一枚の門扉

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 TBSテレビが、平成22年10月に、「塀の中の中学校(内館牧子の脚本)」を放映しました。安曇野の「塀」の中(松本少年刑務所)にある、中学校での一年間を、教師と刑務官とのやり取り、授業風景、刑務所内の生活を紹介しつつ、番組が作られていました。テレビ番組としては秀作だと感じたのです。この番組のあらすじは、「公式ホームページ」に、次の様にありました。

 『長野県松本市にある「松本少年刑務所」の所内には、義務教育を終えていない受刑者のための公立中学校「松本市立旭町中学校桐分校」がある。そこに、石川順平が赴任してきた。順平は、本当はプロの写真家になりたかったが、無謀な夢は捨てて公務員になり、少年院で5年間教鞭を取っていたが、今春になって桐分校で副担任の職に就くこととなった。

 この年の4月10日「桐分校」には、北海道から沖縄まで、全国の刑務所から選ばれた生徒5人が入学する事になった。新入生といってもその年齢は様々で、最年長の佐々木昭男は76歳、ジャック原田は66歳、川田希望は50歳、小山田善太郎は39歳、そして最年少の龍神姫之丞は22歳だ。年代の離れた5人だが、それぞれの事情によりこれまで満足に教育を受けておらず、ほとんどは読み書き計算も出来ない。

 入学式が終わると、教室で席に着く5人を前に、順平と先輩の担任教師の三宅雄太(角野卓造)が、これから始まる授業の進め方を説明。その後、自己紹介をさせると、5人はそれぞれの罪状と背負ってきた過去を告白する。

 ほどなく、職員室に戻った順平は、少年院で教鞭を取っていたときと違い、生徒の事情が重くやりにくいと三宅にこぼすが、「梅雨明けまでの3ヶ月が勝負だ」と激励される。それでもなお不平を言う順平は、実は写真家への夢を諦めてはおらず、大きな写真コンクールに応募した作品が最終選考に残っていた。そこで大賞か入選を果たしたら、この仕事を辞めようと考えてい・・・。』

 副担任の教師の心の動き、入学した五人の家庭の背景や、犯罪を犯すまでの事情を、最初の授業で、各自が自己紹介をしていました。五人の人間模様や確執や思いやりやいじめ、自殺願望者の改心、訪ねてくる父や息子との語らい、結局1年後に、小山田一人が脱落し、四人が無事に卒業するのです。

 私が通った中高の裏門からしばらく行った所に、同じように塀を巡らせた「少年院」がありました。塀の中の彼らと塀の外の自分の距離は、ほんの一枚の壊れかけた門扉、一歩の〈差〉しかないのではないか、そんなことを思わされたのです。読み書き計算ができて、何とか社会生活を送ってこれたことを思い返して、当たり前ではなかったこと、両親が育て上げてくれたことへの感謝は尽きません。今も、この分校で学んでいる方たちがいらっしゃるのでしょうね。

 「渡る世間は鬼ばかり」、「人を見たら泥棒と思え」の現実の社会の中で、《理解者》がいて、《善意》が向けられるなら、人は立ち直ることが必ずできることを学んだのです。自分の人生に、そう言った人がいて、優しい心があっての今なのだと、そう思うこと仕切りであります。施錠された門扉の壊れた隙間、これも壊れかけた私の目から、その院内が見えました。自分は外にいて、彼らが中にいる、複雑な思いがあったのを今、思い出します。

(友人からいただいた茶器一式です)
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しっぺ返し

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 「もてあそぶ」とか「翻弄(ほんろう)」は、“ goo辞書 ” によると、『1「もてあそぶ」は、手にもって遊ぶ意から、相手を思うままに扱う意。「弄ぶ」「玩ぶ」「翫ぶ」とも書くが、ふつうは仮名書き。2「翻弄」は、大きな力のものが弱い小さい者を思うままに動かすこと。「荒波に翻弄されるボート」のように、人間以外にも用いられる。』とあります。

