石坂文学

 石坂洋次郎の青春小説に、どっぷり浸かってしまった時期がありました。何しろ面白かったのです。読み終わると本屋に跳んでいって文庫本を買い求める、これを繰り返していました。抱腹絶倒したこともありました。また思い出し笑いもしていたようです。高校を卒業する前後のことで、受験勉強からの「逃避行動」だったので、とても自由な空気を深く吸い込むことが出来た時期だったのです。ある作品の中に、剣道だか柔道の先生と修身の先生が、町の銭湯に入る件(くだり)がありました。番台に座る風呂屋の息子に、それぞれの先生の《大きさ》を聞くと、予想に反して『修身の先生のほうが・・・!』と答えるあたりは、シモネタではありましたが、決していやらしくない表現で、笑い転げてしまった覚えがあります。

 石坂は、慶応大学を卒業すると、青森県の弘前中学、弘前高等女学校、そして秋田県の横手高等女学校の国語の教師として奉職しています。その教師の経験から、学園モノを書き続け、多くの作品が映画化されたりして、売れっ子作家でした。彼の作風が健全なので、それが高く評価され、賞もとったようです。中でも一番人気は、「青い山脈」でした。今でも読まれているのでしょうか。1949年には、原節子や池部良の出演で映画化され(都合5回も映画化されているようです)、また西條八十・作詞、服部良一・作曲で、歌でも歌われています。
        
若く明るい 歌声に
雪崩(なだれ)は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ

古い上衣(うわぎ)よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの 旅の乙女に 鳥も啼(な)く

雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺(みね)の
なつかしさ 見れば涙が またにじむ

父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく 若いわれらに 鐘が鳴る

 戦争が終わった後に、この快活で明るい青春映画は、日本の多くの青年の心を捉えてしまい、日本映画史上の名作に数えられています。私たちよりだいぶ前の世代の映画ですが、ビデオで観たことがあります。物には欠乏していましたが、若い力がみなぎっていた良い時代だったのでしょうか。

 また何時か、日本に帰りましたら、昔読んだ彼の作品を、図書館から借り出して読んでみたいものです。現実ばかりが注目されて、「夢」が少ない時代になりましたから、この時代の青年たちには、「古典」を読むと同時に、古き良き時代の傑作、「若い人」なんか読んでみたらいいのに、と勧めたいものです。この「若い人」は、横手高女時代に書き続け、昭和8年から12年までの間、「三田文学(慶応大学)」に断続的に連載されたものです。石坂は後になって、『当時の暗い実生活から抜け出したいために、華やかで放恣(ほうし)で無惨で美しい人間の崩れいく精神と肉体の歴史を綴りたかった。』と語っています。恋愛など、ご法度の時代に、時代に対するささやかな文学者の抵抗が、こういった小説を書かせのでしょう。何でも言える時代になったのはいいのですが、無秩序で非建設的な主張で騒々しい今より、よかったかも知れませんね。

(写真は、石坂洋次郎が教鞭をとった横手市の横手公園の「かまくら」です)

「堕落」

高橋和巳が著した「堕落」という小説を読んだことがあります。もう随分昔のことです。衝撃的な人生の結末を迎えてしまう一人の男の半生が描かれていました。

主人公は、青木隆造、彼は、日本人が「五族協和」と「王道楽土」という標語を掲げて建設に取り掛かった「満洲国」の建設に、自分の若さも情熱も、青春そのものを捧げたのです。しかし敗戦ということで、その夢が崩壊してしまい、日本に引き上げてきます。「償い」の気持ちでしょうか、彼は終戦後、日本の社会に産み落とされる「混血児」の世話をする「兼愛園(社会事業施設)」を建て上げ、園長として働きます。戦後の占領政策がもたらした、捨てられた日米混血の子どもたちの世話でした。青木の働きを考えてみますと、日本が進出していった中国大陸や東南アジアの国々にも、同じようにして生まれた子どもたちがいて、その数は、統計に残りませんが、数えきれないものがあったのではないかと思います。キラキラして青春をかけた国家建設とは真反対な世界、どんよりと曇って陽のあたらなく感じられる社会事業の世界で、地道に時代の落とし子たちの世話を続けてきたのです。ある新聞の社会事業部門の表彰に、彼と彼が長年仕えてきた施設が功労者として選ばれるのです。彼はその表彰式に、共に働いてきた部下の女性と出席します。その晩、昔の仲間からも「お祝い会」を開いてもらうのです。

苦労が報われ、社会的に認知された時、彼の戦後の生活がもろくも崩れていくのです。陰でなされてきた善行に、光が当てられた時に、彼の生き方が露わにされてしまうわけです。精神を病む妻と、孤児たちの世話を続けてきた彼は、真面目な戦後を生きてきたのです。式の行われた夜、泊まっていたホテルで、その部下を犯してしまいます。懐に賞金を入れ、盛り場を徘徊していると、不良グループ(チンピラ)に絡まれ、懐の金を狙われるのです。正気でいられなくなった彼は、「昔取った杵柄(きねづか)」、手にしていた傘を腰に当てると、一人の若者を、『・・・人を殺すというのはこうするものだ!』と言いながら、刺し殺してしまうのです。正当防衛といえば言えそうですが、人を殺す犯罪を犯してしまうのです。

