憂国

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藤井武が、次の様な文を書き残しています。1930年7月に、「亡びよ」という題でした。

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日本は興(おこ)りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか。
わが愛する国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛(じゅそ)の中にか。
興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は想(おも)うた。
しかし実際、この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家の誰一人いない。
真理そのものを慕うたましいのごときは、草むらを分けても見当たらない。
青年は永遠を忘れて、鶏(ニワトリ)のように地上をあさり
おとめは、真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥づべきことをする。
かれらの偽(いつわ)らぬ会話がおよそ何であるかを
去年の夏のある夜、私はさる野原で隣のテントからゆくりなく漏れ聞いた。
私は自分の幕屋(まくや)の中に座して、身震いした。
翌早朝、私は突然幕屋をたたみ私の子女の手をとって
ソドムから出たロトのように、そこを逃げだした。
その日以来、日本の滅亡の幻影が私の眼から消えない。
日本は確かに滅びつつある。あたかも癩(らい)病者の肉が壊れつつあるように。
わが愛する祖国の名は、遠からず地から拭(ぬぐ)われるであろう。
鰐(ワニ)が東から来てこれを呑(の)むであろう。
亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地(いくじ)なき青年の国!
この真理を愛することを知らぬ獣(けもの)と虫けらの国よ、亡びよ!
「こんな国に何の未練(みれん)もなく往(い)ったと言ってくれ」と遺言した私の恩師(内村)の心情に
私は熱涙(ねつるい)をもって無条件に同感する。
ああ禍(わざわ)いなるかな、真理にそむく人よ、国よ。
ああ◯よ、願わくば御心を成したまえ。

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藤井は、明治20年(1888年)、北陸金沢に生まれた人でした。警察畑で働いた後、将来を嘱望されていたのに、官職を退職し、内村鑑三の弟子となります。師にも勝るとも劣らない器でしたので、碩学(せきがく)と碩学の考え方の違いで衝突し、後になって和解するを何回か繰り返しています。しかし、師の死に際しては、告別の任をとっています。彼自身も、42歳で没してしまいました。

私は、若い日、友人の紹介で、彼の全集を買い求めて読み始めましたが、その思想や、生き方や、あり方が潔く、はっきりと主張してやまない様子が好きだったのです。「憂国の士」で、日本の将来を危惧しますが、この様な主張の15年ほど経った時に、日本は米英との戦争に負けて、焼土と化します。

今の日本は、何かしら、藤井が心配した時と、同じ様な国情、国際上の諸国との関係にあって、多くの問題が孕んでいて、同じ轍(てつ)を踏まないか、ちょっと心配です。人心も乱れて、〈民意の高さ〉など、誇れない時代ではないでしょうか。私は、この国を逃げ出しませんが、務めがあるなら、外に出て、そこから祖国を執り成したいと思ってもいます。

(金沢の「銘菓」です)
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world map illustration (globe / sphere). focus on Japan and east asia.

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「職人」、もう少し適格な日本語表現をすると、「匠(たくみ)」ですが、その「匠の技」を見たことがあります。日光東照宮や二条城などでの建造物ではなく、東京都下の農家の屋根裏に上がった時に、この目にした時でした。屋根裏の骨組みをなしている建築材(母屋〈もや〉)が、真っ直ぐではなく、自然の曲がりのまま使われていて、その曲がりに合わせて、屋根を支える縦の木材(小屋束〈こやづか〉)が、「枘(ほぞ)穴」に、「枘」が寸分の隙間もなく組み込まれていたのです。

建て売りの家の普請しか見たことがなかった私は、すっかり驚いてしまったのです。宮大工でもない、二百年も、いえ、もっと前の、田舎の村で名前などないに等しい大工さんが、それほど精緻に大工仕事をしていたことに、驚いたのです。そこは見られることなどない隠れた箇所であって、興味深い私の様な者でなければ、見ようとしない陰の部分でした。

小学校を過ごした街の通学路に、二軒の桶屋がありました。プラスチック製品など無い時代でした。風呂桶や手酌や寿司桶などを、何種類もの独特な鉋(かんな)や鋸(のこぎり)や鑿(のみ)などを使って、板床に座り込み、木屑にまみれて作業をしていたのです。水を張ると、一滴の水さえ漏れない様な作業をしていました。檜の木の匂いが好きで、座り込んでは、おじさんの手の動きを眺めていたのです。