 『2020年は、コロナ、大雨、台風に翻弄された年だった!』と、後になって回顧されるかも知れません。まさに、“ triple punch ” の年でした。自然の力に、翻弄され、弄ばれるかの様な感じがしています。というか人が自然の弄んだ結果、自然界から「しっぺ返し」を受けている様に感じられてなりません。

 国土開発で、山を切り崩し谷を埋め、川を堰き止めてダム湖を作り、地下資源を掘り起こし、木を伐採し平地にし、海を埋めて人工海岸を設け、稚魚を養殖池で育てて放流し、野菜や果物や家畜を人工交配して新種を作り、《自然の理》を冒して自然破壊を、人は繰り返してきて、その「結果」を、今や人は刈り取っているのでしょう。

 人の手が自然を改造し、傷付け、破壊した結果を招いて、自然界が叫び声を上げているに違いありません。「開発」という名目で、東南アジアや南米アマゾンの森林を切り崩し、地球の生態系や気象までも狂わせて、今があります。食べ物でも、「人工的」な物が、体内に取り込まれて、体質を狂わせ、免疫を傷付けてしまいました。

 現代人は、『仕方がない!』と言い訳をしていますが、天然自然の世界は、収拾がつかないほどに狂いを見せています。その元凶は、「人の欲」に尽きるのではないでしょうか。〈より多く持つこと〉が、人を幸せにするという原理が横行した結果、地球が傷ついたのです。この自分の手も例外ではありません。

 それで、現在の様に、〈叫び声〉が、地球上からしてきているのでしょう。今も言われるのでしょうか、『人は、地の高さから高くに住むに従って、精神的な疾患を冒されやすい!』という警告の言葉です。本来人は、素足を地面につけて生活をしてきたのですが、高きに住む願いを持って、地表からの距離が増してしまいました。

 昨年の正月に、住み始めた友人の家の平家部分は、縁側から庭に、すぐ出れて、花を植えて楽しんでいたのですが、19号台風に被災して、疎開を余儀なくされました。そして今、水害に強い、アパートの4階に住み始めて、そろそろ一年になろうとしています。日当たりもとく、吹き込む風も爽やかで、この位の高さまでが限界でしょうか。

 《自然との同居》は、古来人がし続けてきた生き方です。土を耕して種を植え、家庭菜園で青物が自給できる様な生活を夢見ています。それは《自然回帰》という、人本来に願いなのかなと思っています。一先ず、台風の襲来で、事前の予想に反して、大きな被害を被らなかったそうですが、ただ感謝している朝です。21世紀に生かされている私たちが持つべきは、この「感謝」なのでしょうか。

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限界

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 私の愛読書に次にようにあります。

「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」

 台風10号が、沖縄、奄美、九州に接近中で、厳重な注意が必要だと、今朝のラジオニュースが伝えています。熊本の球磨川の氾濫警戒も出ているそうです。風速も雨量も気温も、これまでは、上限や下限が《定められ》ていたのです。ところが近年、とりわけ去年あたりから、生命の危険水準を超えてしまって、これまでにない量や質となってしまっています。

 私たちは、どう言った時代の中に生活をしているのでしょうか。今や、しばし熟考する必要があるように感じてなりません。北関東の地から、大きな被害から守られるように、今朝も心から願っています。とくに熊本は、私の人生の一つの大きな節目となった地なのです。鹿児島も宮崎も大分も福岡も佐賀も長崎も、守られますように!

