オクラ

 

 

これは、東広島市の畑に咲く「オクラ」の花です。よく食べるのですが、花は初めて見ました。綺麗な花ですね。いつもの様に、[HP里山を歩こう]の配信の写真です。こちらのオクラは、三倍くらいの大きさで食べるのは、しばらく敬遠していたのですが、茹でたり、生食で食べると、けっこう柔らかくて美味しいのです。やはり品種が違うのでしょうね。

日本の山は、岩山も多いのですが、都市部に近い所には、盛り土の山が多いのでしょう。大雨が降ったり、地震がくると、滑るように崩れてしまう様です。私たちが長く住んだ街は、巡りが山でした。要塞の中にいる様で、落ち着いたのですが、その山が崩れてしまった北海道や熊本や岡山や広島は、地肌が露出してしまっています。時間とともに、植生が回復するにでしょうか。花の種が落ちれば、来季は花だって咲いてくれることでしょう。

それにしても、遥か昔に積まれたものが、崩れ落ちていくのは、辛いですね。

お見舞い

 

 

9月6日未明に起こった「北海道胆振東部地震」で、被災されたみなさんの1日も早い、精神的、物質的な両面の回復を、心から願っております。昨年、入院手術とリハビリをしたていただい病院の院長と、こちらでお会いした旭川出身の日本語の教師をしておいてられた方に、お見舞いのメールを差し上げました。

昨日の朝の時点で、病院長からは、正常な診療が再開されると言っておられました。また旭川の先生からは、震度4の揺れがあって、それは初めての経験だったそうで、驚いておいででした。お二人ともご無事だそうです。特に入院中の病友のみなさんの様子も心配になっています。

停電、断水、余震、物資の不足と、生活不安が大きい様です。早期に通常の生活に戻られます様にと願っております。

(厚真町吉野の山の崩落現場です)

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勢い

 


スポーツの世界でも、文学や芸術の世界でも、医学などの自然科学の世界でも、《ニッポン女子》の勢いがすごいですね。元気で、溌剌として、世界に伍して活躍しているのに驚かされます。「女三界に家なし」とか「三従」とか、男の陰で抑圧されて来た、東アジアの世界で、最近の活躍が目立ちます。

父と母を見ていて、結局は、強がりを見せていた父よりも、何時も『はい!』と父に従っていた母の方が、肝が座っていて、何が起こっても動じないで、冷静に全体を見ていた様に思うのです。母は、幼い日に<メソメソ>を十分にしたからでしょうか、子育てしていた頃に<メソメソ>しているのを見たことがありませんでした。

家事を終え、夜遅くに終い風呂に入って、床につき、朝一番に起きて、朝食の支度をする、これを毎日毎日繰り返していて、文句ひとつ言いませんでした。家族を送り出した後に、自分の時間があって、それを楽しんでいたのでしょうか。子どもたちが大きくなってから、週一で、中央線に乗って新宿に行き、街歩きや買い物をしてくるのが楽しみだったそうです。”高野フルーツパーラー“か、“デパート”の食堂街で、何か食べるのみ楽しみだったのでしょうか。そんな息抜きの芸当のできる女(ひと)ではなかったのです。

<女々しさ>のない母だったのです。でも、けっこうみんなのいない所と時間に、泣いたこともあったのかも知れません。十代で、カナダ人の家族との出会いがあって、その頃から「本」を読む様になって、歌ったり、人のことを思ったりする習慣が、身についていた様です。よく、食事の後片付けをしてから、駅裏にあった家での「読書会」に出掛けて行っていました。

「しっかり者」でした。縫い物も料理も器用だったので、料理研究を自分でして、色々と考えながら、男五人の食事を作ってくれていました。ちらし寿司、カタ焼きそば、ハンバーグ、カレーライスなどは絶品でした。母の幼友達が、『お転婆で、今市小町だったのよ!』と、子どもの頃の母のことを教えてくれたことがありました。

お転婆仲間の幼馴染がいて、満州にご主人と出掛けて、その後、行方知らずになったのだそうです。母を思い出すと、今日日の《ニッポン女子》の活躍が頷けられるのです。恥ずかしがらず、衒(てら)わず、自分の境遇に抗(あらが)わずに、今の責任に生きていた古い女子だったのです。そんな岡さんたちに育てられた世代が、私たちでしょうか。もちろんナイロン・ストッキングの強さも聞いています。

(アジア大会の女子サッカー、なでしこジャパンの横山選手のシュートです)

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雨と水

 

 

バケツ一杯の水は、下げてみると随分重いものです。このところ、私の住んでいる街に降る雨の量も、半端なく多く強いのです。よく、『バケツをひっくり返した様な雨!』と言ったりしますが、天気ニュースでは、『1時間に100ミリの雨が降りました!』と言っていますが、どれほどの雨なのか、調べてみました。

