美化することなく

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 「降誕節」、神が人となられて、人々の間にお生まれになられたことこそ、この方が「救いの君」で、神のご計画されたことの成就でした。それでキリストの教会は、そのことを感謝して、偉大な神さまを礼拝し賛美してきたわけです。

 飼い葉桶の中に寝かされた赤児、訪ねてきた羊飼いたち、星が煌めいていた夜の出来事が物語られ、絵に描かれてきました。ところが、その飼い葉桶は、家畜の餌の干し草が入れてあって、家畜が、涎を流しながら食べて、洗われることのなどなかったものです。匂いだって半端ではなかったはずです。一説では、死者を覆う布で、赤児のイエスさまは産衣として包まれていたかも知れない、と言われています。輝き、イルミネーションなどもなく、薄暗い中での誕生でした。実際には、そんな様子だったのでしょう。

 しばらくたって、東方の博士がやってきた時に、王の出現を聞いて、怯えた王ヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を殺させています。しかし、み告げによって、イエスさまは両親と共に、エジプトに難を逃れています。すんでにところで、殺されそうな危機を、イエスさまは経ているのです。そんな血生臭い出来事が続いていたのです。

 北欧やアメリカなどの家庭で、このシーズン、樅の木が飾られ、綿製の雪の白さ、煌めく星などで飾り立てて、清さや美しさや喜びに溢れています。ところが二千年前の誕生の様子は、まるっきり違っていたのです。少しもロマンチックでも、ムーディでもなく、静かでもない中に、神の子はおいでになられたのです。聖書を精読すると、これこそが誕生の事実でした。

 降誕を祝うなら、どうしても誕生間もない頃に、多くの男児が殺された一件に目をつむることも、33年半の後の「十字架の贖罪」の死も、それらを抜きにしては、考えられないのだと思うのです。この神の子の到来は、罪を犯した人を救うために、神がご計画され、イエスさまを神の子と信じる人たちの罪の身代わりに、十字架に死ぬために、イエスさまはお生まれになられたのです。

 旧約聖書に預言された、救い主の姿は、絵に描いたようでも、美形の俳優が演じる様な華やかなものではありませんでした。イエスさまの誕生の、およそ500年前に書かれた、「イザヤ書」という預言書には、次の様に預言されてありました。

 『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(5323節)』

 「見とれるような姿もなく」、「輝きもなく」、「見栄えもない」と、やがておいでになるキリスト、メシア、救い主の外貌を、イザヤは預言したのです。通りすがりの人が目を見張ったりすることなく、光に包まれていたような気配は、全くありませんでした。また豊かな家庭ではなく、木工大工の養父に養われ、夭逝したヨセフに代わって、その大工職を継いで、母や、父違いに弟妹を養ったようです。ご生涯のお姿は、まさに「苦難の僕」でいらっしゃったのです。

 肩をいからせ胸を張り、大股で歩き、あるいはサラブレッドのような名馬に乗り、長船(おさふね)の様な刀匠が鍛えた剣を腰に下げたり、錦糸銀糸の衣に、飾り立てた鎧をつけた軍神の様にでなく、「下僕」のように、汗で埃の中を、粗衣を纏い、粗食を食べ、太くなった指で杖を持つ姿でいらっしゃったのが、救いの君でした。

 私たちの願う姿など、何一つありませんでした。もっと驚くことが預言されてありました。

 『多くの者があなたを見て驚いたように、--その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた--(イザヤ521314節)』

 見る人が驚いてしまうような「醜さ」を持たれたお方だったのだと言うのです。『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(532節)』とあります。わが家の近くの「うずま公園」の樹木は、春になると、みずみずしい若芽を出し、若葉を開き、青葉を繁らせています。ところがイエスさまは、荒地に生出でる植物の根の様に、細く節だらけだったのかも知れません。

 イエスさまの誕生を、人は美化したいのです。あの歓喜の讃歌、「第九」が演奏され、ハレルヤコーラスが歌われ、星空が広がり、溢れるほどの花々で飾られた世界に、この幼子を置きたいのです。人は抱いてあやすことのできる赤児の様であって欲しいからです。

 でも、〈私の期待通りのイエスさま〉像を捨てなければなりません。私の願う様にではなく、私の身勝手な願いなどではなく、神のみ思いを、ありのままで受け入れることこそ、救い主と出会う道なのでしょう。

 サウル王のような、ダビデのような、アブシャロムのような美貌、身長を持たない、尊ばれたり、羨ましがられる姿をとらずに、イエスさまはおいでくださったのです。

 救い主に容貌への期待だけではなく、救いの計画、人の取り扱いも、神の定めを受け入れることが必要なのでしょう。降誕を祝うなら、その事実を求めて、あふれるほどの感謝と賛美で、接しなければなりません。御降誕は、贖罪抜きには考えられない、神さまがなさった出来事でした。