彼の青年期も、「若気の至り」で、大陸では、人には言えないような罪を犯していたのに違いありません。その青年たちと自分は違うのだという思いが、頭をもたげてきて、つい、昔の行動を制御できずに、そうしてしまったのです。

痛む虫歯に痛み止めを詰めて、金環をかぶせてしまったら、それは治療にはなりません。病巣が隠され覆われただけだからです。戦時中の蛮行や犯罪が正しく処理されないで、うやむやのまま戦争を終えて、帰還してしまった後、たしかに社会事業という、社会の片隅で働き邁進してきた動機が、明らかにされてしまうのです。人の「過去の過ち」が、正しく精算されていないで、覆っただけで時を過ごしても、解決にされていないなら、再び、同じ問題が起こりうるのだということを知って、私は慄然としてしまいました。

国家が犯した戦争犯罪、組織が犯した犯罪というのは、どういうふうに問われるべきなのでしょうか。「東京裁判」や、その他の裁判で、裁ききれていないものは不問に付してしまっていいのでしょうか。賠償金の支払いで終わるのでしょうか。過去が遠のき、友好というベールで隠蔽されたとしても、殺したり、盗んだり、騙したりした過去は、きっといつか声を上げるのではないでしょうか。「終わってしまったこと」が、うめき声を上げているように感じてならないのです。南京でも平頂山でも「虐殺」があったことは歴史の事実です。数の問題はともかくとして、事実は事実です。また満州で、医学という隠れ蓑で行われた人体実験の犠牲者は、数多いと聞きます。一連の犯罪の責任の所在は、どこに求められるのでしょうか。

青木隆造の過去と今、その小説を読んだ私は、30年もたった今でさえも、深く考えてしまうのです。「処理されていない過去」が、人の人生を暴くように思えるのです。だいぶ厳粛なことですが、ここ中国で、平和に暮らしている私ですが、『軍隊という組織が犯した犯罪は、どうなるのだろううか?』と、戦争や紛争のニュースを耳にするたびに、考えてしまいます。加害者が死んでしまったら、終わっていいとは思わないからです。この時代の私たちは、そういった問題意識を持つべきだと思うのです。『となり町の井戸に日本軍が毒を入れたんです!』と言った昔話を聞いたこともあるからです。青木隆造もまた、戦争の落とし子で、《時代の子》だったのでしょうか。

(写真は、父が青年期に過ごした「奉天(現在の瀋陽)」を撮った「はがき」です)

理想的な指導者像

 260年もの鎖国の中から、突如として欧米諸国の介入で、開国に踏み切った日本は、「殖産興業」、「富国強兵」を掲げて、たち遅れを取り戻すために、必死の努力を重ねて、開国30年ほどで大英帝国と肩を並べられるほどの国力のある国に急成長を遂げました。植民地に甘んじていたアジア諸国の中で、一人気を吐いていたのです。経済が肥大化する中で、軍事力も大きくなっていき、ついには資源や市場を求めて中国大陸に進出し、米英を敵に回して戦争に突入してしまったわけです。敗戦によって、決定的に息の根を止められた日本でしたが、奇跡的な復興を遂げたのは、世界中の脅威の的でした。

 「朝鮮戦争」の戦争特需があって、日本の産業界は驚異的な進展を遂げ、ベトナム戦争の特需もあって、米に次ぐ経済大国となったことは、アジア諸国に自信を与え、躍進への意気を奮い立たせたわけです。現在では、韓国もインドもインドネシアも、豊かな経済をもつ国となってきております。

 さて、日本の経済を動かした財界人には、傑出した人物が多くおいでです。戦後、解体された「住友財閥」の系列会社に、「住友化学工業」という会社があります。この会社の社長や会長をつとめた「長谷川周重(のりしげ)」もまた、凄腕の企業人でした。この方の秘書をされた方との関係が、とても興味深かったと聞いておりますので、紹介させていただこうと思います。

 「秘書」をgooの辞書でみますと、『要職の人に直属して、機密の文書・事務などを取り扱う職。また、その人。セクレタリー。「社長―」 』とあります。長谷川に仕えて、万端怠りなく事務やスケジュールをこなし、手先となってことに当たるT秘書は、長谷川の言動におかしなことを見つけると、黙っていられないで、はっきりと指摘してしまうのだそうです。こういった部下というのは、使いにくいに決まっています。『はい!』と言って事務処理に励むだけでいいのに、それ以上のことを言う始末だったのです。人事権もあるのですから、配置換えしたり、左遷することは容易にできたことですが、長谷川は、しませんでした。

