月亮

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   もう何年も前になりますが、華南の街でのことでした。夜7時過ぎに、我が家を訪ねてこられた四人の方と、一緒に外出して、道を歩いていましたら、行く先の空の上に、月が実に綺麗でした。まさに「秋月」、異国で観る月は、煌々としていました。中秋節だったのです。

 やはり、月の光は幻想的で、古代の人々にとっても、現代人の私たちにとっても、趣ががあります。中国のみなさんは、夜空に輝く月を、亮としている様を加えて、「月亮yueliang」と言います。中国の古代人も、ギリシャの古代人も、星や月を見ながら、想像を膨らませたのです。とくに中国の天津の外国人用「公寓gongyu/アパート」に住み始めて、そこで観上げた月は、驚くほどに大きかったのです。

 子どもの頃に、河原の砂や、砂場の砂しか知らない私は、この砂が延々と続く「砂漠」を想像しただけで、目が眩みそうになった覚えがあります。その砂漠に、月が朧げに出ている光景です。作詞が加藤まさを、作曲が佐々木すぐるの「月の砂漠」です。

月のさばくを
はるばると
旅のらくだが
ゆきました

金と銀との
くらおいて
ふたつならんで
ゆきました

金のくらには 銀のかめ
銀のくらには 金のかめ

ふたつのかめは それぞれに
ひもでむすんで ありました

先のくらには 王子さま
あとのくらには お姫さま
乗った二人は おそろいの
白い上衣を 着てました

広い砂漠を ひとすじに
二人はどこへ ゆくのでしょう
おぼろにけぶる 月の夜を
対のらくだは とぼとぼと

砂丘をこえて ゆきました
だまってこえて ゆきました

 「中秋の名月」は、すでに過ぎてしまっていますが、「名月」の2日後が、「満月」になるそうです。中国のみなさんにとっては、「月餅yuebing」を送り合う習慣のある日なのです。友人のパン店経営者が、毎年、中秋節前になると、『幾箱欲しいか?』と聞いてきたのです。月餅を贈り合う習慣があるからです。

 遠慮すると、必ず三、四箱を届けてくれたのです。美しい缶入りの、実に美味しい月餅の詰め合わせなのです。家内が、それをもって二軒ほどに配り歩いたでしょうか、それでも、パン屋さん以外にもいただくので、月餅だらけに家がなってしまう時期だったのです。

 家内の病気で急に帰国してしまってからは、その月餅をいただかなくなってしまったのですが、今年は、華南の街の「日本人奥様会」のメンバーで、息子さんの日本の大学入学で、東京の品川にお住まいの友人と、下の息子から、その「月餅」が届いたのです。

 餡の中に、卵で月に模した黄身が入っているのです。それを見て、華南の街でいただいた月餅と、童謡の「月の砂漠」を思い出してしまったのです。朧に見えたり、泣いているように観てしまうよりも、煌々と輝く月がいいですね。帰国以来、月がよく見える北関東に住むからでしょうか、月が気にかかるのです。それだけ、心静かな時を過ごしていることになるのでしょうか。

(「家のイラスト」の砂漠を行く二人です)

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北海道

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 高校2年の修学旅行で訪ねてから、北海道は何度か訪ねています。日本人は、北に憧れがあったり、郷愁を覚えたりして、歌で歌われ、多くの映画の舞台として登場しています。そこは「逃避行」の行先に、いちばん似合う日本列島最北端の島です。

 青森から、青函連絡船で函館の港に着いた船旅も、函館のトラピスト修道院、五稜郭、函館山は、印象的でした。買って帰ってきた、トラピストのチーズ飴とバター飴が美味しかったのです。大きな温泉のある旅館に泊まって、夕食に出された、「いかそうめん」も、『こんなに美味しい物があるのか!』と感動的でした。

 まだ未舗装の道路をバスを4台連ねて、砂ぼこりを残しながら、洞爺湖、昭和新山、北辺原住民(アイヌ〈”人間“の意味だそうです〉)の村、層雲峡、摩周湖、オホーツク沿岸、根室湿原などを訪ねたのです。自分の国を知ると言った意味で、悠久の天然の歴史の中に、明治以降、刻まれた人の営みの後を訪ねたことに、意味があったと思います。毬藻(まりも)が、透明度の深い摩周湖にあって、その頃、この湖を歌った歌が歌われていて、印象的でした。

 その後、友人たちと一緒に、札幌を中心とした地域を訪問したことがありましたが、修学旅行当時とすっかり変わっていた北海道でした。その後、右肩の腱板を断裂してしまった私は、カナンの街で痛みに耐えながら、ネット検索をして、札幌にある整形外科医を見つけ出し、メールで連絡を取ったのです。2017年のことでした。
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 この担当医師は、懇切に説明し、治療法を示してくださったのです。それで、早速チケットを買って、華南の街の空港から、羽田、札幌と乗り継いで訪ねたのです、日に10人もの患者の腱板断裂の縫合手術を、お一人でする整形外科医院とは知りませんで、すぐには入院できなかったのだそうです。主治医で院長は、staff に相談して、〈中国から来た日本人の患者/病院関係者は私をそう呼んだでいたそうです〉の手術を二日後に決めてくださったのです。

 遠方から強引に来てしまった患者を拒めなかったのでしょう、その日の11人目、最終手術をしてくれたのです。4年が経過していますが、全く前と同じ状態に戻っていて、後遺症や不具合はありません。入院中のほとんどがリハビリでした。100名以上もいた理学作業療法士の中から、若い療法士が午前午後の2回、治療台の上の私の肩の筋肉の動きに、実に真剣に施術をしてくれました。 

