36歳

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 大相撲の琴奨菊が引退しました。九州福岡の出身で、高知県の明徳義塾で、中高6年間学んだ後、相撲界に入ったそうです。中国の華南の街で、その明徳義塾高校の校長先生と校長秘書のお二人に、シャングリラ・ホテルでお会いしたことがありました。不登校の男子をお世話してしていた時でした。『私がお世話しましょう!』と、その校長が言ってくださり、この高校に留学をさせていただいたのです。

 その高校の入学式に、ご両親に代わって出席しました。立派な校長室に案内していただき、ご挨拶を交わして、式に列して辞したのです。彼は卒業し、東京の大学に四年間通い、卒業後、日本の会社に入社したのです。その琴奨菊の同窓です。実は、入学式の前日に高知龍馬空港に着いた私は、レンタカーを借りて、万葉学者の鹿持雅澄の赴任地の大山岬を訪ねました。下級武士の子で、大山岬で浦役人の勤めをしていたのが、琴奨菊の引退時ほどの年齢だったと思われます。その勤めをしながら、万葉研究をした人でした。その大山岬に、彼が詠んだ和歌の一首が、碑になって残されていました。

 秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

 高知城下に残している妻に宛てて認めた書の中に、そう詠んだのです。さすが万葉を学んだ人の歌は素晴らしく、妻を恋しくも愛する思いが見事でした。高知に行ったら龍馬や岩崎弥太郎が第一なのでしょうが、へそ曲がりの私は、雅澄(まさずみ)のいた鄙びた岬に行きたかったのです。実は、若かった私の世話をしてくださった方が、早稲田大学で鹿持雅澄の研究もされていて、そんな関係で行ってみたかったのです。
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 長年の念願を果たした翌日、須崎市にある学校に行ったのです。広大な敷地の学校の中に入って、野球場の脇を徐行していると、野球部員が、一斉に、『こんにちは!』と脱帽して挨拶してくれたのです。運動部の出身者の私を、その清々しい声が、いい気持ちにしてくれたのです。相撲部の練習場は、見当たりませんでしたが。もう琴奨菊は相撲界入りして、活躍していた頃でした。

 相撲取りの琴奨菊は36歳で引退ですが、私がアメリカ人起業家から責任を任されたのが、35歳でした。鹿持雅澄の研究の「万葉集古義」が認められ、出版されたのは、彼の没後30数年がたった明治になってからです。鹿持雅澄の業績や「千字文」の研究者の最後の弟子で、分野の違う研究の道に進ませ様としてくれたのですが、恩師の意に反して教師の仕事を辞めてしまいました。そしてアメリカ人起業家に8年間仕え、副職を持ちながら、家内と二人で、その後の仕事に従事しました。助手の時期を合わせて都合34年勤め、その後、お隣の国で13年過ごしたのです。

 思い返せば、琴奨菊が年寄りを襲名した年齢で、私は、新米の働き人になったわけです。能力や生きる世界が違うと、それだけの違いがあるのでしょうか。人生の事とは、何をしたかの業績ではなく、《何であったか》、《どう生きたか》にある、そう教えられ、そう生きて来て、まるで〈平幕〉のままで退職して今日があります。琴奨菊は《大関》を張ったのに、中古の車を乗り継いでいるのが、私と似ています。ただ、私は車に乗ることも、もはやなくなりました。

 今、6歳の小朋友が、〈百合さん〉、〈準さん〉と、七十のジジババを名前で呼んでくれるのです。彼女のお母さんから、『◯ちゃんも、嬉しい事、辛い事があると、百合さんと、準さんにおでんわする!」と、お二人をお近くに感じてます^_^』と、メッセージが送られて来ました。実の祖父母の様に慕ってくれています。

 そう生きた私たちで、満足でおります。一冊の本を書き上げることもせず、勲章も褒賞もなく、年寄り株なども買えず、片田舎で、病後と老後を過ごしている私たちですが、中国大陸の友人たからも、子どもたちからも、『お祈りしてください!』との要請が時々あります。それが、今の家内と私にできることなのです。

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妙薬

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 去年の秋、台風19号で罹災した私たちは、ご好意で、高根沢に避難所を得て、三週間弱、見ず知らずの街に住んだのです。実に親切にしていただきました。慌わてて避難して、常備薬の降圧剤を持って来るのを忘れてしまったのです。それで近くの町医者を訪ねました。親切なお医者さんが、いつものよりも等級の高い薬を投薬してくれたのです。

