芳しさ

 

 

きっと、「ふるさと」って〈匂い付き〉なんだろうと思います。目に残る景色や生活だけではなく、そこには、梅や桜、遠くから運ばれてくる桃や葡萄や林檎の花、畦道の流れの淵に咲いていた草花、両親や兄や弟の汗や涙、そんな多くのことに、懐かしい匂いや香りがあったのでしょうか。きっと〈懐かしさ〉が、匂いを付けてしまうのかも知れません。

中部山岳の山から流れてくる沢の淵の旅館の離れで生まれ、沢違いの山奥で育って、就学前に、兄たちの後を追って山の林に分け入り、木通(あけび)を採ったり、栗を拾ったり、沢の流れを泳ぐ山女(やまめ)を追ったりしました。小学校の入学式に、病んで出られず、通学もできませんでした。ただ兄に連れて行ってもらった教室で、兄の横に椅子をおいて未来、一緒に飲んだ脱脂粉乳の匂いと味は覚えています。

巡りくる季節にも匂いがありました。東京に出て来て住んだ街の里山や川や貝塚、近所の広場や旧国鉄の引き込み線の操車場が、遊びの舞台でした。多摩川の鉄橋の下で泳いだり、潜ったりして、ハヤを手で掴んだり、魚影を眺めたりしていました。お寺の庭のイチゴや木イチゴやグミ、通学路の無花果(いちじく)、こっそり食べて美味しかったけど甘酸っぱい香りがしていました。

姉や妹がいなかったからでしょうか、柔らかそうな女の子の身体に触れたくて、そばにすり寄り、もどかしく手で触わろうとする衝動に駆られた、幼い日がありました。上の兄の同級生のこぐ自転車の荷台に乗せてもらって、耳鼻科に連れて行ってもらった日、この手で触れた、電気店のお姐さんの腰の感触、そして匂いを、かすかに覚えているのです。中耳炎で痛いのに、その気持ちよさが、痛みを敗走させてしまっていたのかも知れません。ちっとませた小学生なのか、幼いなりにも男だったのでしょうか。

やっと妻を得て触れた、彼女の柔らかな唇や乳房や肌、その感触は匂い立つような、まさに真性の《乙女の芳しさ》でした。赦されて再生された者にとって、何と素晴らしくも、歓喜できることなのだと感謝したのです。後ろめたく触ってしまい、誘惑の嵐の中を彷徨い、迷いながら青年期を過ごし、その罪を悔いて、やっと妻を得て、疚(やま)しさなしに触れることができたからです。

数えきれない匂いの記憶が残されています。  健康的で、夢や希望を生み出すものです。人を元気づけ、生きる意欲を沸き立たせてくれます。この家の庭に降り注ぐ陽にも、生い出る草や花にも、土にも《創造の匂い》のあるのが感じられます。「春一番」も吹き、「桜」の花が満開になりましたが、48年前も、同じ様に桜の時期でした。かすかな春の匂いがして来ました。

今日

 

 

この花は「二輪草」です。春の花なのですね。風雪を越えて来た〈夫婦愛〉を、この二輪草になぞらえて歌った歌がありました。

あなた おまえ
呼んで呼ばれて 寄り添って
やさしくわたしを いたわって…
好きで一緒に なった仲
喧嘩したって 背中あわせの ぬくもりが
かようふたりは ふたりは二輪草

ほうら ごらん
少しおくれて 咲く花を
いとしく思って くれますか…
咲いて清らな 白い花
生きてゆくのに 下手なふたりが さゝやかな
夢をかさねる ふたりは二輪草

おまえ あなた
春がそこまで 来たようだ
よかった一緒に ついて来て…
雨よ降れ降れ 風も吹け
つらいときにも 生きる力を くれるひと
どこに咲いても ふたりは二輪草