(宵に輝く「金星」です)

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メディカルカフェ in うつのみや

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 美味しいコーヒに誘われて、いえ以前一緒に教会生活をさせていただいた、転勤族のご家族がおいでで、その姉妹が紹介してくださってでした、まちなかメディカルカフェ in 宇都宮に、201912月に、家内を車椅子に乗せて、東武宇都宮線で出掛けたのです。

 この集いは、ガンと闘っているみなさんと、医療関係者、ボランティア、家族、協力してくださる喫茶店やパン屋さんの協力で、月に一度開催される交流会なのです。通称、がんcafe ” です。

 順天堂大学病院の「がん哲学外来」の樋野興雄医師が始められて、全国展開していて、多くの街で開催されています。闘病者と、それに寄り添おうとするみなさんが、なんでも話そうとして集っていています。この数年はコロナ禍で、開催がおぼつかなく、最近ではhybrid で行われてきました。私たちは、3年ぶりに、宇都宮市生涯学習センターで、昨日開催された がんcafe “ に参加しました。

 三三五五と会場にやって来られたみなさんとのテーブルごとの話し合いをするのです。手術を何度も繰り返しながら、新しく迎えるその日その日を、明日に向かって生きようとされておいでのみなさんの闘病姿勢には驚かされたことです。話し手と聞き手の、それぞれの思いの交流なのです。

 やはり亡くなられた方もおいでで、そのニュースを聞く辛さがありますが、みなさんはよい思い出を語られ、だれもが迎える時を意識しながら、今を生きておられるのでしょう。それは闘病者だけではなく、全ての人が、そういう今を生きているわけです。

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 この9月に、壬生町の総合運動公園で行われた、リレーフォーライフ(Relay for Life )とちぎに参加しました。400mの競技場の周囲を、亡くされた方は思い出を胸に、闘病のみなさんは、家族や友人やボランティアのみなさんなどに支えられたり、して、《いのちのリレー》をされていて、私も、昏れなずむ中を、そのグランドを一周してみました。

 1985年に、アメリカのタコマ(Tacomaワシントン州)で始められた Event で、現在世界約30ヶ国、 4500ヵ所で開催されています。会場には「ルミナリオ(LUMINAIRE)」と言われる、照明点灯装置、日本の提灯のようなものでしょうか、それに懐かしい思い出などのメッセージを書き込んで、その400mの送路のはしに置かれてありました。

 家族や友人への思いは、どなたもが強いものです。ただガンだけが死をもたらすわけではありません。どなたも、やがて迎えることです。でも、その対局に、「永遠のいのち」のあることを、聖書は記し、それに至る道を示しているのです。

 『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 (ヨハネ524節)』

 厳然たる「死」は避けられませんが、「死からいのちに移されること」を、聖書は明確に告げるのです。どうしようもない運命で、諦めてしまうのではなく、「いのちの付与者」である神さまを信じる者には、永遠のいのちをいただけ、「不死」を着ることができるのです(1コリント15章54節)。この希望を持って、残された時を輝いて生きていきたいものです。

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 一昨日は、6週一度の通院で、近くの医院に出掛け、帰りにスーパーで買い物をして帰って来ましたら、家の玄関の鍵がポケットの中になく、どこかに落としてしまったのです。立ち寄り先に電話して、届いてないか聞いたのですが、どこにも無かったのです。『届いたら連絡させてもらいます。』と言ってくれました。

 どうもなさそうなので、家内用の鍵で、合鍵を作ろうとカインズに出掛けたのです。『マスタキーでないと・・・』とカウンターで言われてしまいました。店の防犯上の決まりなのでしょう。それで散歩の道筋に、『合鍵作ります!』の看板の見覚えがありましたので、その店に回ったのです。

 店番のおばあちゃんが、難しいことは言わないで、コピーを作ってくれました。やはりプロの仕事で、家に帰って来て、その鍵で玄関の扉が開いたのです。それで、聖書の記事を思い出したのです。

 『ひとりが材木を倒しているとき、斧の頭を水の中に落としてしまった。彼は叫んで言った。「ああ、わが主。あれは借り物です。神の人は言った。「どこに落としたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切って、そこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。 2列王656節)』

 この人は、無くしたのではなく、水の中に落としてしまったのですが、預言者エリシャが、一本の枝を水の中に投げ込んだら、重い斧が浮かんだのです。私の失くした鍵も「借り物」でしたから、返さなければなりません。自分はエリシャのような預言者ではなかったので、「木の枝」を投げませんでした。