 彼は日曜日ごとに「講演会」に集い、過ぎた一週間のことを静まって思い返し、自分の言動を反省していた人だったのです。自分が言い過ぎたり、間違っていることが示されると、決まって月曜日には、それを詫びるのだそうです。ある月曜日、T秘書に、『この前はご免。言い過ぎて済まなかったね・・』と小声で言い、部下への非礼を心から詫びたそうです。部下の人格を尊重し、彼の家族の生活のことを思うと、権威を振りかざすことはいけないことだと自覚したからそうです。だから、謙虚に謝れたのです。

 人は高い立場に就き、人々に見上げられるようになると、なかなか、自分の非を認めたり、謝罪することができなくなってしまうのです。自分の立場を低くしてしまうように感じて恐れるからです。ところが、この長谷川周重は、沽券(こけん)にこだわったり、権威の濫用から遠くにいて、一人の人として、《謙虚さ》を身につけていたのです。

 日本史に出てくる武将たちの多くは、オジでも子でも、さらに父親でも、政敵とみなすと、即刻腹を切らせ、首をはねさせてしまうほどに横暴だったことが分かります。としますと、部下などでしたら物の数ではありません。軽々しく権力を行使することを、自ら諌めて組織の中で、生きた 長谷川周重には驚かされます。 

 大企業の社長や会長の要職にある人は、何十万もの部下の頂点に立っているわけです。その部下には妻子がいます。子どもたちには、教育などの多くの必要があるわけです。部下の家族の「生存権」にまで配慮したトップを持っ企業でしたら、どんなに素晴らしいことではないでしょうか。権威の座で私腹を肥やす人の多い中、 長谷川周重の様な人がいた企業が、祝福されないはずがありません。

 ある時、ある事業部門の経営が悪化し、そこを整理することになりました。そのトップに居る人から相談がありました。『あなたの数十人の部下には、妻も子も、お父さんも母さんもおいでです。彼らの身の振り方を考えてあげて下さい。そうして、あなたの今後を考えてみられたらどうでしょうか。きっと最善に導かれて、再就職の道が開かれますから!』と言って激励したのです。ところが、彼は、自分の妻子を養うことの危機感に苛まれて、誰よりもはやく転職先を見つけて、退職してしまいました。後になってこの方は、『私のために、別の部署の責任を任せたかったのだそうで・・・』と言っていました。日本の政界にも財界にも教育界にも、いえ世界中の国のそういったトップに、長谷川周重のような心意気の人材が欲しいものです。

自由闊達

 家内は、『なに人、なに民族なんて言って、ナショナリティーにこだわリ過ぎるのはどうかと思うわ!』という、全球的なものの考え方をする女性です。たしかに『日本人なんだから!』という特権意識は、他国人を拒む排他意識を持つことになってしまいます。そういった思いは、国家や民族や言語を超えた「友情」を築いていくためには邪魔になってしまいます。私の父や母の時代には、『日本人たれ!』と言われて、我慢や耐乏を強いられたと聞きます。またそれは、日本人としての枠付けであって、『わが民族の優秀性を誇り、他を威圧して生きよ!』と求められたわけです。それは各人の選び取りや決心ではなく、国家や社会から強要されたものだったのかも知れません。

 石橋湛山というジャーナリスト(後に短命な内閣の総理大臣にもなりますが)は、実に広い心をもって、社会全体を鳥瞰できる方だったようです。共産主義に傾倒した人たちの思想行動を、『赤!』といって、弾圧して厳しく取り締まった「特高(特別高等警察)」や「治安維持法」があった暗い時代に、『信じたいものを各人が自由に選んで信じたらいいのです。それが良いか悪いのかの判断は時代が決めるのだから!』と言っています(出典を見つけられないので、私が覚えてる表現ですので念のため)。

 アメリカの様な民主主義国家でも、「赤がり」ということが行われて、逸材を死に追いやった悲しい歴史があります。何を恐れたのでしょうか、ただ悲惨なことだけが歴史に記録されただけではないでしょうか。全球的な動きを、グローバリズムというのでしょうか、《地球人》とか《国際人》という考えをもって、違ったた思想や生き方を受け入れていくなら、戦争なんか起こらなくなるのではないでしょうか。だから家内の考え方の広さや大らかさは、正しいのだと思うのです。

 だからといって、自分の国を愛したり、自分の出自を誇ったりする思いを捨てる必要はないと思うのです。父母や祖父母や曽祖父母などから受け継いだものは、《独特無二》であって、それを否定することはできません。自分の国を愛することは、軍国主義の復活になるとの考えは、狭量に過ぎます。「日章旗」の国旗を掲揚することは、右翼の行動になるのでしょうか「君が代」を国歌として歌うことは天皇制讃美になるのでしょうか。スポーツの時だけ、国旗の掲揚や国歌斉唱が許され、教育の現場では、これがなされることを認めない教師がいるのは、どうしてなのでしょうか。