この花は、「Anemone(アネモネ)」の一種だそうで、ギリシア語の「anemos(風)」を語源とし、春の初めのおだやかな風が吹き始める頃に花を咲かせるからとも言われます。和名で「二輪草(ニリンソウ)」なのです。ひとつの茎から二輪ずつ花茎が伸びることから、そう命名されています。英語では「Soft windflower(柔らかな風の花)」と呼ばれるそうです。

今日、4月4日は、家内と私の結婚の「四十八周年」になりました。風雪も嵐も、そして何度か〈死の危機〉もあった年月を、二人で超えて来たかな、の今日です。あの日にも、この二輪草が咲いていたのでしょう。4人の子が与えられ、彼らも結婚をし、それぞれ家庭人となりました。

今年の記念日は、それぞれの居場所で、過ぎた年月を、家内は家内なりに、私は私なりに思い出すことにしましょう。そして、これからの日々にも思いを巡らせて行きたいと思っています。多くの人たち、父や母、兄弟姉妹、友人、恩師、隣人たちがいてくださって、私たちの今日があります。

1980年の初夏、住んでいたアパートの上階でガス爆発があって、家族全員、次男は家内のお腹にいましたが、火をくぐり抜けて生き延びたのです。胸がキューンとするほど懐かしく思い出されてくる、時と日と出来事の年月でした。たまに食べたバイパス沿いの店のラーメン、何軒か向こうの店で買って食べた焼き鳥、みんなで出かけた相良の夏の海、そんな日々があっての今日です。病む日もありましたし、あります。

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いのち

 

 

中学校の国語教科書に、次の詩が掲載されています。「生命は」と言う題の詩で、吉野弘の作です。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい

花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和

しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

〈生命軽視〉の時代のただ中で、《命の重さ》、自分のも他者のも、同じ様に極めて重要なものであることを、とくに、若者は学ばなければなりません。どの命にも、意味と価値と目標、そして使命と義務とがあるからです。

孤独を噛み締めた時が自分にもありました。〈独りぼっち〉の寂寥感(せきりょうかん)に耐えられなほどでした。どこか賑やかな雑踏の中に駆け込みたかったのです。でも、群衆の中には、自分の孤独を紛らわせてくれるものも、忘れさせて、癒してくれることはありませんでした。

古来、人は孤独さの中で、己を鼓舞し、強め、高めてきたのでしょう。『荒野(あれの)」には、「声」がある!』と、若い時に読んだ本の中にありました。静まり返ることがなければ、聞き逃してしまう様な、《天来の声》があるのだそうです。《静かな細い声》と言うようです。

私は、『生きよ!』と語る声を、何度か聞いて今日まで生きて来ました。「高価で尊い」のだと言う、自分の命と存在の価値宣言を聞き、知らされ、生き直したのです。

(去年の春先に植えた朝顔の芽です)

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工事中

 

 

この写真は、長閑(のどか)な春の海べのひと時を撮ったものです。ここは、北アメリカのオレゴンの海浜です。近くに港があって、牡蠣が獲れたりするのですが、海水は、足をつけられないほど、まるで氷水のように冷たいのです。

この海から内陸の街で、次女が2人の子を育てています。今朝の“message  ”で、次の様に言ってきました。

『そう、いーちゃん、たくさんの愛情を注がれて育っているんですね。命ってすごいね。人間を育てるのって大変だね。私たちの二人の子も思春期に入ろうとしてます。どうぞ私のためにお願いしてください。《工事中?》の始まりです、知恵が与えられますように。長いレースがはじまり、『よーいどん!』の音を聞いたのか聞かなかったのか、あたふたしながら走り始めた気分です。さっきも子育ての本を読んで、⒈良い質問をする。⒉個人的に傷つかず腹を立てない。⒊驚かないで受け入れる。⒋深呼吸をする。と言うチャプターでした。頑張ります。』

その本は、子育て中を、「工事中」という表現で言い当てているのだそうです。みんな《未完の大器》なのです。名を残さなくても、目立たなくても、《健全な心の持ち主》であるように、造物主と社会との前に、この大工事が完成する様に願っています。かく言う私も、いまだに《工事中》なのかな。