(ベランダに咲く金魚草です)

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ライスカレー

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 先日は、九十歳になったばかりのご婦人とお嫁さんとが、わが家を訪ねてくれました。お元気で、お顔の肌も表情も若くて、はっきり物を言われて、とても好い交わりが与えられました。林檎の本場、長野の生まれで、東京に嫁いで、二人の男の子を育て上げ、次男のご家族と、県南の町でご一緒にお住まいです。

 カレーライスを作って、お昼を共にしました。華南の街で、何度作ったでしょうか。留学生、日本語教師、教え子、友人とその家族など訪ねて来て、何度も何度も作った同じカレーでした。ふみ子さんが、『美味しいです!』と言ってくれました。ちょうど、図書館で借りて読んでいた本に、「ライスカレー」の話がありましたので、転載してみます。

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 ライスカレーとナッパづけとは妙なとなり合わせだが、ともにわたしの家では、だれもが大好きな食品である。

 このごろ日本中で、ライスカレーが幅をきかせている。それは池田さんが、首相に就任されたとき、『ライスカレーでも一緒ににつっつきながら何でも話し合おう!』といわれていらいのことだそうだが、わたしの家のは麦飯もライスカレーも、ともにはえぬきで、池田さんのおしきせでないところがミソ。

 もともと貧乏とは生来の仲よしだが、一時は貧乏と疎遠になりかけた時代もあるにはあったけれども、それも終戦のかけ声とともにまたこれに逆戻り。でも家の中はカラリとしていて、ただときどき驟雨がくるぐらいのもの。むしろこれは生きていくための必需品。

 そうそう、きのうはわたしどもの二十九回目の結婚記念日だったが、別にぎょうぎょうしいこともなく、それこそライスカレーをつっつきながら、越し方、行く末のことの花が咲いた。食事中こどもに、『かあさんのライスカレーは日本一だね!』とたきつけられ、『このナッパづけは色香ともに天下の絶品さ!』とあふられる(煽られる)におよんでは、もう感激でポーツとするばかり。

 だけど何がうれしいといって、主婦にとって家族全員が健康な顔を並べて、手料理にシタづつみをうってくれることほど、うれしいことがまたとあるだろうか。わたしはこれからもライスカレーをつくり、ナッパづけをコトコトきざむことに明けくれするだろうが、ぴりっとからいカレーの味で、流転の激しかったこれまでの旅路を思い、せめて人生の終末だけは、このお菜づけのように、おだやかでありたいなと願ったことだった。

 1960(昭和35年8月29日  田辺早苗 主婦・51歳 佐賀市
(「戦争とおはぎとグリンピース」所収)

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 母と同世代のお母さんの手記です。池田首相は、ライスカレーにまで言及した方だったのですね。麦飯に、これをかけて食べたら、脚気にもならないで、国民の健康が維持できると勧めたのでした。《海軍発祥》のカレーライスは、その頃から《国民食》になったのでしょう。今回は、旬のトマトとナスをたっぷり入れたのですが、リンゴを入れ忘れました。ライスカレー、カレーライス、どちらが正統なのでしょうか。どちらにしろ、コロナ禍でも、美味しく食べれて感謝です。

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 日本を、長いこと留守にしている間に、この社会は、さらに〈一流志向〉の様相を強めてきているのだそうです。その一流から漏れると、つまらない人生の連続で終わると考えられているのだそうです。『勝ち組に入らなければいけない!』と言う圧力がかかって、勝負は幼稚園の時点でで決まるとまで思われているとのです。

 あの「大阪教育大学附属池田小事件」が起きたのが、2001年6月9日でした。23名の生徒と教師が殺傷された衝撃的な事件でした。犯人は、犯行時に37歳でした。犯行に及んだ学校は、国公立大学の教育学部に付属する、ある意味では、その地域でのエリート校、もう一面では、教育実験校でした。街のお弁当屋さんとか豆腐屋さんの子ではなく、医師や弁護士や部長さんのような親を持つ子の通う学校を選んでいたのです。

 そんなことを犯したTは、上昇志向の少年だったので、この附属小学校に併設の附属中に通いたかったそうです。ところが、『けったいなオヤジ、頭の非常に回転の悪い、不安定な母親!』の子の自分、と自虐していた彼には、入学は叶いませんでした。願いが成就しない鬱積が、積み上げられていったのでしょうか。もし飽きっぽかったら、こんな無残な犯罪に走ることはなかったかも知れません。