 助け手エリシャは、いつでもいてくれそうにありません。道具を使う人は、それを使う前に、点検整備が必要なのでしょう。借り物ならなおのこと、楔(くさび)で斧と手持ちの握りの部分がしっかり収まっているかを見るべきです。今回の私の鍵の紛失の場合は、管理が足りなかったのです。

 無くしたのは、脱いだ手袋と一緒に、上着のポケットに鍵を入れていたので、手袋を出す時に地に落ちたのでしょう。ズボンのベルトにキーを収める小物を持っていましたが、冬場にベルトを使わないズボンを履いていたので、それを使わなかったからです。

 今朝は、ズボンを履いて、鍵のホルダーをしっかりベルトとのつなげました。アルゼンチンの研修旅行に行った時に、お土産の小物を買って来ていて、その holder が引き出しにありましたので、それを取り出したのです。

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 鍵といえば、聖書にも「鍵」が出てきます。

 『わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。 わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。 彼は、父の家にとって栄光の座に着く。(イザヤ222223節)』

 この預言のことばによると、「鍵」はだれの肩に置かれるのかと言いますと、主イエス・キリスト、救い主、神の子のです。イザヤの時代、パレスチナの地で用いられていたカギは、どんな物だったのでしょうか。どのようなものにしろ、その役割は「開閉」で、閉じられた部屋や箱などを「開ける」ことだったのでしょう。神に関わる秘密や奥義が、開かれていくのかも知れません。その「ダビデの家」、統治者なる神が、イスラエルの王として膏注いで、選ばれたダビデに、その神の民イスラエルの国を任せました。

 ただし、ダビデには、多くの人の血を流したこと、また民の数を勘定して犯した罪がありましたが、やがて「ダビデの子」と自らを言われた、神の御子イエスさまこそが、鍵の担い手でいらっしゃることを預言したのです。マタイの福音書では、神さまが、ペテロに鍵を用いることが欠かされとの記事があります。

 『わたしは、あなた(ペテロ)に天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ1619節)』

 ここに語られているペテロは、教会の土台の岩になるほどの祝福に預かっていますから(マタイ1618節)、「キリストの教会」こそが、「天の御国」、神の奥義、神の約束などと深く関わることを、たとえば解いたり繋いだりできる権威を与えられていることを、ここで言っているのではないでしょうか。

 とにかく、イエスさまこそが、「天の御国」にしても、約束にしろ奥義も、その施錠された世界で、それを開くことにできる方です。私たちにもできるのです。なぜなら私たちは、「キリストと共同相続人(ローマ817)」なのですから。驚くほどの委任、約束、祝福をいただいているのではないでしょうか。

 私の家の鍵は、私の住んでいる玄関しか開けられません。でも、神に関することを開いたり閉じたりすることのできる鍵が、私の手の中にあるのです。それって、きっと「信仰」のことなのでしょう。

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ドジョウ

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 近所の小川に出掛けては、ザルですくい獲ったのが「泥鰌(どじょう)」だったそうです。だれがかと言いますと、私の父でした。だれと一緒に行ったのかと言いますと、予科練に行こうとしていた「シゲちゃん」でした。どこでかと言うと、母の故郷の島根県の出雲だったのです。

 『凖ちゃんのお父さんは、ドジョウが好きで、いつも誘われて、小川で獲ったもんです!』と、出雲を訪ねた時に、懐かしそうに話してくれました。母の家の隣に住んでいた方でした。当時は街中の小川は、コンクリート製の堤などなくて、自然のままでしたから、ドジョウも多くいたのでしょう。

 そのせいでしょうか、『凖、駒形に行ってドジョウを喰おうな!』と何度も、元気だった父が言っていました。よほど美味しかったのでしょうか、『俺の子だからきっとドジョウが好きなんだろう!』と思ったのか、喰いしん坊の私にご馳走しようとしたのかも知れません。

 東京の街に詳しい父でしたから、浅草の銘店にも、何度も足を運んだのに違いありません。「駒形」と言うのは、六区とか浅草寺(せんそうじ)とか雷門の近くにあって、人の賑やかな街だったのでしょう。今でも通りの傍に店を構えて、営業をしています。

 江戸以来の「どぜう料理」を出すので人気店の様です。「柳川(やながわ)」と言う鍋料理があるのです。骨の苦手な人には、骨抜のドジョウに、さきがけにしたゴボウを、醤油や味醂などの割り下で煮込み、卵とじにして、ネギのみじん切りを添えてあるのです。