 また近所に、餃子の有名店の支店があって、何度か食べに行ったのです。退院後、それまで餃子を食べられなかった家内が、美味しくそれを食べたのです。北京の繁華街の「王府井wangfujing」に住んでいた方が、戦後帰国して、宇都宮でお店を開いたのが、「珉珉minmin」と言う餃子屋さんでした。その支店です。北京の隣人仕込みの製法で成功して、宇都宮市民に愛され続けているそうです、美味しく安いのです。

 またパン屋さんに、私たちの好きな「ベーグル」が置いてあって、ここも何度も出掛けては買って帰りました。餃子にしろベーグルにしろ、安く売られていて、驚かされたのです。また、「1000円散髪」の理髪店があって、家内と私が髪を切っていただきました。客扱いが親切で、感動的でした。

 あのまま住み続けたいほどの好印象を、その街で得ていましたが、今の家を契約していましたので、栃木に戻ったのです。玉に瑕(きず)は、宝積寺(ほうしゃくじ)と言うJR宇都宮線(東北本線)の駅から避難所が遠かったことです。一度だけ、家内の通院のために、電車を利用し、駅からの往復、タクシーを使ったのですが、あとは歩きでした。
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 あの時ほど、しかも雨の日に、運転できないもどかしさを覚えたことはありませんでした。滞華の間中、帰国時に、車の運転は2、3度しかしていませんでしたので、免許証の更新をせずじまいでいました。その未更新を悔やんでも〈後の祭り〉でした。そうしましたら、ここ栃木では、高齢者の運転手が多くいるのが分かったのです。なぜなら車なしでは高齢者は、こちらでは生活できないからです。

 足元のおぼつかない方が、車に乗り込んで運転しておいでなのです。それを見続けて、まだ小走りできる私は、家内の通院のために、車で送り、迎えできないことが残念で仕方がなく、申し訳ないと思うのですが、家内は大喜びなのです。長男が、通院のたびに車で来てくれ、送り迎えをし続けてくれているからです。さらに夫が運転事故を起こさないで済むのも、ホッとしているのです。
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 ここまで書きましたら、隣に住んでいた方が、イオンの近くに家を買って越して行かれたのですが、『お世話になったので、改めてお挨拶に来ます!』と言われていたのですが、この午後に、泉輝くんと、ここで生まれた涼音ちゃんを連れて、ご夫妻で律儀に挨拶に来られたのです。なんと、“ GODIVA ” のチョコレートを持って来てくれました、すごい!

 宝積寺駅からの道の脇に、紅く熟した「烏瓜(からすうり)」が垂れ下がっていて、運動会の徒競走に出る時、それを足のふくらはぎに塗り込んで走ったのを思い出したのです。けっきょく、二人の兄も弟も足が早いのに鈍足の私には効果がありまでんでした。でも最後まで走り切ったのです。あと何年かは生きられるのですが、ふくらはぎにつけるのではない、走り抜く心の脚力を強める、妙薬を見つけていますから、大丈夫でしょう。

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一葉知秋

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 前漢の時代にあった、「淮南子(えなんじ)」の書の中に「説山訓」があります。そこに四字熟語で、「一葉の落つるを見て、歳の将まさに暮れなんとするを知る」との言葉があります。

  一葉知秋

 春に芽を出し、暑い夏の陽射しに耐える様に、濃い緑をたたえていた樹々の葉も、秋が来て変色し、最初の一葉が落ちると、次々に一枚一枚と葉を落としていく、天然の法則のもとにある命が、落葉して季節を終えていくわけです。その一葉の落ちるのを見て、秋が来たことに気づくのです。夏の葉は力強く生出でたのですが、季節到来、弱くなって葉を落としてしまいます。

 わずかな前兆や現象から、事の大勢や本質、また、物事の衰亡を察知することでもあるそうです。芭蕉が、奥州を旅して、「平泉(現在の岩手県西磐井郡)」に至って、栄えた藤原三代の栄華を遥かに思って、次の様な文を残しています。

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 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
 衣川(ころもがわ)は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名(こうみょう)一時の叢(くさむら)となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。