上欄のイラストの様に、イラストで、相撲の力士の重さで例えている様です。『集中豪雨の危険性は雨量の数字だけだとなかなかイメージしにくいので、私はよく「1時間100ミリの雨」を重さに換算し,「100キロの力士が1平方メートルあたり1時間にひとり落ちてくる」と解説してます.1時間に150ミリは,極めて危険.(“FUNDO”によります)』とありました。

続いて“FUNDO”に、『ちなみに、気象庁では雨の強さを分かりやすく伝えるために、「やや強い雨」、「強い雨」、「激しい雨」、「非常に激しい雨」、「猛烈な雨」の5段階に分類しているといいます。例えば「激しい雨」とは1時間に30ミリ以上50ミリ未満の雨であり、バケツをひっくり返したように降るイメージ、「猛烈な雨」とは、1時間に80ミリ以上の雨で息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感ずるイメージとしています。』とありました。

家内の話によると、実は、毎朝、5階から(家内が見上げて確かめた様です)、洗面器かバケツの水が、窓の外から捨てられるのです。直接かぶることはないのですが、ちょっと常識外れかなと思っていますが、いろいろな生活方式があるのでしょうか。ですから、そんな雨降りが、地上に降っているのには、驚かされるのです。

この「寝耳に水 」の様なことを、「水に流す」べきでしょうか。「水入らず」の我が家に被害が被るので、「立て板に水」の様に抗議すべきでしょうか。3階や4階の住民も、毎日のことですから、目撃しているのでしょう。「年寄りの冷や水」だと思われそうですが。抗議しても、「焼け石に水」になってしまいそうです。

そう言えば、一度だけですが、石鹸を持って外に出て、大雨の時に体を洗ったことがありました。隣の家の同じ年頃の女性が、窓の上段の透明ガラス越しに覗いていたのです。もちろん非は、こちらにあるのですが。ちょっとやり過ぎかなと思ったのですが、若気の至り、後の祭りでした。でも、あんなに爽快な気分は、その後味わっていません。

今日、関空が、想定外の高潮で、滑走路が被害を被ったとニュースが伝えていました。来年、再来年、もっと雨量が多くなるのではないだろうかと、心配になってしまいます。今年だって、台風の襲来が、まだまだありそうですから、この自然の対決で、私たちは知恵比べをして、被害を被らない様に、対策をして行く必要がありそうです。これは、「水にする」ことはできませんね。

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ASAGAO

 

 

今朝のベランダの寒暖計は、28.5℃を示しています。二階の洗濯機を置いてある壁際に、この寒暖計があります。昨夜も暑苦しく、寝苦しかったのです。まだ秋を実感するには至っていない様です。昨日未明、北海道で、大きな地震がありました。震度7を記録したそうで、大きな被害があるとニュースでお聞きしました。被災者のみなさんが、この困難な時期を耐えて、何時もの生活に戻られる様に、心から願っております。

様々な事が起こりますが、自然界の営みは忠実で、今朝も、美しく清楚に、朝顔が三輪ほど咲いています。もう晩期なのでしょうか、葉が黄色く変色し始めています。昨日は、家内とバスに乗って、川向こうのショッピングモールにある、パン店に行き、ラテ・コーヒーを飲んで、朝の一時を過ごしました。16歳の誕生日を迎える<小朋友xiao pengyou>に、誕生祝いのケーキを宅送してもらおうと、出掛けてのことでした。もう何年も励行しています。

この子は、青年期初期の"モヤモヤ期"に突入し、お父さんとバトルをし、家出をし、怠学し、心の逃げ場所がなのでしょうか、勉強に興味を向けずに、"PCゲーム"に向きを変えてしまっています。日本の中高生の95万人が、"スマホ中毒症状"にあるのですから、人口の10倍の中国には、1000万人ほどもいるかも知れません。これは、世界中の大きな社会問題で、憑かれた様にゲームに嵌ってしまっているのです。

週一出会えるこの青年が、<破れ口>に辿り着ける様に、私たちは願っているのです。あんなに無邪気で可愛かった少年が、目が座って夢中になっているのには、親ならずも心配で仕方がありません。"思春期症候群"、子どもから大人になろうとする過渡期は、本人は苦しいのですね。ここを通過して、みんな大人になっていくのでしょう。<来た道>を思い出して、同じ様に親や担任に心配をかけたことを、申し訳なく思い出している、九月の初めの朝であります。

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謙遜

 