 江戸時代からのドジョウ料理で、鰻などと一緒に、人気料理だったようです。本格的なものは食べたことがないので、父を思い出しながら、浅草を訪ねてみたいのです。コロナをお土産に帰って来てはいけませんので、まだ自重しているところです。

 東武鉄道は、浅草から埼玉、千葉、群馬、栃木の各県を、12の路線で結んでいて、1899年の開通しています。創業者は甲州人、現在の山梨県山梨市出身の「鉄道王」と異名をとった根津嘉一郎です。繁華な東京と地方を結ぶ鉄道路線を創業したことは、鉄道に使命をよく心得た人だったことが分かります。

 この根津嘉一郎は、教育事業にも財力を用いて、武蔵大学、武蔵工業大学など、大きな大学ではないのですが、次代を担う優秀な人材を育てて来た学校を設立しています。根津の命名した社名の「東武」とは、〈武蔵国の東部〉と言う、田舎を結ぶ路線を目指して命名した社名のようです。

 浅草から、小学生が電車に乗って、大平山に遠足をしたのだそうです。また栃木県から、賑やかな大都市東京を訪ねて、観劇など文化に触れ、買い物のためにも、多くの人たちが利用したのでしょう。コロナ禍が落ち着いたら、まだ浅草まで、ここから直通電車では行ったことがありませんので、「柳川」を食べに出向きたいものです。

 特急ではなく普通電車に乗って、地下鉄線、東急線に乗り継いで、JR南武線まで出掛けたことが何度もあります。『イキハヨイヨイカエリハ・・・』で、帰りの東武電車で、栃木への車窓は、利根川や渡良瀬川の鉄橋を越えると、都会から田んぼの多い農村部になって、ちょっと寂しさを覚えてしまいます。

 でも空気も景色も人情も、良い栃木なので、ここが好きになっている私です。でも、まだドジョウ一匹、見たことがありません。浅草、昔は「浅草雷門駅」と呼んだそうで、そろそろな気配がしますので、そんな浅草に、行かなくては!

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教会のいのちは説教である

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 同じ牧師のお話です。

 『昔、私の牧する教会に、Nという老人がいました。私はNさんを好みませんでした。むこうも同様に私を好いてはくれませんでした。親子ほど歳の違う牧師と会員の関係は複雑にして微妙で・・・(役員会で)あわや茶碗が飛ぶかと思われる場面が二度三度。

 役員会を土曜の夜にした時などみじめでした。次の日が日曜です。「Nさんがどうか休んでくれるように!」と何度願ったかしれません。ところが休むどころか日曜の朝になると、定刻きっちり定席に座っているではないですか。

 私は砂をかむような思いで説教しました。Nさんは献金を集め、すばらしい祈りをしました。私は「負けた!」と思いました。Nさんは、説教者が説教職として召されていることの重さを、しっかりと受けとめていたのです。説教者が気にくわんといって、礼拝をボイコットするようなことをしませんでした。

 Nさんはなかなかのサムライでした。Nさんは、講壇に立つ説教者の中に、年齢、経歴、個性、それらを見ませんでした。見つめるべきは《神の主権》であり、行うべきは《みことばへの聴従》であるとわきまえていたのです。この堂々たるふるまい。みことばの支配の厳粛さに打たれた私は、説教者が育てられるとは、「これだったか!」と、しみじみ思った次第です。(中略)

 説教が大切だ、と言われるわりには、語る者も聞く者も、それを大事にしていない。いったい説教が《いのち》にならぬ理由と原因はなにか。そのへんをとことん考えてみることから、教会の再建は始まります。もちろん前進もそこにはあります。』

 この方は、『教会のいのちは説教である!』と言うのです。私たちの教会を導いてくださった宣教師のみなさんは、まさにそのように教会を建て上げておられました。無駄な例話はしません。面白おかしく話しませんでした。

 なぜなら、会衆は「いのち」を求めて教会にやって来られるからです。くつろぎや笑いはいりません。それは他に求めることができるからです。キリストの教会は、赦し受け入れてくださった神の前に出て、賛美し、十字架の贖いに感謝して、聖餐に預かる神の家なのです。ジュネーブ教会のカルヴァンは、『かくして見ゆる教会は、われわれの視野に、はっきり浮かび上がってくる.なぜならば、神のみことばが、純粋に説教され、聞かされ、聖礼典がキリストの制定に従って執り行われるところ、どこにおいても神の教会が存在することは、疑うべからざることである。』と言いました。

 お隣の国で、私が説教をする時、借家の大広間の集会場の前から二列目に座って、いつも、じっと耳を傾ける青年がいました。故郷から出て来られて、近くのモールの料理店でコックのお仕事を修行されていて、礼拝が終わると出勤していました。《主に聴く》ことをされていてた方でした。私たちの帰国後、故郷に帰られたそうです。彼ほどの聞き手に会ったことは、これまでありません。