 どの国でも、自分の生まれた国を愛し、育った国への忠誠心をもっことを願って、教育がなされています。日本は、戦争に負けたので、過去をすべて否定しなければならないのでしょうか。どの国にも、どの民族にも恥な過去があります。そのことだけに拘泥して、青少年たちが自信をなくしてしまったら、父や母から受け継いだ、母国を建て上げていくことも、産業を興隆することもできなくなってしまいます。

 自分の生まれ育った国を、しっかり愛することができて初めて、他国と友好な交流をしていくことができます。他の独自性を認められるからです。同化することが、目的ではないのです。互いの違いを知った上で、関係を構築していくことができるのです。

 日本文化を「自傷文化」、また日本人の歴史の見方を「自虐史観」という文化人がおいでです。自殺者が多いのは、日本に限ったことではなく、世界全体が生命軽視の傾向にあるのです。私は、《男性性》を確かにし、日本人の強さも弱さも学び、中国や韓国やアメリカの優秀性を認められる人間として、教育を受けてきました。このことを、父や教師たちに感謝するのです。歴史の事実を認めて反省はしますが、自虐には陥りません。父と母から受けたこの体に、刃物を向けて傷つけたりもしません。もちろん心にも。

 中学の時に担任で社会科の教師だった恩師は、『日本人は鎌倉時代には、自由闊達に、ノビノビと生きていたのです!』と教えてくれました。男も女も、自信を持って生きていたことになります。さて、21世紀を生きていく日本の青少年が、誇り高く、気高く、そしてノビノビと生きていくことを、心から願うのです。それこそが、自分をありのままで受け入れ、自分を愛し、自分と違った他者を受け入れられるからであります。

(写真は、http://komekami.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/P4199803.jpgの鎌倉時代を彷彿とさせる「流鏑馬(やぶさめ)」です)

雷鳴

 大自然の「大交響曲」とは、雷鳴の轟(とどろき)ではないでしょうか。「ゴロゴロ」、「バリバリ」と言う擬音では表現できないように、腹の底に響き渡るような轟音(ごうおん)が、しかも長く続いています。今もシンバルンの音の何十倍もの音響が、劈(つんざ)くように響きわたっています。雷光は凄まじく、空の端から端に煌(きらめ)きます。雷雨も半端ではありません。窓の下のアスファルトの道の上を叩きつけていますが、『車軸を流す!』と言った表現が一番でしょうか。

 ここ中国大陸の南、華南の夏の風物詩の《雷》が、私は大好きです。《男っぽい》というのでしょうか、《男性的で豪胆》というのでしょうか、《大陸的》というのでしょうか、本当に、ほれぼれとしてしまいます。気分が爽快になって、ささいなことなんか、すっかり忘れられます。 

 かつて、狭い日本での生活に飽き足りなくて、大陸に憧れて、勇んで出かけてきた、多くの青年たちの心意気と、同じものを感じてしまいます。私の父も、その青年期に玄界灘を越え、東シナ海を渡って、奉天(現在の瀋陽)で過ごしたと言っていました。きっと、今日の午後ように、雷鳴が轟き渡る大陸の大交響曲を聞いたのではないでしょうか。「五族協和(漢族、満族、蒙古族、朝鮮族、日本)」という大理想の実現を、純粋に願って、箱庭のような手狭さを嫌う父のような青年たちを、中国大陸に雄飛させたのでしょうか。ある方が、『あの北米のアメリカ合衆国のような国を、満州の大原野に作りたい!』と願ったのだと記された文章を読ませていただきました。ブラジルやハワイや北米に移民していった青年たちのように、同じ純粋な志だったのだと思うのです。ですから決して軍靴や銃で蹂躙するということを意味していなかったのです。

 しかし軍部の独走と暴走で、実に残念な結末を迎えてしまったのは、歴史の事実なわけです。私たち日本人に、アメリカ人が使ったような蔑称を、私たちに日本人も、中国や朝鮮のみなさんに使ったことは事実ですが、驚くほどの親密な友情で中日、韓日の交流があったことも事実です。私が20数年前に訪問した台湾のみなさんは、戦前の日本の統治を懐かしく語ってくださったのです。『あの頃は、家に鍵をかけなくても、盗まれるようなことがなかった時代でした!』とです。これと同じようなことが東南アジアにもあり、きっと中国でも朝鮮半島でも、あったのではないかと思うのです。残留孤児の面倒を見てくださった、中国東北部のみなさんには、悪い感情だけで日本人を見ていなかったことが、そうさせたのではないかと思われ、感謝が溢れてきます。

 今学期、中国と日本の交流史を基軸に、学校で講義させていただいたのですが、日本の政治、経済、法制、教育、福祉など、ほとんどの分野で、あまりにも緊密で親密な関係が、長く深くあったことを改めて学んで、中国のみなさんには感謝を忘れてはならないのだと、今さらながら強く思わされています。

