いのち

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今か今かと咲くのを待っていた、“ ハイビスカス ” が、今朝、一輪咲きました。ホームセンターで180円で買った鉢植えです。天候不順でなかなか咲かずにいたのです。雨が上がって、真紅の花びらが、鮮やかです。家内が、弟に贈った “ ハイビスカス ” が、咲き続けていると言ったのを聞いて久しく、『わが家でも!』と思いながら、やっと買ったものです。

葵、芙蓉の仲間で、南国の花です。華南の街は、この花で溢れかえる様に、どこででも咲いていますので、今朝この一輪を喜びながら、彼の地のことに思いを馳せております。いつも思うことですが、真っ黒な土の中から、こんなに鮮やかな紅色の花びらを見せるのが不思議でなりません。

人間だって、どこで生まれ、どこで育っても、誰から生まれ、誰に育てられても、最悪の環境の中に生まれ育っても、この花に勝るいのちを宿しているのですから、《美しい存在》と定められているのです。そう母が教えてくれたのを思い出しています。

(5時半、それから三十分後、60分後の花の様子です)
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四の五の

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時々、読んだり、聞いたりする言葉に、『四の五の言うな!』があります。落語で聞いたことがあり、最近では、中華圏のある方が言っていたそうですが、そんな表現が、中国語にあるのかどうか分かりませんが、新聞記者が、そう記したのでしょうか。

一度も使ったことがない言葉なのですが、言い訳をして、なかなかすべきことをしない人に、親方や上司が、『あれこれと、つべこべと言い訳を言ってないで、早く仕事に取りかかれ!』との意味なのだそうです。一説には、中国の古典の「四書五經(ししょごぎょう)」が、御託(ごたく)を並べていて、要領を得ない難解さがあるのを皮肉って言ったのではないかと言う人がおいでです。

中国語で、これを「不说四五bushousiwu」と訳せますが、何だか、「四書」の「論語」、「大學」、「中庸」、「孟子」、「五經」の「易經」、「詩經」、「礼記」、「春秋」は難解で、一般民衆にとっては、「四の五の言っている難解書」だったに違いありません。

武士の子たちは、老師の読むのに従って読み、素読を繰り返したのだそうです。明治初期に青年の内村鑑三も新島襄も新渡戸稲造も、アメリカに留学して英語を学ぶ前に、幼少の頃から、「四書五經」素読をし続けてきた、古い日本人の素養を持っていたのです。

けっこう、そう言ったものでは、彼らは満足していなかったので、欧米の文化や教養に触れた時に、西洋の《物の考え方》を受け入れることができ、真の国際人になれたのでしょう。と言うと、内村たちは、幼い日からの伝統的な漢籍の学びに、「四の五の言わなかった」に違いありません。より優れたものに触れた時、古きを捨てる《進取の精神》を、彼らが宿していたからなのでしょう。

父は、何か弁明したり、自己を正当化しようとした私に、『言い訳するな!』と言ったことを覚えています。どうも、〈言い訳〉は男のすることではないことを教えたかったのでしょう。〈言い訳〉をしないで、ここまで生きてくることができました。そう「四の五の言わなかった」ことになります。
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海体験

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中国にいる間に、新しい休日の「海の日」が制定してされていて、今年、家内の入院を機に、栃木県民となった私たちは、初めての「海の日」を迎えました。その日、関東に3つある「海なし県」の埼玉県に住む長男家族が、両親の住む、同じく海を持たない「栃木県」に、海に行かないで,家内の見舞いに来てくれました。もう一県は「群馬県」です。

この他に、山梨、長野、岐阜、滋賀、奈良の5県があります。海洋国家なのに、海と縁がない、これらの「内陸県」は、何か足りなさを覚えるのかも知リません。海なし県で生まれ、海なし県で老いを過ごしている今、海鮮料理の好きな私たちは、海への憧れが、ことさら強いのです。

小学校唱歌に「われは海の子」がありました。

我は海の子 白波の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ

生まれて潮にゆあみして
波を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸ひてわらべとなりにけり

高く鼻つくいその香に
不断の花のかをりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽と我は聞く

父は中学校の時に、東京湾を遠泳したことがあると言って、海を見ながら育ったのです。母も山陰の荒波の砕ける音を聞きなが育ったのに、弟と私は、海のない山奥で生まれたのです。ですから人一倍、海に郷愁を感じてならないのです。