  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

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 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と、四代百年もの間、繁栄を極めました。その中心地は、「平泉」でした、ここは、「平安京(京都)」に次ぐ日本第二の都市だったそうです。まるでその地は、「独立国」の様な勢いと存在感を誇示していたそうです。その権勢も、源頼朝によって滅びされて、露と消えてしまいます。

 奥州平泉に、中尊寺があり、黄金で金色堂を建立するほどに栄えたのですが、時は流れ、人は去り、権勢は露の様に霧散してしまい、人の噂からも消えてしまう、そんな儚さを芭蕉は記したのです。栄えれば栄えるほど、その終わりは衝撃的に儚いものなのです。やがて奥州藤原氏を滅ぼした源氏も滅びてしまいました。
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 名のない人々は、変わらぬ日常を精一杯に生き、家督相続の争いもなく、わずかな田畑を耕し続けて、代を重ねて来ているわけです。私の父は、〈鎌倉武士の末裔〉を、私に話したことがありますが、それとて系図が残っているわけでもなく、頼朝から拝領した領地や太刀が残っているわけでもなく、これも儚い夢にしか過ぎません。

 また人は書を著し、書を残しますが、やがては、薪の火起こしに使われて、灰塵に帰っていくわけです。最近、檀一雄のお嬢さんのふみさんが、お父さんの蔵書を処分した、と言っていました。文豪も、名を馳せた小説家も、棺に覆われては、大切な蔵書も、寄付されたり、処分されて、何一つ残すこともないのですね。

 わが家を見回してみますと、何一つ値打ちのある宝物はありません。ただ、心のこもった贈り物があるのみです。帰国に際して、小学生の小朋友から、この写真の置き物を記念にいただきました。一所懸命に、お土産屋さんに行って見つけて買い求め、お別れに際して、手渡してくれました。価値ある逸物です。

(中尊寺の紅葉、贈り物です)

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 「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」

 男兄弟四人でしたので、姉や妹が欲しかったのです。子どもの頃に聞いた、「人生の並木道(作詞が佐藤惣之助、作曲が古賀政男、歌がディック・ミネ)」の歌詞の中に、「妹」が出てきて、『妹があったらいいなあ!』と憧れながら口ずさんでいました。

1 泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば幼い 二人して
故郷を捨てた 甲斐がない

2 遠い淋しい 日暮れの路で
泣いて叱った 兄さんの
涙の声を 忘れたか

3 雪も降れ降れ 夜路の果ても
やがて輝く あけぼのに
我が世の春は きっと来る

4 生きて行こうよ 希望に燃えて
愛の口笛 高らかに
この人生の並木道

 これは、とても人気のあった1937年(昭和12)の映画、「検事とその妹」の主題歌でした。あらすじは、「幼くして父母を失い、妹と2人で生きてきた矢島健作は念願の検事になることができた。妹の明子も柴野秀雄という男性との結婚が決まり、順風満帆の人生かに見えた。しかし、ある事件をきっかけに健作は柴野秀雄を検挙することになる・・・」というものでした。

 喧嘩、早飯、おかずの取り合い、先駆けなど、父を加えた五人の「むつけき」男ばかりの世帯で、母はどう思いながらも、みんなの食事の支度や後片付けから洗濯、掃除、買い物、繕い物と、一日を一週を、一月を一年を過ごしていたのでしょうか。住んでいたのは小さな家で、すれ違えば肩がぶつかりそうでした。うるさくて乱雑だった家が、学校から帰ると、綺麗になっていましたし、食事も美味しかったのです。

 父には、母違いの弟と三人の妹がいたのですが、母は、一人っ子、養父母に育てられた人でした。大人になって、奈良に、父違いの妹がいて、『お姉さん!』と呼んでくれる妹を得たのです。母の元気な間は交流があった様です。母には、私たちの父は兄の様で、四人の息子は弟の様だったのでしょうか。溺愛はしてくれませんでしたが、悪戯小僧たちは目に入れても痛くなかったのでしょう、情愛深く育ててくれたのです。

 ところが、私に念願の「妹」ができたのです。弟が結婚してから、彼の愛妻が、何と『お兄さま!』と呼んでくれたのです。こんなに響きの好い、聞き心地の好い語り掛けは初めてのことでした。何度も聞きたかったのですが、聞くたびに、夢心地にさせてくれたのです。その義妹は、病気を得て、天のふるさとにすでに帰ってしまいましたが、あの呼び掛けの声は、まだ耳に残っています。