 この6年の間、実に優れた人格者と出会うことができ、素晴らしく振る舞う青年たちと交わり、その感謝は、さらに大きくなっております。日本人と中国のみなさんとは優劣を決めることなど全くナンセンスなのです。親子のような、兄弟のような、師弟のような、そんな素晴らしい関係史を顧みながら、友人たちとの友情を、喜び楽しんでおります。しかも、彼らの多くは、私と家内とを「一家人yijiaren」と言って接してくれているのです。その気持ちに感激しながら、大好きな雷鳴が、だんだん遠ざかっていく夕方であります。

 (写真は、HP〈神戸観光壁紙写真集〉の画像の「稲妻(明石海峡)」です)

 

希望

  目には青葉 山ほととぎす 初鰹

 この有名な俳句は、山口素堂が詠んだものです。鰹の刺身、タタキの好きな私にとって、垂涎(すいぜん・すいえん)ものであります。先日、アパートの道路を挟んだ向こう側にある、大きなショッピングモールの中に寿司店が開店しました。そこに入って、「カツオの握り」を注文したのです。この時期になると、やはり食べたくなるからなのです。しかし、期待した味ではなくて、少々がっかりしてしまいました。もちろん大陸で、カツオの寿司は贅沢過ぎる要求に違いありませんし、「初鰹」など及びもつかない法外な願いに違いありません。でも、田舎者の私でも、女房を質草にしてでも、この「初鰹」は食べたいと、闇雲に願った江戸っ子に、連なりたいのです。

 甲州の八ヶ岳を仰ぎ見る農村に生まれた素堂にとって、食べることが出来たのは塩漬けの魚か、干し魚くらいだったに違いありません。また、武田信玄が富士川の流れを沢登りさせて運んで、塩に漬け込んだ「鮑」を、醤油で煮込んだ「煮貝」を作らせましたが、高価ですが、それくらいしか食べられなかったはずです。俳句を読んだ素堂は、江戸の都に出て、この「初鰹」と出会ったのでしょうか。黒潮に乗って登ってくる活きのいいカツオを、江戸っ子は「初鰹」と呼んで、珍重していたのです。

 山育ちの素堂にとって、どんなに美味しかったことでしょうか。それで、この句を詠んだわけです。青葉が陽に燃えて輝いているのが目に入り、不如帰の鳴音を聞き、とれたての活魚を食するという初夏の江戸っ子の生活が、目に浮かぶようです。私も素堂といくつかの沢違いの山の中で生まれていますから、海産物への思い入れは、相当なものがあるのです。  

 『青年は希望を胸に秘めて生きよ!』と、学生たち激を飛ばした私です。今度帰ったら、前々回の帰国時に、息子と娘が連れていってくれた、新宿のデパ地下の回転寿司に行ってみたいと、しきりに思ってしまいます。この小さな「希望」は許されるでしょうか。

(写真は、http://ameblo.jp/honnori-heiwa/image-11255780158-11983334827.htmlの「鰹のさしみ」です)

大らかさ

 酷暑の6月がめぐってきました。ここ亜熱帯気候の華南は、樹木が生い茂り、多くの花が競うように咲き競い、やはり夏こそが、この地にふさわしい気候のようです。昨日は、学校に書類を持って行く用があって、マウンテンバイクに乗って、キャンピング・ハットを被り、サングラスをかけ颯爽と出かけました。上り坂の道を、ペダルをこいで登って行くのに、息を切らせますが、頬に当たる風は心地よかったです、吹き出る汗もいいものだと感じたのです。カジュマル(榕树rongshu)の木陰は自然の日除けで、街路樹として延々と植えられています。コピーを、いつもの店でしたのですが、水分補給のために、近くの商店でペットボトルの水を買って、一気に飲んでしまいました。こういった生活をしていたら、健康管理は磐石です。

 書類を渡して、帰りには、いつも送迎バスに乗って出かけるスーパー・マーケットの一階にある、ケンタッキー・フライドチキンによって、6元のホット・コーヒーを飲みました。店長が、よく知っていて、『コーヒーですね?』と聞いてきました。エアコンが効いていて、涼をとりましたので、火照っていた頬に心地よかったのです。

 35年ほど過ごした中部山岳地方の町は、回りを険しい山で囲まれた盆地の中にありました。夏は酷暑、真冬は山から吹き降ろす風の酷寒の地でした。男性的なはっきりした季節の移ろいが、厳しくはあったのですが、大好きでした。「中庸」を生活の知恵として学んだ日本人の私たちは、心情的には中途半端なことをよしとしてきたわけです。私の周りにいたアメリカ人は、、『コーヒーを飲もう!』と誘います。ところが日本人の私は、『コーヒーでも飲みましょうか!』と、「でも」を、ことばの間に挟んで誘うのです。または、『コーヒーを飲もうと思うのですが、あなたは?』という遠回しな言い方をします。《断言》をしないわけです。相手の嗜好を配慮するからでしょう。欧米人が、《押し付け的》に言う言い方と違う、日本人の話し方は、やはり独特なのではないでしょうか。