それで、長男家族が、私たちに「寿司」をご馳走してくれたのです。内陸で、新鮮なネタの寿司が食べられるというのは、実に嬉しいことなのです。茨城の海が近いので、江戸期には、塩漬けではない、新鮮な海産物が陸路で運ばれて、栃木人は、海産物を食べることができたのでしょうか。

長く住んできている華南の街は、海あり省で、海あり市でしたし、大きな川を下って東シナ海に接しています。友人に車で何度も海に連れて行ってもらい、海浜の料理屋で海鮮料理をご馳走になったこともしばしばでした。海の向こうに祖国があるという郷愁を覚える時でもあります。

肌寒い今夏ですが、海に跳んで行きたい思いに駆られてしまいました。きっと、車があって、免許証を失効させないでいたら、何やら理由づけして、近い茨城の海に跳んで行ってしまいそうです。でも、ここの寿司は美味しいのです。回転寿司のちっと奮発したテイクアウト寿司で、家内も私も喜ばせてもらった「海の日」の「海体験」でした。

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心理

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父がテレビを買ったのが、上の兄がテレビに出るという話が持ち上がった時でした。運動部の日本選手権に、スタメンとして登場した時です。父の長兄への思いは、高価なテレビを買わせるほどだったのです。

テレビと言えば、「プロレス中継(日本テレビ」、「月光仮面(KRテレビ)」、「日真名氏飛び出す(ラジオ東京テレビ/現TBS)」などが、初期の番組でした。わが家にテレビが入り込んでしまってから、その面白さの虜に、自分がなってしまいました。

長いテレビ観劇史の中で、最も印象的だったのが、1963年にアメリカで放映されたもので、日本語吹き替え版の放映だった、「逃亡者」でした。1964年5月16日から1967年9月2日まで、土曜日の午後8時の時間帯で、TBSで放映され、大変高い視聴率をあげた番組でした。その映画のあらすじは、次の様でした。

「インディアナ州スタッフォード(小説上の街)の小児科医リチャード・キンブルは、妻ヘレンと口論し家を飛び出すが、帰ってみると彼女は殺害されていた。その直前、彼は片腕の男が家から飛び出すのを目撃したが、警察はキンブルを犯人として逮捕する。彼は裁判で有罪となり、第一級殺人で死刑を宣告される。キンブルは、スタッフォード警察のジェラード警部に護送され、鉄道で州刑務所の死刑執行室に向かうが、列車が脱線事故を起こした際の混乱に紛れ、逃走に成功する。全国に指名手配されるが、キンブルは半白だった髪を黒く染め、名前を変え、場所を移動し、さまざまな労働に就きながら、真犯人と思われる片腕の男を探し求める。そんなキンブルを、ジェラード警部は執拗に追跡する。」

登場人物の中に、朝鮮戦争で、英勇的な武勲をあげたことで、勲章をもらった男がいました。街の英雄でした。そんな彼は、友人の妻の殺害現場にいながら、犯人を目撃しながらも、英雄的行動に出られず、尻込みして、友人の妻のヘレンを助けられなかったのです。

自分の卑怯な振る舞いを隠し通すために、真犯人の目撃証言が、法廷できず、医師キンブルが犯人とされ、死刑判決が決まってしまうのです。小心者なのに、恐怖の中で夢中になって戦闘をして武勲をあげたことが、英雄的行為となってしまったのです。親戚や街の人たちに、もてはやされた英雄なのに、友人の妻を助けられないほどの臆病者であったことが、暴露されたくないという、心理が描かれていました。

当時は、ベトナム戦争の渦中でした。ベトナムのデルタの密林でも、泥沼の様な戦闘が繰り広げられていたのです。同世代の若いアメリカ兵が、ゲリラ攻撃に怯えていました。 同じ様な悲劇が東南アジアで繰り広げられていましたから、共感するものがあったのです。

最後に、真犯人が、ジェラード警部に射殺され、5年前に証言できなかった男が、再審の法廷で、キンブルの無実を証言して、ハッピーエンドでした。スリリングで、逃亡者の心理が上手に演じられていて、主演のデビッド・ジャンセンは、当時、このテレビ映画によって人気俳優でした。なお追跡者のジェラード警部の共演が、輝いていたのです。