(オレゴンコーストをジョギングする孫と両親です)

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国谷

 

 

茨木のり子に、「桜」と言う詩があります。

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

まざまざと、多くの「死」を、青年期に見た人だから、こんな詩が詠めるに違いありません。けっこう人って、鈍感な一面を持ち合わせていて、人生ってもっともっと続くのだろうと錯覚しているのかも知れません。その反対に、まだ来ぬ死を、言い知れずに恐れる感覚をも持ち合わせているのです。

『桜って綺麗!』って思い始めたのは、大人になってからであって、子どもの頃の入学式や卒業式の頃に、校庭を飾っていた桜の記憶は、子どものものではありません。そう思ったのは、知人に誘われて、南信州の「高遠(たかとう)城址の桜」を観に連れて行ってもらった時でした。確か三十代の中頃だったでしょうか。それも美味しいご馳走が共にあった経験でした。

その折の写真が、『あっ、高遠の桜って綺麗だったんだ!』と記憶を呼び覚ましてくれたからなのかも知れません。気分が良くて、気の知れない方たちの交わりがよかったのも、綺麗さの中に含んでいるのでしょう。

そう、そんな気持ちで、何度見たでしょうか。家内が、胆嚢の手術を終えて退院した時に、板橋のある運動公園に咲いていた桜が、随分と綺麗でした。退院の喜びと重なり合って、やけに綺麗だったからです。東日本大震災のあった後のことも、印象深く覚えているのでしょうか。目黒川の夜桜を、次男に案内されて観たこともありました。

毎日乗車し、通過する東武宇都宮線の「国谷(くにや)」の駅舎の横に、10本の桜の老大木があります。真冬の頃から、『咲いたら綺麗だろうなあ!』と、通過のたびに眺めて来たのです。それが芽が膨らんできて、ちらほらと咲いたのですが、寒い日が続いていますが、今日は、4月1日、今日明日で満開になるのでしょうか。ちょっと焦(じ)らされているこの頃です。

(「国谷駅」の桜です)

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ここで今を

 

 

子どもの頃から、今に至るまで、不可解で不思議なのが、地球の存在です。土と水とマグマを内蔵して自転する惑星なのに、人間が、そこを生活の場にしていることがです。偶然や進化では納得も了解もできずに、未だにいます。ここで人は、愛したり憎んだり、泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、生きたり死んだりして来ています。

人が、ここを生活圏にして生きている、全ての均衡とは、どこから来ているのでしょうか。学校で学んだ進化論では、私は納得できなかったのです。高等教育を受けることがなかったのですが、知恵深かった母が、『準ちゃん。地球はね、創造されたの!』を聞いて、やっと納得できたのが、昨日の様です。

私が、作文指導を6、7年していた時に、よく使ったのが「詩」でした。その中に、茨木のりこのものがありました。多感な15才から19才までを、戦時下で過ごした、ご自分の経験を詠んだ、「私がいちばんきれいだったとき」がありました。

その作者に、「水の星」があります。

宇宙の漆黒の闇のなかを
ひっそりまわる水の星
まわりには仲間もなく親戚もなく
まるで孤独な星なんだ

生れてこのかた
なにに一番驚いたかと言えば
水一滴もこぼさずに廻る地球を
外からパチリと写した一枚の写真

こういうところに棲んでいましたか
これを見なかった昔のひとは
線引きできるほどの意識の差が出る筈なのに
みんなわりあいぼんやりとしている

太陽からの距離がほどほどで
それで水がたっぷりと渦まくのであるらしい
中は火の玉だっていうのに
ありえない不思議 蒼い星

すさまじい洪水の記憶が残り
ノアの箱船の伝説が生まれたのだろうけれど
善良な者たちだけが選ばれて積まれた船であったのに
子子孫孫のていたらくを見れば この言い伝えもいたって怪しい

軌道を逸れることもなく いまだ死の星にもならず
いのちの豊饒を抱えながら
どこかさびしげな 水の星
極小の一分子でもある人間が ゆえなくさびしいのもあたりまえで
あたりまえすぎることは言わないほうがいいのでしょう

醒めた作詩者の目で、思索して詩作する思いが鋭く的を得ています。人って、ここを舞台に、父と母から、いのちを受け継いで、七十年、八十年を生きて、後をバトンタッチで任せていくのです。確かに宇宙の衛星が撮った写真の地球は、寂しそうです。 でも、今日も、ここで今を生きなくっちゃ!