 リハビリが一段落すると、別院に移って、リハビリが継続されるのですが、『あなたは私の近くにいていただいて、私が看守りながらリハビリを続けていきましょう!』と、特別扱いをしてくれたのです。所定のリハビリを終えて、退院したのです。まだ継続のリハビリが必要で、華南の街に戻って、市立第二医院(革命前はイギリス海軍に病院でした)に、リハビリ科があるのを、友人が見つけてくれて、そこに通いました。帰る時、術後に装具を一式預かって、医院への贈り物に持たせてくれました。

 6ヶ月が経って、術後半年の検診で、家内を伴って帰国し、札幌の病院を訪ねました。診察結果は経過良好でした。院長に感謝をしてから、バスに乗って函館を訪ねました。若い頃から、色々とご指導を仰いだ牧師がいて、訪ねたのです。あいにく東北の街の開拓教会に行かれていて、奥さまにお会いしただけでした。日曜日の礼拝を終えて、函館空港で、ジンギスカン鍋を食べて、羽田、成田経由で華南の街に戻ったのです。北大の campus の散策を家内は気に入っていました。
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 同級生が札幌にいたのですが、卒業後何度か手紙のやりとりがありましたが、以後は音信不通でした。懐かしくも会ってみたかったのですが、家内が一緒なのに、昔のガールフレンドを、探して訪ねることもできませんでした。淡い思い出いっぱいの新宿と札幌ですが、やはりやはり異国情緒があって気に入っています。

 入院中同じ病室で、仲良くなった病友が、有名なスキー場のニセコの近くの方で、『土地を安く分けてあげますから、越してきませんか!』と誘ってくれましたが、そのままです。次に、北海道に行く時には、オホーツク文化の拠点の網走の「モヨロ貝塚」を、ぜひ訪ねたいなと思っています。千島列島やアリューシャン列島、樺太からシベリヤに連なる、古代人の足跡を追ってみたいからであります。できるかな、の台風接近の金曜日です。

(オホーツク海、マリモ、札幌の手稲山を望むそれぞれの写真です)

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クラーク先生

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     クラーク先生       大

             一

 函館(はこだて)を午前十時に出帆した玄武丸は、七月三十一日午前二時に小樽(おたる)へ入港したが、まだ小樽札幌(さっぽろ)間の鉄路も通じていなかったおりのこととて、黑田長官とクラーク先生の一行とは、それより陸路を肥馬にむちうって札幌へ驀(ばく)進し、学生どもはうすぎたない漁船に身を託して家もまばらな錢函(ぜにばこ)に向かい、それより五里十一町の道をうまにゆられて人口わずかに二、三千にすぎなかった札幌へと向かって行った。

  時は七月三十一日の火ともしごろであったが、島將軍の企画通りにできたというあこがれの町札幌へ学生たちは到着した。人家店舗はまだまばらであったが、遠來の学生どもを收容すべき校舎は、北一條西一、二丁目より北三條西一、二丁目にいたる全ブロックを占有して整然と建ち並んでいた。いわく二階造り木造の講堂と敎室、いわく平家建て木造洋館造りの寄宿舎、これだけが廣い廣い敷地内に建ちはだかっていたが、東京からの学生十一名が到着する以前に、考査を経て札幌学校から轉じて來た伊藤一隆その他十二名の者どもが、先輩顔をして寄宿舎にがんばっていた。

 黑田長官をはじめクラーク先生の一行が札幌に乘りこんでから、学校創立事務が本格的に進捗(ちょく)し、実質は開拓学校であった米国の州立農学校にその範をとって校名も札幌農学校と定めることとした。この校の主要学科はもちろん農学であったが、開拓に必要な学科はすべて敎えるようになっていた。

 明治九年八月十四日諸般の準備ようやく成って盛大な開校式が挙げられた。この日午前十時、開拓使長官黑田清隆の式辞の後、クラーク先生の敎訓にみちた大演説が開始された。嚴然たる態度で壇上に立たれた先生は、この新設農学校が將來北海道における農業の改良と生産的大産業の発展の上に寄與するところ多大なるべきを述べ、欧米においてようやくその價値を認められるにいたった農科大学を率先して北海道に建てた黑田長官の卓見を祝し、生徒に向かっては励声一番、

「靑年紳士諸子よ、諸子はこの学校に入りたる以上、國家のために重要なる位置と厚き信任とまたそれよりいずるところの名誉を受けるために準備努力しなければならぬ。それがためには常に健康に注意し、食欲をつゝしみ、温順と勤勉との習慣をつけ、習わんとする学術については、できうる限りこれを研究錬磨(ま)すべきである。」と述べられた。

 開校当時東京新募の者十名と札幌学校在学中試驗に合格せる者とをあわせて、学生の総数は二十四名であったが、クラーク先生が敎鞭(べん)をとるに及んで、札幌学校出身者中、学力不足の者多数が退学を命ぜられ、開校後まもなく東京英語学校の十一名と札幌学校の三名を加えて、第一期生の総数は十六名に減少した。

 さて札幌農学校がいよいよ開校になって、その学則をいかに定めるかということが問題になった際、札幌学校から移って來た生徒たちが、参考のためということで札幌学校の規則書を持ち出し、第一條何々、第二條何々とその大要を英訳して、クラーク先生の前で読みあげた。聞きおわったクラーク先生は、「そのようなことで人間がつくれるものか。」と大声で怒号し、

「予(よ)がこの学校に臨む規則は、  Be gentleman! たゞこの一言に盡きる。」と言って、特徴のある太いまゆをぴくりと動かされた。

 学校は学ぶ所であるから、起床の鐘が鳴ったら、寝床をけって起きなければいけない。食卓へつく時にはあいずをするから、直ちに集まって來なければいかぬ。消燈時刻にはいっせいに燈火を消さなければいかぬ。ところでゼントルマンというものは、定められた規則を嚴重に守るものであるが、それは規則にしばられてやるのではなくて、自己の良心にしたがって行動するのである。故にこの学校にはむずかしい規則は不要だと、先生は述べられた。それを聞いた学校の幹事や敎授連は大いにその結果をあやぶみ、もし故意に規律を守らない者が現われたらどうなさるおつもりかと反問した。ところが先生は威儀を正し、「たゞ退学あるのみ。」と答えられた。