 それででしょうか、日本人は、なかなか『ノー(NO)』と言えないので、国際社会で奇妙な国民だと言われているのです。それは『イエス(YES)』と言えないことにもなります。この2つの答えの間に、いろいろな表現を、私たち日本人は考え出して、曖昧なことを言って顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうわけです。なぜなのか考えますと、《争い》を避けたいからなのでしょうか。狭い国土の中で、長らく外敵から守られ、農地を耕し、村の掟の中で生き続けてきたら、こういった「智恵」を身につけるほうが、賢いに違いありません。

 広大な中国大陸に住み始めて、この夏には7年目に突入します。龍岩という街が、広東省に接するところにあります。そこは「土楼」で有名な地なのですが、北の方から抗争から逃れてきた漢族が住み始めて、驚くほどの知恵で造営された住居であり、砦でもある「土楼」にすんできたわけです。負われたら、まだまだ彼らは、西に居を移していくことも出来たのでしょうけど、そこに定住したわけです。そこからはスカンジナビアも、ポルトガルも、アラビアも、南アフリカの喜望峰も地続きなのです。気に食わなかったら、どこでも歩いていくことができます。ところが島国に育った我が民族は、海をなかなか超えていくことをしないのです。

 ですから「国民性」や「民族性」の違いを感じてしまうのです。中国のみなさんの《大らかさ》は魅力的です。下手な私の中国語を、『上手ですね!』と平気でほめてくれます。『外国人なのに、私の国の言語を話してくれているのだから!』という思いからでしょうか、嘘ではないのです。私たち日本人は、それは《お世辞》ですが、彼らは《激励》なのです。そんな違いがありながらも、中日の両国民は、よく似ているのです。ハニカミや衒(てら)い、自尊心、面子など、同じ精神世界を共有しているのがわかるのです。それにしても暑いですね!

(写真は、龍岩に点在している「土楼」です)

旅立ち

  

 『五日の夕方、街中の日本料理店で、〈謝恩会〉を持ちますので、おいで下さい。ぜひ奥様もご一緒にいらっしゃって下さい!』との電話が携帯に入りました。今年卒業する四年生の代表からでした。この学年は、1年の「会話」、2年の「聴解(視聴説)」、3年の「作文」を教えさせていただいたのですが、とても熱心に学んでいました。他の担当教師のみなさんからも、極めて良い評判の学年で、とくに男子がまとまっていたのです。大学に入って初めて日本語を学ぶ学生が多かったのですが、さすが4年の学習効果が出ていまして、敬語も適切に使えるようになっているのには、驚かされて喜びました。

 一昨年の暮れに、家内が病んで、こちらの市立第二医院に入院しました。前期の授業を終えて、日本に帰りましたら、手術ということになり、結局、こちらに戻ることができませんでした。それで、「作文」の講座の担当責任を果たすことができないまま、その学年の後期が終わってしまったのです。幸い、代理の先生が代わってくださったので事無きを得たのですが、私としては、とても残念な思いがしておりました。準備万端整えておりましたし、彼らの期待に応えられなかったので、自責の念がしていましたが、彼らは、「没関係(meiguanxi、『いいですよ!』)」と言ってくれたのです。そんな学年が、家内まで招いてくれたのです。病んで手術をしたのですが、元気を回復して、同席させてもらったのです。ほとんどが初めて接する卒業生と家内が歓談しているいる姿は感謝でした。みんなの席を順番に、家内と回って、『おめでとう!』と、祝福のことばをかけられたことは、喜びが一入でした。

 昨日、午後からの授業で、北門からキャンパスの中を歩いていましたら、寧波から来ていた学生と偶然会いました。『これから故郷に帰ります!』と挨拶し、私も、『こちらに来たら、連絡してくださいね!』と言葉をかけ、『さようなら!』をしました。言葉数の少ないハニカミ屋の彼女でしたが、4年間学ばれて、故郷に錦を飾るわけです。彼女の故郷の寧波は、上海に近く、「元寇(げんこう)」の軍隊が船出した港町で有名です。1281年の第二次の攻撃の時には、10万人の軍隊が、3500槽の船で日本を攻めたのですが、帰港したのは1,2割程度だったそうです。大きな犠牲を払ったことになります。730年後、日本語の教師が、寧波出身の学生と出会って、教壇と机の至近距離で、しばらくの時を共にしたのも、『会うは別れの始め』、嬉しいやら寂しいやら、不思議な感情が去来してしまいました。

 