 自己認識が甘いのは、問題です。こう言った事件が繰り返される中で、『子は鎹(かすがい)』を『子はカスがいい!』と聞き間違えたお母さんが、子どものありのままを受け入れ、そう言った母親に育てられた子が、緊張から解かれて、道を外すことなく、けっこう好い子に育った話を、何かの雑誌で読んだことがあります。

 こちらは落ちこぼれなどとは無縁に生きてきた人がいます。その人の生い立ちです。

 『1931年6月1日、東京府内(中野区)で生まれる。太平洋戦争末期は旧制中学生で、空襲により自宅を焼失している。好きな科目は理科で、東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)、旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)を経て、新制の東京大学理科1類に進学。通産省就職。工業技術院院長に就任。瑞宝重光章を受勲。』

 とても順調な経歴です。しかしこの人は、2019年4月19日、車を運転中、池袋で、暴走行為を起こし、母子を轢き殺してしまうのです。これが華々しい経歴を誇る、勲章まで授かったエリートの晩年の様子です。

 池田小事件も池袋事件も、関係がなさそうですが、人の命を、それぞれの形で奪ってしまったことには変わりありません。エリートで生きても、そうでなく生きても、大同小異なのでしょうか。驕っても、卑下してもダメ、ほとんどの人は可もなく不可もなく、凡として生きています。『人様に迷惑をかけないで生きよ!』と、親に言われて生きてきた私も、この世の片隅で、凡として生かされております。
 
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公平

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 「美」とは、どういったものなのでしょうか。アメリカ映画の「ジャイアンツ」に出ていた “ エルザベス・テーラー “ は、絶世の美女でした。十代のはなたれ小僧の私でも、スクリーンに映された、この女性の美しさには息を飲んでしまいました。自分の母親が、《今市小町》と言われた、けっこう綺麗な人でしたが、それには比べられないほどで、彫刻刀で彫った様に彫りが深く、魅惑的でした。

 〈世界三大美女〉が、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町なのだそうですし、今でも、「世界ユニバース」、「ミス◯大」などで選ばれる女性も、投票で選ばれる〈◯◯ベスト美女30〉も、「美」、つまり〈顔の造作の良さ〉に対する賞賛、憧れ、羨望、さらには嫉妬などは、ものすごいエネルギーがあります。

 ところが、映画女優の晩年の写真を見た時、『えっ、この人がオードリーヌ・ヘップバーン!あ』と驚いたことがありました。どうも、「美」は、束の間、過ぎゆくもの、偽りなのだということが分かったのです。一番残酷なのは、「時」なのだという訳です。

 今、時々買い物に行く、近所のドラッグストアーのレジを打つ女性が、急に、綺麗になってしまったのです。新しい人が入ったのかと思ったら、化粧を上手にする様になって、美しくなったのです。きっと化粧を落としてしまうと、元の顔に戻ってしまうのでしょう。以前の顔を知らない、若い男性に、以前の彼女を教えないことにしています。

 ある人は、親にもらった顔に、小細工をして、隆鼻術を施したりします。ところが時間がたつと、シリコンが劣化してしまったりで、けっきょく、もとの鼻の低さに戻ってしまうのだそうです。私の愛読書に、「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」とあります。



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 美も醜も、紙一重、黛一本、白粉の一塗りの差だけです。公平に年を重ねるように、醜女も美女も、鼻の高さも肌の色艶も、ほぼ大きな差がなくなってしまっています。心の内面を飾って生きてきたご婦人は、生き生きとしておいでです。遠慮がちに生きている女性は、みな美しいではありません。ここに上げたのは、若かった時と晩年のエリザベス・テーラーの写真です。美って、けっこう〈錯覚〉なのかも知れません。さもなければ〈比較〉かも知れません。