 親子、兄弟姉妹、祖父母と孫、この家族の舞台というのは、癒されたり、励まし合ったり、いたわり合ったりして、互いに思いを向け合っている世界ですね。様々なものが入り込もうとしているから、ここを死守しないといけません。持ち物はわずかでもいいのです。理想的な家庭を形作り、家族を愛することができるのです。そこは物ではなく、心で築き上げたいものです。

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感性

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 私たちの「感性」を育ててくれたものに、小学校の音楽の授業で歌った、「唱歌」があります。まだ演歌やジャズを聞いたり歌ったりする前に、情操教育として、教室で、みんなで輪唱したり、独唱させられたりしました。

 教室の板張りの床の上に立って、恥ずかしがらないで、大きな口を開けて、歌った日々が、懐かしく思い出されてきます。「四季」の動きがはっきりしていたからでしょうか、季節季節に、様々に計画された学校行事が行われ、季節に見合った歌を歌い、やはり私たちが受けた日本の初等教育は、優れていたのだと思います。

春のおがわは さらさら いくよ
岸のすみれや れんげのは花
すがたやさく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやきながら
(高野辰之作詞、岡野貞一作曲 「春の小川」)

 この歌を歌うと、「遠足」に出かけたのが思い出されます。「谷津遊園地」や「武蔵野風土館」などに、お弁当とお茶を入れた水筒をリュックの中に入れて、先生の引率で金魚のフンの様に歩いたのが記憶に鮮やかです。

われは海の子 白波の
さわぐいそべの 松原に
煙たなびく とまやこそ
わが懐かしき すみかなれ
(作詞者、作曲者は不詳「われは海の子」)

 海に、水泳に行ったのは中学になってからですが、海の景色は、四方を海に囲まれた海洋国家の私たちの国では、どこにでも見られるものでした。海なし県の北関東にいながらも、磯の匂いがして来たり、潮騒(しおさい)が聞こえたり、水平線などが目に浮かんできます。
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秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)
(高野辰之作詞、岡野貞一作曲 「もみじ」)

 秋には、「運動会」がありました。母が、昼前に弁当を作ってきてくれて、一緒にゴザの上で食べたことがありました。病欠の多い児童でしたから、参加できない学年も何年かありました。四人の子どもたちとも、海苔巻きや、みかんや、栗などを思いっきり食べた日々があったのです。そう遠足も文化祭もありました。

さ霧消ゆる 湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の 声はして
いまだ覚めず 岸の家
(作詞者、作曲者不詳 「冬景色」)

 冬は、活発な活動はなかったのですが、校庭でのラジオ体操が懐かしくなって来ます。終業式や卒業時期の準備や、梅が咲いて、春の到来を待ち望んだ様な覚えがあります。炬燵(こたつ)で、正月のお雑煮やおせち料理、節分の豆を食べたのが懐かしいのです。雪の降らない、この街に二年ほど住んで、雪景色の見られなかった十三年の華南とは違って、北風や霜柱も結氷もあります。

 ここ北関東では、もう11月も中旬ですから、晩秋から初冬の寒さもありながら、時々、日中の日差しの射す陽だまりが心地よく感じます。眼下に流れる巴波川の水が、冷たそうな色を見せて、鴨や白鷺が寒くないかと気なってしまうこの頃です。

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優れ物

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 主夫業で、ほとんど毎日使っている、台所と食卓の用具です。優れ物です。上の写真は、最近、『娘です!』と言ってくれる若いお母さんからのギフトで、食後のデザートの果物の皮をむいたり、切ったりする「小まな板」、中は、木製のお椀です。下は、目玉焼きやカジキマグロのオイル焼き、野菜の炒め物、ホッケの焼きなどで使う「フライパン」、「皮むき器」、ニンニクなどを潰す「圧縮器」です。みんな買った物ではなく、娘たちからのギフトです
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 この上のものは、「浄水器」です。『お母さんに綺麗な水を飲ませたい!』と、下の息子が注文してくれたものです。ここ栃木の水は、水道水の生水の飲用が可なのですが、気遣ってくれています。下は、「電子水」を作るもので、古くからの友人が、『中国の水は、あまり良くないので、これを使って!』と贈って寄越してくれたものです。けっこう長く使っています。上の息子は、家内の通院の足となってくれて、月一で来てくれています。その折、コストコから、食材を買っては差し入れしてくれています。