 さて、クラーク先生の意思を傳え聞いた生徒たちは非常に喜んだ。われわれはこれでもゼントルマンである。ゼントルマンは俯(ふ)仰天地に恥じざる行いをしなければならないと、みずから問うてみずから答え、町へ出てもみにくい行爲は決してなさず、自己の行動に非常に重きをおくようになった。もし誤って校規を犯そうものなら、進んで学監のところへ届け出で、「たゞ今かくかくのことで五分間遅刻いたしました。」と申し立てるような氣風が全校を支配し、学生一般の風紀が非常に改まった。

 クラーク先生が札幌に敎鞭をとられて最初に試みられた事項は、開校の際の演説中に片鱗(りん)が現われている制欲に関する考えを実行に移すことであった。先生は日本の学生の堕落して健康を破る者多き最大原因は飲酒と喫煙にありと断じ、学生の德育ならびに体育上きわめて重要なのは制欲の一事であると考えられた。そこで禁酒禁煙のほかに瀆(とく)神誓言を禁ずる誓約文を起草して、まずみずからこれに署名し、ほかの敎授学生をもこれに加盟せしめて、校内を淨化することに全力を盡くされた。 

 東京英語学校から轉校して來た生徒の一番年長であったのが佐藤昌(しょう)介で、当時は二十歳前後であったろう。伊藤一隆と私とがともに安政六年生まれの十七歳、そのほかの者も似たりよったりの年齢であったから、分別盛りの靑年であったように思われる第一期生も、実はわずかに少年期を過ぎたばかりの若輩ぞろいであったといってよいのである。

 それが開校怱(そう)々、日本語を全然解さないクラーク先生が滔(とう)々と英語で講ずる植物学や英文学、ペンハロー敎授の化学・農学・英語、更にホイーラー敎授の数学・土木工学の諸学科を聽講しつゝ英語でノートをとったのであるが、今日の中学四、五年生の年ごろで、しかも明治初期の不完全な英語敎育を受けた者どもが、どうして講義を理解し、どうしてそれを書き取ったのか、思えば不思議千万な話である。いまだかつて耳にしたことのない専門の話をノートするのであるから、生徒の苦心も一通りや二通りではなかった。敎科書が皆無に近い時代であったから、ほとんどすべての学科が講義であった。午前は学科を修め、午後はすきやくわをとって農場に働く生徒たちが、夜間ランプの下に集まって熱心に営むわざは、その日のノートの整理であった。

「おいおい、クラーク先生の植物の講義で、たびたびパレンということばが出たろう。あれは一体どんなつゞりの字だ。」

「おれのノートにはパレンでなくてレンキマと書いてあるが、どちらがほんとかな。」その時そばでけんめいに字引をくっていたひとりが、「あったぞ、あ、あったぞ。」と言ってこおどりした。そして「これだぞ。」と言ってさし示した字を見ると、parenchyma 柔組織─と書いてあった。

 万事がこの調子であったが、不完全なノートを生徒に提出させて、それを一々なおしてやるクラーク先生の労苦もなみたいていのことではなかった。

 皆寄宿制度であったその寄宿舎では、一室をふたりに充てていたが、室内にはテーブル・いすおよびベッドがおのおの二箇あり、冬になるとストーブが具えつけられるようになっていた。食事には多大な注意が拂われ、朝夕は洋食、晝は和食で、貨幣價値が今日とは比較にならぬほどであった当時、食費として一箇月八円十銭を支給されていたほどであるから、その実質はなかなか上等であった。したがって、学生の日々の生活は簡素ながら愉快なものであった。

 ある時、黑田長官が学校視察にやって來て、生徒の勉強ぶりに感心し、ひとりあたり二十銭ずつの賞を與えた後、クラーク先生に向かい、

「あなたは私の希望する通りの人間、即ち國家に対して有益な働きをする人物を必ずつくり出してくれると確信する。今となっては宗敎のいかんを問うべき場合でない。どうぞ思う通りにやってください。」と言って、学生を德化しつゝあるクラーク先生の人格に敬意を表された。

 学生に賞として現金を與えることは今から思うと妙な話であるが、当時は学生でも規定の労働をすれば、学校から賃金をもらえることになっていた。農場で働くと一時間五銭の労働報酬を支給される規定であったが、最も不潔な仕事の一つであったぶた小屋のふんそうじをやれば、更に高率の賃金がもらえるようになっていた。そこで開拓使から支給される一週間十銭の小遣銭を使いはたして、菓子代が欠乏して來ると、平素は寝坊な者でも朝早く床をけって出かけることになっていた。朝寝で無精者であった伊藤一隆は、その貴い作業を終って農場から帰って來ると、すぐさま敎室に飛びこまねばならぬというようなきわどい時刻になりがちであった。その都度伊藤はふんだらけな長ぐつをはき、手も顔も洗わずに敎室へ駆けこんで來るので、伊藤は臭くていかぬと同級生一同が苦情を申し立てるようになった。

 クラーク先生の敎授法は型にはまった今日の敎え方とはまるで違っていた。敎科書を用うる場合であると、「おまえ、こゝまで何ページ調べて來い。」と命ぜられることが多かったが、生徒が宿題をけんめいに勉強して行っても、次の時間にはいっこうに取り合わずにいる場合が多かった。といって命ぜられた通りをしておかないと、不意に急所を突かれるので、生徒たちは恐れをなして不断の勉強を続けていた。つまり生徒は実直に勉強しさえすればよいという自由敎育主義であって、先生は常に実地に即した学問を敎えて生徒を導いた。