この花は、「キセルアザミ(煙管薊)」と言うそうです。下向きに咲くのが特徴だそうで、「謙遜さ」が溢れていています。現代人はあまり、この「謙遜さ」は好まないのでしょうけど、高慢な人は「鼻」について嫌われますね。[HP里山を歩こう」が配信してくださった、呉市灰ケ峰に、謙遜に咲いている花です。稲穂が、実るほどに、頭を垂れるのだと聞かされて来ましたので、もう少し、私も謙遜な人に学びたいものです。

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懐念朋友

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秋は、山菜やキノコの採取の季節でもあります。東京電力の元社員で、現場でお仕事をされた方が、春と秋に、私を連れ出してくれ、送電線の保守点検をされた経験から、春にはタラの芽などの山菜、秋にはキノコを取りに連れ歩いてくれました。家内の友人のご主人の元同僚で、日曜日の忙しい私に合わせて、週始めの月曜日に、友人のご主人は、わざわざ休暇をとってくれました。

腰に「鉈(なた)」を下げ、地下足袋をはいた出で立ちで、退職後なのに、身軽に山を縦横に歩き回られるのです。二十も若い私は、息が切れるのに、この方は、無駄のないプロの歩きをされていました。山の斜面を斜めに登り降りする姿は、軽業師の様でした。こういった人を、“プロフェッショナル”というのでしょうか。日本語ですと、「職人」と言ったら好いのかも知れません。

キノコを見つけると、『これは食べられません!』、『オッ、これは大丈夫!』と教えてくださっての採取でした。きっと山で鍛えた足腰と、肝の座った生き方をされておいででしたから、今もお元気でしょうか。もう随分お会いしていません。そう言った方々が多くいらっしゃって、『まだ元気で生きてます!』とご挨拶をしたくなっているこの頃です。

この方を、紹介してくださった、家内の友人の夫妻のご長男が、家族に、「松茸(まつたけ)」を食べさせたかったのでしょうか、岸壁をよじ登って、岩場に入って採取しようとした時に、足を滑らせて滑落し、亡くなったとお聞きしました。この方は、まだ3歳くらいの頃から、お母さんと一緒に、事務所に来られて、実に可愛い男の子でした。青年期にちょっとグレたのですが、立ち直られて、結婚されて間もなくだったのでしょうか。

お父様の最愛の息子で、グレた時は、よく相談に来られていました。亡くなられて憔悴し切ったお顔をしておいでなのでしょうか。上高地や、乗鞍にも連れて行っていただきました。この方に2人お嬢さんがいて、上の子は長男と同級生でした。下のお嬢さんも、お子さんを連れてよく見えておいででした。お会いしなければならない方々が多くいるのを思い付きます。

一時帰国しますと、結構忙しかったり、しなければならないことの優先順位を決めはするのですが、果たせない訪問が、けっこう多いのです。来春二月には、査証の更新の時期を迎えますが、訪ねたい方が多いのです。次回は、これからの身の振り方に、もう少し熟考を要する様です。70の半ばに年齢が至りましたので、“差不多chabuduo/もうそろそろ“と言ったところかも知れませんが、『知る人ぞ知る!』でしょうね。

「松茸ご飯」や「栗ご飯 」、そして「秋刀魚飯」の匂いがして来そうな、「夜長月(九月)」の初めです。アッ、この「秋刀魚飯」をご存知でしょうか。ある方のお母さんが作って、子どもの頃に食べさせてもらって、美味しかったそうで、作り方を教わって作ったことがありました。

 

炊いたご飯の上で、秋刀魚(頭と尻尾を切り取って)を蒸して、醤油・酒・昆布などの出汁(だしじる)の味付けご飯なのです。食べる前に、骨をとった秋刀魚を、ご飯の上に戻すのですが、生臭くなくて美味しいのです。”クックパッド“に作り方があります。海から遠い、中部の内陸部でのご馳走だったのでしょう。是非お試しください。難しい料理ではありません。「怀念朋友huainianpengyou/友が懐かしい」の秋です。

(”白ごはん.com”の「松茸ご飯、“クックパッド”の「秋刀魚飯」です)

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会津


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一度訪ねてみたい街の一つが、「会津」です。栃木の友人宅にいました時、東武鉄道を利用したのです。特急に乗りますと、「会津若松」に行くことができたのです。その時は、行く機会があったのですが、足を延ばすじまいでした。。

この会津の「白虎隊」を歌った歌が、昔ありました。作詞が島田磬也、作曲が古賀政男で、1937年(昭和12年)に発表され、戦時下で、戦意高揚の歌だったのでしょう。

戦雲晦(くら)く 陽は落ちて
弧城に月の 影悲し
誰が吹く笛か 識らねども
今宵名残りの 白虎隊

紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保塞(とりで)
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃も 白虎隊

〜詩吟〜
南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且彷徨(ほうこう)す
宗社亡びぬ我が事おわる
十有九士屠腹して斃(たお)る