誰にも追われず、父の家から学校に、自分が通っていた時のテレビ番組でした。自分の境遇が、どんなに恵まれているかが、キンブル医師の逃亡生活を見ながら、分かったのです。

(インディアナ州の州の「牡丹」です)
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真実な

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青年期に読み、中年になって読み直した小説に、高橋和巳の「堕落」があります。

この小説の主人公は、国粋主義の活動家の青木隆造で、戦前、旧満州国の建設に携わった人物でした。「五族協和」や「王道楽土(おうどうらくど)」の実現という野望を持って、青年期を生きたのです。その後、満蒙開拓団に関わり敗戦を迎えます。敗戦後を、どう生きたのかと言いますと、アメリカ兵と日本人女性との間に生まれ、そして捨てられた混血二世の子供たちの世話をするのです。

青木は、「兼愛園」という施設で、園児に慕われ、職員に敬われる園長となります。そう言った社会事業に関わり、戦後を生きるには、戦前の体験が動機になっていたのでしょう。主人公は、満州国が崩れ落ちてしてしまったことで、思想的に崩壊するのです。罪責感と償いとが、その戦後の生き方の動機でした。

ところが、長年し続けてきた社会事業が、ある新聞社によって顕彰され、副賞200万円を手にするのです。そこから、「堕落」の底に、主人公が転がり落ちて行く様子が描かれています。心の緊張が緩んだのでしょうか、押さえ込んできた欲望が吹き返したのか、一緒に表彰式に上京した施設の事務職員の女性と過ちを犯してしまいます。そして賞金を手にして、巷間の安宿に投宿します。飲むこともなく社会事業に専念して生きてきた生活が、変調をきたし、酒に溺れる様になります。

右左に大きく揺れた人生が、社会的な認知と表彰を受けるということで、再び大きく揺れてしまうかの様に、本来の自分に戻ってしまうです。街中でチンピラに絡まれて、〈満州浪人〉だった彼の本性が露わにされます。かつて満州でしていたのでしょうか、手にしていた傘を腰に、しっかりと構えて、チンピラを刺し殺してしまうのです。

社会的に評価されることによって、精算されていない自分の過去が露呈してしまう「怖さ」を、私は覚えたのです。どんな善行も、償い得ない〈過去の罪〉や〈挫折体験〉や〈夢の崩壊〉という人の世の現実を見せられたのです。ヤンチャに生きて、喧嘩ばかりして、いい気になっていた青年期が、正しく処理されてないと、主人公の青木の様な結末を迎える怖さを、私は感じたわけです。
 
この“ メランコリック ”な小説を読んだことは、私には益でした。私の父と同世代の主人公の生き方と、南満州鉄道で働いたことのある父の戦後を比べたりして、考えさせられたことが大きいのです。父の生涯の最終には、真実な「悔い改め」がありました。

(大陸をかつて走っていた蒸気機関車です)
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算了

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『社会生活をしていく上で、《関係作り》が一番大切なのです!』と、これまで教えられ続け、それを実行して来たと言えるでしょうか。それと共に大切なのは、《関係の維持》への最大限の努力なのです。人には〈感情〉があって、けっこう簡単に感情が傷ついてしまったり、関係がもつれてしまったりすることが多いのです。悠長で忍耐深い方も時折おいでですが、一般的に人は〈傷つきやすい〉と言えるでしょうか。

一度、そうなってしまうと、回復するのが極めて難しいのです。だから《関係の維持》が求められるのでしょう。それまで、家族の様に近い関係にあったのに、手の裏を返す様に、捨て台詞で私に、踵(くびす)を返して、去っていってしまった方が何人かいました。どうしても言わなければならないことを、言った結果です。生き方や在り方に、〈甘え〉があったり、過去に〈傷〉があったりしたのでしょうか、ガラスの様でした。

小説や演劇の中だけではなく、現実の生活に中によくあることです。地理的にも心理的にも、遠くに行き過ぎて、願えども《関係回復》は不可能の様です。関係を壊すことは容易ですが、立て直すことは至難の技です。