 先生はまた学生の勇氣を鼓舞するために、屋外の運動や植物採集などを奬励し、率先山野を跋渉(ばっしょう)してその範を示された。時に学生の寄宿舎を見まわることもあったが、休日の午前などに勉強している者を見つけると、午後には必ず屋外に出て新鮮な空氣を吸うようにと勧告された。

 ある冬の日のことであった。クラーク先生は生徒一同を校庭に集め、これより手稻(ていね)山に雪中登山を試みる旨を宣言された。深い雪を踏んで、あえぎあえぎ山路をたどるのは生徒にとって迷惑千万な話であったが、かつてはマサチューセッツ聯(れん)隊を率いて勇戰したクラーク大佐が先頭を承って猛進するので、学生どもはいきおいこめて追從せざるを得なかった。

 降り積んだ雪に覆われて、山はだを包んでいた大木がわずかにこずえのみをそここゝに突き出している。

「夏になってはよじ登ることもできない巨木の頂に、冬なればこそ手を出すことができるのだ。それ、あのこずえに珍しいここけが生えているだろう。今がこの類を採集する好時期なのだ。だれかせいの高い者はやって來い。こゝへ乘ってあのりっぱなこけを取るのだ。」と言って生徒をさし招き、クラーク先生は雪の上へ四つばいになって背をさし向けた。よし來たと言って長身の黑岩四方之進(よものしん)が躍り出た。そして、恩師の背を土足で踏まえ、手を伸ばしてさし示された標本をむしりとった。黑岩の手からそのこけを受け取ったクラーク先生は、満足そうなえみを浮かべつゝそれをながめておられたが、一声高く「ペン。」と呼んで愛弟子(まなでし)のペンハロー敎授を呼び寄せた。そしてこれは珍種だと思うがと言って、敎授の意見を求められた。後にわかった話であるが、この時の採集品の中には学界未知の新種があったという。

 その帰途のことであった。生徒たちはかねて用意のさん俵をしりに敷き、手稻山のスロープを雪煙をあげつゝ滑りおりたが、最も小兵(こひょう)であった私は、どうしたはずみかぽっかりと口をあけていた大きな雪穴へどゞっと滑り落ち、頭上を越えてすうっすうっと滑って行く学友たちがけ落す雪を浴びて、身動きができないことになった。

 山麓(ろく)に達して人数を調べた一同が、「おや、大島がいないぞ。」と大騷ぎ。「ではあの深い穴の中だぞ。」と言って引っ返し、けんめいに雪をかきわけて見たら、小さな私が元氣よくぴょこんと飛び出した。実は私はその時一同が樂しみにしていた菓子包みを背負わせられていたのであったが、雪穴から助け出された私の背には、そのたいせつなものの影も形も見あたらなかった。

       二

 明治十年四月十六日、日本政府との契約期限が満ちたクラーク先生は、再びマサチューセッツ農学校校長の職につかんがため、うしろ髮を引かるる思いで札幌を辞し、室蘭(むろらん)経由で帰国の途につくことになった。その朝、なごりを惜しむ職員学生一同は、先生の官舎であった創成橋畔の開拓使本陣前に勢ぞろいをして記念撮影をなし、思い思いにうまにうち乘り、いずくまでもと恩師のあとを追って行った。札幌の南六里、千歳に近い島松駅に着するや、先生はうまをとめて駅逓の家に休憩したが、先生を囲んで別れがたなの物語にふけっている敎え子の顔をのぞきこんで、ひとりひとり力強い握手をかわし、「どうか一枚のはがきでもよいから時おり消息を聞かせてほしい。ではいよいよお別れじゃ。元氣で常に祈ることを忘れないように。」と力強い口調で別辞を述べ、ひらりとうまにまたがると同時に、 Boys, be ambitious! と叱(しっ)呼して長鞭をうちふるい、振り返り振り返り、雪泥(でい)をけ立てて疎林のかなたにその姿をかき消された。

 島松駅頭クラーク先生の残されたそのことばは、簡單ではあるが、意は実に深いのである。靑年よ、なんじらは常に大志を抱き、奮起してすべからく功名を立てよ、小成に安んぜず、力の限りを盡くして向上発達をはかり、もって國のために盡くす有用の材たれよ、と訓えられたのであるが、近時無知な人々がこの句を誤訳して、「靑年よ野心家たれ。」といっているのを一再ならず耳にする。当たらざるのはなはだしきものである。

 クラーク先生の謦咳(けいがい)に接して熱烈な信仰的雰(ふん)囲氣の中に育った第一期生の中からは、北海道帝國大学の生みの親である佐藤昌介をはじめとし、北海道水産界の元老で禁酒運動の大立者であった伊藤一隆、支那古韻の研究に一生を費やした私のような変わり種、ならびに北海道開拓の恩人である内田瀞(きよし)らが輩出したと同時に、第一期生を通じて間接に先生の感化を受けた第二期生の中からは、新渡戸稻造・内村鑑三らの英才が雲のごとくわき起った。わずかに八箇月という短い間に、かくも偉大な感化を與えられたクラーク先生のけ高い人格と熱烈な信仰の力とに対しては深き深き敬意を表さざるを得ない。 