 中学生の頃に、動物園に行った時、一番驚いたのは、孔雀でした。『私って美しいでしょう!」と、あの羽を広げて、これでもかこれでもか、『どう!』と誇っていた姿を見て、『美しさって疲れるだろうなあ!』と、正直思ったのです。男も同じです。あんなに男盛りに輝いていた人も、老いて、顔だけではなく、心にもシワが寄ってきて、〈栄枯盛衰〉、見る影もなく萎んでいくのが、人の世の常です。分け隔てなく、どなたにも衰えの時が訪れるわけです。まさに《時は公平なり》です。

(エリザベス・テーラーと田中角栄です)

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静思

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 中学校に通学するために、上下車した JR中央線の駅の近くに、「名画座」がありました。大学が、その駅の周りに何校かあり、その学生を目当てに、けっこう評判の映画が、三本立てで上映されていた映画館でした。中学校には制服があって、どこの学生か分かっていて、授業をさぼってチケットを買うのに、店主は売って、観せてくれました。

 そこで何度も観たのが、ジェームス・ディーン出演の「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアント」でした。アメリカの俳優に憧れるという矛盾の偽軍国少年だったのです。テキサスの大牧場で働く牧童のジェットを、ジミーが演じたのです。広大な牧場を舞台に、物語が展開され、仔牛を丸焼きするバーベキュウ・パーティーの場面には、アメリカの豊かさを知って圧倒されました。

 そのジェットが、一人で石油の掘削をし続けているのです。牧場の地下には、原油が埋蔵されていると信じていたからです。ある日、その小さな掘削穴から、石油が天高く吹き上げるのです。その原油を全身に浴びて、真っ黒になったジェットの姿に、圧倒されたのです。日本では想像できない光景だったからです。

 その原油で汚れた姿のままで、同世代の牧場主に、石油掘削の成功を見せつけにするために来て、何かの言いがかりをつけて、殴り倒す場面がありました。ジェットは一躍石油王、大富豪となるのです。

 その重油塗(まみ)れの姿を、重油タンカーの座礁で、漏れた重油をかぶって、真っ黒にされた海鳥を思い出したのです。インド洋の島国モーリシャス沖でも、近頃、座礁事故がおき、原油が流出しました。人口が増え、工業化が進むと同時に、石炭などの固形燃料から、石油やガスなどの液体燃料に移る、燃料革命が起こり、莫大な量の地下資源が掘削されて行きます。
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 それに伴って、石油タンカーの事故が頻発し、生態系に甚大な被害を与えて、破壊してきています。その原因は、輸送船の積載量を多くする、船の大型化なのではないでしょうか。いっぺんに多量の原油を運んで、コストダウンを図るからでしょうか。そう言った儲け主義の結果が、この写真の様な、哀れな自然界の破壊であり、それが見せる惨状が、〈人の業(ごう)〉なのでしょうか。

 今回のコロナ禍は、欲に踊る人間が、天然自然の理を無視し、秩序を破壊したことと、何か関係がありそうに思えてなりません。〈疫病の蔓延〉は、単なる自然現象だけでない、人間への警告の様にも聞こえ、見えるのです。傲慢で、感謝を知らない人間に、もう一度立ち止まって、静まって考える時が与えられていないでしょうか。

 アメリカの社会で働いている娘が、先日、連絡して来ました。経常利益が上がらず、このままでは、会社が立ち行かない事態に直面していて、人員整理をしなければならないのだそうです。共に働く仲間に代わって、管理職の彼女は、身を引くことを考えている様です。全世界で、当たり前であった好調さが、乱れて、壊れて、経済界に厳しい現実をもたらせているのです。生きにくい時代のただ中で、生活に変化が生じています。

(ジェットを演じたジェームズ・ディーンと重油まみれの海鳥です)

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朝顔四種

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 朝顔の最盛期が、夕べ、ものすごく強い雨が降り、あの酷暑を追い払ってしまって、肌寒く感じている今頃にくるとは思いもよりませんでした。今季、咲いてくれた四種類の朝顔の花が、今朝は揃い踏みの様に、力強く咲いています。九月になって、咲く花の数がこんなに多いのも驚きです。