 『ふるさとの雲南大学の大学院に進学します!』、『公務員になりました!』、『9月から日本の東北大学で経済学を専攻します!』とか、様々な進路を話してくれました。全員の進路を聞くことはできませんでしたが、やはり前途洋洋の門出になるのですね。青年期っていいですね!つらいことも、苦しいこともありますが、可能性に満ち溢れているからです。きっと、この卒業生の生きていく時は、激変の時代かも知れません。その変化の中を、『学び始めたことを、続けていってくださいね!』と励ましました。日本語を使うことのできる職場に就職した人たちもいますが、そうでない方のほうが多いかも知れません。でも、きっと、これからの人生に役立てていけると思うのです。「四年の学び」が終わったわけではなく、学びの入り口を入ったばかりなのです。毎日毎日の一生が学びの時です。

 みんなが用意してくださった日本料理は、大変美味しかったです。ありがとう!みなさん、大学に進学できたことは大きな祝福だったわけです。ご両親の援助や激励が背後にあっての卒業なのですから、是非感謝を表して下さい。社会人になるみなさんも、修士号や博士号に挑戦していくみなさんも、もしかしたら結婚して家庭に入る方も、その道が明るく灯されて、意義ある人生を満喫して行って下さい。旅立ちを祝福して、輝く人生に乾杯!『おめでとう!』

(写真は、http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E6%97%85%E7%AB%8B%E3%81%A1から「旅立ち」です)

水無月

 瀬戸内海には数多くの島が散在しています。27,8年前になりますが、九州の熊本に行くために、瀬戸内海を渡ったことがありました。まだ本四連絡橋が出来る前だったので、姫路からフェリーに乗り、小豆島に上陸し、小豆島の土庄(とのしょう)港から四国に渡ったのです。いつでしたか、「波止場しぐれ」という歌謡曲が流れていたのを聞きましたら、その歌の中に「土庄港」の名前が出ていたので、『あっ、そうか。あの時フェリーに乗ったのが土庄だったんだ!』と思い出して、興味深く、この歌を聞いたのです。

1 波止場しぐれが 降る夜は
  雨のむこうに 故郷が見える
  ここは瀬戸内 土庄(とのしょう)
  一夜泊りの かさね着が
  いつかなじんだ ネオン町


2 肩に重たい 苦労なら
  捨てていいのよ 拾ってあげる
  ここは瀬戸内 土庄港
  のんでおゆきよ もう一杯
  浮世小路の ネオン酒

3 あれは高松 最終便
  グラス持つ手に 汽笛がからむ
  ここは瀬戸内 土庄港
  恋も着きます 夢もゆく
  春の紅さす ネオン町

 

 1985年に、作詩・吉岡治、作曲・岡千秋 、歌・石川さゆりでヒットした歌謡曲だったようです。いわゆる艶歌そののものですが。その頃に、上の二人の子を連れて、下の兄にもらったオンボロ自動車を運転しての旅の途中、「土庄港」からフェリーに乗ったのを思い出したのです。熊本に着いた時、『こんな車でよく来ましたね!』と驚かれたのですが、車の外側の塗装に錆が浮き出ていましたから、そう言われたのですが、車の性能は抜群でした。そういえば、これまで、新車と高級車には乗ったことがないのです。中古市場で買ってもらったとか、お下がりの車ばかりで、人にも上げたこともありました。『動けばいい!』といった考えでしたから、『羨ましい!』と思ったことも、『欲しい!』と思ったこともありません。4人の子育て中でしたから、そんな贅沢は言っておられませんでした。

 こちらに来てから、この6年間、車を持つことも運転することもなくなってしまいました。大雨が降ったり、強い風が吹くと、走っている車を見ながら、『車があったらなあ!』と思ってしまうのですが、そういったときはタクシーや公共バスを使えばいいわけですから、すぐに諦められるのです。それでも40年も運転してきましたから、たまに乗る自転車よりは自家用車がいいに決まっているのです。でも多くの友人たちが、『こちらでは車は運転しないほうが賢明ですよ!』と言われています。留学していった学生が置いていった自転車が、現在のマイカーなのです。その小豆島を通過した時に、「二十四の瞳」の舞台となった島であったことを忘れていて、小学生の二人の子と一緒に訪ねることをしなかったのです。今でも、それが悔やまれてなりません。はやく四国に上がって、西端の八幡浜から別府に渡ることばかりを考えていて、旅を楽しまなかったのです。損な性分だと、つくづく思います。今度、小豆島を訪ねる機会があったら、《行き当たりばったり》でないようにと願っています。事前に、しっかり「二十四の瞳」の映画を見なおし、情報を調べて出かけたいと思っています。

 先週末、二人の客人の訪問がありました。過分なことばでほめられたのですが、私の実態は、短気で喧嘩早く、せっかちで衝動的なのです。そんな自分に愛想を尽かしながら、家族や兄弟や友人や知人に迷惑をかけて、今日まで生きてきたのです。聞くところによりますと、老人が、最近は《切れ易く》なっているのだそうですね。そういえば、私の愛読書には、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。 」と書いてあります。これを教訓に、迷惑をかけた妻や子どもたちに詫びて、再度、褌を締めなおしている「水無月(みずなしづき/みなづき)」であります。

