

 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺

という、正岡子規の句があります。どんな柿を、子規が食べたのかと言いますと、朝廷に献上する「御用達(ごようたし)」に推奨されるほどに美味しい、「御所柿(ごしょがき)」でした。子規もまた、自分を、《柿喰い》と言うほど、柿好きだった様です。

 戦時中に父のお世話をしてくださった方が、私が住んだ街の卸売市場の「青果商協同組合」で、理事長をやっていたのです。このおじさんの紹介で、その市場で、午前中、「仲買い(なかがい)」の手伝いのアルバイトにしていたことが、私にありました。競りが終わって、その場内を歩いていると、『準ちゃん!』と、このおじさんに呼び止められて、『これは、珍しくて美味い「御所柿」だけど、一箱上げるから、奥さんと一緒に食べたらいい!』と言って、頂いたことがありました。

 どうも、それを食べてから、私も《柿喰い》になってしまった様です。本当に美味い「柿」だったのです。このおじさんは、私がお店(街の中心で果物屋をしていました)に顔を出すと、『ウナギでも喰おう!』とか、『今日は、カツ丼でも喰おう!』と言っては、訪ねるたびに、近所の食堂に連れて行ってくれた方でした。

 こちらでは、ここ地場産の柿が売られていて、美味しくいただきました。それは「御所柿」よりも、また「富有柿(御所柿の改良種の様です)」より小ぶりの柿で、糖度があって実に美味いのです。きっと出回る時期は、そう長くなかったのでしょう。柿って種類が多そうです。

 この「柿」を喰えば、自分の子どもの頃、また子どもたちが小さい頃のことを思い出してしまいます。これからは、家内の好きな、「干し柿」が出回るのでしょう。『柿が赤くなると、医者が青くなる!』と言われてきた様に、滋養豊富な果物なのでしょう。今季は、今日、訪ねてきた友人と家内と三人で、最後の一個を食べ終えてしまいました。

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