 巴波川には、二羽の白鷺が、流れの中に立って、餌をじっと探しています。流れの向こうには、カモもまた、餌探しに余念がありません。家内は散歩に出て行きました。暑さが一段落した感がして、『よかった!」の《長月(ながつき)》です。

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 「小江戸」と呼ばれる街が、今でもいくつか残されています。関東圏には、佐原、川越、栃木、香取などがあります。埼玉県に住んでいた時に、川越に連れていってもらったことがありました。街の中心に、「火の見櫓(ひのみやぐら)望楼」が残されていていたのです。ここに立って、四方八方に目を配って、見張りをするのと、「時の鐘」を鳴らして、時刻を住民に告げる役割を果たしていたのです。

 父が家を買って住んだ、東京都下の街には、消防署があって、火の見櫓がありました。火事を見つけて、半鐘やサイレンを鳴らして、危険を知らせ、消火活動に消防団の発動を促すための、昔ながらの消防管理法だったのでしょう。最近の消防管理は、建物の構造の中に、感知機ができていますので、高台に登って、煙や火を見つけたりする必要はなくなったからなのでしょうか。

 私たちが、生活した華南の街には、「鼓楼gulou」というバス停がありました。建物は無くなっていましたが、街の中に、「鼓楼(望楼)」が設けられていたのです。中国の街には、どこにも、それがあって、街の中心で、象徴の様な建物でもありました。かつては、消防だけではなく、敵の襲撃を監視するという必要があったわけです。

 城下町を訪ねたこともありました。『殿様が、城下町の民の生活を知るために、舶来の遠眼鏡(とうめがね)を持って登るのだろう!』と思っていましたが、熊本城の天守閣に上がって、市内を眺めた時に、そこは、敵の侵入や火事を見張るためにあるのだということが分かったのです。

 古代の書に、「力の限り、見張って、あなたの心を〈力の限り〉見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。街を見張り、見守る以上に、《心》を “ all of diligence “ で、見守る様に勧めています。最大の注意を向けなければならないのが、《心》なのでしょう。つまり、《自己査定》の必要性です。
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 あらゆる欺瞞や偽り、不義や汚れから、意図的に守らない限り、《心》は、こういったもので溢れて、占領されてしまうからです。毎朝毎夕、多くの人が家の前をジョギングしています。体の健康のためにです。また 有機栽培、国内生産に目を光らせながら食品を買っています。有害なものを排除するためにです。それと同時に、いえそれ以上に、《健全さ》を保たなければならないのが、この《心》です。《心》を覗き込んで点検すべきなのでしょう。

 ふと立ち止まって、今何を考えているか、何を想像しているか、何を心に満たしているかなど、点検してみることです。これを若い時に学びました。何を考えようが計画しようが、心の働きは各人の自由です。だから、どうしても《見張る》必要があります。人は容易に、〈邪悪な計画を巡らす心〉を持ち、〈心は暴行を企む〉からです。

 思いの記憶庫に残された様々な過去が、どなたにもあります。そのままに放置しておいてよいのか、時々考えてしまいます。ある方の本を読んで、《過去を精算する》ことを、しばらく考えさせられたりもしています。長く人と関わってきて、相容れない意見の違い、喧嘩別れ、無言の訣別など、和解しないままなことが、いくつかあります。一言の謝罪で、関係の回復ができるのですが、互いに誇りや面子などが邪魔をさせて、それができないのかも知れません。

 どうしても決定的なことを言わなければならない時が、私にもありました。家族を守り、自分の働きを正しく行うためにです。それとて、それでよかったのかを、査定しているのです。『義を行い、誠実を愛し、謙っているか?』に照らしてです。消防車がサイレンを鳴らして、火事現場に急行しています。《心》に火の手が上がっているかの点検は、今の世だからこそ必要なのです。

(川越の火の見櫓と中国西安の鼓楼です) 

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