(写真は、http://kiwihusband.at.webry.info/201007/article_4.htmlの「土庄港」です)

向こう三軒両隣

 

 日本人の優れている点が、外国人の関心を呼んでいます。昨年の「東日本大震災」の被災地で、被災された方々の様子が注目したからです。慌てることなく冷静沈着にことを処してしている姿に驚かれたのです。とくに、利己的になりやすい情況で、我先に物を求めたりするのが常ですのに、他者を優先して譲ったり、もらったおにぎりを《半分こ》にして分け合ったり、《助け合い》をしている姿が注目されて、『日本人ってすごい!』と賞賛しておられました。

 貧しかったからでしょうか、私たちの国では、相手を顧みようとする思いが育まれてきたのではないかと思われます。結合とか団結の「結」の字を、「ゆい」と読み、その《結》という助け合いが、農村などで行われていました。茅葺の屋根を何十年に一度とかで葺き替えなければならなかった時代、村じゅうの人が無休で奉仕して、この作業にあたったのですが、その強力の姿を「結」と読んだのです。また漁業従事者たちの世界では、「もやい」ということが行われてきたと言われています。船と船をつなぎ合わせたり、船の纜(ともづな)を岸につなぐことを、「もやう(舫う)」というのですが、この動詞からでききたことばで、魚民同士の助け合いを、そう呼んできたのです。

 その他には「講(こう)」と呼ばれるものもあったようです。これは、元々は仏教信者の会合を、そう呼んだのですが、後になって、お互いが助けあう組織に変わっていき、それを「講」と言うようになってきているのです。こういった「ことば」が残っているということは、日本の社会の隅々までに、「相互扶助」の心が養い育てられ、互いに支えながら、支えられながら生きてきた生活史があったということになります。近年、都市化の動きの中で、こういった《互助の心》が消えてきて、人々は孤立化してきているのでしょうか。またこれに変わって、専門的な職業が成り立ってきて、すべてがお金で解決される社会になってきてしまったようです。

 私の恩師がこのことを、1つの「ことば」で紹介しておられます。「互酬(ごしゅう)」です。こうおっしゃっておいでです。

 『私たち日本の社会には、昔からお互いに報いあう「互酬」という習慣があります。田植えを手伝ってもらったら、収穫は手伝いに行く。あるいは結婚式にご祝儀を持っていき、お返しに引き出物をいただくなど。いわゆるお返し主義です。日常での互酬は、物品のやりとりですが、市場に並ぶ商品とは違い、人間の優しさや温かい心が通っています。これが互酬の大きな特色です。このお返しは、助け合いの心を多分に含んでいます。被災地では、被災者の方々は互いに助け合い、それだけでなく、自分たちの食べ物がないにも関わらず、救援に来た米軍の兵士に飴を配ったというところまで展開されています。

 この互酬は、個人だけでなく自治体も同じです。例えば、東日本大震災では、新潟県の28市町村 は、すぐに14,000名の避難者を受け入れる決議をしました。中越地震のときに助けてもらったからです。函館の漁協が226隻の漁船を岩手県に寄贈しま した。これは昭和9年の函館大火で岩手県にお世話になったからだというのです。

 そして、互酬は変化を遂げているといえます。93年の北海道の奥尻島の地震のとき、特別養護老 人ホームへ、一人のご老人が奥尻の義援金を届けに来てこうおっしゃいました。「関東大震災で助けられたお礼のお返しをしたかった」と。当事者ではなく見ず 知らずの奥尻へお返しにきたのであります。福祉の心とは、まさにこのように見ず知らずの人への働きかけなのです。

 考えてみると献血も互酬でした。昔は、献血手帳があり、自分が献血した血液量と同量の血液を必 要とするときに優先的に確保すると書いてありました。そういう約束事がなくなった現在、600万人が献血しています。これだけ人々の気持ちが広がっている ということです。私は日本社会というのは、互酬性を大事にしながら、助け合いの文化を拡大していくことが課題だと思います。

 

 醤油や味噌や塩を、隣に狩借りに行ったり、貸したりした子どもの頃が懐かしいのは、我々の世代の思い出なのかも知れません。そんな雰囲気が、このところ日本の社会に蘇ってきているのでしょうか。わが家の周りに何軒か、物のやり取りをする家が与えられています。『おばあちゃんが作りましたので!』と、「豆腐」が、二度ほど届けられてきています。それで家内は、「巻きずし」を作ってお返しをしていました。これが、華南のわが家の《向こう三軒両隣》であります。

(写真は、HPhttp://naka-zizi.at.webry.info/200711/article_18.htmlの「艫綱」です)