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 この文章は、文部省・昭和22年9月8日発行の『中等国語二(2)』に載ったものです。戦争が終わって、軍国主義の教育から、新しい教育方針が打ち出されようとした時期に、「国語」の教科書に、甲府中学校校長を務めた、大島正健が書いた文章が、中学生のために掲載されたのです。札幌農学校の第一期生で、ウイリアム・クラーク教頭から教えを受けた人でした。大島正健は、明治343月に、山梨県立第一中学校長(尋常中学校)に就任し、以来十三年間甲府の中学校に勤務していました。17歳の時に教えを直接受けたことが、どんなに大きな出来事だったかが分かります。

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 「満庭芳」   蘇軾  

歸去來兮
吾歸何處
來往如梭
待閒看
秋風洛水清波
好在堂前細柳
應念我 莫剪柔柯
仍傳語 江南父老
時與麗漁蓑

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歸りなんいざ
吾何れの處にか歸らん
來往は梭の如し
待ちて閒看せん
秋風洛水の清波を
好在堂前の細柳
應に我を念ひて 柔柯を剪ること莫かれ
仍ち傳語せよ 江南の父老に
時に漁蓑を麗に與へよと

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さあ帰ろう といって帰るあてもない 人事は梭のようにめまぐるしく移り変わる 願わくはこのまま 秋風洛水の清波を眺めていたいものだ

この堂前の細柳を見たら 私のことを思い出して 若枝を切ったりはしないで欲しい そして江南の老人たちには ときには我が漁蓑を日にあててほしいと伝えてくれ

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 宋代の詩人、蘇東坡(蘇軾)が、秋に詠んだ一編の詩です。中国暦・元豐七年(1085年)に詠んでいるのですが、五十歳頃の作です。その時、日本では、白河天皇の統治の世で、奥州では藤原清衡が、藤原三代の世を治めていた時代です。同じ秋には、疱瘡が流行ったと記録が残されています。

 2021年の日本では、昨年来猛威を振るった新型コロナが、秋風が吹くようになって、収束しそうな気配がしてきていますが、どうなるかははっきりしません。さらに第六波を心配する専門家もいます。流行病とか疫病とかは、そう珍しくないのであって、インフルエンザだって、この冬にはどんな勢いを見せるか分かりません。

 宋代だって、今のような医療体制のない時代は、もっと不安や恐れがあったわけで、疫病の研究者も特効薬もワクチンも全くなかったわけです。宋代の記録文書に、次のように記されてあります。

 『疫病とは、気候の異変や様々な人的要因により、急速に発症し、伝染力が強く、危険でパンデミック的な性格を持つ病気の一種です。 宋代には、腸チフス、季節伝染病、赤痢、痘瘡、風邪、疥癬、流行性耳下腺炎、牛や馬の伝染病など、一般に伝染病と呼ばれるものが約220件発生しました。 宋代には、腸チフス、伝染病、疫病が伝染力の強い伝染病として認識され、政府主導の伝染病対策システムが徐々に確立されていきました。』

 人類は、常に疫病と戦いながら、歴史を刻んできたことになります。蘇軾は、『秋風洛水の清波を眺めていたいものだ!』と願っていましたから、その年は、疫病の脅威はなかったことになります。今、散歩の途中、喫茶店の隅のテーブルの上の iPad に向かっていますが、300円ほどのコーヒーが、秋風と共に美味しく感じられてなりません。

 人生の秋、実りの時節だと良いのですが、任された仕事を終えた今は、どうしても秋なのかも知れません。また故郷がどこなのか、思い巡らしていますが、あの村は生まれただけで記憶がありません。物心ついた頃は、沢違いの山村で、父の仕事の事務所兼作業場の近くの貯木場、かつては石英の貯石場の近くに住んでいました。兄たちを追いかけて、木通(あけび)刈りに行ったり、栗拾いも行ったのです。父の仕事の索道で、熊や猪が、山奥から運ばれてきていた記憶があります。きっと食べたのでしょう。

 蘇軾は、自分の故郷に残して置いた、「漁蓑(りょうみの)」多分釣りをする時に、雨を避けるための蓑(みの/藁で作られた雨合羽)のことでしょうか、それを陽干しして置いてくれるように、釣り仲間に願っていたのでしょう。また故郷に戻って、日柄釣り糸でも垂れる時のためだったのでしょう。釣りは若い時に誘われて、夜明け前に着いた滝壺にはまって以来していません。後ろめたくなく、釣りのできる年齢になったかも知れません。

 もしかすると、蘇軾ならずも、秋は、人生の陽干しの時なのかも知れませんね。若い頃に仕舞い込んでおいたもの、引き出しや倉庫や押入、そして記憶の中に残っている様々なものを、引き出して陽に当てて、ポンポンと叩いて、埃を払ったり、湿気を取る時なのでしょうか。

(中国語のサイトに「宋代のスターバックス」とありました)

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0120-061-338

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  0120-061-338 フリーダイヤル [おもい ささえる]

 [NPO法人 自殺対策支援センター「ライフリンク」]、これは、新型コロナ禍による自殺者の急増で、厚生労働省が立て上げた、電話による相談機関です。2020年度の自殺者が、コロナ禍が原因で、11年ぶりに急増したのを受け、24時間、200人の相談員体制を目指しているそうです。

 昨日の “ Reuters “ の記事を紹介します。

 「厚生労働省の2021年版自殺対策白書の概要が9月28日、判明した。新型コロナウイルス感染拡大が起きた20年の自殺の状況を過去5年平均(15~19年)と比較、分析した結果、増加が顕著だった女性の自殺の中で「被雇用者・勤め人」が381人増と大幅に増え、原因・動機では「勤務問題」が最も大きく増加したことが分かった。

 20年の自殺者数は2万1081人(前年比912人増)。男性は11年連続で減少したが、女性は2年ぶりに増加した。

 「勤務問題」の内訳について過去5年平均との比較で増加数が多かったのは「職場の人間関係」(39人増)だった。(「共同通信」9月28日午後9時記事)」

 ずいぶん時間が経ちましたが、水曜日の夜、「聖書研究会」していた時に、一人の若い女性が、教会に入って来られたのです。お聞きすると、教会の明かりが見えたので入ってきたそうです。この方は、自殺を考えていて、彷徨い歩いていて、そこにたどり着いたのだそうです。