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花冷え

 

 

今住んでいる家の前の道路脇に咲いてる「水仙」です。駅までの道筋にある家の庭にも所々で咲いていました。北陸では「雪中花」と呼ぶのですが、ここでは「路側花」です。週始めに撮りました。

 

 

これは、家の庭の隅に咲いていて、同じ日に撮りました。1月10日に来た真冬には、一面枯れ草だけだったのに、巡り巡って、春になったと言うことでしょうか。

今朝は、自転車を借りて、温泉施設の隣にある農協の野菜即売所に行って来ました。10人ばかりの列の最後に並んで、トマト2袋、ブロッコリー2袋、ほうれん草1袋、カブ1束を買って来ました。主夫をしているのですが、新鮮で安いのです。

子どもたちがいる頃、よく出掛けて、たくさん買って帰ったのですが、今は一人、これでも持て余しかも知れません。友人の夫人から、「最強の野菜スープ〜抗がん剤の世界的権威が直伝!〜」の書籍が送られて来ました。《野菜スープ》の勧めです。

温泉施設の川岸の桜は、六分咲きほどでしょうか。今朝は、列の後ろの方が言ってた様に、「花冷え」のする寒い朝です。

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平和

 

 

今朝、二枚の写真を見ました。その一枚は、「東京新聞」の〈孤児たちの闘い〉という特集の中にあった、上野駅の地下道の写真です。戦後間もない頃のもので、一時は千人くらいの人が、街を焼夷弾で焼かれ、両親と死に別れた孤児や、家を失った人たちが、そこで雨露をしのいでいたそうです。新宿の地下道に、戦争孤児たちがいたのは覚えています。

こんな時代が、すぐにでも起こりうるので、二度と再び、あんな悲しくつらい時代がやって来ないように、したいものです。

 

 

もう一枚は、次女が散歩中に撮った、英語では、〈Lesser Celandine(レッサー・セランディン)〉という「ヒメリュウキンカ」“は、キンポウゲ科の野草です。原っぱなどに生えるキンポウゲ科の黄色い花の多くは、同じようにてかりのある花びらですが、ヒメリュウキンカは、茎が短く、葉が地面をおおうようにして生えています。花は、8枚の花弁からなり、これまたツヤのある葉は、ハートの形をしていて、中央からびっしりと大中小の葉がぐるりと取り巻いています。“と説明がありました。

なんの脈略のない二枚の写真ですが、70年余り前と、今の時代を写したものです。やっぱり《平和》が一番ですね。

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ガジュマル

 

 

今朝、あるサイトに、木を避けた道路が敷設されている写真が載っていました。自然保護なのでしょうか、自然への敬意なのでしょうか、人間の考えや便利さを優先しないで、自然の植生を大事にしようとの考えで、道路計画を変更したのは、素敵なことです。

私たちが住む華南の街には、「榕树ronshu」と言うガジュマルの木が、至る所にあります。森林公園に行きますと、《樹齢千年》の大木があって、観光名所になっているのです。街中は、この上の写真と同じで、ガジュマルが優先して、道路や交差点の真ん中に、堂々と立っている姿を、何箇所でも見られます。

日影を作って、市民に涼を与え続けてきたガジュマルは、かけ甲斐のないもので、道路のまっすぐさの方が便利なのに、人や馬車や車が、この木を避け、古来大切されて、市民の手で育てられてきているのです。懐かしく、街中の風景を思い出しております。

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