 みんな重宝(ちょうほう)していて、使うたびに感謝が湧いてきます。

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並木道

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 初めて中国に旅行をした時、北京から、「フフホト」と言う、内モンゴルの省都を訪ねたことがありました。まだ整備されていない、田舎の鉄道駅舎の様な空港でした。そこから、ホテルまでバス移動をしたのです。延々と続く畑の間に、真っ直ぐな道があって、そこに葉を落とした背のそれほど高くない木が整然と、等間隔に植えられていた並木道でした。なんとも経験したことのない、大陸中国らしい情景が印象的でした。

 JR西八王子駅に近くの甲州街道沿いは、多摩御陵があって、そこには、銀杏の木が路肩に植えられていて、黄金色の並木は、圧倒的な存在感を見せていました。この年の正月に、日光に出掛けました。そこにあるスポーツ用品の企業のリゾート施設があって、4人の子どもたちの家族と私たち夫婦で宿泊し、家族会を持ったのです。その時、お昼に蕎麦をと言うことで、旧日光街道沿いにある店に行きました。そこは背の高い杉並木で、数えきれない人がここを通過したんだろうと思わされて、一入でした。
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 そういえば、札幌の整形外科に入院し、手術と術後に治療とリハビリで入院し、半年検診で、家内と一緒に札幌に行ったことがあります。始めての札幌に、家内は感動していました。あちらこちら行けなかったのですが、北大のキャンパスを歩きたいとのことで行きましたら、そこは広さと清潔感が溢れていたのです。孫たちが、その北大で学んでほしいと言うほどの家内でした。明治開拓期をなんとなく感じさせる佇まいでした。そこにはポプラや白樺やカエデの樹々が見事でした。

 下の兄と私が通った学校のあった街には、欅(けやき)並木があって、江戸時代を彷彿とさせるほどの古木が道沿いに並んでいました。学校の回りは、まだ櫟(くぬぎ)林で、小鳥にさえずりや木の葉を揺らす音で満ちていました。もうあの武蔵野佇まいは、全く消えてしまったことでしょう。
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 最後に、家内が通院している、栃木県壬生町の獨協医科大学病院の前には、銀杏並木があって、1974年に開院して46年の年月が経過していますから、50年になんなんとする並木なのです。多くの患者さんが、この並木道を通られた様に、昨年の正月以来、家内も通院に利用させていただいています。まさに今頃は、黄金色でしょうか。月一の通院で、今月は26日にまいりますが、その頃には、もう落葉していることでしょう。どの並木道も、風情があって実にいいものです。

#(上は獨協医科大学病院前の銀杏並木、中は北大のポプラ並木、母校の街の欅並木です)

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二つのこと

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「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」

 母や、恩師から、『どう生きるか?』の正しい人生観や価値観を教えられて、一冊の書物を、人生の書として読み続けてきています。それを基に、自分なりに意を決して、大切な事を、その時その時に応じて決断し、選択して、今日まで生きてくることができました。それには人が、いつも関わっていました。

 今の自分の心の中に蓄えられたもの以外は、ずいぶん簡素だと思っています。若い頃の学校選びも、仕事も、何度かの転職も、結婚も、家庭建設も、さらには中国行きも、帰国も、帰国後の生活も、自分で決めたというよりも、何か大きな意思が、自分の生活に介入して、促されて、決められたのです。でも決して自己の意思が欠落していたのではないのです。

 これまでの分不相応な高望みしない生き方や不真実を避けた在り方は、弱さを負いながら、それに押し流されずに、しっかりと生きた母の生き様の影響力が大きかったのだと思っています。母が14歳の時のカナダ人家族と、山陰出雲での出会いは、母の生き方を決めたのです。なごやかな家庭への憧れの中で、天父を知って、父(てて)無し児の自分が愛されていること、抱きしめられていることを、母は知って、向き直って生き始めたのです。
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 母は、週刊誌を読みませんでした。歌謡曲を歌わなかったのです。人の悪口を言うのを聞いたことがありません。キチッとした身なりをしていましたが華美に流れませんでした。泣いたりわめいたりしたことは皆無でした。弱っている人に気を配って助けていました。大怪我をしても、叫ばずにじっと我慢できる人でした。