 礼拝に見えるようになり、信仰を持たれ、バプテスマを受けて、教会のメンバーになられました。わが家で、数年、一緒に生活をしてから、愛知県のご両親の元に帰って行かれました。家内がよくお世話をしていていて、市内の他の教会の幼稚園でお手伝いを喜んでしていました。

 私たちの身の回りには、そう言った自殺したいと誘惑されていた方が、これまで何人かいました。今もまた、そう願う方が大勢いらっしゃるのです。

 この方と生活を共にした頃は、まだ子どもたちが小学生でした。お姉さんのように、子どもたちが慕っていました。帰郷されてから、長女は電車に乗って、一人でお会いしに行ったこともありました。その時の彼女の事情をうすすす気づいていたのでしょう、長男は、今、この「ライフリンク」の相談員をさせていただいています。 

 以前、次の記事を読んだことがありました。 

 『もし、目の前で見知らぬ人が自殺しようとしていたら・・・あなたは、どうしますか。自殺しようと線路に立ち入った男性を助けた、心優しい駅員がカナダにいました。自殺しようと線路に立ち入った男性に、駅員は・・・』

 カナダのメディア『TRONT SUN』は、このように報道しています。2017年4月26日の朝、カナダのトロント市営地下鉄のダンダス駅から、1本の緊急連絡が発信されました。

 「今すぐ、この駅に向かっている列車を止めてください」

 なんと、線路に1人の乗客が立ち入ってしまったのです。彼はまったく動こうとせず、列車が来るのを待っているようでした。きっとホームにいた人は、こう思ったことでしょう。「自殺しようとしているのでは」・・・と。

 線路にいる男性の姿を見てハッとした、駅員のアダードさん。彼は、男性に近寄るとこういいました。

 「今日、何か嫌なことがあった?」

 アダードさんの目に入ったのは、男性の腕についている『患者認識用リストバンド』。「もしかすると、彼は病院で何かあったのかもしれない」と思ったのです。

 「はい」

といった男性に、アダードさんがとった行動は・・・。ホームの端に腰を下ろし、男性を優しく抱きしめたのです。深呼吸をするように声をかけ、男性が落ち着いてきたのを見ると、アダートさんはこういいました。

 「『私は強い』はい、いってみて」

 アダードさんの言葉を聞き、震える声で

 「私は強い(I am strong.)」

と繰り返す男性。続いて、アダードさんはホームにいる他の乗客に

 「君たちも一緒にいってみて」

とうながします。

 「『私は、強い』!『私は、強い』!」

 上り線の乗客も、下り線の乗客も、男性を励ますかのように声を合わせます。先ほどまで凍り付いていたのが嘘のように、ホームは温かい空気で包まれました。男性の心を落ち着かせ、優しい言葉をかけたアダードさん。そして、男性に勇気を与えた乗客たち彼らの素晴らしい行動に、心から拍手を送ります。[文・構成/grape編集部]

 

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 『なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ54節)』

 それでいて、「負けず嫌い」だった矛盾の私は、頑張れないのに、負けたくなかったのです。父も母も、言わば「負け組」で、父は大将にも大臣にも、母は婦人会長にも市会議員にもならずじまいでした。

 社会的には偉くはなかったのですが、4人もの男の子を、まあまあに育て上げたのは素晴らしいことだったと感謝しています。「◯町の△▽」と名を馳せた四兄弟を、人生の落伍者にしないで、社会に通用する男、人にしてくれて、劣等意識にも苛まれずに生きてこれたのです。

 でも両親は、「負けず嫌い」でもありました。とくに「今市小町」と言われたと、母の親戚のおばさんに聞いたことがあるほど、松島詩子似の母は、お転婆だったそうです。カナダ人の宣教師と出会って、教会に行き、14で信仰を告白した信仰者でした。

 父と山陰の街で出会って結婚し、四人の子を父に産んだのです。母は、《父の腰から出た子たち》と誇らしく思いながら育ててくれたのです。自分は産みの母に育てられずに、養父母に育てられたからでしょうか、自分の産んだ子への思いは、極めて強烈なものがありました。自分が得られなかった分を補おうとしていたのでしょうか。

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 中学生に私がなった時のことです。兄と私の学校の父兄会に来る時には、「勝ち組」の同級生のお母さんに負けたくなかったそうで、父の景気の良い時に買ってもらった和服を、上手に着こなして行ったそうです。私は覚えていませんが、大きくなって母が独白していました。

 信仰者の母の、そんな一面が好きでした。その《対抗心》がいいのかも知れません。生まれは変えることができません。自分の境遇も事実を受け入れるだけです。「信仰の父」と言われたアブラハムは、天幕住まいで、異教徒の地に住むも、神の《選びの民の誇り》を持ち続けて生きた人でした。イエスをキリストと、14歳で出会った母も、《神の子》とされた《誇り》を持ち続けて生きていました。

 持っていないものを、強引に手段を選ばないで求めて、得ることはしませんでした。分に見合った生き方をしたのです。でも母の〈背伸び〉は、それほどのものだったのです。きっと母の信仰とは、「赦された罪人」としての自分を、その境遇とともに、しっかりと認めたものだったようです。何一つ良いもののない自分が、神の憐れみ、一方的な恵みによって、基督者とされた喜びと平安に生きたのです。