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在り続ける教会

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 伝道の道に入って間もない頃に、一冊の本を読みました。牧会30年の辻宣道師の「牧会生活の処方箋」です。教会生活の諸相を綴ったものでした。その本の冒頭に、次の様な記事がありました。

 『ある日、母に言われて元教会員(教会は政府の命令で解散させられていた)だったひとの所へカボチャを分けてもらいに行きました。農家でした。たしか父が牧師であったころ、役員をしていたひとでした。

 驚きました。「おたくに分けてやるカビチャはないね!」と言うのです。手ぶらで帰る少年の気持ちはどんなだったでしょうか。平穏無事な時は、まっさきに証しなどして張り切っているひとでしたが。

 そのガッシリした体格は、いかにも信仰あふれる精兵のようで、みんなの尊敬を集めていました。私もなついていました。それがどうしてカボチャ一個も分けてくれぬひとになってしまったのか。

 私には弟が三人いました。あのチビたちに何を食べさせようか、とぼとぼ帰っていった日のことを覚えています。リンゴ畑にそろそろ寒さがしのびよってくる夕方でした。

 そんなものかと思いました。人間いざとなれば、信仰もヘッタクレもなくなるんだなあと思いました。後で私が信仰を持つとき、かなりそれがしこりになってなかなか素直に神もひとも信じられませんでした。』

 この牧師のお父さまは、1942年の初夏に警察に連行され、治安維持法違反で拘束され、拘置所、裁判所、刑務所と続き、懲役二年の服役中に、青森刑務所で亡くなられています。彼が中学二年の時だったそうです。お父さまの亡骸を、お母さまと刑務所に、リヤカーをひいて引き取りに行き、亡骸が棺桶の中で、ごつごつ当たる音を聞きながら教会に帰ったと言っておられます。

 この少年は、戦後、叔父の世話を受け、神学校で学んで、任職されて牧師となられています。牧会者の子弟として生まれ育ち、茨の道をたどりながらも、お父さまと同じ道を歩んだことは、驚くべ強烈な証しではないでしょうか。

 これは、キリストの教会が持っている「二面性」を言い表してる経験談でしょうか。こう言った現実があって、教会は二千年の歴史を持っているわけです。難儀な時や経験を経ながらも、ドッコイ滅びることなく、連綿と、教会の主であるイエスさまと共に、都市にも農村にも漁村にも、そして山村にも、「キリストの教会」はあり続けての今なのです。

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この違いの感謝を

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Looking down on a yellow softball in a brown leather glove with a red baseball cap and an aluminum bat sitting in the grass with a green padded wall in the background

 

 〈ジイのひがみ(僻)〉と言われようと何のその、プロスポーツ界に見られる〈契約金〉の額の凄さに、目の玉が飛び出しそうです。大卒初任給25000円(1967年国家公務員給に準ずる初任給)と言うことで、社会の中に飛び出しました。今年の高校野球からプロに入る、ある若者の契約金が、〈一億円〉なのだそうです。

 やってみました、割り算です。4000と出ました。プロ野球チームと契約した高校三年生の若者初任給が、私の時代の初任給の四千人分になります。45年前の貨幣価値と今とは違うのですが、単純比較の結果です。

 先頃、アメリカの球界と契約を結んだ吉田正尚選手は、レッドソックスと〈5年総額9000万ドル(122億円)〉の金額での契約だそうです。サッカーにしろ野球にしろ、普通人との差の大きさに開いた口が塞がらないでいます。

 人生の目的がお金だとするなら、彼らは成功者ですね。73歳で、27才で始めた伝道者の仕事(実務)から、家内の病気を機に退きました。スーパーマーケットやコンビニの床掃除、スーパーマケットの青果部のパート、結婚式の司式をしながら、〈四足の草鞋〉を履き替えて牧会伝道をしながら4人の子を、家内と一緒に育てました。

 とにかく〈分を果たした〉と言う思いでおります。私のような者が、福音宣教の業に携われたとするなら、人の側からするなら奇跡ですし、神の側からするなら、きっと「憐れみ」だったことでしょう。〈大学で教える〉、これが私の学校を出る頃の人生設計でした。能力の問題ではなく、世渡りの術ででした。

 私が奉職した学校には、短期大学がありました。責任をとって声を掛けてくださったのは、その学校の社会科教科主任をされ、私が就職した時には、短大の教授で教務部長をされておいでの方でした。いわば、〈師匠と弟子〉の関係でした。数年の後に、短大で教え、将来、ある大学の講座を持つようなレールの上に、〈大師匠〉に置いてもらっていたのです。