 私たち四人の子の養育を、キチッとしてくれました。私たちに背中を見せた向こう側で、一冊の座右の書、「聖書」を読み、賛美し、人々のために祈り、証をし、礼拝を守り、献金をして、きちんとした生活を守っていました。そして明治の男・父には従順な妻だったのです。そう言った母の生き方に、父はなにも言いませんでした。

 少女時代、『先祖を大切にしない教えが説かれていて、教会は危険だ!』と、親戚や近所の人に訴えられ、棄教を迫られても、いったん信じたものを決して捨てませんでした。95歳で帰天する日まで、信じたものを守り通したのです。台湾に売られそうになって、警察に保護されたこともあったと、母の親族から聞きました。

 ですから、母の愛読書にある、「あなたの母の教えを捨ててはならない。」、まさに、その教えは、私には強烈な迫りがありました。母の生き方の中に、無言の教えがあって、怠惰や粗暴に流れやすい自分を抑制し、軌道修正させられて、大人になって生きられました。中学の担任が、私が献身した時に、『君もお母さんの道を行くのですか!』と言われました。バカ息子の不始末で、学校に呼び出されるたびに、母は、自分の信仰の証を担任に、忘れずに語っていたのでしょう。

 もう一度、家内の手をとって、13年過ごした街を訪ねることができるでしょうか。そんな願いで、北関東の街で、晩秋の暖かな秋の陽に当たりながら、「私に定められた分」に感謝しながら、その残された分を生きようと思っております。ここまで書き進んだら、華南の街の二組の夫妻と友人が、FaceTimeをくださって、『いつ帰ってきますか?』と言われてしまいました。

(カナダの秋の風景と出雲名物の蕎麦です)

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宗門人別帳

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 中国にいました時に、『お誕生日はいつですか?』と、お交わりの時にお聞きするのですが、年配者の多くの方が、ご自分の誕生日が分からなかったのです。お国が混乱していた時期が多くて、そういった住民登記がなおざりにされていたからかも知れません。それで結局、適当に、決められていたのです。

 私が、学校にいました時には、中国の学生のみなさんの生年月日ははっきりされていましたが、ご両親は祖父母は曖昧でした。都市部は徹底されていたのですが、大部分の農村部では、住民登記はなおざりにされていた様です。私の誕生の戸籍登記は、父の仕事の関係で、村役場への届け出が遅れたと言っていましたが、後になって、確りしてもらっています。

 先週、江戸時代の栃木の街の代官屋敷に見学に行って、下野都賀の「宗門人別帳(控)」を見ることができました。江戸期の「住民台帳」になるでしょうか。江戸期の衆民政策の主要なもので、代官や庄屋は、その任務を、藩から課せられて、その人別帳に作成に取り掛からされていた様です。

 下の写真は、「熊川村」の宗門人別帳(11864年/天保十四年)です。江戸幕府が、キリシタン禁圧のために設けた制度を、「宗門改め」と言います。一人一人、家ごとに、信仰する宗派寺院の檀家であることを、毎年、後には数年おきに、それぞれの寺に証明させました。その証明書が「宗門人別改帳」だったのです。どこの村でも、都市部でも、こんな記載がなされていたことになります。

 それは、宣教開始以来、破竹の勢いで、日本中にキリシタンが誕生したのです。ザビエルが宣教を開始して、間もない時期に、甲斐の甲府にも、「セミナリオ(神学校)」があったと記録されているほどです。それを恐れた秀吉も家康も、禁教令下します。それが、さらに強く推し進められて、キリシタンが散らされ打たれ殺され、全く表から消えて、地下に潜ってしまうまで過酷に、宗教政策が行われたのです。

 江戸期のそれには、家康の知恵どころであった、宗教だけではなく、全般的な幕府顧問だった、僧侶の天海の関わりが大きかった様です。島原の乱以降、江戸幕府の宗教政策の非情さを、遠藤周作の「沈黙」に描かれていて、映画化されています。映画を観ましたが、大目付の井上筑後守の冷徹さには驚きを禁じえませんでした。信徒の殉教と、あやふやな信徒の優柔不断さが描かれていて興味津々でした。