国と国との間に、齟齬(そご)が生じて、過去が蒸返してしまい収拾がつかなくなってしまっています。お隣の韓国との関係です。同級生にも、友人にも韓国の方が何人もおいでです。彼らとは、実に素晴らしく良い関係があり、疎遠になった今でも、尊敬の念は変わりません。立派な方たちです。

人も国も、過去に思いを向け過ぎて、未来を見ようとしないのです。「覆水(ふくすい)盆に返らず」、こぼれて流れ出てしまった水を、もう一度器に返すことはできません。歴史の事実を変えることはできませんが、《詫びること》と《赦すこと》は、謙虚になり、冷静になれば相互にできます。

中国の生活の中で、中国の街中や公共バスの中で、喧嘩をしている人の間に立って、『算了算了suanlesuanle!』と言って仲裁している光景を何度か見たことがあります。『もうそれまでにしなさい!』という意味です。喧嘩の当事者には言えない言葉も、第三者には言える言葉です。

感情が亢進(こうしん)してしまうと、悲惨な結果を迎えてしまうので、仲立ちをする人が必要になってきます。酸いも甘いも噛み分けられる年配者が、そうされていました。そうすると感情が静まって、挙げた手を下すことができるのです。喧嘩をする本人たちは、仲裁者を待っているのです。『平和である様に!』です、ね。

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朝顔便り/7月11日

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縁側の窓の下の花壇が、賑やかです。朝顔の蔓が伸びて来て、待ちわびている花が咲きそうな素振りを見せています。華南の街の家のベランダで、家内が育てた朝顔は、みるみるうちに蔓を伸ばして、花を咲かせたのですが、ここ北関東での生育は遅いのです。気温が上がらないからでしょうか。

一昨年、家内が、弟にプレゼントした「ハイビスカス」が、一年中咲き続けていると、知らせてくれたので、『それではわが家でも!』と、先日、長男が来てくれた時に、病院の帰りに、ホームセンターで、一鉢買って来ました。その蕾が膨らんできています。

間も無くわが家でも、庭が花盛りになることでしょう。もう一つの窓の下には、「コスモス」の種を、家内が蒔いていて、もうその背丈が大きく伸びて来ています。花も、暑さの苦手な私も、それでも暑くなって花に元気を与えて欲しいと願いながら、梅雨空を見上げるこの頃です。
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ユダヤの格言に、「友はどんな時にも愛するものだ」とあります。ユダヤ人の間に語り継がれる、有名な《友情物語》があります。『あなたの私への愛は、女のにもまさって、素晴らしかった!』と言わせたほどの愛を、ダビデ王が告白しています。主君の子のヨナタンからの愛は、自分の命を捧げるほどの愛だったのです。それに、ダビデが感嘆していたのです。

これは、畏友ヨナタンの死への哀悼の意を込めた告白であります。ヨナタンは、ダビデを、ただ友愛によっただけではなく、「自分と同じほどにダビデを愛した」のです。これは自己犠牲的な愛を実行していて、ギリシャ語で言う “アガペーの愛” を示していたのでしょう。

王の子は、王位継承権を約束されていたのに、嫉妬に満ちた父サウルの仕業の中で、ダビデを守ったのです。自分が王位を継ぐことよりも、友の命を、父の手から守る方を選んだほどの愛でした。それは、《契約に基づく愛》であったのだそうです。男と男、漢と漢、真正の男の間に交わされ、約束され、誓われたものなのです。

『友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。 正しいときにはだれだって味方になってくれる。』と、マーク・トウェインは言いました。しかし、私の若い日に、多くのことを教えてくれた恩師は、《真の友》とは、事を誤ってしまった時に、味方してくれるだけではなく、間違いや誤りを指摘し、責め、悔いることを勧める、『そんな友を得よ!』と教えてくれたのです。

そう言った友を得たいと願うなら、そのような友に、自らがならなければ、得ることはないのでしょう。中国の街中で、よく見かけるのは、大人の男性が、2人で肩を組み合いながら道をゆく光景です。酔っているのでも、あの可笑しな関係でもないのです。友情を確かめ合う様に、肩を抱いているのです。