飯盛山の 山頂(いただき)に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
花も会津の 白虎隊

戊辰戦役(ぼしんせんえき)で、官軍の攻撃に、鶴ヶ城を死守していたのが「白虎隊」でした。藩黌(はんこう)の「日新館」で学んでいた少年たちが、『これまで!』と、飯盛山で自刃したのです(16〜17歳の紅顔の19人の美少年たちでした)。1868年、慶応4年、明治元年の夏のことでした。「潔い死」と言われるよりも、「白旗」を掲げて、父や母や弟妹のために、恥を忍んで生き残って、その使命を果たす責務が、彼らにはあったのです。

「死の美化」をするには、あまりにも悲し過ぎます。太平洋戦争末期、多くの青年たちが、死んで行かれました。やがて終わる戦争なのですから、日本の復興のために生き残って欲しかったのです。私の級友たちの、父を慕う思いが、今も蘇ってきます。「生き恥」などが、再び、叫ばれることのないことを心に念じます。

(会津若松市の市花の「あおい」です)

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秋刀魚

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佐藤春夫に、「秋刀魚の歌」があります。和歌山県新宮市が、佐藤春夫の出身ですから、七輪に網をのせて焼いたサンマに、大根おろしに醤油をかけて、それで食べる父の家の食べ方とは違って、「青いみかん」と言うのは、"カボス”で食べるのですね。私には、ちょっと“異端的”ですが、美味しかったのでしょう。次のような詩です。

あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

秋刀魚が、「塩っぱい」よりも、内臓の苦味が強く、私には感じられるのですが、冷凍物を一年中食べられるこちらでは、この時季の祖国の《秋の旬の味》とは、だいぶ味覚が違います。夕方になると、隣近所、いっせいに、モクモクと煙をあげ、七輪に団扇で風を送って焼いていた、あの日々の光景が懐かしく思い出されます。

大人になって、回転寿司に連れて行ってもらって、ご馳走になった時、この秋刀魚を刺身で食べられるのを知って、それが病みつきになってしまいました。でも、《焼き秋刀魚》は、《目黒の秋刀魚》ならずとも、下々の私でも、季節感が楽しめる大衆魚を、炭で焼いた味は最高です。何だか、もう涎(よだれ)が垂れてきそうです。

だいぶ複雑な所帯の佐藤春夫が食べる秋刀魚は、塩っぱいのには、離婚、そして道ならぬ恋の背徳的である身ゆえに、納得がいきそうです。まだ愛だ恋だのに夢中になる前、この秋刀魚を焼いた煙が、秋の夕暮れの練習中のグランドにたなびいていて、厳しい練習でお腹も空いて、ちょっと空きっ腹には、酷な匂いが立ち込めていた、十代の中頃を思い起こしもします。

(目黒区 目黒のSUNまつり(目黒区民まつり)で、秋刀魚を焼く様子です)

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ふるさとの

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9月になったら、自然反応のように、歌の文句が口をついて出てきました。小学校の音楽の時間に歌った、「紅葉(もみじ)」です。作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、実に懐かしい歌ではないでしょうか。

1 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの 裾模様(すそもよう)

2 渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦(にしき)

作詞家の高野辰之は、長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)の出身ですから、信州の秋の風景を詠んだのでしょう。私の故郷も、中部山岳の山の中で、栗の実を拾ったり、アケビを採ったり、柿をもいだり、魚影を追ったりする兄たちの<追っ掛け>をして、付いて回っていました。 枯れ草を踏みながら、山の中に入るのが楽しみでした。

この高野辰之は、「ふるさと」の作詞家でもあり、同じく曲も岡野貞一が付けています。

1 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

2 如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

3 こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷

もう二度と帰らない幼い日なのですが、思いの中には鮮明に残されているが不思議でなりません。何か一コマ一コマが残像のように蘇ってくるのです。山に基地(隠れ家)を作ったり、街中に越してからも、里山の近くの地面を掘って、地下基地を作ったりしたこともありました。防空壕のに中に入っては肝試しをしたでしょうか。

父や母の顔が思い出されてきます。去ってしまった過去なのに、どうして、こんなに記憶が鮮明なのでしょうか。肩車や羽交締め、キャチボールをしてくれた、若い父の姿が思い出されます。ちょっと気取った顔をして、街に買い物カゴを下げて出かけて行く母の姿も見えるようです。

やっぱり、故郷は、人との深い関わり、運命共同体の家族との生活の記憶なのでしょうか。両親がいて、兄たちや弟がいての故郷なのでしょう。上の兄も、もう二年ほどで《八十》ですから、光陰は、まさに矢の如しです。かく言う私も、その後を追っかけているわけです。あんなこと、こんなことがあっての今日なのです。

(久し振りに陽を浴びた朝顔の花です)

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