出来上がった、この方の作った桶を、わが家でも風呂桶に使っていたのです。井戸水を、ポンプで汲み上げて、薪で沸かして柔らかく揉まれたお湯が気持ちよかったのです。ただの大工のオヤジ、桶屋のオヤジの磨き上がった手の技は、子どもの私にも、興味が尽きませんでした。工場で大量に作るのではない、コンピューターなんかない時代の手作業の「匠の技」には、度肝を抜かされてしまったのです。

地球の位置は、どうでしょうか。太陽の熱量の恩恵は、絶妙な距離に保たれているのです。もう少しでも近ければ、金星の様に砂漠化してしまいます。遠ければ火星の様に凍りついてしまうに違いありません。地球の重力の大きさも重要です。重力が小さ過ぎると、月のように無重力になり、不毛の地になってしまうのだそうです。また大き過ぎると、木星の様に、生命体がいたとしても、有毒ガスが発生して窒息してしまいます。

まさに絶妙なバランスに、宇宙はあるわけです。そのバランスには、知恵があり、計画があり、目的があるのです。家や桶や鉋に作り手があるなら、それらに勝る地球や太陽系や宇宙に、「造り手」がいないはずはなさそうです。桶屋のおじさんは、独特な寸法を測る道具を持っていて、驚くほどに研ぎすまされた技を持っていました。地球は、《何をかいわんや》です。

今年も、この地球の上で、時々、揺れ動く日本で、このところ想像を絶する様な量の暴雨が降り、エアコンの効かないほどの暑さに見舞われそうですが、「正宗の職人」の「匠の技」、「創造の業」の上にある安心感は、まだまだ大丈夫で、持ち堪えそうです。

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駅伝とアメフト

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今年も、とても面白かったのです。シード校10校と予選を勝ち進んだ10校の20校、そして学生連合チームを加えた21チームが参加して、正月の二日、三日と、東京と箱根を結ぶ200kmを、往路5区、復路5区の10区を、襷を繋いで競う「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」が、今年96回目が行われました。

往路も総合も、青山学院大学が優勝しました。娘たちの家族がいるのに、テレビを持たないわが家で、朝から昼過ぎまで、ラジオにかじりついて、私は中継放送を聞いていました。母校の名誉のために、自分の学校の襷を、次走者に渡して、ゴールを目指す奏者たちの姿が、実に素敵なのです。13年振りになるでしょうか。

もう一度、スポーツができるなら、箱根駅伝の走者として、走ってみたい思いが、ずっとしています。力尽きてしまったり、足がつってしまったりで、棄権することもあります。緊張のあまり寝不足だったり、風邪をひいたりで体調管理ができないこともあります。それでも、襷をつなごうとする思いがあって、その思いが積まれて、走り切るのです。
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第1回大会は、1920年に行われ、東京高等師範大学(現在の筑波大学)が優勝しています。オリンピックに出場した金森四三は、『オリンピックで日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成したい!』と考えて、この「箱根駅伝」が始められたそうです。その考えの中には、かつて東海道を飛脚が、宿場と宿場を走って、繋いでいたことと関係もありそうです。

かつてはマイナーだったのが、年々人気が高まり、テレビ中継が行われる様になり、爆発的な人気を博して、もう《国民的正月行事》となっています。個人の人気もありますが、母校の名誉をかけて走る下向きさがいいのでしょう。もう根性で走るだけではなく、科学的にも一年をかけて準備をしていくチーム作りに、コーチングスタッフの指導も欠かせなくなってきています。

アメリカでは、一月一日に、百年以上の伝統のある、アメリカンフットボールの「ROSE BOWL」が行われ、14才の孫と婿殿と一緒に、ネット中継の試合を観戦しました。オレゴン大学とウイスコンシン大学の対決で、1点差で、彼らの地元のオレゴン大学が勝ったのです。このスポーツ競技もアメリカでは、野球と双肩を競うほどのものです。勝って、狂喜しないで、冷静に孫が喜んでいていました。このチームは彼のお父さんの母校なのです。

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小さな幸せ

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「団欒(だんらん)」、暮に実家に帰って来た娘たちの家族と、8人で、正月気分を味わっています。お雑煮、おせち料理、温州蜜柑を、娘たちが用意してくれて、その味に馴染んで過ごしてきた「正月」を、肩を触れ合う様な狭い洋間に、テーブルと炬燵を囲んで、和気藹々(わきあいあい)で迎えています。

口から食物を摂れない家内が、窮余の治療で、首の血管から、栄養剤を入れるようにされた姿を見て、家内の最期を予測した私にとっては、この元旦に、テーブルで、娘たちの作った「お雑煮」を口に運んで、『美味しい!』と言っているのを眺めて、感無量です。