 九州の福岡の教会の留守を任されていた兄を、出張途中に訪ねた時に、私の人生が変わり始めたのです。兄が東京に戻り、教会の責任を受けた時、ニューヨークから神学校の教授が来られ、特集で私の頭に手を置いたのです。その時、《聖霊のバプテスマ》を受けたのです。

 その異言を語っている間、イエスさまの十字架の死が自分の罪の身代わりだと言うことが分かり、同時に『伝道したい!』と言う願いが突然、私の心を占めたのです。野心があった私でしたから、その後、普段の生活の中で、その思いを消そうとたのですが、消えませんで、なお日毎に強くされていったのです。

 兄に責任を委ねたアメリカ人宣教師は、新しい地での開拓伝道をされようとしたのです。何人かの候補がありましたが、けっきょく私を連れていくことを決め、『どうですか?』と打診されたのです。私は、躊躇することなく二つ返事をして、着いて行くことに決めました。学校に退職届を出したのです。けっきょく、この社会で〈不義理〉をしてしまったのですが、《教会の主》から召命と確信してでした。8月になったら出発とのことで、母教会のメンバーの方の鉄工所でアルバイトをし、お嬢さんの家庭教師も始めたのです。

 『キリスト教の伝道をするって、そんなにいい給料がもらえるんですか?』と、そこの従業員の方に聞かれ、返事ができませんでした。出掛けた地は、私の生まれ故郷だったのです。父の友人が果物商で、市の中央青果小組合の理事長をしていておいででした。この方の紹介で、卸商の方が競りで買った青果を、車に積む仕事を始めたのです。パウロの伝道生涯が、Tent maker(天幕作り)であったことに励まされてでした。午後はトラクト配布、夜は聖書学校でした。

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 この50年、辛いこともありましたが、やめようとは考えませんでした。『来てください!』が忘れられず、隣国に出掛け、13年の間、学校で日本語を、週2日教えました。そう、若い日の願いが、お隣の国の大学で叶えられたのです。そして群れの建て上げの手伝いを、家内と共にさせていただきました。実に祝福の溢れる年月でした。

 礼拝出席を、〈パーティー参加〉と言う隠語を使っての知らせを理解してもらえず、遊んでばかりいると言われたこともありました。あちらこちらの群れを訪ねて、講壇には立ちましたが、みなさんに教えらることばかりの年月でした。いつもいてくださったのは、

 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル415)』 『主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(同218節)』

 「教会の主」、イエスさまが、いつも助けてくださった年月だったのを思い返して、また新しい年を迎えられるのを感謝しています。ウクライナ戦争、これが発端になって、第三次大戦を引き起こしかねない情勢ですが、助けてくださるお方と共に、どんな事態の元でも生きていきたいものです。

(上海の外灘、路地裏の風景です)

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人を作るのは時勢なのか

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 勝海舟が、『二宮尊徳は・・・正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ。』と言っています。二宮尊徳は、下野國(今の栃木です)真岡(もおか)桜町で、農業指導をし、日光でも指導し、そこで没した逸材でした。この日曜日に、友人の説教に尊徳登場でした。

 かく言った海舟も、徳川の直参旗本で、幼名を麟太郎と言いました。十二代将軍・家慶の子の慶昌の遊び相手に選ばれて、江戸城に上がっています。この慶昌が亡くなってしまったので、家に戻ってきました。その頃、犬に噛まれて大怪我をしますが、外科医の手術と、破格な人物の父・小吉でしたが、麟太郎を抱きかかえて、何日も介護をした、父性愛をによって快癒しています。

 長じて、幕府の長崎海軍伝習所に学んでいます。幕末、江戸幕府はアメリカに使節を送りましたが、海舟もその一員に選ばれ、教授方頭取として、1860年、万延元年に、咸臨丸に乗船して140日の外遊をしています。 

 何よりも、薩長の軍が江戸に迫った時に、江戸を焼き討ちにしようとの企てがありましが、海舟は、江戸を火から守り抜いて、江戸城無血開城を成し遂げた、立派な人でした。それだけの才覚を持った人物でした。

 明治維新後には、政府の要職に推挙されますが、気が進まなかったと言う理由で断っています。幕臣の維新後の仕事や生活の世話を長きにわたってしています。

 大田区の友人の家の近くに、洗足池があるのですが、その池のはたに、海舟の墓があって、友人に案内されて行ったことがありました。島田虎之助の道場で剣道の修行をし、免許皆伝の腕前でしたが、刀を用いるのではなく、知恵を用いて生きた人でした。爵位を得るにもさんざと言い分けをしていたり、私欲や名誉を求めない生き方の人でした。