 みんなが学校に行くようになり、その留守の時間にパートの仕事に出て、私たちにお小遣いをくれました。みんなが出はからった後、電車に乗って、家族の必要と自分の欲しいものを、新宿の伊勢丹に、月一ほどで出かけて買って帰っていたのだそうです。後になって聞いた、母の〈小さな秘密〉だったのです。

 日曜日は、幼い日に導かれたカナダ人宣教師の教会へ行って、生涯、礼拝を厳しく守っていました。賛美するのが好きでしたし、聖書もよく読み、人のために祈り、献金をし、人にも信仰の証もしていました。そういった中で、〈小休止〉、〈小楽しみ〉の一時は、母の心の健康を保っていたのかも知れません。子どもの頃に宣教師や若い伝道師から受けた聖書の教え、大人になって宣教師の教会で養われた信仰は、健全でした。

 恩寵の神を「父なる神」として、自分自身が、子であることを知ったことが、母の人生の基盤、根幹だったのです。お腹を痛めて産んだ子が、みんな信仰を継承したことは、母の慰めだったのでしょう。まさに「アブラハムの娘」なるが故の祝福でした。

 子どもの頃、父の躾は、とくに要領の悪い次兄に厳しかったのです。廊下に正座させられ、両手を挙げる体罰を受けていたのです。章子に影が映るのですが、手を下ろすと叱られるわけです。見かねた母が代わって手を挙げていたのを覚えています。そんな父と母とを、最後まで世話をしてくれたのが、この次兄でした。

 父も、母の信仰を受け継ぎ、勝利者の凱旋の行列に加えられたのです。『幼い日、親父は俺を、街の教会に連れて行ったくれたよ!』と、懐かしそうに語ったことがあっただけではなく、入院中の病床で信仰を告白し、数日後に、真の勝者として、一生懸命に生きて亡くなりました。父も母も「凡(ぼん)」として一生を終えたのです。

(新宿三丁目の古写真、伯耆富士です)

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子ロバで

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 『私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。 (伝道者の書911節)』

 おおよそ何事も、みんなのしないものや事に関心があった、へそ曲がりの私が関心のあったのは、日本的な泳法でした。クロール泳法、平泳ぎ、バタフライ泳法でない泳ぎ方を見つけたかったからです。兄たちでもなく、誰だか覚えていませんが、横になって、スイスイと泳いでいた人を目撃したのです。

 忍者が、城を探るために、巡りに掘ってあった堀を渡るために、水音や水がなるべく動かない泳法がありました。それが「横泳ぎ」だったのです。それをしてみたくて川で泳ぐ時に、それを試してみたのです。「立ち泳ぎ」もやったでしょうか。

 江戸時代以前から、忍者ならずとも、武芸の一環として泳法があったのですから、平和な時代、子どもの頃に、横泳ぎをしていたのは、時代錯誤だったことになります。速さで人と競うのはなく、静かに水飛沫を上げないで、水をかいて泳ぐ泳ぎ方は、結構楽しかったのです。クロールで上手に泳げなかったからでもありました。

 競争社会の海に投げ出されて、小学校に上がるや否や、いやがおうでも級友と競争を強いられて、速さ、上手さ、好成績が期待されていて、息

着く暇さえありません。ゆっくり、のんびり、着実に楽しみながら生きてはいけない雰囲気が溢れてしまっています。とにかく人を意識しないで、自分の方法で生きたかったのかも知れません。

 『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(詩篇14710節)』

 同級生に、馬の調教師の子どもがいました。そして彼もまた、お父さんの後を継いで、調教師になって、中央競馬界で活躍していたようです。尻に鞭を当てて早く走らせる姿が嫌いで、その競馬が嫌いでした。中1の時には肩を組んだ、調教師の息子の級友とは仲良しになれませんでした。

 日本軍の南京司令官・松井石根が、南京陥落後に入城した折、名馬に乗っていました。その馬上の高さから威厳を誇示しながら、勝ち戦の行軍をする姿を撮影した写真が残されています。日本が、友としてではなく、占領者として、中国を威圧する高圧的態度でした。中には今村均大将のような、謙遜な方もおいででした。

 『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ99節)』

 ところがエルサレムに、イエスさまが入場した時に、栗毛の姿の美しい馬には乗られませんでした。ゼカリヤが預言したように、子ロバに乗って、ご自分の都に入られたのです。馬上から見下そうとされないで、人の背ほどのロバの背に乗られ、シュロの葉の敷かれた道を行かれたのです。

 神が、私たちに求めておられるには、thoroughbred の駿馬ではなく、鈍足のロバなのです。速さではなく、謙遜さであり、堅実さなのです。内蒙古の砂漠で、馬に乗ったことがありました。チラッと私を見た馬は、その背に乗った私を運ぼうとはしませんでした。お金をもらった馬主が、ピシッつと鞭を尻に当てると、嫌々歩き始めたのです。

 急がず、慌てずに生きてきて、なんとも言えず静かな時を、巴波川の瀬音を聞きながら、富士や筑波や男体、そして大平山を見上げながら、家内と二人で、今を生きています。

(「キリスト教クリップアート」からです)
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謙信平

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 ときどき、散歩で登る「大平山(標高341m)」、わが家が、標高43mほどですから、今朝は、8時過ぎに家を出て、家に帰り着いたのが1115分ですから、高低差300m3時間余りの散歩だったのです。休みながら、木の枝を杖にして、のんびり歩いて来ました。

 この山の登り口が4箇所ほど(登山道はもっとあるようです)あって、きょうは、西側の「少年自然の家」方面を登ってみました。カサカサと枯葉を踏むのですが、秋から冬の山道は、枯れ葉の匂いがして好きなのです。森林浴の匂いでしょうか。

 関東平野を北上して、上毛野国(かみつけのくに)、上野(こうずけのくに)」、今の群馬方面からの中山道から分かれた日光例幣使街道と、江戸の日本橋からの日光街道、奥州街道などから、北関東あたりの街道から眺められる最初の山の一つが、この「大平山」なのです。