鶏肉、小松菜、三つ葉、醤油鰹節味の祖父流、関東風仕立てで、食べて育った娘たちが、同じ味を受け継いでいるのです。ヨーロッパ移民のアメリカ人家庭で育った二人の婿殿たちが、それを上手に箸を使いながら、たづくり、なます、松前漬け、数の子、蒲鉾、伊達巻、昆布巻きなども、躊躇しながら口に運んでいました。さらに二人の孫たちも、文句なしで食べていたのです。

孫たちは、イワシの丸干が並んでいるテーブルを囲んでいました。幼い日に、スーパーの魚売り場を、鼻をつまみながら走り抜けていた初孫が、高校生になった今、家内が焼いた干物の匂いを懐かしんでいる母親を横目で眺めながら、昨晩の食卓を、鼻をつまむこともなく囲んでいたのです。

元旦には、私の弟が、姪の運転で、この家を訪ねてくれ、お昼を一緒にし、夕食には、元旦営業のスーパーで、高級ずしと有名店のシュークリームを買ってくれて、それに娘たちの料理を加えて、「新年会」を持つことができました。弟と元旦に、同じテーブルを囲むのは、半世紀ぶりになるでしょうか。

昨日は、巴波川の河岸を、一緒に散歩をし、婿殿や孫たちの放る餌に群がる鯉や鴨を相手にしながら楽しんでいる様子を、家内が微笑みながら眺めていました。歩けるのに、婿や孫に、車椅子を押してもらって、私には見せない満面の笑みを浮かべていたのです。

お昼は、スーパーの弁当売り場で、それぞれの好みに応じて、弁当やサンドイッチや唐揚げを買って、フードコートですませたのです。婿たちが、前の番に美味しく食べたシュークリームが気に入ったのか、また買ってくれて、たい焼きもデザートにしてくれて、一緒に過ごしました。

実に感謝な時を、共にしながら、「小さな幸せ」を、最大限楽しんでいる家内は、満ち足りて、心溢れております。明日は、二人の息子が家族で訪ねて来ます。日光の近くの宿泊施設で、泊りがけで、過ごす予定になっているそうです。そして明後日は、ついぞしたことのない、《家族写真》を14人で、明治五年開業の老舗の写真館で撮ることにしています。これは家内の《たっての願い》によります。

こんな素敵な「2020年」を、共に迎えられて感謝でいっぱいです。娘たちは食後、孫たちの要望で「ユニクロ」に行きましたが、先に家内と家に戻った私は、また〈転寝(うたたね)〉をして、正月早々、家内に叱られてしまいました。

(“アートバンク”の正月風景です)
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音と臭い

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毎朝、朝6時になると、鐘の音が六つ聞こえてきます。近くのお寺の鐘です。鐘楼の鐘を突く音だと、もっと情緒があっていいのでしょうけど、スピーカーの合成音の様です。なんだか百年ほど、タイムスリップしている様に感じてしまいます。元旦の朝も、同じように聞こえてきました。

♭ ゆうやけこやけで ひがくれて
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょう

こどもがかえった あとからは
まるいおおきな おつきさま
ことりがゆめを みるころは
そらにはきらきら きんのほし ♯

空気が澄んだ日は、踏切の列車通過を知らせる音も聞こえてきたりします。ひっきりなく聞こえてくるのは、救急車の患者搬送のサイレン音です。消防署と救急病院の間に住んでいるからです。

♭ 昨日の夢 流行の唄 君の言葉 響く靴音
町のざわめき踏切の前立ち止まり

頭の中真っ白になるまで考えてたいんだ
それは君の事でも僕の事でもなんでも構わない

目の前をいつの間にか通りすぎていた
八月の風を感じながら

気がつけばそこは人ゴミ溢れ
かき消されたため息さえもう何も届かない

何が何だか もうさっぱりだ声を聞かせておくれ
一体何だって言うんだ!?何か言っておくれ

交差する電車猛スピードで目の前を加速する
一瞬僕から音が遠ざかる…

気がつくと踏切の前
同じ場所にいる僕がいた
何も変わらない何者でもない
僕がここにいただけ ♯

また最近は、夕刻になると、拍子木を打つ音がしてくるのです。『火の用心、しゃっしゃりませ!』の口上はないのですが、冷たい空気の中に響いてくる音も、随分と懐かしく感じられます。