 21世紀の現在でも、ある国では、「宗教調査」が厳密に行われ、どこに所属し、どんな知人がいるのか、そう言った細かなことまで調査項目があり、徹底されて行われていると聞きます。信徒の増加が、国の政策を揺るがすからと言う理由ででしょうか。「信教の自由」を法で保証されている私たちには、信じられない逆行現象です。

 私の五、六代以前は、父方も母方も、この「宗門人別帳」に、名や年齢や宗門が記載されていたことになります。明治期になって、戸籍法ができたのは、軍隊を構成するためと、税収が目的であったのです。昨年、4月に転入の申請をしましたので、県知事選の投票用紙が、先日市の選挙管理委員会から送られてきました。これが平和で自由を約束された時代の証左です。いつまで続くのでしょうか。

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やはり秋

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 生まれ故郷から遠くに望み見る山姿は、山の頂上が鋭角で、刺々しくて、『近寄らないで!』と拒んでいる様な姿に見えてしまいます。入笠山から見る八ヶ岳も、振り返って見上げる南アルプスも、中部圏の山岳風景は、だいたい角(つの)を突いている様に見えるのです。

 ところが、熊本に恩師がいた時期があって、家内と友人夫妻とで、彼を訪ねたことがありました。阿蘇の外輪山に案内していただき、噴火して砕けた噴石が引き詰められていて、不毛の地でした。また怪我をして、友人の好意で、お父様の別荘に温泉があるとのことで、湯布院に家内と行って、一週間、温泉でリハビリしながら過ごしたことがありました。由布院も阿蘇も、そこから見られる山は、なだらかで、女性の肩のように優しく思えたのです。

 大分の九重連山も、長崎の雲仙、鹿児島や宮崎両県に広がる霧島も、おおよそなだらかな山容を見せています。九州の山姿は、遠望しただけで、登ったことはないのですが、中部山岳に比べてみますと、一様に高くも、険しくもないのが特徴でしょうか。

 上海から航路で帰国した時に、船の進行方向の右手に、まず見えてくるのが、五島列島です。緑の樹々の色が印象的でした。一年ぶりの帰国なのに、そんなに感傷的になっているのではないのですが、至極懐かしい思いがしたのを思い出します。大陸に比べて、手狭な島の姿は、あまりにも小さいのですが、やはり「ふるさと」を強く感じさせてくれたのです。
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 若い頃から、山歩きが好きで、奥多摩には、一人で出掛けて、山道の標識を見ながら歩き、仕事をし始めてからは、山歩きの好きな上司に誘われて、登山というよりは山歩きをしました。JR中央線の終点の高尾を降りて、高尾山から明治の森を通って、相模湖に抜ける山道は、特に冬場の木の葉の落ちた枯れ林の中を、カサカサと枯れ葉を踏んで歩くのが大好きでした。

 華南の街にいた時も、バスで森林公園まで行って下車し、その脇道を登って行き、W字の様に、またM字の様に歩いて、別の麓に戻るコースを歩いたりしました。日本とは山歩きのマナーが違っていて、大きなボリュームでCDやラジオを腰にぶらさげて聞き歩きを、平気でしている人に、文化やマナーの違いを感じたりしていました。

 この春には、足尾まで電車で行き、そこから奥日光を路線バスで走って、東武日光駅までのコースをとりましたが、秋には、紅葉の美しい道を歩こうと思いながらも、果たせないまま十一月になってしまいました。北に見える男体山に登って見たいのですが、けっこう高くて険しそうです。北関東の奥は、信濃や越後国で、山の懐が深い土地柄です。
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 作詞が斎藤信夫、作曲が海沼実、歌が川田正子で、「里の秋」の歌詞は、次の様でした。

1 静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜はー
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります

 ここで歌われているお父さんは、東京に出稼ぎに出ているのでも、遠洋漁業で南太平洋に出かけているのでも、入院しているのでもありません。この歌が、最初の歌詞で作られたのが、戦時中でした。お父さんは兵士、戦地に出掛けていたのです。そこには、「ご武運を・・・祈ります」という歌詞がありました。それを戦後、歌詞を変えて発表された歌でした。

 果物屋の店頭から、もう栗は消えてしまっています。赤く色づいた柿、黄色なみかんが目を引く季節になってきました。先週、連れて行っていただいた、市営の運動公園の木々も、葉が黄金色に変色して、広がった青空に映えて、深まりゆく秋を感じさせてくれました。

(阿蘇、霧島、足尾の風景です)

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