 神さまは、確かに、人をお用いになられるお方です。人の側からみるなら、《時勢が人を作る》ようですが、さまざまな時代に、偶然人がいたのではなく、滅びたり、病んだり、困ったりすることを願わない、優しい神さまは、人の世の必要を見て、その時代時代に、人を備えなさるのでしょう。

(勝海舟の写真です)

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焼き芋と古新聞紙

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 北風が吹き抜ける路上で、一番の美味しい食べ物は、「焼き芋」だったでしょうか。きっと夏は、アイスキャンディーを売っていたおじさんが、冬場になると、リヤカーに、焼き芋道具一式を載せて、かまどで火を炊きながら、『イッシヤーキイモ!』と言いながら挽き売りしていた光景が浮かんできます。

 焼いたサツマ芋を包んでくれたのは、決まって、<古新聞紙>だったのです。華南の街で、ちょうど今頃の季節でした、『今日あたりは、线面xianmian(日本のソー麺に似ていました)を干す時季なんです!』と言ってくれた方がいました。『新聞紙の上がいいそうです!』と言われたのです。頂いた麺はありましたが、新聞購読をしていないわが家には、全くなかったのです。

 そういえば、読み終わった新聞紙、いろいろなものに用立てていたのを思い出したのです。トイレットペーパーのない時代の代表的な用紙でしたし、何かを包装するには、これが使われていました。畳を干した後に、畳の下に引いたり、タンスの引き出しに乾燥用に敷いたりしたでしょうか。兜を作ったこともありましたし、丸めて、チャンバラごっこもしたかな。

 情報を得るために果たした新聞紙が、読み終わった後に、そんな役割があったのを、今になって懐かしく思い出します。なんでも再利用していた時代、物の大切さの薄れた時代から思い返すと、随分堅実な時代だったわけです。アツアツの焼き芋の熱さを、薄い新聞紙一枚で包んで、手で持てた感触も懐かしいものです。

 母が漬けた大根漬けを、父が、美味しいので同僚に分けて上げたくて、それを新聞紙に包んで、中央線の電車に乗って、日本橋や浅草橋の会社に持って行っていたことがありました。車内は、糠(ぬか)の発酵臭で、ずいぶん臭かったのではないでしょうか。ビニールやプラスチックのない時代の懐かしい臭いです。そう言えば匂いのしない時代になっているかも知れません。

 古新聞を回収して、今でも再生紙を作っているのでしょうか。同じ牧師をされていた方が、時間のある時に、トラックで古新聞紙や段ボールの回収業のお仕事をしておられて、子どもたちを街の国立大学に行かせていました。恥じず衒(てら)わずに、それを続けられて、若くして亡くなられましたが、何時も背筋を真っ直ぐにして、凛とされた方でした。この方と、よく交流させていただいた、若い日が懐かしく思い出されます。ご子息は、同じ牧師となられておいでです。

 華南の街では、新聞の回収をする様子を見たことがありませんでしたが、私たちの教会に、新聞配達をしていた方がいました。その方が、風呂桶を見つけてくれて、買ったことがありました。でも、お湯を桶に入れるのに、壁掛けの電気の湯沸かし器では足りなく、けっきょくシャワーに戻ってしまい、宝の持ち腐れでした。

 ここ北関東でも、今年はまだ北風の寒風が吹いていないようです。それでも、焼き芋、ホクホクしたサツマイモやジャガイモを食べたくなってしまいました。そう言えば、濡れ新聞紙で包んで、落ち葉の焚き火の中で焼いた焼き芋が、一番美味しかったのです。自分で焼きたくても、ガスコンロでは難しそうです。

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注意を要する人がいる

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 「要注意人物」、中学生の頃、きっと学校ではそうだったのでしょう。それなのに処罰されずに、不問に付されたことが二、三度ありました。親は知っていたのに、そのことで叱られなかったのですが、それが、ちょっと不気味でした。昔の感化院(今では児童自立支援施設ですが)、そこにも行かないですみました。少年院だって、入院資格が十分だったのです。青年初期、思春時の危機を通っていたのです。

 中学校の3年間の担任が、三年の三学期の通知簿の欄に、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれていました。教師の目に、そう見えたのでしょう。私立の中学でしたから、職員会議で、校名を汚したのですから、退学だってあり得たのに、附属の高校に上げてもらえました。何と、教員資格を取るための「教育実習」までさせてもらいました。その上に、古墳や貝塚の発掘の指導をしてくれ、一緒にシャベル作業をした社会科教師の紹介で、研究所に仕事を見付けてくださったのです。