中学まで、肩を組み合う友がいましたが、あれ以降、誰の肩も組まないままです。そう、真の友とは、 編み物の縦糸と横糸とが交互に編み合わされる様な,” knitting ” の関係だとも、教えられました。心と心が、ちょうど肩を組む様な近さになることなのでしょう。このユダヤの格言には、実は続きがあるのです。「兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と。

友と兄弟とは、妻と自分との関係と同じほどに近いものなのでしょう。

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気骨

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明治の気骨と言うべきなのか、関東大震災の被災経験があるのか、私の父は、災害時に泰然自若としていたのではありませんでした。台風襲来のニュースを、ラジオで聞くと、雨戸など、まだ、どこの家にもなかった時代、窓という窓の木製の窓枠に、父の手伝いで、板を❌に打ち付させられて、備えをさせました。

地震で家が揺れると、『準、玄関を開けろ!』と言って、出口を確保させたのです。今では昔話になってしまう騒ぎでした。それだけ自然災害の怖さを、父が知っていたと言うことでしょうか。もう何十年も前に、『東京に大地震が起こり、壊滅的な被害がある!』と言う警告を聞いたことがありました。確かに、地震はいつでも起こり兼ねませんし、南に見えた富士の山だって火山爆発の可能性はあったのです。

その所為(せい)でしょうか、私の知人は上京する時に、瓦礫の道を歩けるような靴を履き、食料をリュックサックに詰めたり、野宿できるような備えをして出かけるのだそうです。そして、交通網が機能しなくなったら歩いて帰宅するそうです。私は思ったことはありますが、備えをしたことがありません。

でも、しておきたかったのは、子どもたちとの集合場所を決めておくことでした。まだ携帯電話などなかった時、大災害が起こって消息不明や連絡方法がなかったら、落ち合う場所を決めておこうと考えて、彼処でもない、此処でもないと考えたのです。橋の袂や駅の前やデパートの前などはどうかと思ったのですが、崩壊してしまう可能性があって無理だと結論したのです。

そうなんです、行きはぐれて会えない事態を恐れたからです。ところが、4人の子どもたちが、それぞれ独立した今は、5ヶ所に分かれて住んでいて、その上、娘たちは外国住まいですから、『地上では会えないかも知れないかな!?』、と思っているところです。

〈備えあれば憂いなし〉と分かっていても、水や乾パンやチョキレート、ラジオや軍手や簡易トイレや新聞紙などと思うのですが、父の様な経験がない私は、なかなか腰を上げません。チョコレートなど、しまった場所を、しっかりおぼえていて、手をつけて食べてしまうことでしょう。どこかのスーパーマーケットで、防災グッズ一式を売っていたことがありますが。

最近のニュースを聞くと、身辺で何が起こっても不思議ではないので、真剣にならなければならないのでしょう。アメリカ西海岸、ロサンゼルス近郊で、マグニチュード6.4、7.1の地震があり、余震もあって、住む家が大揺れに揺れたそうです。怖いでしょうね。

さて、備えで家内と私だけが肥え太っていたら、『あの家には食料がたくさんあるに違いない!』と、襲撃されかねないかと心配してしまいます。そんな怖い時代が来ているのでしょうか。やはり、昭和の気骨で、備えるべきでしょう!

(江戸を襲った安政のだいじしんの「浮世絵」です)
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この両者には、違いがあります。上は、“キャラメル” で照りを加えているのに、下は、そう言った照りを省いて、自然のままの焼きですませているのです。見た目には、上の鰻の方が、輝きがあって美味しそうですが、やはり人工的な見栄えが加えられています。

「通(つう)」と言う言葉があります。“漢字ぺディア”には、「①ある物事に非常に詳しい人。もの知り。「食の―」 ②世情や人情に通じてもの分かりのよい人。」とあります。食通、鰻通の人に言わせれば、『見た目よりも味!』と言うのでしょう。先週の足利の鰻は、ウマイのです。

もう50も60年も経ちますが、鰻よりも、「泥鰌(どじょう)通」の父は、私を浅草駒形の土壌料理屋に連れて行きたかったのです。『準、いつか駒形で泥鰌を喰おうな!』と言ったままなのです。弟や友人に、一緒に行こうと誘いをかけているのですが、いまだに実現できないままです。ここから特急に乗れば、一本で浅草なのです。近くて遠おきは、泥鰌鍋です。
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