♭ チョキチョキ チョッキン 火の用心 ♯

子どもの頃に聞いた音で、もう聞くことのできない音が、いくつもあります。〈焼き芋売り〉の呼び声です。自転車に乗った〈トーフ屋〉のラッパ音、〈納豆売り〉の呼び声、〈竿竹売り〉の呼び声、〈ちり紙交換)の呼び声、〈包丁とぎ/鍋穴の修理/傘の修理〉の呼び声なんか、もうどこでも聞こえなくなってしまいました。

華南の街には、一組の竹の板や茶碗を片手で打ち鳴らして、何ていうのか知りませんが、伝統のお菓子を売り歩くおじさんがいました。一度だけ買って、興味津々で食べたことがあったのです。きっと故郷の懐かしい味なのでしょう。長葱と独特の味噌と小麦粉で作った物を、リヤカーに独特な窯を載せて、そこで焼きながら売り歩いている知人がいました。家内が、それを頂いて帰ってきたことがありました。

音だけではなく、臭いが思い出され、幼い日が蘇ってきそうです。アッ、カーバイトのアセチレンの臭いがありました。電池のない時代には、携帯ランプとして使われたり、お祭りの屋台の照明に使われたりしていました。あの匂いは、もう一度かいでみたいものです。

今年は、どんな珍しく、郷愁を誘う懐かしい音を聞くことができるでしょうか。華南の街の音楽堂で、演奏会があって、何度か招待状をいただいて、聴きに行ったことがありました。音楽大学の教師が、そんな機会を設けてくださったのです。懐かしい正月の雰囲気が、何と無くして来る朝です。

(カーバイトランプです)

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人生にイエスと言う!

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迎えた新しい2020年、私はどんな人と出会うのだろうか、どんな時を過ごすのか、どこに行くのか、何が起こるのか、ワクワクしたり、驚いたりするのだろうと、寝床の上で、年明けの今、考えています。

人には、先が知らされていないのが好いのだそうです。将来が誰の前にも、秘密にされて見えないわけです。もちろん願いや希望はありますが、人はそうやって生きて来たわけです。

私の誕生に関わった両親、その両親から生まれた二人の兄と、ひとりの弟のいる家族の中で育ったこと、終戦間近の暮れに、父の赴任地の山奥で生まれたことは、全部偶然ではなく、なるべくしてなった必然でした。それから年を重ね、多くの人と時と出来事と出会い、自分の意思だけではなく、何か大きな力に押されたり、引かれたりして生きて来ました。

昨年末、新しく住み始めた家、親元に、長女夫婦が帰って来ました。翌日、次女家族四人が続いてやって来ました。長男は、嫁御の実家に帰る所だと、高速道路のサーヴィスエリヤから連絡があり、正月四日にはやって来ることになっています。次男も、嫁御の実家で正月を過ごして、ここに来ると電話してくれました。彼らの親になったことも、育てたことも、不思議な出会いであり、配剤だったに違いありません。

私に最高、最善の伴侶が与えられ、次々と生まれて来た四人の子どもたちと一緒に、同じ家で過ごし、同じものを食べて、家族として、同じ空の下で過ごし、時至って、それぞれに彼らが独立して、各自の人生を生き始めて行ったのです。親子や兄弟や結婚の絆とは、不思議さ、言い知れない導きがあったと思い返してます。

私の学んだ中学の校長が、『離合集散常ならず!』とよく、全体朝礼の講話で言っていました。人、時、出来事の出会いや別れは、不可思議な力に押されたり、引かれたりしていると教えられた通り、今を迎えています。

私の愛読書に、『見よ。わたしは新しいことをする!』とあります。繰り返されることではない、《真新しいこと》、これまで経験したことのないことが起こると言うのです。《新しい人》、《新しい時》、《新しい出来事》との出会いがあるのです。

これまで、そうであった様に、喜んだり、あるいは悲しんだりするのでしょう。それら全てをひっくるめて、人の一生があるわけです。臆せず、慌てず、意気阻喪しないで、喜び、躍り上がったりもするのでしょう。あらゆる境遇に対処する秘訣を身につけ、人生の機微を楽しみ、耐えて生きたいものです。

みなさんの今年が、意味や価値のある一年であります様に。健康も病気も、出会いも別れも、それらを引き受けて、助けられ、励まされ、また叱責されたりして、何でも起こりうる人の世で、すべてのことを感謝して、「温故知新」で生きて行きたいものです。フランクルが言った、『それでも人生にイエスと言う!』、そんな一年を生きたいと、空(から)の巣に帰って来、帰って来ようとしている子たちを、家内と共に迎える正月です。

(福寿草です)
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