 その研究所の所長の紹介で、都内の女子校の教師に採用されたのです。仕事を始めて間も無く、中学と高校が一緒だった級友が、〈みんなの代表〉だと言って、本当に教師をしているのかどうかを、菓子折りとお祝い金を持って、確かめに来たのです。職員室からやって来たのを見た彼が、目を真ん丸くして見ていました。

 牧師になった時、『そう、君もお母さんの道を行くんだね!』と中学校の担任が言ってくれました。母と同じ信仰を表明した私にだったのです。でも、もう同級生たちは、確かめには来ませんでした。中学を卒業する長男を連れて、また担任を訪ねたことがありました。長男を見た担任が開口一番、『君は大丈夫だね!』と言って、太鼓判を押していました。中学時代の私と比較したのでしょう。息子の手前、なんてことを言ってくれたんだと思いましたが、正直、そうでした。その息子が、後に牧師になったのです。

 自分が、その要注意人物だったので、世界では高い評価を受けた人の中に、〈要注意人物〉がいるのが分かるのです。変に鼻が効くのです。私は、シュバイツアーを評価しません。自分がへそ曲がりでもあるからでしょう。「密林の聖者」、「生命への畏敬」で有名になって、ノーベル平和賞まで受賞した人でした。この人は、代々のクリスチャンが信じてきている、イエスが「神の子」であることは信じていませんでした。「自由神学」の立場で、奇跡も復活も再臨も信じていなかったのです。医療についても倫理観についても問題があったと言われています。総じて、アフリカの人たちからは評判は芳しくなく、欧米諸国からの評価は高いのです。

 カルカッタの聖女だといわれ、同じ様にノーベル賞を受賞したマザー・テレサも、高評価の影にある、実像を知らされてしまい、説教の中で、この人を引き合いに出して評価したりは、私にはできないのです。この人は、『キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています。』と言っています。キリストは苦しまれたのだから、同じように弱者や病者は苦しまなければならない、と言うのです。病気による痛みへの緩和治療も、衛生的な洗濯されたシーツも施設も、より良い薬の投与もありませんでした。

 莫大な募金がありながらも、そのお金を、収容者や施設の奉仕者の必要に使うことをせずに、口座に蓄えていたのだそうです。一緒に働いた方が、その証言しているのです。宣伝用に作り出された campaign  で、聖女とされた人でした。やはり実態が分からずに、一人歩きしてしまった人でした。

 アメリカの祝日に、「キング牧師記念日(1月第3月曜日)」があります。公民権運動で、アフリカ系の人々の地位向上のために立ち上がり、アメリカの社会を揺り動かした、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアでした。その行動の途中に、暴徒に暗殺されて、その生涯を終えています。でも彼には、scandal が知られています。公民権運動の勇者であったのは事実ですが、彼の生活に中に、ある道徳上、倫理上の問題があったと聞きました。それで私は引いてしまったのです。

 多くの本が、日本のキリスト関係出版社から出されています。ハーバード大学の教授であった人で、そこを退職した後に、知的に弱さを持つ方たちの「ラルシュ共同体」の奉仕に転身されたヘンリ・ナウエンの愛読者が多くあるそうです。素晴らしい洞察力をお持ちで、弱者に対する優しい気持ちを持って接していました。とくに「霊性の神学」の分野に通じておいででした。しかし、人生の後半で、自分が同性愛者であることを、著書の中で告白していることです。聖書的に見て、同性愛は受け入れられませんから、どんな思考、主張が優れていても、敬遠すべきだと判断するのです。

 このみなさんとは、お会いしたことも、直接お話を聞いたこともありません。でもこの人たちの神学的な問題、倫理的な問題、金銭上の問題があったり、偽善や秘密など、陰の部分があるなら、その影響力を受けないことにしています。小学生の頃、シュバイツアーは立派だと思っていました。カルカッタの貧民窟で、社会に弱者に支えていたテレサは偉いと思っていました。黒人の地位向上に命をかけたキングは勇敢だと思いました。ナウエンが著した「放蕩息子の帰郷」を読んだ時の印象は良かったのです。でもこの人たちの実態を知った時に、彼らからの感化を遠ざけました。

 神の御心から逸れた行いは、人や社会が、どんなに高く評価を下し、褒賞を与えても、聖書が言っている「愛」と「義」と「聖」とからかけ離れているのなら、近づくことは危険です。かつては、曖昧さや、不徹底さ、後ろめたさの中に、私がいたからです。その人を動機づけていたものが何か、それを見極める必要があります。

(一片の雲もない快晴の青空です)

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