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戦国の群雄割拠の時代、越後の上杉謙信と、小田原の北条氏康は、関東平定を競い対立していました。当時の大中寺住職虎溪和尚
(こけいおしょう)が仲介となって、15689月、謙信の叔父が住職だった、大平山側の大中寺で「越相同盟(越後と相模)」を結んでいます。

 和議の後に、上謙信は太平山に登って、そこから南の関東平野を見渡したそうです。越後では見られない、その広大さに驚きの声をあげたのです。それで南に広がる関東平野眺めた一件から、その大平山の一郭を、「謙信平」と呼んでいます。四百年後ほどの今朝、そこから関東平野を眺めたのですが、実に広大でした。

 上杉謙信が、38歳の時に立った山の頂上付近の平地に、今朝、平和の時代に生きる、76の私が立ったのですが、戦国の世の武将は、多くの部下を引き連れて、三国峠を越えて関東平野にやって来たわけです。戦国の世に、諸国に兵を動かしたのを思いますと、兵の宿や兵糧(食料や水)などを賄いつつの旅は、大変な難儀だったのだろうと、思いを馳せていました。

(「謙信平」から南の方の眺望、謙信ちなみの「上越市」の夜空)

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「登岳陽楼」 杜甫

昔聞洞庭水 今登岳陽楼
呉楚東南坼 乾坤日夜浮
親朋無一字 老病有孤舟
戎馬關山北 憑軒涕泗流

日本語訳

 かねて噂に聞いていた洞庭湖を訪れ、そのほとりの岳陽楼に登る。呉楚の東南の地方が二つに裂けたという洞庭湖には、宇宙のすべてが一日中浮かんでいるようだ。手紙をくれるような親類も友達もなく、老いて病持ちの私には持ち物といっても小舟が一双あるだけだ。関山の北ではまだ今も戦が続いているという。楼の手摺に寄りかかっていると、涙が流れてくる。

 世は戦乱が続いていました。老境に至った杜甫は、噂に聞いてきた、名勝の地、洞庭湖を訪ねたのです。現在の河南省鄭州市で生まれ、家柄はよかったそうで、六歳で詩を詠み始め、二十代の初めに「科挙」を受験しますが、不合格になっています。「詩聖」と言われながらも、不遇な一生だったようです。

 40代の終わりに、杜甫は、四川省成都に行き、そこに「草庵」を設けてます。私は、2007年に、天津の語学学校の遠足があって、この「草庵」を、家内と留学生仲間と一緒に訪ねたことがあります。これも旅に誘われる「漂泊の詩人」の芭蕉が、江戸本所六軒堀の流れの辺りに、「庵(いおり)」を設けていますが、そこは仮住まいだったのです。そこから、「奥の細道」へ出立しています。

 芭蕉にとって杜甫は、憧れの人だったのです。「古人も多く旅に死(し)せるあり」と記したように、杜甫が旅から旅の一生を送り、旅に死したように、芭蕉も、「よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊(の思ひやまず」、結局は、旅の途上、大阪の門人の家で没しています。

 中一で、高校で教える古文の教師の特別授業で、「奥の細道」や、杜甫の「春望」を学んだ私は、家出を考えました。父と母に養ってもらわなければまだ生きていけない子どもの私は、お腹が減ってしまい、一泊の家出で、『ごめんなさい!』と、父に言って「小漂泊」を終えて、家に帰ってしまったことがありました。

 きっと家内が元気だったら、「旅をすみかとし」た、杜甫や芭蕉のように旅から旅をしているかも知れません。47年も、衣食住の世話をしてくれた家内への闘病の助けは、夫としての責務であります。ただ、この「漂泊の思い」は、まだ心の内に仕舞い込まれているのです。折り畳み自転車を買って、電車に輪行して、決めた駅で下車し、自転車をセットして目的地を走り回り、最終電車に飛び乗って帰宅するような生活を夢見ているのです。が、家内は賛成してくれません。

 杜甫は、病んで、不遇な生涯を送るのですが、二十代の終わりに一緒になった奥方と子どもを連れ歩いた、家庭志向の人だったそうです。これは芭蕉が弟子の曽良を伴ったのとも、私が、家内に家の留守居を頼んで、古跡を訪ねたいとの願いとも違っていたのです。結局、湘江(湖南省の河)の舟の中で、還暦を目前にして亡くなります。その旅の途上の死を「客死(かくし)」と言うそうです。

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 当時の五十代は老いの年齢だったのでしょう。冒頭の詩は、老境の杜甫のものなので、「春望」を詠んだ時とは違って、老身で詠みました。つまされる思いで、同じく老いを迎えた私は読むのです。涙を流す杜甫を想像しながら、その孤独に苛まれる心境を考えています。

 杜甫は、「涙」でも「泪」でもなく、「涕」という漢字を、この詩の中に記したのです。しかも「泗」を付け加えています。「涕泗 ti4si4/ていし」とは、泣いて涙を流すのですが、激しく感情的に泣いたのでしょうか、鼻水も共に流れ出るように泣いたことになります。きっと、生きて来た日々を思いながら、辛い人生を思い返し、死を間近に感じて、悲しんで泣いたのかも知れません。

 それに引き換え、すでに後期高齢者の私は、『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人でありあ寄留者であることを告白していたのです(ヘブル1113節)』との聖書の言葉の通り、自分が寄留者であるとしっかり認め、「さらに優れた故郷」への期待を、自分のものにすることができたのです。死の向こうに、永遠の命が約束されていて、それをいただくことができるのです。そんな明日を思いながらの今であります。

(杜甫と現在の湘江です)

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